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だから振り返ってはいけないのだ。 あそこには、もう、私の痕跡は何もない。 人は変わる、そう書いたのは私だ。過去の一瞬に生じた感情の責任を一生負い続ける必要なんかない、と書いたのも私だ。 2年8ヶ月続けた仕事を辞めた。1年8ヶ月前に別れた男は2ヶ月前に結婚した。そして私はこの1年と5ヶ月、早とちりした親が結婚資金に、と勝手に組んだローンを返済し続けている。 まるで喜劇のように、キミには、無駄なことしか、できない と囁く女の声がこだまする。 人は、変わるのだから。そのことを誰も責められないのだから。勝手な理由で皆を見捨てていく私を皆が笑って見送ってくれたように、私も何もかもを見送ろう。時計の針は、右回りにしか動かないのだから。
という言葉もまた対象を永遠に欠いていて、身体の内側で発酵していく。 とりあえず時計の針だけは右回りに戻った。退路は断たれている。花束をもらい、寄せ書きをもらい、胴上げまでされたのだから、とにかく前に進むしかないのだ。 前へ、前へ、と背中を押されて。 とにかく進むしかない。身体の内側でだけ泣き叫びながら。
受け取ったかもしれないメールは受け取っていなかった、だから私は夢と現実の境界線を溶かしたりしていない。けれども現実はとっくの昔に夢を追い越していたようで、昨日へ行こうにもそこにはもう行くべき昨日がない。 だから私がここまで損なわれていることを教えるしかなかった。 事実を突きつけることが残酷であるのならその残酷を腹の底で飼ってきた私は修羅である。 私は貴方の傷になる。
それは多分夢の中の出来事だったはず、なのだ。「5月27日の土曜日に結婚することになりました」という短いメールを受け取ったのは。だが手帳も持たないし3日出勤4日休みの短いスパンで生活をしているせいで今日が何曜日なのかも曖昧な私が翌月の曜日まで把握しているとは考えにくい。そうしておかしなことに5月の27日は本当に大安の土曜日なのだ。 その直後に3年前から電話がかかってきて、時間軸が妙にねじれはじめた。そして私はおかしな夢ばかり見る。 あのメールは現実のものだったのではないか? それを無理矢理夢の中に押し込んでしまったから、夢と現実の境界線が溶けはじめているのではないか? ・・・そろそろ私が3年前に電話をかけるべきなのかもしれない。
しかしそれはパラドックスだ。今日のこの身体で昨日に行けたとしてもそれは「今日の出来事」に違いないのだから、たどり着いた昨日はその時点で今日に組み込まれることになる。 時間軸のねじれはまだ続いている。私は今その中心にいて、一歩も動けないでいる。昨日を今日で塗り替えて、「わたしは、何もかも、前とまったく同じようにしてみせます」とギャツビーのように嘯いてみせればいいのか。 分からない。
JRが速くなければ三田や西宮名塩といった住宅地がベッドタウンとして機能することもなかったはずだ。 我々が、速さを、要求した。 我々が、あの事故を、誘発した。 とマスコミが報じないのは何故だろう。 分かりきったことだから、か。 それでも、誰も、急ぐことをやめない。やめられない。
「シアワセなんてテレビみたいなもの つけるのも消すのも私次第」 とリサは歌う。 つけっぱなしではいられないけれど、その気になればいつだって。スイッチを握っているのは、いつだって、自分。
もしも私が本当に電気羊(はぁ?)で 書いたことがそのまんま現実になるとしたら 何を書くだろうか。 何もかもを、思うままに操れるとしたら。 何も書くことがないという事実に直面して硬直する。何も、積極的に、望んでいない。そうであればいいかもしれない、と思った次の瞬間にはそんなことは別にどうでもいい、とCtrl+Xで消してしまう。どうでもよくないことがどこにもない。宝くじがあたったら、だとか福山雅治似の誰かさんと恋に落ちたら、だとかそんなことまったくもってどうでもいい。 祈るほどの望みなんてとっくの昔に見失っていた。
少しでも口を開けばあちらこちらで小さな火花がパチパチと飛ぶ。これではまるで電気羊だ、とまたくだらない思いつきを弄びながらなんとか8時間をやり過ごしたけれど、もう既に帯電状態は限界をこえつつある。 最後の最後で全システムをショートしてやりたい、と物騒なことを電気羊は夢想する。
「殺意がこもってるよね」 「あの目でじっと見られたらなんか今間違ったこと言ったんじゃないのかな、って心臓がぴくぴくする」 「あの人もたいがい間違ったこと言ってるよ」 「最近すごくいい加減だよね」 「もうすぐやめるからいいわ、って思ってんじゃないの?」 なんていわれていそうな気がする。ぺちゃくちゃぺちゃくちゃどうでもいいことで騒ぎ立てているあたりに向かってギロッという音がしそうな視線を投げかけていてそう思った。そんなことをしても何も意味を為さないことは分かっているが「これが正しい睨み方です」とテロップが出そうなくらいのすごい形相で睨みつけるのをやめられない。まさかこのトシになって大阪弁で言うところの「メンチを切る」のにこれほどの労力を費やすことになろうとは思ってもみなかった、馬鹿馬鹿しいけど疲れた。
おそらく出発地点近くになって、ただ逃げてきただけで問題は何一つとして解決していないことに気づく。そしてもう一つ、 このゲームは最初から、対象が欠けていることにも。
考えても意味のないことしか考えられないのだからそれでいいのだ。 ほんとうに意味がない。あまりの理不尽さに胸が焦げ付くだけ。この焦げ付きを教えたくて、そうして面と向かって咎めたくて、詰りたくて、胸倉をつかんで首を締め上げながらおまえには幸せになる権利がないと耳元で叫んでやりたくて そうして泣き崩れたとしても彼は何も理解しないだろう。 だから考えても意味がない。
ぎりぎりぎり、と軋んだ音を立てて時間軸が捩れていく。 けれど同じものは回帰しない。ドゥルーズは「永劫回帰とは選択的である」と書いた。「肯定のみが回帰する」とも書いた。「あらゆる否定的なものを放逐する」とも書いた。 選ばなければならない。 絶対の不毛を受け入れるや否や? そしてさらに、ニーチェ的意味においての、高次の永劫回帰において、この選択を再び生きたいと願うことができるか? ・・・不必要な場面で必要以上に硬い言葉を置こうとするのは直視できない現実がそこに横たわっている証拠である。アフォリズムは現実を回避するための手段にほかならない。慟哭や憤怒に比べれば若干体裁の良い排泄行為・・・。 乞う、のか? 乞う価値のない非情さを? それこそが放逐すべき、「否定的なもの」ではないのか? ぎりぎりぎり、という軋んだ音はあらゆる否定的なものを連れてくる。開けるべきでない扉かもしれない、開けて乗り越えるべき扉なのかもしれない。 「否定的なもののもとへの滞留」。
牧場にたどり着く前に勤めていた会社から、電話がかかってきた。まるで見計らったかのように。絶妙のタイミングで。3年前からかかってきた突然の電話はどこか啓示めいていた。 請けるか。 それでは私の時間はぴったりと円環を描いて閉じられる。 まるでどうもがいても割れないシャボン玉の中に閉じ込められているような気分だ。 その反面で、あそこで4ヶ月働いてから牧場に行ったのだからあそこで4ヶ月働かないとこの「ターム」は終わらないのかもしれない、という気もしている。何事にも象徴的な意味合いを付与したがる悪い癖だけれど。 それとも。 何もかもが3年前のまま戻ってくるのか。ねじまき鳥が奇跡を起こすのか。 *** はっ、奇跡って何さ。 答えを空に投げた。
なーんにも分かってないくせに立場上分からないとはいえず。 なーんにも分かってないくせに立場上「お電話かわらせていただきました」と電話に出なければならず。 なーんにも分かってないくせに立場上いい時給をもらっていて。 だみぃちゃんはコレ聞いた? だみぃちゃんってアレできたっけ? だみぃちゃんには言わなくていいか、明後日のことだしね、なんて一日中顔色うかがわれて。 来てくれ、って言われたから来てるのに意味ないよなぁ、いるだけ邪魔だよなぁ、ジャイアンツ見たいなぁ・・・ とため息をつく風の冷たい日曜日。黒い羊の着ぐるみが恋しい。
もう、どう思われても構わないから? と問うてみて、結局は「いい人」と思われたかっただけじゃないか、と唇の端っこを釣り上げて笑う。 嫌われるのも、鬱陶しがられるのも、煙たがられるのも、陰でこそこそ言われるのも、頼りにならないと思われるのも、役に立たないと思われるのも、重箱の隅をつつくようなことばかり言うと思われるのも、頭が悪いと思われるのも、上に並べた18個の単語を装飾語にされるのも、いやだった。 もう、どうでもいい、か? 胃がしくしくと痛む。
5分間ずっと息を止めていることはできない。 5分間全速力で走り続けることもできない。 そのくらい長い時間。せっかちなカップルなら身体を交えることだってできるくらいの長い時間。生命が宿るのに十分なほどの長い時間。 その5分間を、私はキミは彼女は彼は、無駄に流していやしないか。 煙草がじりじりと灰になっていくさまを見送りながら。 語呂のよさそうな横文字とぺらぺらの日本語を適当に組み合わせただけのちゃちな言葉がどれも似たり寄ったりのリズムに合わせて流れていくのを聞きながら。 5分間がどうしても足りなかった。 5分間がどうしても足りなかったせいで朝礼に遅刻した。 この文章も5分くらいで書いた、5minutes、それはとてつもなく長い。
もう13年もいる老いた猫の体内にも春は確実にやってきていて、最近家のそこらじゅうにおしっこをかけてまわる。確かにそれは耐えがたく、臭い。何度シーツを洗っても、何度絨毯を洗っても、という母の苛立ちも分からなくはない。玄関の自分の靴の中に猫が器用にも(?)おしっこをしている現場をとらえたとなれば怒りと苛立ちがピークに達して力任せにぶってしまう、だろう。私でも。 夢と現実の境目で 母は猫をぶつ。何度も何度も。猫は鳴き声もあげず老いて痩せた身体でその拳に耐えている。あまりにも長くその打擲が続くので、私は「もう、いいかげんにしたら」と声を荒げてベッドから起き上がる ・・・しかしそれは夢と現実の境目の出来事。 猫は母が大好きなのだ。母が掃除をしている間も料理をしている間も足に纏わりついて離れず、テレビを見ていれば傍らで丸くなって寝転がり、店に出かける6時前には必ず玄関で母を見送る。夜半過ぎに母が帰ってくれば台所の床でおなかを見せて転がり、いつ終わるともしれない酔っ払いの話し相手として布団の中に連れ込まれてもじっとそのまま話を聞いている。 その大好きな母にぶたれて、猫は今日一日しょげかえっていた。かわいそうに思って撫でてやっても、元気がなかった。母と同じくらい大好きなウシ猫にもたれて眠る顔は、お前ら人間というのはそうやって勝手にぶったり撫でたりすることしかできないんだろ、と言っているような気もした。 たかがおしっこぢゃん、ねぇ? とも言ってそう。
いっせいに箍がはずれたか? 北海道ではスズメが謎の大量死を遂げているらしい。 スズメの死骸に導かれて北から不穏な気配の塊が降りてくる、風に溶け込んで流れてくる、小さな窓から入り込んでくる、鼻腔から、粘膜をすり抜け、身体中の毛細血管へと染みわたり、生れ落ちる前から染色体にセットされていたある細胞にたどり着く、そして ・・・なんてことはないわな。 私は今対象を失っている。それだけだ。スズメは関係ない。
煙草はやめましょう珈琲は一日一杯までビールも一日一本程度ならかまいませんが週に2日は休肝日朝昼晩と決まった時間に三食それも繊維の多いものをなるべく多く摂りましょう脂っこいものや刺激物はいけません規則正しい生活を心がけ毎日運動し毎日湯船に湯をためて入浴しましょう と早口の医者は呪文でも唱えるかのごとくさらりと言ってのけたのだけれどそんなことは何もこの雨の中わざわざ胃腸科まで足を運ばなくても誰もが経験的に分かっていることであって「そんな生活が送れればいいなあ」と心のはじっこで憧れつつもええっとなんだ、「現実はね、いつだって理想からものすごい勢いで遠ざかっていくのよ。その遠心力に対抗するには、相当に堅固な意志と、たえまない努力と、それから絶対にゆるがない覚悟が必要なの。」、そうそう、その遠心力に対抗できずにああまた今日も朝ごはん食べられなかった、珈琲これで3杯目、せめて運動だけでもしてみるかと一駅手前で降りて歩いてみても気がついたら煙草を口にくわえて缶ビールを握りしめてる、のが人間、生身の人間なんだから、そんな御託宣を拝聴するために4230円も支払って血まで抜かれる必要は全くなかった。 で、結局、「精神的な、もの、です、かね」といういつもの決め台詞でペンディングにされる。 あ ば れ た い。
あまりに退屈だ。 どうせ普段から休みの日は部屋で引きこもっているのだからここぞとばかりに本領を発揮すればいいものを、どうも、「静養中」という免罪符は人を甘やかしてしまうらしい。 さて明日は検査に行かねばならない。そしておそらく「静養中」の免罪符はすぐさま取り上げられる。 ・・・もちょっと病人でいたい、かな・・・。
多分テレビ画面には、スポーツ選手とその妻が映し出されていたのだと思う。もしかするとそれはくすっと笑うくらいには面白いものであったのかもしれないし、スタジオ収録にかぶせられるあの大仰でわざとらしい笑いを凌ぐくらいの本当の馬鹿笑いがこみ上げるほど面白いものであったのかもしれない。それでも。 日曜日の午後7時にテレビを見ながら笑っているのは、何か根本的なものを間違えていると思うのだ。 私のようにヘッドフォンで音楽を聴きながら本を読んでいるのが正しい、というつもりは全くない、多分私のほうが間違っている。日曜日の午後7時には何をしているべきなのだろう? 誰と何処でどう過ごしていればこの嫌悪感を払拭できるのだろう? それが分からないから私はこの2年と8ヶ月、日曜日の午後7時にはいつも白い箱の中にいた。やはりまだあの箱を出る準備は整っていない。
3時間、我慢したけれど、寒気がひどく指先や足先が痺れ始めたので救急車を呼ぼうとした私を、泥酔していた母親が「救急車なんかかっこ悪い」と押しとどめる。自分の客の内科医に午前5時に電話をかけて「うちの娘が」と留守番電話に意味をなさないメッセージを残す。 誰も、貴女の助けを必要とはしていない。 貴女のやり方は何もかもが的外れだ。 もはや貴女の羽は私を守れない。 そう確信した午前6時、私は救急車に乗った。母親を残して。 そこに誰かがいれば頼りたくなり甘えたくもなる。頼ることも甘えることもできないばかりか邪魔をし足かせさえはめるというのなら、そこに誰もいる必要はない。一緒に暮らしてさえいなければ憎まなくてもいいものを。
春、か。 どうして私は散らないのだろう、とふと思う。 咲いてすらいないから、か。 春を遥か遠くに感じる、なんちゃって。
ふと、壁に貼られたポスターに目をやると、 「読んでもらえるとうれしいです」と、西さんの直筆で書かれてあった。 それは考えてみれば当たり前のことで、何も考えてみなくても当たり前のことで、たかがこんなサイトの、中途半端な文章であっても、「読んでもらえるとうれしい」、のである。 書くことは衛生学の範疇の問題である、だとかとにかく書きたいから書いている、だとか回りくどい文言でもって書く理由を色々と数え上げてみたこともあるけれど、結局核の部分にあるのは「読まれたい」という欲望であり、それはいくら回りくどい文言でもってオブラートに包んでも、そこかしこから滲み出てくる。日記才人やテキスト庵に登録していたり、エンピツの投票ボタンを置いていたりするのだから、あからさまに私は「読まれたい」のである。 「読まれたい」という欲望はあさましく、おこがましく、ずうずうしい、などというのは謙遜のように見えて実はいやらしい、逃げ腰の身振りであって、毎日毎晩時にはうあー書くことねー!! と頭を抱えながらもこうして更新をしている以上非常な労力がここに注がれていることは確かなのだから、 「読んでもらえるとうれしいです」 と素直になってみるほうがどんなにか、それこそ衛生学的見地からしてもすっきりしていることか。 そして私は西さんの素直な一言にひかれて、その装丁のかわいらしい本を手にとってレジに運んだ。
「読む/読まれる」という行為だけがいつも虚構の領域からはみ出している。 行為は虚構と現実を繋ぐけれど、小説世界の行為を真似てみたからといって現実世界と小説世界が繋がるわけではない。 だから私がプールで溺れてみたところで何かしらの啓示が与えられるわけでは決してないのだ、これはまぎれもない現実なのだから。
とにかく動く気がしない間は無理に動かないことだ、と自分に言い訳を許しておいて何処にも出かけず本を読んで過ごした。 徹底的に沈まなければならない時期というのは誰にでも必要で、その時期というのは唐突にやってきて、そうして唐突に去っていく。今はまだ「徹底的に」というほどではないけれど、ベクトルが下降線をさしているのは確かだ。 数日なのか数週間なのか数ヶ月なのか、それとも数年なのか。 活動的であることにしか意味がない、とでもいいたげな情報の氾濫を横目に、まずはじっとしていることからはじめる。
インターネット、という媒体を介してなら、なおさらのこと。 集うのも、群れるのも、嫌いだけれど、違う空の下で同じものを見ている存在が確かにある、と実感することは悪いことではない。 大阪の空は濁っていて星はひとつしか見えなかったけれど、とにかくたくさんビールを飲んで同じ音に身を浸し、橋の上でカラックスの話をした今夜のことを多分私は忘れない。
ぐだぐだのへろへろ、どころかめっためたのぼっこぼこのぎったぎたにしてやられたような感じでもう目を開けていることすら疎ましいのでこのまま眠ることにする。 明日からは穏やかな4日間がひかえている。 きちんと目を開けて、正しいペースを探し出すこと。 仕事ごときにタマシイ吸い取られてたまるか。
ここまで自分が情に脆いとは正直思っていなかった。派遣先も、派遣元も、大嫌いなのに、放火するぞバカヤローと物騒なことを言いたくなるくらい、憎みに憎みぬいているのに、なんだかんだでモラリストだからまあせいぜいゴミ箱蹴り飛ばすくらいしかできないんだけど(そのうえあーとかなんとか声にならない声を漏らしつつ散らかしたゴミを拾っていたりする)、 なぢゃさんが辞めるなら私も辞める とか なぢゃさんしか信用できる人いないのに とか 背筋がぞわぞわするようなことを言われると、せめてこの「大運用変更」が落ち着くまでは様子を見ていようかな、なんて、思ってしまった。その「大運用変更」は、大方の予想通り大混乱の中で幕を開け、そこかしこでその場限りの自己流承認を連発して、息も絶え絶え、なにひとつとしてマトモな統一案を出せないまんまに初日を終えた。 明日は明日で、「昨日は通ったのになんで今日はダメなのよ」と詰め寄られ、またぐちゃぐちゃのめちゃめちゃになって、ぐだぐだのへろへろで終わるんだろう。 構いやしない、みんな一生懸命なんだから。これ以上、どうしようもないんだから。 こんな極限状態での一体感なんて、久しく忘れていた。 結構、やりがいあるよ、と今日の私は言える。 4月1日だから。 |