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その声は、今やはっきりと、肉体的な苦痛を伴って認識される。嫌悪感に圧迫されて胸は詰まり、呼吸が乱れる。それを鎮めるためにはピンク色の錠剤が少なくとも3錠は必要だ。一つの苦痛はまた他の苦痛を喚起する。押し殺された表面だけの静けさの中、虚ろな視線が交錯しあう明るい部屋で漫然と過ごす3時間・・・。 そろそろ、我々は、互いに一致しない、ということで一致しようではないか? 私は私の生活を持つべきだし、貴女はたとえば携帯電話の着信音が勝手にマナーモードに切り替わったくらいのことなら私以外の誰かに解決してもらうか取扱説明書を読むという簡単な作業を覚えるべきだ、我々はお互いに努力を放棄しすぎている。
―William Blake:The Marriage of Heaven and Hell 期待の感覚を根付かせないこと。淡い期待がぷくりと芽を出しはじめたらそのそばから摘み取ること、かつて彼が私の期待を根こそぎ刈り取っていったように。 決して叶えられないであろう期待を孕んで無様に崩れるくらいなら、殺してしまったほうがいい。何も期待しないことでしか保てない関係が確かにある。
甘いと言われても、緩いと言われても、温いと言われても、こんなことで心が死んでいくのは本当にいやだ。空が大粒の涙を流している朝くらい、ゆっくり心ゆくまで、雨音を聞き、灰色に煙った景色を眺めていたいのに。 後ろ髪をひかれながらタクシーに乗った。 ドライブに、連れてって、と余計なメールを送りそうになるのをこらえた。 もう少しだけ頑張ってみる。
■なにか、とても大切なことを、書こうと思っていたのだけれど視界がぐらりと揺れるほどの眠気に阻害されてうまく言葉を見つけられない。最近そういうことが多くなった。すぐに忘れてしまう。脳味噌の空き容量が少なくなっているのだろう。 ■「忘れっぽいのはステキなことです、そうじゃないですか」。そうかもしれない。そのほうが楽だ。でも負けているような気がする。何にか、は定かではないけれど。 ■眠気に負けるのは何よりも屈辱的なことだ、という歪んだ思い込みが多分私の不眠症の正体。明日からまた3日間、厳しい日が続くから、今夜は素直に屈服しておこう。
■夜8時過ぎのミスタードーナツで椅子を叩き、机を叩き、嬌声をあげながら暴れ、走り回る子供たち。それは子供たちにとって、ものすごく楽しい、もしかしたら特別な出来事なのであろう、満面の笑みに膨らんだ頬はリンゴのように紅潮していた。 ■店内は子供たちの叫びにも似た笑いに満たされる。母親は楽しげな我が子達(それは3人もいた)がいとおしいのか、微笑みさえ浮かべながらそのさまをじっと見守っている。 ■まるで、そこにいる全員に、無邪気な子供の遊びを眺めて楽しみなさい、とでもいわんばかりに。子供の無垢なふるまいは可愛らしいでしょう、とっても元気な子供たちでしょう、この子たちが飛び回り、跳ね回るのを眺めていると晴れやかな気分になるでしょう・・・ ■私は子供を好まない。騒々しい子供ならなお好まない。だからといってもちろん傍若無人にふるまう子供に罵声を投げかけたりはしないが、しあわせボケした母親に向かって険しい視線を投げかける、くらいのことはする。そして、当然、その場の空気は凍りつく。 ■問題は「他のお客さんもいるんだから静かにしなさい」の一言が言えない母親にあるのか、それとも「無邪気な子供のふるまい」を可愛らしいねと微笑んで見つめることのできない自分にあるのか、30分くらい悩んだけれど、多分今日の親子連れのふるまいは常軌を逸していた。
クリアな意識を取り戻せるのはいつだろう。
自分の髪を指ですいてみるだけで確実にそのうねりを実感することができる。そうしてこの類のことは、一旦気になりだすととことんまで気になる。私という存在の裏っかわにぺったりと貼りつき、「うねうねうねうね」が通底音として鳴り響く。地下鉄の中でもうねうねうね、会議の間もうねうねうね、研修しててもうねうねうね、食事の間もトイレの間もうねうねうね、オリンピック見ててもうねうねうね、もちろんこうして何かを書いている間もうぅねうね、 あーっ、もーっ、「うねうねうねうね」って字面までうねうねしてやがる、だいたい「ね」という文字のおしりの丸みが気に食わない、 真夜中に髪を数本抜き、うねうね度を確かめている自分に気づいた段階でもう限界だということを悟る。 ジカンミツケナケレバ。
ということに、遅い時間食堂に行くと否が応でも気づかされる。超大型のゴミ箱からはみ出したコンビニ弁当やカップ麺のガラ、某社が自販機の傍に申し訳なさそうに置いている分別BOXはいつも満タンで、床にずらりと空き缶が並んでいる。私、お弁当だけど、も単なる気休めだ。卵だって、ピーマンだって、ウィンナだって、スーパーマーケット、市場の中に出現したスーパーマーケットにパック詰めされて横たわっていたものたちなのだから。 私が子供の頃は、母や祖母は買い物カゴを提げて市場に行っていたし、豆腐は持参したタッパに入れてくれたし、野菜は新聞紙に包んでくれた。 巨匠はスーパーマーケットを襲撃した。 我々はスーパーマーケットに抗うことなどもはやできない。
それでもやはり母は輝いていて。身勝手ながらも多くの人に支えられて輝いていて。胡蝶蘭の並んだカウンターの向こうの母はまだまだ若く、美しかった。 多分私は今夜軽く嫉妬している。取り壊しの決まっている前の店にいつの間にか住みついた野良猫に餌をやっているときそう思った。通りを一本隔てた母の新しい店は昔馴染みの客でにぎわっているというのに、おまえと私は寂しいねぇ。 私も新しい人生に踏み出すべきなのだろう。彼女の呪縛を逃れて。それがおそらく、ただ一つの正しい道だ。 おまえも、うまく、逃げろよ。
時々こうして何もかも全部壊したくなる。 何も壊せないのに。リセットなんかできないのに。どうせ同じ事をもう一度繰り返すだけなのに。 憂鬱はいつしか傲慢へと姿を変える。「どうでもいい」と言い放つときの根拠はいつだって身勝手だ。多分他の大多数にとってはどうでもよくない。そんなことくらい分かっているけれど動けないのだから仕方がないじゃないの、と言い放つときも、怖ろしいくらい傲慢な顔をしているに違いない。
もうこれ以上許せないし耐えられない、なのに抗う術がないから心の中でお前らみんな死ねと透明なナイフを突き立てるしかない、当然「すべての牙は己に刺さり」、こうして荒れていく。 「すべての牙は己に刺さる」というフレーズは17の頃から使い続けている常套句だ。なーんにも変わっちゃいねえ。情けないくらい変わっちゃいねえ。 逆さハリネズミがデフォルトであるらしい。 ∴撫でても貴方の手は痛くありませんが、その手の圧力によってハリネズミの内側に負荷がかかることが予想されるため、触れないでやってください。
頭の中で常に4つか5つの文脈が同時進行しているような。私が今日スノーボードで大変申し訳ございませんが彼の写真は仲間とはぐれて13年前の図書館前でマニュアルのコピーをぶちまけながら胃が痛い、みたいな感じ。 はっ、もう3時? 集中力の欠片も見出せない。
轟音を残して空へ飛び立った一号機の尾翼に私は何の期待も乗せない。もう、これ以上の「繁栄」なんて、世界が暑くなるだけだ。便利さがもうとっくの昔から飽和の状態にあることに多くの人は気づいているはずなのに、何故あんな空港が建設されなければならなかったのだろうか。
■うーん、なんだかなあ、と思いながら登録ボタンを押す日もある。よーしよしよしよく書けた、と思いながらの日もある。とにかくこれは「日常の記録」ではなく、自分との戦いなのだ。 ■書くことが、好きだから。 ■丁寧に言葉を綴る人が好きだ。けれどなかなか、そういう人には出会えないから、ランダムジャンプで運良く出会えたときには、どんどんmy日記に追加させていただいている。ずうずうしくmy告知にしてるけど、「あなたの言葉が好きです」という意味に、受け取っていただきたい。 ■年が明けてから色々、もう背負いきれないくらい色々あったけれど、一旦仕切りなおし。
1.冬季オリンピックで何が楽しみかってそりゃあなた、バイアスロンに決まってるじゃありませんか、鉄砲背負ってクロスカントリーですよ、メダルメダルニッポン最初のメダルはいつでしょうかと物欲しげな声張り上げてないで世界の技をうつしなさいテレビ。 2.いくらなんでもプルシェンコ得点高すぎ。 以上。
今日ばかりは、そうやって自分を縛ってくれるものの存在を、ありがたいと感じた。だから、いつもの倍以上、丁寧に仕事をした。 これから、どうしようか。どこへ行こうか。何をしようか。 白い箱の中に、そんな問いはない。 ***** これから、を一切剥奪された匣に横たわる彼。 ***** 私は、白い箱の扉を開けることができる。 ***** 明日は、どうしようか。どこへ行こうか。何をしようか。
待っていたのは残酷な光景だけだった。葬儀屋が告げる、享年31歳、と。坊主がヘタクソな読経をあげる。なのに最後まで、死因だけは告げられない。 半開きになった唇、ひび割れた唇、あの独特のアクセントで、たくさんの優しい言葉を放ってくれたはずの唇と、おそらくはもう雪よりも冷たいであろうむき出しの足を、私は忘れないだろう。忘れることが、できないだろう。 ・・・「彼」が「私」であったなら。 かつて私は、幾度も幾度も、それを願った。 頭をたれる黒装束の人の群れ、そのときにこそ貴方は、私を想うでしょう、私の想いを知るでしょう、私という名の十字架を背負うでしょう・・・ あまりにも、残酷な、願いだった、あまりにも、あまりにも、「彼」は残酷で、哀しかった。 次に東へ向かうとき、その次に東へ向かうとき、その次も、その次も、これから先ずっと、私が東へ向かうとき、私は今日を思いだす。
告別式に行くために。 何も変わらないのに、昨日と何一つ変わらないのに、リビングでは白銀の世界をいかに華麗に滑り降りるかを競っているのに、 それでも彼の呼吸は停止している。 なんて、あっけない。 今夜はまだ、よく分からない。まだ、何も、分からない。
それを失えば自分が自分でなくなる何かが確かにある。人間という生き物はしぶといから、何を失くしてもただ生き延びることはできる。きっと今が瀬戸際だ。ここで食らいつかなければ、ただ呼吸をし、ただ排泄し、ただ眠り、働くために食べ、食べるために働き、受動的な気晴らしに馴らされて、いつかやってくるはずの終わりの日に向けてのろのろと歩みを進めるだけの生ける屍に成り果てる。 半分壊死した眼球はあの人の言葉を滑らせてしまう。 それでも全力で抗うこと、巨大な渦の中に飲み込まれぬよう、腕にナイフを突き立ててでも此処でとどまること。猶予はもうない。
そんなことも知り得ない、今の自分って一体何だ? こんな自分でいたくない。こんなのは自分ではない。自分のイメージする自分と現実の自分とがあまりに大きくかけ離れすぎていることに目ん玉は飛び出しても言葉は何にも出てこない。 まったくもってこんなのは私じゃない、どこからやり直せばいいのだろう。
まーた胃がいやな感じに燃えている深夜2時半、寝たほうが、いいね。
つーかーれーたーっ!!! とにかく半分(=60人)終わった、あと60人。どっからでもかかってこいやこらー!!! と虚勢をはるために疲れた解禁。時には思い切り疲れた疲れたと連呼してみることで案外すっきりするものだねカイメンちゃん。疲れたんだってば。まーぢーでー疲れたんだってば。「オツカレサマ」という決まり文句が真の労いの言葉に聞こえるくらい疲れたんだってば。あまりにも疲れたからもう今日ばっかりは何にも考えずビール飲んで寝よ、と素直になってみるのも、悪くない。 明日も頑張ります。
見てはいけない、聞いてはいけない、感じてはいけない、呼吸を整えて、過ぎ越す時をじっと待つ。 何も特別なことじゃない、誰にだって、杳い夜は、訪れる。
誰もが疲れている。 ただそれだけが事実であり、どちらがより疲れているかを競うことになんら意味はない。「誰もが疲れている」ということを認めること、それを思いやりという。
■小さな小さな齟齬が積み重なって気がつけば取り返しがつかないくらいすれ違っていた、労働と恋愛はやはり似ている。 ■導き出されるのは一度ダメだと思ったらもう後戻りはできない、という両者に共通の結論。あとは幾許かの不毛なる時間をやり過ごしできる限り禍根を残さぬように後始末をすること、だけ。 ■何か得るところがあっただろうか、と振り返る、ところまで同じ。 ■「Why Wasn't i More Grateful」が歌いたくなる、ところまで同じ。 ■この皮肉な相似性は単に私が私である、私は私でしかない、ということの証明に過ぎない。私は私のやり方でしか対象と関わることができない、ということ。 ■一度や二度の失敗では人は何も変わることができない。たとえ三度、五度同じ過ちを繰り返したとして、何も変わることはない。きっといちばん最期の瞬間、「もううんざりだ」と呟くだろう。 ■乾いた絶望を抱いて踊る。
ひりひりするような刺激を求めるときは終わり、ロジックをもてあそぶスリルにも飽き果て、嘘やごまかしやわざとらしさばかりが目について今更リスクを背負う気にもなれず、かといって守るべきなにものかが存在しているわけでもない、私は私をひたすら持て余している。 だから深夜零時の街並みを駆け抜けた。市場は饐えた食物の匂いを沈澱させて死んだように眠っていた。 もっともっと強い足が欲しいと思った。 今望んでいることは、何もかもを置き去りにして走り去ること、ただそれだけ。
■クビにストラップをかけられてしまったら、容易に「脱走」はできないからね。逃げ足は速ければ速いほどいいよ。おっさんの判断はある意味正しい、かもしれない、許されざることであっても。 ■地面で眠るコアラはあのまるっこく柔らかで暖かそうな背中でもって無言の最後通牒を突きつけているのだ、とは思わないか? これ以上樹木を伐り斃すなら、森を焼き払うなら、我々はコアラとしての「習性」をすべて放棄し、「自由行動」に打ってでるぞ、というメッセージを読み取るどころか「珍行動」を紹介することで動物園の繁盛を算用することしかしない、というのではあまりに人間は身勝手だ、と結論せざるを得ないだろう? ■おっさんのためにも約300枚のマニュアルは用意された。そして、それは、ほとんど頁を繰られることもなくシュレッダーにかけられた。 ■「知ったこっちゃねえ」、か? |