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2006年02月28日(火)   agree to disagree

ありとあらゆる嫌悪感が総毛だってパチパチと火花を立てている今この瞬間。それは極度の疲労のために一旦は萎み、撫で付けられていたのであるが、疲れの固い殻をいとも簡単に通過するほどの音量で発されたによって中心を刺激され、こうして真夜中に再び燃え上がる。

そのは、今やはっきりと、肉体的な苦痛を伴って認識される。嫌悪感に圧迫されて胸は詰まり、呼吸が乱れる。それを鎮めるためにはピンク色の錠剤が少なくとも3錠は必要だ。一つの苦痛はまた他の苦痛を喚起する。押し殺された表面だけの静けさの中、虚ろな視線が交錯しあう明るい部屋で漫然と過ごす3時間・・・。

そろそろ、我々は、互いに一致しない、ということで一致しようではないか? 私は私の生活を持つべきだし、貴女はたとえば携帯電話の着信音が勝手にマナーモードに切り替わったくらいのことなら私以外の誰かに解決してもらうか取扱説明書を読むという簡単な作業を覚えるべきだ、我々はお互いに努力を放棄しすぎている。


2006年02月27日(月)   期待しない

Sooner murder an infant in its cradle than nurse unacted desires.
―William Blake:The Marriage of Heaven and Hell

期待の感覚を根付かせないこと。淡い期待がぷくりと芽を出しはじめたらそのそばから摘み取ること、かつて彼が私の期待を根こそぎ刈り取っていったように。

決して叶えられないであろう期待を孕んで無様に崩れるくらいなら、殺してしまったほうがいい。何も期待しないことでしか保てない関係が確かにある。


2006年02月26日(日)   もう少しだけ

今日はとにかく忙しかったなあ・・・。忙しいとか慌しいとか、とってもいやな漢字だ。心を亡くしたり荒らしたり。私が今いる職場がおかしいだけなのか、それとも働くということは一様にこういった漢字が伴うものなのか、マトモな社会経験がほとんどない私には分からないけど、とにかく悲しいと思う。

甘いと言われても、緩いと言われても、温いと言われても、こんなことで心が死んでいくのは本当にいやだ。空が大粒の涙を流している朝くらい、ゆっくり心ゆくまで、雨音を聞き、灰色に煙った景色を眺めていたいのに。

後ろ髪をひかれながらタクシーに乗った。

ドライブに、連れてって、と余計なメールを送りそうになるのをこらえた。

もう少しだけ頑張ってみる。


2006年02月25日(土)   眠気に屈する

■うねうねうえいぶ脱出。あろうことか美容院の椅子の上で眠りこけてしまい美容師さんに「疲れすぎ」とダメ出しされる始末。目を開けているのも困難なほどの眠気に襲われたのは数年ぶりのことで、これはもしかしたらいい傾向なのかもしれない。

■なにか、とても大切なことを、書こうと思っていたのだけれど視界がぐらりと揺れるほどの眠気に阻害されてうまく言葉を見つけられない。最近そういうことが多くなった。すぐに忘れてしまう。脳味噌の空き容量が少なくなっているのだろう。

■「忘れっぽいのはステキなことです、そうじゃないですか」。そうかもしれない。そのほうが楽だ。でも負けているような気がする。何にか、は定かではないけれど。

■眠気に負けるのは何よりも屈辱的なことだ、という歪んだ思い込みが多分私の不眠症の正体。明日からまた3日間、厳しい日が続くから、今夜は素直に屈服しておこう。


2006年02月24日(金)   無垢な子供は無実か

■激しく苛立っているときの、私の声は鋭く、目つきは険しく、そしてため息は威嚇の響きを帯びる。皆がその気配を察知し、微妙に空気が変わる。だから私は口を噤んでいたかったのに。顔色を窺われるような立場に、立つべきではなかった。

■夜8時過ぎのミスタードーナツで椅子を叩き、机を叩き、嬌声をあげながら暴れ、走り回る子供たち。それは子供たちにとって、ものすごく楽しい、もしかしたら特別な出来事なのであろう、満面の笑みに膨らんだ頬はリンゴのように紅潮していた。

■店内は子供たちの叫びにも似た笑いに満たされる。母親は楽しげな我が子達(それは3人もいた)がいとおしいのか、微笑みさえ浮かべながらそのさまをじっと見守っている。

■まるで、そこにいる全員に、無邪気な子供の遊びを眺めて楽しみなさい、とでもいわんばかりに。子供の無垢なふるまいは可愛らしいでしょう、とっても元気な子供たちでしょう、この子たちが飛び回り、跳ね回るのを眺めていると晴れやかな気分になるでしょう・・・

■私は子供を好まない。騒々しい子供ならなお好まない。だからといってもちろん傍若無人にふるまう子供に罵声を投げかけたりはしないが、しあわせボケした母親に向かって険しい視線を投げかける、くらいのことはする。そして、当然、その場の空気は凍りつく。

■問題は「他のお客さんもいるんだから静かにしなさい」の一言が言えない母親にあるのか、それとも「無邪気な子供のふるまい」を可愛らしいねと微笑んで見つめることのできない自分にあるのか、30分くらい悩んだけれど、多分今日の親子連れのふるまいは常軌を逸していた。


2006年02月23日(木)   NOISE

夕刻より「うるせー」と独り言を言ってしまうほどの酷い耳鳴りが止まらず、エアリアルの決勝を見終えた今になっても昨夜のうねうねうねとはまた違うけれども不快さでいえばはるかにうねうねうねを凌ぐ、地鳴りのような鈍い「ぶわわん」が通底音として意識の一片を支配している。

クリアな意識を取り戻せるのはいつだろう。


2006年02月22日(水)   うねうねうえいぶ

雨が降るとまるで髱心でも入れてるんじゃあないの、というくらいにぽわんぽわんに膨らむ髪。ストレートパーマという業苦を耐えたのはもうかれこれ半年も前のことだから、少なくとも根元から6センチほどは天然のウエイヴが奔放にくねりくねりと踊りくねっているわけだ。

自分の髪を指ですいてみるだけで確実にそのうねりを実感することができる。そうしてこの類のことは、一旦気になりだすととことんまで気になる。私という存在の裏っかわにぺったりと貼りつき、「うねうねうねうね」が通底音として鳴り響く。地下鉄の中でもうねうねうね、会議の間もうねうねうね、研修しててもうねうねうね、食事の間もトイレの間もうねうねうね、オリンピック見ててもうねうねうね、もちろんこうして何かを書いている間もうぅねうね、

あーっ、もーっ、「うねうねうねうね」って字面までうねうねしてやがる、だいたい「ね」という文字のおしりの丸みが気に食わない、

真夜中に髪を数本抜き、うねうね度を確かめている自分に気づいた段階でもう限界だということを悟る。

ジカンミツケナケレバ。


2006年02月21日(火)   自明なことだけれど

我々は何一つとしてパック詰めされていないものを口にいれることができない。米にしてもパンにしてもヨーグルトにしても、たかが水にしても、すべてはビニールに詰められ、もしくはプラスティックのケースに詰められて、消毒殺菌されてから手元に届けられる。我々は、ゴミを出さずには食べることはおろか、飲むことさえもできない。

ということに、遅い時間食堂に行くと否が応でも気づかされる。超大型のゴミ箱からはみ出したコンビニ弁当やカップ麺のガラ、某社が自販機の傍に申し訳なさそうに置いている分別BOXはいつも満タンで、床にずらりと空き缶が並んでいる。私、お弁当だけど、も単なる気休めだ。卵だって、ピーマンだって、ウィンナだって、スーパーマーケット、市場の中に出現したスーパーマーケットにパック詰めされて横たわっていたものたちなのだから。

私が子供の頃は、母や祖母は買い物カゴを提げて市場に行っていたし、豆腐は持参したタッパに入れてくれたし、野菜は新聞紙に包んでくれた。

巨匠はスーパーマーケットを襲撃した。

我々はスーパーマーケットに抗うことなどもはやできない。


2006年02月20日(月)   軽い嫉妬を

母の第二の人生がようやくはじまった。途切れることを恐れるかのように開店準備を急ぐ彼女の気持ちも分からないではなかったけれど、いつもいつもその強引さに巻き込まれそのたびに無口に、不機嫌になることでしか自分を守れない私には随分ときつかった、この1ヶ月。

それでもやはり母は輝いていて。身勝手ながらも多くの人に支えられて輝いていて。胡蝶蘭の並んだカウンターの向こうの母はまだまだ若く、美しかった。

多分私は今夜軽く嫉妬している。取り壊しの決まっている前の店にいつの間にか住みついた野良猫に餌をやっているときそう思った。通りを一本隔てた母の新しい店は昔馴染みの客でにぎわっているというのに、おまえと私は寂しいねぇ。

私も新しい人生に踏み出すべきなのだろう。彼女の呪縛を逃れて。それがおそらく、ただ一つの正しい道だ。



おまえも、うまく、逃げろよ。


2006年02月19日(日)   停滞

呆れるほど、微動だにしなかった日。自分の身体を実験台に、人がどこまで怠惰になれるのかを試しているような気分。

時々こうして何もかも全部壊したくなる。

何も壊せないのに。リセットなんかできないのに。どうせ同じ事をもう一度繰り返すだけなのに。

憂鬱はいつしか傲慢へと姿を変える。「どうでもいい」と言い放つときの根拠はいつだって身勝手だ。多分他の大多数にとってはどうでもよくない。そんなことくらい分かっているけれど動けないのだから仕方がないじゃないの、と言い放つときも、怖ろしいくらい傲慢な顔をしているに違いない。


2006年02月18日(土)   逆さハリネズミ

昨日は気づかなかったけど「慌しい」という漢字は心が荒れると書くのだな。荒れてる荒れてる、ガッサガサのパッサパサ。

もうこれ以上許せないし耐えられない、なのに抗う術がないから心の中でお前らみんな死ねと透明なナイフを突き立てるしかない、当然「すべての牙は己に刺さり」、こうして荒れていく。

「すべての牙は己に刺さる」というフレーズは17の頃から使い続けている常套句だ。なーんにも変わっちゃいねえ。情けないくらい変わっちゃいねえ。

逆さハリネズミがデフォルトであるらしい。

∴撫でても貴方の手は痛くありませんが、その手の圧力によってハリネズミの内側に負荷がかかることが予想されるため、触れないでやってください。


2006年02月17日(金)   バ ラ バ ラ

慌しい。

頭の中で常に4つか5つの文脈が同時進行しているような。私が今日スノーボードで大変申し訳ございませんが彼の写真は仲間とはぐれて13年前の図書館前でマニュアルのコピーをぶちまけながら胃が痛い、みたいな感じ。

はっ、もう3時?

集中力の欠片も見出せない。


2006年02月16日(木)   そんな空港は必要なかった

常に行政は静かに静かに、けれども強引に、着実に事を運ぶ。私が空港建設反対の署名をしてから7年の月日が流れ、そしていつの間にかあんなに立派な建物が海の上に浮かんだ。

轟音を残して空へ飛び立った一号機の尾翼に私は何の期待も乗せない。もう、これ以上の「繁栄」なんて、世界が暑くなるだけだ。便利さがもうとっくの昔から飽和の状態にあることに多くの人は気づいているはずなのに、何故あんな空港が建設されなければならなかったのだろうか。


2006年02月15日(水)   引っ越し完了、仕切りなおし。

■サイト引っ越し完了。中身はそのまんま。そのうち何かいじれたらいいなと思ってるけど多分思ってるだけで数ヶ月過ぎそう(苦笑)。サイト、なんていったって所詮ただのブリッジだから。

■うーん、なんだかなあ、と思いながら登録ボタンを押す日もある。よーしよしよしよく書けた、と思いながらの日もある。とにかくこれは「日常の記録」ではなく、自分との戦いなのだ。

■書くことが、好きだから。

■丁寧に言葉を綴る人が好きだ。けれどなかなか、そういう人には出会えないから、ランダムジャンプで運良く出会えたときには、どんどんmy日記に追加させていただいている。ずうずうしくmy告知にしてるけど、「あなたの言葉が好きです」という意味に、受け取っていただきたい。

■年が明けてから色々、もう背負いきれないくらい色々あったけれど、一旦仕切りなおし。


2006年02月14日(火)   静養中につき

メニエール悪化中。静養中につき一言、いや、二言だけ。

1.冬季オリンピックで何が楽しみかってそりゃあなた、バイアスロンに決まってるじゃありませんか、鉄砲背負ってクロスカントリーですよ、メダルメダルニッポン最初のメダルはいつでしょうかと物欲しげな声張り上げてないで世界の技をうつしなさいテレビ。

2.いくらなんでもプルシェンコ得点高すぎ。

以上。


2006年02月13日(月)   箱

一切滞ることなく用意されている、「私の日常」。朝7時に起き、オートミールを少しだけ食べて、今は胃の具合がよくないからコーヒーにはミルクをたっぷりと入れ、煙草を吸って、歯を磨き、顔を洗って、化粧をし、髪を整えて、8時25分には家を出る、そうすればもう、ベルトコンベアに乗っているのと同じ。会社に行けば、話すし、作り笑いも浮かべてみせるし、相談、という名の雑談にも加わる、あとは8時間が経過するのを待つだけ。

今日ばかりは、そうやって自分を縛ってくれるものの存在を、ありがたいと感じた。だから、いつもの倍以上、丁寧に仕事をした。

これから、どうしようか。どこへ行こうか。何をしようか。

白い箱の中に、そんな問いはない。

*****

これから、を一切剥奪された匣に横たわる彼。

*****

私は、白い箱の扉を開けることができる。

*****

明日は、どうしようか。どこへ行こうか。何をしようか。


2006年02月12日(日)   喪う

東に向かって新幹線に乗るときはいつだって、センセイに会いに行くときで、今にも心臓が喉元からせり出してきそうな、そんな気分でしか、あの駅を通り過ぎたことはなかったのに。

待っていたのは残酷な光景だけだった。葬儀屋が告げる、享年31歳、と。坊主がヘタクソな読経をあげる。なのに最後まで、死因だけは告げられない。

半開きになった唇、ひび割れた唇、あの独特のアクセントで、たくさんの優しい言葉を放ってくれたはずの唇と、おそらくはもう雪よりも冷たいであろうむき出しの足を、私は忘れないだろう。忘れることが、できないだろう。

・・・「彼」が「私」であったなら。

かつて私は、幾度も幾度も、それを願った。

頭をたれる黒装束の人の群れ、そのときにこそ貴方は、私を想うでしょう、私の想いを知るでしょう、私という名の十字架を背負うでしょう・・・

あまりにも、残酷な、願いだった、あまりにも、あまりにも、「彼」は残酷で、哀しかった。

次に東へ向かうとき、その次に東へ向かうとき、その次も、その次も、これから先ずっと、私が東へ向かうとき、私は今日を思いだす。


2006年02月11日(土)   それでも彼の呼吸は

私は、髪を洗う。マニキュアを落とす。髪を乾かして、歯を磨く。

告別式に行くために。

何も変わらないのに、昨日と何一つ変わらないのに、リビングでは白銀の世界をいかに華麗に滑り降りるかを競っているのに、

それでも彼の呼吸は停止している。

なんて、あっけない。

今夜はまだ、よく分からない。まだ、何も、分からない。


2006年02月10日(金)   反省

昨日のことで物凄く反省をした。

それを失えば自分が自分でなくなる何かが確かにある。人間という生き物はしぶといから、何を失くしてもただ生き延びることはできる。きっと今が瀬戸際だ。ここで食らいつかなければ、ただ呼吸をし、ただ排泄し、ただ眠り、働くために食べ、食べるために働き、受動的な気晴らしに馴らされて、いつかやってくるはずの終わりの日に向けてのろのろと歩みを進めるだけの生ける屍に成り果てる。

半分壊死した眼球はあの人の言葉を滑らせてしまう。

それでも全力で抗うこと、巨大な渦の中に飲み込まれぬよう、腕にナイフを突き立ててでも此処でとどまること。猶予はもうない。


2006年02月09日(木)   これは私じゃない。

ちょっと前の私ならば知っていて当然、知っていなければおかしい類の話をついさっき、ネットを介して知った。目ん玉が5センチくらい飛び出したまんま元に戻らない。

そんなことも知り得ない、今の自分って一体何だ?

こんな自分でいたくない。こんなのは自分ではない。自分のイメージする自分と現実の自分とがあまりに大きくかけ離れすぎていることに目ん玉は飛び出しても言葉は何にも出てこない。

まったくもってこんなのは私じゃない、どこからやり直せばいいのだろう。


2006年02月08日(水)   できないものは、できない。

忙しい、なんていうのは言い訳で、疲れた、なんていうのも言い訳で、たかが数行の文章を毎日こうやって書き綴ることくらいできなくてどうするよ、と思い続けてはや、えっと、4年? が過ぎようとしているけれどもたかがこの程度のことでも本当にできない日がある、ということを最近痛感している。

まーた胃がいやな感じに燃えている深夜2時半、寝たほうが、いいね。


2006年02月07日(火)   疲れた解禁

だーっ、疲れた、疲れた、疲れたーっっっ!!!

つーかーれーたーっ!!!

とにかく半分(=60人)終わった、あと60人。どっからでもかかってこいやこらー!!!

と虚勢をはるために疲れた解禁。時には思い切り疲れた疲れたと連呼してみることで案外すっきりするものだねカイメンちゃん。疲れたんだってば。まーぢーでー疲れたんだってば。「オツカレサマ」という決まり文句が真の労いの言葉に聞こえるくらい疲れたんだってば。あまりにも疲れたからもう今日ばっかりは何にも考えずビール飲んで寝よ、と素直になってみるのも、悪くない。

明日も頑張ります。


2006年02月06日(月)   抹消

あまり居心地のよい繭ではない。早く出なければ自分で自分を抹消してしまいそうだ。


2006年02月05日(日)   繭の中

弱っているのは、身体ではなく、感情。何も感じない、のではなく、何も感じられなくなっている。防衛本能が、自分の周りに分厚くバリアを張っている。もしも今、剥き出しの心で何かを感じてしまったなら、その時点であらゆることに、ありとあらゆることに、終止符が打たれるであろうから。

見てはいけない、聞いてはいけない、感じてはいけない、呼吸を整えて、過ぎ越す時をじっと待つ。

何も特別なことじゃない、誰にだって、杳い夜は、訪れる。


2006年02月04日(土)   泥の海

まるで自分だけが泥の海を泳ぎきってきたかのようにふるまうのは明らかに錯覚である。誰もが各々の泥の海をもっている。それを共有することができないからといって他人の泥が自分の泥よりもゆるいだろうと見当をつけたとしても憶測の域を出ない。

誰もが疲れている。

ただそれだけが事実であり、どちらがより疲れているかを競うことになんら意味はない。「誰もが疲れている」ということを認めること、それを思いやりという。


2006年02月03日(金)   皮肉な相似性

■トシの数だけ豆をぽりぽりかじったら顎が痛いような・・・気のせいか。

■小さな小さな齟齬が積み重なって気がつけば取り返しがつかないくらいすれ違っていた、労働と恋愛はやはり似ている。

■導き出されるのは一度ダメだと思ったらもう後戻りはできない、という両者に共通の結論。あとは幾許かの不毛なる時間をやり過ごしできる限り禍根を残さぬように後始末をすること、だけ。

■何か得るところがあっただろうか、と振り返る、ところまで同じ。

■「Why Wasn't i More Grateful」が歌いたくなる、ところまで同じ。

■この皮肉な相似性は単に私が私である、私は私でしかない、ということの証明に過ぎない。私は私のやり方でしか対象と関わることができない、ということ。

■一度や二度の失敗では人は何も変わることができない。たとえ三度、五度同じ過ちを繰り返したとして、何も変わることはない。きっといちばん最期の瞬間、「もううんざりだ」と呟くだろう。

■乾いた絶望を抱いて踊る。


2006年02月02日(木)   持て余す

ああ、知ったこっちゃねえよ、と投げやりに寝転がる休日。いつもにもまして腐敗は深刻で、ただ自分にとってだけ深刻で、コアラじゃないけれどすべてに背を向けて一日丸くなっていた。

ひりひりするような刺激を求めるときは終わり、ロジックをもてあそぶスリルにも飽き果て、嘘やごまかしやわざとらしさばかりが目について今更リスクを背負う気にもなれず、かといって守るべきなにものかが存在しているわけでもない、私は私をひたすら持て余している。

だから深夜零時の街並みを駆け抜けた。市場は饐えた食物の匂いを沈澱させて死んだように眠っていた。

もっともっと強い足が欲しいと思った。

今望んでいることは、何もかもを置き去りにして走り去ること、ただそれだけ。


2006年02月01日(水)   地面でコアラが眠っても

■胃粘膜の大暴走で幕を開けた今週、いったいどうなることかと思いきや今週の新人たちはみんな感じがいい。初日、昼休みの間に自分の筆記用具もノートも放り出したまんま「脱走」を図ったおっさんがひとりいたのだけれどそんな社会常識の欠片も持ち合わせていない輩は放っておけばいいだけのこと、知ったこっちゃねえ。

■クビにストラップをかけられてしまったら、容易に「脱走」はできないからね。逃げ足は速ければ速いほどいいよ。おっさんの判断はある意味正しい、かもしれない、許されざることであっても。

■地面で眠るコアラはあのまるっこく柔らかで暖かそうな背中でもって無言の最後通牒を突きつけているのだ、とは思わないか? これ以上樹木を伐り斃すなら、森を焼き払うなら、我々はコアラとしての「習性」をすべて放棄し、「自由行動」に打ってでるぞ、というメッセージを読み取るどころか「珍行動」を紹介することで動物園の繁盛を算用することしかしない、というのではあまりに人間は身勝手だ、と結論せざるを得ないだろう?

■おっさんのためにも約300枚のマニュアルは用意された。そして、それは、ほとんど頁を繰られることもなくシュレッダーにかけられた。

■「知ったこっちゃねえ」、か?


nadja. |mailblog