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2021年02月22日(月) 大切なのは「そこにいる」こと

通知に気づいてラインを開いたら、めずらしいグループトークにメッセージが届いていた。
看護学校の同級生がつながる学年ラインであるが、たまに学校からイベントの案内が入るくらいで、ほとんど使われていない。いつのまにか退会している人もいて、「そうだよなあ、ここで近況を報告し合うでもなし、私ももう退会しちゃおうかなあ」が頭をよぎる。そのグループラインがにわかににぎわっていたので、不思議に思った。そうしたら、「今月いっぱいで退職し、春から別の仕事をすることにしました」という投稿があり、それに対するメッセージが連なっていたのだった。
「いまいる病院をやめて、ほかへ行く」という話ならいくらでもあるが、看護師をやめて、ほかの職業に就くというのはあまり聞かない。だからみな驚き、心配し、中には再考を促すメッセージを送った人もあった。
でも、彼女はここで相談しているのではなく、すでに決めたことを報告しているのである。なにがあったのかはわからないけれど、「私には向いていないことがわかりました」という言葉から、彼女が自信を失っていて、その場所から離れたいのだということは伝わってくる。「ここまでがんばってきたのに」「せっかくの資格がもったいないよ」という声かけほど、いまの彼女に重荷になるものはないんじゃないか。
数日たっても彼女から応答はなかった。かわりにトーク上に表示されたのは、「〇〇がグループから退出しました」だった。



看護師をやめたいと思ったことは一度もない。しかし、これまでにしてきた仕事では経験したことのない種類のストレスがかかっていることは感じている。
そのうちのひとつが、死にゆく人をみるつらさ。そしてその、人として自然な感情を抑え込まねばならない場面での精神的負荷だ。
救急搬送された患者が多く入院している病棟であるため、死亡退院も多い。命の灯がだんだん小さくなっていくのを見つめているのはやるせなく、まだ生きてやりたいことのある人が迫る死に怯えて取り乱したり、家族を案じて涙を流したりする姿を見ると、胸が張り裂けそうになる。
“Not doing,but being.”
ホスピスの創始者シシリー・ソンダースの言葉である。患者が終末期になり、もはやすべきことがなくなったときに大切なのは「なにかをする」ことではなく、「そこにいる」ことなのだ、と。
しかし、これがどんなにむずかしいことであるか。食事休憩を二十分で切り上げて業務に戻るほど過酷なタイムスケジュールの中で、なにかをするためでなく、患者のそばにいるための時間を捻出することは不可能といっていい。
できるのは、仮眠がとれる落ちついた夜勤のときに病室を訪れることくらいだ。

真っ暗な部屋の中で、テレビの光が白々とBさんの顔を照らしている。
「眠れませんか」
「いろいろと考えちゃってね……」
私がベッドサイドのイスに腰かけると、
「夜は看護師さん少なくて忙しいでしょう。私は大丈夫だから、行ってください」
と言う。看護師を一人一人名前で呼んでくれるBさんは気遣いの人。だから、私はラウンド中をよそおう。仮眠時間だなんて知れたら、追い返されてしまう。
「今日はみなさん、よく眠っておられて。でもナースコールで呼ばれたら行きますから、心配しないでください」
PHSはちゃんとナースステーションに置いてきた。だから、私のポケットでコールが鳴ることはない。
Bさんがぽつりと言う。
「ほんと言うと、看護師さんの顔が見られなくなっちゃってちとさみしかったんだ……。ここは一人部屋だしね。ごめん、わがまま言っちゃいけないね」
Bさんは点滴漏れを起こしやすく、点滴中はしょっちゅう確認に行かなくてはならなかった。しかし、これ以上の輸液投与は患者の苦痛を増すだけだと、数日前にそれが終了になってからは看護師の訪室はぐっと減っていた。
「看護師さん泣かせの血管でしょ。点滴が漏れるたびにいろんな人が来て、針を入れ直そうとしてくれるんだけどなかなか入らなくて……。『ここ、いけるんじゃない』とか『いや、細すぎる』とか言いながら、みんなで血管探してくれて。最後は、蓮見さんが「“神の手”を連れてきます!』って言って、連れてきてくれた看護師さんが一発で入れてくれたんだったね」
「あれは見事でしたねえ。あの人はどんな血管でもルートを取れる“ゴッドハンド”って言われてて、この病棟の看護師じゃないんですけど、たまたまナースステーションに来ていたのをつかまえたんです」
「あのときは看護師さんが集まって、にぎやかだったなあ……」
目は閉じているが、口元がほころんでいる。
「あと三年も四年も生きたいなんてぜいたくは言わない。せめて一年、いや半年あったら、家内も心の準備ができると思うんだよ。ずっと二人で生きてきたからね……」
ホスピスに転院調整中だが、おそらく間に合わないだろう。Bさんも点滴が終了したのと同じタイミングで大部屋から個室に移動になった理由を察している。なぜ明日から妻の面会が可能になったのかも。
テレビの音にまぎれる嗚咽。手をさすりながら、一緒に泣けたらどんなに楽だろうと思う。あるいは、無念と孤独に必死に耐えるその姿から目をそらすことができたら……。
でも、私はもう学生ではない。別れの言葉に聞こえないふりをした、あのころとは違う。
「痛みや息苦しさを我慢しないでくださいね。奥さんとの時間を穏やかに過ごしてもらえるよう、私たちにできることはなんでもします。したいこと、してほしいことがあったら、いつでもコールしてください」

静かに扉を閉める。
じきに、薬を使って眠らせることでしか苦痛を取り除けないときが来るだろう。どうかそれまでにBさんが奥さんに伝えたいことを伝えられますように。できるだけ身軽になって旅立つことができますように。
「心がそばにある」ことも“being”。そう信じて、私は祈る。


注) 上記テキストは日記書きにおけるポリシーに基づき、登場人物や状況の設定を変更しています。

【あとがき】
私はBさんに、「そこにいられなくても、私たちはいつも気にかけている」ことを伝えたかったのです。
Bさんの最期は眠るように……とはいかず、思い出すといまでも込み上げてくるものがあります。「家内のおかげで楽しい人生でした」という言葉。きっと奥さんに伝わっている、と思いたい。


2021年02月18日(木) 命の衝動買い

知人の話である。出張から帰宅すると、見知らぬ犬が家の中を走り回っていた。驚いて立ち尽くしていると、「ねえ、かわいいでしょう!」と妻の声。
なんでも、遊びに来ていた孫を連れ、ペットショップに金魚の餌を買いに出かけたところ、ショーケースの中に一頭の子犬がいた。孫と一緒に見ていたら、店員が「抱っこしてみませんか」と声をかけてきた。
マンション暮らしでペットを飼ったことのない孫はクリーム色の毛に顔をうずめて大喜び。「おばあちゃん、この子飼いたい!」という展開になったのは言うまでもない。
たしかにめちゃくちゃかわいい。なだめつつも、こんな子が家にいたら楽しいだろうな。孫ももっと頻繁に遊びに来るようになるかもしれない。情操教育にもなるかしら……と心が揺れた。
そこで、家族と相談してあらためて来ると伝えたところ、店員は残念そうに言った。
「この子はすごく人気があって、問い合わせが数件入っています。次いらしたときにはたぶんいないと思いますよ」
そんなわけで、夫には事後報告になったらしい。

「しかも五十万したって言うんだよ。何考えてるんだって怒ったら、『これでも五万円値引きしてもらった、いい犬はそのくらいするもんだ』って開き直られたよ」
これを聞いて、「五十万を衝動買い!?」とその場が色めきだったが、私は別のことが気になった。
「ところで、そのワンちゃんはなんていう犬なんですか」
「ゴールデン・レトリバーだよ」
なるほど、ゴールデンの子だったら、まるまるコロコロしてそりゃあかわいいにちがいない。一緒に暮らしたら毎日がさぞかし楽しくなるだろうと思うのもわかる。
が、しかし。「犬は十年以上生きる」ことについてどのように考えたのだろう。
その知人は六十代なかばで、夫婦ふたり暮らしである。いまはぬいぐるみのようでも、たちまち成長して三十キロにもなるその犬を十年後も散歩に連れて行けるのだろうか。犬が年老いる頃、自分たちも八十近くになっているが大型犬の介護ができるのだろうか。
「突然連れて帰って、ご主人は反対しませんか?」
「大型犬なのでリードを引く力も強いですけど、お散歩は大丈夫ですか?」
「病気や入院でこの子の世話ができなくなった場合の後見人はいらっしゃいますか?」
なんてペットショップの店員は訊かないだろう。みすみす五十万の売上を逃すようなことはするまい。しかし、このゴールデンの子がショーケースの中でなく保護犬の譲渡会で見つけた犬だったなら、すんなり譲り受けることはできなかったはずだ。

初めて保護猫の譲渡会に行ったとき、「里親になれる人」の条件を知って驚いた。
五十五歳未満であること、独身者・単身者・共働き世帯・小学三年生以下の子どもがいる家庭は不可、身分証明書とマンション住まいの場合はペット飼育許可証の提示要、飼育環境確認のため自宅訪問可であること、玄関とすべての窓に脱走防止の柵を取り付けること、〇〇以上のグレードの餌を与えること、留守番は4時間以内、トライアル中は猫の様子を写真付きで毎日報告すること、適正な時期にワクチンや不妊手術を受けさせ、証明書を写メすること……などクリアしなければならない項目が盛りだくさん。別の譲渡会では、指定の三段ケージやトイレを購入するよう準備物品のリストを渡されたり、猫引き渡しの際に家族全員の立ち合いを求められたりしたこともある。
「猫愛が強いのはわかるけど、ハードルを上げ過ぎたら里親に応募できる人が少なくなって、結果的に幸せになれる猫が減ってしまうのにね」
と言うのは、長年猫を飼っている友人だ。フリーランスで仕事をしているが、収入が安定していないとみなされ、譲渡を断られたことがある。
たしかに一理ある。保護団体からのこまごまとした要求に嫌気がさし、結局ペットショップから猫を迎えたという人の話も聞いたことがある。
しかし、たとえばジモティーの里親募集のコーナーには、「募集に至ったやむを得ない事情」欄に「この春社会人になり、犬の世話が難しくなったため、かわいがってくれる人を募集します」とか「結婚が決まり引越すため、猫を手放すことになりました」と書かれてあるのが容易に見つかる。ACジャパンのコマーシャルによると、一年間に保健所に収容される十万匹の犬猫のうち、十五パーセントが飼い主からの持ち込みだという。
里親希望者をときにうんざりさせるほど細かい注文がつけられるのは、そのときの状況、そのときの感情だけで「飼える」と判断する人がそれだけ多いということだ。

知人の話に戻る。いまは夫婦ともに健康で、夫の収入があり、孫は「僕がせっせと通って世話をするから!」と言うかもしれない。しかし、その状況が十年後もつづいているか。
「この年齢から飼い始めたら、犬の寿命が来る前に体力的、経済的に飼育困難になる日が来るかもしれない。そのときは引き受けてもらえるか息子夫婦に相談してみよう」
「十年以上生きる犬をいまから飼うのは難しいかもしれない。でも犬ってかわいいもんだな。じゃあシニア犬ならどうだろうか」
などと思案するプロセスが必要なのだ。
最後まで面倒をみられるのかという点について慎重になってなりすぎることはない。五十万の衝動買いはちっともかまわないが、命の衝動買いはあってはならない。
外出自粛期間中、保護犬、保護猫の譲渡や保健所への問い合わせが増えているという新聞記事を読んだ。在宅時間が長くなり、癒やしの対象を求める人が増えたことが背景にあると書かれていたが、そのうち「コロナの影響で収入が減り、飼いつづけることができなくなりました」「出張が再開し留守番が長くなってかわいそうなので、手放すことにしました」といった書き込みがジモティーにあふれるんじゃないかと気がかりである。



上記のテキストを書いたのが、昨年の6月。文末に書いた「気がかり」は当たってしまった。
先日ネットニュースで、「コロナ禍によるペットブームの陰に“飼育放棄”」という記事を読んだ。安易に飼い始めたことから捨てられる犬や猫が増えているという内容で、もう本当に情けない。

【あとがき】
GACKTさんが2月10日に自身のYouTubeチャンネルで公開した動画「GACKTが愛犬を里子に出しました」が話題になっていますね。私も見ました。そして驚きました。
知人から、十数年間ともに暮らした犬を亡くした妻の落ち込みがひどく、自分で新しい犬を買うことができないという話を聞いて、「GACKTから、ということだったら妻は断れない。立ち直るきっかけになるのでは」と知人に提案し、サプライズで妻へ犬を贈ることにしたという内容ですが、その発想も実際の行動も私には理解困難なものでした。
悲しみが深すぎて、まだ新たな犬を迎える気持ちになっていない人に、「GACKTから無理やり犬をもらう」形にしてまで“代わりの犬”を飼わせる必要がどこにあったのか。動物の一生は飼い主にかかっている。このことを知る人は、動物を飼うことをそう簡単には考えられないはず。心の準備もできていないのに、突然「はい、どうぞ」と“命”を託されたら、どんな犬好きでも、いや犬好きだからこそ戸惑うだろう。そういう妻の心情を考えたのだろうか。
……などと思うところを書いていったら、たちまち一本のテキストになりそうだ。
GACKTさんはなぜ、自分の愛犬をプレゼントしたのでしょうね。本当に不思議。


2021年02月10日(水) 「常識」の点検

誰かの話にふんふんと相槌を打とうとして、急ブレーキを踏むことがある。相手がさらりと口にしたことの中に、自分の感覚や常識との相違を感じたときだ。
相手はこちらがそんなところにひっかかりを覚えたとは思いもせず、話をつづけている。しかし、私は心の中でその違和感の正体を探らずにいられない。

先日あるエッセイを読んでいて、そういうことがあった。まず、こちらのテキストをお読みいただきたい。
「読んだけど、これがどうかした?」という方は逆に、これから私が書く文章に違和感を覚えるのかもしれない。
上記は女優の鈴木保奈美さんの初エッセイ集『獅子座、A型、丙午。』に収められた一話である。中学生の娘が友人数人と花火大会に出かけたら大雨に降られ、会場近くの友人宅に避難した。その家のママが着替えとビーチサンダルを貸してくれ、「服は洗濯しておいてあげる」と言ってくれたため、娘は濡れた服と靴を置いて帰宅した。しかし夏休みが終わり、戻ってきた靴にはシミとカビが生えていた。お気に入りのスニーカーが二度と履けなくなってしまったと号泣する娘を責めず叱らず、冷静に諭すことができた。母になって十八年目、われながら成長したものだ、という内容だ。
エッセイは軽快な口調でユーモラスに書かれている。鈴木さんの「母の顔」を垣間見て、親しみも感じる。しかしながら、その千二百字余りの短い文章の中に気になる点がいくつもあった。

ベランダでなにやらゴソゴソやっていた末の娘が、真っ赤に泣きはらした目をして部屋に入ってきた。お気に入りの、ナイキのスニーカーがぐちゃぐちゃになってしまった、というのだ。

という冒頭のくだり。そして、その靴が夏休み明けに友人宅から戻ってきた場面につづく。

雷雨騒ぎのさなかにあまりにもビチャビチャで、とりあえずビニール袋に入れて丸めて何気なくお友達宅の玄関の隅にでも置かれていたのであろうスニーカーも、そのままの保存状態で戻ってきたのである。そりゃあ、どれだけ悲惨な状態になっているか見なくても想像がつく。ていうか見たくない。

「ぐちゃぐちゃになってしまった」「そのままの保存状態で戻ってきたのである」「ていうか見たくない」という表現には、意図的かそうでないかはわからないが、鈴木さんの正直な気持ちが表れていると感じる。
鈴木さんは「落胆と怒りでなかばパニックになっている」娘に、そのママの親切に感謝しなくてはならないと言って聞かせている。「お友達もお友達のママもちっとも悪くない。」と。しかし当の鈴木さんの中に、「干しておいてくれたら、こんなことにはならなかったのに……」という思いは一ミリたりともなかったのだろうか。まったくなくてこういう文章になるだろうか、と私は考えずにいられない。
「預かってもらってたスニーカー、濡れたまま保存されてたものだからシミとカビでぐちゃぐちゃになってたの。私と渋谷まで買いに行ったお気に入りの靴だったから、娘が大泣きしちゃってね」
と面と向かって言おうとしたら、かなり勇気がいるのではないだろうか。私にはけっこうな恨みごとのように聞こえるのだけれど。
そのママがこのエッセイを読んだらどう思うかについて、鈴木さんがまるで気に留めていないように見えるのがとても不思議だ。びしょ濡れの女の子たちを家に上げ、菓子や果物を出し、雨の中大変だろうからと手ぶらで帰らせてくれた優しいママである。「靴も洗っておいてもらえると思わせちゃったのかな……。かわいそうなことをした」とすまなく思うかもしれない。負う必要のない責任を感じさせてしまう可能性を考えたら、私にはこんなふうには書けない。

もうひとつ、わからないことがある。鈴木さんは娘にこう語りかける。

こんなに辛い思いをしたら、もう二度と同じ過ちを犯すことはないでしょう。それが反省するっていうことです。

しかし、鈴木さんが娘のなにを「過ち」とし、反省しなさいと言っているのか、私には読み取ることができなかった。
それほど大切な靴をすみやかに取りに行かず、結果的に履けなくしてしまったことだろうか。そうであるなら、私はこれはむしろ親の落ち度だと思う。
「夏休みが終わり、預けたお洋服が洗濯されて戻ってきた。」という一文から、かなりの期間預けっぱなしにしていたことが窺える。どうやって戻ってきたのかも気になるところだ。鈴木さんは「とりあえずビニール袋に入れて丸めて何気なくお友達宅の玄関の隅にでも置かれていたのであろう」とあっさり言うが、濡れた靴は不衛生だし、玄関が湿っぽくなってうっとうしい。出入りの際の邪魔にもなる。そういう迷惑をかけていることに中学生は気づけないかもしれないけれど、大人もそれでは困る。取り急ぎ電話でお礼を伝えたら、後日できるだけ早く娘とともに服と靴を取りに伺うものだろう。
……と私は思っているのだが、自分の常識はときに他人の非常識。あなたならどうするかと職場で何人かに尋ねてみたところ、やはり菓子折りを持ってすぐお礼に行くと返ってきた。
鈴木さんと同年代の同僚は言う。
「靴を濡れたままにしてたのはわざとだよ。ちっとも取りに来ず、借りたものも返さないから、頭にきたんだよ」
えー、こんなよくできたママがそんなことするかなと言ったら、それだけ気のつくママだからこそそのままにしておいたのはおかしい、と主張する。たしかに、洗うことまではしなくてもせめて乾かしておこうとは私も考えるだろう。あえて「干さない」ことで無言のメッセージを送っているのだ、という分析にはなかなか説得力があった。
すぐに取りに行った靴を娘がいつまでも放置してそうなったのなら、「反省しなさい」はわかる。けれど、今回の場合は親のほうに足りないものがあったのではないか。

とまああれこれ書いたが、どちらが正しい、間違っていると言いたいのではない。
「常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことである」
とアインシュタインは言った。子どもは親から常識や価値観、道徳観といったものをインストールし、それが彼らの“ものさし”になることを考えると、私は自分の中にあるそれらが独りよがりでなく世間で通用するものかどうか、ときどき“点検”しなくてはなと思う。
そして、古くて使いものにならなくなっていたり不具合に気づいたりしたら、ちゃんとアップデートしたい。恥を掻いたり後ろ指を差されたりするのは、自分だけではないから。

出典 : 鈴木保奈美. “母、18年目。まだまだ、道半ば”. 婦人公論.jp. 2020-12-28. https://fujinkoron.jp/articles/-/2924, (参照2021-02-10)

【あとがき】
「そういうものだ」「それが普通」と長年信じてきたことに疑問を持つのは、なかなかむずかしい。それを“点検”するには、人と話したり誰かの書いたものを読んだりするのが一番。web日記でも日々自分と異なる常識や価値観に出会い、あれこれ考える機会をもらっています。