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2004年09月29日(水) カップルシートにご用心

先日、仲良しの同僚七人で中華料理を食べに出かけた。
この食事会は毎月恒例のイベントだ。月末に職場で『ホットペッパー』が配られると、私たちは休憩時間にあたまを突き合わせ、次回の店を決めるのである。
さて、予約時間きっかりに店を訪ねたら、かわいらしい個室に通された。わあ、と小さな歓声が上がる。みな、数ヶ月前の食事会を思い出していたに違いない。串カツ専門店でカウンターに横一列に並ばされ、話しにくいことといったらなかった。
しかし、今日は隣席から流れてくるタバコの煙を気にすることも、「会社の人間、いないでしょうねえ?」とあたりを見回すこともない。扉を閉めれば私たちだけの空間、少しくらい騒いだって平気なのだ。
「同じ値段やったら、ぜったい個室がいいよね」
「そりゃそうよ、得したって思うもん」
飲み物もまだのうちから、大盛り上がりの予感。……と思ったら。うちのひとりが「いや、そうとはかぎらん」と水を差すようなことを言い出した。
彼女が友人の男性と食事に行ったところ、案内されたのは“カップルシート”。背もたれが高く、サイドにも目隠しのための板がついているため、正面以外の三方が塞がれた形になる。
その他人の視線が遮断される個室感覚の空間、すなわち「ふたりきりでいるような気分になれること」こそ、店が考える付加価値なのであるが、ふだん隣り合って座ることなどないふたりは体の側面が密着する位置関係に戸惑い、すっかり調子が狂ってしまったらしい。
「彼の手前、席を替えてとも言えんし、まいったわ。ふたりで来てるからってカップルとはかぎらんのやし、妙な気回さんといてほしい」
聞けば、そこは小洒落た創作料理屋でもムード満点のダイニングバーでもなく、チェーンの安居酒屋だという。デートでこんなとこ使うか!というような店にまでどうしてそんな席があるんだ、と彼女はぷりぷりしている。
なるほどねえとうなづきつつ思い出したのは、最近立ち読みしたグルメ雑誌だ。「デート需要に対応すべく、個室、仕切り系の空間を用意する飲食店が増えている」とあり、すだれや格子戸で仕切られた照明暗めの艶っぽい個室やレースのカーテンが掛けられた甘いラブソファ席の写真が載っていたのであるが、私はそのうちのひとつを見てぎょっとしたのだ。
広々としたフロアに大きな白いベッドがずらりと並んでいる。掛け布団こそないものの枕があるべき位置にはクッションがふたつ、四方は天井から吊るされた布で覆われている。うんとお洒落でゴージャスな「蚊帳」をイメージしていただくと、もっとも実物に近づけるのではないかと思う(参照)。
「い、いったいここでなにをするわけ……」
心臓をばくばくいわせながら読みすすめたら、そのスタイリッシュなレストランでは料理はベッドの足元に置かれた「お膳」に運ばれることになっていることがわかった。
足を投げ出して座るなり横になるなりして家にいるときのようにおくつろぎください、ということなのだが、無駄に想像力がたくましい私は「ただの男友達と適当に入った店が、もしここだったら……」を思い浮かべ、あたふたしてしまった。
こういう空間は人の理性や判断能力といったものを著しく低下させるはずだ。ふだんは馬鹿話しか男性でも「ねえ、膝枕して」なんて甘えてみたくなるのではないか。そして、女性も雰囲気に呑まれて応じてしまうのではないだろうか。
そんなわけで、私たち七人の結論は「それ以上親密になることを望まない男の友人とは個室やカップルシートではなく、オープン席で明るく健全に楽しむべし」というところに落ち着いた。

そこから話は「恋人以外の男性とふたりで会うときに気をつけていること」というテーマに発展。
「あら、そんなこと考えたこともなかったワ」というタブーがいくつも挙げられ、私は驚くやら感心するやらだったのであるが、長くなったのでつづきは次回。

【あとがき】
一緒にいてときめかない相手とはふたりで会おうなんて気になれない私ですが(みんなは「友人なんだから、ときめきを感じさせてくれる相手である必要はない」と断言するけど)、タブーとかそういうことをあらためて考えたことはなかったなあ。もちろん自制はいろいろとしてるけど。ま、そんな機会自体がそうないんだけどね(ちなみに私はそういうときは夫に言って出かけます)。


2004年09月22日(水) 再会

連休の最終日、クラシックのコンサートに出かけた。
三歳からピアノ教室に通い、クラシック音楽に慣れ親しんできた私。J-POPは落ち着かなくてどうも苦手だ。家にいるときのBGMはもっぱらラフマニノフかシベリウスである。
……ごめんなさい。いまウソつきました。
中学を卒業するまでピアノを習っていたのは本当だが、その間にクラシックに開眼したということもなく、いまではすっかり聴く機会を失っていた。ラフマニノフもシベリウスも名前しか知らない。
ではそんな私がどういう風の吹き回しでコンサートなのかというと、日記書きの友人が所属しているアマチュアオーケストラの演奏会があったからである。
歯医者さんの一服」のそうさんとは去年のちょうどいまごろ、私が企画したボウリングOFFに江草さん(「江草乗の今夜も言いたい放題」)が連れてきてくれたのをきっかけに知り合った。以来、貴重な関西在住の日記書き仲間として親しくしているのだ。
当日、私と藤さん(「e*toile」)、さちさん(「flip-flop」)の三人は尼崎のアルカイックホールの一階のど真ん中に席を確保した。やはり彼女たちもボウリングOFFで初めて対面し、意気投合した日記書きさんだ。
照明が当たった大きなステージはまさに“晴れ舞台”。私の人生において最後のそれはいつだったかなあ……なんて思いながら開演を待っていると、隣りの藤さんがささやいた。
「小町さん、あそこに座ってるの、江草さんっぽくないです?」
「え、どこどこ」
「ほら、前のほうの出入り口のところ」
“ぽい”っていうか、モロに江草さんやん!とすかさず突っ込みを入れる。ハンチングにグラサンといういでたちでクラシックを聴きに来る男の人がそう何人もおったら怖いわ。
そうこうしているうちに開演時刻になった。舞台の両袖からタキシードや黒のロングドレスに身を包んだ奏者が入場してくる。八十余名がポジションにつくと壮観。アマチュアとはとても思えない厳粛な雰囲気だ。私たちはすぐにステージ中央右寄りにひときわ背の高いヴィオリストの男性を見つけた。
ドヴォルザークの交響曲第八番とベートーヴェンの交響曲第三番「英雄」。演奏が始まってすぐ、私は自分が久しく生の楽器の音色を聴いていなかったことに気づいた。
スピーカーを通さない楽器本来の音は、火を通したり調味料を使ったりしていない食材そのものの味とでもいうべきか。心地よさにときどき目を閉じて聴きながら、そういえば“classic”には「古典的な」以外に「一流の」とか「最高水準の」といった意味もあったなあと思い出した。
文学でも美術でも、時を越えて受け継がれるものには理由がある。クラシックは私のガラじゃないと長らく敬遠してきたが、初めてきちんと聴いてみたら、それがわかるような気がした。
うんと上質な二時間を過ごし会場を出ると、ロビーで仁王立ちする江草さんを発見。お目にかかるたび違うハンチングをかぶっておられるけれど、いったいいくつ持っているんだろう?なんてことを思いながら、一緒に楽屋を襲撃しましょうよとお誘いする。
そうさんは楽屋まで押しかけた私たちに驚くやら感激するやら。でも、実は私も負けないくらいうれしかったのだ。オフ会の後それっきりになっていてもちっともおかしくないのに、五人がこういう形で一年ぶりに再会できたことが。
その後梅田で女三人、飲んだり食べたりして四時間大いに盛りあがる。二度、三度と会っていると、日記だけでなく仕事や恋愛といったプライベートなことまで語り合えるようになるから、話が尽きない。
オフ会は一瞬のうちに跡形もなく消えてしまう花火のようなもの。だけど、そのとき一緒に空を見上げた人たちとその後もこうしてつながっていられることを、私はとても幸せに思う。
ああ、いい一日だったなあ。

【あとがき】
奏者が楽譜を二、三ページいっぺんにめくってあたふたしたり、指揮者が勢いあまってタクトを空に投げたりしないものかと思って見ていたけれど、そんなことはもちろんなかったですね。でも、ヴァイオリンの弦が切れたりすることはたまにあるらしい。では本番でそういう事態が起きたらどうするのかというと、ステージの奥の方向に向かってバケツリレー方式で隣りの人に自分の楽器を渡し、一番端の人には舞台の袖から代替のものを渡すのだそうだ。私はてっきりクロコみたいな人がさささっと、弦が切れた人に渡しに行くのかと思いましたよ。


2004年09月17日(金) 余分なエクスキューズ

私はいま仕事をふたつ掛け持ちしている。そのうちのひとつが、ある会社のコンタクトセンターでの電話の仕事なのだが、昨日は朝礼中に思わず「ひえー」と声をあげそうになった。上司が突然こんなことを言ったのである。
「テレコミュニケーション能力の向上を図るため、先日みなさんの会話の抜き打ちテストをさせてもらいました。その結果が出ましたので、午後からミーティングを行います」
上司が私たちテレコミュニケーターの会話を録音したものを定期的にチェックしていることは以前から知っていた。「この場合、この回答では不十分」とか「この言葉はクレームにつながる恐れがある」といった指摘を後日受けることがあるからだ。顧客との会話中に「あ、いま聞かれているな」とわかることもある。
しかし、今回の抜き打ちテストはそういうのとは違う。専門の会社に録音テープを渡し、各人のスキルの分析を依頼したというのである。
業務中の私語や机の下で足を組むことにまでダメ出しする会社なんて、ここくらいのものだ。かなりきっちりしたところだと思ってはいたが、そこまでするのかと私はすっかり驚いてしまった。
テレコミュニケーターは百人以上いるため、私たちは十人ずつのグループに分けられた。ミーティングは、メンバーの会話をひとり分ずつテープで流し、改善すべき点について時計回りに意見を述べていく。その後、上司が調査会社からの評価を読みあげる、という形式で行われたのであるが、どういうわけかトップバッターは私。
「口調は丁寧だが、事務的な印象を受ける」「早口。もう少しゆっくり話すように」など数々の指摘を受けたのであるが、今日はその話は置いておこう。
そんなわけで、真っ先に終わった私はミーティングの残り時間をお気楽に過ごすことができたのであるが、だからだろうか、誰かのテープを聞いての感想をみなが順番に言っていくのを聞きながら、あることに気がついた。
「語尾が伸びている」
「いま電話で話せるかどうかの確認をしていなかった」
「『ちょっとお待ちください』ではなく、『少々』にすべき」
といった指摘をするとき、みなが必ずといってよいほど「これは私もしょっちゅうやってしまう失敗なんですが」と前置きをしたり、「そうしてしまう気持ちはすごくよくわかるんですけどね。というのは私もそうなんで」を付け加えたりすることだ。
会議で発言を求められたときに「みなさんの意見と重複するんですけど」とか「素人考えかもしれませんが」といった前置きをする人がよくいるけれど、余分だなあといつも思う。誰と同じであろうが浅知恵であろうが、自分の意見は「それ」なのだからそんな断りはいらないのに。
このミーティングにしてもそう。その人のスキルがアップするよう直すべき点を挙げていこうという場であるから、発言者がそれを実行できているかいないかということは問われない。むしろ自分のことは棚に上げておくべきだろう。
「『えー』とか『あのー』が多かったのでは」
「電話番号の復唱を忘れてましたね」
くらいのことにフォローが必要とも思えない。それでも、メンバーの多くが「ほんとは人のこと言えた義理じゃないんですけど」のアピールを忘れないのはどういうわけか。
どんなにささいなことであろうと、誰かに「ここはよくなかった」と指摘するというのはこんなにも気を遣うことなのだなあ、としみじみ思った。

最近、酒井順子さんの『たのしい・わるくち』という一冊のエッセイを読んだ。
この方の魅力は人間観察の鋭さと物事を一刀両断に「二分化」してしまう度胸にあると思っているのだけれど、彼女の書いたものを読んでいて、もの足りなさのようなものを感じることもときどきある。
誰か(「女」であることが多い)についてさんざん皮肉ったあとに、「しかしこんな意地の悪いことを考えるのは、本当は私が心の中では彼女たちに憧れているからなのです」というふうにつづくからだ。
つまり、「人をこき下ろしているように見えるけど、実は同じ穴のムジナである自分の“イタさ”を笑っている」というのが酒井さんの文章のスタイルと言えるのであるが、私はそうと納得しつつも、この「実は私も同類なのです」的なフレーズがなければもっと面白く読めるのになあ、とよく思う。遠慮やおもねりが垣間見えるようで、いつもそこでちょっぴり萎えてしまうのだ。
しかし、作家というのは人気に左右される商売だから、書けること書けないことについてはいろいろとあるのだろうな。『負け犬の遠吠え』も、酒井さん自身が“負け犬”だったからこそ書けたわけだし。
「実は私も……」がなくては可愛げがなくて読めたもんじゃないと思う読者もいれば、私のようにそこまで辛口に書くのならとことん潔くあってほしいと思う読者もいる。
「人について語る」というのは本当にむずかしい。

【あとがき】
とくに会議の席でへたな前置きをすると、自信なげに見られて通る意見も通らないってことがありますよね。それは損だなーと思うわけです。それと、私はまどろっこしいもの言いが好きじゃないんですね。一日に何度も耳にする「○○してもらってもいいですか?」という言い方も苦手です。


2004年09月15日(水) そこが女の可愛いところ

前回のテキスト「指輪コンプレックス」の中で、私はこう書いた。
「もちろんどこに出しても恥ずかしくない素敵な指の持ち主もたくさんいると思うけれど、『サイズは内緒』という女性も決してめずらしくない。これをお読みの男性の中にも、指輪をプレゼントしたいのになかなかサイズを聞き出せず、苦労した覚えがあるという方は少なくないのではないだろうか。」
これについて何人かの男性からメールをいただいたのであるが、私はかなり驚いた。なぜなら、サイズを探るのに骨を折ったという証言がただのひとつもなかったからだ。
そして、彼女の指輪のサイズをどうやってゲットしたかという私の問いに集まったのが、「ふつうに訊いたら教えてくれた」「一緒に買いに行ったときに店頭で測った」というノーマルな回答ばかりだったことには、ちょっぴりがっかりも。
「指輪をプレゼントしようと思ってることがバレちゃうから、直接は訊きたくない」という人はあまりいないようだ。ふうん、男性ってそのあたりでのロマンティックやサプライズは求めないものなのね。
いや、そういう私も「指輪はぜったい私に好みのものを選ばせて!」な現実派なのだが、しかしひとつくらい、
「寝ているあいだにタコ糸で測ろうとしたら、寝ぼけていた彼女に蹴っ飛ばされた」
といったハートフルなコメントがあってもよいではないか……ブツブツ。
さて、今回メールをくださった男性の方々は見事に異口同音にこう言った。

過去、女の人に(ごくごく安物のちゃっちい奴も含めて)3、4度くらいは指輪をプレゼントしたことがあるように思うけど、そのいずれも指のサイズで恥ずかしがられた記憶がない。
してみると、彼女たちは僕の知らないところでなにかしら葛藤していたのだろうか。


再び、「えー!」と声をあげる私。
恥ずかしがる女の子はいなかったって?いや、そんなはずはない。私の感覚では、指輪コンプレックスの女性は四人にひとり、なのだ。
気にしているからといって、彼女の指が現実に他の女性のそれよりも節くれだっていてゴツイとはかぎらない。ちっとも太っていないにもかかわらず、女性が年中無休で体重を気にしているのと同じカラクリだ。
いま自分が手にしているものの価値を低めに見積もってしまう、現状に納得することができない。そういう気むずかしさ、自信過剰なところが女には往々にしてあると思う。

あなたが片手分の女の子と付き合ったことがあるのに「そんなコはいなかったけどなあ?」とつぶやくとしたら、もしかしたらそれは彼女の“恥じらい”を見落としていたという話かもしれない。
ためしに私は今朝、夫に尋ねてみた。エンゲージリングを買った店でサイズを測るとき、私が恥ずかしがっていたことに気づいていたか、と。彼はブンブンと首を振った。
そう、世の中には私のように、毅然とした態度でもじもじする女もいるのだ。
「指輪がほしいと騒いだあげくに、買ってもらったあとにサイズを気にしてまた騒いでいたら、そんなくだらないことにこだわるなんて、と彼氏に心底あきれられました。でも、七号とか少なくともひと桁だったらよかったなとやっぱり思います」
私が勝手に「小柄でシャイ」なイメージを抱いている、年下の女性日記書きさんからいただいたコメントだ。こういう話を聞くと、微笑ましくて目を細めてしまう。
林真理子さんは恋人から指のサイズを尋ねられたとき、うんとサバを読んで教えたため、プレゼントされた指輪は小指にも入らなかった。彼女はもちろんそれをこっそりサイズ直しに出すのであるが、その際にもまた見栄を張ってしまい、結局ジュエリーボックスの肥やしにしてしまったそうである。
自分からねだってもらっておきながら「もっと細い指がよかった」と嘆いたり、サイズ直しの場面でまで見栄を張らずにいられない心理は、男性には理解されないかもしれない。しかし、私はこういうところこそが女の可愛さ、いじらしさであると思っている。

最後に、メールで「指輪コンプレックス」をカミングアウトしてくれた六人の女性の声を代弁してくれるテキストに出会ったので、ご紹介したい。

「指輪のサイズを測る」という行為すらした事がありません。あまりのコンプレックスっぷりに、触れる事すら出来ない。知りたくない。その辺で売ってる指輪を「あー。これ可愛いー」とか言ってためらい無く指に持っていける人なんて脅威。何でそんな事が出来るんですか…!


サイズを測るなら、寝てるうちに測ってそれを教えないで!と思うんです。
(サイズを教えられると「辱められた…!」と思ってしまうのです。)


二の線もある域に達すると三枚目の風味が混入するように(叶姉妹が好例だ)、悲壮感というものも極めるとユーモラスな色彩を帯びるのだ、という発見をした……なんてことは置いておいて。
「そんなこととはつゆ知らず」だった男性にはぜひ彼女たちの“(愉快な)恐怖”を知り、女心というものを勉強していただきたい。

【あとがき】
「指が細すぎるのも不都合が多いんですよ」というメッセージをいただきました。彼女は薬指が7号なので、リングの内側に「○○より○○へ愛を込めて」的なメッセージをフルネームで入れることは不可能なのだそうです。「せめて9号(分の長さ、というか面積が)ないと無理」と言われるとのこと。加えて、彼女は小指のサイズがなんと0号!ピンキーリングなどぜったいに売っていないらしい。
ほえー、そんな悩みがあったとは。なんでもホドホドがよいってことですね。


2004年09月13日(月) 指輪コンプレックス

スポーツクラブのプールサイドの床に指輪を見つけた。ピンク色の石をあしらったハートのモチーフが指の上で揺れるデザイン。若い女の子が好みそうな、とても可愛いスウィングリングだ。
塩素にやられないようにと誰かが外したものが転がったのだろうか。それとも、顔でも洗っているときに抜け落ちたのか。あたりを見渡してみたが、“ナニワのおかん”風の女性がひとり、水中ウォーキングをしているだけである。もう少し泳ぐつもりだった私は拾いあげたそれを洗面台の上に置こうと手を伸ばした。
が、ふと思った。
「こんなに甘い指輪を自分では買わない」
私はそれをそっとタオルに包んだ。
指輪をフロントの女性に預けてクラブを出たあと、私は落とし主を想像してみた。小さな指輪だった。やっぱり、抱きしめたらぽきんと折れてしまいそうな感じの華奢な女の子なのかしらん。あのくらい指が細かったら、彼に「サイズは?」と訊かれてもすんなり答えられるだろうなあ。

男性は知っているのだろうか。世の中には指にコンプレックスを持つ女性が少なくないことを。
「愛の証の指輪はほしいけど、彼と一緒に買いに行くのは嫌」と言う女性は、私のまわりに驚くほど多い。
エクボのある赤ちゃんのようなぽっちゃりした手をした友人は、店頭で何の気なしに試着した指輪が抜けなくなってしまったとき、恋人にそれを知られたくないばかりに「これ、気に入っちゃった!」と大騒ぎして買ってもらったのだそうだ。
また別の友人は、指輪を買いに行くときにははめる予定の指にハンドクリームをたっぷりすり込んでおくのだと言った。もちろん指の滑りをよくするためである。
見栄を張ってワンサイズ下のものを選んだけれど、どうにもこうにも窮屈で、後日こっそりサイズ直しに出した……という話も聞いたことがある。
実を言うと、私にとっても指はちょっとしたウィークポイントだ。中学、高校と部活のトレーニングで日常的に指立て伏せをしていた私の指は男性にためらいなく「○号よ」と教えられるほどしなやかではない。
以前、職場に薬指のサイズが五号という女性がいたが、彼女の指輪は私にとってはピンキーリング。指輪は大好きなので、男性とジュエリーショップに行く機会は過去に何度かあったけれど、そのたび照れくさいというのとはまた別の恥ずかしさを感じたものだ。
「生まれたままの姿まで見せた相手なのよ。指のサイズを知られることくらい、どうってことないじゃない」
そうは思えど、そろそろ店員さんがサイズゲージを取り出してくるなと感じると、彼に「トイレ、あっちにあるよ」なんて言いたくなった。あまりに唐突なものだから、きょとんとした顔で「いや、べつに行きたくないし」と返されるのが常だったけれど……。
おそらくおおかたの男性はこんな女性の心の内を想像したこともないだろう。
林真理子さんはエッセイの中で、「男の人に指のサイズを知られるくらいなら、その場で薬指を噛み切って死んでしまいたい」と書いている。ティファニーやブルガリといった店の前で恋人から買ってあげるよと言われたときも、「私、なにも欲しくない、本当にいらないの!」と叫んだというから、あながち冗談でもないだろう。エンゲージリングも夫と一緒にではなく、ひとりで選んできたのだそうだ。
もちろんどこに出しても恥ずかしくない素敵な指の持ち主もたくさんいると思うけれど、「サイズは内緒」という女性も決してめずらしくない。これをお読みの男性の中にも、指輪をプレゼントしたいのになかなかサイズを聞き出せず、苦労した覚えがあるという方は少なくないのではないだろうか。

若かりし日の私も恋人をてこずらせる、そんな彼女のひとりだったわけだが、しかし一度だけ、おとなしく彼にサイズを“測らせた”ことがある。
私の二十二歳の誕生日の少し前。ふたりで講義を抜け出して、大学近くの喫茶店でお茶を飲んでいたときのこと。向かいに座っていた彼がおもむろに私の左手を取り、自分のほうに引き寄せた。人前でのスキンシップを嫌がる人なのにめずらしい、と目を丸くしていたら……。
彼はアイスコーヒーのストローの袋を私の薬指に巻きつけたのだった。

【あとがき】
彼の思惑はすぐにわかったけれど、私はうれしくて、ニコニコして測られていました。でも、私は指輪は自分に選ばせてほしいと思うほうなので、京都の高島屋に一緒に買いに行きましたよ。そのとき贈られた指輪を私はとてもとても大切にし、彼と別れた後も長い間、「いつか帰ってきて」の願いを込めて、細いチェーンに通してネックレスにして肌身離さず身につけていました。
ピンクサファイアにメレダイヤをあしらったその指輪は、私にとって代わりのきかない彼の存在そのものだったんです。


2004年09月10日(金) 「小町さんってA型でしょ?」

三ヶ月前に結婚相談所に入会した年上の友人であるが、依然として成果があがらないらしい。
「月に何度も開催されると聞いていたカップリングパーティーが応募者多数のために毎回抽選で、ちっとも参加できない」
「相手に望む条件の中の身長と出身大学を“不問”に変更したのに、四十歳になったとたん紹介数が減ったような気がする」
という愚痴はしばしば聞かされていたのだけれど、最近彼女は新たな“敗因”を見つけだしてきた。プロフィールに問題があるのではないか、と言うのである。入会時に相性のいいパートナーのタイプを見極めるためのカラー心理テストをやらされたのだが、その診断がことごとく当てはまっていなかったらしい。
「自分の活動分野を広げることに意欲的で、目標に向かって突き進むタイプ。困難や障害にも果敢に立ち向かう強さを持っています」
というコメントがプロフィールに記載されていると聞き、そりゃあまずいね、とうなづいた私。それは少なからぬ男性を怖じ気づかせるであろうし、なにより彼女はその評価とはねじれの位置にいるといっても過言ではないタイプの女性なのだ。もし、気の強いキャリアウーマンをイメージさせるこのコメントに“ビビビ”ときて(古いか……)アプローチしてくる男性がいたとしても、話がうまくまとまるとは思えない。
しかし、結婚相談所のカウンセラーは「このテストは世界的に有名な心理学者が開発した信頼度の高いものであり、あなたは気づいていなくても、深層心理にはたしかにそういう部分が存在するということなんですよ」の一点張りで、コメントを変更してくれないという。
「自分さえ認識できてない面まで“私”に含まれるわけ?」と彼女が困惑するのはもっともだ。心理テストの結果といえども、手元に届いた男性のプロフィールに「主体性に乏しく、人の言動に左右されやすいタイプです」なんて一文があったら、私なら敬遠してしまいそうだ。

雑誌にはよく性格診断系の心理テストが載っているが、私はむかしからこの手のものに興味がない。
YES・NOを指でたどっていくだけの簡単なフローチャートなら一応やってみるけれど、自分で点数を集計しなくてはならないようなものは確実にパスだ。「当たっていようがいまいが結果を面白がる」という遊び心がないらしく、したがって「女の子」と呼ばれた時代にも占いには見向きもしなかった。
しかしながら、こんな私にもひとつだけ、「そうバカにしたものでもない」と思っているものがある。血液型による性格分類だ。
一般的に、A型は几帳面で完璧主義、B型は活発でマイペース、O型はおおらかで優しい、AB型は合理的でクールと言われているが、友人知人を見ていてもなるほどと思うことが多い。また、私が過去にお付き合いした男性は全員A型であるという事実にも、血液型と気質のあいだになんらかの関係があっても不思議ではないと思わせるものがある。
さてここで、じゃあ私は何型かという話になるのであるが、ある界隈の人たちからは「A型でしょ」と言われることが多い。
ひとつは職場の同僚。彼ら曰く、「文字からしてA型」なのだそうだ。ふうーん。
そして、もうひとつが日記の読み手の方だ。どうしてそう思われるのかについてはだいたい見当がつく。書くことに関しては癇症なところがあるという話を何度となくしてきたからだろう。以前、このサイトをリンクページに加えてくれた日記書きの友人から、
「タイトルは“思う”でなく“思ふ”で、その後ろはひとマス空けて、最後の点は三つ。よし、完璧!……って確認したから大丈夫だと思うけど、一応見ておいてね」
と言われたことがある。えらいおおげさやなあと笑ったら、「だって小町さん、そういうところ気にしそうなんだもん」と彼。私はひえーと声をあげ、「私がふだん『誤字脱字や固有名詞の間違いが許せない』と言っているのはあくまで自分の書いたものについての話なんだってば!」とあたふたしたのであった(……と書いても、いまあわててリンクページを見直している方が何人もいそうだ)。
また、私の書いたものに対する愛着の強さにも、A型気質を感じさせるものがあるのかもしれない。アップしたら最後、もう読み返すことはないという書き手も多いようだが、私は何度でも繰り返し読んでは容赦なく手直しを加える。その作業の中で、賽の河原に石を積んでいるような感覚にとらわれることもしばしばだ。
私は以前、前回のテキストを過去ログに移す前に最新のものを上書きし、更新してしまうという失敗をしたことがある。
私にとってweb日記関係の出来事でログを喪失するほどつらいことはない。しばし呆然としたあと、猛然とキーボードを叩きはじめた私は、数十分後にできあがったものを読んで驚嘆した。完璧に近い形で復元できていたからだ。
電車の中などで手帳に貼り付けたプリクラを飽きずに眺めている人を見かけるたび、そんなに自分の顔を見てなにが楽しいのだろうと思っていたのだが、これだけの長文を、しかも二日前に書いたものを暗記しているほど読み返している私もまるで同類なのであった。
で、私の血液型だけれど。
正解はB。誰も興味ないだろうとは思ったけれど、ま、話の流れってやつよ……。

※参照過去ログ 2004年1月30日付 「賽の河原に石を積むような」

【あとがき】
日本人でもっとも多い血液型はAだけれど、四割に満たないのだから、私の場合、数人はOやBの男性がいるはずなのです。それなのに全員見事にA。おまけで言えば、全員長男(もっとも、この世には次男、三男より長男が多いわけだけど)、かつ学生時代はゼミの委員長やサークルの会長してました、という人でした。
好みのタイプは?と訊かれて、「いま好きな人がタイプかな」と答える女性がよくいるけれど、私の回答にはなりえません。性格はそれぞれ違うけど、共通するものはしっかり存在します。実生活でそういう男性を見つけると、「アラ、○○さんて私のストライクゾーンど真ん中ですよ。厄介なことになると困るから、私にあんまり近づかないでくださいね」とか言って相手を怯えさせるのが好きな、悪趣味な私です。


2004年09月08日(水) 約束の残骸

新聞の投書欄で、六十六歳の男性が書いたこんな話を読んだ。
四十数年前、中学校に勤務していた頃のこと。美人でポニーテールがよく似合う、同僚の家庭科の先生に憧れていた。ある日、家庭科室の前を通ると茶碗蒸しのにおいがする。お、調理実習かと思いながら職員室に戻ると、なんと机の上に茶碗蒸しが。添えられていた割り箸の包み紙の裏に書かれた小さな文字を読み、跳び上がって喜んだ。デートの申し込みだったのだ。

その日は雨だった。信号待ちをしている私の前を、救急車がサイレンを鳴らして横切った。不吉な予感。書店前に行くと、消防と警察の人が事故の処理のため慌ただしく動いていた。被害者はポニーテールの若い女性という。病院までタクシーを飛ばした。案内されたのは何と霊安室。彼女は帰らぬ人となっていた。
幻に終わった初デート。日時をしたためた包み紙は結婚した今も大切に持っている。すでにセピア色だ。


この男性はきっと死ぬまでこの記憶を手離すことはないだろう、と思った。今日まで箸袋を捨てられずにきたように。
果たさなかった約束、果たされなかった約束というのはいつまでも消えることなく心に残り、ふとした拍子に鈍痛をもたらす。私はふと、俵万智さんのエッセイを思い出した。
コンビニの惣菜コーナーで、ほうれん草の白和えが目に留まった。

白和えを作ってあげる約束のこと思い出す別れたあとで


洋風の料理ばかり作る俵さんに、あるとき恋人が「たまには白和えとか、食いたいなあ」と言った。彼女は「うん、じゃあそのうちにね」と答えたけれど、約束を果たすよりも先に別れが訪れた。
「いまとなってはもうなんの意味もない約束。だけど、私がこうして思い出すことがあるように、彼もまた白和えを食べるとき、なにかしら心が揺れたりはしていないだろうか……」

私の中にも、やっぱり「白和え」は存在する。
ともに社会人になった同い年の彼の配属先は関西支社ではなかった。大阪を発つ直前、彼は私に言った。
「二年、待ってな」
難波のえびす通りのファーストキッチン、二階窓際のあの席で。
もう十年も前の話。たとえふたりがいまも独身であったとしても、とうに時効になっているであろう約束だ。それでも、私は街を歩いていてあの白地に赤の三角形のロゴを見かけると、いまだに胸がちくんとする。そして、「ウソツキ……」と小さくつぶやく。
もはや恨み言では、ましてや未練などではない。ただ、ちょっぴりイジワルしたくなるだけのこと。だから、MA-1を着た二十二歳の男の子が困った顔をしているのが目に浮かんだら、私は「ま、いいけどさ」と投げ遣りに言い、思い出の蓋をバタンと閉じる。今度また、その店に出くわす日まで。
男と女のあいだで交わされる約束は、実現の見込みを失っても破棄されることはない。ただ放置されるだけ。だから、中身はすでに空っぽでも、容器----約束をした、という事実----は心の中に残る。それは風が吹くたびにカラカラと音を立ててそこここを転がり回るから、忘れようにも忘れられない仕組みになっている。約束の残骸にはそんな残酷さがある。
しかし、私は思う。たとえ果たされぬまま期限切れになったとしても、誰かと約束ができたというのは留保なく幸せなことだったと言える、と。
過去に向けて予定を立てる人はいない。未来に何事かを誓うのだ。それは少なくともその時点では、ふたりのあいだに「ともにある」と信じられる将来がたしかに存在していたということなのだ。
「一緒に暮らそう」なんて大それたものではない。「一週間休みを取って、どこか連れてって」なんてワガママなものでもない。白和えをリクエストするのと同じくらいささやかでたわいのない望みさえ保証されることのない恋だって、この世にはあるだろう。
約束というより「お願い」に近い私の最後の言葉、忘れずにいてくれているだろうか。祈るような気持ちでその人の今に思いを馳せることがある。

【あとがき】
果たされなかった約束がいつまでも忘れられないのは、実らなかった恋、叶わなかった願いが甘く切なく心に残りつづけるのと同じですね。


2004年09月06日(月) 女に生まれたからには

JR大阪駅のショッピングモールに通じる地下道に、神田うのさんプロデュースのランジェリー&ストッキングのブランド『トゥシェ』の広告がある。
黒のブラジャーとショーツ、ガーターベルトデザインのストッキングというセクシーな下着姿のうのさんがポーズを取っているのであるが、その自信に満ちた表情からはいまにも「アタシ、どう?」という声が聞こえてきそうだ。
その三メートル×三メートルくらいの巨大なカラーコルトンの前を通るたび、立ち止まらずにいられない私。そして気がつけば、いつも同じことをつぶやいている。
「そりゃあこんなカラダしてたら、怖いもんなしだよねえ」
新作コレクションのとき、報道陣の「この姿を見せたい男性は?」の質問に、彼女は「もったいなくて見せられな〜い。うのは値上がりしたの、だから“安売り”しな〜い」と答えていたが、この下着を身に着ければさえ誰にでも言えるというセリフではない。
性格と外見には密接な関係がある。彼女の「お金持ちが好き」と公言してはばからないあのキャラクターは生まれついてのものではなく、自分のルックスを意識した瞬間に芽生え、培われてきたものであるに違いない。
林真理子さんがエッセイの中で、「もし神田うのちゃんの顔とボディになれたら、してみたいこと」として、「嫌いな女の恋人を誘惑する」というのを挙げていた。ある日彼を呼び出し、じっと目を見つめて、こう言うのだそうだ。
「私、あなたが○子の恋人なんてイヤッ。すごくイヤ!私を今すぐ抱いて。そして○子と比べてみて。それから考えてくれればいいわ」
おおかたの女の辞書にはこんなセリフは載っていないだろう。やったとしても、相手の男に首をかしげられ、無言で立ち去られるのがオチだ。ふつうの女にはできない、あるいは許されないことが、非凡な美を備えた女にはできる、許されるということが、この世にはわりとたくさん存在しているような気がする。

最近、黒木瞳さんの『夫の浮わ気』というタイトルの一冊のエッセイを読んだ。その中に、妻の料理がまずいと文句を言う同僚に黒木さんの夫が「おまえ、作ってもらえるだけでも感謝しろ。味なんかその次だ」と答えた、というエピソードが出てくる。そう、黒木さんは自宅で料理をあまりなさらないのだ。
私はそのことについて、「仕事で帰りが遅いから」という理由だけではないだろう、と想像している。以前雑誌のインタビュー記事で読んだ、彼女の言葉を思い出す。
「体の弱いヒロインを演じていて倒れたシーンで、自分の手を口元に持っていったらタマネギくさかった。前の晩に料理したカレーライスが原因だとわかった瞬間、家事をやってはいけないと思いました」
「結婚しても主婦は嫌。女優であることが人生のプライオリティー(優先順位)の第一位」と言っていた人である。結婚後に書かれたそのエッセイに「料理はたまに」とあるのを読み、私はすっかり満足してしまった。
世の中には残業やら出張やらで、黒木さんと同じくらい家を留守にしがちなキャリアウーマンの妻というのはいくらでもいる。しかし、彼女たちは夫や家族から家にいるときの家事も免除されているだろうか。「私が存在していること自体が、(夫に)尽くしているっていうこと」という黒木さんの有名な言葉は、忙しさの度合いや稼ぎの多い少ないではなく、あの類いまれな美貌があってはじめて口にできるものだと思う。
テレビや雑誌を見ていると、「女に生まれたからには、一生にいっぺんくらい言ってみたいものだなあ」とうっとりしてしまうセリフに出会うことがある。うのさんの「もったいなくて見せられな〜い」や、黒木さんの「私が存在していること自体が……」にもため息が出るが、藤原紀香さんが『昔の男』というドラマの中で叫んだ「どうせ私は顔と体だけの女よ!」なんかもすごく羨ましい。そんなことを口にすることが許される女がいったいどれだけいるだろうか。
という具合に、「憧れのセリフリスト」にラインナップされているのはどれも、私が言ったら即座にグーで殴られそうなものばかりなのであるが、先日好機が訪れた。
週末はオートバイ屋に入り浸り、夜まで帰ってこない夫に、私は目を伏せ、言ってみたのだ。
「うさぎって寂しいと死んじゃうんだよ……」
ご存知、『ひとつ屋根の下』の酒井法子さんのセリフだ。さあ、夫よ、どうくる!
「え、うなぎがなに?」
いくらドラマを見ていないからってひどい。まあ、私がやるとこんなもんです。

【あとがき】
仕事帰り、駅で自動改札機のひとつに蓋をするような形で別れのキスをしている若いカップルを見ました。みな黙って隣りの改札機を使っていたけれど、もしあれが中年の男女だったら、とうに突き飛ばされているのではないかしら。人間は外見ではないとか、物事は中身で判断すべし、なんて言うけれど、若さや美しさといった「見た目のよさ」によって許される、大目に見てもらえるものというのもこの世にはたしかに存在するのだ、と思った私です。
ところで、女優の有名なセリフといえば川島なお美さんの「私の血はワインでできてるの」がありますが、これはさすがに無理です。


2004年09月03日(金) 「ある日記」とする理由

少し前の話だ。ひさしぶりにメッセンジャーを立ち上げたら、ある女性日記書きさんが声をかけてくれた。
「実は、すっごく嫌なことがあったんですよ」
なんでも、彼女が書いたある日のテキストに言及している日記を見つけたのだが、内容がとても感じの悪いものだった。反論のみならず彼女の人間性を否定するような言葉まであったため、実に不愉快な気分になったということであった。
「で、その書き手とは話したの?」
「いいえ」
「そっかあ、文中リンクの連絡もなかったんだ」
「いえ、リンクはされてないんですよ」
「え?」
さらに詳しく聞いてみると、名指しで書かれたのではないとのこと。日記名は明記されておらず、自分の文章が引用されていたわけでもない。しかし、あれはぜったいに私のことだと思うと彼女は言った。
私はその日記を読んでいないので、「うん、たしかにあなたのことだろうね」なのか、「思い過ごしじゃないかなあ」なのかはわからない。が、リンクが張られていなかったと聞いて、それを確かめる意味はあまりなさそうだと思った。なぜなら、どちらであっても私が掛ける言葉は同じだから。
日記書きのモチベーションがすっかり下がってしまったという彼女に問う。
「この件で、いったいなにを思い悩むことがあるの?」

該当日記へのリンクを張っておくというのは、書き手の読み手に対するもっとも親切、かつ誠実な対応である。
批判や悪口、噂といった類の話を聞けば、人はつい「どの日記のことだろう?」と好奇心を抱くものだ。「こちらをご覧ください」と案内しておけばそれに答えることになるし、自分も概要を説明する手間を省くことができる。
にもかかわらず、リンクを張らず、「ある日記」とぼかしてあれこれ書く人は少なくない。なぜか。多くの場合、その最大の理由は自信がないからではないかと推測する。
むかむかいらいらして、なにか言わずにいられない。そこで思ったことを書いてみたが、論がいまひとつ正当性や説得力に欠けることを自覚している。われながら「揚げ足取りっぽいな」と思わないでもない。本人が目にする可能性があることは承知している。むしろ読まれることを期待しているのだけれど、読んでちょうだいと先方にアピールするほどの度胸はない----こんなところではないのだろうか。
加えて、批判的な内容でリンクを張るとき、それが「諸刃の剣」となることを書き手が知っている、ということもあるだろう。
「ある日記にこんなことが書いてあった。どうかと思う」という日記Bについての否定的な文章が、日記Aに書いてあるとする。このとき、生まれて初めて見た“動くもの”を親だと思い込むヒナ鳥のように、Aの言い分を丸呑みしてしまう読み手は、私が思うに少なくない。
しかし、両方を読み比べて客観的に自分の判断を下すことのできる人もいくらかは存在する。Aに書かれてあることの根拠が貧弱だった場合、
「Bを読んでみたけど、ムキになるほどのことかしら」
「こんなに感情的になって、Aさんって意外とおとなげないね」
と、逆にその書き手が評判を落とさないともかぎらないのだ。
読み手が原文を読むことがなければ、そのような事態はまぬがれる。自分の書いたものを心許なく思っているときは、対象を特定されぬ程度にぼかして書いたほうがリスクが少ないのだ。

人間ってお人好しだなあとつくづく思う。
そこに好意的なことが書いてあったら、これは自分のことでは?が頭をよぎっても、すぐに「いやいや、調子に乗るんじゃない」と考えを打ち消すのに、否定的なことが書いてあると、「私のことに違いない」と思い込もうとする。どうせなら、すべて自分のことだと思うことにするか思わないことにするかのどちらかに統一すればよいのに、好き好んで喜べない方向に思考を持っていこうとするんだもの。
「これはあなたのことだ」と言われたわけでもないのに先回りしてくよくよするなんて、ましてや日記書きのモチベーションを下げるなんてありえない。私なら、たとえ“ご指名”であっても誰かの言ったことに腹を立てたり落ち込んだりする暇があったら、明日アップする文章の推敲をする。
むやみに傷ついたり動じたりせずにいられる図太さ、したたかさは、自分が自分の文章に納得することからしか生まれないし、育たないのだ。

【あとがき】
そういえば、私が誰かの日記に反応して書いたことはほとんどないですね。覚えているかぎり、この四年のあいだで一回しかないです。そのときはある日記書きさんがいろいろな食べ物の食し方のこだわりについて書いておられて、それがとてもおもしろかったので、私は「Part.2」を名乗り、同じテーマで書いたのでした(そしたら、それを読んだまた別の人が「Part.3」を書いてくれて、うれしかったのでした)。でも知っての通り、私は作家のエッセイや新聞の投書について書くのが好きなんです。


2004年09月01日(水) 女の手の内、男の手の内

日記をアップしたあと、「あ、しまった」と思うことがある。愛だの恋だのについて書くとき、私は女の舞台裏を見せるようなことをわりとよく書くのだけれど(おっと、「小町さんは変わってる」と言われることが少なくないから、女の、といったらクレームがつくかしら)、あちゃーとつぶやくのは、読み手の男性に余計な知恵をつけてしまったとわかったときだ。
たとえば以前、「多くの男性は夏に女性が薄着になるのを歓迎するが、その視線はTシャツの胸やミニスカートの足にしか行くことはないのだろうか。腕のムダ毛や背中のニキビ、かかとの角質にげんなりすることはないのか」と書いたところ、こんなメールをいただいた。
「小町さんの日記を読んでからあらためて見ると、女性の肩から背中にかけての肌はきれいとばかりは言えませんね。おできができていたりもしますから」
「この日記を読んで、ミュールの女性のかかとの角質が見えるようになってしまいました」
三十過ぎであろうが既婚であろうが、私だって女の端くれ。世の男性の女性を見る目をシビアにして、損をすることはあっても得をすることはない。男性からのメールを読みながら「いらんこと言っちゃった」と机に突っ伏すのはこんなときだ。

とはいえ、こちらが「さらす」一方というわけでもない。ときにはそうした日記を読んだ男性が知られざる世界、すなわち“男の手の内”を教えてくれることもあるのだ。
前回の日記で、知性と品がウリの当サイトらしからぬ文章を書いたところ(キャー、誰よいま岩投げたの!)、ある男性日記書きさんから届いたのは、
「客観的に『必要ない』と思われる立場でもなぜか持ってたり(携帯)するのは、『男であること』を意識していたいからですかねぇ(笑)」
というコメント。衝撃のあまり、イスから転げ落ちそうになった私。日記を読んだことのある人なら、誰もが口を揃えて「子煩悩」「愛妻家」と言いそうな方である。意外な一面を見たなあと思いながら、「ぜったい奥さんに見つかっちゃだめですよ」とキーボードを叩く。
女性がこれに「うん、ほんとにチャンスあらば……って思ってるわけじゃなくて、男としてなんとなく持っていたいってことなんだよね」と余裕のリアクションを示すことができるのは、発言の主が自分の夫ではない場合に限られるのだ。
ちなみに、この方がお住まいのイギリスにはその手のホテルがないらしい。で、パブやクラブのトイレにはそれの自動販売機が設置してあるのだそうだ。へ、へええ。
そして、もうひとつ興味深く拝見したのが、「女性が『待ってました』というふうに思われぬよう心を砕くのと同じに、男性もまた初めて彼女の部屋を訪ねるとき、『しに来ました』とは思われたくないと考えるものなのだろうか」に対する、このコメント。
「初めての場合はさすがに『するために来ました』ってのはおもてに出さないようにするんじゃないでしょうか。じゃあ、準備してあるのは何でだと言えば、『もしも君とそうなったときに後悔したくないから』とか何とか、その辺が公式見解ってことになるのかと」
そうか、ではあのとき私が「ところであなた、どうしてそんなもの持ってるの?」と尋ねていたら、こういう答えが返ってきていたのだろうか。そんなイジワルはしたことはないが、想像するとふきだしそうになる。
シーツを洗濯したりパジャマを新調したりしているくせに、「そんなこと全然考えてないワ」という顔をしたがる女性もけなげ。だけれど、この期に及んでこんな“言い訳”を用意している男性も可愛いではないか。
手の内はお見通しでも、互いに何食わぬ顔をして相手の“フリ”に引っかかってあげる。なんて麗しいんだろう。
ああ、私にもそんな頃があったんだよなあ。

※参照過去ログ 2004年8月30日付 「身も蓋もない話

【あとがき】
財布の中に入れていつも持ち歩いているという人は、男女問わずけっこういるみたいですね。私の友人(女性)にもひとりいるのですが、いただいたメッセージの中にも「独身時代は携帯してました」というものがいくつかありました。でもどうなんでしょう、先日のハンカチの話じゃないけれど、持っていなくてもべつに不便はないのではないのかしらん。だって、予期せぬ相手とそういうことをすることになったときはたいていホテルに行くんじゃないの?だったら置いてあるんだし。
……と、上記のコメント(「もしもそうなったときに後悔したくないから」のほうの)をくださった方に言ったら。「部屋に備えつけてあるとは限らない。僕は以前、1個につき100円取られたことがある」とのこと。な、なるほど……。