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2003年06月27日(金) 「NO」の伝え方

二ヶ月ぶりに友人に会ったら、また一段とふくよかになっているような気がした。
親しき仲にも礼儀あり。十年来の友人といえども、「太ったんとちがう?」なんて発言は本来タブーなのであるが、彼女は年がら年中、先シーズンに買った服がもう着られないだの、くしゃみをしたらウエストのホックが飛んだだのと騒いでいるため、私もつい軽口を叩いてしまう。
「そうやねん。先週末、長野の白骨温泉行っててんけどな、混浴やから備えつけのバスタオルを胸に巻いて入らなあかんねんけど、なんと届かんかってん」
そのバスタオルはおそらく小さめの、スポーツタオル並みの長さだったのだろう。それにしてもバスタオルが巻けないなんて、そんなことがありえるのか、あってよいのか。
彼女は以前、わが家で夕飯を食べたとき、その見事な食べっぷりで夫を驚愕させたことがある。豪快に麦茶を飲み干し、大盛りのカレーを元気よくおかわりするその姿に圧倒された彼が「よく食べるね……」と口走ったところ、彼女はにっこり笑ってこう言った。
「私、ごはんは別腹なんですう」
彼女が帰った後、「果物やケーキならともかく、ごはんが別腹っていったいどんなおなかしてるんだ」と激しく動揺していたところを見ると、相当ショックだったようだ。
こんなキャラクターの彼女は現在彼氏いない歴三十一年を爆走中なのだけれど、最近年下の同僚に恋をした。
聞けば、職場ではかなり親しく話す間柄らしく、先日彼女は冗談めかしてではあるが、メールの中に「私のこと、好きですか?」という一文を入れてみたのだそう。すると、翌日届いた返事にはこう書かれていた。
「全般的には好きです」
これには大ウケしてしまった。彼女は「これってどう解釈すべき?」と真顔で尋ねるが、どこの世界に恋愛感情を抱いている女性に「全般的には」なんて答え方をする男がいるか。
そのフレーズには傷つけまいとする苦悩、それ以上言ってくれるなという牽制の跡がにじみでているではないか。かわいそうに、彼は一晩さぞあたまを悩ませたにちがいない。
おおらかな性格の彼女には異性の友人が多い。そして、その中には憎からず思っている男性も何人かいるのだけれど、残念ながら彼らにとって彼女は友達以外のなにものでもないらしい。
彼女は不満そうに言う。
「『君の頑張り屋さんなところが好き』とは言ってくれるけど、『頑張り屋さんの君が好き』とは誰も言ってくれない……」
両者は一見似ているようで、その意味するところはかなり異なる。口をとがらせる彼女をよそに、「うまいこと言うもんだなあ」と私はしみじみ感心してしまうのだ。

ラジオを聞いていたら、福山雅治が失恋したばかりというリスナーの女の子からのハガキを紹介していた。
「おまえといる時間の一秒一秒、全部が退屈なんだ」と言われてフラれたという内容だったのであるが、私は「こんなユニークな三行半ははじめて聞いた」とうっかり感動してしまった。そして、福山が彼女をなぐさめるどころか、「秒単位で退屈ってことは、彼にとっては殺人的なつまらなさだったってことだな」とコメントしたものだから、堪えきれずに笑ってしまった。
同じNOを伝えるにしても、「気持ちが冷めた」「飽きた」といったありきたりな言葉であったなら、「彼女、気の毒にねえ」となるところだが、この表現にはユーモアがある。私自身は手垢のついたつまらない言葉でしか振られたことはないけれど、もしこんなふうなオリジナリティあふれるセリフで別れてくれと言われたら、すっかり感心してしまい、黙って頷いてしまうのではないかしら(……そりゃないか)。
だけど、男の人ってなんておもしろいことを考えるんだろう、かわいいなあと思わず目を細めてしまうことは、たとえばweb日記を読んでいてもしょっちゅうある。

【あとがき】
バスタオルが届かなかった彼女。しかし、せっかくの露天風呂に入らずに帰るわけにはいかないと、めいいっぱいバスタオルを引っ張り伸ばして、後ろ向きに湯に入ったんだそう。「ひえー、勇気あるね」と言ったら、白骨温泉というだけあって湯は真っ白だから中では巻いていなくても支障がないこと、濡れればタオルは多少伸びるはずだという計算があったらしい。「入ってしまえばこっちのもんだと思って」と得意げに言う。そんなことにあたま働かせてないで、ちょっと痩せなさい。


2003年06月25日(水) 空気を読めない人

週末、買ったばかりのエッセイを読みたくて、ランチの客が退ける頃合いを見計らって喫茶店に入った。
われながら神経質だなと思うのだが、私はちょっとまじめになにかを読んだり書いたりしようとするとき、音楽がかかっているとだめ。漫画喫茶でさえ有線が邪魔だなあといつも思うし、日記を書くときにCDやテレビを消すのももちろんである。
が、幸いなことに店内を流れるBGMのボリュームはかなり控えめ。よかった、これなら気が散ることもなさそう、と私は心の中で手を叩いた。
しかし、意外なところに落とし穴があった。注文したミルクティーがやってきて、さあとページを開いたら、ふいに隣席の女性客ふたりの会話が耳に入ってきた。
「で、彼とけっこういい雰囲気になってて。これはひょっとしたらひょっとするかも、とか期待してんねん」
「ふうん、そうなんや」
学生時代、授業中机に突っ伏して寝ていても、先生に自分の名前や出席番号を呼ばれるとはっと目が覚めたものだが、あれと同じようなものだろうか。隣のテーブルで私の好物であるところの愛だの恋だのの話がはじまったとたん、私の耳は「本に集中したい」という意思に反してその声を拾ってしまったのである。
こうなってしまうともういけない。彼女たちが話題を変えてくれないかぎり、再び神経を本に向けることはできない。私は観念してページを閉じた。
どうやら彼女は合コンでその男性と知り合った模様。メールで話す仲になっているらしく、自慢とも惚気ともつかない話を目の前の友人に延々聞かせていた。
……と思ったら、突然「今日は家にいるとか言ってたし、ちょっと呼んでみよっか」と言いだし、本当に携帯から電話をかけてしまった。
彼女が電話に出た彼と嬉々として話すのを聞きながら、私は心の中でうへーとつぶやいていた。こういう人、ときどきいるんだよね。
自身の恋愛話を一方的に誰かに聞かせることほど野暮なことはないのに、彼女はそのことにはもちろん、聞き役の友人の反応にもまったく気づいていない。友人の女性が「その話はもういいよ」とうんざりしているのは、表情を見なくてもその相槌を聞いているだけで隣席の私にまで伝わってくるというのに。
「空気を読めない」とはまさにこのことだろう。運動神経ならぬ会話神経のずいぶん鈍い人だなと思いながら、私は席を立った。

「空気を読めない」といえば、最近内館牧子さんのエッセイの解説を読んだときにもその言葉を思い浮かべた。
内館さんの相撲好きはつとに有名だが、彼女はエッセイの中でもやはりその話題をよく取りあげる。それについて、歌手の辛島美登里さんが巻尾の解説の中でこんなふうに書いていた。

一言書いていいですか?あの。相撲のこと、あんまり書かない方がいいんじゃないかと。
ワタシ、別に相撲嫌いじゃないですけど、何というか、度を越していると言うか。「外国人横綱」のページ、内容は全く私も同感なんですけどやっぱり「星安出寿」とか「星誕期」とか、いきなりその漢字見ちゃうと思わず、(ヘンなオバサン……)と思っちゃうんです。


「なんか場違いな文章だなあ」というのが、全文を読んでの私の感想。解説ページというのは著者と親交のある人がはなむけの言葉を贈る場だと思っていたが、こんな“エール”もありなのかと驚いてしまった。
そうしたら、最後に追伸として、

カドカワの編集者から電話が入りました。『もうすこし、内館先生の良い点も書いていただけませんか?』ですって。


という一文が載っていたので、やっぱりねと納得。
解説というのは著者の人柄や作品を褒めちぎるのが通例だから、そう面白いものではない。しかし、だからといって書いた本人が、

なんだか不安になってきた。内館さんはここまで読んで怒っちゃうだろうか?だ、だ、だいじょうぶ、ですよね、ね。


なんてフォローを入れずにいられないような文章はもっと読みたくない。その人が好きで読んでいるこちらまで小馬鹿にされたような気になるから。辛島さんは親しみを込めて、あえてこういうおちょくったような文章に仕上げたのだろうが、内館さんの読者がそれを読んでどんな気分になるかまでは思い至らなかったらしい。
たしかに彼女は本音を書いた。が、解説ページというのがどんな場で、自分がどういう文章を求められているかについては考えなかったのではあるまいか。
こういうのもまた、「空気を読めない人」というのではないだろうか。

【あとがき】
そういえば、コラムニストの中野翠さんの著書の解説でも、中野さんと同時期にデビューした林真理子さんのことを延々褒めちぎったあと、「あなたには度胸においても才能においても彼女になり切れない中途半端さがありました」と書いていた人がいました。やはり読んでいていい気分はしなかったですね。褒められてるのかけなされてるのかわからないこんな文章を解説に採用するのはイヤだったんじゃないかしら……とも思いましたし。
解説っていうのはお金を出してその本を読む人のこともあたまに置いたうえで書くべきものじゃないのかな、と私などは思っているのだけれど。


2003年06月21日(土) フェチ・コメント発表

やっぱ私だけやなかったやないの〜っ。
ハイ、前回の日記の話です。「横顔のきれいな男性を見て、思わずキスしたくなっちゃった」と書いたところ、同好の士がぞくぞくと名乗りをあげてくださいました。
中には、「立派なワシ鼻を見ると、かぶりつきたくなります」「肌がすべすべしていると、ベロンと舐めたくなります」なんていういささかマニアックなフェチぶりを披露してくれた方もありましたが、圧倒的多数は「手」に関するものでした。
以下、リンク張らせていただいてます。コメントの主を確認しながらご覧あれ。

綺麗な形をした二の腕をみると男女問わず、ものすごくさわりたくなります。相手が男性だったら……その先想像しちゃいますねぇ!(おい)抱かれてみたいなぁと思いますね。

良い香りのする人にぎゅうと抱きしめられたくなったり、ニッと笑うと顔の幅いっぱいに広がりそうな大きな口を見るとキスしたくなったり、もちろんキレイな手はつなぎたくなるし、この手で触れられたらどんなかしらーと思ったり、数え上げればキリがないですね。


どちらもれっきとした若奥様、しかもおひとかたは新婚さん。「その先を想像しちゃう」「数え上げればキリがない」とはゆゆしき発言!
とか言いつつ、私がもっとも惹かれるのもやっぱり腕や手なんですよね。スキンシップが好きな私は歩くときも腕を組むより手をつなぎたい派。だって、体温が感じられるでしょ。触れ合ってるって感じがするでしょ。
なので、どちらかというとすてきな二の腕を見て「抱きしめられたい」より、きれいな手を見て「つないでみたいな」と思うことのほうが多いです。
でもそんなとき、私は「手相を見てあげる」なんてまどろっこしいことは言いませんヨ(いまどきそんな手、誰も使わんか)。学生時代、仲良しの男の子と歩いているときにそんな気持ちになったので、「手の平がさみしいナー」と言ってひらひらさせたら、彼がフフッと笑って、しゃあねーなーとか言いながら手を取ってくれたんですね。あれは楽しかったな。思わず一緒にスキップさせちゃったもん。
こういうシーンで瞬時に女の子の気持ちを読み取ってくれる男性ってほんとすてき。

で、話戻しますが、ほどよく筋肉のついたきれいな腕をした男性ってかなりポイント高いのですよ。こちらの想像力をかきたててくれて。
というわけで、日頃モテないとお嘆きのあなた。

ステキな腕をした人には抱きしめられたくなりますよ!ひじから手にかけての線だけで、恋します、私。


なんて意見もあることですし、この際他は捨て置き、二の腕から下だけをピンポイントで鍛えてみるってのもよいかもしれません。
さて、コメント紹介のトリはこの方にお願いします。

きれいな指をした男の人を見ると、その指を口に含みたくなるわたしは変態?


男と女な日記を書くと、一番率直にアンナコトやコンナコトを語ってくださるのがこの方。「ああ、私なんかまだまだヒヨッコ。修行が足りないわ」といつも思わせてくれます。実物はとてもチャーミングな女性なので、発言とのギャップに感慨もひとしおです。
それにしても、口に含んで……どうするんだろ。

とまあ、手をつなぎたいだのキスしてみたいだの好き放題書きましたが、そういえば「セックスしてみたい」とだけは思ったことがないですね。
毎年女性誌で、「抱かれたい男ランキング」っていうのが発表されるじゃないですか。キムタクだの福山だのが上位を占めるやつ。あれを見るたび、いつも疑問に思っていました。これに回答する女性たちは、セックスのお相手を願いたい人を選んでいるのだろうか、それともぎゅうっと抱きしめてほしいと思う人を選んでいるのだろうか、と。
前者であるならピンとこない。大好きなスポーツ選手は何人もいるけれど、セックスしてみたいとはぜんぜん思わないし。その行為って、「手をつなぐ」とか「キス」みたいにひとつの所作で完結するものではなくて、いくつもの組み合わせで成立するものでしょ。私の場合、恋愛感情の有無の問題というより、よく知らない人とのそれは具体的にイメージすることができないから、「してみたい」に結びつかないのではないかしら。
それともうひとつは、それはいかにも男と女の行き着くところといった趣きで、たとえイマジネーションの世界といえど身も蓋もないというか。もっと入口付近にある、手をつなぐとかいうことのほうが夢があるから……なのかもしれません。
フェチ・コメントを送ってくださった皆さま、リンクをご了承くださった勇気ある方々に心からお礼を申しあげます。
友人には「欲求不満なのね」と失礼なことを言われましたが、かじりつきたいとか舐め回したいとか口に含みたいとかに比べたら、私なんてかわいらしいものだということがよーくわかりました。今日からまた胸を張って生きていきます。

【あとがき】
「手の平がさみしいナー」ももうこの年になったら使えないもんな。ツマラナイ……なんてな〜。ああいう幼稚な駆け引きみたいなの、楽しかったな(遠い目)。


2003年06月20日(金) 横顔

仕事場では毎日席が替わる。その日、私の机は部屋の一番奥の窓際の、いわゆる“お誕生日席”だった。
そこから入り口に向かってずらっと連なるテレコミュニケーターたちの横顔を眺めながら一日仕事をすることになったわけだが、ふと手前から三つ目の席に座っていた若い男の子に目をやったとき、私は息を呑んだ。
額から鼻の頂点、くちびるから顎、のどにかけての流線が優しく繊細で、はっとするほど美しかったのだ。正面から見る分にはどうということのない顔なのに、真横から見たらものすごく端正だった。
人の顔というのは角度がちがうとこんなにもニュアンスが変わるものなのか、と私はすっかり驚いてしまった。
すぐさま隣の、やはりお誕生日席に座る同僚を肘でつつく。
「あの子、すごくきれいな横顔してない?」
どれどれと私の後ろに立つ彼女。
「そう?べつに普通でしょ」
が、私はしばし見惚れたあと、つぶやいた。
「キスしてみたくなっちゃうなー」
彼女には「欲求不満とちがうか」と笑われたが、そんなに変なことだろうか。ほどよく筋肉のついた男性の二の腕を見て、抱きしめられたらどんな感じかしらと想像してみることはないか。自分より大きくて骨ばった手を見て、つないでみたいなあと思うことはないか。
……え、ない?そう、でも私はあるの。
ドラマでも漫画でも、キスシーンは必ずといってよいほど横からのアングルで描かれる。「キスを誘うくちびる」というのはよく耳にするフレーズだが、きれいな横顔を見て、うっかりキスしてみたいと思ってもちっとも不思議ではない気がするのだ。

横顔なんて自分のも他人のも気をつけて見たことがない、という人が大半ではないだろうか。
女性なら日に何度も鏡をのぞくであろうが、三面鏡で横からのチェックも怠らない人はいったいどれだけいるか。似顔絵が得意な人でも、横顔を思い出して描けといわれたら、至難の業ではないだろうか。
かく言う私も横顔に無頓着なひとりであるが、それにはこちらが思っている以上に「その人」を伝えるものがあったんだと気づいたのは、昨年友人と中国を旅したときのことだ。
上海のとある公園で紙切り芸のおじさんに出会った。紙切りというのはシルエット、つまり人物の横顔を切り抜いた影絵のこと。おじさんが私たちを見て、手招きをする。「かわいいクーニャン(お嬢さん)、そこにお掛けなさい」と言ったかどうかは知らないが、私は値段の交渉もせず、椅子にストンと腰掛けた。
彼はあざやかなハサミさばきで黒い紙をちょきちょきとやり、所要時間一分で私のシルエットを完成させた。が、これがおもしろいことに、自分ではいくら眺めてみてもその出来ばえがどうなのか、つまり似ているのか似ていないのかがよくわからないのである。私はそのときはじめて、自分の顔といえど真横から見る機会がいかに少ないかを実感した。
その影絵がおそらくものすごくよくできていると確信したのは、友人のそれを見せてもらったときだ。彼女のシルエットそのままだったからである。私のを見て、友人も「すごい!そっくり!」と歓声をあげていたし、夫も「へえ、うまいもんだね」と感心していたから、実際に上出来だったようだ。
影絵といえば、もうひとつ思い出がある。
自然消滅という最悪の終わり方をした恋があった。二年半、互いに誰といたときよりも密度の濃い時間を過ごしたはずだったのに、気がつけば音信不通になっていた。
その彼から突然メールが届き、一年ぶりに彼の部屋を訪ねたとき、真っ先に私の目に飛び込んできたのは壁にかかった一枚の影絵。それはディズニーランドで記念に作った私の横顔のシルエット。付き合っていたとき、彼はそれを部屋に飾ってくれていたのだが、それが当時のままそこにあった。
そっか、一年ぶりだと思ったけれど、私はずっとここにいたんだな……。
そう思ったら、一からやり直せる気がした。

……ん?
そういえばあの影絵、どこに行ったんだろう。長らく見かけていないけど。
まさかこの家に引越してくるときにポイしたなんてことはないでしょうね。夫が出張から戻ったら、聞いてみなくちゃ!

【あとがき】
すてきな手している人を見て、つないでみたいとか思いません?私はすごく思いますよ。いや、いまはつなぎませんけど。好きとかそんなのではないから、好奇心かな。どんな感じかしらっていう。


2003年06月17日(火) 妻はいまどこに。

電話の仕事をしていると、身近なところではお目にかかれないユニークな人たちやちょっとしたドラマに出会うことがある。
私はいま、クレジットカード会社でテレコミュニケーターをしている。月末に口座振替ができなかった顧客に、「次回は○日ですので、口座の準備お願いしますね」と案内する業務なのだけれど、なかにはこちらの電話を取りたくない方もおられるようで。
話したくない相手からの電話は、携帯なら「ちょっとごめん、電波悪いみたい」、自宅なら「あ、キャッチが入った」で切ってしまう……なんて話を聞くけれど、まあ、たしかにそういうことはある。が、もっと手の込んだ逃れ方を試みる人もいる。
休憩時間、「ちょっと聞いてよ。くっくっ……」と同僚のA子さん。先方が電話に出たので社名を名乗ったところ、「ただいま留守にしています。メッセージをどうぞ、ピー」と言われ、ブチッと切られてしまったのだそうだ。
「甘いなあ、留守電のふりするんやったら、ピーのあとしばらく受話器あげとかんと」
もうバレバレなのだが、こういった手合いは「とっさによくそんなこと思いつくものだ」「大の大人がそこまでやるか」と笑い話にすることができる。
しかし、なかには本当に深刻そうなものもあるのだ。
女性の顧客の自宅に電話をかけたところ、夫が出た。奥様はご在宅ですかと尋ねると、「かあちゃん、おらんなってしもたんや」と言う。
「わしが出張で留守しとるあいだに、娘と一緒に出て行ってしまいよったんや。家財道具一式持ってやで、ハンコも通帳もや。犬まで連れて行きよった」
ひええー。それは悲惨な。
「今後、奥様から連絡が入るということは……」
「ないやろなあ。いま探してもろとるんやけどな、見つからんのよ。かあちゃん、どこにおるんかなあ……」
妻が愛人を作って勝手に家出したということであれば、成人した娘までくっついて行くことはないだろう。いったいどんなことをしたら、布団やじゅうたんまで持って引越されてしまうのだろうか。いろいろと思いをめぐらせてしまう私。
日に何百件も電話をかけていると、息子はいまどこにいるかわからないとか、姉はここ半年家に戻ってきていないとか、家族でさえも連絡が取れないというケースにしばしば遭遇する。
もちろんそれが本当のことかどうかはわからないけれど、もし嘘でないとしたらさぞかし心配しているのだろうなあ。そう思うと、電話を切ったあといつも胸がきゅっとなる。

定時は二十一時。昨日最後にかけた一本は、私の胸を重苦しい空気でいっぱいにした。
契約者は若い男性。自宅に架電したところ、ワンコールで電話に出たのは子どもだった。父親の年齢、男の子だか女の子だかわからない声から察するに、小学校にあがったかあがらないかくらいだろうか。
「こんばんは。お父さんはいますか?」
「いません」
まあ、そうだろうな。この時間にサラリーマンが家に帰っていることはあまりない。
「そっか。じゃあお母さんに代わってくれる?」
「いません」
「そう、お母さんもお出かけなのかあ」
思わずつぶやいたら。
「しにました」
えっ……。
この三月に、私はその妻と会話をしているのだ。夫のカードの支払い管理は自分がしていると言っていたことが交渉記録に残っている。妻は二十代か三十代だろう。そんな若い人が亡くなったというの?しかもこの三か月のあいだに。「お父さん、きっともうすぐ帰ってくるからね。待ってるんだよ」
動揺する胸のうちを悟られぬよう努めて明るく言い、切断ボタンを押す。
幼い子どもの言うことだ。なにかの間違いかもしれない。私の聞き違いということもありえる。うん、きっとそう。
でも、こんな時間に家にひとりでいるなんて……。電話の向こうで聞こえていた大きなテレビの音がよみがえってくる。
私の架電リストに再びこの電話番号が挙がることがあるかどうかはわからない。しかし、「支払い管理の妻死亡?確認要」と記録を入力しながら、この顧客の名はしばらく忘れられそうにないと思った。

【あとがき】
顧客の自宅に架電すると、小さい子どもが電話を取ることがあるんですね。幼稚園くらいの子だと電話で話すのが楽しいのかな。「お母さんいるかな?」「うん、いるよ。ちょっと待ってねー」なんて言っても、次に出てくるのは弟だったりして。ほんとにかわいい。こういうときは「子どもっていいなあ」と思います。


2003年06月15日(日) 私がテキストの中で使えない言葉

内館牧子さんのエッセイの中にこんな話があった。あるとき、彼女の元に担当編集者から「原稿の中の『女』という言葉を『女性』に直したいのだが、かまわないだろうか」という内容のファックスが届いた。
それを見た内館さん、大あわてで返事を送った。
「『女性』にはぜったいにしないでください。『女』がどうしてもダメだというなら、『女の人』にしてください」
彼女は「女性」「男性」という言葉が鳥肌が立つくらい嫌いで、これまで文章の中でも日常会話でも一度も使ったことがないという。
「女」という言葉はやや下品で、フェミニズム臭があり、突っ張った感じがする。だから言葉を言い換えたいと編集者が打診してきたのだ、ということは内館さんにも見当がついた。が、彼女は逆に「女」より「女性」のほうに淫靡な匂い、とりすました無表情なものを感じ、生理的な嫌悪感を抱いている。どうしても使うわけにはいかない。
最終的には「女」のままいくことで決着したのであるが、もしどうしても「女性」でなければ困ると言われたら、その原稿は引きあげるしかないとまで思っていたのだそうだ。
彼女の中には「粋か、野暮か」という尺度があり、その思考、行動はつねに内館流の美学に貫かれている。言葉を扱うことを生業とする者がそれを選ぶ際に微細な語感にまでこだわるのは当然といえば当然なのだが、この頑固さが私は好きだ。

「鳥肌が立つ」とか「生理的に嫌」といったニュアンスではないのだが、私にもテキストにはぜったいに使わない言葉がいくつかある。
使わないというより、「使えない」といったほうが正しいかもしれない。たとえば自分のことを「作者」、読みに来てくれる人を「読者」と呼ぶこと。
その一線を画した感じが、私はどうも好きになれない。それを口にする人にそんなつもりはないのだろうが、「作者」「読者」と聞くとつい、へえ、自信があるんだなと思う。「読者」という呼び方には、書き手が彼らのことを「自分の(テキストの)ファン」と自認していることが表れているようでこっぱずかしいのだ。その立ち位置が適切だと感じるサイトもあるにはあるが、その言葉を使うにはちょっと力不足な気がするなあ……と感じる場合がほとんどである。
そんなわけで、私はいつも「書き手」「読み手」という言葉を使う。内館さんと編集者のあいだに「女」に対する印象の違いが存在したように、もしかしたら「読者」より「読み手」のほうが突き放した感じがするとおっしゃる向きもあるかもしれない。が、おこがましくて使えないと私に思わせるのは「読者」のほうなのだ。
同様に、私は自分の書いているものを「エッセイ」と名乗ることもできない。「つまらないものを読ませてすみません」なんて卑屈な気持ちは持っていないが、たまに「貴女のエッセイを読みました」とメールで言われ、とんでもないとつぶやくのは決して謙遜ではない。
私にとって日記とエッセイは、書き手に求められる力量も読み物としての完成度の高さもかなりちがうものなのだ。
「エッセイ」を辞書で引くと、「見聞・体験・感想などを気ままに書くこと。随筆」とある。たしかに日記とエッセイはどちらも「私」を語るという点でよく似ている。
しかし、前者が終始、主観に依存して書かれたものであってかまわないのに対し、後者には客観的な視点がいくぶんか必要で、なおかつ全体としてひとつのまとまりを感じさせるようなものでなければならない。日記は誰にでも書けるが、エッセイやコラムと呼べるものとなるとそうはいかない。なぜなら、前者を名乗るのに資格はいらないが、後者には質が求められてくるから------というのが私の認識なのだ。
なにをもって日記とする、エッセイとする、なんて野暮な話だ。素人が趣味でやっていることなんだ、そんなカテゴライズはナンセンス。
うん、まったくだ。しかしながら、「日々のあれこれを面白おかしく綴ったエッセイです♪」に引っかかりを覚えるのも本当なのだ。
以前、林真理子さんが著書の中で、タレントが本を一、二冊出したくらいで臆面もなくエッセイストだの作家だのと名乗る昨今の風潮に苦言を呈していた。「直木賞をいただくまで、私は自分で『作家』と名乗ったことはない」のくだりを読んで、そうだよなあと頷いた私である。
肩書きでもなんでも、中身の伴わない「自称」ってかっこわるい。

【あとがき】
「作る人」と書いて「作者」だから、意味としては日記を書いていればそう名乗っても間違いではないのだけど、私自身はその言葉を自分に使うのはおこがましくてできません。私が読み物の中でも作家のエッセイをよく読んでいて、それが凡人に書けるほど易しいものじゃないと思っているからでしょう。


2003年06月12日(木) 記念日のある人生

先日、休憩室で仲良しの同僚五人で雑談をしていたときのこと。紅一点ならぬ、黒一点のA君が「実は今日は僕にとって特別な日なんです」と言いだした。
「へえ、誕生日?」
「いや、違います」
カレンダーを穴が開くほど眺めてみても、なんの変哲もない平日である。彼は二十一歳フリーター。結婚記念日などではもちろんないし、ボーナスの支給があるわけでもない。女四人、頭をひねるが何も浮かばない。降参したら、彼はいつになく真剣な顔をして言った。
「彼女と初めてデートしたのが三年前の今日。天保山の海遊館、行ったんです」
とたんに漂う白けた空気。しばしの沈黙のあと、ひとりがおもむろに口を開いた。
「まさかと思うけど、その手の記念日、他にもいろいろあるとか言わないでしょうね」
「僕、そういうの忘れないほうなんです」
それを聞き、他のふたりも声をあげる。
「あんた、いちいちそんなこと覚えてんの!」
「しかもその彼女って二ヶ月前にあんたを振った子のことやろ。未練がましい!」
年上の既婚女性たちに「男のくせに」だの「女々しい」だのと罵られ、A君はすっかりしょげてしまった。とはいえ、そこは転んでもタダでは起きない……じゃなくて、転ぶにもタダでは転ばない彼。「僕が間違ってました。とっくに現役を退いて隠居生活を送っている人たちに恋愛話をするなんて」と憎まれ口を忘れない。
私はそのやりとりを聞きながら、懐かしいような寂しいような気持ちに包まれていた。

最近読んだ檀ふみさんのエッセイの中にこんなくだりがあった。あるとき、知人の男性が彼女にぼやいた。「なぜ神は女にロマンティックを求めてやまない心と抜群の記憶力、このふたつを同時に与えたもうたのか」と。
家に帰ると、テーブルにはバラの花。めずらしく口紅などを塗った妻が意味ありげに微笑んでいる。彼の鼓動は恐怖と緊張で急激に早まる。

(今日は、妻の誕生日だったか)(イヤ、違う)(では、結婚記念日か)(有り難い、それでもない)(バレンタインデーでも、クリスマスでもない)
 では何の日かと恐る恐る妻を見ると、妻は不満そうに、「覚えてないのぉ?」と言う。
「ダーリン、今日はあなたがプロポーズしてくれた日じゃないの」
 初めて会った日、初めてデートした日、初めて……、記念日は数限りなくあるらしい。それがオトコの悩みのタネなのだそうだ。  
(阿川佐和子・檀ふみ 『ああ言えばこう嫁行く』所収「アララ記念日?」)


たしかにA君のように、こまごまとした恋人との記念日を覚えている男性はめずらしい。過去にお付き合いした人を思い出してみても、そういう人はひとりもいなかった。
とはいうものの、それを「男性だから」と決めつけてしまうのは正しくない気もする。先の同僚三人を含め、私のまわりには記念日をいっさい持たない女性が少なくないからだ。
私には「初めて○○した日」というのがたくさんある。とくに十代から二十代にかけ、大人の女への階段を一歩ずつのぼるたび、記念日は増えていった。初潮を迎えた日も、ファーストキスをした日も、初めてそういうことをした日も、すべて私の胸の中にある。
友人たちはこんな私を「アニバ女」と言ってバカにするが、私に言わせれば、そういう素敵な出来事が自分の人生においていつ起こったかということに無頓着でいられるほうが驚きなのだ。
こんなことを言うと、「誕生日やクリスマスはさぞかし派手にやりたがるのだろう」と思われそうだが、そんなことはない。恋をしているとき、私がもっとも強い思い入れを抱くのはそのどちらでもない。その人と初めて出会った日、なのだ。ふたりがめぐりあえたのは、数えきれないほどたくさんの偶然が重なっての結果。「生まれてきてくれてありがとう」よりも、その“奇蹟”とも呼べそうなほどの、幸運の絶妙な組み合わせに感謝したい気持ちのほうがずっと強い。
その人がこの世に生まれてきただけでなく、ちゃんと私の前に現れて、愛してくれた。たとえ人生を共有できたのがいっときだったとしても、私を見つけてくれたことにお礼が言いたい。
私にとってもっとも記念すべきはやっぱり“出会った日”なのだ。

とくに何かをして祝うわけではない。初めて出会った日からひと月たった、ふた月たった、半年たったよ、ああ、もう一年たったんだね……。当時のことを心の中によみがえらせる、ただそれだけ。
そのとき、その人がまだ隣にいてくれたなら言葉にするし、すでにそこを立ち去っていたなら、元気にしているだろうかと空を見上げてみたりして。命日に故人を偲ぶっていうのはこんな感じなのかなあ……なんて思いながら。

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日


懐かしい歌をふと思い出す。記念日の多い人生を、私は生きたい。

【あとがき】
だから、出会った日をいつしか思い出さなくなった自分に気づいたとき、私ははじめて「ああ、卒業できたんだ」と知ることができるのです。


2003年06月11日(水) ひとこと言わせて。

林真理子さんのエッセイの中にこんな話がでてきた。
魚屋で活きのいいイワシを見つけた林さん。脂ののったそれはいかにもおいしそうだし、中年サラリーマンである夫の健康にもいいに違いない。早速買って帰り、他の料理がすべて並んだときに焼きたてを出した。
しかし、おいしく食べてもらえるようにと心を砕いたにもかかわらず、夫はなかなかイワシの皿に箸をつけない。のんびり酢のものをつついていたかと思ったら、今度は刺身をつまみはじめた。林さんは次第にいらだってきた。

「イワシ、食べなさいよ」
「後で食べるよ」
「どうせなら焼きたてを食べたら、ほら、焼きたてでジュージューいってておいしそうよ」
「うるさいなァ」
 夫はむっとした表情になる。
「どの料理から箸をつけようと僕の勝手だろ。君に指図される憶えはない」
 私の頭の中で何かが炸裂し、テーブルをひっくり返したい衝動をおさえるのに苦労した。
(林真理子 『強運な女になる』所収「暮らす相手はシャツのようには選べない」)


私は思わず「そう、そう、そうなのよっ」と叫んでいた。わが家の夫婦げんかの九割は「妻が怒り、夫がふてくされるか開き直る」の構図で成り立っているのだけれど、彼が私の怒りを買うのは食事どきであることが多い。なぜなら、食事を用意した者への気遣いというものがまるでないから。
リビングでパソコンをしている夫に「ごはんできたよ」と声をかけ、すぐに来てもらえることはまずない。よってこちらもそれを見越して、味噌汁を温め直しながら主菜を皿に盛りながら、少し早めのタイミングで呼びかけるのであるが、そのあたりは彼も心得たもの。「全部お皿並んだ?」「お箸も出てる?」などとモニタから視線を外すことなく言うのだ。
「あのさ、お茶くらい淹れてくれたっていいんじゃない?」
キッチンから言い返すが、やはり彼は準備が完璧に整うまで腰を上げようとはしない。私が席に着いてもまだぐずぐずしているときなどは、「何のためにお皿まで温めてると思ってるのよ」とかなりいらいらさせられる。
実は先日、虚しさが爆発した出来事があった。遅く帰宅した彼がひとりで夕食をとったときのこと。私は彼の話し相手をしながら隣室で洗濯物を畳んでいたのだけれど、食べ終えた食器を片づける段になって箸を出し忘れていたことに気がついた。
テーブルに箸が置かれていなければ、ふつうの人なら自分で食器棚から取り出してくるであろう。ふだんの夫であれば、「お箸がないよ」と私に声をかけるところだ。しかし、その日はなぜかその労さえ惜しんだ。なんとデザート用のフォークで間に合わせたのである。ごはんも、焼き魚も、煮物も、味噌汁も。
会社や公園で、女性が幼稚園児が持つような柄の太いフォークで弁当を食べている姿を見かけることがあるが、あまりおいしそうには見えない。実際、箸で食べたほうがぜったいにおいしいはず……と私は断言できる。
たとえば、ポテトチップスを食べながら本を読みたいと思ったとする。でも、油や塩で汚れた指でページを繰るのはイヤ。そんなとき、苦肉の策で私は皿にあけたそれを箸で食べることがあるのだけれど、不思議なことに指でつまんで食べたときとはおいしさが違うのである。
短いフォークでホッケをつつき、里芋を突き刺して食べたところで、まともにおいしさを感じられるわけがない。箸で食べたときのおいしさを十とするなら、彼が味わえたのは三か五か。それを作った者への「ありがとう」の気持ちが少しでもあるなら、そんな食べ方はぜったいにできないと思う。
怒りを通り越して大きな虚脱感。私はしばらく口がきけなかった。
たまには一緒にキッチンに立とうとか、妻が料理を作っているあいだにテーブルに皿を並べてよとか。あなたにそんなことは求めない。だけど、これだけは言わせてもらう。
林さんの言葉を借りて、今日の日記を締めくくろう。
「あなたね、自分は何ひとつしやしないんだから、せめて人のつくった料理をおいしい時に食べるぐらいのことをしたっていいでしょうッ、そのくらいしなさいよ」

【あとがき】
「ひとりで食べたときは食器を流しに運んでちょうだい」と何百回言おうとまるで習慣にならないのも、彼が洗う側のことなど考えたことがないからでしょう。なぜ流しに運べと言われるのか。そうか、水につけておくと汚れが取れやすいんだな、じゃあ協力してあげなくちゃ。そんな気遣いが欠片でもあれば、テーブルの上を食べっぱなしにしてリビングに戻るなどできるはずがない。こういうところで「ありがとう」の気持ちを持てない人は、他のどんなことに対しても持たない人だといえると思います。


2003年06月09日(月) ウンチクを語る人

私は小説をまったくといってよいほど読まないエッセイ偏愛者であるが、グルメエッセイなるものはこれまでほとんど手に取ったことがない。
食べること自体は生活の中の楽しみのひとつだけれど、食べ物について書かれたものを読むことには食指が動かない。人の書いたものを読んでなにかを考えたり感じ入ったりしたいという欲求を満たすには、「へえ、おいしそう」でおしまいになりがちなこの手のエッセイでは少々物足りないのだ。
しかし、そんな私が先日めずらしく買ってしまったのは東海林さだおさんの『ケーキの丸かじり』。書店に平積みされている本の表紙を見て、「ホールのケーキをひとりで食べるのが子どもの頃の夢だったなあ」と懐かしくなったのだ。
読んでみたら、なかなかおもしろかった。「食のエッセイっていまいち読んだ気がしないんだよね」と敬遠してきたが、頭を休めたいときには人生や恋愛を語ったものよりこういうもののほうがいいかもしれないと認識を改めた。

ところで、私がこのエッセイを楽しむことができたのは、ウンチクを語ったものではなかったからというのが大きい。なにがイヤといって、料理や食べ方についての知識をひけらかす人ほどこちらをうんざりさせるものはない。
食品メーカーに勤めていた頃、同僚の男性のマンションに遊びに行ったことがある。フランスのレストランで三年間修行した経験を持つ彼はフレンチのコース料理を作ることができるのが自慢で、部署の人間を何人か自宅に招いてふるまってくれたのだ。
彼は席に着かず、オードブルにスープ、メインにチーズ……とすべてを絶妙のタイミングで出してくれる。温かいものは温かく、冷たいものは心地よく冷えた状態で。その手際のよさに一同感嘆のため息をついた。
ただ、ごちそうになっている身でひとつだけ勝手なことを言わせてもらえば、
「スパルタ農法で育てたトマトはやっぱり甘味が違うね。あ、スパルタ農法ってのはね」
「どう、そのスズキ、ぜんぜん臭みがないだろ?クールブイヨンで下茹でしてあるからね」
と具合に素材や作り方について一皿一皿こまごまと解説され、コメントを求められるのには閉口したけれども。
しかしそれはそれとして、料理はどれもすばらしく、デザートのココナッツ風味のブランマンジェが出てきたときには女性陣から「こういう人、一家にひとり欲しい!」と声があがったほどである。
が、その後がよろしくなかった。
コースの最後、コーヒーを飲む段になったとき、ひとりの女の子が紙袋の中からなにやら包みを取り出した。彼女が照れくさそうに開くと、中にはカップケーキが人数分。
カップケーキといえば、中学の家庭科の調理実習で一番最初に作るお菓子だ。ついさきほどまでプロはだしの男性の料理にいちいち驚嘆していた私たちの目に、それがかなり素朴に映ったことを否定するつもりはない。しかし、「ごちそうになってばっかりじゃ悪いと思って」という心遣いがいじらしいではないか。私たちは喜んでひとつずつ自分の皿に載せた。
……のだけれど。
遠慮のかたまりのように残る一個。件の男性がいつまでたっても手を出さないのだ。
彼は私たちと一緒に食事はしていないから、満腹でというわけではないだろう。彼女が気にするじゃない、早く取ってあげてよ……と内心ドキドキしていたら、こちらの心を見透かしたように彼が言った。
「それさあ、ベーキングパウダー入れてないでしょう。食べなくてもわかるよ」
たしかに膨らみは悪く、生地も固かった。彼の指摘通り、彼女は「ベーキングパウダー?」ときょとんとしていた。だけど、おいしくないのがわかっているからいらないって?せっかく作ってきてくれたものを手元にも引き寄せないなんて、あんまりなんじゃない?
完璧なコースを提供できたと思っていたのに、締めのところで見るからに「初めて作りました」なものを出されたので気分を害したのだろうか。気持ちはわからないでもないけれど、思いやりに欠ける大人げのない態度ではある。
とりあえずその場では彼女に気落ちした様子はなかったし、他のみなも「さすがシェフ」なんて言いながら笑っていたけれど、私はなんだか白けてしまった。
主張やポリシーを持っている人は好きだけれど、食に関することとなると話は別。仕事柄、舌の肥えた人がまわりにたくさんいたが、彼らがTPOを選ばず味にうるさかったり、ああだこうだウンチクを垂れずにいられないのを見るにつけ、いじましいなとげんなりしたものである。私は昔からこちら方面で細かい男性だけはノーサンキューだ。
彼の分のカップケーキ。私たちがいとまする時間になっても、大きな皿の上にぽつんと残されていた。私たちが帰った後、彼はあれをどうするのだろうと思ったら、ドアを閉めるとき胸がちくっと痛んだ。

【あとがき】
私はむかしからオシャレと食べ物にうるさい男性はダメでした。そういうところにお金と情熱を注ぐ男性ってどうもみみっちく見えてね。「そんなことよりもっと大事なことがあるだろう」と思っちゃう。スーツだけはきちんとしたものを着てもらいたいけど、ふだんは清潔でこざっぱりしたものを着てくれていればOK。食事もなんでもおいしいと思いながら食べてくれる人が好きです。


2003年06月05日(木) 誰かのために。

新聞を読みながら、涙が止まらなかった。二日未明に神戸で起きた火事で三人の消防士が殉職したことを伝える記事だ。
私は涙もろい人間だけれど、どんな事件でも事故でも、テレビで遺族の悲しみを目の当たりにしてもらい泣きすることはあっても、淡々と事実を述べるに留まる新聞記事で涙を流すことはそうはない。しかし、まだ少年の面影を残す男性の顔写真が三つ並んでいるのを見たら、涙が一気にあふれでた。
身内の中に同じ職業の者がいること、現場が私のよく知る場所であったこと。それらがふだん以上に感情移入させたのはたしかだが、もっとも私の胸を突いたのは「こんなに若い人の中にも見ず知らずの他人のために身の危険を顧みず、炎の中に飛び込める人がいたのだ」という事実。
三人はいずれも私より若かった。他にも十人の消防士が重軽傷を負っているが、そのうち八人が私と同年代、もしくは年下である。いっとき、いまどきの若者に嫌われる仕事として「きつい、汚い、危険」の3Kが挙げられていたことがあったが、いつ命を脅かされる事態に直面するやもしれぬ消防士という職業を志す若者もちゃんといたんだということに、あたまをガツンとやられたような気がした。
「勇敢」なんて言葉を思い出したのは、JR新大久保駅で線路に落ちた人を助けようとしてホームに飛び降りたふたりの男性が轢死した事故のニュースを聞いたとき以来かもしれない。
「尊敬する人は誰か」なんて質問をされても両親以外に思い浮かべることはできないが、「すごいと思う人」なら何人もいる。誰かの力になりたい、苦しんでいる人を救いたいという理由で職業を選んだ人たちだ。
高校三年のとき、一番仲の良かった友達に進路をどうするのかと尋ね、彼女が「看護婦になる。昔からの夢やねん」とあっさり言ったとき、私は愕然とした。「大学行ってサークル入って青春する」とでも返ってくるのだろうと思い込んでいたから、というのもある。が、本当にショックだったのは「困っている人を助けてあげたい」「誰かのために役に立ちたい」という気持ちを自分は持続させたことがなかったことに気づいたからだ。
そのことに引け目やコンプレックスを感じたというわけではない。しかし、三年間部活で苦楽をともにし、馬鹿をやり、自分と同じくらい何も考えていないにちがいないと思っていた彼女が「おばあちゃんが亡くなったとき、医療の道に進もうって決めてん」と明るく言うのを聞き、胸にぐっとくるものを感じたのだった。

梅田を歩いていると、そこかしこで緑色のジャンパーを着た若い人たちに出会う。
「○〇さんの命を救うアメリカでの心臓移植実現のために、どうか皆様の力をお貸しください!!」
街頭募金のボランティアが信号待ちをしている人たちにビラを配りながら、声をはりあげる。青に変われば、横断歩道の真ん中まで出て行って協力を呼びかける。
こういうとき、私はたいていなにがしかのお金を箱に入れる。お礼を言われるのがはずかしいので、信号が変わり歩き出すときにさっと入れて足早にその場を立ち去るのだが、背中に「ありがとうございましたー」を受けながら、いつも心がちょっぴり軽くなるのを感じる。
手術費用の足しになればという気持ちからであるのはたしかだが、私の数百円が病床の女性をアメリカに運ぶ力の一端になるなんて実感はほとんど湧かない。しかし、一日の終わりに疲れきったボランティアの人たちに「今日はよくやった。明日もがんばろう」と思わせる材料のひとつになれたら……という期待はある。彼らの励みになれれば、女性のアメリカ行きを少しでも早く実現させることに間接的に貢献することになるのではないか。
加えて、朝から晩まで街に立ち、声を枯らす彼らに対する感謝の気持ちのようなものも。自分ができないこと、やらないことを彼らが代わりにしてくれているような気がするのだ。
週末、友人とその場所を通ったときのこと。彼女が「そうそう、こないだ借りた千円返すわ」と言い、バッグから財布を取り出そうとした。
私は即座に「今じゃなくていいから!」と声をあげていた。その怒ったような口ぶりに友人は不思議そうな顔をしたが、募金箱を抱える人たちの前でそれとは無関係に財布を開くなんてあまりに無神経だ。
消防士や警察官、医者や弁護士にならなくても、こういう形で誰かを救うための小さな力になることはできる。街を歩けば私はまた募金をするし、近いうちに献血にも行こう。

【あとがき】
ボランティアや募金活動をしている人を見て、「所詮は自己満足でやってるんだ」という言う人がいますが、それのなにがいけないんだろうと思います。人間は神様じゃないのだから、「100%奉仕の精神で」「純粋に誰かのために」なんてことはできない。どんなことも最終的には「自分が気持ちよくなりたい」(充実感を味わいたい、相手の喜ぶ顔が見たい、必要とされていると感じたい、など)につながっている。でも、それが自然だし、あるべき姿とも思います。人生はあくまでも自分が主体。大切なのは他人との関わりの中でどう喜びを見出し、それを充実させていくかなのだから。自分以外の人間のために100%純粋な心で尽くすことができるなんて考えるほうが勘違い甚だしいと思います。


2003年06月01日(日) 悩みの相談

朝の家事をひととおり済ませたら、グレープフルーツとヨーグルト、もしくはコーンフレークを食べながら新聞を読むのが私の日課。
なかでもまっさきに開くのは家庭欄だ。毎日新聞のその面には「女の気持ち」という投書欄があり、私はそれをこよなく愛していた。毎日書き手が変わる文章は食堂の日替わりメニューのよう。心に響けば切り抜いて取っておき、思うところあればこの日記でネタにしてきた。
が、最近新聞を讀賣に変えたら、投書欄のあった場所が「人生案内」という悩める人々のための相談コーナーになってしまった。
悩み相談といえば、中島らものところに寄せられるものでもないかぎり、「深刻」「苦しみ」「湿っぽい」が相場である。正直言って、朝一番から聞きたい話ではない。じゃあそこだけ読み飛ばせばいいじゃないかと言われそうだが、こういうところが妙に律儀な私。一面一面制覇していきたくて、悩み相談だけ後回しというわけにはいかないのだ。
さて、新聞のみならず、たいていの雑誌にも悩み相談室なるコーナーがあるけれど、私はこういうところに相談を持ちかけようとする人たちの気持ちがいまひとつわからない。たとえば法律や医学の専門家の意見を聞きたくて、ということなら理解できるのだが、多くの悩みはそういうものを求めた内容ではなく、讀賣新聞では映画監督や作家、大学教授などが回答している。「手紙を書く気力と掲載を待つ暇があるなら、解決のために動けばいいのに」とつぶやきたくなる相談が少なくないのだ。
「一年前に離婚して家を出ましたが、大切なレコードを持ってくるのを忘れてきたことに気づきました。レコードのことだけで前夫に連絡しづらく、困っています。どうすればレコードを返してもらえるでしょうか」
そんなもの、前夫と連絡を取るしかないじゃない。
「夫と別れたいと思っていますが、財産目当てで婿養子にきた人なのですんなり応じないと思います。先日、有名人も信奉する高名な住職がいる寺で護摩行を行い、離婚できるよう祈願してきました」
護摩行より弁護士のところに行きなさい。
とまあ、こんな具合でついついつっこんでしまうわけだ。
私はなにかをするとき、「その行為にどれだけの意味があるのか。投資に見合う成果が得られそうか」を考えずにいられないところがある。そのうえ、せっかちだ。得られるかどうかもわからぬアドバイスのために手紙をしたためる労を惜しまぬ心。採用を祈りつつ、数週間なり数ヶ月なりを過ごすことができる気の長さ。どちらも私にはないものだ。

なんて冷めたことを考えるのは、私自身が人に悩みを打ち明けるのが苦手だから、というのもあるのかもしれない。
少し話は変わるのだけれど、ひとつお礼を言わせてほしい。数日前の日記で、「私は悩みを相談するのが苦手。話したところでどうなるものでもないし、陰気くさい話を聞かされたって相手も困るだろう」というようなことを書いたところ、いつになくたくさんのメールをいただいた。
そのほとんどが、「それは違うよ。解決は望めなくても、苦しみを誰かに吐露することで救われるときがある。それに、暗い話をされたって迷惑なんかじゃない。遠慮されて悩みを打ち明けてもらえないほうが悲しい」というものだった。
ここしばらく、家族のひとりがつらい状況から抜け出すことができずにいるのだが、彼女が苦しい胸のうちをなかなか見せない。そこにあるのは「心配をかけたくない」であったり、「口にするのもしんどい」であったり、「話してもわかってもらえない」であったりするのだろうけれど、そばにいる人間にはそれが悲しくて切なくて。大丈夫なはずがないのに気丈にふるまおうとするその姿が、ますます私たちの心配を募らせる。そんな最中にいただいた言葉だったので、心にずんときた。
本当にピンチのときは信頼している人の前でぐらい、はだかになれなきゃいけないのかもしれないな、なんて。
五月のあたまに、「『私がついてるからだいじょうぶ』なんて言葉は、どん底にいる人間にはなんの救いももたらさない」と夢も希望もないことを書いたときにも、こんなメッセージをいただいた。
「たとえそのときは素直に受け止められなくても、大好きな人が親身になって言ってくれた言葉はいつか必ず『素敵な言葉』として甦る日がきます」
そのときは無理でもいつか、かあ……。
誰の思いを咀嚼する力もいまの彼女にはない。彼女の元に届く前に墜落する言葉たちを拾い集めながら、どうしたらこちらの存在を伝えられるのだろう、一番つらいときに力になれなければ意味がないじゃないか、とそんなことばかり考えていた。
だけど、「私たちのあいだには二十九年と幾月かけて育んできた絶対の信頼がある。いつか必ず届くから。それまではそっとそばにいよう」------そんなふうに思えるようになりました。
なんだか私が励まされてしまったな。本当にありがとう。

【あとがき】
「そんなことに悩むの?」と首をかしげてしあう相談もたまにあります。
「二十二歳の娘に性体験があったことを知って衝撃を受けています。娘には結婚まで処女を守り、幸せになってほしいと小さな頃から願ってきました。それだけに暗闇に突き落とされたような思いです。ひとりでいると涙があふれ、彼女とどう接したらよいのかわかりません」
この相談を寄せたのは五十代の主婦ですが、結婚までバージンでいることに価値を見いだすのはこの世代が最後でしょうね。すでに三十代の私なんかは、この娘は成人してから交際相手と体験したということなのだから、なんの問題もないじゃないの(それどころか、ないほうが不自然)と思いますし。それに、結婚初夜にはじめて、なんてリスクが大きすぎると思いますけどね。セックスも貴重な経験のひとつだから、夫ひとりしか知らないというのはどうなんだろう。結婚するまではそのときそのときの「一番好きな人」と楽しめばいいと思うけどな。