せらび
c'est la vie
翌日
みぃ


2004年10月31日(日) 石鹸の話をしている場合ではないので先に人質事件の話をする

以前にも似たような事件が起こった時、ニホンジンの非人情振りに大変驚いたので、今回は傍観を決め込む積りだったのだが、彼方此方のサイトで取り上げているので、ワタシも一応思う事を書いておこうと思う。石鹸の話はまた後日。

紛争中のイラクで、又してもニホンジンの青年が人質に取られ、家族や日本国関係機関の解放への努力も空しく、首を切られて道端で発見されたというニュースが流れてきた。ワタシのサイトは「ブログ」ではないことと特に宣伝をする気が無いこと、更に見知らぬ人と議論をしている暇がない等の理由で、この件について書いているサイトのURLのご紹介は控えるが、しかしワタシがこれは一言述べておかねばと思うに至った原因でもあるので、それぞれ簡単に概要を述べてから私見を述べることにする。

ちなみにご覧になった皆さんのご意見を伺う積りはあるので、あればメールを下すっても構わないのだけれど、技術的にどうやったら「一言述べる欄」やら「掲示板」のようなものをここへ挿入出来るのかが分からないので、今のところメールでしかコミュニケーションが取れないのは残念。

さて、ワタシは今回の人質事件については、ほとほとタイミングの悪い人だと、在る意味気の毒に思うと同時に、なんと頭の悪い二ホンジンだろうと思っている。一体何をしにイラクくんだりまで出掛けて行ったのだろう。国では地震で大変だと言っている時に、人々にさんざん迷惑を掛けて、税金も無駄使いさせて、全く理解に苦しむところである。

今回の件では、同様に考える人々が多いようである。

其の一。とあるサイトでは、ある亜米利加西海岸在住の人がこの青年を「甘えん坊」と切り捨てる。似非ジャーナリストや似非ヴォランティア、または単なる怖いもの見たさの馬鹿者が、危険だから行くなと行っているのにのこのこと出掛けて行くものだから、こうして危ない目に遭うのだと言う。「自分探しの旅」と言う表現は日本で流行っているのかしら?そして今回のこの青年がそれの為に出掛けていたという報道があったのかしら?その辺りがワタシには良く分からないが、兎に角この人が言うには、その「自分探しの旅」は日本でも出来るから、本当の危険を知らない甘えん坊諸氏はくれぐれも日本から出て来ないでくれとの事。

ワタシも国外で暮らす者として概ね賛成なのだが、ワタシの気に入らないのは、この人はこれだけ骨がある事を言う割りに、「議論、討論、論争は一切禁止」と腰抜けなことを、サイトのルールとして設定している点である。

僭越ながら申し上げておくが、大人の会話で奇麗事ばかり並べて済まされるのは、ニホンジン社会だけである。少なくとも欧米の先進国社会では、時事や社会問題について周囲の人々とディスカッション(議論)をするのは、極めて日常的な行為であり、それに参加をしないで居るのは馬鹿か無関心、若しくは非人情と思われる。

日本では余りそういう教育を受けないから、議論=喧嘩と勘違いする輩も多いようだが、喧嘩の如く議論が白熱するのも良くある話であり、まただからと言って、意見が合わぬからお互いを嫌いになってしまうとかもう付き合いを止めるというようなコドモ染みた事にはならないのだから、もう少し議論をする事を楽に考えるべきである。というか少なくとも欧米人はそういう風に考えて議論をしているから、その積りでやらないと付き合いは容易でないということである。

それから「自分探しの旅」というのについてだが、 以前に書いたようにワタシもその昔彼方此方を旅して回ったことがあるから、旅すること自体は大いに結構だと思っている。外国への旅を通して、日本に籠もっていたら恐らく知る由も無かった事、例えば人種差別(自分が差別される側であり得るということ)、貧富の差または富の不均衡(日本の物価を前提にするなら世界は極めて貧乏人だらけであること)、各国の宗教・思想的違い(これは政策、つまり何に金を使うかという方針の違いに顕著に現れるわけだが)、等々を、本からでなく実体験として認識するのは、掛替えの無い人生の肥しになると思うのだけれど、それが日本では一体どういった訳で問題視されるようになってしまったのだろう。

実際、今国外で暮らす多くの人々も、本々はそういう自分探し的考えも多少はあったろうと思われるが、どうだろう。例えば会社が行けと言うから余所の国へ出掛けて来たとか、ダンナが仕事で行くと言うからくっ付いて来たとか、そういうある意味受動的な海外生活者は論外としても、留学や就職や移住の目的で自ら国を出て来た人々の多くは、実際にそうは呼ばなくとも自分探し的要素(例えば将来の職業的学術的成功の為に国外で自分を磨こうとか、自分の精神修養や幸せの為に何かを成し遂げようとかいった意図)を多く含んでいる事は否めないだろう。

そうして積極的に国外へ出掛けて来た人々は、同様の理由で国外に出掛ける若者を果たして責める権利があるのだろうか。こういった事は、広く究極的な言い方をすれば、「自分の人生を如何に生きるか」という自分自身への問いに他ならない。そしてそういう哲学的な認識の傾向を持つ者は、常にそういう自分への問いをし続けて生きている。それ自体は、そういう認識の全く無い凡人と比べれば、余程人間本来の目的を果たしているように思われる。殊に未だ可能性を見定めきれないで居る若者ならば、尚更自分の人生の意味を問わずに居られないものではないだろうか。いや、ワタシがそうだったからね、きっとそうだと思うのよ。

だから今の日本では、ワタシの知らぬ間に「自分探しの旅」という表現が出来上がっていて、そしてそれは非難の対象になっているらしいことが、非常に残念である。旅に出る事自体が非難されるのではなく、それをする個人の資質の問題である事についての認識が深まる事を祈る。

其の二。ある中東方面在住の人が、自分の文化すら満足に知らない若者が、他国へ出掛けてきて何を理解しようというのかと問う。そして例えば卑近なところで、他人に物を聞いて置いて御礼のひとつも言えないような非常識な人間は、自分を探したり他国で何かを成し遂げようとする前に、自分の足元を先ず見ろと言う。

確かにワタシ自身も、知人を介してあれやこれやと質問をしてきた若者達が礼状を寄こさないのに腹を立てた経験がいくつもあるから、確かにさもあらんと思う。しかし、自分がどれだけ自国の文化を知っているかと問われたら、ワタシは答えに窮するだろうとも思う。それに、既に「自分探し」に関連して述べたのと重複するが、外へ出てみて初めて分かる事も沢山ある。現にワタシはその昔自分の祖国が嫌いで仕方が無かったが、おん出てきて暫く経つと、良いところも徐々に見え始め、今では自分が日本人であることを誇りにさえ思う。

ワタシが特に気になったのは、この人が後日のコメントで、日本政府と被害者の家族の対応を「茶番劇」と批判している点である。例えば外務省が、今回の拉致犯人のテロリスト集団について「話の出来る相手ではなかった」とコメントした事について、「お茶飲みながら話し合ってどうするよ?!彼らと通じる言葉はない。ただ行動実行あるのみ」と言う。これはまさにこの度の謂れ無き戦争をおっ始めた某国大統領の台詞そのものであるから、ワタシは苦笑を禁じえない。

そのくせこの人はかの大統領はお嫌いらしく、例えば日本政府がテロリストに屈せず自衛隊の撤退はしないと言った事に「空いた口が塞がらない」と言い、更に亜米利加政府がそれを立派な態度と称したことについて、何かと言うと「テロ」という言葉を操るご都合主義で奇麗事ばかりのかの国に褒められても嬉しくないと一蹴する。

この人はこの地域に長く住んでいるという自負があるようだが、外交や国際政治一般に関しては残念ながら疎いようなので、こういった典型的二ホンジン的コメントが出てきたのだと思う。そして自説に大いなる矛盾が在る事に気付かない辺りが、素人らしくて良いのだけれど、ならば余り大きな事は言わぬが良かろうとワタシは思う。

基本的に現在の日本国政府が取れる手段としては、犯人グループまたは現地の有力者グループや周辺各国との交渉以外に道は無い。いや、日本だけじゃないのよ。どの国の政府もそうなの。交渉以外の手段が取れるのは、既におっ始めちゃってる亜米利加と英吉利くらいしかないのである。今回は展開が非常に速かったので、日本国政府としても恐らく戸惑ったに違いないが、犯人グループとの直接交渉を試みるというのは本来の外交政策いろはの「い」であるから、政府としては当然の事をしたまでであろう。つまりそれだけ今回の相手が、他国の侵入に対して怒っているという事だ。

こういった事は一般人には理解し難いかも知れないが、国際関係はその余りに多くの部分を交渉、ディプロマシーに因っている。だから外交官というのは、どうしてもその様々な政治的人間的資質を問われ、重要な役目を負っているのである。(役所内の腐敗については、別問題である。)

そして国家たるもの、国益を守るのが最重要課題であるから、政策決定者とその仲間たちが重要と判断すれば軍隊も送るしテロリストの要求にも容易に屈しないと公に宣言せねばならない。そして某国の前回の首脳選挙と違って、日本国の首脳とその同僚たち(の多く)は公正なる選挙によって選ばれた人々という事になっているのだから、政策が気に入らないならそうと、次回の選挙に於いて言えばいい。仮に海外に居る為に投票し得ない状況に居る人なら、それはつまり国政参加を放棄し国民としての義務を怠っている結果になる訳だから、国の政策について大っぴらに文句を言うのはお門違いである。

それに、事が収拾不可能なところまで来てしまった現在の中東情勢に於いて、「テロリストと話し合いはしない」などとまるで某大統領のような台詞を吐くこの人は、それでは他に一体どういう方法があると言うのだろうか。しかしこの人のコメントを読む限り、特に替わりの提案は見られない。文句を言うだけなら、幼児でも出来る。

実際他国との協調を抜きにして、日本という国はその存続自体成り立たないのだから、この現実を(この人に限った事ではないが)ご最もな政治批評を展開する二ホンジンの皆さんは、よくよく考えるがいいと思う。この現実と、内外の諸事情とを考慮に入れて、真の政策執行能力の在る首脳を選ばねばならない。

其の三。これは直接この件との関係は不明である上、どこかのサイトで人々が繰り返しコメントしていた中から拾ってきたので誰の言かも不明だが、世の中死にたくなくても死なねばならない人もいるのだから、自分から死を選ぶ人は新潟でもイラクでも行って代わりに死んでやれと言う説がある。この短絡的な一緒くた振りは、自殺願望を持った事が無いから言える事であろう。

凡そ自殺志願者というのは、勿論時代と共にその傾向も違ってくるだろうことは予想も付くけれども、そんな体裁の良い理屈で割り切れる程度の悩み事で死を選ぶことは稀である。自殺志願者の多くは、いくつもの悩み事を抱えていてそれが八方塞に見える時、また誰もその事を理解してくれないように見える時、周りに援助者やその環境が整っていない時、等々の複合で死を選ぶ。これは、その人の生育暦やそれと現在の状況との関連にも因るから、幾ら大変な状況だからと言って必ずしも皆が死のうとするか、一概には言えない。更に、使われる手段はその人の「切羽詰っている度」にも因るから、息の根を確実に止める方法を取るか未遂に終わる作戦に留めるか、等は様々である。

これらは物の本に書いてあることだから、もし疑うならその手の本を探して一度読んでみるといい。何しろ、「誰々と比べて貴方の悩みは大した事が無いから死ぬ必要は無い」などと言って説得を試みても無駄である。そんな事を言われても、それと当人の状況とは全く無関係だから、何の足しにもならないからである。却ってそんな事を言うと、崖っぷちに立つ当人を後押しする結果にもなりかねないから、家族や友人の皆さんは大いに気を付けた方がよろしい。

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恐らく今時のニホンジンは、結局のところバブルな発想から抜けきれないで居ると言う事なのではないだろうか。

これはワタシ個人の説だけれど、戦後の日本は思想面での発達を妨げられ、また自発的に止めてしまった上、その代わりに許されたのは経済発達のみであったので、大々的に経済発展は遂げたものの人々の豊かな生活の基盤になる思想的・観念的発達は疎かにされたまま戦後期を駆け抜けてしまった。だから議論も満足に出来ず、旅に出掛けた先で起こり得る危険をも推し量れない人間の大量生産になってしまったのではないか。

ワタシは「戦後の詰め込み教育」という、批評家たちの格好の餌食になっているお題目自体が問題だとは考えていない。それは寧ろ、社会のほんの断片でしかない。詰め込まれても、それに対応し得る情緒的思想的発達を促す事は出来た筈だと思う。だってワタシだって出来たもの。そして他にも出来た人を何人も知っている。

人間として当たり前の態度とか人間らしい心の反応とか人の痛みや善悪を判るとか、そういうのは勉強させ過ぎるから無くすのではない。親は何をしていたのか。社会は、コミュニティーは何をしていたのか。学校だけがものを教える場ではない。

大人は、その社会的立場が何であれ、また何処にあろうとも、社会に置いて次世代を教育していくという大きな義務を負っている。


2004年10月30日(土) それ以外の手段を知らぬからとかの人を責めても始まらぬかと漸く気付く

「安上がりで美容に良い液体」其の二について書く前に、どういう経緯でこういう事に関心を持ち始めたのか、順序良く書かねばなるまい。

こういう関心は主に女性限定であろうと思われるが、若い頃と違って段々と肌が乾燥してくると、何かしら塗るものが欲しくなる。以前は高価な化粧品を取り揃えて、あれやこれやと塗りたくってみたりもしたのだけれど、そのどれも自分の肌に合わぬことに気付く。そして中にはおどろおどろした石油化学合成製品が多数含まれていて、要らぬ肌荒れを起こしている事も多い。(誤解の無い様断っておくが、ワタシに如何なる不出来が発見されようとも、それはあくまで不適切な化粧品の所為である。その筈である。) 

そういう事に関心を持ち始めたのは、実はここ最近である。それまでは知らずに使っていた色々の品々が粗悪品とは思いも依らず、寧ろ自分の身体の方が可笑しいのではないかと勘繰っていた。もう少し気付くのが遅かったら、自分を病人扱いして病院へ駆けつけ、更なる薬品の処方を待っていただろう。危ないところだった。

幸運な事に、ワタシは色々な不条理を経験した後、自分を悪者扱いやら至らない愚か者扱いすることを止すに至ったので、こうした身体的不都合についても、対応の仕方が随分変化した。手始めに、普段使っていたボディシャンプーやらシャンプーやらの構成物質について研究してみた。そのうちに、ワタシの身体がほぼ間違いなく反応を示すものの正体は、「ベタイン」と呼ばれる成分ではなかろうかという見解に達した。

これは石鹸などの製作過程で、時にグリセリンで反応を起こす人向けに代わりの物質として使われることがあるようなので、実際のところワタシには、化学的にこれが本当に元凶かどうか分からない。しかし、少なくともワタシが使ってみて、カユミや赤味などの不自然な反応を起こした製品全てに於いてこれが使われており、そうでなかった製品には含まれて居なかったところを見ると、少なくともワタシにはこいつは合わないものと思われる。

そうこうしているうちに、純石鹸(ピュアソープ)と出会う。

石鹸の話は長くなるので、つづく。


2004年10月29日(金) 贔屓にしていた占い師が亡くなっていた事を知りがっかりする

「ボトックス要らずでの若さの秘訣」と書いたが、そう言う程歳を取っている訳ではないので、実際のところ特にケアはしていない。現代の若者は、あれやこれやとケアをし過ぎて、却って肌を荒らしてしまったり「乾燥肌」にしてしまったりしているらしいから、余り余計な手は掛けぬが得策と思う。

あ、ちなみに「ボトックス」とはある化学薬品の事で、これを皮膚下に注入すると肌が若返るという噂の、高価な液体の事である。それよりもっと安上がりな液体は、巷に溢れているというのに、勿体無い事である。

日頃心がけている事としては、例えば水を沢山飲むことが挙げられる。これはその昔ファッションモデルが取り入れた方法として知られているが、おフランスでは一般人にもすっかり浸透した健康法だそうである。ワタシの場合は、そうね、大体日に二リッターから三リッターが目安だろうか。これ以外に、いけないいけないと思いつつ朝はコーヒーを二三杯飲むのが止められないから、それによって奪われた水分を取り戻すためにも、平行して水を飲む。空いたペットボトルを使い回して、家で漉した水を入れて日中持ち歩く。合間を見ては、くぴくぴとやる。夏場や風邪を引いたときなどは、三から四リッター程水を飲む。

一度酔っ払って帰宅して、うっかり窓を開けたまま寝込んでしまって、気付いたら熱が出ていた事がある。一時は三十九度台後半まで上がったから驚いた。生憎週末だったので、医者も休みだったから、仕方が無いので水を大量に飲んで着替えをして寝た。二三時間して起きたら、熱を測る。そして出すものを出して着替えたら、又水を沢山飲んで寝る。これの繰り返しで一日したら、微熱まで治まった。薬に頼らなくとも、人間の身体は案外巧く出来ている。

水を飲めと日本の友人に薦めても、真似る者は少ない。しかし、そういうのに限って便秘症だったり冷え性だったり肥満気味だったりするのだから、少しは自分の身体のつくりを理解するが良いと思う。斯く言うワタシも、もう少し若い頃は手足が冷えて冷えて仕様が無かったものだが、沢山水を飲むようになった所為で、冬の暮らしが随分と楽になった。

幸運なことに便通で困る事は殆ど無い。出が悪い人は精神上何らかの執着を抱えているからでもあるので、内科や消化器科のみならず、一度心理や運動生理学などの専門家に相談するのも良いだろう。しかしその専門家との予約を待つ間に、ひとまず水を日に沢山飲むことを心掛ければ、随分変化が出るに違いない。友人で、酷い時は二週間ばかりも出ないと嘆くのがあったので、水を先ずは二リッターずつ飲んでみろと薦めたら、一週間後には既に二三度出たと言うのだから、これは騙されたと思ってぜひ皆さんもお試しを。

その友人は、水を飲むとトイレが近くなるから嫌だと言ったが、それはそれだけ体内に毒素があって、それを排出しなければと身体が判断しているからであって、全く悪いことでは無い。如何せんニホンジンはタダの水と言って馬鹿にして、水を殆ど飲まないようだが、しかし長年のそういう悪習が体を麻痺させて、喉が乾いているのにそれに反応しない身体にしてしまっているのだから、その事に早く気付いて本来の健康な身体の反応を取り戻さねばならない。

もう一つの安上がりな液体については、次回に続く。


2004年10月27日(水) 明日は「ぺいでい」なので気分が良いからちょっと飲む

その昔日本国がまだ「バブル」と呼ばれていた頃、ワタシときたら、おカネをせっせと貯めては旅行に出掛けていた。振り返ってよくよく考えてみれば、ワタシの旅も相当「バブル」な感は否めない。いくら当時まだ珍しかった、バッグパックに少しの着替えとその他をいくつか詰めて、安宿を泊まり歩くような節約した旅だったとは言っても、大きな休暇の度に外国へ出掛けていくという行為は、今のワタシにはとても出来ない贅沢である。

旅は散歩の延長、とある人が言う。随分と贅沢な散歩である。ちきしょ。

その人はどうやら新聞屋さんにお勤めのようで、あちらこちらを旅して回るのが常らしい。ならばその旅費も恐らく会社持ちなのだろう。心配は無用。

本当はワタシもそういう暮らしをしたいと思っていたの。誰かに旅費を負担してもらって、そうしてワタシは世界中のどこへでも出掛けて行って、なんだってやってやろうと思っていた。いや、今でもその気持ちに変わりはないのヨ。

けどその為に必要なのはなんだろうと考えた時に、思い付いたのがひとつあって、それをやる為にワタシは外国へ出掛けて来たのだけれど、しかしそれは果たして本当にいい方法だったのだろうかと、今のワタシは疑問に思っている。ひょっとしてただ時を無駄に過ごしただけだったのではないのか。悪戯に時を費やして、掛け替えの無いコモディティである「若さ」を失っただけではないのか。当初もう少し余裕があった筈の経済力や、それが無くなった時に調達するのに必要な若さ。そして世間の皆様は余り注視していないようだけれど、意外と大事なもの。それは、ダメージを受け過ぎずに自分を保てる心の強さ。

人は若いうちに、買ってでも苦労をしろと言う。それは物の分別が未だ付いていな若者にだけ通用する試練である。これは効果抜群。しかし少し歳が寄ると、ダメージの事と次第に因っては、取り返しの付かない傷になってしまう。傷は良くも悪くも作用する。そういう点からすると、今のワタシは許容範囲を超えるダメージを一時に抱えすぎて消化不良を起してしまったので、思い切りが悪い人間になってしまった。それを大人の分別と言えば聞こえはいいかも知れないが、単に臆病になっただけという説も在る。当時受けたいろんな痛みは、どうやっても消し去り難い。

それもまぁ、案外全てバブルのようなものだったのかも知れない。一時夢を見ていただけなのかも。

だからと言って、ワタシはこう見えても意外と現実的な人間なので、今流行の「ボトックス」とやらを注入してまで、失ったかも知れない若さを取り戻そうなどとは思わないけれど。でもなんとなく、道を誤ったかも知れないとは密かに思っているわけだが。

「ボトックス」抜きでの若さの秘訣については、次回につづく。

ところで日本では、「ボトックス」は流行っているのかしら。うちの辺りでは、セレブリティ御用達な感があって、一般人にもじわじわと浸透しているらしいのだけれど、実際それをやっている人が回りにいたら、気味が悪いだろう。ワタシならそれよりヨガレッスンに通うとかローションをお手製するとかして、自分で自分の柔軟性を開拓するだろうと思うけど。


2004年10月26日(火) いつになく早起きをして所用で歩き回ったので疲れたし眠たいしもう大変

秋刀魚が喰いたい。
辛い卸しを添えたのを丸ごと一匹喰いたい。

はんぺんが喰いたい。
ちょいと炙ったのに醤油をちょろっと掛けて喰いたい。

卵掛けご飯が喰いたい。
生で食べても死なない日本の生卵を掛けてご飯が喰いたい。

鯵の開きが喰いたい。
程よく干したのを軽く炙ってはぐはぐ喰いたい。

大根を喰いたい。
風呂吹き大根にして柚子味噌で喰いたい。

紫蘇が喰いたい。
刻んで雑魚と胡麻で和えたのでご飯が喰いたい。

クリーム白玉餡蜜が喰いたい。
喰った事無いけどなんとなく喰ってみたい。


2004年10月25日(月) こちらも本格的な寒さがすぐそこまでやって来ている

親戚が住んでいる地方に又しても災害が起こって、大事になっているらしい。

もう十年程前に神戸で災害があった時、ワタシは日本に居てその様子をテレビで見ていた。居ても立っても居られず、いっそヴォランティアをしに神戸に行こうかと思いついた。夜行列車を使えば、翌日の昼には着くだろう。しかし母が、どうせ邪魔になるだけだからよせ、この馬鹿者が、と忽ちヒステリックに怒鳴り出したので、止めた。

後に国を離れてから、父方の祖父が他界して、そしてその一ヵ月後祖母が後を追ったという知らせが届いた。どうやらワタシは、数ヶ月後までそのことを知らされなかったようだ。この時の母の言い訳は、どうせお前が居たってどうなるわけでもなし。

それは確かにその通りなのだけれど。

元々縁が薄い上長らく離れて暮らしているので、親戚に不幸でもない限り、音信不通になりやすい家族ではある。このときは、折角連絡を取る言い訳が出来た、格好の機会だったのに。

母にとっては、折り合いの悪かった憎らしい舅姑かもしれないが、ワタシにとっては血縁者の死である。ワタシはせめて花でも贈ってお別れを言いたいと思ったが、既に葬儀から大分経っていて今更どうしても間が抜けているので、渋々諦めた。そして同時に、母に対しても諦めた。この人に何か人間らしい、ごく当たり前の感覚を期待するのを諦めた。

ワタシは昔から事ある毎に厄介者扱いを受けていて、またここでも、祖父母の葬式にさえも出して貰えないという扱いを受けている。ワタシにとって世の不条理はこの辺りに端を発する。家庭は小さな社会であるから、世の不条理の縮図は、立派に家庭内に存在する。

きっと親父が死んでも、母は娘に連絡するのを「すっかり忘れて」しまうのだろう。流石に親父は、母が死んだらワタシに連絡を遣すだろうか。直に帰って来られそうかと打診して来るだろうか。そしたらワタシは、母など居ないと言って帰るのを止そうか。他人に遣った仕打ちは必ず自分に返ってくると、死人にさえも教えて遣るべきだろうか。それともそれはワタシの役目ではなく、既にあの世に居る祖父母やご先祖さんの手に因るのだろうか。あの世はあの世で解決が着くのだろうか。

兎も角、ワタシは今、親戚の身を案じて国際電話をしようか止そうか、迷っている。

こういう事は、ワタシが今住んでいる辺りでは、誰も迷わない。皆、直に行動に移す。以前この街で大きな事故が遭った時も、街の人々は取る物も取り敢えず、腐らない食べ物だとか衣類だとか、または金や血や労働力を寄付しに、街中あちこちへ掛け付けた。ワタシもその際は、医療用テープや絆創膏、寄付に出す間際で取っておいた着古しの男物の衣類、タオル、緊急用アルミ二ウムシート(身体に巻いて寒さから身を守るもの)、缶詰やクラッカーなど、家にあった手頃なものを片端からカートに詰め込んで、寄付品置き場へ出掛けたものだ。

あの時は大変な騒ぎだったけれど、ああいう風に街中の人々を団結へ導いた心意気や態度というのは、今振り返っても心を熱くする。この街の住民であることを、皆が誇りに思えた貴重な日々だ。

そういう事を、普通にワタシはやりたいのだが。


2004年10月24日(日) 結局又休日に働いて懸案事項第二弾も無事終了

英語でピーマンのことをグリーンペッパーと言う。これが赤くなるとレッドペッパーと言って、黄色ければイエローペッパーと言う。

日本のサイトでお料理が出てくるのを見ていると、時折「パプリカ」なるものが登場する。パプリカとは香辛料のひとつで、例えばルーマニアハンガリーなどの郷土料理に肉をパプリカと一緒に焼いたり煮たりしたものがよく出てくる。これは真っ赤な粉で、彩りに使われることが多いが、辛味自体はそれほどでもない。例えば胡椒のことをペッパーと呼ぶが、これは恐らくこのパプリカに由来するものと思われる。聞くほどにラテン系な名前である。↑ 勘違い発見に付き、後日訂正

だからその積りで、料理の写真など目を凝らしてよくよく見てみるのだけれど、何故か赤色は全く見当たらないことが多い。一体これはどうしたことだろう。暫く考え、そのうちはたと気付く。もしや色の付いたピーマンのことを指している・・・?

では彼らは、本来本家本元であるスパイスの「パプリカ」の存在については、一体どう考えているのだろう。

外来語には不可解なものが多い。


2004年10月23日(土) 久方ぶりの休日を満喫す

先日業務上大懸案事項が、結果は兎も角、漸くひとつ終了したので、久しぶりにちょいと一杯やって、それからぐっすりと眠った。眠りに眠って、気が付いたらいつもの三倍くらいの勢いで眠り続けていた。大きな声では言えないが、丸二日程昏々と眠り続けていた。

そのうち頭痛がしてきて、これはいい加減に起きないと身体に悪かろうということで、起きろ自分とハッパを掛け、やおら起き上がり、そうして今度は予てからの個人的懸案事項であった掃除と洗濯という二大事項について、漸く解決を見た。これは随分と気合がいる作業でもあった。何しろここ何ヶ月だかずっと業務上の懸案事項に掛かり切りであったので、それ以外の事項は後回しだったのだから。当然洗濯物は山盛りだし部屋の埃も山盛りであった。

この間なぞ、急に寒さが増してきたので、徐に取って置きの羽毛布団を取り出したのだが、そいつをこうばさばさとやって空気を入れふかふかにしようと試みたところ、積り積もっていた埃も瞬く間に立ち昇り、お陰で肝心のDデイ直前にうっかり喉風邪を引く羽目になってしまった。風邪が言い訳に使えたら、どんなに楽だったろう。そんなのが通用しない事は、プロとして至極当たり前ではあるが。

まぁ何しろ目下の懸案事項は一通り片付いて、次の事項に取り掛からねばならないのだが、とはいえ全くDデイが週初めだと、事が終わった気がしない。こういう一大事はやはり金曜辺りに持ってきてくれないと、時間が無闇に過ぎてしまって仕様が無い。そうそう休んでばかりもいられないからと、ようやく活動を開始した頃には、既に週も終い。結局残りの一週間は、すっかり使い物にならずに終了してしまった。腑抜けも極まりない。あれやこれやと不行き届きの反省をしてみたり、また過ぎた事は取り返しも付かぬからと前向きに収めてみたりで、其れなりに実のある週ではあったけれど。

しかし久しぶりの穏やかな休日を迎えて、本心ではほっとしている。ここ数ヶ月の間は、休日と言えども厳密には休んでも居られない状況が続いていたのだ。やはり休みというのは、すっかり休んでこそ意義のあるものである。出来れば家は全く休む場にしたいものだが、生憎ワタシの場合仕事が持ち込まれざるを得ない場所でもあるので、中々辛いところだ。だから猶の事、頭が仕事からすっかり解き放たれて、ゆっくり寛げる休日というのは有難い。

夕べは久しぶりに鶏を焼いた。


2004年10月22日(金) 新聞で凄い物を発見してしまったのでこの衝撃を皆様にもお裾分け

朝日新聞のネット版を見ていたら、欧州連合諸国でタバコの箱にニコチン汚染された肺や歯などの写真を据え付けるという計画があるそうだ。ワタシは随分前にもうタバコは止めたので、ワタシの肺は綺麗な筈とは思うけれど、それにしてもこれは中々の衝撃である。





2004年10月21日(木) 今日もなんだかんだ言って寒い一日であった

イヌのハナシを書いたが、イヌ絡みで思い出したことがあるので、それをついでに書く。

あ、ちなみにこのサイトは、成人の読者を対象にしておりますので、お子様は見学を控えるようよろしくお願いします。性的・非性的を問わず内容が実年齢または精神年齢に不適切であったとしても、当方としてはその心身への影響について責任は持ちませんので、その旨ご了承下さい。

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亜米利加製のテレビ番組に『サウスパーク』というアニメーション番組がある。これは立派なオトナ向けの番組ではあるが、主人公はコドモ達である。もし日本に上陸していたとしても、放送禁止用語多発番組につき、くれぐれも良い子の皆さんには観覧せしめぬようご注意を。

ところでこの番組の中に、あるイヌが出てくる。彼の名前は忘れたが、主人公である四人組のコドモ達のうちの一人が飼っているイヌだったと思う。または彼らの友人である小父さんの所有だったか。ともかくこのイヌは、誰彼構わず腰を振ってしまうので、コドモ達から「オカマイヌ」と呼ばれている。

しかしこの行為はなにもこのイヌに限ったことではない。イヌ公園などに行って観察していると、実に多くのイヌ達が、走り回って興奮したついでについ、相手構わず腰を振っている様をよく見かける。飼い主が気付けば、これ!はしたない!と制止するが、気付かなければそのまま自然の成せるままになっている。そしてされている方のイヌもそれを跳ね除けないところを見ると、案外満更でもないのかと、何やら新たな発見にこちらの頬も緩んでくる。

ある日のこと、そういうワケでワタシも一応お年頃なのでデートの一つもするのだが、そのうちの一つで、たまたまイヌ公園に出掛けたことがある。上手い具合に相手もイヌは嫌いでない様子。これはいいぞ。上手いこと行った暁には、二人で大きなイヌでも飼いましょうね。勿論庭付きがいいけど、事情が許さないなら仕方が無い、アパートでもよくってよ。でも洗濯機を部屋に置いてもいいっていうアパートに住みたいの。それだけがワタシの望み。あとはなんでもアナタの好きにしていいのよ。さあ、思うがままにやっちゃってちょうだい!

は?ハナシがまた逸れた?そうね。そうそう、イヌね。

それで暫くの間、我らはそのイヌ公園にて歓談を愉しんでいたわけだが、そのうち例によってイヌ達が我らの周りにやってきて、愛嬌を振り撒き出した。もう、きゃわいいーー!!!そうそう、イヌってヒトを見る目があるのよね。

我らはぺたぺたと彼らを撫で繰り回したりして、楽しく交流していたのだけれど、そのうちとある一匹が、つい興奮したのか、我慢出来ずに傍らのもう一匹に乗っかり始めた。ちなみにどちらもぶら下がりモノが垣間見れたので、オトコノコ同士であろうことは間違いない。

ワタシはそれを見て呟いた。あら、「オカマイヌ」ってテレビでよく見るけど、実際に目の前で見たのは初めてかも知れないヮ。勿論半分冗談の積りなので、ここでは軽く笑ってもらいたいところだ。しかし相手はなんと、黙り込んでしまったのである。拍子抜けしてちろちろと顔を覗き込むと、気の所為か彼の顔は赤らんでいた。いや、気の所為だったと思いたい。

ちなみに我らは、互いに男女の交渉を初めて経験する時代は既に一昔、二昔程前の出来事であろう年代である。例えそれを久しく愉しんでいなかったとしても、またひょっとしてやり方を忘れてしまっていたとしても、初めて見る光景ではなかろう。いや、イヌのは初めて見るかも知れないが。同種のなら、世の中クラシックなところでは雑誌とかビデオをお借りしてくるというのがあるし、最近ならインターネットという便利なものもある。あれは早いね。また人によっては、誤ってご両親のをうっかり見てしまったなどというケースもあるだろうか。それはそれで難儀だが。

いずれにせよ、他愛も無いイヌの活動ごときで赤面されては、おねーさんも対応に少々困る。

そういうワケで我らはお互い無言で、暫し時を過ごす羽目になる。いや、参ったな。どうするよ。

そう自問しているうち、彼はすっくと立ち上がると、こう言った。あ、そろそろ時間だ。友人のところへ行く予定があるから、もう行くよ。

あ、そう。そうなの。もう行くの。それじゃ、また?そうね。じゃ、また。またね。ワタシは彼の後姿を見つめながら、今日は一体何だったのだろうと、暫し呆然とする。朝から気合入れて念入りにシャワーも浴びたのに。

イヌ達はまだ、他愛も無くじゃれ合っている。随分長いのね、ところで。ちょっと羨ましいかも。

そんなことを考えながら、ワタシはすごすごと家路に着いた。


2004年10月20日(水) やっとこさ掃除と洗濯を済ませたけれどなんだか頭痛がする今日一日

辛気臭いハナシが続いてしまったが、良いこともあったので、今度こそそれを書こうではないか。

ふらふらと惰性で転がっている頃、思い余っていくつかの自己啓発的活動に精を出していた。それは例えば本来業務と無関係な本を読んだりだとか、公園を散歩したりだとか、ヨガレッスンに通ったりだとか、アロマセラピーの講習に通ったりだとか、そういったことだ。特に公園にはイヌ用の区画地域があって、飼い主がそれぞれ持ち寄ったイヌたちを存分に走らせている「ついで」に、各々と交流を楽しんだりするのだが、イヌ無しのワタシはそれでもめげることなくイヌたちとその飼い主たちのそれぞれの交流振りを眺めては、何とはなしに穏やかな気分を楽しんでいた。他愛も無いイヌたちの戯れをぼんやりと眺めているのは、なんと心地よいのだろう。

そう、ワタシは数頭のイヌたちと育ったのである。そういうとなんだかほのぼのするでしょ?うふふ。

そういうワケで貰い子のワタシには兄弟姉妹がない。不平を訴えているうちに、更なる厄介者の制作を断念したと思われる両親がある日、どこぞで一頭のイヌを見繕ってきた。この若いイヌは、元の飼い主から呼ばれていた名前で新たな飼い主一家からも呼ばれることになるのだけれど、敢えてそれは明かさないで置く。なぜかというと、それはいかにも近頃閉刊したとの噂の長年続いた同性愛雑誌にて好まれた名前のようで、ちょっと気恥ずかしいから。もしくは大御所演歌歌手の愛称、と言ったらもうご理解いただけるだろうか。まだご存命中であることを祈る。(そういう動向にはとんと疎くなってしまうのが、海外生活の難ではある。)

とにかくそのイヌは、以来ワタシの「弟」となった。ちゃんと世話をするんだぞ、と暴力親父から半ば脅されながら手に入れた「弟」であるから、小さいワタシは良くその世話に励んだ。そうして我ら「姉弟」の幸せな日々がしばらく続いた。

ある日のこと、学校から帰ったワタシは、いつものように「弟」に声をかけようと裏へ回ると、見慣れぬイヌが傍らにいるのを発見した。驚いて家へ上がると、家人から今度は「妹」が来たのだと知らされる。ワタシの朝晩の日課である散歩は、少しばかり負担が増えたけれども、まあ良かろうと受け流す。やったことのある人はご存知だろうけれど、二匹のイヌをいちどきに散歩に連れて行くというのは、随分骨が折れる。あっちへうろうろこっちへうろうろ。一方の糞の世話をしているうちにもう一方でも作業が増えていたりして、まぁ難儀である。しかし若さゆえ、小さいワタシは日々彼らとの交流を愉しんでいた。

それから更にしばらくして、今度はもうひとり「妹」が増えていた。

ここへ来て、幼いワタシもいい加減に事態が飲み込めてきた。親父は「弟」を入手した際に、それが「血統書付き」であると言うことを、盛んに強調していた。彼は何しろ劣等感の強い人であるから、恐らくそういった権威的なモノに目が無かったのだろう。しかしその後やって来た「妹たち」も、多分に漏れず「血統書付き」だったのだから、目論みはもう明らかだった。ともかく幼いワタシは、以来三頭の「弟妹」の世話をするという負担を負うことになったわけで、しかしそれはワタシが本来望んだ事とは違うのだと主張したのだが、到底聞き入れられなかった。

当時は、柴犬が流行していた。

そして幼いワタシには、突然目の前に現れた「一夫多妻制」が許せなかった。

以来ワタシは「弟妹」の世話を一切拒否した。

初めのうちは親父も渋々世話をしていたのだが、そのうちさすがに面倒になったようだ。ある日のこと、学校から帰ると、なんとか工務店と書かれた車が家の前に止まっていた。近所の小母さんが、いいわねぇみぃちゃんは、お勉強部屋を作ってもらえるのねぇ、と声を掛けた。そんなハナシは聞いてませんケド、と答えつつ裏の駐車場付近を見ると、そこには六畳ほどのプレハブ小屋が出来上がりつつあった。両親はそこに、座敷に設置されていたはずのエアコンを移動し犬用のケージをいくつか置いて、「犬小屋」を作ったのだ。

そしてそれは、当時のワタシの自室より広かった。

とはいえ、犬たちはそこで殆どの時間、ケージに閉じ込められていた。朝晩両親のどちらかがえさと水を与えるついでにケージから出し、ケージ内の糞便を始末している間にその辺りをうろうろする程度の運動が関の山、という状態で飼われていたようだ。ワタシはそのことに大いに腹を立て、更に両親を軽蔑するようになった。

数年の間に、その小屋の中では、ワタシの知らない「弟妹」が各種六匹に増えていた。元々の柴犬に加えて、当時流行り始めていたシェットランドシープドッグという種類の犬たちが増えていたのだ。困ったことに、彼らにはいつの間にやらテレビで見かけるアイドル歌手らの名前が付けられていた。さすがにそれでは、家庭内での会話もなにやら違和感があった。今にしてその名前らを思い出してみるにつけ、当時の流行がしみじみと偲ばれる。彼らは今頃一体どうしているのだろう。ご存命中であることを祈る。

とはいえワタシは当時、まだ弟妹への未練があって、ぜひとも「営利目的で無い兄弟」が欲しいとねだり続けていた。それが効いたのかどうか、そのうちにもう一匹、ヨークシャーテリアが加えられた。これは小さいので、時折自宅へ連れて来られていたが、ワタシは家人がまた不釣合いな名前をつける前に、「ローマの休日」のヘップバーン様から頂いて、「アン」と名付けた。髪型なども申し分なかった。ワタシはその小さい「妹」を、格別気に入っていた。

ある歳の冬、その地には珍しく大雪が降った。その日ワタシは、母と共に私立高校の面接に出掛けていて、帰宅した頃にはすっかり雪が積もっていた。帰宅後、母がプレハブ犬小屋にえさと水をやりに出向いたところ、なんとエアコンが作動していなかったそうだ。嫌な予感がした。いつもは立ち入らない犬小屋に向かうと、一番小さい「妹」が既に固くなっていたと母が言う。可哀相な事をしたねぇ、でも仕様がないね。彼女はナースなので、こういうことに対する免疫が出来ているのか、割合あっさりと言った。

我ら家族は、それから何年かして引越しをした。その頃には、何度か入れ替わった末に残っていた、メスの柴犬と気の弱いメスのシェルティーの二匹きりになっていた。ワタシもそのうち実家を出て暮らすようになったので、たまに帰るとその気弱なシェルティーは盛んに吠え立てた。無理もない。彼女がうちに来た頃には、ワタシは彼らの世話には関与していなかったから、殆ど見かけたことのない人間なのだ。結局新居でもケージに閉じ込められていたが、その頃には親父は全く世話をせず、母が辛うじてえさや水を与え、ケージの掃除をしていた。そして時には辺りを連れ歩こうと試みたようだが、特に気弱な方のイヌは、ずっとケージで育った為に外を怖がって、なかなか敷地内から出ようとしなかったそうだ。それでも両親は、一泊以上の旅行をする際には、二匹のイヌを連れて出掛けていた。

そのうちワタシは更に実家から遠く離れた彼方で暮らすようになったので、当分そのイヌたちのことを忘れていた。

ある歳、友人の結婚式に出るということで帰国の機会があって、実家に電話をした。母は何か勿体付けた物言いで、極めて不自然だった。しつこく問い質すと、言わなかったけれどイヌが死んでしまったのよと言った。彼女は、動揺させるといけないと思ったので当分言わなかったのだと言い訳した。

ワタシは意外に思った。付き合いも浅くそれほど愛着の無かったイヌたちが死んだことで、どうしてワタシが動揺するだろうか。後からよりはっきりと認識するのだけれど、これは母お得意の言い訳である。「そういうこと」にして、ワタシに長らく連絡をしないでいたのだ。だからワタシがどんな用件があっていくら電話をしようとも、緊急の要件があるからと留守番電話にメッセージを残して折り返し連絡をくれるよう頼んでも、切羽詰ってファックスを送っても、それまで返事が来た例がなかったのだ。いくら捨て子でも、もうちょっと何とかならないのか。

ワタシは母の言い分を遠くで聞きながら、イヌたちはせめて成仏してくれたろうかと思った。

・・・

(はっ・・・なんだか楽しいハナシにならなかったみたい・・・)

思い出す事などを書き連ねているうちに、色々と思い出してくるものだね。


2004年10月19日(火) 本日ようやく暖房が入りまして少しばかり温んだ部屋にて執筆中

前回の街の悪口からつづき。

暇が多い人ならばどうにか余暇を楽しむ手段もあろうから、適応も出来よう。しかしワタシの場合はそもそもその暇がなかった。いきなり大忙しな生活が始まってしまって、それも無理難題を押し付けられて日々混乱し、苦戦しながら、例えば最初の数年は次から次へと起こる同居人や大家にまつわる問題とも戦わねばならなかったし、知り合いもいないところへ突然越して来る羽目になったので、どこへ行けば何が手に入るとかいうような、いわゆる土地勘というのを養うまで、すっかり労力を割くことになった。

更に混乱ついでに変な男にひっかかったり、我儘な友人に手を焼いたりというような、余り褒められたものでもない経過もあったのだが、ともかく最初の数年間というのは本当に大忙しだった。

それでそれらの嵐のような何年間かが過ぎた頃、ようやく落ち着いて辺りを眺めてみたらば、なんだか途方も無く場違いな処にいるような気がしてきたのだ。ワタシが日々関わっている事どもは、そもそもワタシが本来手掛けてきた事とはずいぶん趣向が違っていた。自分が希望したので無いところにやられたような気がして、最初の頃は随分混乱したり転向すべきか迷ったりした。

あの時思い切って転向しておれば、今頃もっと幸せな暮らしをしていたろうにという思いも無いではない。しかしあの頃のワタシは、というかどの頃もそうだけれど、その時その時で入手可能な情報と既に培った知識と有りっ丈の知恵を最大限に活用して、最適と思われる決断を下すように心がけていたのだから、その決断が失敗だったからと言って、今更ワタシを責めたところでどうにもなるまい。それに時には、事前には知る由も無い問題というのが待っている場合もある。予期せぬ問題が持ち上がって、こんな筈では無かったのにと後悔しようとも時既に遅しで、過去に立ち戻って決断を変更する訳にも行かないのだ。

そんなワケでワタシはこれまで随分苦汁を舐めさせられてきた。その数年間の中で、殆ど惰性で生活が回っていることに気付いて以来、本来のワタシのよさだとか元々持っていたエネルギィだとか、そういったものを取り戻したいと思うようになったのだ。

ワタシの生活は、もはや本来ワタシが持っているうちの三割程度のエネルギィで成り立っている。最初にこの街に越してきた頃と現在までの間の数年分が、なぜかぽっかりと抜け落ちたようになっている。何をしていたのか、自分でもよく思い出せない。業績も残さず、前進もせず、ただどうにか日々を繰っていたように思う。この停滞の時期が、いかにも口惜しい。まだ若い身空で、一体何が哀しくて異国の地で数年間も、亡霊のように暮らさねばならなかったのか。

そしてこの街で亡霊でいるというのは、誠に不経済極まりないのである。


2004年10月17日(日) 本日はどんよりとして肌寒くそして暖房はもちろん入らないので当然着膨れ状態

この街の悪口をさんざん並べているけれど、いいことも多少はある。

ワタクシ事だが、この街へ来てやっとバイリンガルになった。それまではニホンジンが少なかった所為もあり、日本語を使う機会はほとんどなかった。そういうワケでワタシは捨て子なのであまり日本に帰る機会はないのだけれど、たまにニホンジンに会うと、いったん現地語から日本語に訳して発声するので下手な和訳語みたいになって、苦情が絶えなかった。

それがたまたま同期にニホンジンがひとりいて、これがまたとんだ 「がみがみガール」ですっかり手間を取られたけれど、なにしろ彼女があんまり言葉が出来なかったお陰で逐一通訳を頼まれる事態に至って、徐々にワタシの日本語能力にも磨きがかかり、ようやく両国語を操れるようになったのだ。

時折翻訳の仕事もするようになった。仕事といっても、それだけで食べていける程の頻度ではないのだけれど、ないよりは良いだろうと思うことにしている。今抱えている仕事が明日済んだら、そっちの締め切りが待っている。(もう明日か・・・)

この街は、幸か不幸か、ニホンジンが沢山住んでいるらしい。以前住んでいた街には日系企業の工場があったので、日本人家族もいくらか住んでいたけれど、それでもたまに見かけるくらいだった。しかしこの街ときたら、世界中に散らばるニホンジンの住む街の中では一二を争うらしい。だから日本食レストランだの日系スーパーだのがあちこちにある。お金に不自由しない駐在さんなら、いつでもお好みの日本ご飯が味わえるというわけだ。

ちなみにワタシはどちらかというとお金に不自由しているクチなので、たまに特売のラーメンのパックやら醤油やらを買いに出掛ける程度である。だから個人的にはあまり恩恵に浴していないけれども、おそらくこれはいいことのうちに入るだろう。

そうそう、ワタシの好物のひとつに、カレー味の煎餅がある。これは例の日系スーパーで売っている品の一つなのだけれど、要するに割れ煎餅とでもいうのか、形が綺麗に揃っていない煎餅のことである。これが大きな袋に入って、カレーが塗してある。他にも醤油味や揚げ煎餅などもあるのだが、ワタシのお気に入りは断然カレーである。

多分これには一頃この辺りで問題になったMSGといって、「一度これの掛かった食べ物を食べると、おいしくて仕方が無くていくらでも食べたくなってしまう」とかいう類のものが入っているに違いない。だからこれを一度食べると、ワタシもつい癖になって、朝からこれを食べたくて仕方が無くなる。しかし多少カレー臭が残るので、朝飯にカレー煎餅は極力避ける様にしている。

何のハナシだっけ?ああ、そうそう、街の悪口ね。

ワタシがこの街が気に入らないのは、それは多分に今置かれている状況が相当に耐え難いものになってきている所為でもある。自分の勝手な都合で街自体をすっかり嫌いになってしまうとは、街に対して失礼というものであるが、しかしこの街の特徴が、タダでさえ苦痛の多いワタシの生活に余計な苦痛を増しているのも実際事実である。例えばこの街は物価が無闇に高いので、生活を立てていくのは相当の苦労である。貧乏人にはお勧め出来ない街である。しかし結果としてここに住むことになってしまったワタシとしては、否も応も無い。

長くなりそうな予感につき、つづく。


2004年10月15日(金) ほとんど日記じゃないけれどまあ気にするな

そういうワケで最近のワタシはちょっと用心深くなった。もちろん言わなければならないことは言わないと誰も面倒などみてくれない土地だから、それなりに主張はするけれど、そういうことを言う相手も選ばないといけないと思うようになった。残念なことにワタシの住む業界では、いつ誰が敵に回るか分からないところがあって、全ては自己責任において心身の安全を確保せねばならない。

何年か前はまだそれに慣れなくて、大学以来の旧い友人にまで突っかかったりしたこともある。ごめんよ。きっと許してくれていると信じているが。また時には遠く離れた友人に愚痴や不平を訴えたりしたものの、相手はワタシの置かれていた状況を恐らく理解し得なかったろうし、手ごたえの感じられない返事に更に気が立ったりするワタシの扱いにもさぞ困ったろうとも思う。これはワタシの母も多分同様に手を焼いたろうと思う。実の母親でないからなのか知らないが、とにかく彼女は一切の連絡を絶ってしまったのだから、ワタシとしてはほとほと困り果て、酒と薬と男に頼る生活を余儀なくされてしまったのも致し方なかろうと思う。

えっと、何のハナシをしてたんだっけ・・・ あ、そうだ、だから自己責任。いや安全確保。

最近のワタシは随分と異国での生活にも慣れてきて、まあそれなりに暮らしているけれど、この街は割合と大きいところなので、その昔は凶悪犯罪が絶えなかった。一番最初にやってきたときは、ワタシはまだ二十歳そこそこの学生だったのだけれど、その当時は道を歩くにしても、前後左右にぎろりと睨みを利かしながらの大仕事だった。なんでまたそんな街を初めての土地に選んでしまったのか自分が知れないが、なにしろとにかく当時のワタシには憧れの大都会だったのだから仕方がない。日本でも都会に生まれ育ったのだが、おそらく早く日本から、または実家から出て行きたくて仕方が無かったのだろうと思う。生まれて初めてひとりで出掛けてきたワタシに、この街はとても刺激的だった。ガイドブックやパンフレットに出ていたことは、一通りすっかりやってみた。夢にまで見た劇場で、すでに演目が変わってしまっていたのを知ったときは、すっかりがっかりした。地下鉄は怖いからと、ボラれないよう細心の注意を払って乗ったタクシーも、それより外が見えた方が心強いからと乗ったバスも、映画でみたのとおんなじように汚かった。

あれから十数年経った今も、この街は汚いし臭いしゴキブリやネズミはうようよいるし物価は高いし人もぞんざいで失礼だけれど、それでも多くの人々を世界中から引き寄せているようだ。毎日毎日、目を輝かせてはバカ口を開けてあちこち見上げている観光客をたくさん見るよ。彼らは本当に楽しそうだ。

でもワタシはもうすっかり、オナカいっぱいになってしまったのよねぇ。

そう言っては罰当たりだと言われるかもしれないけれど。

でもそうなのだから仕方がない。

元々この街には観光でやってきて、さんざん観るものも観たしで、もう当分訪れる予定はなかった。しばらく他の街にいて、拠所ない事情により他所へ移動することに決めてから、いろいろあたってみたのだけれど、まさか結局またこの街に戻ってくるようになるとは思わなかった。

久しぶりのこの街は、随分綺麗になっていた。人も、元いた土地に比べると数段親切でにこやかだった。でもそれはほんのごく一部の人であることがいずれ判明するのだけれど、久しぶりの都会はなにしろ心地よかった。いざ本格的に活動開始となってからは、それも不便極まりないし不愉快な出来事も多いしなにしろ融通が利かないし、とんでもないところへ越してきてしまったと嘆いたものだ。元の街に帰りたいと何度思ったことだろう。でもそこはワタシにとっては帰る場所ではなく、再び訪れる機会すらもはやないであろう、通過点に過ぎないのだけれど。

とにかくこの街はすっかり安全で(比較的)綺麗になっていた。ワタシの知るほとんど全ての友人が、この街はエキサイティングで住めるだけで光栄なことだと言う。多分そうだろう。そう思わない人は、恐らく住むべきではない街。猫に小判。ワタシはまさにその猫に違いない。


2004年10月11日(月) ひとが寝静まった夜更けにひっそりと日記をシタタメル

そういうワケでワタシはたまたま国外に出て暮らすようになって随分と時が過ぎたのだけれど、そうこうしているうちにいろいろと気になることが出てきた。実際、些細なことなのだが、文化の違いをしみじみと感じるなどというのは可愛いもので、そんなことよりもっと腹の立つことも出てきた。いわゆる不条理というやつで、でもよくよく考えてみるとワタシという人間は昔っからそんなのによく纏わり付かれて困っていたようにも思う。

そうそう、よく考えてみたら、確かにその通りだよ。例えばその昔、共働きの両親を持ったワタシは、毎年夏休みになると母方の実家へ有無を言わさず追いやられていたのだけれど、あるときには伯母からなんと「ウソツキ」呼ばわりされたのだ。当時中学の英語教員をしていた伯母は、ワタシと近所の同世代の期間限定遊び友達をよく学校のプールへ連れて行ってくれた。元来日本人的に言うところの目が大きめなワタシは、大概目を真っ赤にしてプールから上がってくる。ゴーグル無しで泳ぐのだから、物理的にどうしても無理があるんだな。そうすると彼女は、帰る前によく目を洗うようにと言いつけるわけだが、洗っても洗ってもワタシの目はいつも真っ赤っかで、そうしてそのまま帰途に着く。そして夕食時、別の伯母があら目が赤いじゃないと指摘する。すかさず例の伯母が、あれほど目を洗えと言ったのに、言うことを聞かない子だ、と言う。ワタシは、ちゃんと洗ったもんと言い返すが、すると、いやこの子はウソをついているんだ、と言う。そうなるともう、他の家族は何も言わない。皆黙々と食事に専念するのだ。

ああ、嫌だな、いろいろ思い出してきちゃったよまったく。とにかく当時のワタシは、仮にも教員のくせにいたいけな少女を疑うなんて一体どういう了見だとひとり憤っては、ご先祖さんの祀ってある仏壇のある部屋へ行って、ご先祖さん相手にあんたたちはいったいどういう育て方をしたのだと、お小言を言いながらしくしく泣きべそをかいていたわけだ。だって誰も加勢してくれる人なんていなかったのだから、思い出しても我がことながら不憫に思う。あれは絶対、ワタシが貰い子だったからに違いないと思う。多分。

しかしそのうち中学に上がると、さすがにもう田舎へ追いやられずに済むようになってほっとしたのだが、その伯母からは祖母の法事で訪れたときにもまたなんだったか意地悪を言われたような記憶がある。そしてまたワタシは得意のご先祖さんに告げ口をしに、こっそり仏間に籠もるわけだ。

なにしろそういうことだから、謂れのない疑いをかけられたりするのは慣れっこだったのだけれど、とはいえそういうことが幼少期以降も続こうとは思いもよらなかった。特に国を出てきてまでそういう仕打ちが待っていようとは、本当に予想もしなかったことだ。でもよくよく考えると、これまで慣れ親しんだ「常識」とここいらの人々にとっての「常識」は随分と違うものなのだから、それはそれで納得のいく道理でもある。

しかしどんなに辛くたっても人の道にだけは反しないようになんて心がけていると、時折間抜けな目に遭ったりもする。ナイーヴなんて言葉が聴かれるようになったら、ちょっと注意しなけりゃならない。なにしろそれは可愛らしい意味なんて全くなくて、むしろ頓馬か間抜けといった方が正しいのだから。そしてここいらの人々は、それを大いに嫌っている。

つづく。


2004年10月07日(木) 初めてエンピツさんにお世話になる

ひとの日記を読んでいるうちに、自分でも日記を書きたくなってしまって、しかしどうしたらよいのか分からず途方に暮れていたら、エンピツさんというよいものを発見した。早速日記を書いてみることにする。

とはいえ実は余り時間がない。差し迫った用件を抱えているので、呑気に日記なぞ書いている暇はない。しかしこういった時特有の、たとえば試験前になぜか部屋の掃除を始めてしまうような気持ちに似て、なぜか日記を書き始めてしまう。

ひとつきっかけになったのは、いつも楽しみにしていた日記が最近終了してしまったことにある。大変残念に思いながらお別れのメールを差し上げたのだが、そうなると益々自分でも書きたくなってしまう。巷では日記をネットに掲載するという行為は、既にブームを外れたのかもしれない。だがそのハシリの頃ワタシは既に大忙しだったのだから、致し方あるまい。だからといって今は忙しくないのかと言えばそれも違うのだが。

しかしヒトのホームページにお邪魔してあれこれ書き連ねているのも、随分と失礼な気がしてきた。言いたいことがあるなら自分のサイトを持て、とはまだ誰からも言われていないが、それもさもあらんと思う。しかしそんな暇があったら苦労はないのだと、誰とはなしに愚痴を溢していたのだから、それならさっさとこういった便利なモノをお借りして愚痴を溢すサイトでも始めればよかったのだ。

とにかく今は時間が余りないので、とりあえずこれにて一時終了とする。後日に続く。


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