書泉シランデの日記

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『神様』 
2006年04月30日(日)

川上弘美の短編集。
確かに面白かったのだ。1時間足らずの車中で夢中になって読みふける程度に面白かった。

が、読み終えて、これが彼女の子育て時期の作品だと知って、なんだか急に舞台裏を見てしまったようで、自分でも驚くほど醒めてしまった。

「そういえば、これはあれだわ」とばかりに、それぞれの作品の契機となった絵本が思い出せるような気がした。

ドゥマゴ文学賞、紫式部文学賞受賞というにはあまりにパワーがない。面白く読んだのだから、それでいいではないか、といえば、その通りなのだ。型どおりの展開で、前を読み返すことなく次のページを開き、愛すべき登場人(動)物たちは想定可能な場所に着地してくれる。癒しとはいいがたい結末であっても、足元にぽっかりと開いた穴を見せてくれるようなことはない。ともかく何の不安もない作品ばかりである。

以前『センセイの鞄』を読んだ。前半と後半の齟齬に不満を感じたが、面白いお話ではあった。ただ、これも谷崎賞か、と思うと、何だか文学って低調なんだなあ、と思わないではいられない。芥川賞の『蛇を踏む』を読めば認識が変わるだろうか。

既成の路線で破綻なく、そこそこの文章力で運べばいいのだろうか?面白く読んだくせに文句をいっちゃあいけないかもしれないけど、でも、それじゃあどこか違うんじゃないだろうか?

私は文芸誌も読まないし、小説はよほどのことがない限り、文庫化されるまで読まない。だから、時代に後れていることは間違いないのだが、面白さを確実に供してくれるのが優れた作品だというなら、万事万端、直木賞に任せればどうかと思う。もちろん小難しいのが純文学だというつもりはない。ただ何の冒険もない、それまでの小説家と大差のない作品を書く小説家がここまで華やかな受賞歴を持つことに驚くばかり。

息子が読んで、ぽろっと「川上弘美って優等生的だよな」と洩らした。あんなオタクに同調するのは癪だが、そういうのが正しいのかもしれない。


『百人一首の作者たち』
2006年04月27日(木)

著者は目崎徳衛。そういえば、学生時代に文庫本でなく出ていたような気がする。後ろをみて確かめるとやっぱりそう。でも、学生のとき読んでも面白くなかっただろう。なにせ無知だったから。

天智天皇から後鳥羽院までの百人、結構、それぞれドラマがあるもんだなあ、と感心した。普通「百人一首」は歌だけ読む。(坊主めくりだけという人もいるけど。)でも、つぶさに見ると、その時々の政治情勢のなかでずいぶんみなさんご奮闘だったようだ。そこで文学の理解には歴史の理解がかかせないねえ、と思う私。何も閻魔大王の配下になったような派手なエピソードを持たなくても、地味なおっさん方は地味なりに人生のドラマですわ。

ただ、本書は史料の直接の引用はそう多くなく、目崎先生の言葉を信じるしかない。多少甘いといえば甘いし、想像たくましいやね、と思わせる節もある。が、しかし、それを批判してしまったら、万事休す。だからこれは啓蒙的で優れた内容ですと断言しましょう。読めばたちまち歌に人の息吹が感じられまっせ。

さて、こういうものを読んでいつも不思議に思うことだけれど、「天皇」が絶対的な神様だった時代なんて、ほんとうに短いんじゃないの?ということだ。長い歴史を振り返ったとき、幕末にはちょいとラディカルな人もいるが、近代の一時期を除けば天皇って絶対的な支配者ではない。それなのに、どうして<昔は天皇が神様だと思われていた>ような物言いがまかり通るのかしらん。天皇が島流しされていたこと、ご存じでない?

最近、日本史を選択しない高校生も多いし、古文の時間は作品の内容を考えるような授業がほぼありえないし、だんだん歴史を自分なりに検証できない人も増えるんだなあ、と暗い気持ちになる。

「百人一首」から逸れてしまった。「百人一首」成立時分のごたごたも十分面白いが、個々の歌人を歴史的なパースペクティブにおくとなお面白い。で、20年以上前に出版されたものが昨年文庫化されたわけである。今はこういうものを新たに書き起こせる人はいないのだろうか、それとも昔のを使うのが安上がりなんだろうか。両方かな。ちょっと寂しい、あ、また暗い気持ちになる。



おとな
2006年04月18日(火)

最近、「おとな」という言葉が気になる。

朝、テレビで、女子アナが何だったか品物は忘れたけれど、「これなら大人の方でも十分着こなせます」というような発言をしていた。即、お前は未成年か、と突っ込みをいれたくなった。

生協のカタログを見ると、「おとな仕立てリブ」とか称して、リブ素材カットソーのプルオーバーが出ている。(ただし2848円・・・これで「おとな仕立て」とはいかなるもの?)

美容院で見た雑誌にも「おとな」満載で、そのときは中年のことを「おとな」というのかしら、と思った。今朝の女子アナの言葉も子持ち、あるいは中年を指すものかもしれない。「おとなの隠れ家」なんていう文句もしばしば見かける。大方は若向きじゃない店のことだ。

つまりはオヤジだのオバサンだのと侮蔑されがちな世代を消費者としてターゲットにしたとき「おとな」と呼ぶのだろう。あほくさ。

数年前に、蔓で編んだ素敵なバッグを持っていた友人が「おとなの値段」という言葉を使った。蔓素材のバッグなどピンからキリまであるけれど、若い子でも買えるような安物ではないということだと理解した。なかなかいい表現だな、と思ったものだ。本当はこうやってこそっと使いたい言葉なのに、濫用されて全く残念。



都民響の公演
2006年04月16日(日)

都民響の公演を聞きに行きました。授業参観気分です。

本日の聴衆は後援会関係者を除き抽選ご招待。文化会館が満席だとはいわないものの、9割近く埋まっています。しかも普段コンサートに通いなれているとは思えない年配の人の姿が目立つのは、50年以上の無料公演の成果なのかもしれません。東京にはいくらもオケはあるし、海外からも一杯来るし、どうせ聞くなら何もアマオケじゃなくても、と思いがちですが、誰もがチケットを買えるわけでもありません。

それを思うと、アマオケとはいえ、身内ぼめの世界に陥らないで、お客さんに来ていただけるようにするのはとても大事なことだというべきでしょう。もちろん演奏の傷はいくらも指摘できるのですが、チャリティー臭はもとよりありませんし、聴衆の多さという緊張感も生まれます。本当なら都響あたりに予算をつけて、都がプロによる無料公演を実施するべきだと思いますが、石原都政はまるっきり逆行しているので、ここは企業の寄付金集めに回ってもアマオケに頑張って欲しいものです。

本日の出し物は「ばらの騎士」組曲(R.シュトラウス)とバレエ組曲「火の鳥」(ストラヴィンスキー)。後者は私の好みではありませんが、よく健闘しておられました。前者はう〜ん、クライバー×ウィーンフィルのイメージが強いんですよねえ。次回はブルックナーにワーグナーだとか・・・たまにはほれ、ブラームスとかベートーヴェンとか、アマオケの定番曲も聞いてみたいものです。



『平家物語 あらすじで楽しむ源平の戦い』
2006年04月14日(金)

告白します。私は「平家物語」を通読したことがありません。でもこの中公新書『平家物語 あらすじで楽しむ源平の戦い』(板坂耀子 著)を読んで、通読したくなりました。

「あらすじで・・・」とあると、1昨年あたりに出た、高校の校長先生が書いたしょーもないあらすじ本を思い出して、げんなりしますが、これはそういうゴミ本とは違います。「あらすじで・・・」と副題がついたのは、著者の遠慮がちな気持ちの表れだろうと想像します。

ハイライトを追うから「あらすじ」なのでしょうが、それぞれの場面や人物に対する著者の入れ込みが感じられて面白いです。研究者はとかく対象に対して公平であろうとするあまり、個人的感懐を隠して淡々と解説をすすめがちです。結果、辞書の項目のような解説が仕上がり、全然「食欲」をそそることはできません。

この本については、「そうか、この人がこんなに一生懸命になるのだから、平家は面白いに違いない」と信じてしまう程度に「食欲」がそそられます。大学の授業のほか公開講座などでも「平家」を扱った経験がおありのようですから、馴れた筆致で話が運ばれます。

作品の世界観とか執筆の姿勢などについては、随所で言及されるのですが、言及に留まって展開はされないので、この点は中途半端な叙述だといわねばなりません。もっと聞きたいです。でも、だからこそ、原作で確かめてみようという気になるのも確かです。

第1章は原作を全然読んでいなくてもある程度は楽しめます。第2章は読んでいないと少しつまらないかも。また時々、客観的には全然関係のない西洋文学や児童文学、マンガなどが引き合いに出されます。著者の頭の中ではそれらが渾然と相まって「平家」の魅力を引き立てるのだろうと推察しますが、突然、塗りのお重からグリコのおまけが出てきたような読み心地がして、私はあまり感心できません。あらずもがな、です。著者の素顔が感じられる点はいいのですが、素顔は別に知らなくてもいいのです。

タイトルだけでバカにしちゃいけません。私は「平家」の中では、直実×敦盛が好きです。忠度の「にっくいヤツかな、味方よと云わば云わせよかし」の台詞もかっこいいです。

・・・最初に通読したくなった、と書きましたが、でもやっぱり心のどこかで、「平家って通読するような作品かなあ」とも思っています。断片、断片が読まれつがれて愛されることで今まで生き続けたのではないか、と。


ハイドンもなかなか
2006年04月13日(木)

ハイドンのヴァイオリン協奏曲3曲とチェロ協奏曲2曲が入った2枚組CDが2000円しないとなれば、そりゃあ買いでしょう。ヴァイオリンはテツラフ、チェロはモルクとなれば、倍値でも買ったでしょうよ。けど、チェロ協奏曲はともかく、ハイドンのヴァイオリン協奏曲なんてあったっけ?

とまあ、そんな風に思える程度にハイドンのヴァイオリン協奏曲は有名ではありません。しかもハイドン作を疑われるものも入っています。(でもモーツァルトだって、1番とか2番とか怪しいものね。)

とにかくあんまり期待はしていなかったのです。

でも、とってもきれいな曲でした。時にモーツァルトかと聞きまがうような輝きを呈しながらも、ハイドンらしく無理のない整った作で、我がひいきのテツラフにはぴったりでした。(カデンツァはあまりに現代的で浮いていたけれど、これはどうせテツの自作でありましょう。)ハイドンって構成をごまかしたら途端にどーしょーもない曲になりそうだし、半端な色気を凝らしても下卑ちゃいそうだから、生真面目なテツらしさが実にいい感じをかもし出します。

チェロ協奏曲はしばしば演奏される作品ですが、これをひくモルクもきっちりかっちりで上々でありました。譜面どおり演奏すればいいというものではありませんが(子どもの発表会じゃあるまいし)、譜面どおりにひき、なおかつアピールする演奏って、確かな知識と技術に支えられた感性の生み出すものではないでしょうか。

ヴァイオリンもチェロも演奏者のスタイルと曲がよくマッチしているんでしょうね。名手ヴェンゲーロフにひかせたら、ハイドンの人格が変わってしまいそうだし、ヨーヨーマも何か企ててハイドンの影を薄くしてしまいそう。(それでもきっとハイドン先生は文句をいわないでしょうね・・・なんせ宮廷楽士だもん。)


恋はこりごり
2006年04月10日(月)

『六百番歌合』という歌集があります。歌合なので、番ごとに左右から歌人が1首ずつ詠んで出し、判者がその優劣の判定をします。600番あれば、当然全部で1200首。ここまでは別にそう驚きでもないかもしれません。でも、その半分が恋の歌。つまり600首の恋の歌を12人の男性が詠んでいます。1人50首ずつ、それぞれ題の異なる恋の歌を詠むのです。

暇? たいしたもんだよ、その情熱、と思わないではいられない。でしょ?

好き勝手に彼女のことを想って詠むというものではなく(そりゃ昔の女のことなど思い出したことはあったかもしれないが)、一応全部お題はあてがいで決まっております。クイズに答えるようなもんです。恋の諸相を事細かにああだ、こうだ、ああだ、こうだと・・・恋ってそんなに考えがいがありますかね?しかも男ばっかり12人寄り合って。おまけにうち2人は僧籍。何を考えとるんだ、この生臭ぼーず!

初恋にはじまり、忍恋、聞恋、見恋、尋恋(尋ねて行くだけよ、会っちゃだめ)とまあ、これだけでも十分面倒くさいです。歌は詠めなくても、それぞれの情景を絵に描くつもりになったら、どんな絵が描けますか。まだまだ続きますが、面倒なんで途中は省略していくつか紹介。怨恋、旧恋はまだしも、暁恋、朝恋、昼恋、夜恋・・・あ〜うんざり・・・老恋(大昔からあったんですねえ)、幼恋、遠恋、近恋・・・寄鳥恋、寄獣恋、寄虫恋・・・寄樵夫恋、寄商人恋(コスプレでもするのかい?)。

とまあ、こんな具合にいろんな恋があるわけです。もちろんどんな恋にしても王朝美を漂わせてエレガントに詠まないと×です。獣に寄する恋では熊だの馬(駒)だの猪だの虎だのと登場します。(どんな歌か知りたいでしょ?『六百番歌合』読んでください。)

こんなにこてこてに恋の思いを表現しようとしたご先祖様がいたのに、どうして日本人男性は恋の名手として名を馳せることができなかったのか不思議です。女性は♪「待〜つわ、いつまでも待つわ、たとえあなたが私につれなくっても〜」♪という具合に、20世紀末までこの「待つ女」を引きずってきました。しかし男性が女性の立場になってまでして、あれこれ案じてくれた恋心の山のような伝統は一体どこに雲霧散消したのでしょうか。

それにしても、私は飽きました。真面目に『六百番歌合』を読み始めて、半分を過ぎ、恋にたどり着き、恋の三分の一くらい読んだところで完全に胸焼けしています。あ〜あ。


『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』
2006年04月07日(金)

和菓子好きです。虎屋の羊羹好きです。なんのかの言ってもやっぱり虎屋だと思うことがよくあります。

この新書は虎屋好きには読んでいてとても楽しいものでした。虎屋の諸記録を紐解きながら、社長さんがいろいろ語るというスタイルで仕上がっているのですが、御所御用、皇室御用達の店なんて、一私企業というよりは、やっぱり日本の文化でしょう、と思います。虎屋の記録を見ないとわからないしきたりもたくさんありそうです。

我々庶民には内緒で、皇室のためにいろんな特注のお菓子があるんですねえ・・・羨ましいというより、宮廷文化が今もこういう形で密かに生き延びているんだなあと感心しました。某内親王さんの大学卒業茶会に出た押し菓子も虎屋が納めていたんですね。大膳所でこしらえたのかと思っていました。(出席した方から一個だけ分けていただきました。)

和菓子にはエレガンスがあると思います。

四季を反映し、歌の文化と響きあう何か。歌じゃなくてお茶でしょう、茶の湯でしょう、という声もありそうですが、tea ceremonyを可能にしたものは歌によってつむがれてきた文化ではないでしょうか。

和菓子の銘に比べると、洋菓子は即物的な命名でつまらないです。中華菓子がまだまし。もちろん実質おいしければ名前は二の次ですが。

そういえば、うちの男どもはつい先日まで「夜の梅」がなぜ「夜の梅」なのか知らないままぱくついておりました。私は今日この本を読んで、なぜ「空の旅」が「空の旅」なのかを知りました。ずっと気になっていたので、なるほどね、と。

ゴルフ最中のホールインワンが大正末年に出来たというのも驚きでした。キッチュな感じさえして、あれも好きなんですが、キッチュじゃなくて、岩崎小弥太夫人の考案だとは、なんだか日本近代のセレブの暮らしを垣間見るようです。

ひたすら伝統墨守に走って、過去によりかかるのではなく、得意客の求めに応じていく、という点からは、時代と共に新たな伝統を創出する文化拠点という印象を受けます。そこまでいうと、ひいきの引き倒しでしょうか。

甘党じゃない人には何にも面白くない話かな。虎屋ファンには是非ご一読を勧めます。ただただ楽しく、読後には羊羹の一切れでも欲しくなること請け合い。


カヴァレリア・ルスチカーナ/道化師
2006年04月06日(木)

新国立劇場4月の出し物です。
見てきました。ともに犬も吐き出しそうな、どーでもいい愛欲のもつれ。特に前者がくだらない、と感じたのは出来のせいですかね。

カヴァレリア・ルスチカーナというとカッコよく聞こえるけれど、『田舎騎士道』という程度のことらしい。元カノとよりを戻した婚約者に対し、主人公が嫉妬して、元カノの亭主に告げ口。亭主と婚約者が決闘して、婚約者が死ぬというだけ。あほくさ。

今日のキャストだと、主人公の女性があんまりおきれいじゃない上に老化も進んでおられて、そりゃあ元カノとよりをもどすわなあ、みたいな思いが拭えませんでした。歌が下手というより、もう旬を過ぎた声で、たくましいばっかで、やっぱ男は逃げるぞ。また男のほうも、あんまり調子上々とは思えず残念。カーテンコールにはブーが盛んに飛んでいました。ブラヴィも負けじと飛んでましたけど。私的には黙って手だけ叩けば十分です。

婚約者が決闘に向かう前に、自分の母親に「おいらが死んだら彼女を母さんの娘にしてやってね」としつこいのです。イタリア娘は彼氏が死んでも姑と契を結びたいものでしょうか。わたしゃ御免こうむります。

『道化師』はよくよく考えれば、主役のパリアッチにかなり同情可能なんですが、まあ、短いからあれこれ感じる前に話が進んでしまいます。でもこれは『カヴァレリア・ルスチカーナ』よりうんとよかった。大村博美さん◎、クリスティアン・フランツ◎、河野克典さんも○、舞台も楽しかったし。


夜桜見物
2006年04月01日(土)

明日はお天気がくずれるというので、横着な私も夜10時過ぎに花見に行きました。なに、近所の桜並木を車で一走りするだけなんですが。

4車線の道の真ん中まで両側から枝が張り出す見事な並木です。道に沿って商店などがなく、薄暗いとおりですが、街灯がはからずもライトアップの用を果たし、サクラが白く浮かびあがります。

人ごみが嫌で、外で地べたに座って物を食べることがキライな私は、この車上花見が結構気に入っています。

命二つの中に生きたる桜かな、という芭蕉の句が頭に浮かびました。若いときのお花見友だちと別れて20年もたってから、同じ桜の木のもとで再会すれば、そりゃあずいぶんドラマチックでありましょう。でも、ことの順序はどうなんでしょう?

再会して、ふと気付くと桜が咲いている、「おい、あれはあの桜じゃないか?」というのなら許します。でも、あの桜の下で会うんだ、という意識が実際の出会いに先行するのであれば、げげげのげ。ワタクシ的には芭蕉さんはきっと後者だと思うんですね。なにしろ人生そのものが風狂ですから、常時演出過剰傾向です。芭蕉さん、ネタにしてゴメンナサイ。でも、あなたの花の句はどれをとってもつまらないと思うわよ。



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