書泉シランデの日記

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ブロンフマン×シャハム×モルク・トリオ
2006年05月28日(日)

久々のサントリーホール。
ブロンフマンのピアノにシャハムのヴィオリンがついて、モルクのチェロが来ると、ほら、最高のトリオでしょ。 これはやっぱり聞いてみなくては。

最初はシューベルトのピアノ三重奏曲第1番変ロ長調。曲そのものがイマイチだと思う。演奏が、ではなく曲が散漫で、長い割りに構築するものがないような気がする。

サントリーホールは室内楽向きじゃないなあ、音が天井のほうに拡散しちゃうみたい、と思いつつも、ブロンフマンのピアノは意外だった。演奏者の姿かたちとは異なる柔らかい音色。

2曲目は亡きスターンに捧げるという前置きつきで、「偉大な芸術家の思い出に」。これは三人ながらに聞かせどころがあり、なんといっても作曲はチャイコフスキー先生だから、歌う、歌う。とっても彩り豊かな演奏で、今日のチケットはこれだけでよかった。 テンポの揺れをあれこれ言う向きもあろうが、私は楽しめたな。

モルクのチェロは枯れた優しい音で味わいがあった。シャハムの繊細さはいつもの通りだが、それでもピアノに負けることなく、美音を聞かせてくれた。にこにこ楽しそうだったし、満足、満足。

アンコールなし。これも好感がもてる終わり方だった。時々、興に乗ると3曲も4曲もアンコール演奏をする人がいるけれど、本来のプログラムに全力投球してくれればおまけはいりません。

もっと小さいホールで演奏してくれたらもっとよかっただろうになあ・・・財布は激痛を催しただろうけど。ちなみに私の好みはトッパン。


『たったひとりのクレオール』
2006年05月27日(土)

副題に「聴覚障害児教育における言語観と障害認識」とある。著者の上農正剛氏は長年聾児の教育に携わってきた人。

周りに聾者がいないと、そもそも聾であるということがどういうことなのか、実際のところはわからないのではないだろうか。耳が聞こえないことは言語を獲得するのにどれほどの困難があるか、ということさえ、想像できていない人が少なくないと思う。聾者でも頭の中には日本語の言語体系があって、単に人の話す言葉が聞こえないだけ、というような想像をしていないか。

中途失聴の人ならそういうこともあるだろう。

でも生まれながらに聞こえない人(程度はいろいろにせよ)はどうやって言葉を手に入れるのか?

そんなこと、考えたこともなかった、というのが私の出発点である。

言語獲得の問題を一旦、横においておくとして、今は補聴器の性能がいいから、普通の公立学校で十分に学べるのだろうと思っていたし、現に大学進学を果たす人もいる。それでいいんだろうと思っていたが、実はこの問題はそんなにあっさりと片付くことではないということが、本書を読んでよくわかった。聾の子どもたちは圧倒的に立ちはだかる聴者の世界との軋轢の中で育ち、自分を確立していかねばならないのだ。

手話というものも、テレビで目にするような手話(音声言語対応手話)とは別に、日本手話という自然言語に近い独立した手話があることを初めて知った。日本手話の世界に生きる人たちにはそこで培われた文化があり、半端に補聴器をつけるよりも、あえて聞こえない世界を選択して自己形成をする道もあるようだ。しかし、日本語の書記言語の獲得は彼らに大きな力を与えるのだから、教育としてはその方向を閉ざすことは出来ない。

言語は自然に習得できるものではなく、一定の厳しい道のりがあるにも関わらず、昨今の表層的な物分りのよさがどれほどその妨げとなっているか。「みんな違ってみんないい」とばかりに「自然」の名のもとの放任が許される現状。

知らなかったことばかりで、今の私にそれを述べる以上の力はないだが、聾者が聴者に限りなく近づくことが障害の克服や自立への道ではないということはよく理解できた。じゃあ、障害とは一体何なのか?直接障害者に関わる人はもちろん、私たちもその原点から見直して、多様な価値観、多様な生き方を許す社会に向かう必要がありそうだ。

なお、この本を読む前に『わが指のオーケストラ』(山本おさむ、秋田書店)というマンガを読むと、聾教育のことが理解しやすくなる。このマンガだけでも学ぶことは多い。よくこんな話題がマンガに出来たものだ(初出『ヤングジャンプ』)と感心した。

タイトルの「クレオール」とは、不完全な言語(たとえば親の使う手話であり、まだらな聞き取りによる日本語)が受け止め手によってそれなりにきちんと再編成されて出来た言語を意味する言語学の用語。それが「たったひとり」とされるのは、本来言語にはコミュニティーが存在しているはずなのに、それを欠き、親と子の閉じた関係の中でだけ成立しているという矛盾した現象を指したもの。仲間と結びつけるはずの言語がそうでなくなっているという聾者のおかれた現状を示唆している。


風邪の置き土産
2006年05月22日(月)

風邪はあっさり退散したものの、喘息を置き土産にくれた。
迷惑千万。

今日も休みを決め込んで、医者へ行ったりしながら、のたのた過ごす。

読みかけの本がいくつもたまるのに、読み応えのあるものは体調不良時には消化不良を招くのでたまる一方。複数冊同時進行は学生のときからのパターンだけれど、最近たまりすぎ。

ネットで情報を得ることもとみに多くなっている。NPOや小さな研究組織にとってはネットは廉価で発信しつづけられる大変都合のよいメディアだ。こちらにとっても、新しい情報だけでなく、必要な文献がPDF化されていると簡単に手に入るからありがたい。小さいところだけじゃなく、日本国政府関係諸機関もまめにPDF化したものをアップしているので、それも便利。ただし、出所がネットでも、結局は文字化されたものをプリントアウトして読んでいるのだから、「読みかけの本」がたまる状況に拍車をかけているだけだ。

ネットで思い出したが、最近は発表だプレゼンだというと、すぐにパワーポイントが登場する。あれはあれで便利だが、物事はああいう類型的な整理をして発表をするという「常識」にどこもかしこも倣っていて、それで構わないのだろうか。表現方法までグローバリゼーションという名のもとにアメリカの一国支配に屈しているような気がする。

パワーポイントで発表するのはいいが、そうならハンドアウトもパワーポイントで欲しいな、と思う私もやっぱり魂を売り渡しているか。私の魂なんて安いもんだ。大体、そんなもん、あったっけか?

パワーポイントの画面の片隅にちょっとだけ「個性」を演出する人もいる。あれって何だか切ない。


『白洲正子自伝』
2006年05月20日(土)

水曜日に上司が「Mさんに風邪をもらった、喉が痛くてね」とはしゃいでいた。不幸なことに、私はほぼ終日彼と行動を共にしてしまい、しっかり風邪をもらって帰った。

「喉が痛くてね」なのだ。

こんなに伝染経路がはっきりしている風邪は初めてで、何だかとってもいや〜な気分である。生々しいのだ。あのご老人の粘膜上で増殖したウィルスが排出されて・・・想像するだに、お〜やだ、やだ。

ようやく休日で、午前中はごろごろと白洲正子の自伝など読んで過ごす。熱がある上、喘息っぽくて難しいものは到底読む気になれない。

白洲正子の百人一首とか能の話とかはこれまでにも読んだことがあったが、あんまり好きにはなれなかった。どこか教養おばさまのお話っぽかったのね。それに「白洲正子が好き」とおっしゃる人は大抵私の苦手なタイプの人だった。でも、自伝は予想外に面白かった。内容が面白いというより、わがままな語り口が面白いのである。

なるほど、これなら小林秀雄や青山二郎のお友だちになれたかもね、と、そんな感じ。白洲次郎の嫁さんだったことも納得。(ミーハーな私はかっこいい日本人を1人挙げろ、といわれたら、白洲次郎と答えます。)

生活のためにお金を稼がなくていい人たちは時に思いがけぬ爽やかな生きざまを見せることがあるようだ。自伝だ、伝記だというものは往々にして爽やかでないところをカットしているということを勘案しても、白洲夫妻の人生はなかなかかっこいい。(「夫妻の」という表現が適当かどうか ― 多分、次郎の、正子の、と書くほうが正確だろう。家族としての話はあまり出てこないしね。)

維新華族はそれまでの歴史と伝統の裏づけを持たない成りあがりだが、金だけでなく、「華族」という名誉も付随してきたから、ただの金遣いの荒い成金とは違って、今じゃ考えられないような突飛なことが出来たのかもしれない。資産のレベルも違うし。ただ、それだけ普通の人が貧しかったということでもあるから、そういう人の人生を手放しで礼賛するのはためらわれるのだが。

開発途上国のリーダーが女性である例がよくあるが、聡明にして破天荒なお金持ち貴族のお嬢さんなんだろうと想像する。

昨今、日本じゃ平等が徹底して、夫婦の悩みにせよ、子育ての悩みにせよ、なんだか国民全員一つの物差しで計って、一つの「正しさ」があると考えていやしないか、と思うことがある。分相応などというときの「分」の感覚もいつしかなくなったみたい。そのくらい誰もが皆同じだと思っている。それって絶対おかしい。

話が変な方向に行っちゃいました。また白洲正子の作品、読み直してみようっと。


女でも、男でも
2006年05月17日(水)

新しいプロジェクトで初顔合わせをした。

半分は前から知っている人だけれど、半分は知らない人たち。

私は、同じ職位の人が2人いたら、今はとりあえず女性を信頼する。同じ力量の人が2人いたら、男が採用・登用されることのほうが断然多いから、つまりそこにいる女の人は、同じような男の人よりは優秀である確率が高い、と思うのだ。

パートあがりの女性がブックオフの社長になったとか(名前忘れた)、ただのセールスのオバサンがダイエー再建の社長をしているとか(これは林文子さん)、いろいろいうけれど、そのとき、たまたま彼女たちのスタート時点ではそういう仕事しかなかったから、そうなったまでだと思う。もともと力のある人が相応の地位についた、ということにすぎない。(女なら誰でもいいわけではなく、シャープのCEOを勤めた野中ともよはまるっきり失敗−着任自体になにやら怪しいものがあったけど。)

以前は(今でもか?)子どもの担任が女だと「女の先生なのよ・・・」と不平が出ていた。中には生活に忙しく、準備不十分で教壇に立つ人もいたとは思うが、あれは女性に対する偏見を女性が助長していた例だろう。

PTAや生協などで、何かっていうと「女の人っていやあね」という女性もよくいるけれど、あれもなんだかね。男なら中傷をしないとでも思っておいでかい?女が根拠なく女の足を引っ張ってどうする?

ただし同じ職位なら女のほうを信頼する、なんてのも、それこそ出来る男を疎外する要因にもなりかねない。こんな経験則が当てにならなくなるような現実が理想的。

さて、私の係わるプロジェクト、率直な意見交換ができる環境がうまく作れれば、大失敗はないでしょう。要は大過なく出来ればいいのさ。


ボランティア雑感
2006年05月14日(日)

この間は一生懸命なボランティアさんに意地悪を書いてしまったなあ、と思いながら、今日も今日とて、ボランティア活動をNPOに育て上げた人たちの研修会を聞きにいった。メンバーでない人には2000円で講演を聞かせてれる。

ボランティアとはいえ、活動に係わり始めてから勉強のために大学院に通った、なんていう立派な人が何人もいるのに驚いた。そのことだけ見れば、一つ間違うと<暇な奥さん>、<結構なご身分で・・・>ぐらいは言われそうだが、そうやってまで自分の力を社会に還元しようとする姿勢はすごい。年のころ、40代から50代が多い。

有能な人たちが弱者のために力を出してくれることは素晴らしい。

素晴らしいが、この人たちをほぼ無償に近い仕事に従事させている現状は一概に賛美できない。こうなるまでに、彼女たちには本当はボランティア以外に継続したかったことがあっただろう。子育てや夫の転勤などで自分のキャリアを放棄した人たちがどこかで気持ちを切り替えて活動に打ち込んでいるに違いない。

「自主」しかないんだよね、組織を離れると。

「自主」を継続することがどれほど大変か、たぶん、彼女たちを<暇>と呼ぶ人にはわからないだろう。

大学院で修士をとっても、結局キャリアの道は年齢的に閉ざされていることが多いから、自己研鑽のためにしかならない。もとはひけないのである。時間があるからボランティアでも、という人とはそもそもスタンスや意識の高さが異なっている。

一方で、本来行政が責任を持って果たすべきことを、ボランティアに任せて知らん顔をしているのは全然いただけない。応分の資金を継続的に提供する仕組みが必要ではないのか。いずこも恒常的資金不足のようだ。

ボランティアの中には行政主導で、資金は豊かだけれど、現実は弱者の援助どころか、「生きがい」創出のほうが目立つグループもある。目先の援助に係わる楽しさに溺れ、その背景の社会的な問題には目をつむりたい人たちも多い。ボランティアだから・・・をサボりの口実にする人も多いと聞く。でも、そんなグループでも上に立つ人は本当に大変で、やんちゃな子どもを引き連れる幼稚園の先生みたいな度量が要求される。(先日言及したボランティアさんはこのタイプ)

高齢化社会だの、団塊の大量退職だの、とこれからますますボランティアに関心を持つ人が増えそうだ。ボランティアは活動においても姿勢においてもなかなか一括りでは捉えられない。勤め人が様々であるのと同じようにボランティアも様々だ。しかも、活動がお金で測りにくいから、横並びの比較は非常に難しい。

ボランティア、という名前で判断しないで、活動の実績で評価しないといけないのは当然としても、実質何のためのボランティアなのかは、あまり名目にとらわれなくてもいいかもしれない。生きがいなら生きがいで結構。国際交流ボランティア、実は世を忍ぶ老人娯楽ボランティアの仮の姿、ってなところでよしとしてあげなくっちゃなあ、と、あれこれ考えるうちに、受け止めるこっちの間口が広きゃいいやね、みたいな気持ちになってしまった。


『生き方上手』
2006年05月12日(金)

最近どうもろくな本が読めません。仕事がらみばっかりだぁ!なんてつまらないんでしょう!

で、今日、喫茶店でそこにおいてあった日野原重明『生き方上手』なんかを読んでしまいました。

この本の広告を電車内で見るたびに、「そりゃあ、あんたは生き方上手だろうよ」と毒づいていたものですが、先日会った方 ― 地域で長くボランティア活動をしてきた方ですが、その人がこの本に言及して絶賛しておられたので、ふ〜ん、と頭の隅にひっかかっていたのです。

行間がひどく広いので、コーヒー一杯もあればすぐに読み終えられます。ありがたいお話が満載でした。生身の日野原氏に接すれば、またご本人から受ける印象もありましょうが、本だけだと、まるっきり自分語りのご教訓講話集です。校長先生のお話が嫌いだった私にはちょっと辛いものがありました。校長先生よりもえらいのに、文面ではえらぶらないだけマシといえば、マシですが。

自分自身の歩んで来た道を日野原氏のような眼差しで振り返れば、確かに元気もでるだろうし、そうして、次のきれいな目標と実践を気持ちの上だけでも心がければ、気分のいい生き方ができるでしょう。積極的な自己肯定を大前提にしたささやかな反省と明日への意欲。そういう意味では地域ボランティアのリーダーさんには励ましとなる一冊なんだということでしょうか。(アア、コンナ意地悪イッチャイケナイ。)

長生きの秘訣は「過ぎ去った日々はみな美しい」と思えることなのかも。

自分の生き方を人に教えられるって、いろんな意味でちょっとスゴクナイ?と若い女の子のような尻上がりイントネーションで言いたくなりました。私もまだまだ若い、若い。


報道の責任
2006年05月09日(火)

子どもや引きこもりの問題は私の守備範囲ではないので、それほどの強い関心をもって報道に接しているわけではない。でも、先日、死者を出した名古屋の自立支援施設のことは、あらら、と思ってしまった。

だって、テレビで、しかも報道番組で見たことがあるんだもの。

ちょっと派手なうさんくさいおばさんやなあ、と思う人(代表)が親に説教たれながら、引きこもり青年を車で施設に連れて行くところなんかを見た。名古屋の施設だったし、おそらくその施設に間違いないと思う。

その施設の人権を無視したわけのわからん「矯正」はもちろん徹底的に批判されるべきだし、類似の怪しい施設は摘発されたらいいし、ていのいい子捨てをする親も非難されるべきだと思う。(すべての親が子捨てだとはいいません、念のため。)でも、それと同時に、報道の責任も問われるべきではないの?

報道=真実、と思う素朴な人たちもたくさんいる。オウムのときもそうだったけれど、取材の姿勢ってどこか甘くないか?いちいち検証に検証を重ねていたら、遅くなるというのもわからないでもないが、引きこもり自立支援施設なんていったら、わらにもすがる思いで飛びつく人がいるでしょうに。

今回、それがまさに「わら」でしかなかったってことよね。報道じゃ丸太か筏くらいの印象だったけど。

ついでに思い出したけれど、山崎えり子、だったっけ、節約生活術の本を書いた人。あの人もとんでもない経歴詐称で、節約生活の中身は嘘っこで、戸籍売買までしちゃったわけだが、おい!主○の友社!ほっかむりしていていいのかね?怪しい本はうちだけじゃないからいいってことか?ムダヅカイ組の私はあわや買いそうになったんだからさ!(買わなくてよかった・・・)

人の言葉を信じやすい素直な人をだますのは大罪だと思います。報道や出版物は丸ごと信じちゃいけなくて、参考までに目を通すくらいの気持ちでいないといけない世の中かもしれませんね。もしかして、それって教育が培う総合的な力かしら。なにしろ生まれる前には大本営発表なんてのもありましたからね。


癖になるかも
2006年05月05日(金)

<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン>、昨年から始まったGW中に有楽町国際フォーラムで開かれる音楽祭。フランスのどこやらの音楽祭を模したらしいけれど、なんだかねえ、この名称。フランス語知らないと覚えるだけでも一苦労。

昨年は「なに、これ」と思って全然手を出さなかったのだが、チケット価格は安いし、朝から晩までやっているし、なかなか評判がよかった。で、今度は私も手を出してみた。今年はオール・モーツァルトである。

今井信子さんのヴィオラが聞きたかったから、11時からの協奏交響曲K.364、ついでだからと1時からのホルン協奏曲。家族と行くつもりで2枚買っていたのに、男どもに逃げられ、昨晩になって音楽仲間のAさんを誘った。Aさんは今日の夕方のチケットを持っていたのだが、それを午前中から引っ張り出したのである。

結果からいうと、今井さんのヴィオラにはちょっと期待過剰だったかも。音がつまっているように感じたのは、ホールのせいだったのかしら。で、逆に全然期待していなかった、相方のパスキエ氏のヴァイオリンがいかにも室内楽って雰囲気で好感が持てた。

Aさんと2人で屋台のタコライスで昼ごはんのあと、2枚目のチケットを聞く。大体古楽のホルンなんてまともに聴いたことがない。たぶん今後も普通の値段のチケットを買うことはないだろう。ロングトーンはなんとも優しい音色でいいのだが、ちょっと早くなるとなかなか音が立たない。下手だ、といっちゃあいけないんだろう。古楽のホルンって難しいのね、といおう。なにしろピストンがないのだから、すべては演奏者の息と唇にかかっている。

何ヶ月も前にいい加減にチケットを買ったから演奏が始まるまで気付かなかったのだが、ディヴェルティメントK137を午前、午後連続して聴くことになった。午前はフランスの室内オケ、午後はドイツの古楽オケ。

こういう聞き比べをすると、私は断然ドイツのかっちりした演奏が好き。旧東ドイツ系のオケいいよ〜。フランスのは飛ばすところはどんどんテンポがあがって面白かったけれど、どこか雑な気がしたので。

たまにはこういうコンサートも悪くない。何より手軽で安いし、アマの演奏とはレベルが違う。だから珍しいものを聴いてみるきっかけにもなる。GWの楽しみになりそう。来年も1日くらいは来てしまうんだろうな。

それはともかく、今年は前売りの時点で完売したものが多かったらしい。プログラムを張り出した板の前でお婆さんががっかりしていた。普段コンサートに来ない人にも手に入るようなチケットの売り方ってないのかしらと思わないではいられない。さりとて、じゃあ、お前のを譲れ、といわれても困るのだけど。


息子の友だち
2006年05月04日(木)

息子の小学校時代の仲良しグループの女の子が、この春、専門学校を出て就職した。イタリア料理店で勤め始めたのである。そこで、息子は同じグループのI君を誘って、男2人で彼女の店へと足を運んだ。(女の子を誘えないところが悲しー。)

「Tちゃんの店、どうだった?」
「どーってことないフツーの店。」
「Tちゃん、フロアにいたの?厨房にいたの?」
「厨房でせかせかしてた。」

レジのときに友人であることを告げたら、厨房にいるのを呼んでくれたそうだ。「来てくれたんだ〜」と嬉しそうだったというので、なにやら私もほっとした。

I君は法学部の学生で、息子とは保育園、小学校と一緒だった。そのI君の話を聞いて、いまどきそこまでしっかりした、真面目な学生がいるのねえ、と感心してしまった。法曹界をめざしてダブルスクール、したがってアルバイトの暇はなく、小遣い僅少。実家にいながら、共働きの両親に代わり、早く帰れた日は夕飯の炊事をする。今日も帰りに「ドイツパン買おうぜ」(←家族の分)、しかも映画を見損ねたら「代わりに献血して帰ろう」。

「大学の女子は『カワイー』としか言えない馬鹿ばかり」とまで言うそうで、そこまで聞くと、おばさんは「I君って高校のとき浮いて苦労したんじゃないの?」とお節介を焼きたくなる。大体、うちの息子にせっせと真面目に人生を語ってくれるだけでも、かなり珍しいと部類ではないか。一体、うちのオタク天然息子はI君に語るような話題を持っているのだろうか。

「Iは高校のとき、ちょっとイギリスへ行ったんだよ。それでいろいろ考えたらしいよ。」

本当にそうなら、うちのもイギリスへでもフランスへでも送り出したいくらいだ。

誤解のないように付け加えれば、I君は決して一方的にしゃべりまくるほうではないし、むしろ慎重なタイプである。たぶんボソボソしゃべったんだろう。さらに想像すれば、中学以降、学校が離れて、息子とI君は日常を共有できる環境ではなかったから、かえって正直に話ができたのかもしれない。理由はどうあれ、本音を語ってくれる友達があることはとても幸せなことだ。本音をいうと敬遠されがちな今の風潮って絶対よくない。先々どうなろうと、若いときには本音を分かち合うことが何より大切。刺激を与え合って、一緒に育て!明日は子どもの日だ!

それに、大学以降、新しい友だちは同じ世界に限られてしまうから、調理師になったTちゃんや看護師のYちゃんが仲良しグループにいるということもありがたい。今更親が顔を出そうとは思わないけれど、心の中ではコレカラモヨロシクネと祈るばかり。


『韓国伝統文化事典』
2006年05月02日(火)

序(国語院院長)では韓国の国立国語院という機関が外国人と韓国文化を共有するために編纂した書だといい、跋(訳者あとがき)では、原題が『わが文化の道案内―韓国人が知っておくべき伝統文化233』だという。序と跋のニュアンスが多少違うような気がするが、それは不問。

韓国文化―衣食住、年中行事、民俗信仰、芸能、特産物等について7章233項目について、各項目ともカラー写真つきで大体見開き2ページを割いて説明される。それにちなんだことわざなども紹介される。

事典とはいうものの、暇なときにぱらぱらみて楽しめる。なんとなく聞き知った事柄にすっきり説明が与えられ、な〜るほどね、と毎日、少しずつ読んで遊べる。写真がとてもきれいで興味をひく。これを読めば、一応、韓国伝統文化の常識が身につき、この次、韓国へ行くときの充実度がアップすることは請け合いである。

その一方、読みすすむうち、伝統のみならず現代韓国の姿勢まで感じられ、苦笑してしまう。誤解を恐れないで言えば、民族意識の高揚があまりにもあからさまで、いちいち真に受けていたら、韓国は高潔の士ばかりで警察は開店休業だな、と思うほど。項目の最後の1,2行に「韓国人ならでは」式のフレーズが添えられることが、すべてとはいわないが大変多い。伝統に誇りを持つのはもちろんで、それ自体何も悪くはないが、外国人読者としては、いくら韓国好きではあっても「はい、はい、わかった、わかった・・・」。(いや、私が韓国人だったとしても、いちいちうるさいと思いそう・・・。)

この本が外国人向けというなら、こうした文言は中国と日本の間で何かと誤解されがちな韓国を世界にアピールするためなんだろうし、韓国人向けというなら、アメリカナイズが進み、伝統文化の軽視が加速していることへの警鐘なんだろう。

子どものときの記憶を辿ると、「日本人は世界で一番手先が器用」、「日本人は世界一勤勉」、「日本の○○は世界で一番」などというフレーズをしばしば耳にしてきた。(さすがに日本は神の国、と言われたことはないが。)だから、成長期の国家ってそんなものかな、とも思う。東京オリンピックなんて、幼な心に誇らしかったもんね・・・(恥!)。

本の話に戻せば、まあ、そういうことはご愛嬌として、隣国の伝統文化について、こうした事典が出版されることは大変結構なことだ。サブカルから理解が始まってもだんだん川上に遡上していければいいではないの。



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