書泉シランデの日記

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『江戸の動物画』
2006年02月27日(月)

副題に近世美術と文化の考古学、とある。表紙にはとびきり可愛いウサギさんが書かれている。これを買わずにいられようか―\6000なら10日は楽しめるだろう、と思って買った。いや、楽しめるというより、しっかり勉強できるだろう、というほうが近いし、一応は研究書のようだったから、挫折したらもったいないなー、という心配も。

あにはからんや、幸か不幸か2日で終わった。著者の今橋理子さんはとても筆の立つ人である。読みやすい。話の運びが面白い。図版が沢山あるし、あっという間にページが進んだ。

江戸時代に書かれたウサギ、虫、猪、仔犬といった動物が書かれている絵を読み解く研究である。それらを画題としたすべての絵を読み解くキーを提示するのではなく、対象となるのは若冲や蘆雪などの特定の作品である。

ここまで完璧に読み解けるものか、お見事!と賛辞を呈したいと同時に、ほんとかね?暴走してやしないかい?という疑念も同時に呈したい。疑念の妥当性を証明できるほどの材料は私は持たない。無責任な素人の疑念である。あまりにもコテコテの読み解きに食傷することと、仮説の上の推測、推測の上の断定みたいな論調がなきにしもあらず、だからだ。

しかし、大層面白い、知的刺激に満ちた本であった。ミステリーを読むような感じで読める。こういう本はもっと広く読まれるといいな、と思う。

ただし、残念なことに、これを読んで、絵そのものへの衝動はあまり湧いてこなかった。どうしてだろう?今橋説と共に作品に当たって感動を同じうしたい、という気持ちにならなかったのだ。絵解きをすればするほど、絵そのものの魅力が遠くに行くような感さえ覚えるのだけれど・・・凡下の婦のたわごと。


マイ整体
2006年02月24日(金)

整体に行った。
疲れやストレスでなんとも体調ぱっとせず、というときに頼りたくなる「○ち○ん」である。この間までは、怪しげな小屋だったが、めでたくまともなマンションへと場所を替えた。でも、たぶんマンションは居住専用なのだろう。看板が消え、表札にすらその名はなく、豪華になった分、怪しさが増幅された感じである。今となれば隣の中国茶店のおしゃべりが丸聞こえだったプレハブ小屋が懐かしい。

整体師って特に公的な資格免許を必要としないから、自分でそう名乗れば誰にでも出来る。しかし、効果がなければ客は来ない。1度は宣伝で騙すこともできようが、2度は騙されない。整体の能力や技術があるかどうかは、客が結果で判断する。江戸時代の医者と同じである。

人体がそう簡単にずれたり、ゆがんだりするかどうか、私は知らない。でも彼女がそういいながら、あれこれしてくれると、肩にへばりついていたおんぶオバケのような肩こりが解消したり、膝のうっとうしさが消えたりする。気休めでも休まらないよりはるかにマシ。

信じているからそんな気になるだけ?そうかもしれない。信じるものが救われて何か不都合があるだろうか。時に物理学を無視したような発言があるけれど、ま、それはご愛嬌で、むきになることはない。「へぇ〜、そうなんだ。ほんとかね?」という程度の信仰で十分である。信じれば気持ちよくなるのだから、整体小屋、改め整体部屋にいる間くらい信者になろう。

本日2時間で\5000。上等じゃないですか。結構予約混んでいるんですよ。


東京美術倶楽部
2006年02月23日(木)

前に「東京美術倶楽部の展覧会、よかったわ」と聞いていたことに加え、今日たまたま鳥居坂の日銀分室でランチを頂く機会もあり、ここまで来たなら足を伸ばしてみようか、と芝の東京美術倶楽部に行った。

同倶楽部の百周年記念展だそうで、美術商と係わりを持った日本の作品が集めてある。混んでいないと思ったら大間違いで、入場規制で15分待った。でも中はさほどでもない。(見習うべし、東博!)

例によって近代日本画が楽しみである。麦僊の甜瓜の絵、あざやかな緑が実に美しい。甜瓜ってそんなにみずみずしいものだったっけ、と疑いたくなるほど。竹喬の牡丹雪の絵も素敵だった。龍子の枝なりの果物が花瓶に挿してある絵もカラフルで、華やかで目を奪われた。あからさまなデザイン性は希薄なのに、とても魅力的だった。

近代日本の洋画って、私がもっとも苦手とする分野である。なんかよくわからないのだ。プチ・セザンヌが一杯いるみたい。戦前の洋画家でいつも心に残るのは、靉光の絵である。この人の画面には人間を感じる。岡鹿之助の林に雪が降る絵もよかった。坂本繁二郎の「月」と題した馬の絵もなかなか。(この絵は図録で見ると、全然別の色をしている。本物は白っぽいのに図録では赤みが強い。色校正がまったく粗雑な図録である。浜田庄司の皿も板谷波山の壷も本人が見たら怒りそうな色だ。)

最近さかんに登場する鈴木其一の四季草花屏風、とってもお洒落。其一からは常々やりすぎ感を受けるので江戸琳派といっても私はあまり好きではないのだが、今回みた屏風のデザイン性には驚くばかり。かっこよすぎ。

国宝もたくさん出ていた。ここは国宝も展示できる施設なんだなあ、と変なところで感心した。絵因果経とてもきれいだった。奈良時代ってほんのちょっと前だっけ?

小さな国なのにきれいなもの、多すぎます。今年に入ってから展覧会まわり忙しいよ。




Yonda Club
2006年02月22日(水)

ここ数年、新潮文庫を買って、カバーの一角を切り取って集めて送ると「Yonda Club」とやらの景品がもらえる。私は基本的に集めものには手を出さないことにしている。ひとたび集めだすと、生真面目に集めるので、仕事が増えるからだ。ところが、「Yonda Club」には手を出してしまい、はさみを持って家人の買ってきた文庫までチェックする破目になっている。

あほらしい、と思いながら、いろんなものを手に入れた。もらっただけで実用に供しているものは、トートバッグだけである。以前の景品のトートは黒いキャンバス地であった。文庫本サイズの外ポケットが売りであった。(今は違う。)私はこのトートのYondaマークのパンダを黒マジックでぬりつぶし、不祝儀用の手提げにしている。

当初の景品には確か文豪コーヒーカップがあった。今それは消え、パンダのマグカップになった。文豪グッズなんて、いかにも新潮社だが、そんなものがいまどきの若い人に受けるとは思えない。私だってこの景品はノーサンクス。本を読まない連中に見せれば、「きもかわいい」などといわれて受けるのだろうか。

腕時計にはいまだ文豪がついているが、誰が腕に巻くのだろう?針の向こうに漱石がいたり、太宰がいたりすると嬉しいかなあ?どうせならインパクトの強い梶井基次郎はどうかしら。ちなみに文豪は30冊だが、50冊集めるとパンダのついた腕時計になる。複雑な気分である。

キャラクター人形のパンダには、最初は本屋さんのハタキがついていた。立ち読みする人に嫌がらせをするハタキである。知らないうちにそれも消えた。立ち読み=ハタキという連想が過去のもので、理解不能になったからだろう。そういえば、最近の書店でハタキを持った店員さんなど見たことがない。

一体このキャンペーンはどのくらい売り上げアップに貢献しているのだろう?そもそもこの賞品を持っている人に会ったことがない。本屋以外の場所で景品を見たことがない。本を読んだら景品がもらえるという仕掛け自体はそれなりに画期的だったのかもしれないが、景品の微妙な時代遅れ感は計算されたものなのか、それとも新潮社の宣伝力が時代遅れなのか、あるいは本を買うような人間は時代遅れだから、これで十分ということなんだろうか。


『20世紀美術』高階秀爾
2006年02月19日(日)

最近、なんか美術の本が多い。意図しているわけではなく、ほんのたまたま。本のサイズや溜めて買い込んだ中から拾っているうちにそうなってしまっただけ。

で、今日は『20世紀美術』by高階秀爾(ちくま学芸文庫)。内容についての妥当性を論評する立場にはなく、ひたすら面白く読みました。読み終えてから、主要部分は33歳の著と知って、ぎょぎょぎょ!

この人、鬼才だわ・・・仮に語られる言説の8割が欧米の美術評論誌などに出ていたものの翻訳に過ぎないとしても(そんなことはないだろうが)、日本語に置き換えてこれほど明晰に展開できるのは並みの人間に出来ることではない。はぁ〜たいしたもんだ。

美術理論(美学というのだろうか)は作品と並行して進化するのかしらん。画家や彫刻家が理論の実践として制作に向かうとは思えないんだけど、制作の方法を選ぶときに、その根底に理論の影響があるのだろうか。明確に言語化されているかどうかは別として。

オブジェとイマージュの問題なんて、ちょっと美術に関心のある人なら常識なんだろうが、私には感動的だった。構成と表現の章で、マチス、レジェが取り上げられるあたりも、うなづきながら読んだ。新しい潮流の誕生も大変納得ができる。美術史というと、年表形式みたいなものしか思い浮かばないのだけれど、全然違うのね。芸術家の相克の過程なんだ。

初版刊行後、25年以上たってから付け加えられた部分は、前半、やや羅列と説明に終始しているように思われるが、後半の「芸術が分化していく」問題にはいろいろ考えさせられた。身辺に芸術があふれている現代、私たちは個々の意味を問わないまま消費している、あるいは、消費する危険にさらされているようだ。人間と芸術の熱い関係をたとえ瞬間的にでも取り戻す必要がありそう。

ねえ、美大生ってこんな難しいこと勉強するの?


『魔笛』シュツットガルト歌劇場
2006年02月17日(金)

コンヴィチュニーの演出だ、というので、一回見ることにしょっかぁ、とチケットが買ってあった。前にコンヴィチュニー×シュツットガルトでのリングをテレビで見たけれど、面白さ半分、呆れ半分、満足はまあテレビだからね、という印象だった。あのときは歌手も大半が相撲部屋級だったし。

『魔笛』はよくオペラ入門に持ってこられる演目だが、通しで見ると、あんな一貫性のない作品がよくぞ今日まで愛されている、と思うばかり。ストーリーを気にしたら、気持ち悪くて仕方ない。そこを割り切ってみれば、いいところも沢山ある。台本が粗雑(こんな風に言っていいんだろうか、モーツァルト様ごめんなさい)だから、演出家には自由が許されるという利点があるだろう。

でもね、これはオペラなんだよ。台詞も多いけれど、基本は音で運んでほしいと思う私は素朴なコンサバである。

オケはねえ、もっと腕のいいオケがたくさんあるよね、って感じ。有名じゃないくだりだけを聞いたら、モーツァルトだってわからないかも。でも、合唱は◎でした。演技のできる合唱団なんてそうそうないし、合唱は楽しめました。『魔笛』は合唱のいいところ多いものね。

ソリスト、タミーノは×(この役はヴンダーリヒの声が染み付いているのです)、パミーナはパミーナなんか歌うより、もっとほかの役、たとえばマイスタージンガーのエヴァとかどうだろう?パパゲーノねえ・・・普通に歌ってくれれば結構よさそうなのに、コンヴィチュニー先生はなかなかそうさせてくれないもんねえ・・・演技のできる歌手なのか、歌の上手な役者なのか、わかりません。

で、演出ですが、覚悟していたとはいえ、悪ふざけ満載。性的なほのめかしも随所に・・・小さなぬいぐるみを二つずつ大人数人がもって出てきて、遊んでいるように見せかけながら、交尾させてるってねえ・・・まあ、いいけどさ、そのくらい。歌っている声帯のどアップをスクリーンに出してみるのもねえ・・・。そのほかいろいろ、国際会議シーンでハングルが流れる仕掛けや(ザラストロ役が韓国人歌手)、劇中劇のような仕立てもあったし、それで舞台をまとめるのだから器用なもんだというほかありません。好き嫌いは当然でしょう。でも、モーツァルト自身はこういうの、きっと好きだわね。

私自身は、古典が伝統の再現に終始するだけなら絶滅間近だと思う。演出の冒険は基本的に歓迎するけれど、古典として愛されてきた部分を「再生」させないとただの悪ふざけに堕すのではないかしら。で、今回のは?う〜ん、これはオペラなんだよ。音楽的な流れが寸断されてしまい、高みに至らないのは嫌だな。隣の老夫婦、おじいさんは怒っていたよ。でも、コンヴィチュニーだから、そのつもりで来てよ、である。これが生涯初オペラの人は、気の毒だけれど、オーソドックスなので、もう一度見てください。

それにしても『魔笛』ってこんなに、女は男の指導監督のもとでないと過ちを犯す、というメッセージが強かったっけ?今回やけにその手の台詞があったけれど、それは現代へのカリカチュアライズされたメッセージなんだろうか。


『彼方なる歌に耳を澄ませよ』
2006年02月16日(木)

新奇なことが現代小説だとすれば、マクラウドの作品は間違っても現代の小説とはいえないだろう。極めてオーソドックスな「語り」である。陳腐といえば陳腐かもしれないが、で、陳腐で何が悪いのさ、と居直ってみよう。

この『彼方なる歌に耳を澄ませよ』(新潮クレストブックス)はマクラウド初の長編である。これまで短編を丁寧に書きついできたのとほぼ同様に一つ一つのエピソードを仕上げ、それらを綴りあわせて、タペストリーにした、というような印象。プロットよりも、登場する人々の話す言葉や歌を大事にしたい。

都会の一隅のアル中のオッサンをこれほど愛おしく思える作品はない。

生きている人は誰しも遠い祖先の愛と勇気ゆえに今存在しているのだといえるが、それをいかに意識化して生き続けられるか?環境が厳しければ厳しいほど、支えるものは沢山必要で、支えは現在だけでなく過去にも求められる。遠い昔の日々が微妙にカナダ辺境の20世紀の暮らしと重なりあう。生者だけが生きているのではなく、死者もなお生き続けるかのように。

と書くと、大上段の構えになってしまうけれど、それはこちらの拙さで、読んでみれば面白みがないと思えるほど、普通のわかりやすい小説。読者に挑みかかるような部分は皆無である。しかし、読後にずっしりとした重みが残る。わかりやすいことは本当にわかることなんだろうか。この本を「くだんね!」と後ろに放り投げる人とはお友だちになれません。

ついでにもう一言。マクラウドの描く犬はどの犬も犬の本分を体現している。犬っていいなあ・・・とここでまた故犬を懐かしむわたくし。


「日本画から日本画へ」@現代美術館
2006年02月14日(火)

「日本画から日本画へ」という展覧会が見たくて、人気がないことで有名な?都の現代美術館へ行った。入場者数が10年で360万人だという。こう聞くとそんなもんかと思うが、昨年、東博でやった「北斎展」は40日で33万人。

場所の問題やPRの問題、収蔵品の性格など勘案すべきことはあるが、考えさせられる数字である。PFIだかで事業委託をされている都の歴史文化財団だかは大変だろうな、と変な同情をしてしまう。この頃、私の周りに、このPFIで指定管理者になって苦慮している人や、はずされて困った人、はたまた自治体からそれを押し付けられまいと画策している財団の人などいろいろいて、話を聞くものだから、ついこんなことを考えてしまう。

で、今日の展覧会も私が行った午後の時間、同じ展示室に人が2人か3人いるかなあ、っていうくらい、のんびりと見ることが出来て、その点では誠に気持ちのよい展覧会であった。

私は明治以前の日本画も好きだが、近代の日本画はもっと面白いと思う。日本画という手法を選択する時点で、何らかの自覚を強いられ、それが作品に反映するから好きだ。下手な油絵よりよほど問題意識に富む。

今日見たものでよかったのは、松井冬子の応挙風な凄みと、町田久美のあっけらかんとした作品。ともに主題への切り込みが冴えている。松井のはともかく、町田のを「これが日本画だ」と出されると当惑するだろう。そもそも日本画という括りが、近現代ではあまり意味をなさなくなっている。便宜上、しばしば用いられる便利な語ではあるが。

都合7人の日本画となんらかのかかわりのある若い画家たちの絵を見た。中にはこの主題でいつまで書けるのかしらんと首を傾げたくなるものもあった。デッサン力のない絵も見ていて窮屈だから技術は必要だけれど、最後は表現者のその時点での世界観・人間観かと思う。展覧会というと、ついつい出来上がった大家の作品にばかり走りがちだが、若い画家がこれからどうなるのか、時々気にしてギャラリーや美術館にいくのも面白そうだ。

入場料分は十分楽しめた展示だった。でも「日本画から日本画へ」というタイトルとうまく呼応していたかというと、それはなんともいえない。個々の作品の出来とは関係なく、主催者側の責任によるキャッチ倒れの気味がないとはいえないかもね。


辞めました
2006年02月13日(月)

長年やっていたヴァイオリンのお稽古についに終止符を打った。忙しくて練習が出来ない、という理由に尽きる。

先生は人間的にとても上等な方だし、気長に面倒をみてくださったので、時間さえあればずっと続けたかったが、先生のお気持ちに報いることができない怠惰な生徒はそれはそれでつらいものがあった。

辞めますと割合丁寧にご挨拶申し上げた後も、ご自分の非力を詫びるお手紙なぞくださる。忙しいのは仕方がないとしても、せめて満足のいく成果を提供したかったと。・・・そんなんじゃないってば!と先生の肩を叩いて励ましたくなるのだけれど、手紙を見ると私こそ涙ぐんでしまう。

先生もかなり完全主義者だし、私もきっちりやりたいほうだから、なまじなことでお互い満足するはずがない。でも、「きっちり」が前面に出すぎると、音楽が出来なくなる。音の流れを感じて演奏するのではなく、譜面の再現にこだわって、脳の本来働くべきでない部分を働かせてひいてしまう。そして途端に腕や指が固まる。

息子は「母さんの問題は易しい曲の難しさを知ったことだ」という。確かに易しい曲は本当はとても難しい。でもいわゆる難しい曲は到底ひけない。中くらいの曲なんて存在しない。ひけるようになった曲はすべて易しい曲で、難しいのである。・・・ああ、なんだか「クレタ島の人はみんなうそつき」みたいなわけのわからないことになってきた。


数学教育の進歩@アメリカ
2006年02月11日(土)

アメリカの友だちから来たメールを紹介します。
マックで3ドル58セントの注文をして4ドル8セント出したら、店員が途方にくれて泣き出したということに端を発しての憤りのメールの一部です。

題して「数学教育の進歩」。

1950年代:きこりがトラック一杯の木材を100ドルで売りました。それにかかった経費はその5分の4です。もうけはいくらですか。

1960年代:きこりがトラック一杯の木材を100ドルで売りました。それにかかった経費はその5分の4、または80ドルです。もうけはいくらですか。

1970年代:きこりがトラック一杯の木材を100ドルで売りました。それにかかった経費はその5分の4で、80ドルでした。彼はもうかりましたか。

1980年代:きこりがトラック一杯の木材を100ドルで売りました。それにかかった経費はその5分の4で、80ドル、もうけは20ドルでした。<作業>20ドルに線をひきなさい。

1990年代:きこりが美しい森から木を切り出しました。彼は大変自己チューで、その森に住む生き物や森林の保全に無関心で、なんとも思わなかったからです。20ドルのもうけを得るためにそうしたのです。こういう生きかたをどう考えますか。
<クラスで話し合いましょう>森の鳥やリスたちは、きこりが彼らの家を破壊したことをどう感じているでしょう。(どんな答えをしても間違いではありません。)

****

あんまり笑っている場合じゃないという気はします。
自然保護を大事だと考える人が人間世界のさまざまな事象との関連を考慮した上で=さんざん悩んだ上で、「じゃあこうしましょう」と決断するときに、統計や経済の理解は必須だと思うのですが、まず感覚、そしてあまりに安易に「みんな違ってみんないい」とされてもなあ、と思うのは私だけでしょうか。

人間社会の物事は何にせよ複雑怪奇です。だから十分よく考えることが大事だし、考えるための客観的な資料(資料批判の力があることを前提に)が必要だと思うのです。考えることを怠るようになっては本当に恐ろしいことです。アメリカのやり方が日本に伝播するのもそう遠くはなさそう。くわばら、くわばら。

(冒頭のマックの店員、どうしてレジに4ドル8セントと打たなかったのでしょうか?何も考えないでただ打つだけのおバカさんではなかったってことかしら?)



客室乗務員
2006年02月10日(金)

信用金庫で働いている若い人から、転職の履歴書について相談を受けた。
「客室乗務員」になりたいんだと!

ひぇ〜〜〜

しかも契約、時給1200円そこそこ。

今は正社員で、まずまずの信用金庫職員なんだから、「客室乗務員」(ふらいと・あてんだんと)になるなんて一体どういうことよぉ?

飛行機で給食配ったり、免税品売ったりするくらいなら、新幹線で売るほうが楽だし命の危険もないと思うんだけれどね。新幹線なら「売り子」だけど、飛行機だとそうはいわないからかな?まさか相撲取りと結婚したいわけでもなかろうし・・・。

私たちの時代ならいざ知らず、いまどき堅い−たぶん一生続けられる仕事を辞めて、年取ってからの正社員登用があるとは思えない仕事に転職するなんておやめよ、といいたいところだが、ご本人はいたって真面目で(この生真面目さがまた信金向きだと思うのだが)、実はそれが夢だったという。はぁ、さようで・・・。

高倍率はいうまでもないし、彼女が通る保証はどこにもない。落ちてみればアキラメもつくだろうと、とりあえず説教じみたことはいわず、相談にだけのった。ひたむきな彼女の姿勢とは裏腹に、内心、早めに落としてやってくださいよ、と思う私。落っこちたら一杯慰めてあげよう。

しかしそれにしても、「客室乗務員」、いまだにそんなにあこがれの仕事だなんてどうかしている。信金で働いて、お金払って飛行機に乗るほうがどれほどいいか・・・。


『煕代勝覧』
2006年02月09日(木)

こんなものがあったのですね。

先日来、講談社の『日本の歴史17 成熟する江戸』というのを読んでいて、その中で紹介されているのが文化年間の絵巻『煕代勝覧』でした。まずこの日本史の本自体がとても面白く読める記述 ― 事実羅列に終わらない、さりとて、無責任な想像の世界ではない ―で書かれていて、達者なもんだなあ、と感心していました。『煕代勝覧』は割と最初に丁寧に紹介され、読者に<成熟する江戸>のイメージを与えてくれるのです。

日本橋通りの店や街を歩く人たちが細々と描かれ、とても面白そうです。

一度現物が見たいな、と思っていたら、なんと偶然、今週一杯は日本橋の三井記念美術館で公開中だと知り、あわてて飛んでいって見てきました。目下の所有者はドイツのベルリン国立東洋美術館だそうですが、里帰り公開にこれほど適した場所があるでしょうか。日本橋室町2丁目の三井本館ですもん。

平日の午前中だし、空いているだろうという期待は見事に裏切られ、おばさま、おばあさま、おじいさまで混んでいました。三越お帳場カードの人ばかりじゃないの、といいたいような立派な客筋です。平均年齢65歳は堅いかな。

日本橋界隈に詳しい人たちが多く、聞こえてくるおしゃべりは、あれは今の××だね、だの、戦争前まであの店はあった、だの、私の母がひいきにしていた、だのと、江戸と東京がいっぺんでつながるような楽しい声ばかり。若干やかましいことと、絵巻の途中で足が止まってしまうことを除けば、こんなに楽しんで眺める人たちに見てもらえてよかったね、と絵巻に語り掛けたいくらいのいいお客さんです。fine artとしての価値はさほどでもないのでしょうし、ドイツで広げてみてもディテールはまず理解してもらえないのですから、本当にここで公開されてよかったと思います。(以前、江戸博でも公開したんだそうですが。)

絵巻そのものは非常に保存がよく(まあ19世紀のものですから)きれいですし、ひとこま、ひとこま、生き生きしていて、喧騒が聞こえてきそうです。屏風と違って、細部も見やすいし、ホント、会期に間に合ってラッキーでした。

この展示は『日本橋絵巻』と題するもので、図録も出ていますが、私のお勧めは小学館アートセレクションシリーズの『活気にあふれた江戸の町『煕代勝覧』の日本橋』です。見飽きません。あ、最初に出した講談社の『日本の歴史17 成熟する江戸』もいいですよ。経済史もこういう形でなら親しみやすく、納得がいきます。


お鳥さま、いらっしゃいませ
2006年02月07日(火)

2,3日前、窓の外を見たら、もいだけれど捨てるのが面倒で、暮れから裏に放置しておいた柿の実をヒヨドリがつついていた。12月から放置してあったのに、今になってつつきだすなんて、さすがに餌が乏しくなったとみえる。

夕方帰ったら、柿、完食であった。いくら多少萎びていたとはいえ、さすがヒヨドリの食欲はたいしたものだ。翌朝、みかんを半分に切っておいてやった。以前は見栄えのいいようにバード・テーブル(餌台)の類を考えたこともあるが、最近はもう、お鳥様のお選びになったところが最高のバードテーブルなのだと達観。(使っていないゴミ箱が伏せておいてあり、さらにその上にこれまた使っていない植木鉢。これがバード・テーブルと化している。)

インポートのしゃれた入れ物に穀類や種を入れてつるしてみたこともある・・・完全に失敗した。理由は不明。たぶん、うちに来る程度の鳥は気後れがしたんだろう。

ネットに牛脂を入れてつるした。留守中にカラスと犬の死闘?があった由、隣のオジサンに報告を受けて、即時中止。

でも、何もしなくても、ヒヨドリ、キジバト、ムクドリ、シジュウカラは常連。たまにメジロ、モズ、ツグミ、ウグイス、オナガ。一度だけキレンジャクも。ムクドリなんかは雨上がりに虫を食べにくることが多いようで、帰宅すると庭に何匹もうろうろしていたりする。何の鳥かは知らないけれど、晴れた日が続くと、軒下の乾いた土に砂浴びの跡が残っていたりする。

なんにせよ生き物が身近にいるのは楽しくていい。

それにしてもヒヨドリ、ミカンをやると、文字通り外の皮だけにしてしまう。今日はお鳥様のミカンを買って帰った。餌不足のときはせっせと通ってくれるが、春になって花が咲き始めると、バード・テーブルには閑古鳥が鳴く。

『野鳥を呼ぶ庭づくり』(千早書房)今でも手に入るのかどうか知りませんが、これでぐっと庭の鳥に詳しくなれます。餌台や餌の種類といったノウハウを知るだけでなく、ぱらぱら見ても楽しめる一冊。


手のひら認証ICカード
2006年02月06日(月)

先日、銀行で「手のひら認証」のICカードの手続きをした。
銀行勤めの友人にさんざん脅されたからだ。たとえわずかでも、わずかだからこそなけなしの貯金を守らねば、とわざわざ2度も足を運んで手続き完了。

が、あれって、手のひらをかざそうが、例の四桁の暗証番号は必要なのだ。安全かもしれないが、面倒になっただけだ。(浦和や大宮がさいたま市になった途端に○○区なんていう今まで不要だったものを書かされるのと少し似ている。)

おまけに利用できるATMはやたらめったら少ないと来ている。

出来上がって、その場でATMを操作してみて、途端に後悔した。せっかちな私には到底むいていない。

結局、今まで持ち歩かなかったネット銀行のカードを持ち歩くことにした。何でわざわざそんな面倒なカードにしたのだろう。大体、頼みもしないのについているEdyなんてものは何の役に立つのだろうか。

出しにくくて無駄遣いが減れば、手のひら認証にしてよかったかも、と思えるのだが、さて、どうなることか。今のところは、新しいものを頑張って覚えようという姿勢が仇になったとしかいいようがない。


放送大学の教科書価格
2006年02月05日(日)

放送大学教育振興会とやらが出している放送大学の教科書はどうしてあんなに高いのだろう?今日、やむをえず2冊買ったけれど、6000円を越した。

ソフトカバー、装丁はどれでも一緒。著者に支払う原稿料が格段に高い、とは聞いたことがない。それどころか、何冊売れても著者には関係がないんだそうだ。それなのに、3000円近いのが当たり前。

私は基本的に本の値段にあまり文句はいわないほうだと思うが、放送大学のテキストは放送を聴こうという意欲を失わせるに充分な高さである。

先日こんなに高い教科書を買うのだったら、いっそのこと科目履修生になれば、その料金に教科書代は込みだし、近所の学習センターを使う権利も出来るから全体としてはお得かも、と考えて、電話で尋ねてみた。が、1単位1万円を1科目1万円と勘違いしていた。しかも、学習センターの教材はダビング不可で、しかも貸し出しもしてくれないんだそうだ・・・あっという間に目論見は破綻した。

だからしょうがなしに買ったのだが、なんかなあ・・・教科書をもっと安くしてくれたら、放送大学はもっと愛されると思うけど。ああ、勉強って面白いな、ためになるな、と思えばこそ、もう一度学生になろうかとも思えるのではないかしら。

本当をいえば、放送もDVDやCDで売って欲しい。期限切れの古いのでもいい。毎週タイマーかけて録画して、ってよほど熱心にならないと出来ることではない。(だからうちにはいろんな講義の断片がある。)

ただし、すべてのテキスト、すべての放送が講読・視聴に値するとは思っていないことはいうまでもない。


追いかけてテツラフ
2006年02月03日(金)

あほです。
でも、今日は昨日と違い、ホールがいいし、曲もバルトークですから、テツラフ真骨頂ですよ。実はこちらを先に買っていたら、近場のホールでも昨日のを売り出した、という順序なんです。

バルトークの無伴奏、緊迫感みなぎるいい演奏でした。ブラームスのときは情緒と知性の間で踏みこたえているような印象がありましたが、バルトークだと、ご本人が気持ちよくバランスとれているみたいな感じです。曲そのものが居心地いいんでしょうね。ブラームスだと情緒に侵食されすぎるのかもしれない。

冒頭にやったのはヤナーチェクのソナタでした。私のなじみ曲ではないけれど、きれいなフレーズも随所に出てきて気持ちよく聞けました。ききながら、去年ヤナーチェクのオペラ「ずる賢い女狐」を見損ねたのは失敗だった、なんて思ってしまうほど。

休憩後のバルトークのソナタは無伴奏の後だと、きいているこちら側がなんか集中力を切らしちゃって、寝こそしないものの、コメントの立場にはございません。あの曲、コラージュ絵巻みたいで長すぎだと思うのは私だけ?その間にヤナーチェクのピアノ曲がはいったのですが、あ〜ハンマークラヴィーアとはよくいったものだ、と、まあヴァイオリンとは異質の楽器ですね。

テツラフはサントリーホールを満席に出来るような演奏家ではありませんが(カリスマ性がない)、小ホールはいつ来ても満席に出来る人だと思います。サントリーホール、本当はヴァイオリンのソロをやるようなところじゃないもん。そういいながら、目下6月のムター@サントリーをどうすべえか、と迷っております。


テツラフ、◎
2006年02月02日(木)

息子が家庭教師に行っていたお嬢さん、めでたく第一志望校合格。これで泥棒の母にならないですんだ。やれやれ。

テツラフの演奏で、ブラームスのヴァイオリン・ソナタを聞いた。
テツラフのことは数年前にバッハ無伴奏を聴いて以来、ひいきにしている。可憐なガボットがいつまでも耳に残った。

で、今日はブラームスである。あれ、こんなに動く人だったかな、と軽いオドロキ。記憶とは不確かなものである。しかし、けれん味やはったりのない演奏は記憶の通りで、ひけばひくほど、テツラフはどんどん自分と音の世界にのめりこんでいく。ショーマンシップからかけ離れた演奏家コンクールをやれば、間違いなく上位入賞である。聴衆はその小宇宙の外側から演奏を聴く。

決して否定的な意味で言っているのではない。音と自分との間に何者の介在も許さない真摯な演奏だ、と言いたいのである。これ見よがしのボーイングがはびこる昨今、禁欲的で気持ちのよい演奏であった。

アンコールはドヴォルザークのソナチネの最終楽章。思いっきり田舎臭い曲である。荷馬車と兵隊さんがすれ違うような曲。同じドヴォルザークなら「ロマンチックな小品」から取り出してくれればいいのに、ちとがっかり。

伴奏のフォークト、写真よりはかなり重たそうだけれど、なんだかこの人ジャズ弾いてみてもいいかも、と思った。会場で会ったチェロひきの知人は「リズム感はテツラフよりいいんじゃない?」とのたまうた。会場のピアノ、割ときらびやかな音で響く。アメリカのスタンウェイだからだろうという。ハンブルクのだと違うんだそうだ。

テツラフの楽器はグライナーとかいう人の作った現代の楽器である。私のザル耳にさえ、とてもバランスのいい音のする楽器だと聞こえた。どこやらの国ではストラディヴァリばかりがもてはやされているが、何かそれって権威主義的。ブランド志向丸出し。中には演奏家としての技量を見せるのか、高価な楽器を見せるのか、わからないような人もいる。新作楽器で自分の演奏をするってすごいなあ、と、これでまたテツラフに一層傾倒するのでありました。


2月1日
2006年02月01日(水)

2月1日だ。
東京で中学受験生の母をやると、たぶん忘れられない日付の一つになる。大学受験の日などけろりと忘れたが、これは覚えている。うちのときはどんより曇天だった。今日は雨。

大学受験はあんまり親は関係ない。いわれるままに受験料を払いこむくらいで終わる。親が熱心になったからとて、「笛吹けど踊らず」状態だから、家庭の平安のために親は知らん顔をするのが一番だ。

でも中学受験の場合は、右も左もわからないお子様のお尻をぺんぺんしながら、塾に送迎し、テストを受けさせ、学校見学をし、といった具合に親が先に立って動かないではことが運ばない。お母さんの算数教室なんて裏番組を持つ塾もある。幸いうちは理系の夫と文系の私なので、分業で済ませられたが、文系夫婦だときついな。ともかく家族みんなで忙しい1、2年を過ごしたあげくに、やっと2月1日の本番を迎えるのだ。

今年は、息子が家庭教師に行っているお嬢さんにとって大事な2月1日だった。明日発表だけれど、うまく行くといいなあ。幼稚園の頃からよく知っているお嬢さんだから。

「Yちゃん、うまくいったかしらね」と帰ってきた息子に話しかけたら
「問題を読み落とさなきゃいいけどなあ・・・読み落としてるんだろうなあ・・・」と心もとないことをいう。なんとか通っていてくれると嬉しい。受験指導は塾主体で、息子はあくまでも過去問のお手伝い程度のことしかしていないものの、それでも暴利をむさぼっていた。不合格では親の私の面目が立たない。通れ、通れと祈るばかり。




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