書泉シランデの日記

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書って歌と同じかも
2006年01月31日(火)

今日は日に3箇所という展覧会はしご。
「バーク・コレクション」@都美・・・予想以上の面白さ。佳品多し。
「書の至宝」@東博・・・混んでいた!
「歌仙の饗宴」@出光・・・見るべきものは古筆。あとはオマケ。

さすがに3箇所は多かった。図録重かった。バークにも石山切が出ていたので、今日は行く先々で古筆を見たことになる。

思うに、書は歌みたいなものかもしれない。表現すべき「言葉」があって、それをどう再現=表現するか、が問題になる。別に書家が筆をとって書かなくても「言葉」として機能を果たさないわけではない。歌も詞はメロディーがつかなくても、音痴が歌っても「言葉」の伝達は可能である。

しかし、それに何を付加するか?そこに表現の意味があるのではないだろうか。白と黒のコントラストだけでも美しかったりはするが、書き手はただ黒い線を引いているつもりではあるまい。となれば、見る側は、書かれている言葉の意味が理解できなくては「書」を味わうことにはならないのではなかろうか。作品に取り上げる言葉に何を託すか、いかに意味を越えるものを付加するか。

歌も同じである。言葉としての意味がわかってから、初めて表現を問題にすることができるのではないか。言葉の意味がよくわからないまま外国の歌を歌っても表現は稚拙なもので終わるだろうし、単なる聞き手の立場であっても表現者の意を汲み取ることは難しい。

と、一人で勝手に考えて、ふ〜む、私はどっちも好きだなあ、なんて思ってしまう。書けないし、歌えないけれど。

(とはいえ、小野道風の名さえ知らない息子が案外熱心に図録を見ていた。こうなってくると、名品は白黒コントラストの線だけで充分芸術なんかなあ、と思ってしまう。)


ムターのモーツァルト
2006年01月30日(月)

40歳を目前に、ムターはもはや押しも押されもせぬ大家の域に入れてもいいんだろうと思う。けれん味のない、正統派である。女流とはいえ、あの音色!ここ数年のMIDORIもいいけれど、音そのものの質感が全然違う。

が、私はムターにこれまであまり面白さを感じなかった。あまりに優等生的。素人が演奏の参考に聴いても悪影響を受けない感じ。

ところが昨年出したモーツァルトのヴァイオリンコンチェルトの新録音は、ちょっと聞きではムターじゃないみたいな印象を受ける。全体にハイテンションだし、アゴーギクの効かせかたなんて、「おー、ためとるなー」って誰がひいているかと思うほどだ。(ボルネオあたりに親戚のいそうなあの人とか。)そういう耳にひっかかるところもままあるが、音色の美しさったらないし、5番の冒頭でソロが入ってくるところなんて、胸をしめつけられるような切なさを覚える。

一体、昔はどうやってひいていたっけ・・・と気になって、13歳だか14歳だか、お若いときのカラヤン×ベル・フィル盤を掘り出して聴いてみた。

これはこれで天才少女の名演なんですよ。第2楽章のアダージョなんてとてもお子様の芸とは思えない。で、冒頭、これがまさに若いか、おばさんかを見事に反映していました。言葉に置き換えたって仕方がないんだけれど、イメージ的には、とにかく最初の録音だと、世界が開けていく−不安と好奇心にかられながら、一歩ずつ踏み出すような感じ。ああ、思春期そのまんま!それはそれでとっても瑞々しく、懐かしさすら覚えます。

さて、おばさんになった今のは、というと、まあ、こんな与太を読むより、聴いてみておくんさい、なのですが、長調なのにどこか短調、どこか翳りがあるんですねえ・・・振り返れば、人生、いくつかの哀しみ、数多くの取り戻せないものたち。ムターさんでもそうでしたか、なんて言いたくなっちゃいます。(ちょっと前にプレヴィンと再婚して順風満帆だと思うのに・・・)

最近、日本のヴァイオリニストというと、十代でデビューしていないと×に近いような早熟な様相を呈していますが、20年なり30年なり経ったときに、どう進歩のあとを見せてくれるのでしょうね。天才少女たちがおばさんになったとき、相応の達成に恵まれますように!


モダニズム講演会
2006年01月29日(日)

先日読んだ本の著者である本江邦夫さんの講演会があったので、急遽聞きにいった。

講演会、というより、解説付きスライドショー。面白かった。いろいろあるんだね〜、というのが正直なところ。モダニズムが何か、なんてことはさっぱりわからなかった。

思うに、絵画(美術といってもよい)というメディアを言語に置き換えて素人に語ろうとすること自体が、英語を日本語にするよりも無謀な試みなのである。絵は言葉に置き換えて再現できるものではない。音楽でもそうだが、ここに評論というものの隔靴掻痒的限界があるのではないか。文学評論はまだ、まな板に載せるものが同じ言語だから何とかなることもあるが、美術や音楽の場合は、その場の人々に共通の体験がない限り、なんとも実体の伴わない言葉を漂わせるだけにとどまる。(共通の体験といっても全くぴったり重なる必要はない。作品体験が近似かつ充実していること、といえばいいだろうか。)

ただし、そうはいってみるものの、第一線の研究者のちょっとした解説を聞きながらスライドを見ていくと、知識はもちろんだが、自分では気付かないような視点を教えられはする。これから絵を見るときに、本江さんの解説を追認したり、疑問を持ったりするのだろう。それはなんと言ってもやはり楽しみに数えられる。

若手の作品を見るのもとても楽しそうだ。これが「名画」ですよ!というのを見ていくこともさりながら、未熟な画面に<これから>を見るのも若手のコンサートを聴くのと同様、面白いに違いない。

絵を見ることも音楽を聴くことも結局はその向こうの何かを求める行為なんだろうな。


『素数ゼミの謎』 吉村仁
2006年01月26日(木)

たぶん、もう有名な本なんだろうと思う。
中学受験の塾とかじゃ推薦本に違いない(・・・素数っていつ習うんだっけ?)。

数学の好きな人はみんな揃って偏愛する素数=1とそれ自身しか約数を持たな自然数。私だって知ってはいたが、だからどうなのよ、という以上に関心は持てない数だった。最大の素数が見つかったなどといわれても、天井にネズミが見つかったというほどにも驚けない程度の無関心さである。

たぶん、それはいかにも理屈だけの、実感できない世界として「素数」を教えられていたからだ。

『素数ゼミの謎』はほんの間違いで買った本である。ネットで買った。開いてみてびっくり、「なに、これ?総ルビ、しかも見開き挿絵!」ところが読んでもう一度びっくり。だって、すごく面白かったのだもの。

アメリカで13年おきとか17年おきに発生する周期ゼミについて、どうしてそんな変な発生をするのか、という謎解きなのだ。それに素数の性質が関係してくる。なるほど〜っ!

確かに素数って性質も大いに意味があるんだ、と恥ずかしながら、初めて納得 and 感動。こういうことに大きく心を動かされると、数学を専攻しようなんて思うのね、きっと。残念ながら、it's too late for me.

挿絵も全然無駄ではなく、ビジュアルに直感させてくれる。まっこと、うまくできた本だと思って読み終えた。(読み終えた、というほど時間がかかる本でもない。)数学科予定の息子なんぞは『博士の愛した数式』ほど胡散くさくなくていい、という。あれは数学の弄びなんだそうだ・・・そうかね?

私は算数の問題はキライであった。「A子さんが財布になんぼか入れて、お使いにいく、あそこで100円、ここで230円、と使い、さて、財布を見ると450円残っていた。最初にいくら持って出たか」という類の人の財布の中身を推察するようなことのどこが面白いのか。発想にまるで品がない。A子さんの財布はA子さん自身が面倒をみればよろしい。しかも、これがむずかしくなると、やれ、最初に持って出た額の何分の1が残った、などといいだし、線分図を描いて解くことになる。そんなアホなことをやるために、算数がいるのか、と呆れるしかない。

長年の恨みなので、もう一つ書く。高校の順列組み合わせである。ボートに人が乗り分ける類の問題や、旅館の部屋割りの問題。デブとデブは当然並ばないし、仲良し同士はひっつくし、いびきのひどい奴らはそれで一部屋である。なんでわざわざ理屈をつけて、PだのCだのと式を書いて、不要な数字をはじき出さねばならないのか。

数学教育の人は、単純に現実をひっぱってくることが親しみをもたせる手段だと勘違いしているに違いない。あんなん、やったって、何のために?と疑問が増大するだけだ。現実には計算する必要もなく決まることなんだから。

そこへ行くと、この『素数ゼミの謎』は整数の性質を考えることについて「心なき身にもあはれはしられけり」であった。こういう本を中高生に読んでもらわなくっちゃ。それから数学なんて、と思っている大人にも。


『中・高校生のための現代美術入門』 本江邦夫
2006年01月25日(水)

抽象画の必然をこれほどわかりやすく説明したものに出会ったは初めてであった。図録の解説などでは、本江さんというのは割合難解な表現を使う人だという印象があったが、これはよかった。「中・高校生のための」という但し書きは、学術的な用語で語らないことに対する著者の照れではないかと推測する。

専門用語は正確に緻密に語りたいというときに、その用語を理解するもの同士ならば大変便利なものである。でも、当たり前のことだが、誰にでもわかるわけではない。専門用語を使いこなせる人にこそ、なんとか専門家として許容範囲の正確さで、素人に語りかけてもらいたいものだ。

いうまでもなく作品から感じることが最優先だけれど、どうもそれだけでは心もとない。抽象絵画の発生の必然とか、モンドリアンならモンドリアンの様式性など、専門家に教えてもらうことで、ほぉ、なるほど、と胸のつかえが下りる。この本の中で紹介されている作品の多くは千葉の川村美術館にある。川村で出しているのかしら、と思わず奥付を見ると平凡社ライブラリー。

平凡社ライブラリーには上等のものが多く入っている。中高生相手のものがこのほかにもあるかどうかは疑問だが、中高生を表に出すならちくまプリマーブックスが私のごひいきである。ただし、あれが本当に中高生相手かどうかは怪しい。「です・ます」体で書いているだけで、内容は大人向きではないか。大体、ほとんどの人は大学や職場で専門にしている分野を除けば、高校を終えた程度の教養であることが普通だろう。私なんぞ、理系科目はそれすらおぼつかない。だから、中・高校生向きと銘打つのは、実は素人の大人向きと解することが可能である。

それにしても、いまどきの本物の中高生がこういう本を読むのかな?読んでくれればうれしいことです。うちでは中年と大学生が読んでいます。もう一回川村美術館へ行きたいね、の気分。


『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』 
2006年01月22日(日)

著者 中野雄(文春新書)。

さあ、このタイトルに何を期待するか?
新書だし、大掛かりな謎解きは期待のしようすがありませんが、結局「はあ、さようで」と承っておくだけの内容でした。

ただの音楽ファンの耳には届きそうもない、ウィーンフィルの新旧の団員さんたちの発言が随所に引用されていて、それはそれで面白うござんす。が、それにすべてをゆだねるわけにはいきません。たびたび故人の著作が引用されるのは若干わずらわしい。ウィーン・フィルの楽器の独自性のことも、コンツェルト・ザールの音響のことも、入団資格のうるさささも、それはそれですでによく知られていることです。

で、どこに「音と響きのの秘密」があるのか?それを日本人の敏腕音楽プロデューサーである中野さんの知見に基づき、もう少し論じてほしかった。ただの感想ではない、論を期待していた。ご本人がしばしば言及されるように、かの丸山真男門下なんだから。

ついでに、そのウィーン・フィルにして、しばしば起こりうる出来と不出来の秘密も教えてもらいたい。

アメリカという音楽不毛の地にどうしてウィーンでも振れるような一流指揮者がなびくんだろうか。そこんところも教えてもらいたい。万事お金の問題だけなんだろうか。

中野さんはウィーン・フィルがとっても好きなんだ、ということはよーくわかった。好きな気持ちが先行して、全体としてはあちこちからきしみが聞こえそう。


『日本美術の歴史』 辻惟雄
2006年01月19日(木)

縄文時代から宮崎アニメまでを俯瞰した、一人の著者による日本美術通史である。この著者の『奇想の系譜』がとても面白かったし、館長を務めていた千葉市美術館の展示も何度か行って、面白かったので、横尾忠則のデザインした派手な表紙を見て、すぐに買った。阿修羅像に岡本太郎の「痛ましき腕」が重なり、遠くに神奈川沖の冨士が見えたり、風神雷神がいたりするような表紙である。(楽しそうでしょ!)

A5版だから、図版が小さいのは致し方ないことで不問に付さねばならないが、分量的には決して少なくはない。しかも、図版グラビアが別途あるのではなく、記述と同じ頁にあることが殆どである。これは大変便利。ただし、もっとあったらいいか?と聞かれたら、そりゃあもちろん、と答える。

図版だけでなく、参考文献もその都度紹介され、この点も便利。おまけに佐藤康宏氏による文献案内まである。充実度抜群。教科書みたい、と思って読み終えたら、案の定、あとがきでそういう意図があったことを知った。なあんだ、である。読みながら、なんやら記述が平板やなあ、ということは確かに感じていたのである。通史だからこういうことになっちゃうんかなあ、と。それってやっぱり<教科書>を意識したからなんでしょうね。紹介はするけれど、論じない、みたいな感じ。無論、紹介をする時点で、その取捨選択にこそ主張があると読むべきですが、こちらはそこに主張が読み取れるほど美術に明るくないのです。

期待していたのは、中世〜江戸の絵画のところだったのに、実際面白かったのは、そんなところより、最初の縄文美術だった。縄文土器のおどろおどろしさを美術史家に解説してもらうと、へぇ〜そうなんだ、と興味がわいた。著者の専門領域の記述には、むしろ欲求不満が募ったくらい。

とはいえ、ああ、そういえば、こういう仏像もあったねえ、と思い出し、そんな建物もあるんだ、と驚き、その言及は絵のみならず工芸品から書道に写真、マンガにアニメ、にもおよび、まるで、昨今のコンビニのような本である。このくらいハンディにして図版豊富な日本美術通史の本は一家に一冊必需品ではないかしら、と¥2800なんて安い、安いと思うのでした。


みかん
2006年01月18日(水)

芭蕉の句に「夜ひそかに虫は月下の栗を穿つ」というのがある。(表記についてのご意見はご容赦。あんな字、探すの面倒くさいもん。)

芭蕉が大成する以前、といっても中成?くらいのときの作品で、たぶん立派なものなんだろう。自筆短冊にこの句が書いてあったら、いいお値段確実だ。

私がでたらめに想像するに、これは栗を焼いて食べようとした芭蕉先生、殻をむいたところで、虫食いであると発見・・・ちくしょー、人が知らねえ間に!という経験があったに違いない。せっかく大きい粒だったのによー、と布団に入ってからも悔しくてならない。悔しい、悔しい、虫のヤツ、いつの間に栗に入り込むんだろう、というわけで、上記の句が生まれたのである。

そんなことはどうでもいい。今日の話題は「みかん」。1年に1度くらいしか自分では料理しない栗なんてものより、冬じゅう食べるみかんのほうが、はるかに大事である。さて、そのみかん、かごにいれて住環境抜群にしておいても、ある朝突然、白いカビが生えている。前の晩元気そうでも、こちらが寝ている数時間のうちに、直径3センチくらいに白いカビが拡がっている。気付かず放置しておくと、今度は緑色のも加わって、その翌日にはぐじゅぐじゅになる。

これってなぜなの?
なんで予兆もなく、こうなっちゃうわけ?
月下の虫なんぞよりよっぽど「ひそか」よ。
はえてもいいけれど、気配くらい見せてくれたっていいと思う。これじゃさすがの芭蕉先生だって、灯下のみかんを犯すカビの句は読めまいに・・・。

ちなみに芭蕉先生ミカンの句
祖父親(おほぢおや)まごの栄や柿みかん
行秋のなを頼もしや青みかん 
・・・カビは詠んでおりません。ふたつ目の句はちょっといいかも。



「絵画の行方 現代美術の美しさって何?」 
2006年01月15日(日)

この展覧会は6人の現代画家の作品をとりあげて、現代美術の美しさは何かを問うものであった。現代美術にしてはおだやかなわかりやすい、きれいなものばかりである。(ビデオアートやインスタレーション系はなし。)

別に現代美術の美しさが何か、の答えを教えてくれたわけではないが、私的にはワンランク・アップだった。二木直巳の「見晴らし台」シリーズ、とても面白かったし、小林俊介の一見べた塗り、実は・・・の作品には教えられるものが多かった。

つまり、画面を見て、即、概念的な処理をしてしまったら、そこから得られるものはものすごくわずかになってしまうということ。「これは何々だ」という答えを求める前に、色とたゆたい、画面に遊ぶという解放された心を呼び起こさないといけない。作品に過剰の意味づけ、特に言語化された形での意味づけを求めることからは脱却しなければ。それって読書の場合でいうと、「とてもためになりました」的なご教訓読書法に似ている。

夫は大谷有花のロリーポップみたいなのにひかれ、息子は水上央子の装飾文様的なのを愛でていた。大谷はまだこれからの発展途上人。これからの変化がお楽しみ。水上作品は伝統の流れの延長にある新しさで近づきやすい。だから私にはあまり衝撃的でもなく、過去から現代ひきつがれた抽象性の今日的な表象であった。

あちこちの自治体が美術館を持つけれど、自主企画でよいものができる優れた学芸員を持つところはそう多くない。予算も年々厳しかろう。そういう点で府中市美術館の今回の展覧会はかなりいい線をいっていると感じた。

現代美術を見る視力をもっと高めたいと思う。だから次は是非、インスタレーション系とかビデオアート系をじっくり見せてくださいな!


『回想のビュイック8』 S.キング
2006年01月14日(土)

この間読んだ『透明人間の告白』があまりにもつまらなかったので、エンタテイメント系口直しがしたくて、キングを読んだ。

キング、さすがに面白い。キングのような売れ筋で、文庫上下2巻で1334円は高いと思うが、価格だけの面白さは確約されていることを感じた。いやおうなく話に引き込まれていく。(帰りの車内が待ちきれず、講演中ついつい内職をしてしまう。)

これでもか、これでもか、と見せつけてくれる「薄気味悪さ」。どこにその頂点があるのか、終わりがくるのか、見当がつかない。

いつもの手口だ、と百も承知のはずなのに、本気で怖くなる私。ホラーだのスプラッターだの、サスペンスだの、全部本当はキライ。でも小説家としてのキングが無類の巧者であることは否定できない。

この作品に関しては、怖いだけでなく、父子もの、職場友情もの、という色合いもあって、その点でもうまいなあ、と思わせられる。アメリカの警官ってのは、よきにしろ、悪しきにしろ、個人の顔があるところが魅力的。日本の小説で、警官の顔があり、相互の友情があり、っていう作品はあるのかな?キングではないけれど、パレッキーのウォーショースキーのシリーズにに出てくるミスタ・コントレーラスも確か退職警官だったと思うが、とにかく主役でない警官のありようが日本とアメリカではちょっと違う。

すみません。国産推理小説は殆ど読んでません。十津川警部って人がいますね。松本清張の「砂の器」にも印象深い警官が出てきたような・・・・・・でも、もしかして日本の警官の代表は、亀有の両津勘吉さん?!

キングの話に戻りまして、ぐっと真面目な『キングの小説作法』や『死の舞踏』も一読の価値ありだと思う。あそこまで手の内を明かして、なおかつ書き続けられるからタダ者じゃない!


『ワルキューレ』 マリインスキー劇場
2006年01月12日(木)

ゲルギエフ×マリインスキー劇場の『リング』のチクルスだというので、全部買った、といいたいが、とてもそんな財力はなく、お気に入りの『ワルキューレ』だけ。

指揮者のゲルギエフのほかはしらない歌手ばかり。観客の大半はそうだったろうと思う。私はオケにはそれほど興味がないので、何しろたいした期待はしていなかった。大体、ゲルギエフって名前が出ると切符の値段がアップするし、あの中途半端なヒゲ面が嫌。

ところがどうして、いざ始まるとVorspielからぞくぞくするような低弦の響きじゃありませんか。チェロのソロなんてもう鳥肌ものです。しかも管のキレがよく、元気もよく、それでいて暴走しない・・・この辺はゲルギエフ先生の手綱さばきでありましょう。思わず切符の値段を忘れました。

歌のほうは、というと、ジークリンデをうたったフドレイという人が素晴らしい出来。声量もさることながら、流れるような歌いっぷり。荒削りだったかもしれませんが、小手先の技術で小奇麗にうたうよりどれほどよいか。しかも、ヴィジュアル的にも○。

私は『ワルキューレ』ではジークムントが好きで、「冬の嵐は過ぎ去り」とか、ブリュンヒルデとのやりとりの"Siegmund!Sieh auf mich!"など、お気に入りの部分があるのだが、残念なことにジークムント役は視覚聴覚両面で私的には不合格。

ブリュンヒルデ(サヴォーク)とヴォータン(キート)は、最初はあんまりのれないなあ、と思って聞いていたのだが、スタミナを調整していたのか、終わりに行くに従って充実度を増した。"Der Augen leuchtendes Paar"には思わずうるうる。

ヴォータンという神様のいい加減な性格が『リング』のあちこちを面白くしていると思うが、今回のヴォータンは、クプファーの演出のような遊び人ヴォータンではなく、年のせいか短気なわがまま爺という印象。ともかくも楽しめて、それが何よりであった。

マリインスキー劇場は実は前回来日のときにも聞いていた。そのときはあんまりどきっとするほどの印象ではなかった。でも今回はオケについては大満足。大枚はたいた甲斐があったというもの。


『透明人間の告白』
2006年01月11日(水)

出かけるとき、かばんにゆとりがあったから『日本美術史』にしようかな、と思ったけれど、重さに負けて、文庫本にした。上巻の読み残しを読んでいるうちに、電車を1本遅らせてしまった。上下2冊本の上巻がちょっとだけ残っているのって、通勤の友にするには短すぎて、結局下巻も持つ破目になるから嫌なのだ。

さて、『透明人間の告白』新潮文庫上下2冊なのだが、帯に「《本の雑誌》が選ぶ30年間のベスト30第1位」と書いてあったから、何となく買ったのだ。いくらなんでも30年間のベスト1ならさぞかし面白かろう、と。

騙された。

上巻の三分の二はかなり冗長でつまらなかった。透明になってからの感覚はそこそこ結構だが、私のようなワガママ者には飽きる。しかも若干グロ。もちろん、よく書けているし、想像をつきつめればそうなんだろうな、と共感は出来るけれど、だんだん面倒になる。グロも適当に追求して終わりだしね。

エピソードが散漫である。透明な体で友人の会話を聞くくだりもonce is enough の趣向だと思うし、投資でお金を稼ぐのも20世紀的で面白いけれど、まあ、それだけだし、いくらか面白くなるのは、情報機関と対立姿勢をとり始めてからだ。でも何にせよ結局やれることは、透明な体を使って情報を盗み見るくらいのことなので、わくわく感に乏しい。「またかよ」なのだ。終わりの四分の一くらいでアリスが登場して、ワンパターンとモノローグが多少とも解消される。

特に必要とも思われないセックス描写はエンタテイメント小説の定番なのかしらん。

透明な体でも生活感を克明に描いたという点では評価されるべきかと思うが、30年間のベスト1といわれると、一体どういう選び方をされたのか不審というほかない。登場人物が無駄に消費されている気もするんだけれどなあ。ダメな話ではないけれど、だからどうなのよ、な話だ。透明人間はウェルズの古典的なのを子ども時代に楽しんだから、あれで十分。

家人いわく、「透明人間は網膜の反射がないから目が見えないらしいよ。」
「ふ〜ん、そうなの。もういいの。もう読み終えたから。」


あれもこれもしなくっちゃいけなくて・・・
2006年01月10日(火)

電車の中で小学校の1年生くらいの坊やが
「あれもしなくっちゃいけなくて、これもしなくっちゃいけなくて、だから忘れちゃったのよぉ〜」と泣き出した。

どうやら何か忘れたことをママに咎められたらしく、かわいそうに泣いてしまったのだ。ママは怖い顔をして見ている。坊やは色白の実に愛らしい子で、あんなかわいい子を泣かせてどうするのよ、と思わないではいられない。子ども嫌いの私が、である。(年を取った証拠だ。)

ママもまっとうそうな人だし、相応の理由はあったのだろう(聞きたかった!)。でもなぜ小1程度のおちびさんに「あれも、これも」しないといけないことがあるのか、そこのところは不明。手にしていたのはお稽古バッグのようだったけど。

坊やが泣きじゃくるので、ママがハンカチを渡した。坊やが鼻を拭いたら、かえって大きな鼻くそ−対面シートの向い側から見える程度に−が鼻の頭についた。ママが思わず噴き出した。笑われた坊やはまたしゃくりあげた。ママが手鏡を取り出して、坊やの顔を写して見せた。坊やも笑った。私もほっとした。

子どもが小さいときは色々と叱りたくなることがあるものだ。それをしつけだと思っているんだよね。私もそうだったと思い出す・・・間もなく車内睡眠モードに入って終わり。


昨日今日とは思ひざりしか
2006年01月09日(月)

今年初のチケット買い。
ツィメルマンのピアノ、\5000。ピアノは守備範囲に入れていないし、あまり買うつもりもなかったのだが、値ごろ感に負けて、昼ごろ電話。もう売り切れを期待?していたのに、ぱっとしない席がまだ残っていたから、買った。

その後、「チケット・ぴあ」のデジポケに預けたままになっているチケットを忘れないうちに発券してもらおうと思って、ファミマに行く。

ご愛用のファミマは知らないうちに「なんとか99」という生鮮食品の百均に変身していて、別のファミマで発券トライ。手帳を開いて、おもむろにIDだのパスワードだの入れたが、失敗。ちとショック。早い話が手帳に記されたいくつかの文字列の何がどれだったのか、忘れたのである。もう1年以上利用していたシステムなのに、こんなことがあろうとは・・・いつかこんなこともあろうとは思っていたけれど、「昨日今日とは思ひざりしか」である。

パスワードの類をメモに残すなとはいうものの、残さないでどうやって覚えていることができようか?わからないように残しておいたら、本人の私にもわからなくなってしまったなんて、お笑いである。

夜、母と同じくらいの年のお友だちから電話。こちらが頼みごとをしていたのだが、なんだか、とんちんかんな受け答えになる・・・私も老化しているのだから、あちら様も相応に、かもしれない。でも、悲しいから、体調不良だったのだろうと思っておくことにする。


DVDのお相手
2006年01月08日(日)

本日の読書、DVDのマニュアル、なんてね。

最近の道具はいろんなことが出来て結構だけれど、なんだかいろんな「専門用語」が出てきて、その都度、面食らう。DVDのプレイリストだのタイトル分割だのって、それ以前、どういう機械を使うときに出てきていたのだろう?

DVDを買って一年近くになるが、その二つの区別を今日やっと理解できた。

しかも手元のコントローラーとモニターに出る表示を頼りに様々な作業を行うわけで、機械の手ごたえというものが全くない。私が古い人間であることは百も承知だが、手ごたえのない操作は好きではない。パソコンはまだ、キーボードの感触があるだけましだ。モニターとキーボードの距離も近いし。

電子ブックのインターフェースに「本」のスタイルや「頁をめくる」感触を残しているのは、やっぱり肉体的な記憶の重要性を考えて、わずかとはいえ「手ごたえ」を残しているのだろう。これって古い人間には大事なことではないかしら。

DVDのリモコン操作もせめて返事の音でもすればいいのに、と思う。(PCはときどきハードディスクの音がするよね。)

こんな与太を書くと、ワガママなやつだと思われるだけだろう。最初からリモコン操作で育った若い人にはわかるまい。(昔、息子が小さいとき「ちょっとチャンネル回してみてよ」といったら、彼はコントローラを持ったまま途方にくれて「ママ、どうやるの〜?」と聞いた。)

とにかく、日がなDVDの相手をして、昔とったビデオをハードディスクに落とし、さらにDVDに焼いて、バックアップをした。それから溜まっていたオペラの録画を整理して、名前をつけたり、DVDに焼けるように分割したりして、頑張った。

何も頑張らなくてもいいようなものだが、頑張った理由はただ一つ。

一気にやらないと、やり方を忘れて、次回にまた手間を喰うからだ。


交通事故とばっちり
2006年01月05日(木)

香港の道教の神様で初詣を済ませたつもりになっていたのに、やっぱり八百万神のおひとかたにお参りしてきた。というのも、1ヶ月に2度も「あ〜、やばそ〜、事故っちゃうわよ」と思ったものが正しく事故になってしまったから、なんだか薄気味悪くなったのである。

最初は暮れの22日。反対車線に横から出てきた車だった。後ろから来る車を見てなさそうだな、危ないな、と思った瞬間、追突されていた。

そして、今日。駅前の商店街の狭い道、路上駐車あり、で、前から歩いてくる人がひどく斜行していた。後ろから車来てるのに危ないわ、今にビビッと鳴らされるよ、と思って、一瞬目を離したすきに、ドスン。はねられた女性はしりもちをついたように座り込んでいた。女性の持っていたスーパーの袋がタイヤに踏まれたあおりで、私は腰から下が真っ白。牛乳パックが破裂したのである。

はねられた女性はしばらくして我に返り「大丈夫です、すみません」を繰り返したが、救急車に乗ってもらった。私は到底買い物のできる姿ではなく、きたないし、冷たいし、目撃者として住所氏名などを警官に聞かれてから、即、帰宅。(私の年なんぞ何の関係もないと思うが、それでも聞かれた。)

目の前で二つも交通事故を見て、いずれも血を見ることはなかったものの、心穏やかではない。もう薄暗くなっていたが、着替えてから、電車に乗り、バスに乗って、初詣をしてきた。お賽銭を\1000もはずんでしまった。交通安全のお守り\500を買った。破魔矢\2000も買った。でもこの破魔矢、「当たり矢」というのである・・・大丈夫だろうか。

交通事故には気をつけましょう。


紙の始末
2006年01月04日(水)

年末には一年分の各種領収書類や給与明細などを整理することが、結婚以来の習慣になっている。大体、一年でティッシュの箱にちょうど収まるくらいの量になる(ふたはしないで、立てていれる)。それを5年ほど保管して、それ以降は処分 ― かつては庭にゴミ焼却炉をおいて焼いた。

ダイオキシン騒動以来、一切庭でゴミを焼くことができなくなった。草にも塩基があるそうで、塩基のあるものは何にせよ、ダイオキシンのもとだそうで、いまや大学や公園でも落葉をかいて、ゴミ袋に入れている。自家焼却器じゃダメなんだそうだ。あのゴミ袋のほうがよっぽど環境負荷が高そうだけれど、きっとそうじゃないんだろう。

まあ、庭の草くらい、うちあたりなら大した量ではないから素直に生ゴミで出すけれど、領収書や通帳だと抵抗がある。

シュレッダーを買えばいいといっても、通帳はちょっと家庭用のじゃ無理でしょう。世間の皆さんはどうやっておられるのかしらん。焼くと一瞬でめらめらっとなって快感だったのにな〜。

領収書類は頑張って、職場のシュレッダーにかけたり、ガムテープでぐるぐる巻にして出している。通帳は銀行で引き取ってくれないかしら。

それに同窓会だの町内会だの学会だのの名簿も厄介だ。以前、ある高名な先生が「物をもらうと人は金を払いたくなる、だから名簿をマメに送ると同窓会費の納入率が上がる」と仰せになった。そうかもしれないけれど、今のご時世、名簿は迷惑だ。電話帳同様、古いのは引き取ってもらわないと、人様の個人情報まではなかなか守りきれない。

焼却炉、使いたいけれど、「ご近所の目」に阻まれて、さすがに使えない。その程度には良識的な住宅地なんです。昔は年末、どこの家もよく焼いていたのになあ。


謹賀新年
2006年01月03日(火)

去年の新年読書初めは『源氏物語』だったような気がします。忘れた頃の拾い読みなので、1年かかってようやく宇治十帖に入ったところです。今年は辻惟雄『日本美術の歴史』、昨日、香港からの機内で読み始めたので、当然、まだ読み終えていません。もうちょっと長く乗らないと読書には不向きかも(「数独」には最適ですが)。

今日はもう食べなくていいんだ!というのが朝起きたときからの密かな喜びでした。そんなもったいないこと、いっちゃいけないことは百も承知なんですが・・・。香港、何を食べてもおいしかったとはいえ、私の胃袋のキャパシティーはそんなに大きくはないのです(財布と同じくらいか?)。

名高い福臨門の上湯は確かに美味でしたし、満福楼の鹹魚鶏粒保飯(正しくは保の下に火)も絶品でした。許留山や糖朝の香港スイーツもさわやかでした。黄一家と大きなテーブルを囲んで、沙田で頂いた飲茶もこれぞ香港ファミリーという感じでとても楽しかったのですが、ですが、ですが、たぶん今の私は「食」にはさほど入れ込めないのですね・・・これが老化ということなのでしょう。

20数年前に行ったときは、朝から晩まで、今日は陸羽だ、明日は鹿鳴春だ、と食べ歩いたのですけれど、この間の香港の変貌以上に私の変貌は大でした。香港はびっくりするほどきれいになりました、私はそれと同じくらいか、もっとふけました。加えて食べ物への執着が大いに失せていました。食べるほうはもう普通でいいです。3日目の朝は日和って私一人カフェで済ませました。

そんなわけで、たいした香港報告はないのですけれど、食欲と購買欲の充実した方たちはあまり足を向けない博物館を2ヶ所回りました。市内の歴史博物館と新界の文化博物館。

私たちは香港の歴史ってアヘン戦争くらいからしか考えませんけれど、日本と同様、中国の辺境だったんだなあ、と思いました。唐代の出土品という「土器」が実に「土器」でして、藤原京あたりで出てくるのと似てきましたもの。

あと、蝦醤の製法の展示がいかにも館内の一等地にあったことも食文化の個性が根強いことを感じさせられました。正直、私は当分、海老は食べたくないです。

実は私は中国本土へは行ったことがなく、辺境の日本に住んで、台湾、韓国、香港しか知りませんが、それぞれの辺境性が微妙に一致したり、違っていたりして面白いものを感じます。何も日本独自、とそう声を張り上げなくても、古代中国の辺境だという一点から、東アジア各地のそれぞれの発展を捉えることはできないでしょうかね。中国の申し子の一人で何か不都合があります?

後者、文化博物館はそれを新界に建てること自体に若干の政治的主張が匂いますし、中身の充実度はイマイチ(建物は立派、今後に乞ご期待)。現代中国画−嶺南画派というらしいですが−趙少昂の展覧会は説明ビデオがとても面白く、大いに鑑賞の役にたちました。枯れた睡蓮の葉と寒そうな雀の絵が素敵でした。

加えて、ここでは珍しい人に出会いました。かの「楼蘭の美女」!おやまあ、こんなところでも出開帳ですか、と懐かしく観覧。どこかの国での開帳と違って、空いていてよござんした。

さ、これから平凡なご飯を作って食べよっと。



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