書泉シランデの日記

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正月閉店
2005年12月29日(木)

1月3日まで閉店します。
香港でお正月をします。20数年ぶりの香港。
まだ荷物も出来ていません。
徹夜だね、これは・・・。

みなさま、どうぞよいお年をお迎えください。


『世界歴史の旅 ビザンティン』
2005年12月28日(水)

世界史でおなじみ山川出版社で出しているシリーズもの。
そういえば受験生のとき、山川の記述式問題集というのをやっつけた。その成果は、○○字以内で書け、という問題にびびらなくなったことだ。思うにあれは、無理難題を列挙したような問題集だった。

この間から、トルコに関心を持っているのだが、なかなかこの方面の手ごろな本(素人に読みやすい本)は少ない。その点、これは写真が多くきれいというだけの理由で買った一冊なのだが、期待以上に内容が豊かだった。「歴史の旅」と銘打っているせいか、前半は解説、後半は具体的な見どころの紹介という一見ガイドブック仕立てだが、見どころに到達するまでの交通案内はないから、ガイドというよりは旅心掻きたて本と位置づけるべきであろう。

シリーズのほかの本は知らないので、あるいはこの本に限ったことなのかもしれないが、ビザンティン美術や建築の格好の手ほどきとなった。歴史の旅といっても、これは美術史限定である。美術鑑賞は、ある視点を与えられることで、単なる視覚的な感興以上の意味合いを見出せることがあるけれど、まさにそんな感じ。特に様式に立脚して成立する分野にはこういう手ほどきがありがたい。

ビザンティンのイエス像はどれをとっても実にgood lookingで、神の子イエスという雰囲気満点。

ビザンティン美術の足跡はトルコ、ギリシアと東欧だけに限らず、シチリアだのエジプトだのシナイ半島だの、さすがに版図の大きさだけ広がっている。しかしイスラム世界の征服があった上、それに先立つカトリック世界とのきしみがあったから、集中的にきれいに残されているわけではない。が、まずはめざせ、イスタンブールである。貯金しよう。


『沈黙博物館』ほか
2005年12月27日(火)

小川洋子である。死生、永遠もの。
この人は研究者が論文を書くように小説を書く。テーマに向かっていろんな切り口で切っていく。研究者向きかもしれない・・・小説家のほうがお金になるから小説家になったのは正しい選択だったと思うが。

続けて読むと、「あ、まただ」という印象を受けないでもないけれど、それがテーマだと思えば切り口が楽しみである。

人の形見を集めて博物館に展示する準備をする技師が主人公。日本とも西洋とも思えない、現実感のない世界が舞台。とはいえ、小川洋子の現実感のなさは独特。受け入れやすいのだが、読後、振り返ってみると霧の中に隠れているような世界である。

ミステリータッチも加わり、長さの割りには飽きないで読める。世界を構成する種々の要素も破綻なく、うまく収まっていると思う。沈黙の伝道師見習い少年と少女の恋のエピソードがはかなく瑞々しい。そしてこの博物館の創設者である老婆、枯れ果てて縮まって変形した老婆の描写の見事なこと!うまいなあ、といわないではいられない。

これほどにまで言葉を操る力を持つ作者が「言葉」に疑念を投げかけた小説を書くというのは大層逆説的なことだ。こういう作品を新刊で読まないことが若干悔やまれる。が、新刊はかさばるし、市立図書館に通う時間がなくて残念。

ついでに同じ小川洋子『貴婦人Aの蘇生』、これも死生もの。ただし、出来は上々とは言いかねる。脇役(オハラとニコ)が魅力的すぎるのと、「伯母さん」はロマノフ皇女アナスタシアか、という興味でテーマがぼけている。面白いけれど、つまらない。帯に書かれた宣伝文句がいかにも大げさで陳腐に思えた。

それにしてもこの2冊、絶対『博士の愛した数式』に乗じて売らんとする糸での文庫化(再刷)と見た。なんか、切ない出版界。


鍵、恐るべし
2005年12月26日(月)

故障したPC、盗難防止錠がくっついたままでした。ワイヤー切断して修理に出したのです。で、それで受け取ってくれて、やれやれと思っていたところ、今朝になって電話が鳴りまして、
「あの錠はずさないと修理できないんですよ〜、裏が開けられないんでね」
えー、そんなぁ!!

「鍵、なくしたんですが」
「・・・キャビネットこわしてやることになるんで、時間もお値段もかかりますよ」
「鍵、壊してくださってかまいませんが」
(ちゃちい南京錠です、金ノコで数分で切れそうな代物)

「それはお客さんのほうでやってもらわないと・・」

そんなこといわれたって、私に出来るはずない。修理工場にならその程度の道具はないのかね、と文句の一つもいいたいが、何しろこちらは早く直してもらいたい一心。

しょうがないから、HPで探して鍵の救急車とかいうところに依頼する。私が立ち会わなくても現地へ行って作業してくれるというのである。書いてしまえば、あっさり2行だけれど、立会い不要を了解させるのにしばし時間を要した。で、今日中に(会社が開いている時間中に)行ってくれるというのである。その代わり、料金は作業終了電話連絡後、即時振り込め、と。

へいへい、やっていただけるなら、料金くらいは。(といっても1万5千円は痛い!おもちゃみたいな南京錠にだよ。)

ところが待てど暮らせど、料金振り込め電話はかかってこない。それどころか「いつくるんですか、もうすぐ受付終了しますが」というシャープからの電話。鍵屋に催促すると、5時頃には、とのたまう。・・次の連絡では5時半であった・・・そうして最後はもう5時半過ぎてから「今渋谷なんで、これから・・・」 夕方、車で渋谷から田端までどんだけかかるのよ。冗談じゃないってば!

へろへろである。一日何も手付かずに近い。

シャープはそんなに待てないというし、鍵屋は行きたがるし、私は右手に携帯、左手に加入電話、で、両者を取り持ち、明日の朝イチ確約、ということにしてもらった・・・もらったけど、どうなることやら・・・

何が24時間都内現場急行だよ・・・怒る元気も失せた。あんなちゃちい南京錠を一つ壊すだけで1万5千円。鍵をなくした私も悪いけれど、勝手にこわれるパソコンがもっと悪いよ・・・・(涙)


で、電話番号は?
2005年12月25日(日)

朝、クリスマスカードが届き、見れば28年前アメリカでお世話になったホストファミリーのおばちゃんからじゃありませんか!

このおばちゃん、25年前にすい臓破裂という大病をして、早い話がそれ以降あっちこっち手術を繰り返し、ターミネーター状態、でも車にも乗れば、ゴルフもするナイス・シニア。御年80。

去年、クリスマスの小包やらカードやら送ったとき、なしのつぶてで、あれれ?・・・さすがにもうだめになっちゃったのかな、と心配しつつ、なんとなく1年たってしまった。おじちゃんのほうは、体は健康だけれど失明寸前で持ちこたえていた。もうケア・ホームに入っちゃったのかも、と勝手に考えて、忙しさに紛れて今年は何もしていなかった。

ところが今朝とどいたカードには健康そうな二人のラブラブ写真。結婚60年だって!二人は確かハイスクールのカレカノ関係だったはず。

素敵な写真が嬉しくて、これはすぐに電話だ、と久しく英語頭になっていないのに、かけちまった。

年寄りのモゴモゴ英語なんて絶対わかんないから、自分の名前とメリークリスマスだけいえばいいや、と思う間もなくおじちゃんが出た!

"Hello, this is xxx calling from Tokyo"
"...Oh! Oh, hi, xxx! How are you? Merry Chirstmas! "

おじちゃんの昔どおりのはきはき英語に心強くなりました。で、おばちゃんが出て、
「年取っちゃったのよ〜、80歳なんてね〜、信じられないわよね、でも元気なの、さっき友だちんちのパーティーから戻ってね(ドウトカコウトカ)、スー(娘)の旦那が(ドウトカコウトカ)・・・、28日にジョアン(娘)が(ドウトカコウトカ)」

老婦人の話は洋の東西関係なく切れ目なく続き、私の耳と頭は置いていかれる。でも理解できたところで、たわいもない話に決まっているから、なんとかクリア。

最後に
「ねえ、で、あなたの電話番号は?」
「はいはい、国番号が81、そのあと4・・・(何ダッケ、私ノ番号、何ダッケ・・・)、・・・ちょっとまって、手帳見るから」
「あらまあ、あなたも自分の電話番号を忘れるの?やっぱり忘れっぽいのね(大笑い)」

冷や汗かきかき手帳を読み上げ、いやあ、参った、参った!

クリスマスやお正月のいいところってこうして長年の知り合いとコンタクトがとれるところですね。



『ぼのぼの』
2005年12月24日(土)

年末大掃除決行中である。
過去何回かの大掃除の荒波を越えてきたマンガ『ぼのぼの』を処分することにした。95年から01年までの20巻がある。まだ続いているから30巻越しているのだろうか。

最初の頃、実に新鮮で、いびられの「シマリスくん」や「スナドリネコ」さんなどとのやりとりが面白かった。凶暴な「アライグマ」くんもよかった。とぼけた滑稽さが魅力だった。ところがだんだんしょうもない俳句めいたものが混じったりして、俳諧味を押し付けるようになった。(今更見直して検証する気にならないので、おぼろげな記憶のまま)

それにつれてキャラも増えていき、『ぼのぼの』の世界が陳腐化した。このキャラの増加というのも、安易に新しいキャラにエピソードの創出を頼って全体的な収拾がつかなくなることが多い。

唐突なようだが、蕉門の「軽み」の句が通俗的であるとか、そうでないとかいう論議がある。芭蕉の「軽み」を上っ面だけ似せれば、確かに浅薄そのものであろう。あの「軽み」というのは、芭蕉の句にしたって、なんかぎりぎりのところをやってるなあ、としか私には思えないけれど、とにかく『ぼのぼの』には芭蕉のへぼい弟子と同様に、真似っこの感じがしたから、読まなくなり買わなくなったのである。田舎蕉門が道学者めいた口ぶりで語れば、面白くなくなるに決まっている。それに耐えられる人は間違いなく素直で向上心豊かな人だろう。当然、私ではない。

最初はとても好きだっただけに、捨てるのはちょいと残念。でも読み返すこともないので、引導を渡す。日焼けしてなきゃ、ブックオフで第二の人生があるのにね。


まさしく雑
2005年12月22日(木)

<Book of the year>とか「今年のベスト3」とか、いろいろやってみるのは楽しそうだ。そう思うけれど、どうもその手の才知は働かない。だらだらと年が明け、だらだらと暮れていく。節目、なんていうかっこいいものがない。

今年なにか特筆するようなことがあったかしらん?
犬を亡くしたことは特筆すべきことだが、そして、来年戌年だからといって、やたら犬の絵が目についてウザイこと、ウザイこと。そうだ、年賀状作らないと・・・。

明日からの3連休は大掃除に当てる予定。日本海側の人はこの雪では大掃除どころではないと思うが、どうするんだろう、と余計なお世話。電気がきちんと通じないと、何につけても大変に違いない。大体、あんなに雪が降っちゃ買い物に出るのにだって不自由だろう。今日の東京は寒くて風が強かったが、雪は降らなかった。この時期の東京は恵まれていてありがたい。だからやっぱり掃除をしなくては、と思う。

何も掃除くらいそう感慨深げになることはないのだが、なにしろ日ごろだらしがない上、ワックスかけは年末、と決めているので、ここでやらないと未来永劫やらなくなることを恐れているのである。未来永劫しないことを目論む夫と水面下の綱引きである。


PC災難
2005年12月21日(水)

朝、自分のPC(ノーパソ)を立ち上げてから、トップに週末の報告をするために席を離れた。出張の成果なんぞをとくとくと語っている間、PC、どうやら火を吹いたらしい。

20分ほどして席に戻ると、画面真っ暗。クリックしても反応なし。しかも何となく電気臭い(電気系統が壊れたとき独特のにおいがするでしょう?)

誰も見ていないところでバッテリーがいかれたのである。あまりのことにショックも覚えられない。バックアップなんて本当に必要最小限しかとっていないし。

こりゃ修理だわ、とあきらめた私に次なる悲劇。・・・盗難防止のワイヤーである。

鍵、鍵、と探せども、探せども鍵が見つからない。3週間ほど前、ちょっと机の向きを変えたとき、ちゃちな南京錠を見かけた。あれがこれだったんだ、と気付いても、時既に遅し。どこにやったか、全く記憶ない。それどころか捨てたのかもしれない。前任者の鍵、と思った記憶が頭をよぎった。他人の鍵だと思ったものに何の未練があろう。こっちの引き出し、あっちの引き出しと探しまくるが鍵がない。

会議が終わったあと、管理課で「ペンチ貸して下さい」というと「何に使うの?」
「PCの盗難防止のワイヤーを・・・」
「え?盗難防止のものだったら、ペンチじゃどうかなあ、金ノコじゃないと無理かもしれないよ」

そういいながら、一緒に来てくれたHさん、見事切断してくれた。これで修理に出せる。(Hさん、バレンタインデーには思い出します!)

この喜びで故障のショックを忘れているけれど、本当は喜んでいる場合ではない。 周りのみなさんは、バッテリーがとんだだけだから、ハードディスクは大丈夫だろうといってくださるんですがね・・・。

問題があったのは、買って3年を越したシャープのメビウスである。


『漢詩 美の在りか』
2005年12月20日(火)

ある先生の勧めで松浦友久『漢詩 美の在りか』(岩波新書)を読んだ。

前半部はとても面白かった。誰もが知っている4人の詩人、陶淵明、李白、杜甫、白居易をとりあげ、それぞれの詩の個性を指摘する。辞書にあるような無味乾燥な記述ではなく、どの詩句をどのように読むか、という姿勢で語られる。もちろん新書というページの制約があるから、そうそう沢山の事例が取り上げられるわけではないのだが、簡にして要。

続いて主題(友情、戦乱、懐古、飲酒)を中心において、先の四人のものに限らず、おなじみの作品が解説される。そうか、漢詩ってこういう世界だったのか、と、私のような貧弱な知識のものでも、ある程度、全体が俯瞰できるような気がするから不思議である。

その後、リズムの話になるのだが、私には後半はまったくなじめなかった。誤解を恐れないでいえば、牽強付会ではないか。さもなければ、中国語の音韻に理解のないものには判断に迷う記述といえる。このリズム論の先に「文語自由詩」としての訓読漢詩の位置づけが来る。うなずけるところもあれば、首をかしげたくなるところもあって、多分、著者の気持ちはここに相当つぎ込まれているのだけれど、私はついていけそうにもない。部分的にはものすごく共感できるところもあるのだが・・・。

詩に読まれた土地を論じた一章もあるが、ここは単調。

前半は○、後半はなんともいえない一冊。ただし、これを読めば、漢詩の世界が近くなる。

それにしても漢詩なんて高校生には無理だよねえ。今この本に取り上げられている作品の多くには、その昔、大修館の教科書でお目にかかっている。今読むと、なるほどなあ、と思う作品も多いのに、若いときにはさっぱりてんで何がいいんだか、に近かった。

「年々歳々花相似、歳々年々人不同」という句にも、今では結構心を動かされるが−それに気付く詩人の目にも−若いときには、当たり前すぎるのだ。当たり前に信頼をおいていられる年頃と、当たり前といえども信頼はできない年齢がある。加齢とともに当たり前が当たり前として運ばれることに歓びや感動が生まれてくるようになるのでは、と思う。

とはいえ、高校生の時から妙に忘れられないのが「涼州詞」。「葡萄の美酒、夜光の杯」で始める、ああ、あれか、である。沙場でひっくりかえって、古来征戦、幾人か帰るというおじさんには切ないものがある。


『ウプパと親孝行の勝利』
2005年12月19日(月)

久しぶりに書きます。
週末三日ほど名古屋方面を徘徊して、でも、幸いに雪の日は1日だけで、その日はちゃっかり車に乗せていただいたので、新幹線の遅れ程度で事なきを得ました。

さて、留守中に録画したオペラ、ヘンツェの2003年の新作『ウプパと親孝行の勝利』(なぜかクラシカの番組表では『ルプパ』となっているが)を見た。新作だしなー、と全然楽しみにすることもなく(だって新しいものって音楽がやかましかったり、芝居も演出家のひとりよがりだったりしがちじゃありません?)、でもまあゲルネが出るし、見るか、というところ。

話は民話です。3人の兄弟がいて、上二人はダメ、というお定まりパターンで始まり、親のために難題(ウプパという鳥を捕まえる)をこなす、一つ片付けば、次の試練、という繰り返しが3回くらい(これも定番)、途中で花嫁を見つけ(よくある話だ)、最後は兄弟に裏切られ窮地に陥るが、助けられ、無事国に帰り、めでたし、めでたし。

わがゲルネは賢い末の弟(あんまり賢そうでもないが)。そして一緒に旅をするデーモン(デーモンなんだから悪魔なんだろう、そんな格好していたし)がとてもチャーミングで楽しい。エインズリー(tr)が演じて実にうまい。歌もうまいが、芝居がうまい。なにやら少し同性愛めいた目つきが最高。それにクライマックスはこのデーモンの「赤いりんごの話をして」というところなのだ。デーモンの「赤いりんご」への憧憬が『ウプパ・・・』の世界のすべてといってもいい。妙なる調べをうたう鳥ウプパなんか実はどうでもいいのだ。

花嫁のアイキン(sp)とゲルネが井戸に落とされて、その中で愛をうたうシーンも、かの有名な『アイーダ』のラストよりよっぽど感動的である。

舞台がとても素敵だった。無駄がなく洒落ていて、ライティングが美しい。こういうものこそ生で見たいと思わないではいられない。ヘンツェの音楽も自然になじめるものだったし、間違いなくスタンダードになる作品。きっとそのうち日本でも上演する・・だろう・・・か?


思い出しては源氏物語
2005年12月14日(水)

ときど〜き思い出したように、というより、本当に思い出して源氏物語を読んだりする。文庫でそろえれば電車の中で読めるのに、大系だの全集だのというハードカバーは重いので持ち歩けない。

重いものを持って歩くと疲れる。

なので、思い出して半分忘れながら読むしかないのである。

柏木が死んで、夕霧がオヤジ(源氏)何したんだろ、と顔色見てみたり、落葉宮(柏木未亡人)の前で「いい人」を勤めてみて、勤めきれなくなったり、かと思えば、娘(落葉宮)のことをあーだ、こーだと心配する死にそうな母がいたり、子育てに追われながら、亭主に焼餅を焼く妻(雲居雁)がいたり、とずいぶんと通俗的なところを読んだ。この辺は韓流ドラマのネタになりそうだ。

大分前に、夕顔と雲居雁の恋は可憐でよいなあ、と思って読んだのに、こんなことになっちゃ全く現実感ありすぎでがっかりである。あのころ二人は健やかだったなあ。(←入れ込み十分)

こういう面倒くさい話は嫌いだ。よく書けているとは思うし、紫式部ってすごいな〜と思うが、人の心があれこれ乱れもつれるのを見せつけられるのは鬱陶しい。(私は韓流ドラマを見る根気のない人間である。歌舞伎も筋書きを読んでいるとどうでもよくなってくる。)

そうはいうもののそれでも「源氏物語」。源氏の世界が形成されていく様子よりは、綻んで崩壊していく様子のほうが遥かに面白い。大体、成功譚で面白いのは「わらしべ長者」くらいかも。


都民響定期演奏会
2005年12月11日(日)

「牧神の午後への前奏曲」に始まり、「牝鹿」(プーランク)、「海」(ドビュッシー)と続き、最後は「展覧会の絵」のラヴェルによるオーケストラ編曲版とくるオール・フレンチ・プログラム。

アマチュアとはいえなかなかの力量で、危なっかしくないのが何よりである。今回、管楽器には一世一代ともいうべきソロ個所がいろんな楽器にあったから、それぞれの演奏者はなかなか緊張しただろうな、と思う。おっこちたり、裏返ったりするのもご愛嬌である。実際、プロでもそういうことはあるんだから。チューバもソロが吹けるんだねえ、というのが、ブラスの曲に無知な私の正直な感想である。

「牝鹿」はなかなか楽しい曲であったし、「展覧会の絵」も解説を読みながら聞くと、ずいぶん写実的な音楽であることよ、と感心する。ドビュッシーはそもそも苦手なので何もいわない。面白いコンサートであったことは確か。

「展覧会の絵」の最後、ここぞとばかりにパーカス組大活躍であった。鐘まで出てきて、ほんにまあ、ロシアの曲はいろんなものを要求する(大砲が出てくるのもあるから)。パーカスの人が日常的にどういう練習をするのかに前から興味があったけれど、今日の活躍ぶりをみていて、シンバルの人は鉄アレイかなんか持って、筋トレをするのであろうな、と想像。

アマオケというと、ブラームス、ベートーヴェン、チャイコフスキーが定番だけれど、こういう珍しい曲を聞かせてくれるのもお値打ちで悪くない。ただし、今日の曲目は、どれをとっても組曲のような曲ばかりで、コンサート後の印象が散漫になるのは仕方がないというべきか。


『宮廷の春秋 歌がたり女房がたり』」
2005年12月10日(土)

中世和歌研究者岩佐美代子のエッセイ。といっても、巷にあふれる作文本のエッセイとはまるで異なり、個人的な思い出話ではなく、岩佐美代子という人の学識と個性を通しての「古典へのいざない」的なエッセイである。知と情のハーモニーが大変心地よい。

幼くして、現天皇の姉のご学友を務め、戦前の皇室の雰囲気を体感し、宮さまにお仕えするという体験をもったことで、時を隔てた宮廷の女房たちの言葉を「心」で受け止める素地がはぐくまれたのだろう。もちろん、経験がすべてではなく、学問の積み重ねがあることはいうまでもない。だから、たいそう心地よいのである。

古典の解釈は、正確さを期そうとするあまり本文の魅力を押しつぶすような資料と説明の羅列、あるいは無味乾燥な現代語訳、さもなければ、妄想と勝手な思い込みになりがちだが、岩佐の手にかかると、それぞれの状況の中で生きた人間の言葉として過去の言葉が甦る。読みながら「『ともあき』くん、よかったね!為兼さんも、永福門院も伏見院も幸いでしたね!」と声をかけたい気持ちになる。ほんのわずかな詞章に生きた人間の面影を読み取るためには、その裏にどれほどの勉強があったことか。

広く読み継がれる有名な古典(たとえば「源氏物語」、歌なら八代集)もあるが、政治的状況等によって長く無視され続けてきた作品群もあるわけで、そうしたものを再評価し、文学史上に正当な位置づけをすることは、研究者の大切な仕事の一つである。それは決して凡庸な人間に出来ることではない。岩佐美代子の仕事は京極派和歌の見直しであった。

しかも、ただゴリゴリと無骨に進めるのではなく、対象へのあふれんばかりの愛情がある。学問的な著述はそれとして積み上げながら、こういう読みやすい形、なじみやすい形で一般の人に語りかけるところが素晴らしい。下手な古典入門書などを読むより、よほどこちらを読んだほうが、古典の世界の魅力が感じられるだろう。

見ぬ世の歌人の心を受け止める優しさもさりながら、そこはかとなく漂う品のよいユーモアに育ちのいい人ってこういう人なんだ、と著者自身にも心惹かれる。橋本治や田辺聖子では間違ってもこうはいかない。

それにしても初版が98年で、7年たった今もまだ初版のまま普通に入手できるなんて、嬉しいどころか、逆に憤りを覚えてしまう。よい本が売れにくい世の中であることよ。(しかし、カバー見返しの編集者?の紹介文を読んで、買う気になる人はまずいないだろう・・・どうしてもっといい文章にしなかったのか、ここんところ謎。)


人間ドック
2005年12月07日(水)

今日は職場の指定年齢人間ドックとやらで、指定されたクリニックに出向く。職場の健康診断には、毎度のことながら、人として人格を持つ自分ではなく、「労働力」としての自分を感じさせられる。

前回、マンモグラフィーで死ぬほど痛い思いをしたので、今回は婦人科オプションを申し込まないでいったら、待合室はオジサンばっかり!

ずうっと女性専用の病院と信じ込んでいた私・・・去年までは婦人科オプションをつけていたから、単にこれまでその日が女の人ばかりだっただけだと判明。ちょっと参りました。・・・何とも心もとない検査着を着せられるのだから、せめて待合室くらい、男女別にならないものか。

そう思い始めると、検査着の紐のつけかたが男性用であることにすら、不快感を覚えてしまう。別に実害はないのだけれど、ちょっと考えさせられた。

人間ドックは丁寧にやられると不安が増す。腹部超音波なんぞ、自分でもモニターが見えるから、怪しげな個所も見えるような気がする。どーせなら、さっさと終わらせてくれたほうが気分がよい。

バリウム飲んで、「戸板」の上であっち向け、こっち向け、も嫌なものである。ゲップをするなといわれるので、いつも素直に従うのだが、今日は面倒になって、無視してやった。特に叱られなかった。これからも無視しよう。でも、ポリープがあるといわれた。3月に胃カメラで見たときはきれいだったのにどうしてでしょ・・・。


自治会経由の寄付
2005年12月05日(月)

自治会(町内会)経由で「歳末助け合い」をするというのは全国的に常識的な方法なんでしょうか?

「任意」です、といいつつも、「いついつ集めに来ますから」と班長さんが寄付袋を配布してくださる。集めに来るな、ともいえず、来られてしまった日には漱石一枚を袋に入れて差し出すことになる。

大体、この漱石一枚といううちの班の相場は高い。いつぞやそう言ったら、「オタクは二人で稼いでいるんだから、倍でもいい」と言われた。婆さんご冗談でしょう、である。そんなこと仰るのなら、二人で税金払って、年金払っている我家の前は相応に頭を下げてお通り遊ばせ、である。そうは申しませんけれどね。

問題の本質は額ではない。「任意」といいつつ、任意を許さない体質である。(春に来た、わけのわからん市の福祉協議会への寄付は、勇気を出して断った。でもさすがに二度続けて「出しません」といえるほどの勇気はない。)

私は二つ三つのNPOに総計諭吉1枚/年くらいは払っているのだから、都の共同募金会だの、ハイソのチャリティ臭の強い日赤だのを支える名誉は他の方に譲りたい。それに今あげた組織はどちらも天下りの方が沢山いらっしゃるところである。せっかくの寄付が、怪しい白いシリコンバンドのように、何に消えるのかわからないようなことでは全く信頼できない。交差点で寄付をせびる「原理」の連中と変わらない。

しかし、そうはいってもご近所で「ケチ」ならまだしも、「変り者」とレッテルを貼られ、災害時の食料配布なんぞでイジワルをされたら命に係わる。地方税ならぬ地元税だと思って払うのだが、実際、こういう集め方をしないと、福祉団体って年末にはたちまち破綻するものなんだろうか。個人の自覚と選択による寄付ができるほど成熟した市民社会じゃないから、隣組の相互監視による寄付が機能することだけは間違いないが。

こういうときに黙ってだすのが大人だ、と教えてくれる御仁も時々いる。そんな大人は嫌いだ。


『博士の愛した数式』 小川洋子
2005年12月03日(土)

やっと文庫になった、やっと読むことが出来た。

そういうと大げさだけれど、刊行以来ずっと読んでみたかったのである。が、基本的に小説は新刊で買わないことにしているし(溜まる、かさばる)、地元図書館ではいつも予約待ちだし、そのうちに図書館へ行く足である自転車が壊れてしまうし、カードはなくすし、ずぼらなまま何ヶ月か経過。朝の電車のつり広告で文庫化を知り、早速帰りのエキナカ書店で買った。

小川洋子は好きである。事件や風俗に比較的依存することなく、現実的な虚構を作ることが上手だと思う。

身内に数学をメシの種としている人が何人かいるため、そうでない人に比べ私は数学者に対する尊敬も偏見もないが、「博士」の存在は十分実感を伴うに違いない。エルデシュとかラマヌジャンの逸話を思いながら、こういう人もいるかもなー、という感じである。もっともうちの身内はいずれも平凡な普通の社会人であるが。

作品としては、『密やかな結晶』で描こうとしたものとの近似を感じた。永遠なるもの、純粋なるものの追求ではないか。そして多分、それらは現実世界では「消滅」せざるをえないのだが、「胸の中」には確かに存在し、しかも永遠である。時を越えて受け継がれていくものである。

「28」のことも、オイラーの公式のこともなかなかお見事というほかはないが、「0」のエピソードも非常に示唆的だった。存在しないものを存在させようとする手法は小川の試みにも通じることかもしれない。

エンディングの「ルート」(博士に愛される少年)が「中学校の教員採用試験に合格したんです」と博士に知らされるシーン、結構じーんと来た。そこに至るまでの積み重ねがうまい。

未亡人と博士の過去が十分に作品の感動につながるかというと、そこんところ、やや微妙だと思うけれど、未亡人の存在は作品を成立させるために必要なことは否めない。一方、江夏の持ち出し方はさすがだなあ、である。

日常些事の記憶なんて、80分程度で消去されたほうが、人格の純粋性を保つのにはよさそう。この設定は小説という手法ならではのことだ。「博士」は記憶を保とうと、上着にメモを貼り付けたりしている。そうしなくてはならないことの苦悩には深入りしないまま物語は進むが、まあ、何もかも取り上げていったら、話に収拾がつかなくなるから、私に不満はない。

完全数だの双子素数だの友愛数だのと、ある種の整数にはおかしな名前が与えられている。私なんかはそのネーミングに反応するほうだが、私の周りの数学屋さんたちは、数としての性質だけを問題にして、ネーミングでひっかかることはない。そのくせ、素数なんてものをひどく愛おしく感じるらしく、偏愛していることが端々に感じ取れる。それは文系の私には十分滑稽に思えることだし、小川洋子も「ネーミングひっかかり組」だったから、この作品が生まれたのだろう。

以上、とりとめもなく。文庫一冊\438は過剰にお買い得価格。


ゲヴァントハウス弦楽四重奏団
2005年12月02日(金)

ひさしぶりのカルテット。

東ドイツ系のオケが好きなので買ってみた。初聞きである。前日までチケットを2枚買っているものと思い込み、夫を誘っていた。朝、会社から直接会場にいけるようにチケットを渡そうとして、「あら、一枚しか買ってなかったわ」と相成った。当然、私だけが行くのである。

出し物は、ハイドン「ひばり」、モーツァルト「不協和音」、シューベルト「死と乙女」。人気演目揃いである。ただし、私は「死と乙女」はおどろおどろしくて好きになれない。カルテットはハイドンがいい。やすらぐことこの上なし。

くだんのゲヴァントハウスQはオジサン4人組で、がっちりした骨太の演奏である。ごまかしなし。はったりなし。もうちょっとロマンチックに歌ってよ、というような部分もままあるけれど、押し付けがましさがなく、安心して聞ける。

第一バイオリンの人の楽器、高音が伸びなくて、こもりがちな音だったのだけれど、G線の響きが素晴らしかった。こういう楽器で「G線上のアリア」など聴いてみたいものだ。

第一が全体的に重い音であるのに比べ、第二の人の楽器はとても明るくて響く音色で、対照的な点が興味深かった。なんか、うちの息子の楽器と色合いや形、音色もよく似ていて、まさかそんなことはあるまいと思うが、同じ人が作った楽器かもしれない、なんて思ってしまった。本人に聞かせたかった。私は第二の人の演奏のほうが好き。

今年度のコンサート、これにて終了。




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