書泉シランデの日記

書泉シランデ【MAIL

My追加

同級生の退職
2005年09月30日(金)

小学校の同級生が今日退職をした。
高校を卒業して、当時すでに表向きは高卒採用のなかった会社に、コネで入ったたった二人の高卒採用者だったそうな。名前を聞けば誰でも知っていて、あこがれる人も多い会社である。

昨年会ったとき、名刺をもらった。ちょっと驚いた。延々と勤め続けた彼女に何の肩書きもなかったのである。

4大に進んでも何もおかしくない、賢い人だった。仕事ができない人だったとは思えない。子育て最中の数年間は、田舎から両親を呼び寄せて同居して凌いでいた。それなのに、全くのヒラ社員だったのだ。

彼女のほかに高卒で就職した知人はいない。大卒女性で働き続けている人は、さすがにこの年だと、一応管理職になっている。学歴差別を見せつけられたような気がした。

最近は「派遣さん」が困るのよ、とこぼしていたから、彼女の仕事は会社としてももう外注したい仕事だったのだろう。周りが若い娘ばかりになると一緒の仕事はやはり楽しくないだろう。入社時に仕事を教えてあげた男性が上司になっていることも聞いた。そんなものかもしれないし、別に定年まで働かなくてもいいとは思うが、彼女が頑張り屋であることを知るだけに、大学4年出るのがそんなに価値のあることなのかしら、と思わないではいられない。

退職後は大学に入るのだそうだ。彼女の期待に応えられるような教育が受けられればいいけれど・・・。


『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
2005年09月29日(木)

バイエルン国立劇場、指揮メータの引越し公演。

前奏曲、ん?こんなもん?といささか対費用効果に不安を覚えるうちに幕があがった。

一幕で親方たちがどーとかこーとかもめるところで睡魔に襲われた、頭の一方では、うっるさいな〜、と言い続け、反対側では、寝たらもったいないぞ、の連呼。

その峠を越した後は、最後までもったいないことにはならなかった。

小山のようなハンス・ザックス(ロータリング)・・・パヴァロッティも安心しそう。声はふくよかでいいけれど、ここまで育たなくても、ねえ・・・座っていることが多かったのは、もしや・・・。

ダーヴィッド(コナーズ)の声こそ、私好みのテナーです。明るくて真っ直ぐ通る安定した歌唱。残念ながら、体格が舞台栄えしないから、永遠の脇役だろうな。

ベックメッサー(シュルテ)もよかった。ヴァイオリニストのスターンをちょっときれいにした感じ。下品な道化に堕ちず、歌はうまいし、演技も上々。役柄だからしょうがないけれど、最後は気の毒です。

あともう1人、ポーグナー(サルミネン)、ご高名はかねがね、だったが、初めて聞いた。ご立派な体格で、はあ、お声も立派で、聞けてよかった。以上3人に今日のチケット代の8割を捧げましょう。

最初にザックスのことを書いたけれど、ヴァルター(ザイフェルト)もあんまり冴えなかったなあ・・・プログラムの写真、若すぎ。別人かと思って、今日のキャスト表を見直したほど。せっかく立派な歌が用意されているのに、なんかな〜。芝居うまくないし。エヴァ(シュニッツァー)はワーグナー歌いにしてはきれいだったし、声もよかったけれど、巧みかといえば、いいえ、素直なだけ。

演出はとてもわかりやすく、楽しめるものだった♪ この作品って、オペラとしては歌詞で理屈をこねすぎだと思う。字幕、忙しくっていけない。目の悪い私には漢字が多くて読みにくかった。ワーグナーの作品ってテキストだけを問題にすると、子どもが思いついたみたいなところがあって、文脈的な説得力に欠けるんだよね。でも、音がつくと、ありがたや、ありがたや。


へろへろ 
2005年09月27日(火)

ノートンの新しいのを入れることになり、2日がかりで疲労困憊。

シマンテックのいうままに購入するまでは no problem at all、ま、そりゃそうですね。

ところが、いざ本体をダウンロードしようとすると、サーバーと接続できないとかなんとか言ってきて、セキュリティーレベルを下げるのに往生した。ファイアウォールをオフにしようとしても、なかなか出来ないのだ。フェイル・セーフになっているみたい。サポートセンターとやらも、なかなか渋くて、この文書を読め、という類。仏教大辞典と一緒で、読めば読むほどわからなくなるんだって!

翌日になって、ともかくも2,3箇所いじくって、セキュリティーレベルを下げることは出来た。そこで、ダウンロードは出来たのだが、次なる難関がインストールであった。インストールで苦労したことなんてないような気がするが、実行する途中で、またストップ。具合が悪いことに、本当にストップしているのか、単に作業中なのか、判断がつかず(だって、消そうとすると、何やらが動いているとかメッセージが出るんだもの)、しょうがないからそのままで一晩。

一晩たってもそのままなので、いよいよこれはアウトだと知る。やり直したほうがいい、と思い、こわごわ削除・・・何にもなくなってしまったら、払ったお金はどうなるのよ・・・幸い、恐れたようなことはなく、アンインストールして、再ダウンロード。昨晩より、ずいぶん早く出来た。

恐る恐るインストール・・・今度は何とか成功した。が、この間、いったい何回再起動したんだろう・・・本当に厄介。

しかしまだそれで解放はされなかった。今度はライブアップデートで更新できなかったものが出てきた。もう、エエ加減にせい、である。また、「文書番号xxxxを読め」の世界である。読んだって解決せんっていうの。仕方がないから、再度挑戦。はぁ〜、原因はなんだかわからないけれど、まあうまくいったようではある。でもそんな具合だから、どうなんだろう?セキュリティー信頼できる?

私は泣き止まない赤ん坊の相手をしたような気分である。へろへろ〜。


小澤征爾オペラ塾リハーサル
2005年09月25日(日)

東京オペラシティ友の会サービスである。去年は広上さんと東フィルのリハーサルに避難訓練付きだったけれど、今回は小澤征爾とオペラ塾の若い人のオケである。

電話かけの日を忘れていて、遅くなり、席が後ろだったのはちょっと残念。小澤さんがオケに出す指示の声がよく聞こえない。思いのほか、細々と指示を出していたのは、勉強中の人が多いオケだからだろうか。口調はずいぶん優しげであった。指揮台から降りて、指揮をしながら後ろのほうまで歩いて指示をしているのは、まさに「先生」。先生のこだわりは拍の打ちかたにあると見た。

リハーサル曲はベートーヴェンの7番。「セヴィリアの理髪師」のリハだっていうから申し込んだのに、セヴィリアは全くなし。これは期待はずれ。

ベートーヴェン7番は以前、バレンボイム×ベルリン・シュターツカペレで聞いた時の、音の嵐のようなフィナーレが忘れられない。それを思うと、今日のは粘っこいくせに軽くて、「え、大丈夫なのぉ?」

でもまあ、きっと大丈夫になって、crispな若々しいベト7に仕上がるのでしょう。その結果は来月の本公演で聞きたいものです。(私は聞く予定なし)

小澤征爾って思えば、ウィーンの音楽監督なんだわね・・・今日は運動靴はいたオジサンでした。髪の毛、ちゃんと刈ったほうが涼しいし清潔だろうに。


ヒンズー文字
2005年09月24日(土)

なにも今更、と思わないでもないが、ちょっとした必要があってヒンズー文字をにわかに覚えることとなった。ただし文字だけである。ヒンズー語を覚えようというのではない。ヒンズー文字というのは、あの、インド料理店などで時々見かけるような、棒からぶら下がったようにして連続する変な字である。

前にハングルをやったときにしみじみと感じたのだが、文字というのは、まずその形状が「文字」であると頭にしみこまない限り、なかなか「文字」にならない。アルファベットは子どもの時からそう認識しているので、あまり覚える苦労はなかったけれど、ハングルは文字だ、文字だと頭にいい聞かせても、○とトや|というただの図形の域から出にくかった。韓国の人がいくら「機能的な文字です、簡単です」といったところで、私の頭は頑迷だったのである。

で、今日のヒンズーは、というと、母音、子音の関係は日本語の平仮名なんかよりはるかにマシであるが、ハングルには負ける。でも、なかなか楽しい図形で、結局、午後一杯費やして、なんとか読み書き可能になった。筆順がまた面白く、上の横棒が最後なんですよ!大体、あのヒゲのはえたような字が自分の手で再生産できることが楽しくなって、お子様気分。

でも、気をつけないと、なかなか格好がとれない。ずるずると間延びしたり、窮屈になったりして、美しいポジションが保てない。それに手も目も何とかこれまでに自分が知っている文字に近づけようと企むのである。さあ、この記憶、いつまで保てるか。毎日、書き取りでもする?




高校の漢文
2005年09月22日(木)

マンガの『三国志』に触発されて、―感動してではない―、『古文真宝』など取り出し「赤壁の賦」や「出師表」なんかを読み直した。読み直すどころか、そんなものを読むのは高校の漢文以来である。

今読めばなかなか立派なことが書いてあって、赤壁なる場所へ行って、小舟を浮かべ、酒は飲めないので、お茶でも飲んでみたいものである。

だが、高校生にはとてもわかるまい。私は人並みよりは古文漢文出来たほうだと思うけれど、漢文はその口調以外には、何がありがたいのかよくわからなかった。当然のことが鹿爪らしく書いてあるだけのような気がした。

高校生には天地の変幻だの、人のはかなさだの、或は、宇宙的な生命という観点からの自他同一だの、そんなことは観念的にしかわからない。実感できないと思う。風や月は無料だなんて、冗談じゃない、当たり前すぎる。それで感動せよ、というほうが御無体というものだ。

「出師表」とて同様で、人生がいろんな人といろんな形でリンクしていて、人が生きるためには、なんらかの精神的なものが必要だということを日々の中で感じるようにならない限り、「これって勤務評定?訓示?」としか読めない。

年をとることの楽しみは古いもののよさが見えるようになることだ、と思う。(その代わり、今のものに興味が薄れる。)

最近の学校では、漢文の時間激減だし、正直、教師だってどのくらい読めるのか怪しいものだと思うが、漢文って日本が中国文明の一角(辺境)に位置するということを認識するために絶対必要な教養ではなかろうか。「新しい歴史教科書」の人たちは、教科としての漢文については、どういう考え方を持っているのだろう?

最初の『三国志』に話を戻すが、マンガ『三国志』的なものだけで、あの話が何百年も生き続けたとは到底考えられない。マンガはつまらないが、ネタは面白そうなので、これはぜひとも原作にあたらねば、である。


まんが『三国志』
2005年09月20日(火)

ひょんなことから、マンガの『三国志』を読むことになり、読めばそれなりに読み進められるが、面倒である。でも、挫折するほどのことでもないので、昨日からようやく28冊読んだ。全部で64冊だとか。

実は下心があった。マンガにせよ、これを読破すれば、中国古典に詳しくなるのではないか、と。

だが、その目論見は見事裏切られた。一応、主要人物の名前と性格ぐらいは覚えられるが、肝心の名文句などは、全部マンガの吹き出しネームと化しているから全く用をなさない。

そもそも『三国志』が『三国志演義』となって、広く読まれるようになり、日本でも『通俗三国志』や『絵本三国志』などの形で広まったのだから、現代においてはそれをマンガで読もうとも、基本的には間違った読み方だとは思わない。むしろそもそもの作品の魅力からすれば、そちらこそ正統な読み方かもしれない。マンガのなかった時代の人と心を共にしたければ、岩波文庫でもいいだろうし、そっちのほうがインテリっぽくてかっこいいことは確か。(なんせマンガは潮出版だからねえ・・・)

読んでいると、どうしても『ドラゴンボール』と重なってしまう。なんで?といわれそうだが、結局物語の型としては同じなんじゃないかなあ、という気がしてならない。戦う状況の創出が物語を進め、戦う手段が興味を誘う。そしてそれにまつわる人間関係・・・ドラゴンボールなら食欲だったり、恋愛だったり、『三国志』なら親子の情だの君臣の忠だの義だのという名分、あるいは単に君主の欲望・・・そんなものがプロットを形作り、長くなればなるほど、それぞれの登場人物のキャラに確かな個性が感じられるようになり、読者は彼らと旧知の間柄であるかのような錯覚に陥る。

思えば、昔の人だって、かっこいいから関羽だの張飛だのといってきたわけだ。ちょっと任侠っぽいしね。

マンガの速読は得意なので、一冊10分程度で片付けられるが、それでも64冊やっつけるためには、10時間以上かかる・・・やれやれ。



秋です
2005年09月18日(日)

夫が庭の芝(というか草)を刈る。
きれいになった庭に出て、
もうここで転げまわるヤツがいないんだ、と思うとしみじみ悲しくなる。

何のために刈ったんだろうね、と。

シャラの木に毛虫がついていたので、期限なんかとっくに切れた殺虫スプレーを撒いた。犬がいたときは、そういうものは使わないでおいたから、犬が来る前に買ったスプレーがまだ残っているのである。効果のほどはともかくも、こうして撒いてしまえることが悲しい。

空がこんなにきれいなのに、一緒に見上げるヤツがいない。
爽やかな風に見合うだけの、無垢なぬくもり。


『魔笛』
2005年09月17日(土)

昨晩、録画しておいた『魔笛』(2003・2 ROH)を見る。

作品としてはなんだかゴタゴタしているくせに、もったいありげで、そう好きでもないのだけれど、なんちてもキーンリサイドのパパゲーノ聞きたいもん。

キーンリサイドだけ聞けばいいや、と仕事半分で背中で聞くつもりだったが、あまりの面白さに正面からずうっと見てしまった。演出◎、衣装◎、オケ◎、非常にコミカルな仕立てで、僧だの弁者だの、ザラストロだののうざい薀蓄が気持ちよく聞こえる。ザラストロのF.J.ゼーリヒ、すごく良かった。あの柔らかな美声。そんだけで十分。(顔はやや武蔵丸風だが、平均点はクリアしてると思う。)夜の女王のアリアがとても情感たっぷりで、芝居のうちに入っていた。大体、このアリアは「歌いますぜ!」とばかりにおどろおどろしく響くことが多いのだ。キーンリサイドも芝居上手。パミーナのレシュマンも文句なし。

本日の収穫、ゼーリヒです。生で聞けるのはいつだろう。キーンリサイドは今月、来月聞く予定。キャンセルしたりしないで、ちゃんと舞台に立ってね。



DVD『めぐりあう時間』
2005年09月16日(金)

息子が借りてきたDVDの鑑賞会につきあわされる。鑑賞会といっても、家族だけで、夫は何でも映像ものは好き、という間口の広さを誇り、私は映像めんどくさいという間口の狭さを競う。

この間は"Saw"とかいう、おっそろしいサスペンス・ホラーにつきあわされ、私はその晩、よく眠れなかった。ホラーは嫌いだ。キャリーとチャッキー(チャイルド・プレイ)は衝撃的に怖かったし、今回のもスプラッターで怖かった。血は嫌いです。

で、今日は『めぐりあう時間』、『ダロウェイ夫人』に取材した小説がさらに映画化されたもの。そういえば何年か前、そんなのがあった。仕事あるんだけどなーと思いながら母はつきあう。いつもだ。それが親だ。親のつとめだ。

でも、音楽がとてもきれいで、気持ちがよかった。話もあほらしくはないが、なるほどと思う程度にわかりやすく、無理のない展開で、これは『ダロウェイ夫人』の読みの一つだね、と思う。リチャード、泣かせるなあ・・・。リチャードのママの選択もなかなか頷ける。健やかに生きることがどういうことか問いかけられたような気がした。ウルフのこと、ウルフを何も知らない人にも納得いくのかな。私はウルフに関してはちょっと物足りなかった。

以前、ダロウェイ夫人を読んだとき、元彼のリチャードの存在が今ひとつ理解できないで終わった。これを見て、もう一度読み直したい気分である。



What's 八木?
2005年09月15日(木)

漢字能力検定試験協会とやらが、おもしろ誤変換コンテストをやったというようなニュースを聞いた。

今年から海外に住み始めました
帰省中で渋滞だ
見に来てくれてありがとう

というのが出ていた。
・・・はい、はい、おもしろいね、おかしいね。

でも、私は今日もっと呆れたのにめぐり合った。

「八木」と題された一文、
イデ其時の大事は江戸に灰ふり、難波に津波、京に大火事、町々子ともにいたるまで相違あらざる自身番、安堵に棒杖畏れ入

江戸時代、宝永年間の災害を述べたものだが、きっと何かのパロディだと思った。
ところが元が何かとんと見当がつかず、
八木節と関係があるのかしらん、と思ったり、
ヤギ、ヤツキ、ハチキ、ハッキ、ハチボク、などと
いろんな読みを考えて辞書をひいてみた。が、どうもぱっとしない。
ハチボクは米のことかあ、なんて、もそもそ考えていたら、

ひらめいた! ハチノキ!
これなら謡曲にある。

「八木」=「鉢木」で、大成功。

それにしても「鉢木」を「八木」と書く?
漱石先生が「秋刀魚」を「三馬」と書いたとかいう話はあるが、
「すは、鎌倉」の「鉢木」だよ・・・eight trees じゃしょうがないでしょう。

誤変換とは呼べないにせよ、この程度の誤記は昔っからあったということ。
そして、たぶん、昔の人は「誤」なんて気持ちはなかったのだ。
「鉢」よりは「八」のほうが、画数が少なくて楽だものね。


『晩夏』
2005年09月14日(水)

19世紀オーストリアの小説家シュティフターの長編。
ちくま文庫上下2巻を何気なく手にとって、レジで「お、高っ!」と思った。オペラの3万は出せるが、小説で3千円払うのは不当な気がする・・・が、この『晩夏』については、全然不当ではなかった。(上下で¥2600)

どこがそんなに感動させるほどの小説なのかはよくわからない。けど、感動した。(あ、小泉ポチみたいだ、ボキャ貧!)

最初から最後まで事件らしい事件は何もおきない。生活に困らない人の生真面目にして優雅な日々、それを彩る自然。相手への尊敬にもとづく穏やかな愛。その中に育つ恋愛。自然も美しいが、愛に結ばれた人々も同様に美しく、さらに、自然を愛する人たちが生み出す芸術、工芸、園芸・・・み〜んな上等。

こんなに美しいものだけ、日の当たるものばかり寄せてよく長編が成立するものだ。読み始めてまもなく、これはドイツのエコロジー思想みたいな話だろうと思った。それからまたしばらく読んで、ゲルマン的自然認識ってあくまでも理詰めなのね、でもこれって日本の「風雅」ってのと同じことじゃん、と芭蕉先生のことなんかも思い出す。日本人は、情緒、さもなければ「日本人」であることで、何もかもぶっとばして、自然とシンクロしがち。

そのあとは人間形成物語か、と思ったり、とにかく多面的な様相を呈する長編。頑張って一言で乱暴に言い切ってしまうなら、教養小説であり、二組の恋愛小説。通俗性ぎりぎりの綱渡りの気味もあるけれど、通俗的にならないのが名作のゆえんか。(だけど、解説を見ると、両極端の評価があるそうな。私も20代でこれを読んだら、クズ呼ばわりしたかも。ニーチェやマンが愛読したんだってよ。)

ドイツの教会の木彫などドイツへ行くことがあったら、しみじみ見てみたいものだ。


庭 草ぼうぼう
2005年09月13日(火)

いつまでも暑い・・・暑いのは大嫌い。

あげは組、五匹が終齢幼虫になった。大から小まで、ころころと小さな木にたかっている。一匹、最初に終齢になったのは、生まれた枝から別の枝にうつって、その枝先の、まあまあいいんじゃない?という程度の若葉を独り占めして食べている。耳をすますとかじる音が聞こえる。

ところが、残りの連中は、生まれた枝にそのまんま。葉柄とその延長しか残っていないような葉っぱにたかっていて、とりわけ小さいヤツなんか、可哀想になる。でも、私は手で触れられるほど「虫めづるオバサン」ではない。箸でつまんで引越しさせてやるのも、ドキドキして出来ない。お〜い、どうすんだよ〜、と見守るだけである。大体、新しい枝に引越しさせたからって、うまくついてくれないことが多い。

憎憎しいくらい肥え太らない限り、立派な蛹にはなれないのだ。

箱根ポーラ美術館の前のヒメシャラを見たとき、到底うちの庭のと同じ木だとは思えなかったけれど、今日、しげしげとみたら、うちのもずいぶん木肌が赤くなってきていた。へぇ〜の気分。

犬がいないので、夫が草刈をさぼっている。そのうち世間から後ろ指をさされるような草ぼうぼう。12年前、犬を飼うまではパターの練習ができそうな、きれいな芝だった。犬を飼って2年目くらいから、雑草がどっとふえた。エノコヅチとかネコジャラシとか、それまで入ってこなかった雑草。草丈が高くなってうっとうしいタイプの草である。

そういえば、犬を飼う前は庭の一角でモロヘイヤとか、青じそとかバジルとか作ったこともあった。なんか懐かしいけど、今更、土いじりはしたくない。手が荒れるから。

先日つかまえた精霊バッタは下町の小学校で人気を博したらしい。めでたし、めでたし、でも、庭で生を全うできたら、もっとめでたかったね。ごめん。


選挙の復習
2005年09月12日(月)

さっきまでNHK特集の党首討論を見ていた。息子が見るのに親二人つきあわされた形である。

息子は中学高校の公民の時間に何をしていたのかと思うくらい常識がない。呆れる。が、党首討論を聞く程度の根気と論理の検証をする程度の知力はある。自分で何も考えないうちに、「どこだって同じじゃん」のようにいう連中と比べれば上等である。ただ、いつまでこのまっすぐな視線でものを見ることができるか・・・親の私は今回、彼の質問ではっとさせられることがとにかく多かった(恥)。

どこの党にせよ、都合のよい情報を明かし、都合の悪い情報は隠す。都合のよい形で数字を出す。言っていることがすべてかどうか、一党だけの言い分ではそれが全くわからない。だから、常に半信半疑で聞くことになる。しかも、こちらも忙しいから、政治家が何を言っていたのかすぐに忘れてしまうのだ。そして、そんな姿勢で聞いているから、裏切られたとしても、全然心に堪えない。期待のないところ、失望もない。本当は期待して満たされるのがサイコー、失望するのもケンコー。

マニフェストの達成率など、本来は信頼できる第三者機関(NPOとか)が検証してどんどん公表するべきだと思うが、これまた、いうは易し、行いは難し、であろう。結局ことの「検証」が出来ないうちに次の選挙が来てしまうのだ。

今回の小泉圧勝も、どうやら小泉のリーダー性に期待した人たちが多かったようだ。石原といい、小泉といい、私は嫌いだけれど、ああいうリーダー資質ありげな人に頼りたい人が多いのね。「任せて安心!」なんて自動車保険だって宣伝文句だろうに、政治の世界でそんな立派な人がいるわけないじゃん。古代ローマの哲人政治だって成功しなかったでしょうに、欲はあっても、徳のない(学も怪しい)政治家に期待できるものか。

・・・そんなこと、いいきっちゃって、ああ、なんて不健康・・・


選挙酷報
2005年09月11日(日)

うわぁ〜〜・・・っげげ!

思わず息子に
「この先、外国でもどこでも履歴書が出せる程度に勉強しといたほうがいいよ」と言ってしまいました。
いざというときには逃げ出せるだけの準備をしてもらわないと産んで育てた甲斐がありません。

今の日本をどうにかしなきゃ、ということは大いに共感できます。
でもファッショ的な改革は断じて勘弁してもらいたい。

そもそも参院がその本務的な機能を果たしたことに対して、
衆院解散となる理由が私には理解不能。

げにおそろしきは自民党の党則なり。

しかも私の小選挙区は
bad - worse - worst の三択問題。
badに投じた一票にもナサケナイものがありました。


ご進物用バッタ
2005年09月10日(土)

急遽、庭のバッタを捕獲して、小学生に進呈することになった。
「秋の虫?精霊バッタでよければ、庭にいるよ」と安請け合いをしたが、犬がいなくなって以来、用もないのに庭へは出ないし、いざとなると、はて、どこにいただろう?

しかも物置をみても捕虫網などない。かごもない。

しょうがないので、台所のザルを持ち出し、犬が用足しをしたとおぼしきあたりにしばしたたずみ、辺りの草々を見回す。こうしているときにバッタやカマキリをみかけたのだ。

見回すことしばし、やはりいた。精霊バッタだ。ぽいっとザルをかぶせて捕獲。ちょろいもんである。それとも、庭のバッタはこれまで保護されこそすれ、捕まえられるなんていうことがなかったからかもしれない。

もう一匹、と思ったけれど、だんだん面倒になり、ひしばったじゃ子どもが喜ぶはずはないし、何匹の約束まではしていないからまあいいかと思い、その一匹を草とともにこぎれいな瓶にいれ、ガーゼでフタをしてご進物用に整えた。

かなへびに接近遭遇。犬のいない今、生き物の楽しみは庭に巣くうものたちだ。

あげは組、犬がなくなるころにまた産卵があり、8匹くらい孵っているのは確認していたが、今日見たら、うち3匹は終齢幼虫になっていた。当然のことながら葉脈だけになった葉も出てきた。ここらで鳥の登場があると、一掃されるわけだが、季節は秋、子育ては終わった。なんとかさなぎになれるかもしれない。が、今年度最後のあげはか、あるいは、来年までさなぎのまま越冬か。


箱根
2005年09月09日(金)

久しく家族でお出かけの機会に恵まれなかった我家、運転免許をとった息子もろくに高速に乗らないまま数ヶ月。こんなことではいかん、と箱根に出かけました。

本日のヒット一覧
★湯本ホテルのイタリア料理「ラ・マニョーリア」
あんまり期待しないで入ったものの、粉関係(パン、ピザの台、生パスタ)が上々。大満足。

★ちもとの「ゆもち」
ただし、息子は富山の不破福寿堂の「鹿の子餅」に軍配をあげる。似たようなお菓子だけれど、「ゆもち」には柑橘系の香りが入る。彼はチョコでもケーキでもオレンジなんとかが嫌い。だからだと思う。

★ポーラ美術館
館蔵品が○、今回の特別展「黒田清輝と岸田劉生の時代」はもとより私の関心外だったけれど、興味のある人にはいい展示だったかも。
建物も素敵。今回は閉館間際の1時間だったから、次回はもっとゆっくり見たい。

★恩賜箱根公園
さすが「恩賜」緑美しく、人少なく、湖畔の展望上々。ただし白鳥池が白鳥ボートの池になっているのはいかがなものか。

本日のファウル一覧
★成川美術館
なぜかしら品がない印象。万華鏡とかすごいオタクワールドを垣間見た思いだけれど、全体にはなんつうか、売れ筋を意識したコレクションになっているのかも・・・もとが個人コレクションだから、という興味があったのに、残念。観光地にありがちなイマイチ美術館の一つ。ただし上等の部類。

★復元中の「箱根関所跡」
説明のプレートが垢抜けない。触るな、上るな、が多すぎ。体験型ミュージアムが多い昨今に時代錯誤。


箱根なんて何年ぶりか、というより、車から降りたことがいつあったのか?と思うほど。もっと俗な場所を覚悟していたのに、河口湖なんかよりはるかに大人の場所が多く、リピーターになるかも。一説に「星の王子様 サンテグジュペリ・ミュージアム」がなかなか勉強になるというので、半信半疑だけれど(いや、信が4分の1、疑が4分の3)次回のお楽しみ。



『クレールの刺繍』
2005年09月07日(水)

1年に数本しか見ない映画、今年初めて見たのが『クレールの刺繍』。平日の混み具合が、1時間〜40分前だったから、正直に1時間前に行った。16番。さすがに台風の来ているときは空いていた。ぎりぎりに入ったって楽勝でした。

この手の話は予告を見れば、結末まで想像できるようなもの。果たして想像通り。フランス映画としてはわかりやすくて、それなりのハッピーエンド。問題は、結末にいたるまで、どのくらい見せる場面、考えさせる場面があるか、ではないか。しかもそれが露骨ではなく、うんとおしゃれに、ね。

それについては映画を殆ど見ない私が何をかいわんやである。でもいっちゃう。ずばり紙芝居映画だった。主人公の気持ちに波風が立つと、バイオリンのBGMが入る。最初、悪くないと思ったけれど、度重なるとうるさかった。単純!

マダム美しかった。年配の人のああいう美しさはハリウッドじゃ無理ね。キャベツ、堅そうだった。なんとかのアルザス風なんていう料理にはよくキャベツの煮込みが使われているが、あのキャベツなら煮込まないでは到底食べられないと思う。

刺繍はきれいでしたよ。ラクロワのドレスでも見るときに、必ずこの映画を思い出すでしょうね。でも私の暮らしじゃ、ラクロワのオートクチュールを見るとしても雑誌でしかありえないけれど。

結局女は産む性なんだわね。

そうそう宣伝文句にオランダ絵画のような、というのがあった。そりゃ、青いターバン巻いていたさ。で、だからオランダ絵画なの?


子どもに媚びない曲
2005年09月06日(火)

くだんの故犬です。
ペットロスサイトのぼったくりと画一性に憤って以来、ずいぶん立ち直れました。
めそめそしないで、楽しく生前の写真なぞ見ています。一枚つきあってください。




この作業のついでに、昔のビデオなど見ることがあり、「あら、うちの息子にもこんなお茶目なときがあったのね」とびっくり。本人もびっくり。

ピアノの発表会なんかもあり、一本調子でアニメかゲームの曲を弾いていたので呆れた。当時は、ヴァイオリンの先生が厳しい分、ピアノは甘めの先生でいいや、あえて楽しさ優先の教室で2年少々お稽古したのである(中学受験で止めた)。

しかし大体、子どもにひける程度の編曲を施したら、アニメやゲームの曲なんて、薄っぺらくて、つまらないことこの上なし。バイエルの肩を持つ気もチェルニーに尻尾を振る気もないが、調性の性格や分散和音の響きの美しさに気付かせるのも先生の芸のうちではないか。お世話になった先生には申し訳ないが、あの頃の私はわかっていなかったのだなあ、と思う。チボーの挿話ではないが、音階はそれ自身で十分美しいよね。

子どもはゲームの曲だととりあえず楽しくひくかもしれないが、音楽性を根っから欠く曲では曲を完成させる(音楽性を意識する)という大事なプロセスが存在し得ないのではないかしらん、と彼のピアノのビデオを見て感じないではいられなかった。同じときにひいたヴァイオリンとはまるっきり違う一本調子なんだもの。

最近はクラッシックの曲なんて入門期にはお呼びでないのかもしれない。それなら、なおのこと、子どもに媚びないで、目の前の曲の魅力を伝えられる先生を選ばなくっちゃね、と今更、考えたところで詮無いことを思ってしまった。


比例区は・・・
2005年09月05日(月)

以前お世話になったことのある知り合いから封書が来て、何かと思えば、丁寧な手紙を添えつつ、比例区は社民党のお願いだった。

選挙の「お願い」というと、「あ〜ら、選挙だから私の一票を思い出してくれたのね」と嫌になるところなのだが、手紙がいかにも真摯だったので、そのことに感動した。知人というのはもう70歳を越えた女性である。男に伍して頑張ってきた、歯に衣着せぬ物言いの人で、私は彼女には相応の魅力を感じてきた。それこそ、ダメなものはダメ、と切るものは切り、取るべきものは取るタイプである。

本来無党派の彼女が「こんなお願いは今回限り」といいながら、比例区は社民党を推してくれという。どうしてあんな賢い人が今更「社民党」なんだろう、とその点は、いくら手紙を読んでもストンとは落ちない。しいていえば土井たか子やその周辺の若い人たちとの交わりの中から、やはり最後の希望をそこの若い人に託したくなった、というところなんだろうと思う。

社会党はカスだが、土井たか子は逸材だということは、あのブーム以前に彼女の口から聞いていた。私は彼女がいうんだから、そうなのかもなあ、と思いつづけて10数年、でも相変わらず信じられない。逸材をも腐らせるのが社会党だということのほうは信じられるが。

70歳を過ぎた人からこんな応援を受けるなんて、社民党はわかっているのかしら?福島さん、あなたの後ろにはまだ、この期に及んで一縷の望みを社民党の比例区にかける人がいる。お題目ばかり言っている場合じゃないよ。

で、私はどうする? どうするんだ?  


まずドレスデン、それからマーラー
2005年09月04日(日)

今日は息子のオケの定演だったので、久しぶりに文化会館へ足を運ぶ。ついでだから、西洋美術館でやっている『ドレスデン国立美術館展』に寄った。←この展覧会、あまりいい評判を聞いていないが、私は行ったこともないドレスデンという街に大層心惹かれるのである。ゲルネのふるさとだ。

美術展だと思っていくと、裏切られた、と思う人はいるかもしれないな。雑多である。工芸品も非常に見事、とはいいかねる。世の中、もっと見事なものはあるよ、とそんな感じ。でも、雑多なものを寄せて、模倣しようとあがくあたり、いかにもう〜〜ん、ドレスデンは大いなる田舎だ、という魅力が立ちのぼる。周辺の文化への強い憧れ、結構じゃないですか。

展示品の中で本当に素敵なものは測量道具だと思う。現代ドイツの工業デザインに一脈通じる。

面白いものは、なんといっても<胡椒挽きつきの棍棒>。スイスアーミーナイフを求める文化だね。

で、それを見た後、文化会館で、マーラーの八番を聞いた。「千人の交響曲」と呼ばれている大合唱団とソリストの歌手(プロ)が7人つく大曲である。

息子はマーラーが好きなので、熱心に練習をしているようだった。2nd ヴァイオリンの面白くもないメロディーを口ずさむからすぐわかる。確かにアマオケがこの大曲に挑むチャンスはめったにない。ひけるだけでうれしい気持ちは想像できる。

昨晩、アッバード×ベルリン・フィルのCDで予習をしたときには、「悪いけど、これ間違いなく寝るわ」だった。でも、CDで聞くと一向に冴えない合唱部分が、生だとなかなかの迫力で迫ってきたので、寝ないですんだ。児童合唱も声量豊かでびっくり。オケ演奏も安定していて、少なくともこれまでの大学オケとは違って、下手につきあわされた苦痛とは無縁だった。

テノールのソロが詰まり気味だったのが残念だが、総じて安心して聞けた。アマチュア・オーケストラの場合「安心」は最高の賛辞。


国民服カムバック?!
2005年09月03日(土)

クールビズのあとはウォームビズなんだそうで・・・。

英語ってところが、小泉ポチ的で嫌だな。
昔から外国語が好きな国だったんだろうから、しょうがないかもしれないと思うけど・・・(外国語が好きだったから、こんなに漢語があるんでしょ?)・・・それにしても、あんまり恥ずかしい英語にしてほしくねえっす。

個人がどんな服装をするか、お上がイチイチ口を挟むのはいかがなものか?

そりゃあ、クールビズのお勧めは、わが連れ合いなんぞには吉報でしたが、でもしかし、本来、お上のお勧めがなくとも出来なくてはいけないことだったのではなかろうか?

シンガポールや香港のおまわりさんは半ズボンでっせ。さすが大英帝国が仕切ったところは違わあね。フィリピンだってインドネシアだって、気候相応の服装をしているではあ〜りませんか。なぜに日本国だけ、緯度の高い国のまねっこ?

与太は止めますが、お上のいいなりで、この冬ベスト着用男がふえたりしたら嫌だなあ、怖いなあ。国民服が戻ってきそうよ。



『自負と偏見』
2005年09月02日(金)

サマセット・モームが世界の名作と呼ぶ、オースティンの作品に私が何をとやかく申すことがありましょう。名作ですよ、名作。

面白かったです。題名はなんともはや、色気がないけど。

他愛もない若い者の話を、特に前半、だらだらとした世間話で引っ張って、でも、引っ張ってついに最後まで読ませてしまう。読んでいるうちに、登場人物それぞれの性格が妙に実感できて、納得してしまう。やばいよ、これ。

音楽も文学もクラッシックがいいですね。

この作品が書かれたころ、わが日本国は京伝だの三馬だの馬琴だのって時代。あの時代の日本のお姉さんがたがエリザベスみたいってのはちょっと想像できない。19世紀のイギリスよりは江戸のほうが近いはずなんだけれど、日本髪のお姉さんが出てきちゃあお終いよ。中野好夫の訳だと、この小説の舞台がまるで、昭和初期の山の手って雰囲気。

結婚は女子一代の一大事。そのこと自体はくだらないのですが、でも、そういう時代なんですからね、そこは一つぐっと飲み込んで、その一生の一大事に何も悩まないで経済だけを眼中にした女と家族が多かったから、こういう作品が書かれたのでしょう。愛のない結婚なんてダメよ、勇気のない愛なんてダメよ、反省のない愛もダメ、自分を見失うのはもっとダメ・・・

それにしてもよくもまあ、この程度の背景でこれだけのことが書けるものです。脱帽、だつぼー。メッセージ先行でないのも上等の印なんでしょう。読み終わったあとにあれこれ残るものを考えているうちに、作者の思いが伝わるって感じですね。うん、うん。日本でこういう作品が書けるとすれば、一葉だろうか、なんて思ってしまいました。

名作だ〜!


『バイオリニストは肩が凝る』
2005年09月01日(木)

副題は「鶴我裕子のN響日記」という。N響のバイオリニスト鶴我裕子さんのエッセイ集である。

私は数年来、鶴我さんの書くもののファンであった。だから、この本も褒めたい。帯に<「鶴我サンに本を書かせる会」元会長 壇ふみ>とあるのを見たとき、そうだよねえ、私も書いてもらいたかった、と\1800も出して即買ったのである。鶴我さんの書くものは、雑誌やCD紹介本などで見る限り、光っていた。(ただし『音楽現代』の連載・・・この本のベースになった・・・は読んでいない。)

とにかく褒めたい・・・でも褒められない・・・悲しい。

あるときN響の公演で双眼鏡片手に鶴我さんの姿を探した。なんとなく不機嫌そうなオバサンである。ソリストがお粗末だったりすると、やれやれってな感じで、退場を見送っている。音も聞きたいが、リサイタルなどなさらないようだし、私の耳では、第1バイオリンの何プルの右の・・・なんていう聞き取りは到底叶わないので、このことは未だに残念。一度、鶴我さんの音を聞いて見たい、とまあ、そう思うくらい、彼女の文章に入れ込んだファンだった。

さて、「掃き溜めの鶴」という言葉がある。無味乾燥な文が並ぶ中で、鶴我さんの文は一味違った。短いなりに人となりが感じられる文だったし、読者に媚を売らない文だった。決して権威を盾にしたり、やたら知識をひけらかす文ではなかった。ところが、鶴も集まってしまうと、なかなか加山又造の屏風のような美しさを出すのは難しい。早い話がたくさん一度に読むと飽きるのだ。落としどころがワンパターン。これ決定的に素人くさい。(まったく私もその通りです、はい。天に唾してます。)

単行本化することで、毒舌が鈍った気味もある。スヴェトラーノフとかサバリッシュとか、もっと古い人については言及もあるのだけれど、デュトワだの岩城宏之だのってところには寡黙である。心配りがわかってしまってつまらない。もちろん内輪話ばかりで書く人もサイテーだと思うけど、デュトワのことはもっと何とかいってもらいたいね。どーせ日本語読めないしぃ。

エッセイ集というのは難しいものです。掃き溜めの中で光るからって、そればかり集めて光が増すわけではないことを実感した一冊。



BACK   NEXT
目次ページ