書泉シランデの日記

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無常
2005年10月31日(月)

十月はお悔やみが多かった。
100%義理もあったが、大事な人のこともあった。義理、なんていいきっても、ご家族やお親しい方にとっては、もちろん特別な悲しみに違いない。

高校の教科書に「無常といふこと」(小林秀雄)があった。定番教材である。同じ日本語でよくもこんな難しいことが書けるものだ、というのが第一印象で、その後、こういう文章は誰に宛てて書いているのだろう、と思った。中身が理解できかったからだ。とても特権的で排他的な日本語で書かれているように高校生の私には感じられた。

10年ほど前に兄の子がなくなったときに、私は「無常」の顔を垣間見た。朝、幼な子の死を告げられたとき、中世に引き戻された。「世の中は常にもがもな・・・」と歌った昔の人は、「無常」の毎日にいたから、「常」を希求したのだろう。私たちだって同じなのだが、普段は「常」の安定した状況が目に見えている(ような気がしている)から、「無常」には知らん顔で暮らせる。

だが、「無常」は突然、暗がりからぬっと現れて、私たちを怯えさせるのだ。

「無常」に対抗する手立ては、次の世代に何かを伝えていくことしかないのでは、と何の根拠もなく思う。亡くなった人が赤の他人の私にとってなぜ大事な人に数えられるのか―普段行き来もなかったその人が、わずかな機会に私に何を伝えたのか、を考えて、次の世代の人たちに同じようなことを実践することができたら、「無常」のたくらみに絡めとられないですむかもしれない。


年とともに時間は・・・
2005年10月30日(日)

あっと気付くと11月が目の前。
ひぇ〜〜である。

年をとると時間の進み方が早くなる、というのは、もう誰でも経験的にわかっていることだ。思えば小学生のとき、友だちと遊ばないで過ごす土曜の午後がどれほど長く感じられたことか!二学期の始業式には、これから延々クリスマス時分まで続く二学期がどれほど呪わしく思えたことか!

それなのに今はどうか。
「昨日こそ早苗とりしか・・・」どころではない。年賀状なんてこの間買ったばかりだ。それなのに郵便局は注文を取りに来る。

先だっては、北斎展、前に東武でやったのは、3、4年前だったかなあ、と思って調べたら、12年も前だった。ちょっと前、というと、ほとんど10年くらいのスパンである。この間、というときは、当然、3、4年は覚悟をしないといけない。

この時間認識、誰か研究してくれないものだろうか?

認知科学の研究ってこの頃はあほみたいなレベルのものまで論文になるみたい(認められるかどうかは別)。だったら、この「加齢と時間認識」の問題なんて、かなり立派な研究課題じゃないのかね?

年取って毎日が日曜日になったら、退屈でぼけないかしら、と心配する人がいるけれど、私の想像では、その頃になると、もっと時間が早く過ぎるだろうから、何の心配もない。1年終わったと思ったときには、もう10年くらい終わっているに違いない。そのくらいになると、毎年、同じ干支を繰り返しているような気がするかしらん。


学生さんの「屏風」
2005年10月27日(木)

通りすがりに、美術や書道専攻で、表装のクラスを取っている学生さんたちの「屏風展」を見た。

色とりどり、ただしサイズは同一の二曲の屏風が行儀よく並ぶ。20点くらいかな。絵あり、書あり、コラージュあり。

ふ〜〜ん。

面白かった。

扇面や色紙を散らすにせよ、あるいは面一杯に何か描くにしても(描いたものを貼るのだが)、屏風としてまとまった空間を創出するのは、随分難しいことのようだ。狙いはわかるが、間が抜けているよ、キミィ、といった作品が多い。でも、若い人の狙いはそれはそれで結構楽しめる。

美術でも音楽でも、アマチュアのを見ると、プロの偉大さがひしひし感じられる。銀座→東銀座の地下道にも時々アマチュアの作品が展示してあって、楽しいのだけれど、こうして出ちゃうのは恥ずかしくないのかなあ、なんて思ったりする。公民館や地域センターなら全然恥ずかしくないんだけど。それに、若い人と年配者は違う。残酷なようだけれど、「この先」の有無。

今日の屏風は床においてあったから、腰高くらいの小さいものでは、見下げる形で見ることになる。見下げる、なんてことは屏風を見るときにありえないスタイルだ。台を置けなかったのかしらん。

大きなお世話だが、書道専攻なんて就職どうなるんだろ、と気になった。一昔前、デパートの特売場と呼んだ時代には、貼紙はすべて書道科出身の社員が引き受けていた、と聞いたことがある。でも今、あれを墨で書いているところなんてないでしょう?筆耕ったってねえ・・・書道塾も先細りだろうし、教員と書道家の道以外にどうするのかなあ。


北斎展
2005年10月26日(水)

秋が深まったら北斎だなあ、と思っていたところ、気付くと開催が始まったではないか。

おりよく?昨日、鼻水×くしゃみが派手で、職場の皆さんに「風邪ですか?」と何度も聞かれた。ということで、本当は休むと具合の悪い水曜日が大変休みやすい状況におかれ、あっさりと「風邪ひいたんで休みます」。

自分では風邪、というよりは、たぶん自律神経の問題だ、と思っていたら、案の定そのとおりで、今日は元気よく(でもないが)「北斎展」に向かった。

東京国立博物館平成館、とその名を聞くだけで、「平成」という時代の効率優先のいやらしさが立ち上りそうな建物、巨大プレハブ倉庫みたいで大嫌い。嫌いなら来るな、といわれても困るけど。

さて、展示替えはあるものの、総勢495点。目しょぼしょぼ。そうじゃなくても、浮世絵は明かりを落とした薄暗い中で細かい作品を見るのだから。

展示は時代順で、私は別に浮世絵に特段の思いいれがあるわけででもないし、狂歌や黄表紙、読本に関心があるわけでもないので、肉筆画を楽しんだ。北斎って天才だと思う。日本に天才がいるかと聞かれれば、私は北斎の名をあげるだろう。他に誰をあげるの?北斎の描線に比べれば、幕末の河鍋暁斎だの曾我蕭白だのは全然問題にならないね。おどろおどろしいだけじゃん。

今回は「夜鷹図」、「千鳥の玉川」、「来燕帰雁」、「酔余美人図」、「狐狸図」あたりが気に入った。浮世絵はざっと見た程度だが、相変わらず構図の冒険にわくわくするものがある。「おしをくりはとうつうせんのづ」、この仮名の羅列の通りでカッコイイ。

それにしても観客の話が耳に入るたびに、うんざりしてきた。たとえば、「百人一首うばが絵説」というシリーズを前にしても、どうもみなさん、百人一首が全然おわかりになっていない。だから絵が意味するものが理解できないようなのだ。仲麻呂とくれば唐土だろ、清少納言なら函谷関だろう、そのくらい何とかしてよ〜、日本文化の末は相当怪しい。怪しすぎ。チューシングラだって怪しいぞ。ましてや中国ネタはどうなっちゃうの。

まあ、これに限らず、浮世絵や挿絵に対する感想は「版画なのに細かくてすごいわね」が9割ではないだろうか。あんたらの年賀状と違うってば。

私だってわかっているわけではなく、一介の日本画ファンに過ぎない。だが、作品に対する説明のあり方の再考、鑑賞以前の基礎教養の確認がこれからますます必要になると思う。それがないと、大和絵でも浮世絵でも、伝統絵画のよさは分からない。ついでにいえば、今回の展示の説明は、英語を読んだほうが鑑賞の助けになる。英語のほうが詳しいし、ツボを押えているのだ。不思議なことだが、さすが小泉ポチの国。これじゃあ、小学校から英語教育が必要なはずだ。

わが敬愛するS先輩とここを訪れれば、三日三晩は間違いなく薀蓄を頂戴できそうである。時間と体力が許せばそれも面白そう。でも、毎度のことだが、彼の薀蓄は私の頭を素通りする。この世界に手引きしてくれたのは彼なんだけれどね。


『ギリシア・ローマの神話』
2005年10月24日(月)

『ギリシア・ローマの神話』 吉田敦彦

ギリシア神話というと、呉茂一氏の上下2巻のそれが有名である。が、私は別にそう詳しくなろうとも思わず、この1冊本を手にした。これなら挫折せずに読み終えられそう。(神話だの民話だのというものは、いくつも読むと飽きてしまって挫折と相成る。)

手にした理由はもう一つあって、大昔、私の通っていた学校に吉田先生が非常勤で来て下さって、その講義を受けたことがあるからだ。ソフトなお声に加え、人格高潔オーラが教室を満たしていた。なぜそう感じたのか、思えば不思議だが、でもそういう印象だった。(後に直接氏を知る人にそう話したら、事実そういうお人柄らしい。)

ともかく、吉田先生のお書きになるものなら、テキトーでいいや、とか面倒クセー、なんていう言葉からは無縁であろうと信じたのである。

予想通り、大変品のいいギリシア神話であった。語り口がとても親しみやすいし、語り手が必要以上に口を挟まないところもよい。西洋のものには、実にあちらこちらにギリシア神話の断片がちりばめてあるのだなあ、と再認識した。

マンガやゲームにもギリシア神話の神々の名をしばしば見かけるが、世間の皆さんはどこまでご存知なんだろう。自慢じゃないが、私はこれを読むまで、ガイアとゼウスの関係だの、クロノスが何だの、というようなことは知らなかった。

ばらばらで名前だけ何となく知っていた神々が、ある程度、頭の中で系図関係におさまった。中学生くらいでこれを読めば、完全に系図が出来るだろう。しかし、私の年になると、読んだだけではとても覚えられない。

だから、こういう本には必ず「索引」をつけていただきたい。人名・地名、それぞれ初出のページだけでいい。残念なことに、この本には索引がない。点睛を欠くとは、こういうことである。それとも、デメテルって何だっけ〜、と思った時に、ちょいと引きたい、というような心積もりなら、別に「ギリシア・ローマ神話辞典」でも買いなさいよ、ということであろうか。


ショルツ×ベルリン室内管弦楽団
2005年10月23日(日)

モーツァルトのヴァイオリン・コンチェルト全曲演奏である。
買うときは、お値打ち感があって、まあ買っておこうか、だが、行くときになると、「え〜っ、5曲いっぺんかいな〜」となんだか気が重い。やりかけの仕事もあるし、せっかくの日曜日にあたふた動き回りたくない。けど、パーにするのはもったいない。

青空だけが味方だぜ、なんていうわけのわからん心境で、出かけることにした。現地でお仲間のおばちゃん連に会う。現地で会うだけで、コンサートホール前後にお茶も飲まないし、おしゃべりも休憩時間と帰り道だけというのが暗黙の了解。

さて、演奏はというと、至極あっさりしていてさほどの疵もないが、お見事、というほどの技もない。だから、5曲聴くのに我慢は無用だった。いらいらするようなこともなく、淡々と進んでいく。カデンツァは若干こだわりのあるものだったと思ったが、逆にそれが浮いた感じを与えた楽章もある。

曲が進むにつれ、楽団員が目に見えてリラックスしてきて、音がのびやかになった。大変お行儀のいい小編成のオケである。ただし若干保守的か。東ドイツ系にしては、音が明るくて軽やか。どのパートもきちんときれいに演奏していた。ただしきちんときれいに、ゆえの不足もあるわけで、それはまた別のオケに求めればいいのかもしれない。

「コンバスのおじさん、素敵だね」と80歳近いお仲間のおばさんにいわれた。御意!しかも弓の毛が黒である。かっこい〜。普通は白馬の毛がいい、なんていうのにね。そういえば『黒馬物語』なんてのがあった。あのおじさんに黒い毛の理由を聞いてみたかった。

ショルツさんのガダニーニは音が硬くて、私としては別の楽器をお願いしたい。時々、あれ?と思うアタックになるのは弓のせい?

ショルツさんはそこそこ美形である。ドイツ女性にしては小柄。東ドイツ流英才教育の申し子にしては、柔らかさがあり、技巧的なヴィルチュオーゾでもないところに好感が持てる。ただ、ムターの才気とも無縁なところが先々心配。きていたドレスが素敵だった。にきび一つない美しいお背中であった。


「数独」卒業宣言
2005年10月22日(土)

一番難しいのが出来れば、このドツボから逃れられるのではなかろうか、と昨晩深夜「ちょーむず」と題された最後の問題にチャレンジ。

1時間ほどやって、2つだけ埋まり、残りは翌日、と今朝になった。10時になったら、チケットとりするかぁ、と思いながら、9時半くらいに着手・・・あーでもない、こーでもない、とついにコピーを作り、「もしここのマスが5ならば」「1ならば」と始めた。

夫は出かけていたが、息子は呆れ顔である。(母に出来るとは思っていない。)

・・・気付いたら、10時8分!おお、そうだった、そうだった、と「ぴあ」にアクセス。まだ1日は取れそう、で、ごちゃごちゃログインしているうちに、はい、終わりになりました。ま、しゃーないね。

さて、数独に戻り、苦闘再開。仮説の正しさは結果によってしか証明されがたい。最終結果まで待たずとも、敗退すればまだよし。かくして、11時を過ぎ、「おい、まだやってんのか?!」にもめげず、その10分ほど後に、めでたくクリア。

粘ればやれることがわかった。
やれるようになれば、「この程度の論理操作に何の困難があろうか」である。これでもう「数独」は卒業でいいや。この1週間は消しゴムカスが沢山出たこと!

数字系パズルは母の弱点と思っていた理系の息子よ、夫よ、認識を改める時が来ましたよ♪



『テス』
2005年10月20日(木)

これも通俗小説ぎりぎりの話だと思うのだけれど、なんか面白くて、結局ほとんどいっきに読んだ。トマス・ハーディーのTess of the D'Urbervilles である。

テスっていい娘ねえ、と思わないではいられない。「無慈悲な偶然」だの「運命の皮肉」だの「宿命」だの、はたまた「世界は盲目的な運命によって支配され」だの「不条理」だのと、表紙のキャッチはおどろおどろしいのだけれど、実際はずいぶん静かな話のように感じた。

不条理、かなあ?
ま、こういうこともあるかもね、と受け止めてしまうのだけれど。

私は「運命を受けいれる強さ」みたいなものが好きなので、テスのことは好きだ。この女主人公に万事きっぱり拒む強さが欠けていても、ぐずぐずめそめそしていないで、働くところがいいなあと思う。不幸な子の洗礼の場面はとても感動的である。ああいうのが人間の強さではないか。

農場の場面、働く女たちの交歓も非常に魅力的に描かれる。

テスに男を見る目がないことはお気の毒であるが、悪い男と一緒に破滅する女がいるのだから、器量の小さい男をかいかぶったまま破滅する女がいても仕方ない。エンジェルって男は最後までつまらない。まだアレックのほうがいい。自己中、言い換えれば自己肯定的で、確かにこの世に生きている存在。対するエンジェルは妄想の人。これこそ閉鎖的自己中である。

この頃の小説って、子どもの書いたような話が多いし、ついつい手堅い世界の名作を読むほうに傾く。昔は自分も子どもだったから、名作は退屈でつまらない気がしたのに、年をとると加速度的に過去に近づいていくようだ。



誤配です、郵政公社さん!
2005年10月19日(水)

封筒を開けたら、サラ金の申し込みのお返事。

誰かが私の名でサラ金?!

うぎゃああああ!!!!

よくよく見ると誤配である。近所のうちではなく、住所の東西南北が違い、番地が酷似、苗字と名前がそれぞれ一字違い、という状況。

どうしたらいいんでしょう?

内容は契約お断りだから、捨てちゃう?
郵便局に言う?

私は悪くない。
悪いのは郵便局だ。

でも、郵便局はどうするんだろう?
誤配したら、他人が見ちゃったって?
それとも新たに窓付き無地封筒を用意して、素知らぬ顔で配達?
(サラ金って無地封筒、個人名で連絡してくれるんですね。)

これまでも隣家宛のDMの誤配はあったけれど、そんなのはあけてしまったときは素知らぬ顔してポイ。あける前に気付いたら夜中に隣のポストにことん。

こんなの見られたら個人情報だの国勢調査だのの騒ぎじゃない。
全く知らない人の分でよかった。隣近所だったらいたたまれない。


同窓会
2005年10月18日(火)

同窓会、というものは、どこでも上意下達が当然なのだろうか?
在京の高校同窓会(全学)があり、来年度は私たちの学年が幹事学年だから、と夏前から強圧的な電話がかかってきたりしていた。この電話はババ抜きと心得て人に回した。

さまざまな経緯があったのだろうが、やむなく引き受けた人がいた。ご苦労様である。しかし、その人を通じて、来年幹事をやるべく、そのためにこの秋に集まりを持て、という命令が下った。

私には同じ学校に10年先に入って出たからというだけで、他人に命令できる神経が理解不能である。デフォルトで同窓会(しかも出てもいない同窓会)には協力するもの、と決め付ける神経もいかがなものか?そんな魅力のある団体じゃないもの。

卒業生名簿に名前があることと、同窓会に参加することとは別ではないのか?そういう不愉快な団体になぜ参加したり、協力したりすることが「常識」なのだろう?そういえば、大学のほうは、この点、まことにすっきりしている。

今回の召集も、お代官様が紅葉狩りをするによって、沿道の道の補修をいたす、ついては各部落から人足を出せい、とそんな感じである。なんで?

最初にうちにかかってきた「先輩」の電話はほとんど脅迫に近かった。「そろそろ同級生が死ぬ」だの「癌や病気になるようになるから、今のうちに仲間をそろえておかないと」だの、無礼千万、余計なお世話だっつうの。

同窓会ってのはどこでもこんなものなんでしょうかね?無関心な学年があってもいいじゃないか、と思うのだけれど・・・。田舎の高校ってイヤ!


『イスラーム生誕』
2005年10月17日(月)

あろうことか「数独」にはまって、今日は息子に本を隠されてしまった!
彼にいわせると、「数独なんかやるのは、脳みその消費的な使い方で意味がない」のだそうだ。・・・消費的かなあ・・・私のように数字に弱い人間にはあの程度で十分達成感があるのだけれど。

まあ、それはどうでもよくて、これは内容がとてもよい。
『イスラーム生誕』(井筒俊彦)

本邦イスラーム学の泰斗の手になるこの小冊、さすが大学者の書く啓蒙書は違う。対象への愛情がにじみでている。読んでみて、イスラムについての視座が一つ得られたという感触が残る。

前半は「ムハンマド伝」、つまりマホメットの伝記。とはいえ、彼の生涯がそう明らかになっているわけではなく、どちらかというと、マホメットが啓示を受ける頃のアラブの状況に重きが置かれる。マホメットはその中で生きた男なのである。確かに、状況を知らずして、マホメットがいついつ何をした、ばかり知ってもそれは空しい知識でしかない。

ベドウィンの詩歌が随所で紹介されている。それがなかなかカッコいい。オマー・シャリフでも駱駝にのせて、走らせてやりたい。(なんでここでハリウッド映画になるんだ?)

イスラム教の始まりは日本で言えば奈良時代以前のことだが、そう思うと、アラビア半島って開けていたんだわね。万葉集で威張っていてはいけませんねえ。

さて、この前半を読んで、後半の「イスラームとは何か」を読むと、とてもわかりやすい。こちらは学問的な試み―意味文節理論による解説―らしいが、私にはそれについて批評を加える能力はまるでない。ただ、引用されるコーランの字句の向こうに垣間見える情景とでもいうべきものはとてもよく感じられた。

イスラム教を、暴力肯定的で狂信的なテロリストの宗教であるかのように、こちら側の世界の都合でだけ捉えるのは、やはり間違いというものだろう。もちろんこの一冊だけで、イスラム教がわかった、ということは決してありえない。これからもっとわかるために、初心者必読の一冊である。



ゲルネの『シューマン』
2005年10月14日(金)

ゲルネ、よかった♪
前回の初来日はシューベルト、今回はシューマンであった。(実はその前に幻の初来日w/ブレンデル があったが、ゲルネの事情でキャンセルとなっていた。)

前回、『冬の旅』と『美しい水車小屋の娘』を聞き、前者には大いに満足、でも、後者は若い徒弟の歌というよりは、粉引きのオッサンの歌みたいな印象だったので、今回のシューマン『詩人の恋』はおそるおそるであった。

ところがどっこい、あそこまで登っても、表現というのはまだ進歩するのですね。胸につきささるような青春の抒情でした。軽い声も重い声も、高いも低いも自由自在であのブレスの長さ。え〜な〜。

帰宅しても歌声が耳に残るほどの素晴らしさ。1人でそれだけ満足できるのなら、もうオペラやめたら?と家人にいわれるが、それはそれ、これはこれ。1人でこの満足感を与えられる人はそうはいないよ。

おっと、1人ではなかった、pf伴奏者シュマルツ氏がいます。『詩人の恋』のときはちと粘っこいと思ったのですが、『リーダークライス』は可憐に美しく、達者なもんでした。私が思うに、ゲルネとこの人は、ドレスデン聖十字架少年合唱団の先輩後輩であるに違いない。

サイン会はパス。アンコールにもずいぶん大曲を歌ってくれたし、あんな立派な人にサインだなんて、くだらない過酷な労働はさせられない・・・なんちて、前回もらったしー。

唯一の気がかりは、またお太りになられたこと。上着(もうちょっといい生地にしたらどーかね?)パツパツですぜ。上着は仕立て直せばいいけれど、首の周りの脂。襟巻きまであと一歩。そうなってくると、後頭部に脂の段が出来そうで、私はあの段のある男だけはノーサンクスなんですわ。ゲルネさん、これ以上太らないでね、と切なる願い。



横浜トリエンナーレ
2005年10月12日(水)

会場近くで会議があったので、その開始時間をごまかして時間を作った。
正確には会議の開始時間はごまかしていない。私は最初から出席する必要はなかったのだが、そのことをいわないで、真昼間に1時間半作った。

山下公園に入ると早速目につくコンテナのペンタゴン。ここにあるのは無料。

今日はほどよく晴れ、爽やかな風が吹く。お金を払って埠頭を歩けば、おお、写真どおりの赤白の三角旗がはためいているよ、と、青空と海をバックになかなか絵になる光景を歩くこと10分ちょい。途中で横向くとダメよ。右はお仕事中の倉庫です。左は港で、港めぐりの観光船ですから。

もちろんこの赤白旗は「海辺の16,150の光彩」なる出品アート。

途中にある「ボート・ピープル・アソシエーション」は入ってみるとなかなか面白い。けど、気持ち悪い。ゆれるべきでないものが、ゆれているから。体感アートはほかにもいろいろ。

いわゆる「会場」は、山下埠頭の上屋2棟。まあ、やんちゃなものがいろいろあること!これを語る言葉を私はもちません。面白いです。小学生か幼稚園児を連れてきたらさぞや楽しかろう、って感じ。大人が真面目に「鑑賞」するものではないです。

ただし大変刺激的です。それが「アート」として評価できる所以かもしれません。絨毯の毛羽なんかまで、もう、みるだけで鼻がむずがゆくなりそうですが、それが何かを伝える「メディア」として存在するのですから、そう思うと捨てたものではないです。

かつて野獣派だのダダイズムだのアバンギャルドだのといわれたものも、今は別に普通であるように、この会場狭しと並べられているものも、いずれ普通になるのかしらん、と思ったり、思わなかったり。

ただ、日本の西洋美術って大衆レベルでは20世紀初頭どまりだから、モダンアートが常駐できるような空間を確保することは大切だと思います。(現代美術館などではなく、もっと実験的に常時使用可能な空間。)それにしても山下埠頭がこうして長期間使えるということは、物流基地としての横浜の地位低下をひしひし感じさせます。


『燕子花図』@根津美術館
2005年10月09日(日)

根津美術館で光琳の『燕子花図』を公開しているというので、早速夫と出かけた。さすが立派なものである。あの動感と迫力。さすが本物は違います。

このモチーフは江戸から現代まで琳派の画家たちにいろいろ真似されているけれど、光琳のさりげなく、しかも計算されつくしているのであろう筆つかいには圧倒される。夫は「なんか葉っぱが雑なんでねえの?」というが、じゃあ、描き込んだらいいのか、というと案外そうでもないのである。思うに「雑」というのとは違うのだ。

屏風絵は見るのにちょっとコツがあるのかもしれない。西洋画のように全体の構図を見る、という俯瞰的な見方はよくないんじゃないかな・・・単に経験的な意見です。ある1点から自分の目のほうを動かしていくと面白いと思う。

それから屏風なのだから、折り曲がって立てられることも絵を見る上で利用しなくてはいけない大事な要素。真っ直ぐに見せたいのなら、襖絵にすればいいのだ。屏風は角度を楽しまなくてはと思う。今日出ていたものでいえば、『白楽天図』なんかはまさにそう。

常設展のほうでは中国古代青銅器が思いがけず面白かった。博物館で考古学的に見るものより、美術品として展示されるもののほうが、見ていて楽しい。願わくば、解説もうちょっと充実させてよね。

それにしても昭和初期の鉄道会社のオーナーは羽振りがよかったのだねえ・・・根津といい五島といい・・・彼らがぼろもうけした分を差し引いても、今こうして一般公開してくれることはとてもありがたいと思う。こういうのって、やっぱりnobilis oblige だよね、仮にその根底が相続対策があったとしても。

ところで、西武の堤義明さんのパパもこういうものを残したのかな?


『アリオダンテ』
2005年10月07日(金)

今年のオペラはこれにて終了。
昨日の『ドン・ジョヴァンニ』には大満足したけれど、今日のバイエルン歌劇場のバロックオペラ『アリオダンテ』はつまらなかった。 本当は昨日あれほど楽しんだのだから、今日は行くべきではなかったのかもしれない。でも、チケット捨てるわけにはいかないもんね。

ヘンデルおじさんらしい小奇麗な音楽。オケは美しいのに、カウンターテナー、私には気持ちの悪い声だとしか思えない。しかもその役が暴力的な変態野郎と来ては、見ていて(聞いていて)楽しくない。稚拙な聞き手の私はこらえ性がないのである。それにアリオダンテ(♂)がコントラルト、つまり女声が歌うというのも、倒錯的でいただけない。アン・マレイがものすごくうまいことは感じられるけれど、立ち姿がりりしくはないもんね。 おばさんだし。

おまけに単純な筋のくせに展開が遅くて、同じ文句を4回も5回も歌うので、あ〜まだあの繰り返しやってんのかぁってな感じ。

演出はやたら椅子を活用して、投げてみたり、倒してみたり、運んでみたりと、ご苦労さんなこって。小学校の掃除の時間を思い出した。

バレエの部分はなかなか面白うござんした、これは○。

というわけで全体的にのれないところへ持ってきて、隣のオヤジはヒジを張り出してくるし、鼻くそまでほるし、やんなっちゃった。これからブームになるらしいバロックオペラ、私はもう結構です。疲れていて集中力を欠いたのもいけなかったんでしょうけれどね。 最後の飛び込み仕事はあるし、おまけに人身事故で電車が遅れて文字通りの滑り込みだったし・・・。



『ドン・ジョヴァンニ』
2005年10月06日(木)

分刻みの庶民、というものがいるならば、今日の私はそれに近かったかも。あ〜忙しかった。

で、『ドン・ジョヴァンニ』

私が遊んでばかりいるのではなく、たまたま連続していろんな興行があるだけのことです。

昨日今日の忙しさに値する今日の『ドン・ジョヴァンニ』、大野和士さん率いるベルギー王立歌劇場。

演出もすごく面白かったし、オケも柔らかい音色のデリケートなモーツァルトで、いやあ大満足。女性陣3人ともよかったな。1人だけというなら、ドンナ・エルヴィーラのセラフィン。

前に小澤×ウィーンフィルで聞いた時は、グルヴェローヴァがすばらしくて、これはドンナ・アンナのドラマか、と感じたのだけれど、今日はエルヴィーラの印象がまさった。 こういうところで、解釈がごごっと揺れてしまうのがオペラの面白さだと思う。テキストだけだとそうはいかない。

タイトル・ロール、お目当てのキーンリサイドはたっぷり芝居を楽しませてくれた。今日は上半身ヌードから立派な土踏まずのある足の裏まで拝見。歌的には今日の出来が特段だとも思わなかったが、最後まで安定していて、まあよかったんじゃないですかね。これでまたキーンリサイドのファンがふえただろうと思うと、昔からのファンである私は複雑な心境。

もう1人、ドン・オッターヴィオを歌うはずのトロストのことも気にしていた。ところがキャンセルで、代わりに全然冴えないあんちゃんが歌うことになり、つまらなかった。うまければいいけれど、声量がなくて、歌が扁平なんだもん。 おまけに声が軽くてさ・・・いくら代役でももうちっとましなのはいなかったんですかね。モーツァルトのオペラってテナー軽視だと思うけれど、でも、必ずとても美しいアリアをもらっている。それなのに、このあんちゃんは・・・。

レポレッロとドン・ジョヴァンニの関係がなかなか面白く設定されていて、このレポレッロ(リンドロース)はそのうち出世してジョヴァンニになるかも。 ただし、今日の歌は眠くなった、しかも「カタログの歌」で!眠くなった私のほうが驚いたわさ。

モーツァルトのオペラはどれも面白いけれど、一つだけ、というなら、絶対『ドン・ジョヴァンニ』です。


8戸大学・・・
2005年10月03日(月)

バリ島のテロでなくなった方がお勤めの大学・・・ここぞとばかりに、大学を露出させていないか?

休暇中の事故なんだから、本来職場とは無関係。年次休暇に結婚休暇をあわせてどれだけ休みをとっていただなんて、おおっぴらにしゃべっていいのかい?それに、事務室や故人の机を撮影させ、その都度校門を放送させることもなかろうよ。上司が次々記者会見に応じるのもいかれてる。

思うに、これはこの機に乗じて「8戸大学」の名前を売ろうという魂胆。

あさましいこと限りなし。
商売になれば何でも、という大学なんだわね。経営者はこれで広告費がなんぼ浮いた、とでもほくそ笑んでいるに違いない。千万単位で浮いたんじゃないか。

そもそも、この方の旅行の理由がなぜ明らかにされなくてはならないの?おまけに再婚だのなんだの、と、分別のある大人なら、それが報道されるべきことかどうか、ちったあ恥ずかしいと思っておくれなさい。


イスラム美術展@世田谷美術館
2005年10月02日(日)

空いてもおらず、混んでもいない、ほどよい人の入り。(たぶんもっと混まないと事業的には・・・)期待にたがわず、美しいものがたくさんありまして、イスラムについての知識不足を痛感いたしました。

期待していたカリグラフィーはほんと、きれいです。一文字でも書けるようになってみたいものです。浮き彫り文字文タイルがイチオシ、ついで「カララマス」なる習字の手本か。

全然これまで興味がなかったのに、俄然、心奪われたのがペルシア絨毯。「チェルシーカーペット」すばらしいです。実は展示室の外に絨毯屋さんがいて、そこには売り物が3枚ばかり、ベンツの価格でおいてあるのですが、そのオジサン(私にオジサンとはいわれたくないだろう)が事前にいっぱい無料レクチャーしてくれました。商売そのものより、自分がその美しさにはまった、という感じありありの方で、たぶん、実は博物館の人より物知りだろうと思いましたね。私は将来退職金が出たら、玄関マット買います。

その方のHPにいっぱいきれいなのが出ていますから、興味のある方ごらんになって。
http://www.persiancarpet.co.jp

話は展示に戻り、ポスターにも使われているイズニクタイルや、そのデザインにもうっとりしました。ヨーロッパの陶器がいかに東洋的な文様から影響を受けているか、しみじみ感じました。

私たちは普段、西洋中心の世界観で生きています。しかし、その西洋が非西洋的なものからどれほど影響を受けて成立しているか・・・ことは陶器だけのことに限らず、もっと広く、技術にせよ文化にせよ、実はさまざまな価値観が互いに影響しあって、それぞれを成立させているに過ぎないことが、こういう展示をみるとよくわかります。

西洋、中国、日本だけの3極構成じゃありません。(思うに、私たちの学んだ歴史や美術はこの3極だった。音楽なんて2極だったかもしれないし、現実には1極かも。)

自分たちとは違う文化に敬意を払うこと、遅れているだの進んでいるといった序列化した評価を下さないこと、そのモノを生み出した背景を考えてみること。

そういえば、イスラム地域のキリスト教文物も何点か出ていて、ほお、と思いましたね。そして、イスラム美術といっても地域や時代によって、具象物の描写を全く許さないこともあれば、割りに気にしないこともあったようで、そんなこと、今日初めて学びました。

これから図録読んで、参考書読んで勉強する楽しみができました♪ 世の中、いろいろあっていいなあ。



『タンホイザー』
2005年10月01日(土)

今日は序曲から気持ちよく耳に入った。小泉ポチのように、聞いただけで涙が出るというほど、こちとらめでたくはない。招待券で来ているポチと違って、必死で自腹切ってますから、元をとるに懸命で泣いてる暇なんかあるもんか。

『タンホイザー』はそもそも、だめ男と世間知らずの生娘の話である。世間知らずの子は不良に惚れるもんだわよ、オシマイ。聞くたびに、ワーグナーって性的欲求の強い人だったんかしらん、と思うだけ。 だから、DVDなどでは、あ〜つまんなかった!ということも往々にしてある。でも、それを見せてしまうのが出来のいい演出×オケ×歌手。今日は本当に面白かった。

ヴェーヌスはマイヤー。彼女に迫られたら、私だってヴェーヌスブルクに居座ってしまいそう。マイヤーさん、すごすぎ。あの強靭な横隔膜。彼女がピカイチ。予想されたことですが。

タンホイザーのギャンビル、前にジークムントで聞いたときはそれほど印象的でもなかったのに、今日のタンホイザーはダメ男なりの色気があって良かった。ルネ・コロを思い出させる(といっても、コロのタンホイザーは生で聞いたことがない)。

私のお目当て、キーンリサイド、あんまり期待していなかったけれど、おお、十分ワーグナー歌手の声量!「夕星の歌」じーん、です。好きだと言い出せないシャイなお利口さんのヴォルフラム、ぴったりの役どころ。芝居もうまいし、今度の『ドン・ジョヴァンニ』も楽しみだなあ。総じて、今日の人たちは芝居がうまかった。

エリーザベトのピエチェンカ、マイヤーさんと一緒じゃ分が悪い。たぶん実は悪くないんだと思う。でも、あんまり面白みのない役どころなので、特にいうことなし。

ポチが来たから、気合が入ったということはないと思うけれど(思いたくもない)、チケットの値段を忘れる満足感。

同じVIPが来るのなら、ポチよりは皇太子や皇后のほうが花があってよろしい。ポチの場合は各ドアに強面が立ち続けるから、うっとうしい。(皇族でも警護がいるはずですが、あんまり気にならないのよね。)



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