書泉シランデの日記

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新しいミシン
2005年08月31日(水)

夫が「ミシン、買わないの」としつこく聞き、息子までが「ミシン買えばいいのに」という。連中の腹はこちとらお見通し・・・犬がいなくなったから、物でも買って気を紛らわせてほしい、のである。

心配されるほど落ち込んではいなくて、連中よりは雨がちなだけだ。男は何にせよ、女の涙には弱いようだ。ってなわけで、まあ、そんなら買ってやるか、と注文。翌日には届くのがネットならでは。(念のために付け加えれば、買え、買えと夫はいうが、代金は私の口座から落ちるのである。)

30年ぶりの新ミシン、第一印象は「軽い」「小さい」。今までのものは到底片手ではもてなかったが、これなら簡単にもてる。

きっとずいぶん変わっているんだろうな、とマニュアルを読む。・・・たいして変わんないじゃん、とがっかり。糸をおいて、ボタン一押しで、針穴にまで糸が通ることを期待していたが、そんなわけにはいかないらしい。

だったら買い換えるほどでもなかったかな、と思いつつ、まずは下糸を巻く。モーター音、とても静か。うん、買い替え正解、と思うが、下糸がきれいに巻けない。巻けるには巻けるが、美しくない・・・

上糸、要するに電子制御のなんのといっても、メカは竿竹並みに昔のままのようである。しかも皿だの、何だのという作動部分がカバーの下に隠れているだけで、相変わらず存在している。これは私のような昔の人には始末が悪い。マニュアルには「図○番の溝を通す」のように書いてあるが、実際はその溝の中にある名称不明の昔ながらの針金にひっかけたりするのだ。それが目で確かめられないので、却って面倒。

自動糸通しには、どういう人がこんな変てこな装置を考え付くのだろうと感心した。確かに糸が針穴に通る。覚えてしまえば簡単だろう。

さて、結論をいえば、ミシンというのは今のものにしては珍しく、使う技術がまだ要求される機械であるようだ。まったくの初心者だと送り歯と手の共同作業が出来るだろうか。それ以前に糸のあるべき感じがわかるだろうか。(マニュアルだって未経験者じゃ読んでも到底理解不能。専門用語多すぎ。・・・エッヘン、私にはわかる。)

縫いだしてからは「う〜ん、昔とったキネヅカ!」。実用縫いしか出来ないタイプなので、いろいろ試してみた。ダイアル一つで、あとの細かい調整がいらないのには、かなり感激。ふり幅だの押えの圧力だの、針目だのって面倒だったねえ、昔のは・・・いじくるたびに調子が変わったもの。

フットコントローラーなしで手元スイッチでもちゃんと縫えることはわかったが、昔の人には足が便利。手元スイッチが電子制御でチンタラちんたら進むのにくらべ、足はガァーっといきますわ。1番うれしいのは静かなこと、2番目がダイアル一つで縫い方が変えられるところ(たぶんこんなものは10年以上前から実現しているのだろう)。軽いから生地の重さに負けるかなと思ったが、息子のズボンのお尻を直すぐらいは全然問題なし。お値段は\27800。ま、妥当か。


鴨とり権兵衛
2005年08月29日(月)

晴れ時々雨、みたいな一日。
ペットロスのサイトなんぞ覗いたりして、おおご同類、と思いつつも、ああいうものは見ていると、ぞろぞろといろんなメモリアル・グッズのサイトに行き着き、変な具合に反発している自分を見つけて、思いがけない力が湧いてくる。

鴨がネギどころか鍋や燃料まで持参してやって来るのを、待ち構えている権兵衛たち。喰われてたまるか、である。

大体、最近、ちょっとしたことに名前をつけすぎ。
専門家が診断するのはよいとして、マスコミの喧伝のおかげで、やれアダルトチルドレンだの、PTSDだの、そしてペットロスだの、と自己診断で心を病んだことになっている人の多いこと。(同じように自称「更年期」も多い。)

自分の不安に適当な名前をつけることが出来ると、オーソライズされた気持ちになって安心するのだろう。So what? 

こうやって強がっているとあとで落ち込む?そういう脅しも多いんだよねえ・・・なにしろペットロスカウンセラーの養成講座なんてものまである。もちろんペットロスのカウンセリングもあり、1時間1万円。これが高いか、安いかは、その人の性質と収入次第だから何ともいえないが、だんだん貧相な痩せた社会になってきたことは確か。

こういうときこそ、人の情がありがたいんじゃありませんか。言葉をかけてくださった皆さんに御礼申し上げます。


体の記憶
2005年08月28日(日)

金土と悲しみに一時停止をかけて、所用で出かけたものだから、今日はなかなか厳しい日となった。
― 頭ではわかっていても、体がわかっていないのである。

朝目が覚めてきたところで、耳が犬の寝息を求める。
起きてリビングのドアを開ければ、目は犬を探す。
外へ出て戻れば、玄関で犬に声をかけそうになr。
万事、そんな調子で、その都度、目がうるうるする。

気持ちが疲れて仕方がない。
書き直しをしないといけない原稿に手がつかない。
昼寝をしたら、夢にチアノーゼの舌がぱっと出た。起きるしかない。

思いついて、骨壷の置き場所を変えて、見えやすいところに置いた。
そうすれば体が空振りをしにくい。
老犬がもういないことがいつもわかる。
人はそれに霊的な説明を与えるだろう。
「傍にいたいのよ」と。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。
老犬は物理的距離に係わらず、いつも心の中にいる。

当分、水のみ場には水を置いてやることにした。
そのうち頭のいうことを体も習得するだろう。
その目安が四十九日なのかなあ、と思う。
動物霊園のお寺は人並みにそういう展開をしてくれる。
生き続ける者が死を受け入れるための完成したメソッドなんだろう。
私も一応それを目安にする。
四十日でも六十日でもいいのだが、そんなことに悶着するのは面倒。
商業主義に翻弄されていると笑わば笑え。



犬が死んだ
2005年08月26日(金)

さっき犬が死んだ。
安楽死させてやれなかったことを、最後の3時間くらい猛烈に後悔した。
原稿の仕上げをしていなかったら、もっと時間があったら、自分で殺してやっていたかもしれない。

私や家族は、犬が死に至る道程を目の当たりにしながら、生死をめぐっていろんなことを一杯考えることが出来たし、両親や義母の場合に応用できそうな気配りをも学ぶことが出来た。衰弱する生き物を日々世話しながら、息子は私よりももっと「初めて」に出会ったはずだ。

そういう意味では、今月初めの発作で寝たきりになったときに、安楽死させてもらえなかったからこそ得られたことはたくさんある。

でも、私たちの学びは犬の苦しみ、特に最後の数時間の見るに耐えないほどの苦しみと引き換えるほどのことだったんだろうか。自分は軽薄なままでもいいから、犬を早く楽にしてやりたかった。

犬には死を感じる力がない、という。苦しみは感じても、その先の「死」の恐怖はないのだ、と。「死」は恐怖なんだろうか。昨年の6月に余命宣告をされてから、犬にとっては、自分の身体が不思議に思い通りにならず、戸惑うばかりだったと思う。朝晩の散歩はなくなるし、ちょっと庭を走れば倒れてしまうようになったのだから。階段も抱かれてあがるようになっていた。この8月に入ってからは本当に弱った。「死」の救いが見えない犬には日々苦しいだけだったのではないか。

今は静かに犬ベッドに横たわっている。私たち家族は犬のいない新しい暮らしに慣れていくのだろう。帰宅時間を気にしなくていい暮らし。日に何度も庭に出なくて済む暮らし。庭の虫を気にすることもなくなるだろう。夜空を見上げることもなくなるだろう。犬がいることで暮らしがどれほど豊かになっていたか、それを忘れないうちに記憶にとどめなくては。


ヴンダーリヒのマジック
2005年08月23日(火)

ヴンダーリヒの新譜?(ってことはないか、かれこれ没後40年)を入手。
”The Magic of Wunderlich”と題して、『魔笛』のタミーノ役での写真がカバーになっている。そうだよね、これが最高、と思った途端に買うことなる。

中身は手持ちのものとかぶっているものも少なくないが、そんなことは大した問題ではない。おまけのDVDもついている。ミーハーにはうれしい。でも映像は面倒くさくて、当分見ないに違いない(変なの・・・夏の初めに買った『スターウォーズ』3部作DVDもまだ見ていない、それどころか昨年買ったヴェンゲーロフもDVDのおまけは無視しっぱなし)。

ドン・ジョヴァンニでドン・オッターヴィオを歌ったトラックが3つほど入っている。今回はこれに期待していた。しかもイタリア語歌唱だ。(『トスカ』や『真珠とり』は例によってドイツ語なんだよ・・・仕方ないとはいえ、聞くのにちょびっと忍耐が必要。)

Il mio tesoro intanto、直球勝負ってな感じかな。イタリア語あんまり上等じゃない・・・ちと残念。もうちっと甘いほうがいいのにな。でも、ヴンダーリヒのドン・オッターヴィオが聞けただけで満足。

まあ酔いしれたいときは『魔笛』か、リートにいたしましょう。


『煙か土か食い物』
2005年08月22日(月)

舞城王太郎の推理小説?である。
作者のペンネームすら私の趣味ではない。
何で読んだか? ― 息子が読んでみろといったから、親の義務感で読んだ。書店で見ても、ペンネームではじいてしまう一冊だ。
大体、王城舞太郎なのか舞城王太郎なのか、それすら覚えるのに手間がかかった。舞茸の王子様のような名前である。なんだか知らないが、それだけで、私が文章の虚構に求めるものと距離がありすぎる。

中身について。
帯に「文圧」という言葉が使ってあった。これには同感する。ただし、それが文章に必要なものかどうかの論議を経なければならない。(が、面倒なのでそんなことはしない。)

早送りのバイオレンス映画みたい。

たぶん最終的には血の宿命みたいなものが出てくるんじゃないかと思うが、そういうテーマがあるとすれば、この作品の文圧は文鎮の用をもなさない。
(話がこの1冊では完結しないから、私はたぶん4部作なんじゃないかと想像する。4というのは、主人公が四郎で、1から3まで全員生きているから。その兄弟を描く中で一族が描かれ、親父や祖父の秘密があばかれる、と想像している。読みもしないのに大胆だわね。)

推理小説としての謎は子供だまし。つまんね。

ハードボイルド気取りで、随所にチャンドラーが引用される。チャンドラーを読んだことのある人には、おい、おい、止めてくれよ、と言われるのではないかしら。私は最近になって、ハードボイルドの主人公=自分語りの男、と断定したから、主人公に特に魅力は感じない。

バイオレンスものの常として、セックスもちゃんとついてます。でもなんか濡れ場が下手。想像力をかきたてられない。男ってこういう場面があればそれでうれしいのかなあ、と思ったりした。が、あとで息子と話をしていたら、彼のほうから、「なんかセックスシーンが余計な感じなんだよな」とのたもうた。おばさんの私はもちろんそういいたいが、20歳になりたての息子の口からそれを聞くと、しみじみ、不出来な描写なんだなあ、と作者の舞茸氏が気の毒だ。

道具立てが派手で、大人にはチープすぎる「かっこよさ」は本をあまり読まない若い人には受けるのかもしれない。私は昔の人なので、これを読みながら、寺沢なんとかのマンガ「コブラ」とか、饒舌なゴルゴ13とか想像してしまった。そうでなければ、杉田かおるや叶姉妹を「セレブ」だと思ってしまう安物の感性。

息子に「なんでこれがいいと思ったの?」と聞いたら「いや、友達が面白がるから読んだんだけれど、そんなにいいかなあと思ったからさ」という。「あのね、どうせなら読んで面白かったものを読ませてくれない?私だって忙しいんだよ。」
「これ、面白いぜ、三回目だ」と彼が読んでいるのはウルフの『灯台まで』。ウルフを読むやつがこんな駄作に付き合うな!


こわいね
2005年08月20日(土)

たぶん非常に多くの人が苦々しく思っていることだろうけれど、
郵政民営化法案の否決から衆院の解散、反対候補の非公認、
そしてそれにとどまらず、何の実績もない人を「刺客」と称して対立候補に立てるという一連の小泉自民党の動き。

エエ加減にしてや、といいたい。
よその国のことなら芝居のようで面白いが、私たちはただ観客席に座っているだけでは済まないのだから。

自民党の党則というのは、かようにファッショなことを容認する党則なのだ。
それが一番怖い。

郵政民営化反対だから、都会暮らしのものにはあまり直接の不自由はない(ように思われる)。
でも、もっと深刻な法案の場合であっても、党内部で反対者がいて参院で否決になると、今回のように衆院を解散してまでも陣笠議員をふやすことが出来るわけだ。

こういうのが議会制民主主義なの?
気に入らない議会は壊してやり直すわけだ。
もちろんその後で国民が健全な議会を作ればいいのだが、かくも愚弄されても、なぜか怒っていない国民なのだから、あまり期待はできないのではないか。

それにまあ、なんだかわからないけれど、
世の中には政治家になりたい人が多いんだねえ。
ここ20年以上、政治的風土なんてこの国には夢のまた夢と思っていたけれど。
こんなチャンスにも公募して手をあげる人がいるんだ・・・。
そんな中でホリエモンなんかはまだいいほうかも。
でもあの人の場合は、何事も自分のため、という気配を感じる。
チャレンジングが楽しいんじゃないかな。

困ったことだよねえ・・・。


『レコードはまっすぐに』
2005年08月19日(金)

大分前に、読売か何かの書評で面白そうだったから、買ってみることにした。再読するとは思えない本に3600円も投資したのは、たぶん何かのハズミだろう。厚い割に軽いのがうれしい。

著者のジョン・カルショーといえば、リングの初の全曲録音をしたプロデューサーとして知られるが、それしか知らなかった。しかも、リングのことは別に『リング・リサウンディング』という本を書いているとはね・・・ひっかかったぜぇ。どっちかっていうとそっちが読みたいが、翻訳も原書も古本屋まわりをしないと入手不可能らしい。

ご本人はそもそも小説家を志望したそうで、それがわかる程度にどうってことのないところが読みやすい。

この本の主眼は20世紀後半のレコード録音史(正確にいうなら録音個人史)である。クラッシック好きなら知っている作品や演奏家が目白押しに出てくるし、あ、これならCDで持っているわ、なんてのもあるので、そのレベルでは十分面白い。

さらに言えば、レコード(CD)って本当に商業主義の反映なのねえ、という、十分わかっているはずの事実の追認。昨日今日の話じゃなく、お金との妥協の産物、いいえ、妥協できればいいけれど、お金主導も珍しくなく存在するわけで・・・

全然関係ない・・・でもないか・・・五島龍くんのCDのコマーシャルが流れている。龍君は幼いときからフジテレビと一心同体で市場に出てきた、これまでにない形のヴァイオリニストだ。前のJRのCMで流れたヴィニヤフスキーや、今度のロンカプ(だったと思う)のほんのちょこっとしたフレーズでドキッと耳を奪われたのは確かなんだけれど、なんか売り出し方はえげつないっす。

さて、カルショー氏に話を戻しましょう。彼が自分だけの正義を振りかざしたりもしないのは、変な言い方だけど、救いです。西洋人って自己主張のカタマリね、という部分が山をなしている。うーん、見習わなければ。問題は常に自分のせいではなく、誰かが常に自分よりいけないから生じてしまうのである。うまくいったときは、もちろん自分の能力なのだ。

思いがけぬ面白さは、学校を出て銀行や軍隊を経験するところだった。このあたりの観察眼には鋭さと隠れたユーモア精神が感じられた。

月初めからぽちぽち読み出してやっと読了したのだが、さすがにこれを読んでいるうちに、『トリスタンとイゾルデ』が聞きたくなり、残念ながら、カルショーの手がけた盤ではないが、何度も聞いた。ついでにインタネット経由で、今年のバイロイトで大植英次氏が指揮をした『トリ・イゾ』も聞いた。第二幕の二人の激しいやりとりもいいのだが、最後にマルケ王が歌うTot denn Alles!がしみじみして好き。

これからカルショーの苦労をしのびながら「戦争レクイエム」を聞きますね。


見送るちから
2005年08月18日(木)

今日あたりは、私が仕事をしている横で静かに横たわる老犬という構図で過ごした。(実際にはその横に広げっぱなしの資料やら、昼寝用の枕やら、いろいろ転がっているが)

老犬もあまり食べないので、気分はもうはっきり言って「お見送り」に傾く。

見送る技術、というか、心というか、そんなもの、赤ちゃんがどこから生まれるかと同じくらい、昔の大人には常識的なことだったのだろうと思う。口から物が食べられなくなったとき、今ならすぐ病院へ行き、点滴にはじまっていろいろな手段で死ぬまでカロリーを確保するわけだが、そうするようになったのも、そう歴史が長いわけではあるまい。技術としては可能でも、費用や機会の点で、今のように一般化したのは、戦後しばらくたってからではないか。抗生物質でさえ入手困難な時代だった。(私の知り合いには、進駐軍に渡りをつけ、ペニシリンと神田の3000坪の土地を交換して命拾いをした人がいる。)

お年寄りが老衰死を迎える場合など、いちいち入院させもしなかったのではないか。死は自宅にやってきたのである。おそらく食事や排泄の様子から家族はだんだんそれを予感していったのだろうし、おかゆがおまじりになり、重湯になり、という過程を経ないではいられなかったはずだ(米がある家ならば)。

それがいまや犬一匹でこの体たらく。なんと生死に脆弱になっていることか。

見送るのは生き続けるものの勤めなのだろう。人がほんの少し前まで持っていた力なのだから、DNAが思い出させてくれることを期待しよう。


ぶつぶつ
2005年08月17日(水)

老犬は相変わらずで、なんだか全く冴えない夏を過ごしている。

今日は朝からあまり食欲がなく、一日に3個食べて当然、というフードが1個の4分の3しか入らず、さっき牛肉を見せたら、欲しいというので(そう、そのように顔で言うのです)、細かく切って与えた。一切れ食べた。最低の線で永らえそうな印象。薬はここ数日何も与えていない。

励ましてくれる人は、「お宅にいたいのよ、それだけでいいんだから頑張らせてあげて」といってくださる。それはそれでありがたい言葉だし、そうかもしれないとは思うけれど、発作が起きないにせよ、緩慢な餓死をさせているだけでは、という思いも一方で拭いきれない。

欧米の人は動物の安楽死に対して、割合、屈託がないように見える。少なくとも、そういう選択を支えるだけの文化的背景があるように思える。家畜との付き合いも長いし、肉食文化だし。

そこへ行くと、日本はやっぱり良くも悪くも自然まかせなのかもしれない。不要になったり、飼えなくなったりした犬猫を捨てるのも、それと関係があるのだろう。とにかく「自然」は難しい。

でもまあ、仕事はするしかないので、今日は夏休みの大仕事 ―締め切りに遅れると一大事― のほうにまず一段落つけることが出来た。すでに締め切りを大きく破っているほうは、1週間前から停滞している。これが退治できたときに初めて夏休み到来なのかも。

去年の今頃は、オペラシティの避難訓練に行ったっけ。避難訓練用に客席を埋める必要があったらしくて、リハーサル見学と避難訓練という企画だった。この夏はお楽しみがなさ過ぎる。


『死の蔵書』
2005年08月15日(月)

『死の蔵書』  J.ダニング
また、ミステリー。
古本好きの警官があれこれあって、古本屋になり・・・という話。
わが尊敬する先輩の○とう○とる氏に読ませれば、批判的薀蓄がしばらく続くであろう。本好きって病気だ。私は幸いなことに病的な本好きではない。

ミステリーというのは、頭にストレスをかけないで、集中感のみ感じさせるにはいい道具だと思う。言い方を代えれば、当面の関心事でコリコリになった頭の状態をほぐす、毒をもって毒を制すような役割があるかもしれない。

面白いことは面白かったが、小道具多すぎ、登場人物多すぎ、しかして、いずれもさほどの魅力がない・・・いうなれば、ホテルのランチビュッフェか。

主人公の警官(初め警官、あと本屋)はハードボイルド仕立てのようだけれど、これに限らず、推理小説のハードボイルド的主人公って、なんか自分語りが多くないかしら。1人称小説だとしょうがないというのもわかるけれど、普通、いちいち自分のすることを言葉に代えて意識するかね?人を相手に気のききすぎた台詞も多い。それが魅力といえば、魅力だが、なんかなー、そんな人、おらんで。

推理小説の主人公は自意識過剰のいやな男が多い。

ここらへんをもっと改善できないものだろうか。読み進むうちに、あ〜、この人ってこういう性質なのね、とおのずと感じられるような筆致の推理小説が読んでみたいものだ。

***

老犬、サーフィン状態。波に乗ったり、沈んだり・・・本日、朝は乗っていたけれど(昨日ほどではない)、どうもぱっとしないようで、緩慢な餓死に向かっているんじゃないか、と気がかり。


『ランメルモールのルチア』
2005年08月13日(土)

2003年のトリエステ・オペラ引越し公演で見たのと、同じプロダクションで、ルチア(ボンファデッリ)とエドガルド(アルヴァレス)のコンビも同じというのを、これまた同じ2003年のフェニーチェ歌劇場公演をクラシカで放送するという。ルチアというと、ルチア狂乱だけのために見るみたいで、なんかそれほど好きなオペラでもないけれど、昔見た記憶を取り戻さないと損?だとばかりに見た。トリエステのときは、ダニエル・オーレンの指揮だった。

あのときは、やたらアルヴァレスの体が重そうで、キレが悪く、エドガルドというよりは「一本刀土俵入り」のようで音に集中できなかった。

今日、テレビで見ると、さすが映像。アルヴァレスの登場や退場の、のっしのっしした部分はロングでは撮影されない。クローズアップはよく使われ、狂乱の場でのボンファデッリの表情の緩急など、息子をして「怖ぇ〜」といわしめるに十分であった。(ただし、死んだはずのルチアのまぶたがぴくぴくしたり、胸が上下したりするのは分かってしまう。)

ボンファデッリ、達者なもんだなあと思って聞いた。もしかすると歌より演技が達者なのかもしれない。お顔も美しいし、スタイルもオペラ歌手的ではない。あれでもうちょっと声が太かったら、コントラストに凄みがあったのではなかろうか。どこもかしこもか細いのが残念。体はあのくらい細いほうが狂乱しそうだが。

老犬、本復とはいわないまでも、とりあえず、長丁場になりそうなことだけは感じる昨今。とにかく神経質にならないことが、お互いのためかもしれない。目一杯神経を遣ってやったとしても、よかれかしと思うことを実行するゆとりはないのだから。



ミシン
2005年08月12日(金)

衝動的にミシンが欲しくなってから2日。
人に聞いたり、ネットで見たりして、にわかにミシンの通になった。
いまどきは3万も出せば、そこそこ立派なミシンが買えそう。

面白かったのはこのサイト。http://homepage2.nifty.com/mamba/index.html
「ミシンの迷信」という。凝り性の人っているもんだ。私はにわか勉強のまとめをこのサイトでやった気分。

洋裁上手の知人に「今、どんなミシン、使ってるの?」と尋ねたら、遍歴3台の末、『通販生活』で買ったミシンだという。コンパクトミシンには若干の危惧を抱いていたのだけれど、彼女がいいというのなら、ユザワヤのおばちゃんがいいというより信用できそう。

でも5年前から今にいたるコンピュータ技術の進歩を無視していいだろうか?

これはやっぱり一度ユザワヤへ足を運ばねば・・・でも、用途っていったら、ズボンの裾つめ以外は当面考えもつかない。

3万出してミシンを買って、袋物や幼稚園グッズなんぞ縫ってフリーマーケットでさばけば、ミシンはわずかでもお金を稼いでくれる。それに比べてオペラは、切符ばかり高くて、それを元手に金儲けが出来る人などごく一部の評論家さんだけ。今更ながら不経済な遊びである。ミシンに乗り換えて(しかも1回だけ乗り換えればOK)、老後に備えようか。

そんなこというのは、勉強したくない証拠だ。老犬のおバカ加減が伝染したのかもしれない。老犬、モーツァルトの『レクイエム』を聴きながら、テレビの前で寝てます。深刻な危機は脱したような、脱していないような感じ。お通じがちょっと・・・。食べ物は牛肉しか食べてくれない(こういうの、飼い主の甘やかし、といわれますね。だって何でも好きなものって獣医さんが言ったんだもの)。

そのくせ、豆腐を切ろうとすると、今にも倒れそうに足を引きずって台所に出没する。夕方の台所で、お豆腐をちょっとだけもらうのが習慣だった。その記憶で来るのだろうが、今は勧めてみても、お豆腐は食べない(ナンナンダ!)。来てしまうと、今度はそこで一休み寝て力をためないと、元の場所に帰れない始末。歩けるようになっただけ、牛肉の力>ささみ。


声楽〜ミシン
2005年08月10日(水)

本当に久しぶりに声楽のレッスンに行き、いい気分転換をした。キャンセルしないでよかった。

初心者もプロも同じ曲を歌うというのは声楽だけではないかと思う。そりゃ、エッシェンバッハがひいたソナチネもあるし、パールマンがひくザイツやアコーライもあるわけだが、それらは基本的に初心者のお稽古のためにひいてくれているのであって、自分の芸のためにやっているわけではない。ところが、声楽は初心者でもイタリア古典歌曲なんていうテキストを使い、ブルゾンやバルトリでもそれを吹き込んでいるし、コンサートでもちゃんと歌う。どこの世界にコンサートでソナチネをひくピアニストがいようか。

ただし、お手本がうますぎると、どうやってもフレージングで真似ができない。テンポにしたって、そんなにゆっくりじゃ息が持たないよ〜である。総じて速いよりはゆっくりのほうが易しいのが相場だが、声楽はそうもいかないようで・・・。

そうもいかないといえば、音程。ヴァイオリンだと絶対そうもいかないでは許されない音程が、声楽はプロでも相当許されてしまう。そんなこと、うるさくいうのは野暮だという雰囲気すらあるみたい。よほどハズれれば別なんだろうけれど、私には優しい世界である。

気分転換のあとは勉強、といきたかった。いければ悔いのない一日。ところが頭を使う仕事はどうもうまくいかず、眠気を誘発するだけ。バーゲンで買ったズボンの裾つめ×3をしたのが今日の成果かも。新しいミシン欲しい。欲しいけど、裾つめくらいにしか使わないのも事実。ミシンっていくらぐらいのものなんだろう?


人も普通にしよう
2005年08月09日(火)

出来るだけ普通の暮らしをしようと、今日は職場に出かけた。この時期、毎日行かなくても許される仕事なので、その点は相当助かる。この騒動がもう少し前に始まっていたら、犬も人もかなりこたえたのではあるまいか。

出掛けに○ンチ介助をした。息子もなかなかよく手伝ってくれる。この経験が何十年後かに我々の介護をするときに役立ちますように。

今日も老犬はささみを食べ、トーストをちょっと食べ、サツマイモや納豆はかたくなに拒否する。湯葉もダメだった。ナマイキである。しかし、かなり危ういものの立って1〜2メートルは歩けるまでになった。水など枕元?にあるのに、いつもの水のみ場まで足を運びたいらしい(あるいはそうプログラムされている)。しょうがないので途中から抱いて運ぶ。

ほんとにまあ、薬って難しい・・・○ンチとて100点ではないが、薬をやめてから週末よりは改善されている。食混投与のものは今の状態で飲ませにくいこともあって、降圧剤を1種類飲ませているだけである。相変わらず「自然」に対する複雑な思いは消えないけれど、ご近所の長年の犬友達に打ち明けたところ「極楽行くのにおなか減ってたらかわいそうじゃないの!」と至極素朴に、理屈なんぞ超越された形で背中を押された。

実はこんな老犬をネタにした日記など書くのには若干抵抗があるのだが、現時点で、我家の「普通」を遂行しようと思っても、まず老犬の用事をすませてから、となってしまう。

少なくとも老犬のためにこちらの用事を取りやめることはやめようと思い(昭和天皇のときは世間大変だったねえ)、今日はそれぞれ出かけ(夕方速攻で帰ってくるけど)、これからの予定も、ドタキャンあるかもしれんけど、と断りながら約束している。原稿を頼まれているところには、進捗状況のご報告として、一行老犬のことを盛り込んだ。いざとなれば、ここで飼い主に恩返しをしてくれるはず?


自然に飼うこと
2005年08月08日(月)

自然にってどうすることなんだろう?
安楽死を実質上獣医さんに断られ、一応、我家も腹を決めたのだが、はた、と戸惑っている。

獣医さんが、下痢なら利尿剤を止めてみて、というので、当然、利尿剤を止めた。気管支拡張剤も一昨日、ひどい吐き気を催させたようなので、以来飲ませていない。じゃあ、他の薬はどうするんだ??あと3種類あるんだけど・・・。

薬は必要だから与えられていたのだろう。だとすれば、止めることは、緩慢な殺し?人だったら、このレベルだと病院での細かな管理のもとで、減量したり、薬を交換したりするだろう。

食餌についても、病犬食オンリーの日々だったので、何でも好きなものを、といわれたって、食べることで余計に苦しくなるようなものは避けてやりたい。それに、今更そんなことをいうのなら、今までは何だったのか。好きなものを与えることは病状悪化につながらないか?餓死より悪化がましということか?悪化してまた苦しみを繰り返すのがいい?

確かに、昼、納豆を食べてから、少し元気が出たようにも思う。夜はささみを水煮にしてやったが、これならあと一月くらいは持つかも、というような勢いで食べた。(朝は水でさえスポイト)とはいえ、残りの時間はただただ寝ているし、名前を呼んでも目覚めないようなこともある。

今日は発作がおきないのでありがたい。でも、排泄も小が2回しかないので心配でもある。大が順調に出るようなら、「何でも好きなもの」を食べさせることにもう少し大胆になれるのだが。

安楽死をあきらめて、自然に逝かせるとしても、一体どうするのが自然なのだろう?薬を一切絶つのは一応自然かもしれないが、食の自然はどうするの?結局、うちで飼われるようになってこのかた、「自然」なんてものとは縁がなく、獣医さんの言葉や本に書いてある情報に従って管理されてきた犬だ。最後の局面で、そんなことを要求されても悩むばかり。もちろん、その対極にある動物病院入院、点滴という形での最後は絶対拒否なのだが、死期が見えてきてからの心構えという点では、まだまだ修行が足りない。

安楽死は自分たちの身勝手ではないか、ということについては、何時間も家族で議論した。結果、自然死でさえ「最期まで看取ったという満足感と犬の苦しみとの引き換え」ではないか、という疑いを否定しきれず、安楽死を選ぶことにしたのだ。自分たちの手では殺せないのが卑怯だけれど、ともかくも犬の苦しみを自分たちの満足に引き換えるよりは、全部自分たちの身勝手だと人が罪を負い続けるほうがマシだと考えたのだが、飼い主は犬とともにもっと苦しまないといけないのだろうか。


老犬
2005年08月07日(日)

老犬儀、病気療養中にて、容態楽観を許さず、家内大騒動相仕り候。
安楽死之儀、協議致し、獣医殿に交渉に赴けど、獣医殿極めて軟弱逃げ腰にて一件相叶わず、家内一同老犬の天寿を全うさせるべく決心仕り候。
乍然、諸般之仕事雑用相滞り、其上、週明け以降予定立ち難く、困窮仕り候。 以上 シランデ頓首


『ヴァイオリンの巨匠たち』
2005年08月05日(金)

暑い〜〜、と日中は死んでいた。
ブラインドの隙間から怯えたような目で外を覗きながら、ひたすら日が沈むのを待っていた一日。やろうと思った仕事は1割程度しか片付かず、机に向かえば眠気、PCに向かえば単調なゲームで時間を潰すのみ・・・非生産的な一日のサンプルに供出したいくらい。

疲れたんですよ、疲れたの、と自分に言い訳である。

ぱらぱらとエッゲブレヒト『ヴァイオリンの巨匠たち』(アルファベータ)なんぞをめくりながら、う〜、頭痛いよ〜。

この本、ヴァイオリン好きには面白い本です。ジャーナリスティックな話題に走らないで、かつ、空虚な表現をちりばめないで、ヴァイオリニストをヨアヒムやイザイあたりから順に取り上げて論じていくのはなかなか容易なわざではない。残念ながら、本邦のものとは重みが違うんだよね・・・国産品は啓蒙を主としているのかもしれませんが。

エッゲブレヒトの活動なんて何もしらないんだけれど、日本の音楽評論家って何でもやる。つまり、演奏会のプログラムやチラシのヨイショ記事も書けば、CDのライナーノートにどうでもいいようなことを書くし、雑誌やペーパーバックで「お薦めCD」みたいなものも書く。頼まれれば何でもというスタンスでは、評論は出来ないよ。書いたとしても、信頼性が限りなく疑わしい・・・で、もちろん彼らはコンサート評をはじめとして、評論的なものを書いている。問題あると思うなあ。少なくとも、招待券で行って正直なことが書けるのだろうか?大体日本語自体、評論を得意とする言語かどうか―音楽に対するいい耳とかなりの日本語のセンスの持ち主でないと、いい評論は難しかろう。

エッゲブレヒトの本、タイトルを含め、訳はあんまり気にいらない。巨匠といっても、実際にはヒラリー・ハーンまで俎上に上っているのだから。(原題はGrosse Geiger)でも内容は結構うなずける上、もう一度あの人のCDを聞いてみようと思ったりもして、刺激的である。


老犬、あやうし
2005年08月04日(木)

昨晩は老犬が危なくて、くたびれた。なかなか立ち上がれず、立ち上がっても数歩歩くともうダメ、息はあがりっぱなし、咳も止まらない・・・

途中で獣医さんに電話をしたりしても、あんまりはかばかしい返事ではなかったので、半ば諦めて朝を迎えた。私と息子はいよいよ安楽死させる覚悟を決め、夫はまだ迷っていた。彼はたまたま今日は休みをとっており、私は午前中はさぼることに。

うちの獣医さんは腕はともかく人がよく、「信頼」の二文字で結ばれた関係である。午前中、患者の切れ目を見計らって、往診に来てくれた。

老犬は先生のことが好きなので、いつも尻尾ふりふり大歓迎・・・さっきまでテーブルの下で身じろぎもせず、荒い息を繰り返していたじゃないか、飼い主の私の身にもなってみろ、きのうの喘ぎを嘘でもいいから繰り返してみな・・・「波があるんですね、あんまり早くあきらめなくても大丈夫ですよ」といって、新たな強心剤+利尿剤を処方してくれた。私としては、安楽死の相談をするつもりだったんだけれどなあ。

犬に張り付くわけにもいかず、少なくとも今日逝きそうには見えなかったので、午後は仕事に行った。ついでに、前々から約束していた友人に会って、夕ご飯を一緒に食べた。帰宅すると、老犬の具合はよくもないが、危なくもないといったところ。この先も修羅場があるんだろうが、何度も経験はしたくないものだ。




『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』
2005年08月02日(火)

ベストセラーになっていることは知っていた。会計学にはとんと興味はないが、それでも題名にひかれて、まあ、ちょっと読んでみようか、と。

さおだけ屋、ベッドタウンの高級フランス料理店、在庫いっぱいの自然食品屋、完売したのに怒られる社員、安い手であがる雀荘の兄ちゃん、割り勘の支払い引き受けさん、など、割合身近で「ああ、そういうことってあるなあ」と思うような話題を会計学にひっぱっていって、会計的な見地から、各事例の妥当性を説く仕立てである。

さおだけ屋は以前から噂に聞いていた通りの話で、ああ、やっぱりね、だった。この手のものの常として、後に行くほど多少強引になる気味は否めないが、ベッドタウンの高級店の話は、ふ〜ん、そういうものなのか、とそれなりに意外だったけれど、連結決算の事例はもっと普通のものでありそうな気がした。この著者のうまいところは、普通の店の例でひかず、珍しいものでひいてくることだ。

数字にはとんと弱い私だが、おかげさまで、会計学が単なる帳簿つけではなく、金儲けをうまくするための分析手法の一つなんだ、ということが理解できた。だが、概念として理解できることと、家計のキャッシュ・フローなんぞを把握することとは大違いで、相変わらず小遣い帳すらおぼつなかいまんまである。

余計なお世話ではあるが、著者はまだ公認会計士としてのキャリアはかなり浅いはず。だからこそ書けたんだろうな、という印象も得た。ほら、よく、外国で1、2年暮らした人がすぐ体験記を書きたくなる、というあの感じである。どこをとっても安直な参考書のキャッチみたいで、どこの世界にもいる器用な人がチャッチャッとまとめましたぜ、の一冊だと見た。そういうタイプの人に重厚な一冊の期待はしないが、キャリアを少し積んだら、粉飾決算の実態なんかも安直にまとめてもらいたい。


ささやかな喜び
2005年08月01日(月)

1年に1回くらいは、朝からよく頭が動き、体が動く日があって、どうやら今年は今日がそれに当たったようだ。体が動く、というのは、2階にある本をもってこよう、片付けてある資料を取り出そう、とその都度、動けるという意味で、それ以上飛び回るような意味ではない。私はなまけものなので、要るものが手が届くところにないと、ついつい、またこの次ね、になるのである。そう広いうちではないが、階段の上り下りは面倒だ。特に暑い日は、どかっと熱気にさらされるもの。

ともあれ、長年抱え込んでいた資料を、わりあいきちんと整理することが出来、なんかとても得した気分である。(実は何の得にもなっていない・・・単にそれがどういうものかわかっただけ。大したものでないことが確認できただけ。)こういうささやかな喜びに釣られて、いつまでもこんな生業を細々と続けている。ダイエー再建に当たっている林文子さん(だっけ?)のような人には想像も出来ないだろうな。

そうだ、今日は昼寝もしなかった!

BGMは当然、テツラフでいろいろ・・・この人はどことなくシゲティを思い出させる・・・あんなにギシギシはしていないけれど、華麗なヴィルチュオーゾというタイプじゃないよね。。

明日も何とか動けるといいけれどなあ・・・根が怠け者で、生まれ変わるときには<陽だまりのナマコ>志望だからどうなることやら。



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