シラグーザのリサイタルでした。この人のリサイタルの場合、新たな解釈を期待するなんてことは皆無で、ただただお気楽です。下手じゃないけれど、すごくうまいということもない。珍しいものは何もない。とはいえ、声はきれいだし、高音がよく伸びるし、サービス精神満点だし、そんなんでチケット買って待っていました。 最初はイタリアの通俗的な曲から始まり、後半がオペラのアリア。何曲目かにモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』からIl mio tesoro intantoを歌っていたとき、「あ〜あ、こいつが歌うとモーツァルトだろうがドニゼッティだろうが、みんな同じだなあ・・・」とややしらけたのですが、そんな気分もアンコールになるとどこへやら。 既定値のアンコールだと思う(アンコールなんていわずに第三部日替わりプログラムとでもするべき)。なにしろ6曲も歌いまくり。しかも、十八番のSe il mio nome saper・・・(セヴィリアの理髪師)では例によってギター爪弾きながらだし、まさかAh!mes amis(連隊の娘)をアンコールでやるとは。そして最後は(確か前回もそうだったが)オーソレミオを歌いながら、客席を歩いてくれる、もちろん握手ぜめ。 私も通路側だったんで、握手頂戴である・・・でも、あんまりドキドキしない。それがオペラ歌手としては決定的な欠点じゃないかと思う。カリスマ性がたっぷりあって、オーラがばりばりに出ていないと、オペラの舞台じゃもたないよ。なんていうか、シラグーザは歌の上手なそこらへんの兄ちゃんなんです。ただし、歌の魅力の原点は案外そのあたりにあるのかも、なんて思ったことも、これまた事実。
『源氏物語』ってどれだけ読んでも、私はあんまりのめり込めない。ページを繰るごとに、たいしたもんだと感心の度合いは深まる一途だけれど、ストーリーそのものが面倒くさいし、大体人の恋愛なんぞどうでもいい。・・・だからといって、もちろん「くだらない」なんてことはいいませんよ。私向きの話じゃないだけのこと。 てんこ盛りの作品で、着物なら着物の柄、年中行事なら年中行事、とそれだけを追って読むことも出来よう。どこを見てもそれなりに充実している平安宮廷まるごと玉手箱。商品もお客も入ったままの伊勢丹を丸ごともらったら、こんな感じかな。とにかく何もかも豊富すぎる。 学生の頃、ときどき聞こえていた、「紫の上すてき〜」とか、「夕霧が好きよ」などというような感情移入は私の場合どうもうまくいかない。古文の読解力がないからかもしれないが、あんまりご贔屓が生まれないのだ。どうしても強いていうなら、昔の頭中将を贔屓にしたい。荒唐無稽な想像になるけれど、『ドラゴン・ボール』のべジータを思い出す・・・よく考えると、血筋のよさという程度の共通点しかないのだが、どうやってもナンバー1になれないところが似ているのかもしれない。でも柏木よりはトランクスのほうがマシかな。トランクスはいい子だ・・・こっちのほうは、相当感情移入してのめり込み、一番好きなのは、ナメック星人のピッコロです。 実は今更これを読んでいる場合じゃないのだ。与太なんてとんでもない。原稿から逃げているだけのこと・・・(泣)。
今日は36度だったとか! 台湾で買ったブラウスで出勤した。これが一番涼しそうだったから。多少、エスニック調が目立つことを除けば、確かに夏向きで、さすがは暑い台湾のブラウスだと感心した。 通勤のお父さんたちも今日は圧倒的に「クール・ビズ」系が多かった。ネクタイなしのワイシャツだと、皆収監待ちのナントカ容疑者のようで、多少間抜けな感じではある。が、何も無理して首にネクタイを締めることはない。昔の日本映画だと、開襟シャツにパナマ帽というオジサンが出てくるものだが、開襟シャツは今のところほとんど見かけない。ボタンダウンやスタンドカラーよりは開襟が涼しいと思うのに。 それにしても、なんで「クール・ビズ」なんておかしな言葉を使わなくっちゃいけないんだろうか。夏季軽装じゃどこかいけないの?役所の掲示はそれに類する言葉を使っていたのに、どうしてマスコミを通すときには「クール・ビズ」っていうの?国民がカッコイイ言葉に騙されるとでも思うのかしら。だとしたら随分人を馬鹿にした話だ。もっとも、この国の国民は常に愚弄されているけれどね。 台湾なりフィリピンなりインドネシアなり、蒸し暑い国からビジネスウェア輸入したら、安くて機能的な「夏季軽装」が整うのではないでしょうかね?私もあと2、3枚台湾ブラウス買ってくればよかった。
こんなに暑くていいんでしょうか? 梅雨前線は関東ジャンプだそうな。 暑いのはとにかく嫌いです。 汗が出るからです。ねとつくからです。 あまりの暑さにアイロンかけをする気にならず、 本格夏物がスタンバイできません。 でもしかし、それでは日々暑さに苦しむことに・・・。 信じられないことに、私の職場には冷房というものがなく、 健康的といえば健康的ですが、 健康の前に熱中症になりかねません。 うちわ片手にお仕事です。 職場に冷房がなくても、 そこまでの地下鉄は、 ターミナル駅で大半が降りても冷房の調整をしないので、 私はしんしんと冷え込む走る冷蔵庫で15分を強いられます。 これで壊れない身体があれば、 お目にかかりたいものです。 しょうがないんで、アイロンかけ、するとしましょうか。
お世話になった先生の古稀のパーティーに行った。 実はこの先生の授業は難しすぎて、なんのことやらさっぱりわからぬままに終わった。レポートなんかどうしたのか、出席点だけだったのか、とにかく座っているだけだったのか、ハテナ尽くしである。卒業後20年以上して、先生が大変秀才だということだけは確信できた。 さて、同級生もほんの少々混じった会場で、今も昔も真面目そのものの人がひそひそと「あなた、先生の授業に出てた?」 「出てたから声かかったのよ・・・あなたも出てたのね?」 「あなたが出ていた記憶がないんだけど・・・」 「学期が違ったのかしら、私もあなたがいた気がしないわ。K君は当然としてもMさんと一緒だった。」 「そうそう、私もMさんと一緒だったわ・・・じゃあ、あなたずいぶん静かにしていたのねえ」 「だって、質問できるほどにもわからなかったもの・・・ひたすら大人しく目立たないように座っていたんだと思うわ。『あゆひ抄』やったんだよね」 「あ、そうそう、私、今まで思い出せなかった!それよ、『あゆひ抄』よ!」 覚えていた私が優秀なのか、忘れられないほどのトラウマだったのか、ともかくも授業の眼目すら分からなかったダメ学生だったのだ。でも、あの真面目なSさんすら、分かっていなかったのだ、と本日、20数年のコンプレックスが少しだけ解消。若いときは分かっていなくてもみんな分かったような顔をしていたのだねえ。困ったものだ。
今日はこの暑さにも関わらず、ライアンに「銭湯」を見せようと、江戸東京博物館たてもの園へ行く。暑いことは暑いが、公園の中は木がよく育っているせいか、想像したほど暑くはなかった。昭和初期の木造建築や江戸時代の八王子千人同心の家なんぞでくつろぐ。「西川別邸」なる家の座敷では、たたみの感触を味わいながら、まったり、ぼーっと風通しのよさを楽しんだ。 「たたみの部屋ってどこかで体験した?」 「・・・たぶんない」 「コンパしたことない?居酒屋どう?たたみがしいてあるところなかった?」 「あった、たたみでした・・・でも、ここと違う」 「そうね、ここの畳はソフトでドライ、居酒屋と違ってねとねとしないものね。畳はこのドライな感触がいいのよ」 実は我家のたたみは夫の部屋だけである。あまりに汚い部屋なのでライアンは入ったことがない。 あまりほかの人が来ないのをいいことに、しばらくその家にとどまって、ここが縁側、あそこが床の間と教えたり、障子と襖の区別や開け方を教えたりした。 「伝統的な日本の家と西洋式の家とどちらが好き?」と私に聞くので 「若いときは西洋式の家がいいと思ったけれど、今は断然縁側のある和風の家がいいわ」と答えた。 実際、縁側から庭を見ながらごろごろ出来る部屋ってサイコー。夢のまた夢。本当は「西川別邸」でごろんと寝っころがりたかったが、さすがにそれは慎んだ。
息子とライアンが新国立劇場の『蝶々夫人』を見に行き、二人で帰ってきた。いくら新国とはいえ、チケットはそこそこ高いから、来月末に帰るらいアンへのお誕生日プレゼントである。幸い、とても面白かったそうで、投資の甲斐があった。 私は『蝶々夫人』って後半にやたら大げさな歌が多いから、騒々しくて好きではない。前半は退屈だし、どうやってみても、西洋人にいいようにされている「健気な」日本人の話である。こまごまとなじめない部分も出てくるし。息子の話では、新国の演出はそこまで違和感はなかったという。ソプラノがいっぱい歌うから、♂はうっとり度が高いのだろう。二人でアリアを口ずさみながら帰ってきたし。 そこで、これはどうよとばかりに、大昔('74)のとフレーニとドミンゴ、ポネル演出、カラヤン指揮のオペラフィルム『蝶々夫人』DVD鑑賞会となり、夜更かしをしてしまった・・・白塗りの田舎芝居のような『蝶々夫人』なのだ。ピンカートンは前半ただの不良ガイジンで、後半ひたすら臆病者。みんなで、ポネルはアメリカ嫌いに違いない、プッチーニも内心アメリカを小ばかにしてるぜ、と盛り上がる。(日本はもっと問題外かもしれない。)また、随所にというか、全編通じての不気味な演出・・・蝶々さんの住まいは庭もろくにないような葎が宿(中はそうでもないが)、荒涼とした原っぱでの二人の営み、「日本人」たちの『アダムス・ファミリー』さながらの様相、わけのわからんシーンはすべて文化論のネタ。 それにしても東京オリンピックや大阪EXPOをやってなお、この演出が受け入れられていたことには何ともいえない。みんなで見て思わぬ楽しみとなったけれど。・・・ほんの数時間前にライブで見てきた息子たちには混乱を招くだけだったかしら。・・・私も見にいけばよかったな・・・でも3人分はとても出せなかった。
ひさびさに都立中央図書館へ行った。 特にトリチューに行きたかったわけではなく、一仕事終えてからでは、行きつけの某専門図書館のコピー時間には到底間に合わなかったからだ。トリチューは丘の上だし、はしご仕事で行くのはいやだったけれど、贅沢はいえません。実際、トリチューはお手ごろサイズで充実しているし、仕事迅速(昔は違った)、図書館ランキングなどあるなら、そこそこ上位に食い込めると思う。国会は悪くないけれど、やたらフロアが広くて移動に時間がかかりすぎる。 お目当ての資料があることは事前調査済みだったのに、検索の調子が悪くて「その雑誌は欠号です」と繰り返し画面に出てくる。おまけにに画面が即フリーズするし、なんか変だな〜と思って、係りの人に聞くと(これがまた昔を知るものには恐縮したくなるくらい親切である)「システムを新しくして調子が悪いんですぅ」。結局手書きで請求して、事なきを得る。待ち時間にはすぐそばの週刊誌をめくるが、たいして読みもしないうちにモノが出てきた。 コピーもすぐ上がって、このまま帰るのはもったいないと、予定外の仕事を少々。で、コピーたくさん・・・本当はコピーなんかに頼らず、その場でノートを取ればいいと思う・・・でも後からまた確認したりすることを思うと、いりそうなところはコピーをとっておかないではいられない。コピー代は安くはない。25円だったっけ。取ってくれるんだし、背に腹は、である。 中で働く人はシフトを組んでやっているのだろうけれど、閲覧者サービスにばかり人手をさいているのではないかしら、と若干不安に思いながら帰宅。図書館は本を見せるばかりでなく、本を保管し、次世代へ継承していく機関でもある。その専門家の技術を育成する場でもある。そういう閲覧者に見えないところもちゃんとやってくれているのかしらん・・・石原都政だと地味なところは切り捨てられてしまうだろうから・・・。 専門的な分野を持つ司書さんがどんどん配転させられるという話も聞くし、どうなんでしょうね。黙っていたら、そういう部分って切り捨てられるばかりだろうし、その恩恵を享受している人たちは積極的に支援するべきだと思うな。
今年はアブラムシが大発生だったそうで、なるほど我家の庭も相当な被害を受けている。アブラムシ直接の害もあるのが、アブラムシが媒介する「すす病」になった木々が何本か。 大きい木はほっといてもいいが、ブルーベリーはせっかく実がたくさんついているのに、薬をかけてやらないといけないのが残念。庭仕事は勤勉でないので、とうに期限の切れたのをシュ〜ッと撒いておく。今年はもう食べる気しないな。でも来年までに木が枯れたら悲しいものね。 もちろん本当はケミカルなものは一切絶つのが理想なんでしょうが、すみませんね。あいにくと手間がないもので。 ヒメシャラの木に沢山花が咲いている。その日限りだから茶花にするのよ、と前に姑が教えてくれた。ありがたい木かもしれないけれど、派手に散る。雨が降ってくれないと、私が掃除をしないことが丸わかり。 雨さえ降れば、割合早く土に帰る、というか、目立たなくなるので、さぼっていても大丈夫。 実際、本当に庭をきれいに保つためには、お隣のご老人たちのように、ここを職場と心得て、せっせと世話をしないといけないのだと思う。文字通り猫の額の庭なら、週に一日でもいいんだろうし、寄せ植えの苗なんぞちょこっと買ってきて植え替えればいいんだろうけど、幸か不幸か、猫の額よりは広くて道にめんしている分、だらしなくしていると世間の冷たい視線を感じるのである・・・気になるのなら、いじくりに来てくれてもいいんですが。 そういえば、けさ、カッコウを見た。鳴いてはいなかったけれど、あの姿形はカッコウ・・・だと思う、ちょっと小ぶりな気もしたが。
展覧会の図録というものは、なんとなく買うことが多いが、実のところ、それほど何度も繰り返してみるわけではなく、参考にして何かをするというわけでもない。ただ、まあ、何かのときに便利だろう、とか、この分野ちょっと勉強したいから解説真面目に読もう、と思って買うのである。 で、昨日行った印刷博物館の図録である。大変読み応えがある。もちろん、16世紀西洋の印刷・出版文化など、こちらは何もしらないから、どこを読んでも「ためになる」のであるが、序論の部分が総論としてとてもわかりやすく、以降、それを具体的事例で追認するような形で、出品物の解説を読んでいくことができる。 一言で言えば、文化の共有手段として本という形がある。そして、コンテンツの提供者として執筆者、出版者(この場合はプランタン一族)がいて、実際のハード製造にあたる印刷者や活字鋳造、挿絵彫刻(ブリューゲルとかルーベンスとかも)、製本などに携わる人がいて(今回、紙の問題には深入りしていなかったのが残念)、さらに流通を助ける/妨げる諸般の情勢があり、そうしたさまざまな幸運に恵まれて、初めて読者は本を手にすることができるのである。 文化を取り上げるときには、コンテンツだけを問題にしがちで、確かに、コンテンツこそ時を越えて生き延びるものかもしれないが、技術の部分、あるいは政治的な部分にもっと関心を持つべきだと考えさせられた。和書の出版については、かなり研究がなされているけれども、いかんせん、島国、しかも江戸時代といえば中央集権が進んでいるから、ヨーロッパとは情況が違いすぎる。それとの対比を考えてみるのも面白そうだ。和本の研究をしている人に怒られるかもしれないが、ヨーロッパにおける知識の伝播のダイナミズムはすごいねの一言。 西洋の印刷・出版関係の文献で素人に読みやすいものが少ないことは、図録の文献一覧を見ても明らか。だからこそ、本図録の持つ啓蒙的な意味は大きい。
トッパンホール(凸版印刷のホール)でリートのコンサートがあった。始まる前に同じ建物にある印刷博物館で、「印刷革命がはじまった―グーテンベルクからプランタンへ」の展示を見る。 グーテンベルクはおなじみだが、さて、それからどうした?になると、実のところ何にも知らない。プランタンは16世紀から19世紀にかけて、ベルギーのアントワープで印刷・出版などに携わった名門なんだそうだ。当主がその仕事から手をひくときに、コレクションや印刷機械をまるっと家ごとアントワープ市に委託したそうな。そして今そこは博物館になっており、その収蔵品を借りて、印刷博物館特別展示と相成った。 以前からルネッサンス写本は美しくて好きで、複製でいいから一枚いいのが欲しいとひそかに考えているのだが、写本ならずとも、16世紀の本ってずいぶん美しいのねえ、と感心。端正である。ヘブライ語の活字本も優雅であった。 内容も多岐にわたり、中でも印象的だったのが、7ヶ国語会話集である。16世紀に、ヨーロッパではそんなものが印刷されていたってちょっとオドロキ。日本じゃ戦後だね、そんなものが出来たのは。(幕末にあったのは和英とか和蘭とかの2ヶ国語でしょ。) もっとこれを見るのにたっぷり時間をとっておくんだったと思いながら、ホールに向かったら、その途中のギャラリーでは「すごいぞ製本」と題して、ブックデザインの展示があって、大慌てで一回り。これもなかなか楽しい展示だった。 さて、お目当てのリート。トレケルは高音が時にぶら下がり気味だと思ったが、張りのあるいいバリトンである。さすがワーグナー歌手というような迫力満点のブラームスを聞く。リーダークライス(シューマン)もよかった。ちょっと見た目は怖いけれど、目があったとき笑ってくれた。はい、この次も買いましょう。(お客とはかくも単純なものである。) 共演の佐々木典子さんも温かみのある声で気持ちがよい。ピアノ原田英代さんは私の好みにあらず。最後のぺだりんぐ、今イチ。
また定期を落としてしまった。 幸い、数時間後に駅から連絡があり、栃木県は宇都宮あたりまで私の定期は一人旅をしていたらしい。普通ならここで、駅同士のよしみで?発行駅まで戻るところだが、運よくというか、運悪く、現金が見つかってしまった。もしものときのタクシー代として2000円ばかり入っていたのだ。現金があるとわかると、通常ルートでは戻せないんだそうだ。 思わず、 「現金、抜いてくださってもかまいませんが」 といったら、駅員さん絶句。 こちらにしてみれば、宇都宮くんだりまで行くのも大儀、2000円くらい車両清掃のおばちゃんたちのお茶菓子に使ってくださいの気分であるが、駅員さんの絶句で我にかえり、 「あ、そのほかの手立てがあれば、おっしゃるようにいたしますが」 「着払いの託送でどうですかね?」 「もちろん結構です、ありがとうございました×3(お辞儀つき)」 1月ちょい前にも同じ場所で定期を落とし、それも運よく見つかった。今度も見つかってありがたいことである。でも、家人からは「紐つけておいたら?」(小学生じゃない!)「鈴は?」(猫じゃない!)と再発防止のアイディアが出される始末。絶対そんなことしたくない。 原因はどうも朦朧として電車を降りるところにあるらしい。大体私は寝ぼけたままでもそこそこの行動ができる。今日も今日とて、眠気と戦いながら降りたのだけれど、そのときに「定期落としたんじゃないかな〜」と心のどこかで気付いている・・・階段を登りながら覚醒したから、すぐかばんを確かめて遺失物に届けた。前回もそうだった。乗り換え駅の構内で目覚めたときにちゃんと気付くのである。でも落としたときには眠気のあまりはっきりと自覚できないままなのだ・・・そういえば、高校時代に私は「いぎたなし」といわれていた。 いぎたなきゆえにかやうのわざもなしにけるかな・・・
今日のオペラは全然期待しないで行ったのだが、チケット代相応には楽しめた。リチートラ、うまくなったねえ、と感心。陰影の微妙なあわいが実によい。マンリーコをやるには身体の切れが悪いし、色気は不足だが、息子としての表現が切なくて上々。特に終幕、よかったわさ。 『イル・トロヴァトーレ』は俗に、主役3人名手が揃わないといただけない、といわれるが、私的には、これは4人でしょう、である。マンリーコ母者人アズチェーナが悲劇の要ですから。今日歌ったディアドコヴァは劇的歌唱とまではいわずとも、十分満足。 今日は3人は上等だったけど、バリトンのおじさんが能天気な大男で、声もでかくて、フォルテとフォルテッシモしかない暴走系で、役のとらえかたが全然文学的じゃなかった、もちろん音楽的でもなかったと思うが、まあ、前のオヤジは「ブラボー」を叫んでいた。ああいうのが好きな人もいるんだ。勝手にして。 このルーナ伯爵は私のとても好きな役なので、もっと繊細な人格として表現してほしい。力だけでは悪役になるばっかりで、彼の悲劇性が後退する。Il balen のアリアで超がっかりした。あのアリアはフィッシャー=ディースカウの歌うのが好き。
「グローバル・ランゲージとしての英語の功罪」という話をしていたら、職場のオヤジが噛みついてきた。「『英語の功績』ではないか、グローバル・ランゲージの英語に罪なんかないでしょう?え、どこにあるんですか?」と偉そうにいうので、モグラ叩き並みに速攻で叩いてやった。 「英語がその経済力で世界を席巻することで、文化の結実であるマイノリティーの言語を絶滅に追いやるんですよ、非英語国民が英語の提灯持ちばかりしていていいはずがないでしょう」といえば、 「小数民族の言葉なんてしょせんそれだけのこと・・・」と抜かす。 すかさず、別の人が物事を立体視できる能力云々、と叩く。 英語母語の環境に生まれるか、そうでないかで不平等が拡大する、ともう一発打ち込んでやろうかと思ったが、このオヤジ、60近くなって、いまだに某県立高校の実力テストにおける自分の点数を自慢したり、英検1級を誇示したりするばかりか、卒業大学を二言目には口にする(同じ大学を出ている私がどれほど迷惑しているか)。その程度の男だから、いったところで、英語が出来る=えらい、という図式から逃れられないだろうと思い、終わりにした。 視野の狭さと最近の言説に対する無知蒙昧ぶりに呆れたが、彼はいつも呆れさせてくれる。前職が銀行員で、それも自慢の種。細かい(くだらない)数字の操作が大好きで、いじくりまわして、パーセンテージを上げることがほとんど生きがいの領域に達している。・・・銀行が公的資金を導入するという破目に陥ったのがなぜか、このオヤジとつきあうと、どんな教科書よりよくわかる。そんな男を押し付けられている私の職場もひどいもんだが。
もとより〆切を守る気のなかった原稿に手をつけたところで、おおいに方向転換を余儀なくされることが生じ、原稿が遅れます、の言い訳だけは正々堂々といえることになった。おそるおそる、その旨を告げてみたら、「8月中に」という厳しいお達し。これではまた、〆切破りの同志を募って、「みんなで破れば・・・状態」を創出しなくてはならない。なにしろ、今年一杯という裏の話で承諾したんだからさ。 最近なんか処理能力を上回る仕事量で降参状態。電車の中で寝もしないでお仕事本読んでます。こんなことでいいのか!・・・いいはずないよね。 ゴミ処理場の責任者は、焼却炉の調子が悪いのに、どんどんゴミが運ばれてくるのをみて、どう思うのかしらん。聞いてみたい気がする。「オレの知ったことじゃない」と居直れる神経が欲しいなあ。 たまには早く寝よう。
若い人からこんなメールをもらった。 彼女の感激につきあわされると、なぜか彼女の存在そのものに感激してしまう。 *** みんなぁきいてぇ〜〜〜 昨日仕事帰りに超満員の電車にのろうとしたらアッコ(仮名)トロくてずっと前からまってたのに絶対もう一人もはいれないだろーってとこに無理矢理入ってったら迷惑なことにドアに紙袋が挟まってドアがしまらなくなっちゃって・・ちょっと紙袋が破れたのはしってたけどあんまり気にしてなかったのね。で地元に近づいて電車が空いてきたときに紙袋みたらめちやめちゃきれてて荷物が今にも落ちるんじゃないかってくらいで一人でやばっと思ってたら、おむかいにいた中年のおじちゃんがリュックの中からただのサティのビニール袋だけどだしてくれて、感動して一人でびーびー電車で泣いてたよ。 さらに横にいたおばあちゃんはちょっと出遅れてたけどなんかの紙袋と小さな自分のカバンをもっててその小さなカバンに紙袋のものとかとっさに詰めなおしててホント人間最高と思って一人で盛り上がってました! そうやっておじさんみたいに困ってる人をみてささっと助けられるのって簡単そうにみえてなかなかできないと思うし勇気がいると思うんだよね。今世の中結構おかしくて犯罪とかばっかりだけど、こんなにいい人たちもまだまだいるんだってホント嬉しかったよ〜そしてみんなにこの事実を知ってほしかった!!ってことでなんとなくみんなに元気かぃ?って意味もこめてメールしてみました(^ε^)-☆Chu!! 最後に私たちみんなそういう人間になれるといいね☆ 年上のかた!敬語でないことをお許しくださぃ☆ *** 彼女は赤ちゃんのときインドシナ半島からボートに乗ってやって来たのです。今はOLさん。成長の過程でいろいろ嫌なこともあっただろうに、片鱗も見せないで、けろりと明るく元気。そしていつも、ささいなことで感激して、その感激を皆に振りまくのです。この人に会うたびに、両親は立派な人なんだろうなあ、と思わないではいられません。
今日はバレエ、といっても、アマチュアです。息子が入ったアマチュア・オーケストラが「白鳥の湖」の伴奏をするので、夫と聞きにいきました。本当はバレエだから見にいかなくっちゃね。 出だしにはちょっとドキッとさせられましたが、流れに乗れば前に入っていた学生オケとは雲泥の差でうまかったので、ほっとしました。内心、アマオケの伴奏でちゃんと踊れるのだろうか、と心配だったのです。お稽古は有名オケのCDでしょうから、本番がアマオケじゃあんまり落差が大きすぎるもの。心配せずにはいられません。 全幕やるのか、と思っていたら、さすがにそれは小さい人が出ることもあり、見どころだけのつまみ食い。なかなか愛らしくて楽しい公演でした。白鳥というか、ひよこというか、大勢出てきたおちびさんたちは「私、はくちょうのみずうみ、おどったのよ!」なんて自慢するのでしょうか。 息子は昨晩リハーサルから帰ったとき、プリマ諸嬢のことを「すげえ痩せてる、胸元が波トタンみたい(=胸骨がわかる)」といっておりました。バレリーナというのはそういうものではありますが、わが同胞はバレエ体型とはいささか異なる遺伝子保持者・・・今更ながら厳しいものがありますな。痩せてはいても、それなりにふくよかなフェミニン体型でなくてはなりませぬ。また、男性はたくましくてもマッチョであってはなりませぬ。顔はあくまでも小ぶり、腰は出来るだけ高い位置にあり、手は遠くまで届くのがよいですねえ。 バレエは昨年秋に「ライモンダ」@新国を見たきりでした。バレエの公演まではとても資金が回らないわ、と思いながら、チラシを見ると、オペラに比べれば安いもんだわさ。「ニーベルンクの指輪」のバレエ、本当はちょっと見てみたい。
ある集まりの余興で江戸手づまを見ました。日本式伝統マジックです。私は手品というものは好きではないので、「あ、うざ〜」と思ったのですけれど、大層素敵なものでした。一連の動きが狂言師の動きに通じるところもあり、所作自体が魅力的でパントマイムを見ているようでした。 とりわけ「蝶々」という演目は、しっとりとした趣がありました。薄い紙から生まれた蝶々が短い生の中で伴侶をみつけ、一緒に飛び交い、そのうち片方が息絶える、残った一羽は、そのまわりを目を覚ましてよ、と誘いながら飛ぶのだけれど、まもなくそれも弱弱しくなって息絶える・・・その2羽の蝶々を手妻つかいが手の中で一緒に握ると、あ〜ら不思議、子どもの蝶々に見立てた無数の紙ふぶきが舞台を飛び交いました、パチパチパチ! 蝶々の動きは、両手に持った扇子で蝶々(=薄い紙)をあおぎながら表情をつけて演じます。ここはいわゆる「手品」とは違うけれど、たいした芸です。 私がマジックが嫌いなのは、なんか面倒だからなのです。種も仕掛けもあるからそうなんだろうに、わざわざそれを見せて、不思議を押し付けるみたいなところがなじめません。でも江戸手妻は最初から最後まで芸で、ただ紙きれが蝶々になって、あら、びっくり、に終わらないのです。紙切れの蝶々が一生を終え、紙切れに戻ると、次はその紙切れが小さな無数の蝶々に変わる、というドラマ。 藤山新太郎さんという人でしたが、この人に払うギャラに予算を割いたせいか、パーティーの食事は、あらびっくりレベルのお粗末さ。我慢、我慢。
今日は出先へ直行だし、同僚も一緒だし、こりゃあ、チケット取りの電話かけは昼休みまでオアズケかなあ、と思っていたら、同僚にはもう一ヶ所寄るところがあったため、運よく11時前に駅のホームで電話かけが出来た。頑張るつもりだったが、運よく1回でつながり、まずまずの席が買えた。秋のゲルネがお楽しみ♪ こんなことでもないと、仕事なんてしたくないやい。 ところで今日から入梅。 今年はまだカッコウの声を聞いていない。庭のヒメシャラの木には蕾がついているから、ぼちぼちそんなもんか、と思うが、カッコウはどうなったのだろう?これはかなり残念。どこかの林がマンションになったということなんだろうけど・・・。 私のほかにもそういう思いの人がご近所1km四方くらいには何人もいるのだろう。それぞれが「おや、今年はまだ・・・」と思って、心寂しく梅雨を迎えたはず。そこで立ち上がり、ご近所に呼びかけ、その声をまとめて行政に届けて、地域の雑木林の保全を!と訴える人は立派な市民だ。嫌味ではなく100%そう思うけれど、でも、この一抹の寂しさを大勢の声で増幅してもらいたくはないな。
めがね屋さんに行った。長い付き合いの店である。 このところ、どうもめがねが不調。細かい字はめがねをはずさないと書けず、はずすと字を見るために顔が机にぶつからんばかりという見苦しさ。当然肩が凝る。近視のほうも、先日の免許書き換えでちょっとドキドキする程度に問題があり、最近はステージの字幕がみにくくなっていた。老化現象もいろいろあるけれど、私の場合、目は非常に早かった(涙)。同級生でバリラックス一番乗りだったような・・・。 検査をしたら、思ったほど悪くなってなく、今の遠近両用をわざわざ作り変えなくてもいいような塩梅で、うれしいような、困るような。手もと専用(老眼っていわないところがめがね屋の心配り)の強力型を作るか、目を疲れさせないために中近用を作るかですね、といわれた。 数年前、一緒に仕事をした先生が、めがねを常時3個かそこらお持ちだったことを思い出す。お好きなのね、と思って冷たく見ていたが、たぶん今の私の数年後の姿なのでしょう。実際、老眼プロパーでも中近でも、作るのはいいが、持ち運ぶのが厄介である。 「コンタクトで近視を矯正して、めがねは手もとプロパー一個にするっていうのはどうでしょう?」 「お薦めしませんね。年齢とともにドライアイが進行します。角膜に傷をつける危険が増しますから、めがねで矯正できる人はそちらが安全ですよ」(眼科でいわれたのと同じだ!) 結局、しばらく考えさせてください、と今日の財布は無口なまんま帰宅。おりこうなお財布だった、ていうか、単に考えるのが面倒になったのである。
伯母から電話をもらう。 80歳になったけれど、まだ現役で小児科医をしている。小さい人に迷惑をかけないうちにリタイアしてほしい、と家族は思っているようだが(家族でない私もそう思うが)、「おばあちゃん先生がいい」なんていわれると、本人はまだ私は求められている、と思うらしい。 要件はなんてこともなく、「Yちゃん(私の長兄)が久しぶりに会いたいからって明日訪ねてくるんだけど、最近彼はどうなの?」という予習である。わざわざ来るなんて何かあるのかしら、と心の準備がしたいらしい。ところが、私は長兄夫婦とはほとんどつきあいがない。彼らは海外赴任が長く、つきあわない癖がついたということもあるが、それ以上に、一生付き合う相手なのだから、無駄に会って、つまらない口げんかをしないように、という心がけゆえである。要するに反りがあわないのだ。だから、伯母の質問にも答えようがない。 でも、せっかく電話をくれたので、伯母とあれこれ世間話をした。さくらやでデジカメを買ったそうな。まあ、まあ、元気のいいこと。さすがは母の姉である。生命力が豊かな家系なのだ。私はあやかりたくないぞ。 そうこうしているうちにヴァイオリンの練習をする気が失せ、昔とったベルリン・フィルのガラコンサートを見る。キーンリサイドがモーツァルトを歌う。彼のモーツァルトはとても気に入っている。ただ、コンサート形式だと、いかにも歌いたくなさそうなので、毎度のことながらおかしな歌手だと思う。テンポはオケよりもちょいと速いし、右手はポケットから出たり入ったり、ジャケットを握ったり離したり、・・・要するに落ち着きがない。しかも歌い終わるとお辞儀もそこそこにステージを降りる。変なの。 ガンをわずらう前のアバドさん、この人の指揮もクライバーとはまた違った意味で、映像として美しい。なにしろ楽しそう。
『江戸奥女中物語』 畑尚子 講談社新書だから、結構面白おかしく飛ばしているのかなあ、と思いきや、歴史の人の真面目さがにじみ出ている。言い換えれば、「物語」というほど面白くはない。その分、はったりがない。歴史の本である以上、「確か」なことと、そうかもしれないことの区別はとても大切だが、この本はそのあたりに節操が感じられて上々。 大体、大奥だの奥女中だのというと、芝居などに出てくる、ひどくドラマチックでいつの世ともしれぬことを、そんなもんだと勝手に思い込んでいるのではなかろうか。 本書では、主に、幕末、多摩地域の名家(といっても富裕な農家だが)から江戸城に奉公にあがった娘たちの手紙をもとに、その暮らしや制度をとりあげている。後半では出世すごろくなども引き合いに出され、一生懸命、面白くしようとしているのだが、たぶん著者の真面目な人柄ゆえ、無責任な想像をあおって読者を喜ばせることが出来ず、ある意味では、素材を生かしきれていない。だが、面白おかしいものは、いくらでもほかで見られるのだから、簡単に手に入る形で、わかっていることよりわからないことのほうが多いのだ、ということを示す不器用な本があってもいいのではないかと思う。
ミケランジェリのCDを昨日初めて聞き、今日もしつこく校正をしながら聞いた。校正ってほんとに嫌な仕事だと思う。旧悪を暴かれるどころか、恥さらしの場を自分で用意して、客席の掃除をしてまわるような・・・。高揚した気持ちで校正が出来る人っているのかなあ。爪の垢ください。 校正にせよ、読書にせよ、言葉に関わる仕事をしているときに、歌詞のついた音楽は絶対邪魔になる。どんな仕事であれ、静かなほうがいいという人もあるだろうけれど。 私はピアノはよくわからないので、基本的に手を出さない。大体、そこまで手を出したら破産確実。だから、お誕生祝いにこれをもらったのは大変うれしかった。そういえば、う〜〜〜んと昔、30年前のお誕生日、ピリスのひくモーツァルトのピアノソナタのレコードを兄にもらったことがあったっけ。 モーツァルトのニ短調の協奏曲は大昔に買った若きアシュケナージの力演を持っていたのだが、全然違うので、はぁ、と驚いた。ミケランジェリのはもっとエレガントで、モーツァルトらしい軽やかさにあふれるのですね。オケ(NDR)も柔らかい音色でピアノを支える。おどろおどろしくないのです。 そこそこの日常を送る中で、ある瞬間に足元の闇に気付いてはっとするように、光の中の翳を感じるからこそ人は不安感にめざめるのではないかしらん。この曲は明るく、情熱的なパッセージもあるのに、不安感がどこかしらつきまとう、そしてたぶんそれがミソなんでしょうね。モーツァルトはもちろん、ミケ氏なかなかの巧者。今更そんなわかりきったこというな、といわれそうですが。若きアシュケナージは力技のように響きます。 モーツァルトのピアノ曲って一念発起すれば、私にもひけそうなくだりがあるみたい・・・でも、きっと、彼我の差を痛感して終わるのでしょうな。誰でもひけるようなところこそ、プロの芸の見せ所ではあるまいか。アクロバティックなところは、上手な素人なら真似ができるに違いない。
この秋、シューマンを持って来日するゲルネのCD。 いやもう、耳がとろけそうです。 ゲルネのシューマンは全部黄昏色で、乾ききった涙。 ボストリッジの激唱シューマンにもぞくぞくしたものですが、 もしかしたら、シューマンはゲルネのためにあるのかもしれない。 暖かい息に運ばれるメロディと吐息のようにもれるドイツ語の子音。 加えて、シュナイダーのピアノが美しい。 きらきらっときらめきながら、 ピアノもやるせないため息をつくのですね。 今週は電話かけに気合をいれなくてはなりません。 地味な出し物だし、即日sold outはありえませんが、 ここで気合をいれるのが、ファンの心意気です。
朝、地元の図書館に本を見に行ったところ、当然あるはずのお目当ての本がない!検索すると「閉架」とあるのに、パートのおばちゃんが「どこにあるかわかりません」という。 どうしても一ヶ所見る必要のあるものだったので、しつこく食い下がり、それが昨日閉架に移動され、その手続きをした職員が今日はお休みだということを確認する。昨日までは確実にあったのだから、何とか探し出してください、と当館たった一人の正職員氏に迫る。(パートさんは逃げた。どーせ私はクレーマーだ。) いかにも気の弱そうな中年オヤジで、こちらの目を見て話をすることも出来ない。ストレスで身体を壊して、しばらく図書館で静養することになった他市の職員を知っているが、この人もそうなのかなあ、と気の毒になったが、だからといって要求を下げるわけにはいかない。 たぶんそのときの気迫に負けたのだろう、汗を拭き拭き「必ず今日中に調べて電話をします」と確約してくれたので、ヨイショしまくって、帰宅。 まもなく電話があり、チャリで速攻再訪。お礼とねぎらいのうちに借りる手続きをしていたら、モニターの画面を見たオヤジ、突然強気になって「延滞の本がありますね」と反撃に出た。「22日も過ぎていますよ」と大逆襲。あちゃ〜、お礼モードは謝罪モードとなり、本日の勝負は私の負け〜。
最近、なんでもすぐ忘れるから、調べ物をしたときには、何を見たかを必ず書くようにしているのだけれど、やっぱりわからなくなる・・・なさけなや、なさけなや。 あのとき、ああ思ったのはなぜなのだろうか、と自分の閃きですら、夢まぼろしのよう・・・絶対そう思ったきっかけがあったはずなのに、閃き前後は全く思い出せない。閃き、というと、それが役立っているように聞こえるけれど、そのことだけなのだから、まさにピカッと光った感じだけが記憶に残っているだけで、根拠や前後の論理は消えうせているのだから、全く役に立たない。 こういうのが老化なんだろうか? 若いときにもそうだったのかもしれないが、その頃は次々ほかに興味が移るから、思い出しもしなかったのかもしれない。思い出そうとしなければ、忘れることはありえないものね。 そう思って自らを慰める、今日は birthday なのでした。
ライアンが「日本のオペラが見たい」というので、二期会の学生向き公演のチケットが大学経由で買えることを教えてやったのだが、買い損ねてしまったという。親切な女の子に頼んだら彼女が失敗したんだそうだ。ほんとにバカ。オペラを知らない女の子なんかに、チケット取りの真剣さがわかるはずないでしょうに。 というわけで、お誕生日も近いし、ライアンは夏のうちにいなくなっちゃうし、と、仏心を出して、お金も出して、新国立劇場の「蝶々夫人」のチケットを買って誕生日プレゼントとする。・・・老犬がいなければ、一泊旅行に連れ出しただろうから、それを思ってあきらめる。 何で日本のオペラなんか見たいのかよくわからないが、日本でマダム・バタフライを見るのもいいかもね。私はどう演じられてもなんか違和感を感じる作品だけど。ちなみにライアン、結構歌上手。 このことで、わが<♪財布>に思わぬ痛手、と思っていたのに、帰宅したら、なんと、先日の庄司紗矢香×ベルリンドイツ交響楽団のときに申し込んだ秋のリサイタルの請求書が来ていた。が〜〜ん。 紗矢香ちゃんの大見得にしらけた直後に、ハーンの素晴らしい演奏を聞き、紗矢香ちゃんへの思いは少々冷めてきた。しかも先行発売のわりには冴えない席だし、いっそのことお金を入れないで流してしまおうかと思案中。 私は空を飛べないけれど、私のお金は空を飛ぶ(泣)。飛んでどこかへ行っちまう・・・
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