書泉シランデの日記

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追悼先代貴ノ花
2005年05月31日(火)

それほど贔屓にしていたわけではないが、でも、あの頃の力士の中では一風変わって目立っていた。北の湖や輪島に比べ、普通の人っぽさがあったのだ。

まだ55歳だなんて若いんだねえ・・・63歳くらいでも許せるような存在感なんだけれど。大鵬が65歳なんだってね。

淋しいか、といわれれば、まあ。

最後の私生活のしっちゃかめっちゃか、残念だった。
普通の人っぽさが魅力であったからこそ、若貴の成長が家族の物語であるかのように私たちの目に映ったのだと思う。でもたぶん、それは虚構だったのだろう。

夕刊紙には、若貴の喪主争いんていう見出しが躍っていた。
先代の若乃花は77歳なんだそうだ。丈夫なもんだ。でも、このオジサンをもってしても、兄弟不仲は取り繕えなかったのだろう。気の毒なことで。

ファミリーの食い物にしたハゲタカ・マスコミは今日は神妙に昔のビデオを流し、家庭不和などなかったかのようだ。いつものこととはいえ、気持ちが悪い。

貴ノ花死んじゃったんだねえ。「人間、辛抱だ」を卒業したのね。




2005年05月30日(月)

朝、地震があったそうだ。
成田で震度3だっけ?
これは予報が当たったということなのだろうか。マグニチュードはずいぶん違っているみたいだけど。でも、これで当たりで、とりあえず一件落着ならば、私はうれしい。

お中元を早めにカタログでやっつけようと思って、あれこれ眺めているうちに結局面倒になって、片付かなかった。デパートの側もこれまでの贈答履歴を押えているのだから、その線で今期のご提案をしてくれたらいいのに、と思う。

なんか疲れているな・・・。
雨のせいかも。

そういえば、アゲハ組、全滅。先に終齢になった3匹がいなくなってから、3日ほど前だったか、新たにチビが終齢幼虫になった。あんな小さいんで大丈夫か、と思っているうち、今朝見たら、雨にふやけたうんこ玉を残し、姿を消していた。あとから加わった小さいのもいなくなっていた。木のためにはよかったけれど、ちと淋しい。



地震予報
2005年05月29日(日)

5月27日前後4日間という範囲で南関東の地震が予報されているそうな・・・。いい気持ちはしない。

そういえば、前にも同じ予報者―八ヶ岳あたりでFM電波がどーのこーのといっている人の予報があった。外れたようだったが、予報範囲から2日だかずれて、一応地震はあったらしい。

家中で一番この手の予報を気にしているのは私である。夫や息子は割りに冷淡。そりゃ、だからどうするというわけではない。でも、なんだか薄気味悪い。

どこかのNPOで地震予報とその結果の評価をしてくれないものだろうか?ニアミスだったというような予報は、その予報機関のPRのためには何度も引き合いに出されるが、ニアミスにも至らなかった予報は二度と語られない。それに、地震の規模も揺れさえすれば当たった、というものでもないだろう。時期だけでなく規模も評価の対象にしてほしい。そうして完全失敗例も含めて、どこかがまとめて評価一覧をHPにアップしてくれたらいいのに、と思う。

何にもおきないといいけど。



『いとしい人たち』
2005年05月28日(土)

ゴーパル・バラダム短編集『いとしい人たち』

シンガポール随一のインド系作家、という帯にひかれて借りて読む。ただし、シンガポールの文学なんてまるで知らないし、華人社会のインド人に関心があったわけでもない。

10篇の短編が収められる。玉もあれば石もある。巻頭の「インタビュー」、英国人老将校が収容所での日本人将校との思い出を語る。日本人像をインド系シンガポール人が英国人将校の目を通して描くあたり、へぇ〜。しかも、インタビューをするのは、欧亜混血のシンガポール人という設定。しかしそれがどんな存在なのか想像することさえ難しい。

「十二月のバラ」、脳卒中で寝たきりの老人が白檀の香に誘われ、人生のすべてをいっきに甦らせようとするところ素敵。タイトルは人生の最後の一花ってこと?介護に来ているのはフィリピーナか。

「生きている記憶」、少年と老人のちょっとミステリアスな話。実際、英国植民地の記憶は華人にどう受け止められているのだろう?

「から元気」、共産ゲリラの活動がさかんな1950年代、治安部隊の大尉が主人公。ゲリラに転じたかつての同志、若い妻と幼い子、仲間の裏切りなどがストーリーを作る。

器用な作家であることはわかるのだが、読んでいるほうは、背景の事情に通じていないので、読みながらも隔靴掻痒。シンガポール人なら説明されずともわかること、感じられることが、こちとら、注を読んでもさっぱりである。

シンガポールがどこにあるのか知っているし、英国植民地から独立した華人社会であることも知っている。実は行ったこともあるのだが、その地の短編となるとこんなに実感が伴わないものであることが不思議

そこで思うのが、明治以降怒涛のように流入した西洋文学である。優れた作品は背景なんか別にどうでもよくて、即、本質に到達できるのだろうか?それとも誤解に誤解を重ねても、本質に揺らぎはないのか?戦前は殆どの人が西洋事情については疎かったと思うのだが、あれほどの作品群が抵抗なく翻訳されて読まれたのはどうしてなんだろう?


ちょっとした感動はくだらない現実へ
2005年05月27日(金)

朝の電車で、外国籍児童が学習をするための日本語力をつける授業の実践報告を読んでいて、思わず目頭が熱くなった。年だ、年だ。でも、飾り気のない言葉にこそ真実が潜むって感じだったんだよねー。

子どもはすぐ外国語を覚える、というのが実は大きな誤解であることが最近明らかになっている。しゃべれることと、その言語でもって概念操作ができることとはまったく別なんだそうで・・・。 一つ間違うとバイリンガルならぬセミリンガル、両方中途半端になりかねないらしい。

小学校の授業もいろんな段階を想定して綿密に考えて行われるもののようだ。もちろん私が読んだのは、成功した事例なのだが、「○○先生はいいわよね〜、普通じゃできっこないわ」とかなんとかいって、足を引っ張る同僚がたくさんいるんだろうな、とあらぬ想像をする。

同僚といえば、私のところにも一人クズ女がいる。たまたま彼女と同じ某塾女子大を出た知人に似たようなタイプがいるので(そうじゃない友人もいますが)、こういうセンスのない冗談は某塾女子大の学風なんだろうか、と思い、数年我慢していたのが、あまりのしつこさに、ついに「いつもそうおっしゃるけれど、私は不愉快だし、失礼だ」といってやった。

クズ女、そうとられていたとは思いもかけなかったらしく(信じがたい神経!)、神妙に詫びを入れてきた。もちろん快く受け入れる以外の選択があろうはずはない。でも、今になってみると、どうせなら「あなたのいっていることは職場におけるセクハラだから」と脅してやればよかった。

ま、私がセクハラ相談担当なんだがね。

最近、まともな本を読まなくて、本屋さん、廃業しないといけなくなりそう。雑事に追われてとっぴんしゃん、忙しいんです。


卒業しても保護者親睦会?
2005年05月26日(木)

息子の中学1年のときのクラスの保護者会から親睦会のお知らせが来る。1年のときのクラスでずっと仲良くするのが伝統で、どーの、こーのといっていたママがいたことは覚えているし、中学のときはそれでも子どもたちの情報収集のためにこの会につきあっていた。が、高校に入ってからは欠席続き。

昨年は案内もなかったから、やっと皆さん、憑き物が落ちたか、と思っていたのに、まだ憑いていたとはオドロキ。
子どもが卒業してもまだPTAの集まりを続けるなんてだ。
仲良しさんたちは仲良しさんで会えばいいじゃないか。

クラスで会って、昔の担任を呼んで、
いったい何の話をするのかね?
うちの子は××大学よ、うちは○○大学よ、って?
それともうちの子の彼女は何人って?車は何に乗ってるって?

大体、保護者会なんて子どもの話題だけなんだからさ。
薄気味悪いったらありゃしない。
呼ばれてへいへい来る担任も担任。
もっとましな人だと思っていたぞ。
この分じゃ、子どもが成人しても、就職しても続けるんだろう。

堂々と私的な会にしたほうが楽だろうに、なんでクラスにこだわるのかしら?
謎は深まるばかりだ。

いい学校だったけど、母親だけはノーサンクス。


♪追いかけ〜て、追いかけ〜て♪
2005年05月25日(水)

あるPR誌に佐藤愛子がエッセイを書いていた。

自分たちの時代にはお金は現金で動くものだった、ところが今や、お金は形骸になった、という趣旨のものである。

わずかな額をシルバー事業団に払うために(派遣された人に現金で払うことはできない)、わざわざ電車代を使って、指定の銀行の支店のあるところまで行く、そこで手数料を払って振り込んで云々、という愚痴をそば屋で縷々語る老婦人たちに、隣のテーブルで聞いていた若い女性が「振込みはパソコンからでも携帯からでもできますよ」と言い残して店を出る、という仕立てである。

年をとっても佐藤愛子らしい語り口で思わず笑ってしまった。が、いつまでこういうことを笑えるだろうか。

給料日にキャッシュで全額渡されたら、いくら安月給でも帰りの電車で落ち着かないだろう。幸い、PCで振り込むことには慣れたから、現金書留や郵便振替よりはそちらがありがたい。その程度に「形骸化」したお金の信奉者ではある。でも、PCで済むことをわざわざ携帯でしたいとは思わない。デビット・カードも文字通り1度使ったきりだし、最近、コンビニにあれこれ書いてあるEddyとかいうシステムは覚える気もない。

別に覚えなくても不自由しないんだからいいじゃないの、といわれそうだ。でも実はそうではないのではないか。今新しいシステムを面倒がらないで覚えることが、将来の技術の恩恵に浴する第一歩だ。身体は確実に衰えていくし、学習能力も低下するのだから、今面倒がっていたら、20年後には私と技術の間には埋めようにも埋められない溝が出来る。だから今から少しずつ技術の進歩を追いかけないと・・・追いかけないといけません・・・すがりつきましょう。




バッハ無伴奏byテツラフCD
2005年05月24日(火)

久しぶりにテツラフのバッハ無伴奏を聞く。このところテツとはご無沙汰だった。ハーンのを聞いたあとでは、ありていにいって「テッちゃん、頑張ってるね」と感じないではいられない。一生懸命重音を鳴らし、表情をつけて演奏している。美しくはあるが、ハーンがかなでる水の流れのような自然さではない。人間が何かを目指している、という感じ。

自然の意思を代弁するかのような演奏も素敵だけれど、人間の営みを感じさせる演奏もやっぱり悪くない。私にとってバッハは神の前の人間である。だとすれば、テツラフの演奏は結構それらしいといえよう。

電車の中は雑音も多いが、集中して聴くにはいい空間だと思う。イヤホンを使うと老後耳に問題が起きるというお医者さんもいる。でも、それって「煙草をすうと肺がんになる」と同じこと。私は大丈夫、のほうに賭けてしまう。耳がダメになったときに心の音が聴けるように、気合を入れて聴くっきゃない。外の音が聞こえにくくなったとき、頭の中には美しい音だけが響いているなんて素敵じゃない?誰かの詩に「せめて聞こえていてはくれぬだろうか、わたしの骨の耳に」というのがあったっけね。


数学科にするの?
2005年05月23日(月)

今日は大学で学科の進学説明会があったとか。
この頃は私のときとは違って、万事万端ご親切である。
学生、幼稚になるばかり。

息子は数学科に行くことにおおむね決めているようだ。
大体、入学した頃からそうは言っていたけれど、とりたてて数学の出来がいいわけでもない。本人の弁では、人文系はどうやったところで、蓋然性の問題だから、論理がきちっと決まらず気持ちが悪いそうだ。ふん!そんなにきっちりがお好きなら、身辺もっときっちりおしあそばせ。

数学科のほうは「数学に興味のある人、いらっしゃい、いらっしゃい」状態だったらしい。学生の頭数で予算が決まるのかな??

「誰か就職のこととか聞かなかったの?」といったら、
「半数くらいがドクターまで行くってよ。」
「その先のことは?」
「ドクター終わってすぐに職があると思うなっていってた。どんどん論文書いて、認められないとダメだって。」

まるで自分には関係がないような口ぶりである。
数学科などODがあふれているに違いない。

「でも、僕らの時には、ベビーブームの世代が退職するから少し空きが出るってよ」

自分に都合のいいことだけしっかり信じている。
上のほうでたまっている人たちもみんなその時を信じて待っていることがわからんかね?

「空きが出ても、講座潰すことだってあるんだから、とにかく勉強しないと先々厳しいよ」といい終わるころには、2階に上る足音が聞こえた。

癒しのアゲハ組、今日はもう1匹が最終齢となり、か細い木で音をたてて若葉を食べている。この間まで見かけなかった小さいのがさらに1匹加わった。


老犬雑感
2005年05月22日(日)

明日からまた一週間かぁ〜〜〜

土日がお仕事だったから、ものすごく損した気分。
昨日は財布への打撃も思い返すと、「おい!誰が払うんだ?」

アゲハ組は今朝、黄緑色の最終齢の姿に変身していた。さあ、大飯喰らいども、お楽しみはこれからだ・・・といえるくらい、葉っぱがあるかなあ。

裏の夏みかんの木にも2匹、小さいのが生まれていた。同じアゲハでも木が違うと幼虫もかなり個体差が大きい。

老犬はまもなく余命宣告から1年になる。「半年か、1年・・・」といわれたが、1年はクリアしそう。もちろん下り坂を下り続けている。苦しみすぎない程度に頑張ってほしいけれど、どうなるんだろう。獣医さんに預けた状態でお迎えになるのは避けたいから、家族でお泊り外出が出来ない。時々、「実家で葬式があったらどうする?」という話題が出る。老犬がいるから、一人東京に残りました、なんてのは理解されないだろうな。

犬を家族同様に飼うのに比べたら、アゲハ組は気楽な楽しみ である。途中でいなくなったりすると、気にはなるけれど、悲しみは生じないもの。同様にヤモリやカナヘビ、バッタにカマキリあたりも楽しい庭の住人である。野鳥も悪くない。

老犬が逝ったら、次はきっと退職するまでペットなしだと思う。時には世話が負担になるから。・・・でもペットすら買えないような暮らしってどこか間違っている。



休みの仕事は高くつく
2005年05月21日(土)




今日は休みのはずなのにお仕事で T_T
休日出勤がカウントされるわけでもないしさ・・・。

出掛けにとったアゲハ組の級長。 ショックを受けた人ごめんなさい。見慣れるとかわいいんです w
「うんちが並んでかわいいねえ」というのが夫婦の会話である。
今のところ4匹とも元気。

さて、夕方、仕事を終えて帰りがけに衝動的にスカーフを買ったのがよくなかった。
一度入ってみたいスカーフ専門店があったのだ。
エルメスだ、グッチだという店ではないのだけれど、それだけにいつもウィンドウが魅力的に華やかに飾り付けてある。どうってことのない、でもとっても朱色がきれいな夏のストールを買った。\5250、まあ、そんなもんだろうね。

この頃無口だった私の財布、にわかに口ぽか状態になった。

タワレコに寄った。
ハーンのバッハ無伴奏があれば買おう、と。
あったので買う。ゲルネの『白鳥の歌』もあったので買った。勢いがついて、バレンボイムのリング4部作全曲CDもカゴに入れてしまった。安くはなっていたが、なんちても14枚だからねえ。

それでもまっすぐ帰らず、夏のヴァイオリンの会で着ようと(いう理由をつけて)黒のスカートと白いカットソーを買った。

明らかに買いすぎ T_T




『真珠とり』
2005年05月20日(金)

フェニーチェ歌劇場引越し公演『真珠とり』
中島康晴くん(テノール)がナディールを歌うので、それが聞きたくて、大枚はたいて昨年九月に切符を入手しておりました。

オケがへたくそで、気持ち悪いところがちょいちょいあり、思わず投資金額を反芻したりして・・・びわ湖ホールで聞いた誰かさんの「フェニーチェは古いかもしれないけど、イタリアの普通の歌劇場」という言葉を思い出しました。イタリアの普通がどんなものか、私にはてんでわかりませんが、スカラ座には程遠いです。チケットの価格だけは似たようなもんですが。

今回の公演では中島くんに芳しい評判を聞かないので、あまり期待はしていませんでした。でも、幸い、100点とは言わないまでも、なかなかの力演で広い音域をカバーし、軽い声から重い声までがんばってくれて、満足できました。まだ若いし、乞うご期待。首がもうちょっと長いといいんだけれど、ま、これは我が同胞の共通の悩みかも。

『真珠とり』ってバリトンの演技力が要だなあ、と思いました。劇中、ちったぁ葛藤らしい葛藤があるのはバリトンだけなのです。

ヒロインのレイラなんて、神に仕えるため処女で顔もヴェールに隠したままっていうのに、あっさり彼を恋しがっちゃうし、彼が登場すれば、一応最初だけ「いけません」みたいなことをいうけれど、おためごかしもいいとこ。『ノルマ』のノルマと比較すると、こっちはまるで結婚式場のアルバイト巫女。台本が拙い のです。で、それを一人でカバーしないといけないのが、バリトン。それなのに、今日のバリトン氏は表現力に難あり、いい声だけど声量不足、それにオケがバリバリとかぶさって、あ〜あ。


古義堂文庫展@天理ギャラリー
2005年05月19日(木)

さて、今日は神田錦町の天理ギャラリーで古義堂(伊藤仁斎)の展示を見てきて、思うところ大ありでした。最近は日本史も選択ですし、漢文の授業時間もなかったりするから、伊藤仁斎といっても知らない人のほうが多いのでしょうね。私も深くは知らないのですが、でも、こういう人が一般に忘れられていくのは残念だと思います。うちの息子なんて何にも知りませんから。

地味な展示なので、あんまり一般受けはしないでしょうが、古義堂伝来のものが丸ごとあるわけですから、学者一家の真摯さがひしひしと感じられます。加えて、町内会の会食が派手になってはいかんぞという「町内定」なんかまで保存してあったりするあたり、真面目な市民としての顔もしのばれ、偉い人って実は普通に生活を送れる人なんだよな、と改めて認識した次第です。

しかも、たまたま神田に着くまで車内で読んでいたのが『グローバル・コミュニケーション論』(ナカニシヤ出版)。文明開化以来私たちがありがたがっていた近代化は結局先進国の価値の押し付けで、西欧的なシステムの導入により既存の文化が周辺に追いやられてしまったのだということを、展示を見ながら今更ながらに痛感してしまいました。

私たち自身、ある部分では近代化の被害者でありながら、その意味に何も疑いをもたず、加害者にもなっていること(対アイヌ、対開発途上国)、さらに、今では情報社会で非英語圏の国であるがために、再び被害者においやられていることを自覚できないでいる・・・・・・いやあ、考えさせられます。


シューマイだけじゃないんだ
2005年05月18日(水)

職場の懇親会がシューマイしか作っていないと思っていた店で開かれました。私は当然、シューマイ尽くしか、と半ば失望しながら、出かけたのですが、あにはからんや、どーしてどーして、かなりのレベルのものを出してくれました。

から揚げとか蟹爪とか酢豚とか、そういう定番は一切なく、野菜類が実に美味、サイズはレディスなので、私なんかにはちょうどいいくらい。青硬菜と湯葉の炒めものなんか上々でした。最後に出たアオサのスープもきれいな上湯で満足満足。しかも、その店の稼ぎ頭と思われるシューマイは一切出ず、これにはどこか寂しかったりして。

帰りの電車で眠くて困ったものの、なんとか寝過ごさず、帰宅。

ところで、わがアゲハ組、今朝数えてみたら、大小とりまぜ4匹いた。食糧危機だ。夏みかんの木なり山椒なりに移せればいいのだが、これまでの経験上、どうもそううまくはいかない。自然は厳しい、というか、出来の悪い親の子はかわいそう、というか・・・。


芝崎納豆、新潟ぬれおかき
2005年05月17日(火)

神田明神みやげの芝崎納豆 ― いまどきの納豆には珍しく、強力な糸をひく。大豆そのものも大粒の立派なもので、水戸の天狗納豆などよりは数等よろしい。なにしろ、鉢にいれてかき回すと箸に近年にない抵抗を覚える。

と、そこまではよかったのだが、口に入れて、口元に残るたくましい糸と戦ううちに、したたか唇の裏を噛んだ。(なるほどカンダ明神!)食事を終えるまでに3度も噛み(噛むたびに腫れるから、一層かみやすくなる)、激痛をこらえての食事であった。明日は職場の懇親会だというのに傷は当分直りそうもない。

ここで私がごねて電話でもかけて大騒ぎをすると、パッケージの外側に「口の中を噛むことがあるのでご注意ください」と一言加わるのだろうか。

今日はもう一つ、しょうもない変な食べ物に遭遇した。「新潟ぬれおかき」である。銚子のぬれ煎餅の亜流と思われるが、3cm角で厚みが1cmほどのおかきがぬれ煎餅状態である。なんともいえないchewyな噛み心地で、いうなれば、しょうゆ味のグミ。しかも色合いがなんともいえない。基調はしょうゆ色だが、微妙に緑がかった感じで、昆虫の胴体のような色つやなのだ。ただし、あくまでも甘く、醤油臭いのを許せば、味はそんなに悪くはない。





目には青葉、山ほととぎす、初あげは
2005年05月16日(月)



今期初のアゲハの幼虫
また性懲りもなくアゲハかよ、といわれそうですが、はい、アゲハです。この春アゲハ蝶の姿は見かけたものの、このところの寒さで、幼虫のことなど考えもしませんでした。でも、アゲハ蝶さんたちはしっかり繁殖行動をしていたのですねえ。たいしたもんだ。うちはストーブ入れたりしていたのにな。

でも、問題は木
昨年、しっかり食べつくされた上、冬の寒さで秋に出た若い葉が枯れ、さらに春先の寒さで新芽がぽしゃった。つまり、アゲハ組の食欲を満たせるだけの葉はないのである。食糧危機だ。

しかも、葉がないということは、外敵=鳥に見つかりやすいということだ。山椒も夏みかんも金柑もあるというのに、なぜにもっとも小さい貧相な木に卵を産み付けるのだろう?未熟な親どもめ。

ほととぎすはカッコウとは違うけれど、この際、カッコウでよしとする。そのカッコウの声はまだ聞いていない。大体、ヒメシャラが咲く頃、カッコウが鳴き、まもなく梅雨にはいるというパターンである。だんだん雑木林がなくなるので、今年は聞けるだろうか、と毎年心配になる。カッコウのことまで心配しているから、ほんと、大変。


マーチとダンスばかりコンサート
2005年05月15日(日)

今日は、息子の小学校時代の先生を誘って、読響のマチネーを聴く。先日もらった招待券の有効活用である。大体、マーチ9曲、ダンス5曲なんて、どうしろっていうのよ。自分じゃ絶対こんなチケット買わないけれど、そこそこ面白いコンサートではあった。

キューピー3分クッキングの曲がイェッセル作曲『おもちゃの兵隊の行進曲』というそれなりの曲であることを知って驚く。結構愛らしいので、小学校の音楽会向き。『日テレ スポーツニューステーマ』というのも、黛敏郎作曲で、全部聴くと、へぇ〜であった。小学生が来て聴いたら面白がるのにね、と二人で話す。金管、予想外に立派であった。

ただし、ダンスはどれもこれもダンスらしくない。下野さんの熱のこもった指揮では弾むような軽やかさに難があるのか、それとも、マーチ9曲のあとでは切り替えが難しいのか。

その後は、延々とおしゃべりである。学校現場の情報収集1割で、あとは与太話。息子が3,4年のときの担任である。当時はいささかうざくもあったが、2年たつころには、先生のおかげでこんなになりました的な変化を認めざるを得ず、仲良くなって今に至る。クズ教師も多いが、そんなんばかりじゃないよ、と折を見てボソボソ言っている私。




神田祭 with ライアン
2005年05月14日(土)

例によって家族ばらばらの休日。
夫も息子も夜まで帰らないというので、私もちょいと退屈かも、とライアンを誘って神田祭のパレードを見に行く。人生の75%が東京になってきたが、祭りを見に行くのは初めて。大体、祭りとか花火大会とか嫌いなのだ。

薄ら寒いのにライアンときたら、半ズボンにTシャツ。白人は寒さに強いという俗信を改めて確認する思い。

神田あたりをうろうろして、それぞれの町の神輿の支度や路上で飲み食いして景気づけをやっている人たち、世話役の人たちなど見て、鎌倉町の神輿の出発を神田駅まで見送り、その後、三越前の通りで待つことしばし。神輿の上を中央線が通るのはちょっと絵になった。

テレビで放送するほどの人出はないから、楽といえば楽、寂しいといえば寂しいが、パレードすべて眼の前で見て、ライアンのカメラは休む暇がない(ヨカッタ、ヨカッタ)。ドラゴンがどーとか、こーとかいうから、よく聞いてみたら、お獅子のことであった。

相馬からのお馬さんが沢山出ていた。都心で馬を見ることのありがたみをライアンに説く。「子どものとき親によく乗馬に連れて行かれた」なんて抜かすけれど、オーストラリアの田舎と東京は違うんだよ。フロートなんてのは金さえあれば出来るけれど、馬はそうはいかんのよ。

神田明神では、二礼二拍のお参りを教えて、参拝の列に並んだら、donationは?と小声で聞く。「財布の小銭があれば投げときなさい」である。案外こういうことって現地人がいないと、やりにくいことなんだよね。ライアンくん、1円玉を数個放り投げていた。

来日して伝統文化に触れるのは初めてだと喜んでくれて、やれやれ。GWにどこへ行ったのかと聞いたら、富士急ハイランドだの横浜中華街だの、どこやらのアウトレットだのと、まったく何とかならんのかね、ボランティアの学生さんよ。

結局、留学1年の予定は早々に変更して8月までにしたという。いろいろ思惑違いがあったみたい。英語の先生になりたいから、秋からはイギリスへ行くんだそうだ。日本語はマスターしそうにもないけれど、ライアンとシェークスピアの話やなんかすると面白い。今度日本語訳の『マクベス』でもプレゼントしてやろう。

さて、英語で半日しゃべっていると、目つきが悪くなるような気がする。なんつうか、「かかってきなさい」みたいな目になっちゃうんだな。


『失踪日記』
2005年05月13日(金)

待ち合わせの時間まで、吾妻ひでお『失踪日記』を立ち読みする。
マンガである。

今売れに売れている作品らしいけれど、それほどの内容があるとは思えない。単に変わった体験をした人の告白に過ぎないのではないか。

マンガファンから見れば、一流雑誌に連載を持つようなマンガ家の先生が失踪し、その間ホームレスになり、自殺未遂やアル中を経験していた、というだけで十分興味をひかれるのだろう。でも、それが無名の人だったら、ホームレス経験などをたらたら書いただけのマンガが売れるものだろうか?

マンガファンの批評を見ると、「面白い」という賛辞が主流で、なにがどう面白いのかは言及されない。「よくそこまで描いた」というものもあるが、なにが「そこまで」なのかは印象に止まるままだ。しかし、「よくそこまで」抉りだす作品など、小説世界では全然珍しくないし、むしろそれが当然だったりもする。まんがでは通常「そこまで」描けないとするなら、それがなぜかを問い直すべきではないのか。(ただし、ソレが必要だとしてだが。)

いしかわじゅんのHPにも『失踪日記』についてかなりの分量で記述があったが、私にはどうしても作者を個人的に知っているゆえの入れ込み、あるいは、実際の苦悩を見ているがために作品に表れていること以上の情報までを読み込んで評価しているような気がした。私のような行きずりの一般読者にはなかなかあの画面から絶望だの何だのとは読み取れない。

テキスト論者のように作品と作者を完全に引き離せとまでは思わないものの、作者の私生活に依存して成立する作品というものは不完全なのではあるまいか。

絵とテキストの交感による表現媒体ということで、私は内心マンガに期待するものがある。娯楽用読み捨て以上のものに飛躍できるのではないか、と。でも、なかなか現実は厳しいみたいね。描いている人にそれほどの野心はないんだろうな、きっと。



『その名にちなんで』
2005年05月12日(木)

『その名にちなんで』 ジュンパ・ラヒリ

これがラヒリの第2作・・・見事なものである。『停電の夜に』は短編集だったが、こちらは長編。

ロシアの文豪ゴーゴリにちなんで、そう名づけられたアメリカ生まれのインド人青年の歩みを中心に据えつつ、カルカッタからアメリカに移住した家族の歴史を語る物語。

ベンガルの文化を背景に生きる両親、それに反発して模索する第2世代の主人公たち。その対立の構図があからさまに語られるのではなく、家庭内ではこんなふうに妥協しているのだろうなあ、と親にも子にも同情したり、共感したりしながら、非常に現実的に読める。誰しも妥協はするが、内心の葛藤をなくすることはできない。読了したときには、ゴーゴリの生だけでなく、両親の生にも胸が熱くなった。

家族とは何か、自分が背負わされている文化は自分をどう縛るのか、人と人との結びつきにどう影響するか、本当にリラックスして受け入れられるものは何なのだろうか、自分はどうやって自分になるのか、といったようなことを、理屈とは離れたところで考えさせられる。

題名の通り、ゴーゴリという名前が彼にもたらすものは非常に大きい。いろいろな出来事がその名に凝縮されているし、そこから拡散してもいく。さまざまなエピソードが決して無駄にされずに、後で生かされている。その丁寧さに感心した。

新潮社
★★★



ほめられたくはないのよ
2005年05月11日(水)

最近、ひたすら上司の思うツボにはまってきたような気がする。
期待されることをやっちゃうっていうのは何なんだ?
しかも、それを彼の期待以上にやったりして、・・・
ほめられたくはないのよ
ほめられたところで、彼はあと2年もすればいなくなるし、
ほめられなかったところで、
私が首になることはないのだから。

私のしたいことをしなくてはいけないのに。

今日ももらっちまったコンサート・チケット。
彼は何たらの理事だの、委員だのというポストをいくつも持っているから、老いた身体はたった一個だけなのに、招待券は何枚も来るのである。

そのチケットで私はまた委託された仕事の情報収集をしようとしている。
「じゃあ、これで××××を誘って話を聞いてみます」なんてね。

私の嫌いな女性のタイプに、
上司にほめられたくて仕事をする女、というのがある。
出来る男は上司を追い越そうという気持ちをどこかに持って仕事をする。
でも女は殆どの場合、いつまでも<ほめられたい>。
そーいうの嫌いなのさ。

だのに、何だよ、この体たらく。
ナサケネエ。

そういえば、高倉健の初めての著書は『あなたに褒められたくて』だった。
足の裏のアカギレと絆創膏の話かなんか出ていたような。
唐獅子牡丹の頃にそうだったとか。
健さん、大根役者であることも含めて、どこか気になる人だったので、私はこの本、初版初刷で持ってます。健さんが好きだったかって?
気になるのに、好きになれないまま今に至る。
やっぱり大根すぎたのよ。
ほめられたい、なんてねぇ・・・サイテー。


ヒラリー・ハーン リサイタル
2005年05月10日(火)

ハーン、素晴らしかったです。
当然のことながら、CDで聞くより、はるかに瑞々しくすずやかな音色。若葉をそよがせながら木立を吹き抜ける初夏の風のようです。私はヴェンゲーロフやカヴァコスも贔屓にしていますし、それぞれ個性のある音色なのでとても比べられませんけど、ハーンはそういった技巧派男性陣に全く負けません。非常に魅力的な音でした。

先日、庄司紗矢香ちゃんを聞いたときに、そのケレン味にちょこっとがっかりしたものですが(なんちても、「庄司屋!」と声をかけたくなるようなモーションがありましたからね)、ハーンを聞いて、「そうだよ、こうじゃなくっちゃ!」であります。私たちは音を聞きに来ているのであって、演技を見に来ているのではないのです。(紗矢香ちゃんは音だけで素晴らしいので演技は余計。天○さんあたりは演技でカバーしたくなるのもわかるよ。)

モーツァルトのソナタ2曲、バッハの無伴奏ソナタ3番、フォーレのソナタという曲目。無伴奏、すごく感動的でした。ああ、こういう無伴奏もあるんだ、って。単に流麗というにはとどまらない演奏でした。力とこれみよがしの技巧に頼らなくても十分新しい地平が開けるといったらいいでしょうか。いえばいうほど、こういうものは実際と遠ざかってしまいますが。

残念だったのは、席。遅く買ったから後ろはしょうがないとしても、隣のオヤジ。頭にまで脂がまわった3段腹ならぬ3後頭部(大嫌い!)、その頭で居眠りされるから、視界が妨げられることこの上なし。腹も出てるし、横にもはみ出すは、いびきもかくは、もう殺意を覚えちゃいました。お前のおかげでフォーレの魅力は半減だい!!!


白髪コロニー
2005年05月09日(月)

朝、白髪の一大コロニーを発見した。
先週、行きつけの店でカットをしたときには
まだ染めなくていいよね、と確認したのに、
ここ数日でごっそり促成栽培されたような感じ。
母の日だから、悩みの種である母のことに思いをめぐらせたからだろうか。
マジ、そうかもしれない、と思う。

仕事を終えてから、いつもの店までは行けなかったので
近場の店でカラリングだけ頼む。
ここで白髪染め、といえないところが、未熟の証。

息子の行きつけである。
スタッフは若い子ばかり。
しかもひょろりとして、
存在感の薄そうな子ばかり。
霊界美容室といいたくなる。

私の好みは重厚長大だ〜っ!

人件費を抑えていることミエミエなのに、
値段はいっちょまえ。
シャンプー姉さんには気の毒だとは思ったが、
私が我慢することでもないので、
頭皮のマッサージだけはご勘弁願った。
頭は一応商売道具だぜぃ。
下手にぐりぐりされると具合悪くなりそう。
あれってサービスだと思ってんのかね?

洗っている最中も
湯加減はどーか、力の入れ具合はどーか、
やれ失礼するの、したの、とうるさいことこの上ない。
用があればこちらからいうから、とりあえず耳に水いれないでよね。

ブロー兄ちゃんはしっかりオバサン頭にブローしてくれた。
いにしえの「九重ゆみこ」みたい。(ゆみこの字忘れた。)
コメットさんじゃないってば。

バカ息子がよくこんな店に毎度毎度来ているものだ、と呆れた。
バカだからしゃーないか。
それでも色だけはどうっていうことない色に染まり、
白髪コロニーが隠れたので、まあ、よしとする。
¥6060は高い。


METライブを聞く
2005年05月08日(日)

ネットで知り合った方が―知り合った、といっても、どんな方かすれ違ってもわかりませんけど―METのライブを日本で聞く方法を伝授してくださった。今『皇帝ティトーの慈悲』を聞いている。昨日のライブ放送をダウンロードしたのである。もうもう、信じられない大感激

ダウンロードの方法をあと1日早く知っていれば、パーペとホロストフスキーに加え、イソコスキの歌う『ファウスト』もPCに入れられたのに、ちと残念。聞くには聞いたのだけれど、昨日はまだダウンロードの方法を知らなくて・・・。

このことを2週間早く知っていれば、ゲルネの歌う『魔笛』もあったのに・・・と贅沢にはきりがない。そろそろMETのシーズン自体終わるから、来週はもうないんじゃないかとそれも心配。それに、このライブ放送そのものも実は危機に瀕しているそうで、来シーズンはどうなるのだろう?これまで、どうせダメだと諦めていたことに手が届くと、かえって気になることがふえるようだ。Save The Met Broadcast のキャンペーンに10ドルくらい寄付してみようか。

それにしても、プラハ初演のモーツァルトのオペラをニューヨークで演奏して、東欧の局が放送して、日本人が東京でダウンロードして聞くのって、何だかともかくすごい。解説の部分になると途端に聞いたこともない言葉になるんですわ。異国情緒満点♪


『歴史のなかの皇女たち』
2005年05月07日(土)

『歴史のなかの皇女たち』 服藤早苗ほか

ここ数年、女帝論議が盛んだけれど、私たちは女帝について何を知っているのか。また、近々地方公務員の妻となる内親王がいるが、皇室の娘に生まれるということについて、何を知っているのか。

女帝そのものを扱った本は何冊もあるが、「皇女」という括りで、通史的に概観した本はこれが嚆矢ではないかと思う。一般読者のための本で、専門的にならないように配慮してあるが、内容は決しておざなりなものではない。だいたい、おざなりな知識では皇女の本など書けない。上代から近世まで、各時代を専門とする女性の歴史学者が執筆している。 有名なのは『平安朝の母と子』の服藤さんだろうが、他の人も啓蒙的な著作が少ないだけで、実力者揃いと見た。

いやはや、皇女に生まれるというのは大変なことだったんだ、命がけだぜ、というのが、感想の第一。皇女のあり方を通して天皇の政治的位相がわかるなあ、というのが第二。そして、時代時代の皇室がらみの常識が手っ取り早くわかって、何という便利なありがたい本かというのが第三。

挿絵写真たくさん、こんな語にまでというほどの豊富なルビ、脚注大サービス、というところを見ると、素人向けか、と思いがちだが、どうして、どうして、女帝に限らず皇室の女性を考える時に、まず最初に手にとるべき本だろう。いい加減な記述で素人を面白がらせて終わり、というような仕立てではない。これで常識的知識を得てから、この先に何を読むべきかは、本書の引用書目に注意して、最後の参考文献を見ればよろしい。それに、付録の系図や諸一覧表!便利なことこの上なし!

古典文学に関心のある人は読んで損することはありません。現皇太子後の女帝問題で発言したい人は必読文献。

(小学館)
★★★



菖蒲湯
2005年05月06日(金)

はい、一日遅れです。
お風呂よりシャワーが好きなので、昨日はシャワーで済ませました。でも、今日はこの寒さ、暖房まで入れて(5月に!)お風呂。友達にもらった揉み出し式菖蒲湯のパックをぽっちゃん。

風情がない?

どーんと菖蒲を入れる、池につかるみたいなお湯はなんか不潔っぽくて・・・。(東京で売っている菖蒲はほんのお印程度だけれど、私の実家ではどーんと一束いれたものですからね。)

カップめんに入っているネギのように、菖蒲が細かくされて、乾燥されてパックに入っているのですよ、で、そこそこ匂う。(香る?私にはこれは匂う。)製造元は広島、販売は群馬の会社。(どういうルート?)

重曹に蛍光色をつけて、「××の湯」なんて名づけるものよりはるかによろしい。便利なものが出来ました。

GWがあけて、今日から仕事。行った途端になんかブルーな気分になったのですが(おまけに冷たい雨)、このパック揉み出し菖蒲湯で少しリラックスしたかも・・・菖蒲の薬効か、ひ○○ちゃんの暖かさか。




『性と文化の源氏物語』
2005年05月05日(木)

『性と文化の源氏物語』 河添房江

「源氏物語」の研究書?にあれこれいうなど、神をも恐れぬ不遜な行為だと自分でも思うけれども、まあ、神といっても、リングのヴォータンみたいなのもいるから勘弁してもらうことにする。

著者はそろそろ中堅を卒業し、大家への道を歩み始めた源氏学者である。ポスト・フェミニズムとしてのジェンダー批評を初めとする最新の批評理論を用いて『源氏物語』を捌いていく。そのような包丁で切りとった形は美しくもあり、珍しくもある。

でも、切り紙細工ってお土産にもらっても使い場がないんだよね。栞にするか、額に入れるか、はて・・・。

『蜻蛉日記』から『源氏物語』へと進んでいく部分の分析がもっとも面白うござんした(第1章「王朝女性作家誕生の起源」)。でも、著者が読ませたかったのはそこではなくて、第2章「性・歴史・文化」、第3章「身体へのまなざし」なのだろう。面白いことは面白いが、それと同時に、公式をうまく変形して応用問題を解く小器用さを感じないではいられない。

そういう切り方の必要性、あるいは、それによってのみ明らかにされるものの提示という点で不満が残る。ただし、著者が本書をゴールとするはずもなかろうから、この先に期待をつなぎたい。


(筑摩書房)




上方舞の会
2005年05月04日(水)

国立劇場に向かう電車の中で「いいよ、行っても」と安請け合いしたことが後悔された。大体、私は上方舞どころか日本舞踊なんて何もわからない。歌舞伎に行っても、踊りのところは大抵寝てしまう。で、踊りだけを見る?

でも、行ってみたら、行っただけのことはあった。
大変ゴージャスな会で 一門の先生方と名取のみなさんがご出演。見るに耐えない旦那芸(奥様芸)はナシ・・・ほっとしましたぜ。

観客を目の前にして、国立劇場の広い舞台にたった一人立つ、というだけでも、相当大したことだろうが、そこで舞うというのは、なかなかできることではない。大体、素人がやると「あの人、なにやってんの?」という滑稽さやら哀れさが付き物。だから、ご出演の皆さんがなかなかの舞踊家であることは私にも十分理解可能であった。

でも、やっぱり空間の緊張感を維持できる人と、どこかに隙間が出来てしまう人はいるんだよね。前者を「上手」、後者を「下手」と呼んでいいんだろうと思う。ただし、どこでその差が出来るのかは全く私にはわからない。

歌舞伎役者がいかに美しいかもよくわかった。やっぱり連中は特別だ。

伴奏はすべてライブ。実は舞よりもこちらに心惹かれた。伴奏音楽の違いがよくわかった。

一中節の女の人に1人、素晴らしい美声がいて聞きほれた。なんであれ、声楽系は嫌いじゃないが、ほぉ、と感じたのは今日が初めて。これから心して一中節を聞こう。大体、義太夫以外はみんな一緒に聞こえてしまうのだ。今日はいろいろ登場していたので、多少耳がよくなったかも。

友人のおかげでとても勉強になった。持つべきものはお友達。で、彼女は私の目が舞台中央じゃなくて、いつも舞台右端を見ていたことに気付いただろうか??実は舞のほうには夢中になるってわけにはいかなかったんだよね。


お墓
2005年05月03日(火)

夫の父の墓参に高尾の霊園へ行く。
山を切り開いて出来た霊園だから、もう30年以上たっているというのに、山の芋の蔓が出てくるし、お墓が古びてきた分、雑草も山の草そのもの。

私はお墓参りはあんまり苦痛ではない。子どものとき、祖父母によく連れて行かれたから、自分の中の文化になっている。逆にお盆だ、お彼岸だ、とそのときだけの形骸的な墓参は嫌い。でも、家族でお墓掃除をして、お参りをするのは悪くない。

お墓というものは共有名義での相続が出来ないものだそうで、となると、うちはうちのお墓を用意することになるのだろう。

私はお墓が欲しいか?自分も死んだらお墓に入りたいか?というと、今のところは死んだあとには何も残らないほうがいいなと思っている。手続きが簡単なら散骨で結構、ロッカー墓でも買うほうが楽なら、それで結構。あかの他人と一緒の慰霊碑でもまったく構わない。

骨の置き場としてお墓がいるんでしょう?

骨がなければいらないよね。

お墓があるから祖父母のことを忘れないわけではない。お墓がなくても祖父母の存在は私の中でまったく変わらない。お墓の中にいるなんて考えたこともない。そして、お墓があることで、会ったこともない夫や息子に、祖父母がどんなだったかが伝わるということもない。

夫の父の墓参が面倒と思うことはないのだが、自分のお墓があることで、誰か(たぶん息子)が管理を気にしたりするのは好みじゃない。死んでまで人の世話になるような生を生きてはいないって。

今のところは、死んだら何にもなしで消えますよ、というのがむしろ理想なんだけど、お迎えが現実的になるとまた変わるかしらね。


HDD→DVD=辛気臭い
2005年05月02日(月)

ゴールデン・ウィークだからと、一念発起して、ただただダラ〜ッとHDD録画してある「ニュルンベルクのマイスタージンガー」をDVD-Rに落とすための作業をする。お正月にもする気にならなかった仕事だから、これでゴールデンウィークに○○をした、といえる。1枚には到底収まらないので、どこで切るかを、CDのトラックなんぞ参考にしながら、まあ、辛気臭いことったら・・・こういう仕事大嫌い。

大体、何に限らず、数字が関わる仕事は嫌いだ。特に時間の計算は、下は秒から上は元号まで苦手。繰り上がりが難しい。間違えそうでドキドキする。脳みそのどこかに傷があるのだろう。

それでもなんとか、午後一杯かかって、DVD-R3枚に割り振った。あとはせっせと落とすだけ。1999年のバイロイトの公演である。

アンドレアス・シュミットのベックメッサーがなかなかよろしい。このオペラのドラマ性がようやくわかったような気分。あとペーター・ザイフェルトのヴァルター(騎士)も上等。いかにもドイツの歌唱ってところがいいなあ。最近、ちょくちょくドミンゴの歌うワーグナーを見るし、実は手持ちのCDでヴァルターを歌っているのもドミンゴなんだけど、どこか決定的に違うのです。

秋にザイフェルトを聞くチャンスがありそうなので、楽しみ♪ホル(ハンス・ザックス)もリートのコンサートをするらしいが、これはどうすっかな?



『オペラと歌舞伎』
2005年05月01日(日)

『オペラと歌舞伎』 永竹由幸

オペラファンは著者の名前をオペラのプログラムや字幕の翻訳で目にしたことがあるはずです。オペラと歌舞伎をこよなく愛する著者がその類似点をとりあげ、熱い思いを語ります。愛ばかり先行して学識を欠く、という人ではありませんから、オペラと歌舞伎を巧みに引き合わせつつ、大衆が文化を育てる有様を語ってくれます。洋の東西でこんなふうに対応しているのだということを確認すれば、日本人オペラファンとして自信を持って劇場に出かけられます。

牽強付会じゃないの、と思うところもなくはありませんが、そこはそれ、この本はオペラや歌舞伎を比較文化論的に研究するために読むものではなく、歌舞伎も面白い、オペラも好き、という人が「なんでだろ?」という疑問を晴らすために読むものです。文化を育てる大衆であること、って素敵じゃありません?そして、ヲタともいうべき永竹大人と熱い思いを共有いたしましょう。

片方しか見たことがないや、という人は、是非この次は、見たことのないほうへいき、その類似を体験してください。私自身は『フィガロの結婚』を見たとき、「これってそのまんま歌舞伎じゃない!」と驚いたものです。

この本は、オペラ(歌舞伎)を持っていた国=イタリア、ドイツ・日本はその文化的卓越のために、鬼畜米英に叩かれた、というとてつもない始まりかたをするのです。目くじら立てないで、演出を受け入れて楽しく読みましょうね。

初版が出たのは10年以上前ですが、久しく品切れ状態でした。昨年秋に3刷が出て、めでたし、めでたし。・・・でもさあ、岐阜県原市各務村はないと思うよ(p.33)。

(丸善ライブラリー)




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