まみいの日記
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2003年01月31日(金) ちょっと嬉しかった昨日

うれしいことに 昨日の父は昼間自力で呼吸していた。
医師の指示で これから段段に時間を増やしていって 呼吸器を取り外していきたいとのこと。

面会に行っても 眠らされてばかりいる父の顔であったが きのうは 良く分かっている様子にほっとした。
しかし父が何か言いたそうにしている事が わたし達にはわからない。
さんざんああでもないこうでもないと言い合っていたが そのうち父が疲れてしまったようでそっぽを向いてしまった。

文字にして・・と思っても 小さな手帳しかないので 老眼の父にはよめないらしい〜
今度来る時には 何か分かり合えるように考えておくね。
分かってあげられなくてごめんね。 といったら 父は天井に向けて指で文字をなぞり始めた。
母には分からなかったようだが それは私の名前だった。
父は私のことを気遣ってくれたのだ。
やっぱりいつまでたっても私は父にとっては 心配な子供であるらしい。


2003年01月30日(木) 本屋

きょう 本当に久しぶりに本屋に寄った。
ひどい時は毎日通っていた事もあって 私にとっての情報収集の場でもあったのだが 最近はPCでなんでも調べる事が出来 また忙しいのも重なって 足が遠のきつつあった。

買い物ついでにふらりと寄ったのだが 新刊も多数出ていて ちょっと置いてきぼりを食ったようで あっちの棚こっちの棚とさ迷い歩いた。

そして 私が手にしたのは 星野富広さんの画集。
まえから カレンダーになってるのを購入したりして気にはなっていたが きちんと彼の話を読む機会がなく それでもあらましだけは人から聞いて知っていた。
良い機会だとばかりに 手にとってぱらぱらめくるうちその本を棚に戻せなくなっていた。

口を使って描いたという花の絵は 思わず私に絵を描いてみたいと思わせる何かを持っていて 次から次と目に飛び込んでくる。
彼はあんな事故にあわなければ この絵を描かなかったかもしれない と思うと 何か運命の怖さ すさまじさ 残酷さまでをもかんじる。

そうして買ってきてしまった本だが 父の病院へ行ったり 家事 仕事の整理に追われてまだ開いていない。
こんな時間になって読み出したら 朝までずーと読みつづけることになるだろうと いまだ開けずにいる。


2003年01月27日(月) 終了式

25日の土曜日は 介護講習の修了式があった。
みな 一ヶ月ぶりで会ったので 積もる話に花が咲いて大騒ぎ。
もうすでに 病院 特養 訪問介護 etc で働いてる人もいて 現場の声を興味津々で聞き入っていた。

なんでも 勉強しているうちは理想論に走り勝ちである。
実際に働き始めると いろいろな壁にあたって思い悩み始める。
大半は 人間関係のようだ。
介護の仕方を巡って 時間にも追われ 何よりもお年寄りをお世話するという緊張感に ぴりぴりした雰囲気になってるのが精神的につかれるという。

人が人をお世話するという事は 技術も勿論だがそこに優しさがあるとないとでは大きな違いだ。
「その人の身になって・・・」とよく教えていただいた そのことをいつも忘れないようにしていきたい。

かくいう私も父の事が頭いっぱいで 母の事を忘れていたわけではないが 支えとしては充分とはいえなかったこれまでである。
いいタイミングで みなの話しが聞けてよかったと思う。
「言うは易く 行い難し」にならないように・・。


2003年01月24日(金) ラッパ水仙

黄色のばらについで 黄色のラッパ水仙をいただいた。
黄色の色は 元気になる色なのか?
玄関に並べて飾っていると 通るたびに元気になるような気がする。

私の 父の喉を切らせたくないとの思い込みが大きかった為 かなわなかった時の落ち込みも大きく その気持ちを書いた日記を読んでくださった方には 本当にご心配をおかけしてしまったようで 申し訳ない思いでいっぱいだ。

私ときたら これから長くなると思われる入院の期間を思い 誰よりも一番辛い毎日を送っていた母を きちんと支えていくことが私の仕事とやっと思い当たった次第である。
今までは 父の事ばかり考えていた愚かな長女だ。

さあ 気持ちの整理もついたことだし 私も母に負けずに頑張ろう〜


2003年01月23日(木) 一転

きょうは父と話せると 意気揚揚訪れた病院だったが 父はこれまでと変わりなく 眠っている。
昨日がまるで 夢の中の出来事のようだ。
私の知らせを受けて 弟も急遽駆けつけてくれて 三人で顔を見合わせるばかり〜

そこへ 医師があらわれて もの問いたげな様子の三人に言いにくそうにきりだした。
「悪いお知らせなんですが 自力での呼吸が充分でなく 呼吸器を止められない。 これはリミットが来てはずさなくてはならないので 喉から入れるものに 切り替えたいのですが・・・。」

私が 恐れていた展開がやってきてしまった。
医師はつなげて 喉からといっても 声帯を傷つける事はないし 返って今のままいるほうが声が出にくくなる。
お父さんの場合はもう少しの辛抱なので 長く入れたままにする事はない。
呼吸器の濃度を下げていって 大丈夫となったらすぐにはずしますから・・・。

なんとも返事の出来ない私に代わって 弟がそれ以外にもう手段はないのか?
又今までどおり寝たままになるのか? etc 医師に確認してくれた。
やはり 肺炎の治りが悪く 焦ってことを仕損じるよりは 父に負担がかからないようにゆっくり診ていきたい との言葉に 三人返す言葉も無く治療はすべて医師にゆだね 承諾書に署名した。
明日には 喉からのものに切り替えると言う。

昨日のことはぬか喜びだったと自らを諌めるべきか。 母もあんなによろこんでいたのに・・・。
つかのまではあったが 父とアイコンタクトが出来てよかったね・・と母には告げた。


2003年01月22日(水) 昨日の薔薇に・・

さっき 病院から帰ってきた。
父は明らかに 私と母の顔を見て 喜んだ。
意識を戻して 自力呼吸を完全にして 呼吸器をはずそうと 朝から試みているのだが 今ひとつ父の呼吸が充分に戻っていない為 まだはずせていない。
でも たぶん明日には はずせているだろう。
それから 心不全の方の検査・治療にかかるので
まだまだ先は長いが 一筋の光明が差し込んできたようで〜〜

「おとうさん  わかる?」
頷いた父の手は 意外に力強く 私の手を握り返してきた。


2003年01月21日(火) 黄色の薔薇

きょう 仕事でお伺いしたお宅のおばあちゃまから 黄色もあざやかなばらをいただいた。
玄関においてあるバケツに これでもかといわんばかりに たくさんのばらがさしてありおもわず 「どうなさったんですか?」
と聞いたのが 発端だ。

おばあちゃまが80歳になられたお祝いにと 姪御さんが 80本のばらを それもおばあちゃまが好きだという黄色のばらを 花束にしてもってきてくれたという。
なんとも 素敵な話に 微笑んでいたら
「たくさんありすぎて 飾るところに困っていたのよ。 よかったら 持って行って〜」と
おすそ分けしていただいたものだ。

良い香りをさせながら 自転車を走らせていたら ばったりと3年ぶりになる友達に会った。
どちらも 日々の暮らしに追われて メールで話すだけになっていた友だ。
久しぶりなので 暖かな陽だまりで 近況報告をしあい ちょっと長話〜
近々に 他の仲間も誘ってランチでも・・と別れた。

うきうきと家に帰って いただいたばらを玄関に飾る。
おお! これはもしかして しあわせのおすそわけをしていただいたのかも・・・。


2003年01月20日(月) 立ち木

最近は上を向いて歩いていなかったようだ。
今日はあいにくの冷たい雨の降る日曜日となってしまったが その前は 日中暖かく感じる日々だった。

そんな暖かい昼時を狙ってのこたろうとの散歩も まだ散歩に慣れていないこたろうを気にして つい足元ばかりを見て歩いていた。

立ち寄った公園で 葉をすべて落としながら
すっくと立っている木を見つけた。
私の視線は 木の先端〜まぶしい青空へ・・。

こんな時には深呼吸をしたくなる!
深く吸う為には まず胸の中を空っぽにするべく吐き出す事が先だ。(知ってた??)
2回ほど深呼吸を繰り返していると 胸の中が
全取替えされたようで 妙にすっきりと軽くなった。

「さあ こた! おうちに帰ろう!!」 


2003年01月19日(日) 一喜一憂

きょうは土曜日で 2時間かけてやってきた弟一家と面会に行く。

前回 医師から「併発していた肺炎の治りが悪い」といわれただけに 人工呼吸器を入れているタイムリミットが気になる。
その時までに好転して 自力での呼吸に戻るようになっていないと 喉から直接の呼吸器に切り替えるかもしれないとのことだった。

もう11日も眠りつづけている父と いつになったら話すことができるのだろうか?
喉からの呼吸器になってしまったら それこそ話せない状態がもっと続く事になる。

勿論 病気からの回復が一番大切だと分かっているつもりだが 一刻も早く ひとつでも回復への階段をのぼって欲しい そしてその証を見たいと願うのは そばにいながら 何も出来ずに見守るしかない者の切なる願いだ。

手先足先がむくんでいるものの 顔つきは平安さがうかがえ 機械の手助けを受けての呼吸は 規則正しく胸を上下させる。
それは たくさんの管につながれたままの姿であっても 不意に目を開けてもおかしくない自然な寝顔だった。

はたして医師から やっと肺炎が治ってきた事
もしかしたら来週はじめでも呼吸器がはずせるかもしれない事を知らされて 一同安堵のため息をつく。
でもまだ 手放しで喜ぶのは早いことをここ数日で悟った私達は「喜ぶのはまず本当に呼吸器がとれてから・・」と お互いをけん制しあいながらも 来週のはじめ・を心待ちにしている。


2003年01月16日(木) 父の横で

父は肺炎も併発していたとのことで 一時は快方に向かったと喜んでいたものの 又はじめに戻ったようで ちょっとがっくり。
しかし 心不全の方ははじめの頃に思ったよりは悪くない状態だったと医師にいわれて そのことを喜ぼうと思う。

父の横でその寝顔を見てると 父が若かった頃を思い出す。
当然私も若い・・まだ 子供の頃だ。
「を」の書き方を教わって 「ち」ではなくすこしななめにするんだよと いわれたとおりに 黒板に書いて先生にほめられたこと。
思えば 泳ぎも(息継ぎはできないままだが)自転車も 逆上がりも皆父に教わった。

いつのころから 私は父に対して生意気な口をきくようになったのか。
今なら素直な気持ちで話せる気がするが きっと父が目覚めてほっと安心したら ついついいらない口出し 手出しをして あげくが小言まで言い出しかねない私だ。

しばらくは この父の横で 素直な子供に戻っていよう


2003年01月14日(火) 次女の成人式

1/13は次女の成人式だった。
朝4・00に起きて支度して 写真も撮りに行き 7:00には もう準備万端整って 式に向かうばかりとなった。
太陽は昇ったものの 雲が取れず 襟足のあたりが寒そうである。
成人式の開場は10:30からということで 朝早かったこともあって晴れ着のままで 窮屈そうな姿勢でうつらうつらはじめた。

日ごろは活発な子で 身なりも男の子と間違えんばかりの・・・いえ かえって最近の男の子の方が 華やかな色を身につけている。
おそらく着崩れしないようにと心配して寝ているさまは 親の私が見ても はっとするほど 年頃の娘そのもので きゃしゃな体に ダークな色をまとって学校に通っているいつもの姿を想像する事が難しい程の変わりようだ。

お祝いに駆けつけてくれた母も交えて 「おじいちゃんも見たがっていたのに・・・」という言葉は 聞こえなかったふりをして デジカメにかわるがわる収まる。
写真館で撮ったものが出来上がる頃には 父も退院できるであろうことを願いながらも あえて口にはださず ようやく晴れてきた空を見上げる。

晴れ着姿には嬉しいお天気になって 一日限りの淑女はお出かけしていった。


2003年01月13日(月) まだまだ 気は抜けないけれど・・

今日 面会に行った折 医師からかなり良い具合に持ち直してきたとの説明を受けて 母・弟共々 ほっと一息ついた。
特に今日はじめて病院に来た弟は 道中心配だったようすで この説明でやっと眉間のしわが消えた。
医師もいままで厳しい顔でいたのが 今日は時折笑顔でいてくれて 父の様子が本当に安心なものになった事がうかがえた。

面会にくるたびに 医師にも看護士にも 信頼する気持ちが増してくる対応で 母も気持ちが落ち着いてきたのが良く分かる。
不幸中の幸いともいえる この病院への入院であった。
今日は 久しぶりにぐっすりねむれそう〜〜


2003年01月12日(日) 鏡開き

1/11は 鏡開きの日で お供え餅を降ろして御汁粉にして食べるのが恒例になっている。
そして 私の母の誕生日でもあるので あわせてお祝いのつもりで 夕食を一緒にする。

時間が取れるときは 母も私も好きな映画を見て リラックスした時間を過ごす。
帰りは寒さが身にしみるが それでも心は弾む。
いつまでも私はこの人の娘なんだなと思う。

それが今年の今日は 母は一人だ。
出先から戻った私が 夕食に誘っても 
「今日は風邪気味だから遠慮するわ」と 電話の向こうでいう。
たぶん生まれてはじめての 一人だけの誕生日だろう。

夜は思いを深くする。
いらない考え事の堂々めぐり。

明日は弟がやってきて 父の面会に3人で行く予定になっている。
この4人だけで会うのは本当に久しぶりの事 
もしかして私の結婚いらいのことだ。
母も少しは元気になるだろうか?


来年の今日は元気な父と迎えて欲しいと 願うばかり・・・。


2003年01月11日(土) あれから〜

私も年明けから あっという間の事で ただびっくりしているうちに
1Wが過ぎました。
今は 父はICUに入って肺に貯まった体液を抜く治療に専念しています。
肺の水がなくならなければ 検査も出来ないとのことで すべて医師に任せて
私達はただ見守るだけです。
病名は心不全という事ですがその症状を見ると 父が関連無く言ってたと思っていた事がすべて当てはまり恐ろしいくらいです。
「腰が痛い」 「胃が痛む」(本当は胃の裏側の肝臓でした) 「足が腫れてきた」・・・・。
もっと父母の事を注意していればと悔やむばかりです。

HP メールで励ましてくださった皆様 ありがとう。


2003年01月08日(水) 父の入院

昨日の日記に書いたばかりで みなさんから 温かい言葉を貰って さあ 新しい気持ちで父も母も私も頑張っていこうと思った日の夜に 急に胸の苦しみを訴えて 父は緊急入院しました。

心臓が弱っているらしく なにぶん夜の11:30過ぎの事 今日これから医師の診断を受けて 詳しい結果を母と聞きに行ってきます。

私にしてみれば 母と二人でいられるよりは 病院に入っていてくれた方が安心という事もあって 思いは複雑ですが ちょっとホッとしている気持ちもあります。

何よりこれで父も自分の病気と 心置きなくたたかってくれるだろうことを祈って〜〜


2003年01月07日(火) 父のSOS

日ごろ良く歩き 老いは足からやってくると 鍛錬を欠かさずにいて 私もうちの父母は年齢の割に丈夫だなと思っていたが やはりそれ相応のダメージがでてくるころらしい。

母がこの年明けから 私もひいた風邪を引き込んで 3日ばかり寝付いた。
と思っていたら きょう仕事から帰ったばかりの私にTELでSOSが入った。
それはあの丈夫であったと思っていた父からで 私も健康に関しては 日ごろ弱気な事を言っている母のほうが心配であり 父から電話をもらうなど予期していなかった。

どうも足が腫れて散歩も思うように出来ないらしい。
歩いていると腰まで痛み出して だんだん自分に自信がなくなってきたようだ。
おりしも 旅行に誘ってくださる方がいて お断りをするのも忍びなく・・・という内容であった。

取り急ぎ 近くの整形外科に予約をいれて 父を迎えに行く。
私にはいつも強気の発言をしていた父であったが それは私に心配をかけまいとしてであって 私には言わないでいた故障があちこちにあったらしい。
今回待合室で それとなく聞き出すと 観念したのか 心臓が弱くニトロを貰っている事など洗いざらいしゃべってくれた。

今通っている内科医とはあまりコミュニケーションが良くないらしく 聞いても返事が返ってこないとか 不満があるらしい。
「私の行きつけの先生が親身になって相談に乗ってくれるから一回みてもらったら?」と 両親には言っていたのだが ここに越してきてから5年ほどずっと診てもらっているという意識がそうする事をためらわせていたようだ。

名前を呼ばれて診察室に入ると 医師は付き添いの私に向かって説明を求め 父が症状を訴えても 診断結果も私に顔を向けてする。
きっと父は いえ 多くの老人達はそんなことからあきらめとか 他人に依存する事を認めてしまうんだなあと 感じた。

とりあえず 足の腫れは内科からくるもので そちらでよく診てもらうように 腰の痛みはレントゲンをとった結果 老化からくるものでコルセットをするようにとのことだった。
老化からくる腰の痛みといわれて 父はさぞやガッカリしているだろうと思ったが 意外に「原因がはっきりして安心した 何かの病気といわれたらどうしようと思った」という。

では ついでといってはなんだけど 内科も私の行ってる先生にみてもらったら〜と病院のはしごをする。
父は もう素直に私のいう事を聞いて まな板の上の鯉だ。

診察時間も終わりの頃に飛び込んだので さすがにすいていて 父はこれまでの思いのたけを一気に吐き出した。
体のあまり丈夫でない母には 自分の弱さをさらけ出せず 嫁いだ娘には心配を掛けたくなく 父は自分ひとりで 悩んでいたらしい。

先生は話を聞くと 今できる事をてきぱきと指図して 採血検尿の結果と持っていった服用している薬の羅列を熱心に見ていた。
やがて父に向かって 詳しい検査をしたいのでよろしいかと伺いをたてると 父はためらうことなく 「今後もお願いしたいので よろしく」と 肩の荷を下ろした様子で答えた。
そばで見ていた私も ほっとしてためいきがでた。
近々 母共々伺うという事で 先生と段取りをつけていた。

「ところで・・」と先生。
「最近 ここにはさぼりぎみだけど 調子はいいの?」
おお そうだった。
これから父母がお世話になると 私もさぼってばかりはいられない。
「今度父母がうかがうときに一緒に診てもらいますから・・・」と ごにょごにょ口篭もり 笑顔の先生にさよならして 父と二人 さっぱりとした気分で帰ってきた。


2003年01月06日(月) ハリーポッター

暮れに一度見ていながら その迫力が忘れられずに 今日まだ見ていなかった子達ともう一度見てきた。
3時間近い長い上映だったが 前回はその長さも感じられないほど 楽しく面白くのめりこんで見ていた。
しかし如何せん 字幕を読んでいると 映像の方がなおざりになりがちで ちょっと不満もあったのだ。

夜の7:00からの時間であったが なかなかの入りで その人気がうかがえる。
2回目なので 字幕を追うことも無くおおよその会話は何となく聞き取れて 「へえ そんな言い方をするんだ!」と 別な見方も出来て楽しめた。

CGやらの撮影場面もふんだんで 本で読んでいた情景がまさに目の前に繰り広げられるさまは 圧巻だ。
魔法の世界を堪能して 寒い風の中を 頬を上気させて歩いている子を見て 無理して来て良かったと思った。
一作目よりも面白かったとは 全員一致の意見だ。

ただ 前に入る予告の映画が 難破船を扱った「ゴーストシップ」?とか言うもので とても怖く 慣れない夜に映画を見るという事もあって 「ハリポタ」が始まってもしばらくは 不安感が付きまとって 困った。


2003年01月05日(日) 初詣

寒くて じっとうちの中で過ごしていた私だが 「こたろう」にせっつかれて しぶしぶ近くの神社に 初詣に出かけた。

もう4日ともなると 神社の周りも人はまばらで 犬を連れてお散歩の人も見かけて 境内のなかに「こた」も連れていってもいいのねと ほっとしながら 抱えていた胸から地面に降ろしたとたん 勢い良く飛び跳ねて駆け出した。

それでなくても短い参道をあっという間に駆け抜け お賽銭を投げ入れて 手を合わせているまも 紐を引っ張って 「早く早く」と動き回る。
年老いた父母の健康や 私達の暮らしなど ひとつのお賽銭では多すぎるお願いを 早口でまくし立てられた 神様は さぞやびっくりなさった事だろう。

そのあとも まるで逃げるように神社をあとにしたのだが 「こた」には充分なお散歩だったらしく 帰ってから満足げにお昼寝に入っていった。
私の心配はただひとつ 私のオネガイを神様はちゃんと聞く事がおできになっただろうか??


2003年01月03日(金) 風と共に去りぬ

さっきまで「風と共に去りぬ」を見ていた。
最近は 年末年始の頃に どこかの局で放送する事が多いので これを見ると年越し年明けだなと思ったりする。

はじめに見たのはまだ多感な少女期で スカーレットの周りを気にすることなく 自分の思った事を実行していく行動力に魅せられた。
おりしも 女の子はしとやかで おとなしく 従順であれば良いとされていた事に まず女性が飽き足らなく思い 夏には小麦色に日焼けした 健康的で 元気な 行動力のある女性が好ましく受け入れられた頃であった。

その頃青白い顔をして 人の後ろを歩いていたような私は 人の前で何かをしたり 話したりするのが苦手で 隅っこで本に埋もれていれば 幸せだった。 
そんな引っ込み思案だった私にとって スカーレットは人生を切り開いていくお手本のように思えたのだ。
この映画は 今の私の出発点であり 忘れられないものだ。

しかし 私も3人の子を持つ母となって 立場を違えて見ると 思いも変わってくる。
スカーレットは自分がなにを求めているかも分からず 手に入らないものを欲しがるだけで 失ってはじめてその価値に気づく 無いものねだりのわがままなお嬢さんだ。

「明日はまた明日の陽が照るのだ」この不屈の精神だけで 窮地にたったスカーレットは生き延びようと故郷のタラに帰る決心をするところで物語りは終る。

現代に生きる私達もこの精神だけは 持ち合わせていたいものだ。


2003年01月01日(水) 一月一日

あけまして おめでとうございます。
自分のHPで 新年のご挨拶をするようになるなんて 去年は考えられなかったけれど あっという間に月日は過ぎて あと一ヶ月ほどで ここも一周年を迎える。

作った当初は 右も左もわからず壁紙を変えるだけで 一仕事だった。
今は 季節ごとに雰囲気を伝える壁紙に変えるのが 楽しみになっている。

年が明けた今月は ちょっぴり華やいだ感じでピンクにしてみた。
新しい年こそ 平穏で明るく過ぎていきますようにと 願うばかりだ。


まみい