まみいの日記
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2002年04月30日(火) 愛と憎しみ

きょう 瀬戸内寂聴さんのお話をTVで放送していた。心に残った言葉を書いてみる。

人を好きになるのは 突然雷に撃たれるのと同じで しようと思ってする事でもなく どうしようもないことである。

妻子ある人 夫のある人とわかっていながら好きになったのは どうにもならないと判ってするもので どうにかしようとしてはいけない。人を不幸にして自分が幸せになれるはずがない。

愛情があるから憎しみもある。憎しみと同時に愛も与えられている。憎しむ相手を哀れむ事ができればいい。哀れむとは 仕方の無い事だと許せる事。
相手が何をしても許せるのが慈悲である。

世の中は不条理なものである。良い人が栄えるとは限らず 身勝手な人が沈むとは限らない。
それだから 文学や音楽が生まれるのである。

瀬戸内さんも出家する前はそれこそ恋愛関係からいろいろ人生の艱難を嘗め尽くした事であろう。その彼女が人を好きになってしまうことは避けがたい事ではあるが 情(エロス)だけで何もかも欲しがっても それはいつか消えていくもの。愛(慈悲)を持つことによって 自分も救われると説いていた。

うーん まだまだ未熟者の私は まだ情で生きているのかもしれない。最近諦める事を知ったのは 慈悲の心が持てたのか?単に期待しなくなっただけのことなのか??


2002年04月28日(日) バーゲン&カンディンスキー展

きょう 大型連休の初日は 三女は高校の登校日であった。
学校帰りの娘と待ち合わせをして 洋服のバーゲンセールに行く事とする。
不景気のときは カラフルな色が流行ると言うが 本当に赤 ピンク 青 黄と会場は華やいだ雰囲気ではあったが 今ひとつ盛り上がりに欠けている。
私達は 満足できぬまま会場を後にした。

帰り道の途中に 東京国立近代美術館があって
カンディンスキー展が開かれていた。
彼については たくさんの色を使った抽象画家との知識しかなく すこし混んではいたが 娘と芸術鑑賞もなかなか出来ないことと バーゲン品の入った袋を後ろめたく感じながらもはいった。

初期の油彩画《オディッサー港1》は美しい風景画で 中学の美術の教科書に載っていた筈である。
しかし 彼はこれとは違った何かを模索している最中であったという。

抽象主義者の多くに共通している 危機の時代の認識と終末論的世界観の強い影響下で画を書いていたらしい。(解説書にそう書いている)
ただわかるのは 過剰なまでの色と形の流動であり それは 大作であるがゆえに奔放に見せてじつは 計画的に抽象化されている。
ものの外面的なものをとりさったあとにこそ そのものの 内的な事を感じ取れると考えたようだ。
私のような 凡人にはみただけでは なにがなにやらで ただ さっきのバーゲン会場で見た色の華やかさと合い通じるものがあったようで 社会的不安はいたるところにその影響を与えることを はからずもきょう 2つの催し物を通して知ることとなった。


2002年04月26日(金) ボランティア

三女が 高校受験の時 内申書の内容についていろいろうわさが飛び交い 生徒会役員をしているといいとか 先生に対しておべっかを使って 陰であかんべをしているような子をどうして先生方は見抜けないのかとか およそ 日頃冷静で通っているおかあさんまでも一緒になって 真剣に学校保護者会帰りに話していたことを今更ながら思い出す。

というのも そのなかに ボランティア活動をしていると かなり有利とまことしやかに囁かれていたからだ。

おりしも 校長先生主催の老人ホーム訪問という企画があって 参加希望者はかなりの数になった。
三女は いたって呑気な子で「今日校長先生の部屋の掃除当番だったのだけど 先生にホームの訪問に行くか? と聞かれたので 面白そうだからお母さん行ってきて良い??」と屈託無くいう。内申書うんぬんが耳に入っていたのか 私は 危ぶんだが あまりにもあっけらかんとした物言いに思わず許可した。

こころないお母さん方からは「内申書の点を上げてもらおうとしたの?」といわれたり うちの子も受け狙いの子だとされてしまうのかしら・・という心配はあったけれど・・。

当日は 晴れやかな顔で帰ってきて 一緒に食事を食べた事やいろんな話をして喜んでもらえたようだった事など満足そうに 報告した。

そして 高校に入学してまだ1ヶ月経っていないきのう 三女は 例のホームに行って来るとでかけた。久しぶりにおじいさん おばあさんに会って入学の報告をしたりしてきたらしい。
又来ると約束して 帰ってきたそうだ。

三女が内申書目当てではじめのホーム訪問をしたのであっても もう私は なにもいうまい。
これが本当の結果オーライ!なのだろう。
動機がどうであれ 喜んでくださったお年寄りを目の当たりにして あの子はボランティアについて 難しい事はさておいても 身をもって判ってくれたようで 私は 心底嬉しかった。


2002年04月25日(木) 仕事中に怪我・・労災?

昨日 長女が会社で怪我をして指を2針縫って帰ってきた。
かかった病院では 仕事中のことなので 社会保険はきかないから 労災の手続きをするようにといわれ 何もわからないまま 上司にその旨を告げると そんなことになったら 自分のペナルティーになるので 労災にしないように言われたとの事で 悩みながら帰ってきた。

事の成り行きを聞いても 長女に落ち度があるようには思われず 自分のマイナスになるからという上司の言い分は私が聞いてもずいぶんとひどいもののように思われた。

しかし 労災は認定が難しいと聞く。
不安になった私達はネットで 何が労災になるのか どんな障害があるのかetc調べた。
やはりケースバイケースで本人のミスと判断されてしまう事もあるようで 上司の言う事を聞かないで労災申請をした場合 気持ちの上で上司といざこざするのが嫌だ・・と長女はすでに諦めの境地にいる。

長女はしたくてした怪我ではなく まして就労中のことで社会保険が利かないので1万円ちかくを立替払いにしたという。
お金が絡んでくると途端に現実的になる私・・。
どう考えても納得いかない。
それは 労災と決めるのは 上司でも長女でもなく 会社の人事もしくは労務の仕事であるはずで 正規の手続きを踏んで 判断してもらう事がそんなに悪いことをしているとは思われない事だ。
そのことを長女に告げ あしたは冷静に対処するように 自分の主張すべきは上司がどうであれすべきだと あつく語った。

長女も方針が決まった事で安心し納得したようで今日会社に向かって行った。
そして お昼頃 労務に副支店長(上司の上司)がTELしたところ 何の問題もなく労災に認定されたとメールが届いた。

とりあえずは 一段落した事になるが 今後の上司の出方が気になるところで 一抹の不安が胸をよぎる。
人生生きているといろんな事が起こるわけで
自称小心者で心配性の母としては 気の休まる事が無いわけで・・・。 


2002年04月23日(火) 決めかねている事

今 仕事が一段落して 新しく14年度が始まるのを待っているところで ヒマである。 

いつも連休明けくらいからたてこんでくるので 今年もその頃から又仕事に追われる毎日になるのだろうと覚悟している積りであるが 最近はこののんびりした日々に 急速に馴染んでいる私を見つけてしまい 仕事が始まるのが怖いくらいである。

子供も6:00ころまで 帰ってこない。
自由な時間はたっぷりある。
冷汗をかく思いもしない。
期限のある事が何もない。

こういう環境に置かれてなおかつ向上を求めるほど 私は勤勉ではないらしく 1日過ぎるごとに私の周りの空気は退廃的になり よどんできた。

これも GWが終わるまでの事として 流れに逆らわず身を任せようか。
いやいや 基本生活態度だけは しっかりしておかないと社会復帰がつらいぞ。

両方の考えが 頭をよぎる。


2002年04月22日(月)

朝から雨がしとしと ふっている。
こんな日は 本を読むのに限る。

相変わらず 雨がしとしと ふっている。
いつの間にか 手から本が滑り落ちて・・・
こんな日は 寝ているのに限る。

まだまだ 雨がしとしと ふっている。
いつの間にか 隣に優奈が・・・
こんな日は 一緒にお昼ねしましょ。


2002年04月21日(日) 保護者会

今日は高校のPTA総会&保護者会があった。
前回が後味悪く終わったのでちょっと気重で出かけたのであるが なんという事は無い 皆さん大人であれはあれ これはこれと割り切ってらっしゃる様子に ほっとするやら肩透かしをくらったようでもあり・・・であった。

今回入学式の時にお話できなかった担任の先生やお母様方と ざっくばらんにお話することが出来たのが 一番の収穫であった。
何せ20名足らずの人数で なおかつ3年間クラス替えもないとのことで みな顔馴染みにならざるを得ない状況である。
子供の付き合い方が 微妙に親同士の付き合い方に影響するので その前に親の繋がりが欲しいと思ったのだ。
その思いは皆おなじだったらしく 中学校の頃の話 家庭での様子などざっくばらんに話しあった。皆自分の事を子供の事を話したいのだ。わかってもらいたい。と思っているのだ。

一番ホッとしたのは どのおかあさんも みなの話を熱心に聞いていた事だ。仲の良い子の話だけ聞いてあとは知らないという態度のおかあさんはいなかった。
人間関係は伝えるばかりでなく人のことを理解し様とする 相互関係だ。それを中途半端にすると思わぬしっぺがえしがくることがある。
だから相手をきちんとありのままに理解しようとする。

思えば今の子はほんとの人間関係を知っているのだろうか?薄っぺらな会話に終わっていないだろうか?
発信するばかりの人間関係になってはいないだろうか?
それは私達おとなにもいえることだ。
面倒くさい事と言われるかもしれないが その面倒くさい事をなおざりにしてしまっては いつか自分にその付けが廻ってくる。

このクラスの子たちには 是非本当の人間関係を築いて欲しいと思う。
勿論私達 親同士もそうなれたら この偶然の出会いがどんなに嬉しいものになることか・?


2002年04月20日(土) 筋肉痛

最近USJ・TDSと私にしてはハイペースで遊びに行ってるため きょうは 自粛して主婦業に励んでみた。
陽射しがさんさんと降り注ぎ 穏やかな風が心地よいこんな日は 外に出て小さな庭の雑草を抜くのに限る。

「雨後のたけのこ」とはよくいったもので 一雨降るごとに雑草も勢いが出てくる。
早めに抜いておこうとシャベル片手に庭にかがむ。

むむっ!
昨日シーで歩き回ったつけがもうやってきた。
ももからふくらはぎにかけて 筋肉痛だ。
いつまでも若いつもりでいては駄目よという合図なのか?
いやいや まだまだよ!
私は 筋肉痛に屈服する気はさらさら無い。

誰に見せてる訳でもないのに 私は ことさら
きびきび動いて見せた。


2002年04月19日(金) ディズニーシーの報告

それぞれ 末っ子がこの春高校へ進学したので 記念にみんなで息抜きにきた。
つぎはここ・と決めるのは私。
道順を考えるのは誰。と得意分野を生かして みごとな連携プレイ振りを発揮。
天気予報が悪かった為か 空いていた事もあってほぼ完全制覇したアトラクション。
ショーに廻す時間がなかった事が一寸残念ではあるが それは次回の為にとって置くということで 大いに満足できた 楽しめた 面白かったディズニーシーでした。

個人的にはCenter of the Earthの最後 落っこちながら外の景色が僅か見えるという 危険とのどかさの落差がお薦めです。

お昼はメキシコ料理 生タコスがおいしい。
シーの名物の餃子ドッグは一度は食べてみたいもの。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

どのように廻ったのか・・というお問い合わせも2〜3来たので 参考になるかどうか一応書いてみます。
 9:00開園と同時に一番遠くのロストリバーデルタまで行きインディ。ジョーンズに乗ります。待ち時間は無いくらい。
それから時計周りにアラビアンコーストに行ってシンドバット。セブンヴォヤジとマジックランプシアターを。  
 マーメイドラグーンにはアリエルの像があるので 記念写真をお忘れなく!ここは チビちゃんが楽しめる所です。ショーはアリエルが泳ぎ回るのが楽しいわ。
 ここらで はやめの昼食を 混まない内に食べてしまいます。
私たちはロストリバーデルタにあったメキシコ料理のお店へ・・・。
 午後は ミステリアスアイランドでセンター・オブ・ジ・アース(お薦め チビちゃんは駄目だと思う)と海底2万マイルを乗り こばらが空いたらギョウザドッグを食べてみて!!
 ポートディスカバリーでストームライダーで濡れた後はアメリカンウォーターフロントから出ているトランジットスチーマーラインに乗ってシーを一周しましょう。(これが欠航になってて乗れなかったの)
 あとは ウォーターフロントにあるおみやげ物やさんに入って 買い物を楽しんでね。
 時間の合間にショーを見るのも楽しいわ。私たちはアンコールというミュージカルの美味しいとこ取りのような ショーを見ました。
またファストパスもあります。今回は 待ち時間も短かったためそれを使わずに乗れました。うまく使えば時間の無駄が省けます。
では 楽しんできてね。 帰ってきたら 感想を是非伺いたいわ!!  


2002年04月18日(木) ディズニーシー

17日は三女の友達のお母さん3人と共に ディズニーシーへ行ってきた。
私達は 4人ともこの春高校へ進学した子が末っ子であり 子育てに一区切りついたということの 記念のつもりだ。

実はこの日の為に 旅行積み立てをしていた。
みんなで海外は無理でも どこか鄙びた温泉でも行けたら長い間の苦労(?)も水に流せるね。・・とこつこつ励ましあいながら貯めていたのだ。
「ちりも積もれば・・・」とは 本当の事だ。
中学の3年間貯めていたお金は どこへでも行けそうな気持ちにさせる たいした額になっていた。
夢は夢を呼び みな目を星の形にして あるいはハートの形にして 旅先での自分の姿を想像していた。

しかし なかの1人のおかあさんが言いにくそうに切り出した。
「おばあちゃんの具合が今ひとつで とても泊りでどこかへ遊びに行くなんて考えられない。」

そうなのだ。 皆も多分 こんなにいい話はどこかで破綻が来るとうすうす知っていたのだ。
たいした額のお金が貯まると 旅行でぱあ〜と使ってしまうには惜しくなったのだ。
これだけあれば 入学金に当てられる。
これで 念願のガスコンロを変えられる。etc
要はみなけちなのだ。

旅行で使ってしまわなくても良くなった事に 一抹の寂しさを感じながら 有意義な使い方ができるようになったことを おばあちゃんを引き合いに出した友に感謝した。

まるで何もなしはあまりにも・・というので企画されたシー行き。 天気予報は非情で 午後は雨という。
傘をさしながらのシー行きは一寸悲しい物があるが もう変更するわけにはいかない。
今を生きる おかあさんも 案外地味なものよ。

さあ 開園の9:00めざしてLet's go!!


2002年04月17日(水) 記憶力

きょうは暇な事もあって ここのBookのページを充実させようと 以前に読み終えた本を持ってPCの前に意気揚揚と陣取った。
さて 題名 著者名と入れていき 内容感想の欄に来て パタッと私の手は止まった。

読み終えた時はあんなに感動し 主人公の生き方に共感したリ 考えさせられたりしたはずなのに 肝心の粗筋を忘れてしまっている。
こんなはずではと パラパラとめくってみてやっと思い出す始末に私は暫し呆然とした。
本棚に並んでいるあのうちの何冊の内容をきちんと覚えているのだろうか?

そして私はあることに気付いた。
遥か前 まだ青春を謳歌していた頃その前後に読んだものは はっきり覚えている。
しかし ここ数年前に読んだものの内容が飛んでいるのだ。

お年寄りが 昨日の事は忘れても 自分が子供の頃の事は覚えているのと 似てやしないかしら?
あらあら・・・ということは??
私は それ以上考えるのは恐ろしくってやめにした。
そしてこれからは 読み終わったら出来るだけ早くBookのページに書き込んでしまおうと決意した。


2002年04月16日(火) テニス

中学の授業で軟式テニスをやったのが 私とテニスのはじまりだった。
高校でも軟式をやって あの柔らかいボールが力を込めて打つと 意外に早いスピードで飛んで行くのが面白くて むきになって叩いていた。力まかせのテニスだ。

勤めだしてから サークルで硬式を打ち出した時 あまりに軽く飛んでいくのでビックリした覚えがある。まわりはあまりのパワフルテニス振りにびっくりしたようだ。
それからの付き合いなので 私のテニス歴は長い。
途中で結婚や出産やもろもろのことでブランクはあったが 千葉に越してきてからは ほぼ週1のペースで続けている。おばあちゃんになっても 続けていられたら・・と考えるとこんなしあわせはない。

プレイする事も好きだが 見て応援する事も勿論好きである。
ジャパンオープンや パンパシィフィックは毎年見に行く。
そのなかで私が応援しているのは女子のカプリアティだ。

最年少で USオープンに出場したり 若くして栄光を手に入れた彼女は目標を見失い 家庭的にも問題があって 万引きしたり 薬に手を出したりで 一時テニス界から追放された。
復帰は全く考えられないような状況から 本人の不屈な精神で再起してきて 最近の活躍はめざましいものがある。
逆境から這い上がってきた彼女のことが気になり 好きになり頑張って欲しいと 応援している次第である。
6月になると ウインブルドンがはじまる。
私が TVから離れられなくなる季節だ。


2002年04月15日(月) アメリ

ほんを読んだ。
ハッピーエンドが嬉しい!
今は 難しい事は考えずに 楽しい毎日を送りたい。
花が次々と咲いてくれるから のほほんとしていたい。
暖かい日にこころを休めたい。

そんな私にぴったりの本でした。


2002年04月14日(日) 高校の役員

きょうは 高校に行ってきた。
今年度の役員の方々との顔あわせである。
途中まではとてもスムースにいってさすがと思われたが ある1つの議題を巡り丁丁発止とやりあう姿は勇ましい物がある。

完全に 派閥が出来ている様子がはっきりとしており まだ入ったばかりでなにも判らない私達1年生の保護者には なにがなんでもあいてを認めるわけにはいかないと言う頑なな態度しか見受けられなかったのが残念であった。

人が集まる所必ず 単純な好き嫌いに寄る あるいは利害関係によるグループ化みられる。それは 仕方のないことなのだが 学校で話し合いというかたちをとりながら明らかなケンカをしているようすを見て 私はがっかりした。 これでは 今国会で行われている 問題のすり替え 自分の立場を守る為だけの発言と何ら変わる事が無いではないか。

一目見る限りでは 立派な様子の男女が何を感じて ああも他人を蹴落とす行動に出るのだろう。何があったのかは判らないが そこには 憎しみの感情しか見られない。

はじめての 役員会は波乱含みの 今後が案じられる出来事で終わった。


2002年04月13日(土) 吉野桜

私は さくらといえば 吉野を思い浮かべる。
現代国語の教科書のグラビアに載っていた みごとなさくらに埋め尽くされた山を・・・。
一度この目で見てみたいと思いつつ なかなかその機会にめぐまれないでいる。

今朝のNHKニュースでこの吉野の桜を取り上げていたが それは驚くべき出来事だった。
ここ数年若い木が立ち枯れているという。

1000年前からさくらを植えつづけ あのみごとな山一面のさくらにまでしたのだが あまりに密生しすぎて 地面に太陽が当たらないために桜に菌がついて それのために立ち枯れが起こっているという。なんともやるせない話だ。

今後は 太陽を当てる為に さくらを間引いてようすをみるという。
あの 山一面の桜の淡いピンクが十重二重に重なり合っている様子 合間に見える 緑のりりしさがどうなってしまうのか?
思いは吉野にまで飛んでいきそうだ。


2002年04月12日(金) カミ-ユ・クローデル

私の住んでいる街から 上野はわりに近いのでよく気分転換に美術館や博物館に行く。

私自身は 想像力はあっても創造力に欠け 絵を描く事は大の苦手で 通信簿の美術はよくて3大体は「アヒルさんが飛んできた」という2であった。
それでも 絵などをみる事は好きで 上野の山はお気に入りスポットでもある。

近代美術館入り口近くに ロダンの「カレーの市民」の複製がおかれている。
これを見るたび私は ロダンの恋人でもあり弟子でもあった カミーユ・クローデルの事を思い出す。

中学校の時の美術の先生から 四方山話として授業の合間に聞いた話なのだが 19世紀の頃はフランスでも男社会で カミーユは天才であったにもかかわらず 認められる事無く 最後は精神を病んで死んでいった。 芸術家は不遇なものが多い。と締め括った。
先生が不遇なもののなかに ご自分を入れていたのかは定かでないが 私はこの話が何故か忘れられず 後年パリへ行った折 彼女の「ワルツ」と言う作品を見ることが出来た。

それは ブロンズ像で そんなに大きいわけでもないのに ワルツを踊る男女の燃えるような情熱がひしひしと伝わってくる。
うちに熱いものを秘めた芸術家がたどった 悲しい運命に その作品を前にした私は一生忘れられない名前として カミーユを胸に焼き付けた。

少し前のTVでカミーユのことを取り上げていたそうだ。私は折悪しく見られなかったが 娘が教えてくれた。
残念な思いの私は 再放送を心待ちにしているのだが まだみる事はできないでいる。 


2002年04月11日(木) 続 楽しい生活

三女が高校に通いだした。
1人で自転車をこいでいく姿は 真新しい制服の事もあって すこし不安げだ。
「いってらっしゃい」
と送り出したあとは うちのなかは 誰もいない。シーンと静まり返っている。

さあ やっと私の天下だわ。
今まで春休みで次女&三女がうろうろしており お昼の用意もあるし 気が抜けなかった。 なにより PCはさわれない。

それがどうよ!
私が電源を入れるのを待っているような様子でたたずんでいるではないか。
順番を気にしないで 心いくまでPCに向かっていられるしあわせ。
この生活を 楽しい生活と呼ばなくて なにが楽しいのか?
しかし連日の睡眠不足が 私のこの至福の時すら奪おうとしてくる。

不甲斐ない私は PCを放棄してついに万年睡眠不足を解消すべく 横になった。
この 昼寝は昼寝で またそれも楽しい生活といえるわけでして・・・・。 


2002年04月10日(水) 楽しい生活

無事に入学式も終え ホットするまもなく教室に保護者が呼ばれて これから役員決めをするとのことだ。

進学を希望しているクラスの為だからなのか 一クラスが21人しかいないので 大変に難航した。
みなさん仕事を持っていらっしゃるし ほかにも病気のおかあさまを抱えてるとか ご自分自身が病院に行ってるとか さまざまな理由で役員を引き受けられないという。

これでは 埒があかないと思ったのか 先生は「じゃくじ引きにしますか?」と思い切った提案をする。
結局業を煮やした先生のカンニングペーパーに 私の名と共に優奈は三女であること 仕事もちだが 時間のやり繰りができる職種である事が記載されていたのだろう。先生の視線が私にピタと向けられたのを感じた。

先生の攻撃に私は晒され なすすべもなく引き受けさせられてしまった。
同じような経過のはてに 何人かが選ばれてクラスの親睦を図る事となった。

事は其れだけですまなかった。
PTA役員としての仕事があって 皆否応なくもう1つの仕事を任される・・・。
「これって ぺてんだわ」
と、くだんの先生に抗議しようとしても はやおかえりになったと軽くいなされる始末。

そして私はいい意味で居直った。
どうせ引き受けざるを得ないなら ここは楽しんでやるしかないのだと!

こうしてこれからの1年間 私の多忙生活は超多忙生活となってしまった。
問題はどれだけ私が この生活を楽しめるか・・・ということだ。


2002年04月09日(火) 明日は入学式

あしたは 三女の高校の入学式だ。
すでに用意は万端整っていて 真新しい制服もあしたを待つばかりだ。

今日の昼。
何を思ったのか三女から「かあさん 明日はいろいろ忙しくなっちゃうから 今のうちに 制服着て写真撮らない」と言ってきた。

成長してくるに連れ それを何よりも喜んでくれている両親へと おりにふれ写真を送ってきた。
しかし最近はカメラの前に立つことを嫌がり写真の数がめっきり減ってきていた。
どんな心境の変化なのか判らないが その気になっている者を逃す事はないと さっそくカメラを構える。

たたみじわののこる紺の制服を着た娘は もう立派な高校生だ。

カメラのレンズ越しに見る娘の笑顔は 今日の明るい陽差しにも負けていない。

この子が生まれてから15年。
いろんなことがあったようで 一瞬のうちに過ぎていってしまった事のようで・・。
娘の顔が にじんでみえた。


2002年04月08日(月) 雨の夜

コンクリが雨で濡れて 街路灯をうけて光って見えます。
時折通る人は 衿をそばだてて 足早に過ぎていきます。
どこも 音を無くした モノクロ写真のようで馴染めません。


2002年04月07日(日) 新宿

きょうは 久しぶりに新宿へ行く事となった。
何年ぶりいえ何十年ぶりになるのか・・・。
いえが近い事もあって 私にとって新宿は繁華街とか遊びに行く所では無く 生活の延長線上にあるところだった。

お馴染みの駅通路を歩き 西口の改札口まで来てあまり変わっていないのに拍子抜けした。
ここを私が歩いたのはついこの間の事のようで あの円柱の陰から 友が顔を覗かせるような気がして思わず立ち止まった。

ここで 良く待ち合わせをしたものだ。
私はいつも早めについてしまい 手持ち無沙汰で円柱に寄りかかって待った。
彼女は京王線でくる。寄りかかりながら本でもと開くと廻りの騒音もすーと引いていって たちまち私1人の空間になる。
そして「わっ!!」とおどされて・・・・。
 
「おかあさん どうしたの? いくよ。」
あの頃の私と同じ年ごろの娘が 隣に立っている不思議さに眉をしかめた私は 一変に現実に引き戻された。 

あの頃と同じ空間に私はいる。
ただ 時間だけは過ぎ去ってしまった。
隣にあの頃の私と変わらない娘をおいて・・・。


2002年04月06日(土) 自転車泥棒

私の家は角にあるためか よく自転車がなくなる。鍵をかけていてもなくなる。
勿論 自転車が1人でいなくなる訳は無いので 誰かが持っていってしまうのだ。
近くの駅まで歩きたくないから・・と言う理由で自転車を持っていってしまう人は 盗られた人が朝どんな気持ちになるか 考えて見るがいい。

私は仕事にも使っているので その日は 近くでも車を出さなくてはならない。
自転車なら自家発電でこいでいけば良いが 車はガソリンが必要だ。
多分返って来ないから 新しい自転車も購入しなくてはならない。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。

ときには ご愛用してる泥棒さんもいて 三郷駅から電話が入り 私の「自転車が放置されているのでとりに来い」とのこと。
盗られたものだ・・といっても そこはどうにもならず 車で受け取りに行った挙句 保管料としてお金までとられた。
泣くに泣けない経験だ。
この泥棒さんは 2ヶ月間しっかり使っていたらしく ご丁寧に彼の傘がくくりつけてあった。

もう 顔馴染みになった自転車屋さんに どうしたものかと相談すると やはり泥棒さんは地味なものを狙うとのことで それからの私のいえは 自転車は思い切り派手だ。
オレンジ色 スカイブルー 黄色と今を盛りと咲くチューリップにも負けてはいない。

それでどうしたかと言うと 確かに盗られなくなった。
でも今 年頃の娘には不評で「こんな派手なの恥ずかしい」とのたまう。
恥ずかしかろうが 乗るしかない。
だってもう 盗られて無くなることが無いのだもの。

昔の映画に「自転車泥棒」というのがあった。
自分の家の有り金をはたいて買った自転車が盗まれてしまい 仕事に行くのにどうしても必要な父と小さい息子が捜しに行くが見つからない。切羽詰った父はそれならばと 自らも他人の自転車を盗ってしまおうとする。
しかし 彼らは捕まってしまい 父はそれが原因で解雇されてしまい 一家はどんどん貧しくなって・・・・。という悲しいイタリア映画だった。


2002年04月05日(金) 昨日の私は・

日記には まともっぽい事書いているのだけれど 実は 写真縮小につまづいて 悩みに悩み一晩中PCの前にいる事になってしまった。
でも 睡魔はやってくる。
半分起きて半分寝てる状態で 私は 作業を続けていたらしい。
寒くて 目が覚めた私は 画面を見てビックリ!
あの 紫の花(イエイオン)がきれいに映っている。
おまけに何人かの方にメールまで出していた。
こんな事って??

昔 読んだ童話を思い出す。
年をとったお爺さんの靴屋さんを助ける こびとさんのおはなし。

私の事を哀れんで こびとさんが助けてくれたのかしら?????


2002年04月04日(木) 人生山あり谷あり〜

アルバムはここまでは とてもうまく行ってて満足のできるものだったけれど 今日は一転くびを 傾げてしまった。
きのうのKBの関係で アルバムに載せることでその容量が変化してしまい 私のイメージとは別の仕上がりになってしまうのだ。

あらかじめこれだけ小さくなります。という予告も無く心変わりに戸惑う私である。

あしたは原因と対策にまた悩んでいるのだろうか。


2002年04月03日(水) 算数が苦手!

アルバムを設置したのは良いのだが ここに何枚の写真が載せられるのか?
100MBまで OKとある。
一番はじめの「かいどう」が77KBだったのは判っているのだが かなしいかな このMB KBがちゃんと把握されていないことに不安を感じ 丁度良いので調べてみることにした。

コンピューターは2進法で 1と0(ビット)の2つの値で表し 4つのビットを使って1つの単位とする。これが16進法で16進法の数字を2つで1組にしてバイトと呼ぶ。  なるほどね。
8ビット(2進法8桁)=1バイト

1B(バイト)X1000=1KB(キロバイト)
1B    X100万=1MB(メガバイト)
ということは 1000KB=1MB

私のアルバムの容量は100MB(画像1枚は10MBまで)ということは「かいどう」が77KB(写真は1枚約100KBくらいらしい)だから・・・・・。

私は ここまで考えると単位の計算にてこずった。
とりあえず 沢山載せても大丈夫らしい事が判って一安心。
それに デジカメで撮った写真もどこまで縮小したら良いのかの目安もたった。今回は縮小しすぎたかもしれない。

1枚100KBと考えて あのアルバムには1000枚載せられる事がわかった。
私にとって収穫だ!


2002年04月02日(火) アルバム作り

昨日設置したアルバムだが ゆっくりやっていく積りだったのだが 私にそんな事しろという方が無理!

一寸だけと言いながら とうとう今の段階では完成といえるとこまで手を染めてしまった。
この性格どうにか ならないものか?

おかげでまた睡眠不足の毎日が続く・・・・。


2002年04月01日(月) エイプリルフール

4月1日は 嘘をついても良い日・なんて誰が決めたのだろう?

嘘をつくのは泥棒のはじまり!と厳しく言われ続けた私は いつの時だったか 母が「今日は特別の日で 嘘をついてもいいのよ でも笑える嘘ね」とにこやかな顔をしていった時は 信じられなかった。
まさか 私を試しているんじゃないだろうか?
でも学校へ行った私は 友達がみな気持ちが上ずっている状態で話しているのを聞いて 目がそれこそ点になってしまった。
まるで嘘とすぐ判る下手な話に みな笑い転げている。
どれもこれも作り話ばかりで 大体話をしている当人が話すそばから笑ってしまう。

私たちの時代は そんなだった。
おおぴらに嘘をついても良いなんていわれてもかえって困ってしまう。
嘘というよりジョークをうまく言う事が難しく思い スマートな会話を夢みたものだ。

このところ エイプリルフールなんて話題にも上らない。
嘘だらけの毎日だから?
会社も 国会も 社会も・・・。

でもだからこそ 楽しくなる嘘 ジョークを言い合おうよ!


まみい