まみいの日記
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2002年03月31日(日) イースター

3月31日は イースターだ。
イエスキリストの復活を祝うお祭りだ。

イースターエッグと呼ばれる カラフルな色を塗ったゆでたまごづくりが有名である。
そのたまごのからを割らないように転がす遊びを エッグロールといってホワイトハウスでもこの遊びをしているという。

昔から西洋ではたまごに生命力を感じていたようで からをやぶってひよこが生まれることと キリストが死からよみがえることが 感覚的に一致したのだろう。

私は小さい頃 日曜学校に行っていたことがあり イースターの行事も由来はさておいて たまごに色を塗るという楽しさだけを覚えていた。
あと クリスマスのときのみんなが参加するお芝居。
それぞれが マリアやヨゼフになってキリスト誕生を演じて 感動した記憶がある。

キリスト教圏では 子供達に宗教をこうして楽しませながら身に付かせて行くのだろう。
今問題になっている民族紛争も 陰に宗教がからんでいるという。(経済面が一番の問題のようだ)
長い歴史が培ってきた宗教ゆえに問題は複雑だ。


2002年03月30日(土) 制服

三女の中学校の制服をクリーニングに出した。
今日中学では離任式といって この3月でよそへ移られる先生方とのお別れの会があって 卒業式を終えて既に2週間近くたってはいるけど最後の制服着用となった。

見慣れたこの制服も うちの子達はほんとうにきょうで卒業なのだ。
もうすでに差し上げる約束もしていて 制服はまだまだお役ごめんにはならずに 活躍してくれる。 それはとても嬉しい事だ。

思えば 通学服としてのみの着用で 学校に着くとすぐにジャージーに着替え1日を過ごす。
そとを歩くためだけのものでその存在をアピールしてきたが 当然いたまないため 長女のとき購入したきり おさがりで着つづけたわが娘達だ。

我が家のために 貢献してくれた制服だ。
E家でも 頑張って働くのだぞ。


2002年03月29日(金) デジカメで菜の花

久しぶりの良い天気。
誘われるように私は 仕事に行くのにデジカメを持った。
といってもてのひらサイズの可愛いもので こんなちっちゃな機械に情報を一杯つめこんでるとは と感心してしまう。

なんでも便利になって機械に頼る日々だ。

機械が意思を持ち 人間を支配し様としたのが「ターミネ―ター」。
機械に使われる人間を風刺したのが チャップリン。
人間は 自らが楽になるようにと その技術のありったけを使って 機械化に励んできた。
それは 機械を使いこなせる人への恩恵であり 使いこなす事の出来ない人を作り出してしまったことに他ならない。

私は今なんとか ついて来ている。
でもそれはいつまで続ける事ができるのか?
技術開発はどんどん進み こちらは老いる一方だ。

きょう 私は 技術の塊のデジカメを持って 春ここに群生する菜の花を撮った。

憩いを求めて・・・・・。


2002年03月28日(木) 毎日無事でいること

きょう 車を走らせていたら 事故直後の現場に差し掛かってしまった。
車は運転手側を下にして横転しており 近くの人達が救助しようと集まってきていた。

私は とても他人事とは思えずに体が震えてきた。
この数分前に私は 雨の中出かけなければならないことに気が滅入っており ちょっと愚痴りたい気分だったのだ。

ほんの僅かな ちょっとした心の油断が取り返しのつかない事になりかねない。

私にとって 車は無くてはならない便利なものであるが最近手に入れたデジカメより ぞんざいな扱いをしているわけで・・・。

毎日 無事に帰ってくると ほっとする。


2002年03月27日(水) 決算月&ピアス

年に一度の決算月なもので 私はあおりを受けて忙しい人間となった。
PCもさわれない。
デジタルカメラなんて どこ置いちゃったかしら?(もののたとえで ちゃんとしまってある)
ほんの数日のことなのに さきが見えないことが不安にさせる材料である。

人間ばたばたしていると 絶対良い事なし。
私のお気に入りのピアスを右だけ無くしてしまった。
長い鎖の先にアクアマリンのブルーがゆれる めったに固執する事の無い私が 大事に大事にしてきた 10年ものだ。
掃除をしてしまってから気付いたので 掃除機の中のごみまで出してみたけど無し。
仕事をしていても ご飯を作っていても 思うのはどこで無くしちゃったのか だけ。

ふと その日朝起きてすぐ 耳にかかるピアスの感触を思い出して和室に向かう。
絶対にここだ。
ピンとくるものあって 捜し始めてほんの10分で畳に忘れられて転がっていたピアス発見!!

もう 嬉しかったわ。
さっそく耳につけて揺らしてみる。
そうそう この感じよ。 これでなくちゃ駄目。
お守り代わりのピアスを探し当てた私は 意気揚揚 もうこわいもの無しの強気モードに入って エンジン全開である。

この勢いで きっとこの超イソガシ期も無事に乗り切れる気がしてきた。


2002年03月26日(火) きのう張り切りすぎて・・・。

きのう デジタルカメラが届いて 新しいことの好きな私は張り切って説明書を読み・・・とやっていたもので きょうになって 疲れが出てきた。

若いころは 徹夜の2回や3回くらいというようにまるで平気であったが ここ最近無理が利かなくなってきている。

夕方についうたた寝をした。
夕飯後も睡魔におそわれる。
一日中 眠い。 眠い。

春眠は暁どころか 昼も 夕方も覚えず・・だ。 


2002年03月25日(月) デジタルカメラが届いた。

大阪に行く時から欲しいと思っていたデジカメが今日の午後 やっときた。

花冷えになり 桜もまだ大丈夫とのことで 散ってしまう前の可憐な花を撮りたかったのだが 使い方などマニュアル本を見ていたら遅くなってしまい きょうは 家の庭に咲くかいどうを撮った。
桜ににているが もっとピンクが鮮やかで可愛らしい感じが 風格の桜にたいして 若さを感じさせる花だ。

まだ日の差す時に第1号のシャッターを押す。
130万画素という HPになら丁度良いという(お値段も私には 丁度であったが)機械であるが 普段使い捨てカメラになれている私には覚えなくてはならない事が 多い。
1日かかってやっと使い方が判りこのHPにUPする事も出来た。

見慣れた花も 置物も 自分のHP上で見るとまた印象も変わって見えたりして 面白いものだ。
これからも日常の一こまを撮っていけたら・・・と思っている。

まだまだ知らなかった事の多いこと。

でもそれは 知る楽しみが有るということ。

さあ カメラを持って どこへ行こうか??


2002年03月24日(日) 花冷え

きょうは思いのほかお天気の回復が遅れて冷え込んだ。
桜は 満開のままの状態で 少し長持ちするそうだ。
私は冬生まれのせいか あまり暖かい気候より ちょっと寒い位が好きなのだが この花冷え 寒の戻りは用心しないと 風邪を引く。

あすもあさっても 寒いらしい。
気を付けなければ。

さて 待ちに待ったデジタルスチルカメラがいよいよ届くハズ。
あしたはお休みなので 早速冷凍状態の桜を撮りに行きたい。

でもまず 説明書を読まなくてはならない。
がんばりのきかない私は いままでは ここで必ず第1の挫折期を迎えた。
あしたはどうであろうか?


2002年03月23日(土)

このところずっと晴れのお天気が続いていたここ松戸も 今日の夕方から雨になった。
朝と夕方に水遣りを欠かせないほど乾ききったうちの庭は 雨の恵みを受けて地中深くまでその恩恵をもたらそうと ぐいぐい水を吸い込む。
その有様は 仕事を終えて帰ってきたばかりの私にとって 心和む光景だ。

私が ホースで撒いてる水など 表面しか届いていないのでしょ。
明日の朝の分まで しっかり お飲み。
窓にほお杖をつきながら 家事に手をつけるまでのほんの少しの間 何も考えず そんな光景を眺めていると 思わずまどろむ。

暗くなってきた道の向こうに 車のライトがにじんで見える。

今は春。
こうしていても 寒くはない。
もうほんの少しの間だけ このままでいさせて・・・・。 


2002年03月22日(金)

ひとつの花が こんなにみんなの関心を呼び話題になることは めったにあることではない。

戦争のときには ぱっと咲いてぱっと散る所から潔いという 兵隊として有るべき姿の模範のように扱われたそうだ。

遠山の金さんは桜吹雪で有名だし 桜餅 桜饅頭 桜湯 桜飯 桜海老 桜貝 桜紙 そして桜草と ちょっと考えただけでも次から次へと思い浮かぶ。

桜前線という特別の言葉まで生まれて 桜の開花を予想する時に使う。
日本人のさくらに対する思い入れはかなり深いといえるだろう。

今年は 例年に無く暖かくなって 予想を大きく上回り今日満開と認定された。
三女の入学式までは持ちそうにない。
葉桜前の集合写真だけは なんとか回避してもらいたいものだ。


2002年03月21日(木) 男たるもの

隣のご主人はドイツ系アメリカ人だ。
彼だけの事なのか 欧米人に付いて言えることなのか私にはわからないけれど 彼には 男としてのプライドがある。
私からみると ありすぎ。

男はなんでもできなくては・・と思っているのか 一緒にテニスをしても 頑張りすぎて膝に水が溜まった。
ぬくのはかなり痛いらしく それを医者が下手だからということにする。

PCも 最近自宅に1人に一台購入したという。
4人家族だから4台買ったの?
先日 使い方が判らないのでと呼ばれた。この私が・・・。
メールを下書きしてどこかにしまったが その場所がわからないという。
それは私にもわからない。
思い当たる所を開けて見るけど 全部英語でちんぷんかんぷん。
新規に書き直して送ってしまった方が速いと言ってみるが 早口で英語をまくしたてるのでついていけず 途方にくれた。

ここは日本だ。
何年居るのか 全然日本語を覚えようとしない。
えーい 国際親善もこれまで。
しかし 言葉も通じず 異国の地で寂しい思いをしてるのでは・・とつい 困っている事はなーい?とおせっかいを焼いてしまう。
でも ひょっとしてそれは彼のプライドを傷つけてるのかしら?

男としてのプライドってなんだろう?
男が男らしくありたいってどういうこと?
女よりつねに一歩リードして居たいということなの?

私は 一緒にいて居心地のよさを感じさせてくれる事が一番うれしいわ。
それには 男も女もないけれどね。


2002年03月19日(火) 学習能力

きょうも 車に乗って踏み切りにさしかかった。
以前 パトカーに踏み切り前一時停止不履行で捕まったのとは近いが 違う場所である。
踏み切りは いつも無意識ながらあの捕まってしまったことを思い出しながら わたっているようだ。

きょうは 夏を思わせるような暑い午後となった。
仕事を終えて気持ちにも余裕のあった事は 確かだ。

踏み切りに近づいた私は 手前で一時停止 窓を開けて警報の確認 左右の安全確認と 自分でも模範的だなと 満足出来る 流れるような動作の後 右を向いたまま ふた呼吸できるほどのほんのすこしの間 かたまった。

そこには あの時と同じ様にパトカーが物陰に隠れて ひっそりとたたずんでいたのだ。

後ろの車のクラクションで我に返った私に かろうじてめがねをかけていることが判るほどの警官は 軽く敬礼のまねをしてみせた。
思いも寄らない警官の仕草に 私も思わず手を振ってこたえていた。
何も知らない人が見たら 知り合いの警官に挨拶しているように見えただろう。

苦笑しながら踏み切りを越え 100メートルほど走った所の交差点で 今度は別のパトカーに後ろにつかれた。

最近 ここらは引ったくりが多発しているという。そのための警備巡回なのか?
いつもより こころもちスピードを抑えて次の信号を右折して 直進するパトカーと別れた。

家に無事にたどりついて 3年後のゴールド免許証は まだ私の手の中にあることに気付いた。
とりあえず きょうは OK!!
あしたも この調子で・・・。


2002年03月18日(月) 兵役拒否

17日のNHKスペシャルは いま 武力闘争の続いているパレスチナとイスラエルから 兵役を拒否するイスラエルの18歳のヤイール.ヒロさんを取り上げて放送していた。

去年の夏62人の高校生が パレスチナ人に対するイスラエル軍の攻撃はテロ同然であり 入隊を拒否する との手紙を首相におくった。
ヤイ―ルさんもその1人だ。
彼のお父さんは中東戦争に参加したこともあり 息子のしている事は国家への裏切りではないかと悩んでいる。
息子と話し合いをしたいのだがうまく会話がかみ合わず そうこうしているうちに息子には兵役拒否の為 軍刑務所に収監される日が近づく。

プラカードを持ってヤイ―ルさんを支持する学生たちに 裏切り行為だと非難する中東戦争を体験しただろう年配の男性達。
このまま引き下がればまた国民は世界中にばらばらに存在するしかない。
だから 闘うのだ。と思いをぶつける。

一方 和平への勇気ある行動だとして 賛同者が軍刑務所にいるヤイ―ルさんのもとに多数の手紙を送ってくる。
現在闘っている兵士たちも その戦いの場を放棄してこの運動に賛同しはじめた。

私たちも 武力で攻撃してもそれに対する報復攻撃が続くだけ 憎しみが憎しみを増すばかりと考える。
でも どうやってこの争いを終わらせることが出来るのかという質問には すぐには 答えはできない。

闘わなければ 平和はくるのか?
地球の裏側で18歳の少年が 悩み行動した。
私には 同じ年頃の子がいる。


2002年03月17日(日) これからも〜

ここを はじめてから もう1ヶ月がたってしまった。
どうなるのかと 前途に不安を感じていた頃。
思うようにならずに ボーとしていた事もあったっけ。
最近 ようやく HPの面白さが分かりかけてきたような気がする。

おりしも 1500を踏んでくれた友が 同じ日に
50000を超えた。
私には 驚異の世界だ。

見習う事の多い先輩達を そして ここで出会えた仲間達を持っているよろこびを しあわせを ひしひしと感じる1ヶ月目だった。

これからの私の課題は それこそ たくさん有るのだが 目下の究極的な課題は いかにして
娘からPCを奪回するか・・・・にある。


2002年03月16日(土)

春はいちばんすきな季節だ。

木の芽が芽吹く頃 もの皆生命力に満ち 期待する心に溢れ 光は輝き 水ぬるむ。 

窓を開け放し 鳥のさえずりを近くに聞き
太陽の暖かさを一身に浴びる。

土は湿り 空は青く 風は巡り木々を揺らす。

歌を口ずさみ 花を愛で こころ優しくいる。


扉を開けて さあ どこかへ でかけよう!!


2002年03月15日(金) 卒業式

きょうは 三女の中学校の卒業式だった。
ここまで 長かったようで短かったようで。
やれやれと思う一方で あしたからまるで違う日常生活がはじまるような 妙な不安感もある。

まだ子供だと思っていたのに 折々に見せる態度や言葉遣いに おや いつのまに?と見つめなおす事も 最近はしばしばあった。

私が思っているよりも 彼女はスピードアップして大人になりつつあるようだ。
私はそれが嬉しくもあるのだが しかしまたまだ私の手元に置いておきたいと 抱きとめようとするもう1人の私もしっかり存在するわけで・・・・。

親はいつまでも子供の事が心配なものだ。
私の母も いまだに私の事を心配している。
そんな母を 娘の私はちょっとうるさく感じてしまう。(親不孝者め)

今の私が 親としてのあり方を考え直すことが うまく子離れする良いチャンスなのかもしれない。そんな時期になったということなのだろう。
きょうを 私の子育て第1期の卒業式としたい


2002年03月13日(水) USJの旅

次女と三女と私の三人で 三女の高校受験をおえた慰労ということで
(だれが慰労されるのか? 三人とも自分こそ慰労される側と思っている)企画された。
3月9日〜11日の2泊3日
往復JALで 所要時間1時間未満
HOTEL 全日空ゲートタワー(関空にちかい)

9日 朝 5:15に家を出る予定が 5:15に起きるという波乱万丈の幕開けとなった。私の家族は急場に強い。 5:30には全員用意して定刻に羽田の出発ロビーに遅刻することなく着く。一路大阪へ・・。

大阪では まず道頓堀へ南海急行で40分にて着く。
こてこてのこれぞ大阪という看板(かに・グリコ・**オッちゃん人形etc)を見て歩き 日本一という字が躍っていて行列が異常に長い屋台のたこやきをフーフー言いながら食べたのがかわきりで 金龍のラーメン アンドリュウのエッグタルト 豚まん 栗と食べ歩き おなかが一杯になったところで お勧めのあった海遊館へバスで行く。
となりの観覧車に乗った所 2人の娘は高所恐怖症と判明したが 間に合わず 観覧車が一周する間私の格好の餌食となった。
海遊館は おきなわの海洋博物園に似ていて トンネルの形の水槽をくぐり すぐわきを泳ぐ魚を見ながら進むという 楽しい水族館だ。
サメやカツオや エイなど いっしょに泳いでいるのを眺めながら
朝早かった私たちは みな眠くなってしまい 暫しソファーにて休憩。
夜は さっき目をつけて置いた「美津の」というやきそば屋さんで
ビールとともにディナーのはじまり・・・。
人気のお店らしく またまた行列ができていくのを見ながら お兄さんが焼いてくれるやきそばにしたつづみをうつ。

10日 HOTELのシャトルバスにてUSJへ
ここは 水水の世界でアトラクションのほとんどが 水浸しになるというもの。
ジュラシックパークの最後は絶叫と共にずぶぬれとなり 次のジョーズでは船のそばにジョーズが現れまたぬれた。昼をはさんでの 今度は濡れまいと高をくくったターミネーターも終わり近くなんと天井からシャワーのように水が降ってきてやはり濡れた。
開園から閉園まで行列をつくり 水に濡れ・・の繰り返しであった。
きわめつけは 今日1日いい天気であったのが 帰る直前に空から雨がポツリポツリと落ちてきて 一時本格的に降るのにはさすがの私達もまいりました。

11日 最終日は通天閣へ向かう。
途中 あいりん地区へ入ってしまったりするが 歩いてやっと辿り着く。
びりけんさんという 神様にお賽銭をあげてこれからの私たちに良い事あるようにと お願いする。
朝ろくなものを食べなかったのでおなかの空いた子達にせがまれ
近くの通天閣ラーメンというお店にはいった。
はっきり言って小汚い! しかし味は 驚くほど良い!!
金龍ラーメンより絶対おいしい!!
チャーシューのとろけるうまさ チャーハンのラードの効いた濃くのよさ・・・。
ネギチャーシューラーメン+チャーハンのコースで満足した。
難波によって エッグタルトをお土産に買って 無事に帰途についた。

終わってみれば まさに食べ歩きだったこの旅であるが 歩いた距離も半端でなく あんなに食べたのに誰1人として太ってしまった者がいなかったのは まさに びりけんさんの庇護の賜物であろうか??


2002年03月08日(金) 東京タワー

東京タワーが作られたのは58年のことだそうだ。
プロジェクトXというTV番組でも建設秘話を先日放送していた。
そしてきょうの朝日新聞朝刊には 「展望台内部の全面改装に着手し、一部を9日からオープンする。」という記事とともに 東京タワーから見た夜景の写真が掲載されていた。

私には 東京タワーに関して 2つの思い出がある。
ひとつは 家族写真だ。
私は髪に白い大きなリボンをつけて 和服姿の母にしがみ付いている。
すぐ隣には父が まだ幼い弟を抱き上げて笑っている。
たぶん 明治神宮に初詣に行ったその足で 東京タワー見物としゃれ込んだ積りなのだろうが 私は明らかに疲れきった顔をして 強風に飛ばされまいとして母に捕まっているのが精一杯の状態だ。
それにたいして あとの3人のなんと楽しそうな笑顔・・・。
この写真を見たとき 私はおそらく人生ではじめての疎外感を味わった。

もうひとつは 今思い出しても胸の奥が痛くなる ギュと目をつむりたくなる思い出だ。
その頃私には 付き合いを始めたばかりの彼がいて 初めてのデートをどこにするかで盛り上がっていた。
かねてから私は東京タワーの夜景を見たことが無く 行きたいと思っていた。
私も彼も山をやっていて 私はあいにく膝を痛めて休んでいる最中であったが 彼には山行の計画があり では山から帰ってきた翌日にタワーにいこうという事に決まった。

結局 私たちはタワーの夜景は見ることはでき無かった。
なぜなら 彼は山行から帰らなかったからだ。
不思議な事に 私はこの後の1週間を覚えていない。
ただそれ以来 都会の夜景は苦手で 特に背景に東京タワーがあると 無条件に顔を背けてきたように思う。

あれから 何十年たったことだろう。
最近 ようやく私は夜景の呪縛から解かれてきたように思う。
 


2002年03月07日(木) USJ

旅行代理店から 
「3月9日からの USJの旅 ご予約いただいたチケットが揃いましたので とりにおいでください。」という嬉しい知らせが入り 私は意気揚揚と向かった。
そこは 春休みを楽しく過ごそうと言う学生や熟年のカップルで ひしめいていてちまたのこの不況など どこ吹く風・・・と言う勢いだ。

かねてから 子供達から要望のあったUSJに急遽行くことを決定し 独断で日程も決めて事後報告となったが ここで異を唱えて「それじゃやめた」と私にいわれることを恐れたのか 日頃に似ず 子達はいやに従順だ。

お手伝いを頼んでも いつもなら「え〜 なんで私が・・。」とか言って なんとか逃げようとするのだが この旅行の話が出てからは 無言ではあっても きちんと仕事をこなしていく。
だんだん私は この特権を行使するのに慣れてしまった。
旅行から 帰ってきたら 残念ながらまた元の木阿弥だろう。

チケットを手にして 私は嬉しいような複雑な気持ちでいる。
少しでも長くこの特権を行使していたい。
でも はやくUSJに行きたい。
ジレンマの日々はつづく。 


2002年03月06日(水) 娘を持つ親

私の生活範囲は狭い。
半径数キロで 生活するには十分な情報も得られ物も手に入れる事が出来 息抜きに訪れる公園も 小さいながらも図書館もある。
ただ 映画館はM駅K駅のどちらかまで行かなくてはならない。
月に1−2回私が電車を利用する理由だ。

電車は昼間なためすいている。
しかし遊びに行くわたしは ちょっと遠慮しているつもりだ。
乗客は皆座ってひと時の憩いを楽しんでいる。
そんな時やにわに私の前に座っていたごく平凡な女の子が 自分のバッグから化粧道具をとりだしたのだ。
よく話には聞いていたが実際みるのは初めてだったので 電車の中で個人的用事を済ます女の子の出現に 私は驚きながらも見入ってしまった。
私の視線をものともせず その子は取り出したピンセットを使い眉を整えていく。その空間はまさにその子の部屋の中であり 私たち乗客はただの路傍の石いえ・・それすらなくて存在していないかのようである。

私は残念ながら 最後まで見届ける事が出来なく途中で下車したが みんなの視線に居直ったのかそれともそこまでが彼女のコースだったのか 私が最後に見たのは春らしい色の口紅を取り出すところだった。

どんな家庭に育った子なんだろう・・・改札口を抜けながら考えた。
案外私と変わらない普通のお母さんのいる 普通の家庭だったりて・・。
「うちの子に限って」の常套句をつかう程私は私の子を買いかぶってはいない。
一歩外に出たらきっと私には見せない顔の1つや2つ位持っているのではないか。
信用していないのではないが私に見せるのがありのままの自分・ではないだろう。

うちに帰ったらざっくばらんに聞いてみよう。
大衆の面前で個人的行為をすることが ショーになってしまうことを知っているかどうか。
そんなの人に迷惑かけてるわけでも無しいいじゃないのという人もいるだろう。
たしかに 他人に迷惑さえかけなければ何をしても良いという世の中になりつつある。
でもそれが ちょっと話が飛びすぎるかもしれないけれど 援助交際とかを生む一つの原因になってはいないだろうか。
そして他人に迷惑かからないからとしている事で 自分の首を絞めていることになっていないだろうか。
化粧と援助交際ではひとくくりには出来ないけれど 自分に対してあまりにも無防備な様子に女の子を持つ親として不安を感じる。
「何でも有りの世の中なんて無いのよ。自分のしたことはみんな自分に振りかかって来るのだから。」
人込みを抜けながら さて 娘はなんと答えるだろうかと考えた。


2002年03月05日(火) チューリップの鉢

太陽の日差しはポカポカ暖かいくせに 風がちょっぴり冷たく 私を震えさせる。
今日は思い切って庭の手入れをしなくては・・・。

思えば去年の春 ちょうど今ごろ庭の手入れをしてからすぐに手が腫れてしまったのだ。 
それも手首から先だけぱんぱんに腫れて 膠原病の疑いありという事で今も病院通いが続いている。

そんな私にとって 荒れていく庭を見るのもいやなものだが 去年と同じ辛いめにあいたくないという思いのほうが大きかった。
それで 1日伸ばしにしてきたのだったのだが 今日は思うところあって 自分をいじめたい気持ちになっていた。

あえて 素手で雑草を抜いていく。
自分に対して怒っている私は 動作も速い!
あっという間に ねこの額ほどの庭はすっきりと片付いた。
その頃には私もすっかり暖かくなって 腕まくりをしていた。

レンガで囲った小さな花壇に積もっていた落ち葉をどけると 去年あの騒ぎで取り忘れたちゅーりっぷの球根が 芽を出し10センチも伸びていた。
それは 自然の営みなのだろうが 私はふいにいとおしさに駆られ それを鉢に移し替えた。
球根はとても小さくでもその生命力のありったけを使って 葉を伸ばしている。
何色の花を咲かせようとしているの?
もしかしたら つぼみはつかないかも知れない。
けれど ちゅーりっぷはそんな事お構いなしで
ぐんぐん伸びようとしているように思えた。

居間の窓辺に座りながら コーヒーを飲み 植えたばかりのビオラが風にゆれるのを 窓越しに眺める私の隣には あのチューリップの鉢がある。

私は 昨日ある失敗をしてしまった。
失敗をした自分を許せなく思うのは当然のことだが それ以上に私自身を許す事が出来なかったのは 思い上がった気持ちを持っていた事だ。
私は自分というものが 恥ずかしく 自身に対して怒っていたのだ。
しかし 偶然に現れた一つの球根。
去年から忘れられ それでも必死に葉を伸ばそうとする生命力に 私の気持ちは洗い流された。

人に間違いはつきものだけれど 十分反省した夜を過ごした後 まだ何の失敗もしていないまっさらのあしたが明けてくる事の喜びを もとう。
そして精一杯生きていこうと 傍らの鉢を見て思った。



2002年03月04日(月) 何とかここまで来れたのは・・

一歩一歩あゆみは遅くとも 前進してるということは嬉しい事だ。
ここを始めるのは 娘に背中を押されてだった。
途中止めようかと思ったときは BBSの偶然の書き込みを読んで思いとどまったのだった。

なんとか体裁を繕っただけで 少し気持ちに余裕が出てきた頃 バナー作りの話をふってくれたネットの先輩。
それならと 気になっていた壁紙 アイコンに手をつける気になったものだ。
彼女は親身になって教えてくれた。
そして 画像UP出来ないでいた私に わかりやすくなんとか出来るようにと 声をかけ教えてくれたもう1人の先輩。

このなかの誰か1人でも居なかったら 初心者の私は多分ここまでこれなかったと思う。

袖擦り合わすも他生の縁 の言葉が 人のありがたみが身に染みる毎日である。

しかし私の頭は 許容範囲を超えた働きをきょうしてしまった様で ヒートアップした状態で寝られそうに無い。
まだまだ 覚えなくてはならない事 いっぱいあるのにね。


2002年03月03日(日) 一年の長さ

一年 一年 人は年を重ねていくごとに同じ一年のはずなのに短く感じるという。
かくいう私もそのくちで 今年ですらもう3月にはいってしまった とびっくりしている。
この事については 面白いはなしがある。

今は 捜すのも大変になってしまったドーナツ盤のレコードをちょっと思い浮かべて欲しい。
はじめに針を置いた所の一周と 終わり近くの一周では 勿論長さが違う。
同じ一周をまわっていても その時間は違っているわけだ。

何もかも初めてで 新鮮に思え その都度考えたり 感激したり 嘆いたりして生きていく若い頃。
おおよその事は 経験済みで 驚き慌てる事無く穏やかに生きている頃。

レコードが 同じ一周を時間を変えてまわるように 人生も 同じ一年が 長くも短くも感じられる。 
その人が 今 レコードのどこにいるかによって・・・。

いかがでした?あなたは いま どこに??


2002年03月02日(土) 喜ぶべきか??

私は PCを始める前はテニス・読書・映画鑑賞が三大趣味となっていた。
これらは PCにいまのところおされ気味ではあるけれど それでも私からこれらを取ってしまったら なにが残るのだろう?

日本で開かれるテニスの大会として 東レPPCがあり 今年も勿論観戦にでかけた。
そこで テニスショップ主催のプレゼント企画があり 私も駄目もとで1人しか当選しないというスタッフ・ジャンパーに応募した。
応募した事すら忘れていたきょう メールで当選のお知らせが私に届いた。

「わ〜 うれしい!」
しばらくは 当選を知らせる画面に見入っていたが ちょっとして興奮がさめると私は複雑な心境に達した。
「これで 今年の運は多分使い切ってしまっただろう。よかったと喜ぶべきか・・・・。」

何かもっと良いことと スタッフ・ジャンパーを引き換えにしてしまったように思う私は テニスファンから 袋叩きにあうだろう。
少し前なら 素直に喜んでいただろうに・・。

今の私は いったい なにが望みなの 


2002年03月01日(金) カルボナーラ

「yuuna 今日のお昼なにがいい?」
「何でもいいよ ステーキ定食なんて言ったら お母さん 困るでしょ」
「最近 あなた 嫌な事言うわね。・・・・・昨日の生クリームが残っているから カルボナーラにしようか。」
「OK でも おかあさん カルボナーラだったらちゃんと お塩きかしといてよ。健康にいいとかいって なんでもちょっとにするから 味がぼやけちゃうのよ」
「ハイ ハイ・・・ところで あなた 将来は何になるつもり?」
「そんなのまだわからない。 高校受験終わったばかりじゃない。」
「そうだけれど 器用だし お料理も得意だし
スパゲティのお店を出すなんていいんじゃない?」
「おかあさん 私に働かせて楽しようとしてない?」

「ん〜ん カルボナーラで思い出したんだけれど 昔おかあさんがまだ若かった頃会社が高樹町にあってね。そこはいろんな国の大使館が沢山あるところで 外人が多かったのよ。」
「おかあさん いまどき 外人なんていったら 差別用語だよ」
「あら そうなの じゃアメリカ人やイギリス人やフランス人や・・」
「もういいよ それで・・」
「だから その人たちの為のレストランがあったわけよ おかあさん そこではじめて カルボナーラ食べたの。その頃スパゲティなんて言ったら ナポリタンとかミートソース位しかなかったんだから。おいしくてね。水曜は習い事してたから 必ずそこで食事してから行くのだけれど 私は毎週カルボナーラを食べたのよ。」
「おかあさん こるからね」

「うん それでね いつもいつもだったんでお店の人も覚えちゃて なにもいわずともカルボナーラが出てくるようになってたの。そしてある日 カルボナーラの量が異常に多かったのよ。2人分とまちがえちゃったのかなとも考えたけれど おなかすいてたし 食べちゃったの。コックの人が顔をのぞかせて笑ったわ。」
「あんまり よく食べるんで?」

「そのつぎの週 味が変わってたのでウェイターに聞くと 『さすが毎週食べてると分かるものですね。実は彼は本場のイタリーに勉強しにいきました。』と言うじゃない。もうびっくりだった。彼はこの店で人気者でいたのに なにもかもすてていっちゃたわけだからね。」

「その人と私の将来とどういう関係さ」
「そりゃ チャレンジよ まだ若いくせに何かちまちままとまっちゃって それでいいわけ?」
「余計なおせわです。 私だってやる時はやるよ」
「なにを?」
「今は それを考えてる時なの。ちょと黙ってみていてよ。」
「あら そうなの。yuuna何も考えていないのかと心配してたんだ。・・・・ハイハイ スパゲティ出来上がったわよ」
「ちゃんと お塩きかせた?」
「あ  わすれた!」
「・・・・・・。」

今日の昼 お台所で。
その後イタリアから帰った彼は六本木でお店を開いて おりからのブームにのって繁盛しているらしい。
私が のこのこいっても もうきっと忘れているだろうな。2人分食べちゃった女の子のことなんか。


まみい