遠くにみえるあの花火に
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2004年11月30日(火) ほそくほそく続く道の先

今日で11月も終り。
早いなぁ。

大好きな11月がこんなにあっという間でいいんだろうか?
それは仕事が順調であるという証拠かもしれないし、
ただ単に歳をとっただけということかもしれない。


去年の今ごろ、私はいったい何を考えていただろう?と思って
昔の日記を開いた。

私は25歳になったばかりで、「無関心」という迷路から
ひょっと抜け出たように感じていた。

「無関心」とは、若さ特有のものかもしれないし、
私特有のものかもしれない。
どちらにしろ、その迷路にまぎれこんでいたことで、
私は私自身の内面として、「きちんとした大人」になれていなかった。

無関心であることが、かっこいいような、
また、そのアンニュイな様子が、物語的なような、
そんな風に思っていた。

無意識の無関心で人を傷つけて、
無意識の無関心に安心していた。

私は私を、そのようにして守ってきた。

けれども25歳になった時、
もうその必要はないのだと、ふと気付いたのだ。

そうして、ある晴れた朝ふと目を覚ました時、
私は「無関心な子供」ではなくなっていた。

それは突然に、ひょっと、私の中でスイッチが切り替わったようだった。


もう、誰にでも心を寄せて、
私は私を表現することができるのだ。

怖がる必要はないし、格好をつける必要もない。

無関心な子供でなくなるとは、そういうことだ。



そうして、それから1年たって、私はまたひとつ歳を重ねた。
徐々に徐々に、
ゆっくりと「大人」というものに馴染んできている。
馴染んで、少しずつ成長している。


早く歳をとりたい。
昔からそう思っていたけど、今やっと、その資格を得たという気がする。
私の目標は40歳にあって、
40歳になった時、どれくらい魅力的な人物になれるか。
40歳になった時、どれくらい充実した人生を歩んでいるか。

それが私のみている未来だし、場所なのだ。
そこに目線をすえて、じっくりと歩んでいく。

私の前に続く道は、ほそくほそく、消え入りそうだけれど、
ずっと先まで続いていると、そう信じていようと思う。

そう信じて、今日という日をまた前をむいて進んでいくのだ。






2004年11月27日(土) お酒を飲みながら語られる言葉の

昨日、関東からわざわざ遊びに来た知人と
京都の先斗町で飲んだ。
先斗町っていうと聞こえはいいけど、
そこからちょっとはずれた所にある店。

そこにけっこう長く居座ってから、
インターホンを押して入る小さなBARに行く。
私より2つ3つ上だという女性二人がやっているBAR。
目立たないところにあるからか、先斗町という立地からか、
わりと有名人がお忍びでやってくるらしい。

たまにはこんな店もいいなぁ、と思いながら
カクテルをすする。

店を満たす音楽は、今時めずらしくドーナツ型をしたレコードで、
クリスマスソングがやわらかく流れていた。


この日のメンバーは、普段のものとは少し違っていて、
いつも電話やメールでだけやりとりをしていて、ずいぶん知った気でいる人と
でも初めての、顔合わせだった。

声だけを聞いて、あるいはメールの硬い文面だけを見て抱いていた人物像と、
実際に会ってみると、その印象はすこうし違っていて、
本当は、ぽわわんとしたところもある人なんだな、とか、
本当は、ちゃきちゃきしたところもある人なんだな、とか、
この対面によって、それぞれ一方向に偏っていたイメージが、
少しだけくくくっと公正な位置に針を戻した。

まるでオフ会みたい、と、心のうちで10回くらい思う。

勝手に膨らませていたイメージを軌道修正させながら、
少し浮かれた気分になって、「熱燗たのんでいい?」なんて、言う。

隣で焼酎をすすっている連れが、ははは、っと笑った。





で、深夜に帰宅。


今朝は二日酔いで9時ぐらいまで眠りこけ、
「朝ごはんできたよー」
という旦那の声で目をさます。



ああ、うう。





午後遅くから兄夫婦の家へ。
甥にクリスマスプレゼントを渡す。
青い毛糸の帽子をプレゼントし、さっそくかぶって見せてもらう。
か、かわいい〜。。。

かわいいねぇ。と言うと、
かーいーぃ?と自分で言う。



小一時間でおいとまし、旦那の両親と食事するため、
地下鉄に乗って大阪中心部へ。

今夜は「河豚」でした。

ぜいたくだぁ・・・と思いながら、おいしくいただく。
ものすごく頑固でこだわりをもっている料理長がいる店で、
色々と細かな約束ごとがある。

・・・7分〜8分の間隔で料理が運ばれてきます。
・・・運ばれてきた料理は、その時が一番おいしい状態です。
・・・いったんお話は中断していただいて、料理を召し上がってください。

、みたいなことが机の上の紙に書いてあり、他にもいくつか決まりごとがある。
完全予約制で、しかもその予約も、名簿登録しないことには予約できない。
いわゆる「いちげんさんお断り」なわけだ。

でも、というか、
だから、というか、料理はどれもおいしかった。
もうお腹ぱんぱん。


ひれ酒もたくさんいただいて、今夜もほろ酔いになる。



そして今、こうして日記を書いている。


あとはゆっくりと眠って、
明日もまた、朝寝坊・・・かな?




2004年11月25日(木) 極上の一日

今日は誕生日だったので、自分へのプレゼントに
ヴィタメールでフィナンシェを買って帰った。

静かな一日だった。
まったくもって、理想的な誕生日。

夫から「ハッピーバースデー」とメールをもらい、
親しい友人から「誕生日おめでとう」と言われ、
親から「おめでとうさん」と電話があった。

親は意外と忘れないものなんだな。
私なんて、親の誕生日はすぐに忘れてしまうというのに、
ちゃーんと電話がかかってきた。

実はこれが一番うれしかったことかもしれない。
期待していたことが、かなった嬉しさ。
家を出て、親からおめでとうの電話がある。
なんとなく夢見ていたひとコマだったのだ。

でもそれ以外にこれといって特別な出来事は何もなかった。
ごくありふれた平和な一日。

そういうのって、極上の一日だ。
贅沢でぜいたくでゼイタクな一日。


るる、るるるん。


2004年11月22日(月) パソコンと眠り


土曜日は夫を朝6時ごろ送り出し、
それからまた、こんこんと眠り続け、9時に起床。
10時半ごろ、訪問客が一件あり、
玄関先で、まぁまぁ、ぺこぺこ、と会話をした。

それから、午後3時ごろまで「りとろぐ」をいじり、
4時前には家を出て、久しぶりに実家へ帰った。

父親と母親と二番目の兄と私と、4人で鍋をつつく。
そこでは、12月に予定されている家族旅行について話し合われ、
また、親戚の問題についての報告がいくつかなされた。

夜9時ごろ家に帰る。
夫は飲み会で、電話をしたら「来る?」なんて言う。
やめとく、と返事をして、ひとりでパソコンを開く。

そうして、幾人かの知人にメールを出した。

「やっと、ご連絡ができました。
まだ、お伝えできていない人たちもたくさんいます。
徐々に、またもとのように、お話できたらなぁと、思っています。」


日曜日は朝から買物。
甥っ子のための、クリスマスプレゼントを選ぶ。
それから私自身の、誕生日プレゼントも買ってもらう。

午後4時、あまりに眠くて遅い昼寝をする。
6時半くらいまで。

眠っても眠ってもまだ眠い。

夜も11時くらいには就寝。








村上春樹『アフターダーク』読了。
今年の秋の読書はあたりばかり。
おもしろかった。
現在形だけで綴られた物語。
すばらしいなあ。


今は村上春樹『遠い太鼓』を再読中。



2004年11月18日(木) 「UNFORGETTABLE」

出会ってから3回目のボジョレーだ。

毎年同じラベルのボジョレーを購入し、
このラベルが10枚も20枚も溜まったら幸せだねと、
そんな約束をしてから3回目の冬が来る。

今年は14日の日曜にわざわざ予約をしに行き、
今日、てくてくと歩いて、そのワインを受け取ってきた。

「ワイン」というものに全く興味がなかったというのに、
彼の影響で、私はボジョレーを解禁日に飲むようになってしまった。
それでもまだまだワインのことはさっぱりわからないけれど、
彼がワインのことを話しているのを聞くことは、とても好きだ。

「UNFORGETTABLE」

そのワインのラベルには、そう書かれている。

案外ロマンチックなんだね、なんて思いながら、
でもそうやって、
何かが積もっていくことを大切にできるということは、
素直に喜べることだ。

これが10枚も20枚も溜まるころには、
私たち二人の子供たちも、ずいぶん大きくなっていることだろう。

そして、私たちの繰り返される習慣を、ひやかしたりもするだろう。

そんな時そっと抱き寄せて、
ひとつひとつのラベルを見せながら、
「この年に私たちは出会ったのよ」とか、
「この年に、あなたが生まれたのよ」とか、
その年々に起こった出来事を、ゆっくりと語って聞かせたいと思う。


そんな風に夢見ていることは、人にはなかなか話せないことだけれど、
日記でなら言えてしまう。
本当の気持ちだ。



いつか何かで彼とケンカをすることがあったら、
このワインたちのことを思い出して、
また仲直りできたらいいと思う。




2004年11月16日(火) 村上春樹『アフターダーク』を読み始める

昨日の夜から「アフターダーク」を読み始めた。

村上春樹のアフターダーク。
読みながら、無意識のうちに夜の闇の気配をたぐりよせようとしている自分に気づく。
冒頭は、ファミレスの白々とした灯りの中の場面なのに、
窓の外の闇ばかりを意識してしまう。


明るいファミリーレストランの中で、
四角い4人掛けのテーブル。作り付けのソファ。
そこに差し向かいで座る二人を、通路側から私は眺める。
二人の背景にあるのは、四角く切り取られた窓の外の闇だ。


そんな風に、私はこの物語のそこかしこに夜の闇を感じる。

まだ物語りは始まったばかりで、
時計の針は、ほんの少しずつしか動かない。





村上春樹さんの小説は好きだけれど、時々、
この人の物語を読むのにはエネルギーがたくさんいる、と思うときがある。
以前の『海辺のカフカ』なんかがまさしくそうで、
うんうんとうなりながら読んだ。

今回のこの『アフターダーク』はどうだろうか?
今のところそれ程のエネルギーを必要としない。
電車の中でも読むことができる。
それがいいことかどうかは別として、
エネルギーをさほど必要とせずに読めるということは、
私の中に浸透しやすい物語だということなんだろう。

けれどももちろん、エネルギーが要るからといって、
私の中に浸透しないというわけではなく、
エネルギーがたくさん要るということは、
それだけ、私を考えさせるということだし、
物語と私の力関係において、物語の方が手綱を握っているということだ。

(つまり、どちらであっても、物語のすばらしさは変わらない。)

他の人がどう思うかわからないけれど、
私にとっては、
『海辺のカフカ』は『ノルウェーの森』や『スプートニクの恋人』に近く、
『アフターダーク』は
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に近いと感じられる。

(どちらがいいとか悪いとかいうのでは、なくて)






それにしても、先を読むのが楽しみだ。










2004年11月13日(土) りとろぐでプログ始めました

と、いうわけで、ようやくりとろぐを開始しました。

まだスタートしたばかりで、中身があまりありません。
はははー。

過去にゴザンスへ投稿したものが読める程度です。

こちらの日記と、同タイトルで始めています。

重なる部分も多いだろうなと予想されるのですが、
ここで、時々書いていた小説は、
りとろぐの方へ載せることになります。

まあとりあえず、ゆっくりがんばります。

■りとろぐ「遠くにみえるあの花火に


2004年11月11日(木) たりたくみさんの日記に寄せて/井上荒野『もう切るわ』読了




必要なのは不幸であることではなく、
幸せの中に潜む不幸を見つめられることであり、
不幸の中に横たわる幸せに気づくことなんだろう。

(11月10日 たりたくみさんの日記より)



ここでいう必要とは、小説を書くために必要なことという意味だ。
まったく、溜息がでる。
世の中はこんなにも、共感できる言葉に溢れているんだと、
つくづくそう思う。

幸せの中に潜む不幸。そうして、不幸の中に横たわる幸せ。

私はそれらをとても大切に思うし、また、それらこそが
ごくありふれた日々の中に、当たり前にあり、
また、当たり前なことと受け入れるべきことなのだと思う。

毎日の中でちゃんと、機微というものを拾いあげ、
幸福にも不幸にも、ちゃんと気づいてあげることが大切なのだ。

小説を読むということは、作家によって拾い上げられたそれら小さな機微を
見つめることであるし、そして自分自身の生活にふり戻った時、
あらためて自分自身の毎日の中にそれらを見つめる目を絶やさないようにと、
気づかせてくれることだ。

だからこそ、小説を書く作家というものは、
それらをきちんと拾い上げる能力を持っている必要がある、
ということなのだろう。


私はそういう価値観を好むし、そういう、
小さなものからしか、得られない細やかな人生のひだがあると思う。









さて、井上荒野さんの『もう切るわ』を読了した。
ついに読了してしまった。
けれども読了して、またすぐに読み始めた。


一人の男がいる。男には妻と愛人がいる。男から離れていこうとしている妻。
男からの電話をひたすら待っている愛人。
ある日、男は不治の病におかされ、死期を宣告される。その瞬間、ありふれた
三角関係が、奇妙に揺らぎはじめる。男が最後にあいしたのはどちらだったのか。
あるいは女たちが真実愛したのは誰だったのか。
・・・・・・・男と女の心の迷路を軽妙に描く傑作小説。

(井上荒野 光文社文庫 「もう切るわ」 裏表紙より)
 


ミルフィーユの日
アマゾンの蟹
鍵穴
ゾルキー
泡ガラス
スイトルヨ
川の犬
ピクニック日和
水の中
切符
赤いスカート
ペリメニ
太陽
キス
アイスキャンディー
もう切るわ


これらの単語で章立てされた物語は、小暮歳という一人の男をめぐって、
この男を「夫」と呼ぶ妻と、「歳さん」と呼ぶ女の、
二人の女の、かわるがわるの視線で語られる。

井上荒野さんは、あとがきでこんな風に言う。

「一人の男が死んでいく時間を背景にして、他者に向けてではなく、
むしろ自分の内部に向かって幾度も塗り重ねられ、塗り替えられて、
揺れ続けるものを、揺れるまま綴りだそうと考えたのでした。」


二人の、いや、三人の、揺れつづける真実。
それはどこにあるのだろうか?
揺れるままに綴りだされたものは、どこまでもどこまでも、
揺れつづけているようだ。

読み終えた今もまだ、そこここに「気配」を感じる。

その気配はさまざまな色をもっている。
愛人である女の、男を想う、まちわびた色。
別の男を愛そうと決めた途端、病に犯された夫と、妻をつなぐ悲しみの色。


今日の雨のように、いつのまにか、しとしとと、
私の肩や手や髪やまぶたに、物語の気配が降りそそいでいる。


2004年11月10日(水) つまり、疲れているのだ

水曜日だというのに金曜日のような心もちの日。
何回溜息を吐いただろう・・・?

つかれたつかれたつかれた。

頭の悪い小学生みたいに、そう落書きでもしたいような日。

仕事が忙しい。
仕事のことばかり考えている。
そんな気がしている。

本当はどうだろう?

物語のことばかり考えているのかもしれない。

つまり、疲れているのだ。




おいしいオムライスを食べて、元気出してね。
うん。ありがとう。








うん。ありがとう。










2004年11月09日(火) どこまでもどこまでも、秋は続く

秋はどこまでも深まっていく。
冬の気配をおし隠したまま、かさかさと枯れた葉ずれの音を響かせながら、
どこまでもどこまでも、秋は続いていく。
終わらない秋、というのがあっても、私は困らない。





井上荒野さんの「もう切るわ」を読んでいる。
おもしろい、おもしろい。
妻と、夫の女との、文章のトーンの違いに、溜息が出る。
すばらしいなぁと思う。

いま、物語は架橋にさしかかっていて、
これからどんな風に物語が転がっていくのか、
とても、わくわくしている。

久しぶりに、うっとりするほど物語にのめりこめる小説に出合った。
こういう小説、書きたいなぁ、なんて・・・。



2004年11月08日(月) ミルクティーを飲みながら

秋の夜はミルクティーにかぎる。と、誰も言ってくれないので
自分で思いながら、やかんにたっぷりのお湯を沸かす。

ちょっと古いけど、この紅茶だいじょうぶかな。
香りはすこしぼやけてしまってるけど、まあいいや。

特にミルクを温めるでもなく、そのままとぽとぽと控えめに紅茶にそそいで、
ミルクティーのできあがり。
雑にいれた紅茶は、やっぱり雑な味がする。

それでも、「紅茶は人を元気にする」のだと、
昔読んだ小説の主人公のように、心の中でつぶやいてみる。

そんなミルクティーを飲みながら、ゴザンスからりとろぐへの移行作業を行った。

なんだか、ふたを開けてみれば「ひどく」難しげな作りになっている。
みんなが「悪戦苦闘」し、「りとろぐ研究」をありがたがるのも良くわかる。

私も、そのうちあちらこちらの方々のお世話になるかもしれない。

今日はとりあえず、昔のデータをよっこらしょと移しただけだ。
これからどうなっていくのだろう?


まあゆっくりと、お得意のマイペースでやっていくしかないのだろうなぁ。



そうそう、昨日本屋さんに行ったら、偶然江國さんの「東京タワー」の帯に
「映画化決定!!」の文字を発見しました。
主演は黒木瞳と岡田准一だそうです。

えー、ぜんっぜん知らなかったよ!
んもう。そうなんだー。

黒木瞳が詩史さんで、岡田准一が透?

すごいなぁ。

どんな映画になるんだろう。
これは観に行かなくては。





2004年11月07日(日) よしもとばなな『海のふた』読了

「海のふた」を読み終えた。

ここ最近のよしもとばななの小説の中で、一番好きかもしれない。
魂とか、精霊とか、よしもとばなな独特の響きを持つ言葉が、
今回もあちらこちらに出てくるのだけれど、
主人公たちが殊更に、特別な力をもっていたり、輝きをもっていたりするのではなく、
当たり前のことを当たり前にやっていこうとするその姿勢が、
なんだか好きだった。

ごくありふれた自然。でも、とても大切にしたいと思える自然の景色。
お金が大好きだと豪語し、でも、たくさんはいらないと語る女の子たち。

そうだよなぁと思う。
私だってそうだよ、と思う。

極端な善や悪を、象徴的に背負って登場してくる人物たちの作り出す物語よりも、
ごくありふれた感謝の気持ちを、生活の中に織り込んで生きている人物たちが作り出す物語の方が、
ぐっと近くに感じられる。

いいバランスだなぁと思った。
よしもとばななの伝えたいメッセージも、ほどよく伝わる非凡さ、あるいは平凡さ。
火傷をおった少女。カキ氷屋を営む少女。
それぞれに特別な力はないけれど、海に感謝したいと思う気持ちはとても大きい。

よしもとばななって、好きだけど、どっぷりはまりこめない、と思っていた。
それは、どこか非現実的、というか、
主人公たちがあまりにも非日常を日常のように受け入れてしまっていることに
馴染めなかったのだ。

でも、「海のふた」はなんだか違った。
非日常と日常とが、うまく溶け合っていた。
なんだかすんなりと、彼女たちのこころざしを受け入れられた。
私もこうあろうと思えた。
そういう、力のある小説だと思う。





「海のふた」と前後して、北村薫さんの「謎物語」を読んでいる。
ミステリーをふだん全く読まないので、ついていけていない。
が、これをきっかけに、ミステリーも読んでみようかと・・考えている。


2004年11月05日(金) 小説を書きながら



11月3日のページに、小説の続きをアップしました。
もしよろしければどうぞ。。。。







小説を書きながら思うのは、私ってすごく内向きな性格なんだな・・・ってこと。

今回の主人公は、私自身も持て余すネガティブ思考。
いやはや、おもしろい。

どうなることやら。
ふう。



2004年11月04日(木) サカイの天津飯

昨日は久しぶりにドライブをした。
そして、お昼ごはんにサカイの天津飯を食べた。

サカイは冷麺が有名だけれど、天津飯もおいしい。
実家へのお土産に、冷麺を2人前お持ち帰りする。

とてもとてもぽかぽか陽気で、あたたかくていいお天気だった。
帰りの車の中で、槇原敬之の古いアルバムをかけて旦那と二人で熱唱し、
3thアルバム「君は僕の宝物」の中の、「三人」という歌にじーんとなった。
久しぶりにきいた「三人」。

歌詞の内容を簡単に書くと、田舎から東京へ出てきた若者が、
上京したばかりの頃「少し年上のルームメイト」と「その彼女」と3人で暮らしていて、その頃の思い出が、今の自分を支えている。というような内容。

わけもなくじーんとなった。






しかしながら、今日はうってかわって風邪をひいて頭が痛い。
鼻水がぼーぼーでるので、薬局に行って鼻炎のお薬を買った。

鼻水はとまったけど、頭がぼーっとして熱っぽい。

やれやれだ。




2004年11月03日(水) 削除しました


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