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ムシトリ日記
加藤夏来
→ご意見・ご指摘等は

2006年09月26日(火)
囁き

初めてそれを読んだとき、彼女の小説は私に向かってこう言った。




『私は何も受け取らず、そして何も返さない』




私はそれを誰にも告げなかった。言ったところで信じてもらえないと思ったし、もし自分が誰かからそう言われたらこんなにショックなことはないと思ったからだ。小説が言う言葉としては、これは相当にみじめで明日がない。だが今にしてみれば、誰からも相手にされず、信じてもらえず、とるに足りないと思われる言葉だったら、それこそ言ってみるべきだったかと後悔している。

彼女の小説は邪険に扱われていた。どうなってもいい、少しも重要ではないものだと書いた当人にはっきり断言されていたし、事実ほとんど誰からも顧みられることはなかった。

自分で作り出したものをそうやって日陰の身に追いやってしまうことに、私はほとんど迷信的な恐怖を感じる。ツクモガミ、使い込んだ道具でさえ命を持つと信じられるのに、自分の脳を原料にした物語が命を持つことはないだなんて、私にはそれこそ阿呆の世迷言にしか思えない。

よくない趣味だとは思うけど、私はそうやってあるじに捨てられた道具、壊れ、欠け落ちて、見放された物語を見つけると、黙って彼らが言うことに耳を傾ける。時間をかけてその人について出した結論のどれよりも、その言葉は真実だったりする。

私は怖い。真実が怖い。だから、非常にしばしば、自分の耳を疑い、口を閉ざす。ばかな選択だったのだ。少なくとも彼女に関する限り。



2006年09月24日(日)
夢と人

変な夢を見ました。

友人(これは現実の知り合い)と、もう一人の人と三人で街角で待ち合わせをする夢です。会っていくらもたたないうちに、何故か数人の男に絡まれて、その対応でいっぱいいっぱいになってしまうという展開でした。

絡んできたのは外人か何か、とにかくまったく話の通じない人びとで、夢中で単語を並べ立て、しまいにGet outとか何とか叫んで追い払ってから、ふと気づいてみると他の二人がいません。

二人は私が押し問答をしている間に信号も渡って、振り返りもせずに歩いていってしまっていました。やっとの思いで追いついてみると、友人は涙ぐんでいる連れ(女性でした)を慰めようとしており、私を迷惑そうに横目で眺めながら冷静に言います。


『あなたが大きな声で騒ぎ立てるから、可愛そうに彼女を驚かせて悲しませてしまった。どうしてもっと穏やかにやれないんだ。自分のことばかり考えてないで周りに気を配れ』


……友人に向かって物凄い勢いで言い返し始めた、自分の声で目が覚めました。

周囲の状況も人の様子も、どこにも破綻がない現実そのものだったので、目覚めてからも言いかけた言葉がそのまま続いていたほどでした。冷静に考え直せば、友人はそんな時にそんな行動をとるわけがない、むしろ真っ先に割って入るような人なので、個人がどうこう――というより象徴的なパーツとして登場したんだと思われます。

しばらくぶりに個人用の日記を読み返してみたら、ここ一二ヶ月の間に何でまあここまでというほどトラブルが度重なっていました。忍耐力を総動員してしのいでいたのですが、妙に疲れやすくなり、実感的な心象風景は夢の通りになっていたようです。

人間関係を穏やかに収める。というのが大テーマでした。やってみたらそれで幸福になるどころか、夢の中にまで後悔が追いかけてくる始末。中々思うに任せません。無駄なことをしたとも思いませんが。

人と人との関係の落としどころとして、相容れず対立する、というのも立派な選択肢の一つです。コストが大きいため扱いがデリケートになりますが、他にやりようがないと感じれば仕方がありません。これも結局のところ、それぞれの人の分に応じて決まるものなのかと思います。



2006年09月18日(月)
覚え書き

「ああ!」キツネが言った。「……ぼく、泣きそうだ」
「きみのせいでしょ」王子さまは言った。「ぼくはきみに、いやな思いなんか少しもさせたくなかった。でもきみが、なつかせてって言ったから……」
「そりゃそうだよ」キツネは言った。
「でも、泣くんでしょ!」
「そりゃそうだよ」
「じゃあ、いいことなんてなかったじゃない!」
「あったよ」とキツネ。「麦畑の色だ」



「きみたちは美しい。でも外見だけで、中身は空っぽだね」
王子さまは、さらに言った。
「きみたちのためには死ねない。もちろんぼくのバラだって、通りすがりの人が見れば、きみたちと同じだと思うだろう。でもあのバラだけ、彼女だけが、きみたちぜんぶよりもたいせつだ。ぼくが水をやったのは、あのバラだもの。ガラスのおおいをかけてやったのも、あのバラだもの。ついたてで守ってやったのも、毛虫を(蝶々になるのを待つために二、三匹残した以外)やっつけてやったのも。文句を言ったり自慢したり、ときどきは黙り込んだりするのにまで、耳を傾けてやったのも。だって彼女は、ぼくのバラだもの」



「さようなら」キツネが言った。「じゃあ秘密を教えるよ。とても簡単なことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」

「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」

「人間たちは、こういう真理を忘れてしまった」キツネは言った。「でも、きみは忘れちゃいけない。きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任をもつんだ。きみは、きみのバラに、責任がある……」



(『星の王子さま』 サン=テグジュペリ 河野万里子訳)



昔から童話が好きです。今もずっと好きです。







最近マジな話が続いたので、中和事項。

我が青春の



2006年09月16日(土)
収穫2

お盆周辺を利用して、和装の勉強をしてみました。元々興味はあったので、初めて浴衣を買うついでがあったのです。浴衣は入門編としてはとても適当なもので、高校の家庭科の課題で作ったやつを練習用に引っ張り出してきて着ていたら、すっかり単なる部屋着になってしまいました。

着物は面倒だとよく言われます。確かに、いざ手をつけてみたら今まで知らなかったことをいっぱい教えられました。まあ、それを見越して長期休暇に割り振ったわけですが、まさか大学の授業というほど内容が多いわけでもないので、休みの日ののんびりしたおしゃべりです。

着物屋の店員さんと帯やら飾り物やらを前におしゃべりして、帰ってきたら私の趣味が派手すぎると文句を垂れる母とおしゃべりして、お盆の親戚の集まりに着ていくとまた、相好を崩す祖母や叔母と着物談義に花を咲かせたりして。そこで色々な情報をもらうわけですが、知識そのものよりも話し合う過程で起こる副産物がとても豊かでした。


ぜんぜんボケていない祖母が玄関に立った私に、真剣な口調で「どちらさまですか?」と言っただとか。
着物を畳むために床を広くしておかないといけないので、いつもの部屋が妙にきれいに掃除されているだとか。
ある程度以上の年齢の女性は、例え着ているのを一度も見たことないような人でも、それなり着物の着方について一家言持っているものだとか。着道楽の従姉妹たちなどは、別に年でなくてもDIYで着物アイテムを揃えているだとか。


「女らしい」とはどういうことか、というのが、長い間の謎になっていたのですが、自分で着物を着てみたら、いきなり解けました。なるほど、この服を着ていたら、女らしい仕草をするほうがずっと合理的です。

基本的に脚を揃えて行動する、走ったり足を上げたりしないのは、着物でそういうことすると裾が乱れてみっともないからです。袖を気にすれば自然にそっと手を出すようになるし、座るときは正座でないとバランスがおかしい。そして、両手を揃えて膝に置くのが確かに、一番美しい形になります。さらに美しい動作を追及すれば、お茶席か何かで様式化された型を覚えこむのが、最も手っ取り早いということになるでしょう。

何だ早く言ってくれよ〜……という気分でした。これはただ単に、カテゴリーが違うのです。競泳の自由形とバタフライみたいなものです。誤解のないよう言っておきますが、和装に男女平等や民主主義はありません。そういうことをするようなつくりになっていないのです。男と女というものをまず厳格なしきたりによって分けるところから、「男らしい」や「女らしい」を築き上げているものですから。それはフィクションなので、学習によって身につけないといけません。ただ、それを言うなら全ての社会的なありようというのはフィクションだと思いますが。

着物を着て街を歩いてみたとき、初心者でもはっきり分かる扱いの差にたまげました。偶然道で出会った会社の先輩や、行きつけのカツ屋の大将が固まったのは普段とのギャップとして、知らないお年寄りが明らかに選んで道を尋ねてきます。丁寧に帽子をとって挨拶してから。

着物を着ているということは、そういうフィクションやルール、別の言葉では礼節を身につけた人であるというサインになっているわけです。試してみるまではそういう特典に気づきませんでした。実際目の前にしてみると、たいへん気持ちが揺らぎます。うちの祖母を含め、お年寄りが皆尋常じゃなく喜んでくれたもので。

というわけで、浴衣を着たり畳んだりするために随分すっきり整頓された部屋で、これをまとめています。夏以外も練習しようと思ったら、最低あと袷と襦袢がいるんだよな。さすがに六万は高いよなあ……。



2006年09月14日(木)
そう言えば収穫

気温はすっかり下がってしまいましたが、この間お盆で実家に帰った折に棚を探したところ、中学・高校のときの文芸部の部誌が出てきました。

予算の都合上1Pとか3Pとかで作品を終わらせねばならず、大抵の部員が詩を出している中で、えらいこと字を詰めて小説を書いているあたり、我ながら頑張った痕跡が見えます。

それでも作品は三篇とかにしかなりませんが。

………。



もういいよ分かったよ私が悪かったよ。

死ぬまで実の兄妹の悲恋ものを書くよ。



まさか全部その手の設定になっているとは思いませんでした。13歳のときの小説なんてすっかり忘れてた……。



2006年09月13日(水)
飲酒運転

学生時代、しばらく付き合っていた男はお約束のように車が好きな人でした。田舎のことですので、もともとスピードに関するモラルは低いほうだったのですが、その人は殊更にスピードを出すことを自慢する傾向にありました。

ダッシュボードのところに小さな機械がついていて、何気なくその用途を尋ねたところ、“近くに警察の設置したスピード感知器があると警告してくれる装置”であると言いました。

大して性能のいいものではなかったようですが、『そんなものをつけなくても、最初から法定速度で運転すればいいんじゃないか』と言ってみたところ、大笑いされました。彼にとって重要なのは違反を見つけられないようにうまく立ち回ることで、交通ルールを守るという選択肢は融通のきかない、センスの悪い回答だったようです。

一事が万事この調子で、運転が乱暴なことをカッコいいと思って欲しいらしい彼と、そういう態度がいちいちカンに触る、まさに『融通のきかない』私は、何度か言い争いをしました。すると、反感を覚えた彼は、わざと彼の信じるところのカッコいい運転をするようになりました。

で、そういうある日、彼は私を助手席に乗せた状態で余所見運転して、追突事故を起こしかけました。ぎりぎりでぶつかりこそしませんでしたが、青くなって固まっている私を見て、彼は実に楽しそうに笑いながらこう言ったものです。



「やだなあ、そんな顔しないで。俺のドライビングテクニックを信用してよ♪」



心の底から一人で死ねタコと思ったもので、しばらくしてお引取り願いました。このとき以来、交通安全を軽視する奴と運転の乱暴な男は、全員真性のバカだと思うことにしています。仮面ライダーじゃあるまいし、わざわざ危険な状態を自分で作って見せなければ誇示できない技術なんぞ、無いほうがよろしい。

これと似たような理論で起こすのが、飲酒運転ではないかと思います。多分、彼らは自分ではドライビングテクニックがあると思っています。だから、普通人では危険になるような酒を飲んだ状況でも、センスよくテクニックを駆使して危険を避けられると思っています。それが美しい行為だと感じるし、他人よりも優れていることだと思うから実行するわけです。人、それを傲慢と申します。彼らの自己満足や個人的な都合の片一方には、ただの通りすがりの人の命が載っています。たまったもんじゃありません。

ルールを無視することを、カッコいいことにしないでください。

上のような思考をする人にとって、まず確実に「酒を飲んで運転しても捕まらなかった(ルールを無視しきった)」ことや、「飲酒運転でも事故を起こさなかった(ルールを無視しても問題なかった)」ことは、カッコいいことです。そう思っていることは、自分で吹聴してくれるのでよく分かります。ルールを守る能力が無い時点で、ただの恥さらしだという感覚を、浸透させていく以外にないんではないでしょうか。



2006年09月12日(火)
収穫1


このところ、業界のパーティっぽいものに参加する機会が少しありました。上司が非常にできた人なので、見聞を広げてこいと若手にそういうものを回してくれます。ただ、偉い方だらけの中に急にヒラ丸出しが紛れ込んだところで、お話を怖れ入りながら傾聴しておしまいなのですが。

そういうキラキラの会場の中で、似たようなオーラを放っている同年代の男性と名刺交換しました。上司に来た招待状を回されたのも同じ。美味いもんでも食って来いの一言で送り出されたのも同じ。何から話せばいいかで内心頭を抱えているのも同じ。

ずっと実験一辺倒の部門にいたものが、そろそろ渉外に回されそうだと言っていたので、思わず『それはお辛いでしょう』と返してしまったら、ほっとしたような顔でこう言われました。


「一日中ずっと機械に向かってる限りは、ぜったいストレス溜まんないんですよ」

ルーチンワークの固定化している実験者は、たたみ二畳分くらいのスペースで勤務時間中の生活が完結していることも珍しくありません。

「外からお客さんとかがやってきて、相手しなきゃいけなくなると、すげーペース乱されるんですよね。落ち着かなくて嫌だ」


あー、なるほど、それでか。と、思いました。
どれだけ好きな仕事でも、ずっとし続けていれば、いつかは飽きます。飽きたのに無理やりやっていたら、しまいにはうんざりして嫌いになります。

好きだからといって、ある一つのものしかなくなっていた人が、その肝心なものにうんざりしてしまったら、その人はその好きなものを見つける前よりも、ずっと空っぽな人間になってしまうんじゃないでしょうか。



上司という立場の人々は、だから下のものに色んなことをやらせようとするんだな、と、ぼんやりと自分に招待状を回してくれた意図を悟った次第です。






拍手レス

きねづかさん>
お返事遅くなりました(汗 いやいやそんな、真剣にご感想くださっただけで、ほんとうに申し訳ないというか何というか。わざわざありがとうございます。参考になりました〜。
お話を伺って考え込んでみたのですが、そもそもこの長さに対して詰め込もうとしたものが単純に多すぎだった気がします。前半部分は昔話そのものだからと、思い切りよくぶった切ってしまいましたが、よく考えるとそのいきさつの中で背景や二人の感情を丁寧に描写していくことで、読み手は登場人物の気持ちが実感できるわけですよね。サボらずきちんと、ストーリーを追って見せること。そのためには枚数をケチっちゃいけないです。うう、何と初歩的な……。
ご感想をしっかり身にして、次につなげていきたいと思います。ありがとうございました!



2006年09月06日(水)
待つことを考える

ちょっと『黙って、見る』ことにこだわっていました。

色んな人が主張し、ぼやき、あるいは言い聞かせています。それについて何やら言いたいことが湧いてくるのですが、まあちょっと待てよと。話が終わるのを待つことと、自分が言いたいことを考える間に聞き逃してしまうようなことを聞き漏らさないために、時間とエネルギーを使ってみたかったのです。

ネットで見つけていっぺん話の種にしようと思っていた方がおります。物凄い過激な自然保護主義者の方で、どう考えてもその人以外には実行できないような食料や、エネルギーや、水の節約法とかを提案されていました。(気分悪くさせてしまうと失礼なので割愛しますが、公衆衛生方面の方が聞いたら失神するんじゃないかという……)

そして、自分と同じように行動しない世間の人々が憎くてしょうがないらしく、人類よ滅びてしまえ、みたいなことを挨拶代わりに主張されるわけです。自然物に肩入れしすぎて、人間以外の生命体のほうを人間よりも大事にしているようにしか見えません。

その論理があまりに意表を突いていたので、しまいにこの人が次に何を言い出すか楽しみになってしまい、はっきり言うと面白半分見守っていました。

別にその態度が間違っていたとは思いません。誰だって自由に発言する権利があります。それと同じように、その為された発言について何を思うのも自由です。大体そういう見方をしなかったら、この人の発言は単に非常に不愉快なものなので、一秒で関心を失って終わりだったでしょうから。

ただ、私はもうちょっとで、この人の発言をすっかり楽しみ終わって次に行くところでした。笑いはちょうどよく対象物からの距離をとってくれますが、同時にその距離を固定化させる傾向があります。なので、『黙って、見る』対象の中にこの人が入ったのはまったくの偶然です。ちょうどタイミングが合っただけのことです。

その間に、日記の中にこの人の過去が出てくる機会がありました。


『中学1年の秋にほんの少し前までの記憶が全くないことにふと気が付いた時には、本当に恐ろしかった。』

児童虐待から恒常的ないじめ、精神疾患、閉鎖病棟への入院。

『結局自分は、本当に駄目な人間という確信から社会に出れば、直ぐにのたれ死にするだろうという何とも不思議な事を信じ込んでいた。』


何だってこの人は、世の中の人間全部を敵みたいに見るんだろうなと、ぼんやりと思っていました。不思議でも何でもないことだったわけです。当人にしてみれば、世間は敵で人間世界が地獄であることは、当たり前の事実だったわけですから。

それでこの人の何もかもを理解したとは申しません。ただ、ふと気持ちの流れが変わるのを感じました。笑いがごく自然に収まり、待っていなかったらこれは絶対に判断できなかったな、というのも分かりました。

ここに至るまでに、黙って見ていた言葉の中に『時を待つ、というのは、できそうでできないことだ』というのがありました。『死ぬまで足掻け』というのが半ば以上正義になっている社会の中で、確かにそれは難しいことです。いつの間にか、努力することは焦ることと同義語になっていました。それが好きだと思ったことは、一度もなかったんですが。

待つことと足掻くことと、果たしてどちらが勇気のいることなのか、今のところは分かりません。ただ、言葉にしないでいることの価値は、その属性上とても分かりにくいものだと思います。どんなすぐれた文章を書くことよりも難しいかもしれない、この『最後の言葉』を扱う技術を、過不足なく習得できたらいいと思います。