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ムシトリ日記
加藤夏来
→ご意見・ご指摘等は

2006年04月27日(木)
THE HERO

某所にて、『アンパンマン』の作者であるやなせたかし氏のインタビューを目にしました。

さすがにこのアニメだか絵本だかを見たことのない日本人は、ほとんど存在しないんではないかと思われます。幼児の必修科目なので、小学校くらいの悪ガキになると「アンパンマンはその名の通り、常にキメている」だの、「アンコが脳なので、その日の頭部の出来具合によってはヨイヨイ」だの、「実は胴内部に本体がある」だの、好き放題なおちょくられ方をした後忘れられてしまうのがほとんどです。……私だけか?

それはさて置き、やなせ氏は戦中派です。目の前で国の浮沈ひとつで正義が転がっていく光景を目にしてきた氏は、「正義とは、信じ難い」という信念とともに、ひとつの確信を抱かれました。


やなせ:それと、もうひとつ。人生で一番、何がつらいか。「食べられない」ってことなんだよね。「正義の味方」だったら、まず、食べさせること。飢えを助ける。でも戦後ずっと、スーパーマンとかウルトラマンとか、いっぱいヒーローは出てきたけど、みんな飢えている人を助けない。それをやんなきゃ、と


かくしてアンパンマンは、何よりも先に飢餓から子供を救うヒーローとして生を享けました。それから、恐らくは病苦(バイキン)からも。キリストが自分の肉の代わりとしてパンを与えた有名なくだりが聖書にありますが、アンパンマンは頭まるごとのパン、自分の身をお腹をすかせた子供に差し出します。いつものまん丸の笑顔で。

次から次へと消費されていく、ただの日常のパンであることが、この日本屈指のヒーローのアイデンティティでした。いずれ子供が成長したとき、捨てられていってしまう運命を背負って、ほかのヒーローに負けず劣らずアンパンマンも孤独です。

まったくの別件で、例のアニメのオープニングになっている曲の歌詞を通しで目にしました。



アンパンマンマーチ

【作詞】やなせたかし
【作曲】三木たかし

 そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび
 たとえ 胸の傷がいたんでも

 なんのために 生まれて
 なにをして 生きるのか
 こたえられない なんて
 そんなのは いやだ!

 今を生きる ことで
 熱い こころ 燃える
 だから 君は いくんだ
 ほほえんで

 そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび
 たとえ 胸の傷がいたんでも
 ああ アンパンマン
 やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 まもるため

 なにが君の しあわせ
 なにをして よろこぶ
 わからないまま おわる
 そんなのは いやだ!

 忘れないで 夢を
 こぼさないで 涙
 だから 君は とぶんだ
 どこまでも

 そうだ おそれないで
 みんなのために
 愛と 勇気だけが ともだちさ
 ああ アンパンマン
 やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 まもるため

 時は はやく すぎる
 光る 星は 消える
 だから 君は いくんだ
 ほほえんで

 そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび
 たとえ どんな敵が あいてでも
 ああ アンパンマン
 やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 まもるため




もしかしたら、今までで最大の恥をさらします。
アンパンマンマーチを聞いて本気で泣く日が来るとは、夢にも思いませんでした。



2006年04月23日(日)
思い出しメモ

というわけで、郡山の桜を観光に行ってきました。隣県の友人の家に前日お泊りで、本腰入れる! 花見弁当作る!(前日の夜九時からそういうことを言い出す女) と騒いでいたところ、外出しておられた友人の母上からお電話が。


『……お弁当? うち、お米無いよ』


……ぬかった。
スーパーでさえ十一時の閉店時間ぎりぎりに滑り込んで最低限の材料を購入したくらいなのに、生米なんぞコンビニでも手に入りません。がっかりしてとぼとぼ友人の家に引き返すところで、ふと目に入った韓国焼肉店。反射的に浮かぶ、最近印象に残った台詞。
『必要とあれば、政治家にも人殺しにも話しかけます』
「あのー……済みません、米売ってもらえませんか?」
譲ってもらえました。
生米抱えて真っ暗な道を帰りながら、一人で嬉しさに浸りました。何せ日頃自分のコミュニケーション能力にカケラも自信が無いもので、『知らない人と積極的に口をきいた!』『それが役に立った!』というのが……それ以前に『喋りたいと思った!』というのが無闇に誇らしかったのです。

すごく前の発言を繰り返しますが、私は陰気です。
陰気なので、基本的に一人でいる方が好きです。ですが、宇宙の終りまで誰にも存在を知られず死んでいきたいわけでもなく、親しい人と家族合わせて三人か四人とは一緒にいて、仲良くしていければ理想と思うたちの人間です。
でも、人と人の関係をやっていこうと思うと、気持ち以上に技術が重要なので、ケーススタディが少なくてはそれも上手くはいきません。
そういう原理原則は分かっているので、人付き合いを努力しようとはするのですが、すると圧倒的に重くのしかかってくる事実があるわけです。「自分は別に”この、目の前にいる人”と仲良くしたくない。何の興味も関心も持ってはいない。喋りたいと思わない」。

「ああ、自分は他人に興味の無い人間なんだ」と思うと、自分の人間性が根本から否定されたような気分になってしまう。多分気のせいじゃないと思います。「他人に興味が無いんだね!」と、明らかに人を面罵する口調で叫びながら部屋を出て行く人、というのも見たことがありますから。

なので書いていて気づきましたが、根本はあんまりタチのいい話じゃありません。

『どうだ、私だって話したいと思えるんだぞ』『その気になれば、ちゃんと口をきくことだってできるんだぞ』という喜びです。その裏には、『ごめんなさい、話したいと思わなくてごめんなさい、関心を持たない自分でいてごめんなさい』という、過去の自分への復讐心があります。

でもそれ以外に、『普段の自分だったら絶対考えないことも考えられた』『誰かの助けで、新しい自分を手に入れられた』と思ったのも事実です。それもちょっとはしょりすぎだな。前述の台詞を吐いた友人、その一部と一緒にいられたように思ったこと。それを形にできたと思ったこと。後ろ半分はそれです。そして、面白かったのと嬉しかったのは確かです。

意外に長くなったので、あとは別の機会に譲ります。



2006年04月22日(土)
謁見

女王陛下に拝謁を賜りました。


深皿のようなくぼ地の真ん中に、雪のように年月をかむった陛下が座し、お付の貴族方は隅へ引いて威光に拝されていました。

訪れる人々は次々謁見台へ進み出て、うやうやしく捧げ持った陛下の手の下に腰をかがめ、天蓋を覆うレースのドームに見入っていました。

千年の女王です。

膝元に白い花が群れていました。


直リンクです



2006年04月20日(木)

ひどい生理痛に見舞われて、一日よく知らない世界をさ迷っているようでした。眠ったり目覚めたりするごとに、窓の外では風が荒れて雨が降って、また晴れていきました。

つつじも咲くこんな季節になると、いつもはそろそろ上着のことを考えなくなるのですが、今日は寒かったです。

横になっているときに考えることと、起き上がって考えることがまるっきりずれているので、長いこと眠っていたくありません。

滝桜を見てきます。




あなたを愛しています。



2006年04月13日(木)
続きです

何ィーーーーーッッ!!??



予想外の展開でした……。
まずもって、謹んでお詫び申し上げます。すみません空手家一族の皆様。申し訳ありません亡くなったお父さん。ウソついて学校に行けなくなった小学三年生扱いした段、ひらにご容赦ください。以後二度と秘伝書や空手を馬鹿にしません。シンガポールでの武道の精神の普及、どうぞこれからもお父さんの御遺志をつぎ、頑張ってください。

それにしても異文化交流って、本当に難しいんだなあ。肝心なところで意志の不疎通が起こっているようです。そして何年も前にたった三日習っていっただけの外国人をきちんと覚えていた福田さんにも謹んで敬意を表します。



2006年04月11日(火)
ご飯を炊く・実験

ふと見つけたページです。


気になったので実行してみました。道具は台所の片隅に転がってた一人用土鍋です。ちょうど二合になりました。
電子ジャー以外の方法で米を炊くのは、小学校のときの飯盒炊爨を除けば生まれて初めてです。米の量対水の量は不安なのでジャーの中釜に頼りましたが、ほかはこのページ以外、一切情報はありません。一人暮らし・週日・料理ブランクありです。(最近外食ばっか)

その状態での食べ終わっての結論。

電子ジャーとどっちが便利か分かりません。

というのも、もったいない話ですが、普段たまにご飯を(同じく二合)炊いては残し、残った分は半分乾いてしまって食べる気がなくなり、結局翌日捨て……というのを繰り返していたのです。このパターンがとりあえずキャンセルされました。自分の手で炊いていると、残す気がしなくなるんですね。ひどい時は炊いたっきり炊いたことを忘れて丸ごと捨てる、なんてことをしてました。そんなことできるはずありません。

その次。炊き始めてから本当に十五分しかかかりませんでした。

これは本当にびっくりしました。浸潤30分はありますが、それは電子ジャーでも同じです。沸騰させて水が無くなるのを待つまで五分。弱火で五分。蒸らしで五分。びた一分も余分はいりません。そんな時間、洗い物でもしていればあっという間です。うちの場合コンロが一個しかないので占領されているのは痛いですが、十五分をガタガタ言えるほど緻密な時間管理ではありません……。これ、忙しい人はかなりありがたいんじゃないでしょうか?

最後。公平な表現を探そうとしたけど、もう仕方ないな……美味いです。これは確かに、ご飯が美味しい。このまま明日まで置いて冷ご飯になったらどうだか分からないけど、歯ざわりというか食感というか、がぜんぜん違います。ジャーに保温した二日目のご飯と比べたら、だれも同じ米だとは思わないんじゃないでしょうか。

……。
そもそもどうして電子ジャーだけにしようってことになったんだろう。

別に約束したわけじゃありませんが、『生まれてから一回も火で飯を炊いたことがない』というのは別にレアな状態じゃありませんよね。これは単に選択の問題だと思うんですが、なぜにここまで常識として電子ジャー……?

真剣にいぶかりつつ、今日も普通に土鍋で炊きます。どうしよう、うちの十年ものの電子ジャー……。



2006年04月06日(木)
昨夜のニュースになりますが


地元観光協会、目を覚ましてくれ。



不謹慎ながら、この空手家は『家が大金持ちでベンツが五台あって云々』とウソをついてしまい、翌日学校に行けなくなった小学三年生とレベルとしては大差ないと思われます。

一体どこからこんな具体的な地名が出てきたのかは分かりませんが、何故かはるばる日本までついてきた近所の人10名とか、他にも分からないことがいっぱいあるのであえて突っ込みはいたしません。事件としては”外国人が三人道に迷った”だけなのにこのインパクトとスケール。是非見習いたい所存です。

最終的に13−11で2人帰ったことになるわけですが、多分これは「空手に興味が無い」二人の息子さんたちってことでいいでしょうね。ついてくるなよ最初から。そしてお母さんもつれて帰ってあげなさいよ。しかしそうした場合、残るのは近所の人十人になってしまい、いよいよもって意味不明のシンガポール人集団です。

さて、これからはどうなるんでしょうか。順当な展開としては極真空手本部と地元観光協会の壮絶な攻防と、極真を抜けたために名簿からもその名を抹殺され、地獄谷あたりで超人的な修行に明け暮れる闇の格闘家(ホームレスだな)との運命の巡り会い等が予想されますが、超常現象系萌えマンガへの転向も捨てきれません。

どっちにしろ足りないのは十四歳以上二十歳未満の脚のきれいなツンデレ女性です。空手家ご一行さま、頑張ってください。



2006年04月03日(月)
ブロークバック・マウンテン(ネタバレ感想)

ボディーブローと評価する人が素晴らしく多い。その通り、映画館で見ている間の感情が全てでは決してない。間抜けにも、私はラスト近くでイニスがクローゼットで見つけたものの正体を正確に把握していなかったので、最大のインパクトを後付けで理解したことになった。あからさまな説明の非常に少ない映画なので、ひとつのシーンをとっても観客それぞれで解釈が異なる。もちろん、「話が眠くてクソつまらん」という見方も大量にあり、一人ひとりあまりに温度差が違うのでmixiあたりで感想をずらずら見ていくと頭がクラクラしてくる。

この映画は「何を主題とし、どこが眼目であり、それについてどういう態度をとるか」を自分で決めなくてはならない作品である。「ゲイ映画というカテゴリーでくくってはならない、普遍的な愛の物語である」という切り口で入る人もかなり多いし、「間違いなくゲイがその解放の主張を(実態の提示という形で)歌う物語である」とする全く反対の見方もあり得る。そこにあるのがストーリー構成の呪縛を受けていない、ごく普通の人間の姿だからだ。とにかく、びっくりするくらい役者が真実な姿を演じている。主役二人に関して言えば、正真正銘の二十代半ばのストレートなんだそうだが、そのプロフィールを見てとるのは不可能だ。俳優ってここまでするものなのか、と。

そして逆にあまりに生の人間なので、ストーリーのカタルシスを求めてくる普通の鑑賞者が見た場合、単に後味の悪い作品で終わりかねない。見に行った限り、観客が皆揃って悄然として映画館から出てくるので、少々心配にもなった。「面白かったねー!」「あかんわこれー!」と同行者と話し合うのは映画料金の中に含まれていると思うが、これは中々そういうわけにはいかない。個人の胸の中に留めておきたいものが多すぎるのだ。

それは、これがそもそも孤独な愛の物語であるからだと思う。

「おれ達にはブロークバック・マウンテンしかないじゃないか!」

悲痛なジャックの叫びに、全てが入っている。運命の恋人同士として二十年の歳月を送ったにも関わらず、イニスとジャックの間には何もない。夏の日の永遠の愛の他には。妻を迎え、子を産み、社会的な地位を築き(あるいは築けず)、半生を送ってきた間、ずっと心の中の玉座を与えあってきた相手なのに、それでも彼らは相手に対して為すところが何もなく、何かを為されたこともない。

それは、実際に『それ以外の部分』を共同で築いてきた二人の妻、子供たちにしても実は同じことだ。イニスはついに家庭生活を崩壊させ、ジャックは最初から楔の打ち込まれていた、傍目には豊かで経済的にも恵まれた生活を、ほとんど形骸化させながら保っている。ジャックとイニスのような形でなくとも、ジャックとラリーンの間にも、イニスとアルマの間にも、確かに真実の愛情があった。ただ、そのどれもが各人の孤独を根本的に覆す要因にはなり得なかったというだけだ。

ブロークバック・マウンテンの圧倒的な自然描写と、その後に続いていく六十年代から七十年代の典型的なアメリカの街中の描写から、「愛情の楽園であるブロークバック・マウンテンと、そこから次第に遠ざかっていく二人の物語」であるとする見方が多い。すると最終的に絵葉書になってしまった風景と、その隣に二人の記憶の亡霊のようにして並ぶシャツは、楽園の記憶を永遠に忘れることができない孤独な一人の男の、人生の墓標にでもなるのだろうか。

" Jack, I swear."

イニスの最後の台詞は、神に永遠を誓う二人のための言葉である。残念ながら、「死が二人を分かつまで」の時間制限つきの永遠という魔術は、ジャックとイニスに救いをもたらしてくれることはない。そこに何かがあると信じたくても、彼らにはやはりブロークバック・マウンテンしかない。いっそそれが無くなってくれればどれだけ楽かという、イニスの血を吐くような叫びが重い。

ジャックとイニスの場合、目に見える偏見と暴力の形で襲ってくる制限があっただけに逆に分かりやすいが、男女の愛情であろうと結局は同じことではないかと思う。恋は次第に遠ざかっていく。二人で築き上げたものも、最後には日常の中に飲み込まれていく。それよりも人は、各個人が作り上げていくそれぞれの人生と死の中には、立ち入っていくことができない。「生まれたときも死ぬときも一人」の宿命の中にありながら、誰かを求め続けることを止められないとすれば、それははっきり呪いなんではないだろうか。

アメリカの貧しさの象徴であるトレーラーハウスの中、クローゼットにあの日のブロークバック・マウンテンを閉じ込めて、二人の物語は幕を下ろす。皮肉なことに、まさにテキサス州やワイオミング州ではこの映画を上演してくれる映画館が、ほとんど見つからなかったという。二十一世紀の世の中になぜわざわざこんな保守的な価値観の中の話を出す必要があるのかという向きもあるが、その状況が少しも死んでいないからこそ、この映画の問いかけは有効なのだろう。

世間の承認のもと作り上げられたストーリーという枠を外されたとき、愛情はどういう形で立ち現れてくるか。一人一人がそこに、どういう神話を作り上げるか。できればもっと人の意見が聞きたい。……なので皆さん、よろしければ見に行って感想を教えてください。待ってます。