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ムシトリ日記
加藤夏来
→ご意見・ご指摘等は

2006年03月24日(金)
メモ・テキストについて

以下、「小説よりもマンガの同人誌の方がずっと売れる」と嘆いている人を慰めるための覚書。

・テキストデータは、圧縮率が凄まじく高い。理論上、同じビット数のデータなら、テキストよりも多くの情報を詰め込める媒体は存在しない。
・テキストデータは、時間による劣化が極端に少ない。ほとんど千年の単位で文化を保存する媒体である。(実績あり。しかも現在とは比べ物にならないほど劣悪な環境下で、大量に)
・テキストデータは、共有性能が非常に高い。ある記号に対して付加されている意味が各個人間で比較的共通しており、意思の疎通が容易である。(というかそもそも、意思を疎通するために発明されたものである)

*同じ絵を見たときに感じる印象は、各人でまったく違う。その感想を疎通させようと思えば、言葉で説明するしかない。絵に限らず、疎通させるという作業は基本的にテキストである。自分自身の感じた印象を把握することさえ、言語なしには実行できない。


そして、これらの長所こそがテキストデータの欠点である。すなわち、

・テキストデータは情報が多すぎる。とっくに限界を超えている現代人の情報処理能力にとって、常に巨大なデータバンクであるテキストは暴力にしかなり得ない。
・テキストデータは消費されることに向いていない。永続性を持ち、不変であることを身上とするテキストは、使った後捨ててしまってはそもそも真の価値を発揮できない。
・言葉が通じること自体が奇跡的な現象なのに、それは当然のこととして無視されているため、主眼は意志の疎通の結果として生じる「共感・理解」に当てられてしまい、「話が通じない」という逆説的な実感を生む結果になっている。


つまり、現代の社会状況、大容量の情報が無理なく流通し、それが当然のことになっている社会で、あえて「テキストデータのみ」にこだわる必要性はない。

ではなぜ、それでもあえて純テキストデータ、小説なのか?

・それしかできんから。能力・技術的な問題で、ビジュアルデータを創造する能力がない。既にあるものから優良なものを選別する能力だけはあるが、何も無いところから画像を創出することは不可能。
・そもそも現在までの記憶に画像データがほとんどない。あえて探そうとすると、緑と灰色のノイズの濃淡で表される始末。
→個人的な事情


つまり、そこまで能力に制限があっても参加できるほど、テキストデータは裾野が広い形式だから。そして、理由はどうあれ継続的に関わりつづけ、現在も手がけているという状況と実績は無視できないから。
問題があり、困難で、不利な状況であっても、実行が可能で実行したいと思っていればする。実行が不可能で実行したいと思っていなければしない。
結論。

・絵が描けないし、描きたくないから、描かない。
・小説が書けるし、書きたいから、書く。


描けないけど描きたいとなったら描くのが正しいし、書けるけど書きたくないとなったら書かないのが正しい。が、無理なものは無理。

可能であるということは、それ自体が創造性の一部である。


課題・未整理
*理解と共感
小説は「必要ではない」のか?
小説は「伝わらない」のか?
小説は「本当にしたいこと」なのか?
自分のものした小説は「価値がある」のか?
「価値がある」とはすなわちどういう状態なのか?
「売れたものには価値がある」のか?
「感想がもらえれば価値がある」のか?
「自分で気に入れば価値がある」のか?
以上挙げたような実体のある結果が伴えば、「価値がある」のか?
実体のある結果は常に必要なだけ得られるものではないが、価値が保障されないときどうやって実行を維持すべきか?
維持しなければならないのか? → ×
最大の問題は必要性である。
基本的に「あってもなくても構わないもの」である芸術は、個人的な情熱以外に必要性を持たない。物理的な条件によって必要性を補われることのない行動は、永続性を獲得するために狂気を必要とする。
他の例:信仰
軽めの狂気 → 思い込み(『ビアンション(自分の書いた小説に出て来る医者)を呼んでくれ、あいつなら何とかできるから』←どっかの作家の遺言)
重めの狂気 → 精神疾患(カミソリで耳を……)



2006年03月20日(月)
宴会週間です

二次会の会場から同僚が一人、カバンを置いて姿を消しました。

何故か今うちにあります。



2006年03月15日(水)
ある日

「加藤さんねー、歪んでるんですよ」
「……」
「全体的に歪んでるから、日常生活の何でもないことで痛みがあるの。困るよね」
「……はあい」
「その歪みを矯正するのに三週間くらいかかるから、理想的には毎日通ってください。八時までやってるし、保険もきくし。あ、つまり腰痛自体はただの捻挫です」

整骨院での会話です。
何を想像したかは内緒です。



2006年03月13日(月)
毎度馬鹿馬鹿しい

北海道出身の知人から教えてもらったネタを横流しします。

日本中どこにでも暴走族はいるものですが、その環境は様々です。北海道の場合、一年の半分が冬という土地柄、雪が降ると道はテッカテカに凍り、交通事情は格段に悪くなります。もちろん地元の人は慣れていらっしゃいますが、それにしても限界というものがあります。いい調子でかっ飛ばすことなどできません。

暴走すると確実に死ぬという、ある意味極限状況に追い詰められた北海道の暴走族は、冬になると車を降ります。で、どうするかっていうと歩く んだそうです。それも、外で集会やってるとこれも凍死しかねないので、屋根のついているアーケードの商店街とかを。

徒歩になっても暴走族のアイデンティティを守るべく疾走していてくれたら、中々あっぱれな根性ですが、さすがにそこまで落ち着きがなくはないようで、集団で列を作って掛け声などをかけながら商店街を練り歩くとか。別の情報によれば周囲を警官の皆さんが取り囲み、歩調を合わせてざっくざっく歩いておられたそうです。まあ、確かにスピード違反も信号無視もしていないし、声を出しているだけじゃ法律に問いようがないんでしょうね。




発想がぬるいです。




たぎる熱き血潮の若人が、自然条件ごときで日和るとは何たる嘆かわしさでしょうか。別にチェーンやスタッドレスタイヤで出せるスピードの限界点に挑めとは申しません。っていうか上記雪面対策をしていようが、完全に凍結した路面の怖さはマジに冗談ごとではありません。零下の世界には零下の世界なりのスピード追求法があるはずです。

そう、もちろんスピードスケートおよびスキーです。

オリンピックのアルペンスキーヤーは平気で時速120キロをぶっちぎるそうですし、より人力に近いスピードスケートでも50キロは出ています。やりようによっては夏季の速度などものともしない領域に到達することが可能でしょう。

もちろん追う警察の方々も負けてはいられません。アバンギャルドなスタイルを模索しつつさらに高速の世界を追及する暴走族に、あくまでトラディショナルかつオーソドックスなスタートダッシュにこだわる警察。熱い攻防が予想されます。


街を滑走する白黒ツートンカラーのウエアの警察官と、タイツの端っこからリーゼントがはみ出した暴走族。

『そこのスピードスケート、止まりなさーい、止まりなさーい』 (シャーッシャーッ)
『ばかやろう、この全開バリバリのコーナーワークについてこれるもんならついてきやがれ!!』 (シャーッシャーッ)


アルペンスキーで追跡をやっていると、多分しゃべる以前にお互い死なないように配慮するだけで精一杯だと思いますので省きます。これでシーズンオフも怖くありませんし、うまく行けば肉体を極限まで鍛え上げる過程で世をすねる気持ちに別れを告げ、更生する効果も期待できるでしょう。
素晴らしい。バンクーバーは彼らにお任せです。



2006年03月12日(日)
久しぶりに日記らしい日記

腰が……痛いです。妙な感触に目を覚ましたら、腰背面の関節? 筋肉? が筋違いでも起こしたのか、動かした拍子にけっこう鋭い痛みが走るようになっていました。

寝ているほうがきついです。完全に右側だけです。立って歩いて普通に生活する分には何とかなるのですが、何かの拍子にぴくっと痛くなり、そうすると右足全体が腰砕け(?)になります。症状から推すに、関節の神経なのでしょうか。予定があったのでそのまま出かけ、一日どうにかなってしまったのが、逆に不安です。

考えてみると右足といえば、以前何の前触れもなく膝に水が溜まって曲がらなくなった箇所です。姿勢が歪んでいて、ひずみがたまりがちだから気をつけろと注意を受け……ああ、自業自得だ(汗)





で、その腰痛を押して友人と遊びに出かけ、いつものことですがストーリー関係についてえらいこと語りを入れてきました。悩みは二人とも同じです。断片、材料の類はそれなりに持ち合わせています。それを錬金して流れを持ったストーリーを作り上げるのが課題です。特に、長ければ長いほど。

「これの後にこうなって、次に事態がこう動いて、ここで埋めた伏線はここで掘り返しに来て」と予定をたてておいたところで、実際書いていく過程でそうはならないことが多いです。

ただ例えば『銀河英雄伝説』で有名な田中芳樹氏は、「この場面に何枚使い、何行まででストーリーを終わらせ、次はここから始める。よって先のほうから執筆しようと思うとここから」と決めて途中から書き、後で前の方に書きに戻ると本当にその枚数その行数で収まる、という話を聞いたことがあります。田中氏は機械音痴なので、原稿用紙に手書きでこれをやるそうです。 それは超能力と言います。

田中氏ならざる身は、ああでもないこうでもないと論じあう前に、まず沢山失敗してみるしかなさそうです。

今のところ私は、頭の中にどこからともなく送りつけられてくる予告編とタイトルを頼りにし、書きたい場面を書いた後でさらに書きたい場面をつなぐ、という綱渡りをやっています。そのままだと、流れは生まれてきません。ここから発展させるとすると、場面と場面のつなぎ目をスムーズにする訓練を積み、その連想がどこから来るかを明確に掴むキルティング作業でしょうか。



2006年03月11日(土)
スコーピオン・アンタレス・ブラックマンティス

 相馬圭一の恐怖を支配し続けているもの。
 それは雷雨と世界の終わりだ。


(『スコーピオン』諸口正巳 より リーフ発行 2005年)



モロクっちさん(HP:超絶渋系狂気都市)という方がいらっしゃいます。
上記はもちろんHNで、現在は諸口正巳の筆名で売り出し中の作家さんです。話は遡ること数年前。「東京怪談」というノベルゲームサイトで、ライターとして受注先を募集していらっしゃったときに見かけたのが最初の出会いでした。

ちょっと説明が必要になりますが、東京怪談というのは要は『小説をオーダーメイドしてもらうサイト』です。自分のキャラクターを創作して、これを登録し、クリエイターとして名乗りを挙げている(ほとんどはアマチュアの)イラストレーターさんや作家さんにお金を払って、そのキャラクターが活躍する小説や、絵を制作してもらうシステムです。

イラストは確か一枚五千円くらい、小説は千円だったでしょうか。半分をマージンで引っ張られるそうなので、特に小説を書かれる方は、冗談みたいな手間賃で仕事を請け負っておられたと思います。(小説には数人同時にキャラクターを出せるので、いかになんでも500円で20〜30枚の原稿を書いていたわけではないでしょうが)

諸口さん、当時モロクっちライターは、最初の一回受注していただいた後は速攻で「捕まらない」クリエイターさんになりました。ひとりのライターさんが受けられる仕事には限りがありますから、人気のある人は「受注窓をあける」……ネット上で受注ができる状態にすると、短時間で注文が上限いっぱいになってしまいます。

ひったくりかバーゲンのつかみ取り大会みたいなことが起こるクリエイターさんはイラストレーターさんにはたくさんいらっしゃいましたが、ライターさんは名前を覚えられる程度で、モロクっちさんは確実にその一人に数えられるようになったのです。

諸口さんは、基本的に闇とアクションと髭親父(笑)を書く作家さんです。前世からの因縁か何かというくらい髭・親父・ホラーな方なので、やはり作品は明るくも可愛くもきれいでもありません。しかし、無数に並んだライターサンプルの中から、ふっと手を止めさせる程には、その文章には魅力がありました。一瞬です。しかし、その一瞬が今では積もり積もって、決して無視できない視線になったことを、当時から黙って勝手にサイトをROMっていた私は感じることができます。

モロクっちライターについて、もう一つ覚えていることがあります。けっこうな数の依頼をこなすのと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上の熱心さをもって、このクリエイターさんは他のクリエイターさんにユーザーとして依頼を出すことを心から楽しんでいました。異形であり闇であるにも関わらず、どうしても穏やかさや和やかさが似合ってしまう、作品の奇妙な楽天性もあいまって、これほど物語世界との幸福な関係を築き上げていたネット作家さんを、わたしは知りません。

この間第一作「スコーピオン」の最初のページをめくったところで、あまりの小気味よさに一人で笑い転げてしまいました。ブラック・マンティスの楽曲の歌詞が掲載されていたからです。はい、架空のっていうか、すでにウェブ公開されている小説の中に登場するバンドです。そして、処女作の第一章の第一ページめからこれをやってしまえる小説家です。

ここまで読んでご納得いただけましたら、次本屋に行ったときにでも一瞬ふと思い出してみてください。諸口正巳作「スコーピオン」、続編「アンタレス」は今月発売。そして「クロカマキリ」出版決定です。これ以上遅くなる前に断言しておきますが、まず間違いなく、ZIGZAGノベルズは彼女が支えることになると思います。



2006年03月10日(金)
「分からない」の研究

メモ書き


文章表現において、「分からない」とはそもそも何か?

・眠っている、意識を喪失している、死亡している、およびこれらの状態に移行する過程にある
・日本語文法を記憶していない(平仮名、カタカナの習得を含む)、および文法にしたがった再構成に時間がかかるか、その能力が充分でない
・漢字が読めない
・知らない単語がある
・知らない言い回しがある
・一つ一つの文章が、何について書いてあるのか分からない
 *内容が具体的なものに結びつかない
 *知らないものについて書いてあるので、実感が薄い
 *文章構造が複雑であるため、全体像がつかめない(文法能力?)
・文章全体が何を目的にしているか掴めない(読解力?)
・文章全体の目的は分かるが、なぜそれを目指しているか意図が掴めない
・目的も意図もわかるが、何らかの理由により、理解する意志が無い



2006年03月09日(木)
こまか

ナルニアを見て帰ってきてから、急にロードオブザリングを見たくなって古本屋で衝動買いしました。 けっこうお高かったので考え込んでいたら、「何だ、言ってくれれば貸したのに」と友人。 確かにそういう手もあったのですが――……
……。

この指輪はおれのもんだ。 (急に声が割れる)

よかったよかった、好きに金の使える大人になってて。



それで思い出したんですが、1と2のときはピージャクに(撮影で使った)指輪をもらっていたイライジャ・ウッドが、3になってゴラム役アンディ・サーキス氏にラストの指輪をとられたことを聞かされ、上記台詞を叫んで暴れたという話を聞いたことがあります。
かの有名な「エルフ語の9」事件といい、この役者陣の萌えっぷりにはまことに、かける言葉も見つかりませんね。



2006年03月08日(水)
食べ物と食べる人の話

出張のときに、いつもの民宿が満杯だったため、会社が奮発していいホテルに泊めてくれたことがあります。何も無い土地柄ですので、上がった宿泊費はほとんど全部が食事代に注ぎ込まれます。結果、その出張の間は結構なご馳走が出されました。高級というのではなく、土地の物の味を生かした、本当の意味でたいへんいい内容のお料理だったと思います。

見た目やら説明やら実際に箸をつけたときの味わいやらで、私は心からその料理の価値に納得しました。量も栄養もしっかりしたもので、さすがにここでサービスに差をつけざるを得ないホテル側の心意気を感じたものです。で、私は豊かな気持ちでそれを楽しみました。



そして、お腹を壊して一晩苦しむことになりました。



原因は単なる食べすぎです。料理にはまったく責任はありません。全体の量が多すぎたにしたって、それはもうほんのちょっと胃腸の丈夫な人なら問題なく消化できた分量だと思いますし、間に二三時間置くことができれば私でもきれいに平らげられたと思います。

ですが、翌日から私はそれらのご馳走を半分残すことにしました。何度も言ってるように、価値のあるお料理です。豊かで、栄養があり、消化できればたぶん体にとてもいいです。事情を知らずに見れば、ずいぶんもったいない、そして失礼な行動をしていると思われたかもしれません。ですがその豊かな栄養は、私にとっては必要のないものでした。無理をして詰め込めば詰め込んだだけ、体に害になるだけだったのです。

人の成長の過程を思うとき、私は最近まったく関係ない、この時の経験を思い出します。何で正しいことを教えているのに飲み込んでくれないのかとか、やれば事態が好転することは明らかなのに、相手は何をぐずぐずしているのかというたぐいの苛立ちは、ある程度以上の年齢になれば誰もが経験のある感情だと思います。

しかし、例えどれだけ価値があり、可能性を秘めたものであったとしても、受け入れる当人にとって必要でないもの、消化しきれないものは、食べきれない料理にしかなりません。時には、当人が欲しいものであってさえ、そうなる可能性はあります。

よく知りませんがテレビドラマとかを見ると、(運動などで)体力をつけなければいけないというので泣きながらものを食べるような場合もあるようです。状況が許してくれなければ、吐きながらでも気が狂いそうになりながらでも、飲み込むしかないときもあるでしょう。

ただできれば、そんな不幸な『価値ある』食物は、この世に少なくあってほしいとは思います。自分に関して言えば、例え毎晩命がけで詰め込んだところで、私の胃腸はあの料理を食べきれるほど丈夫になることは決してないだろうなという予測がつきます。それを思っても、別に不幸ではないのですが。


追記:
ここまで書いて思い出したのですが、もとの民宿の料理も量だけ見れば決してホテルにひけをとるものではありませんでした。ただ、そっちの食べ物は残しませんでした。
別に大した差があったわけではありません。母の作った料理に似ていたのです。



2006年03月06日(月)
鏡の国のミルク

ルイス・キャロルの不思議の国のアリスは児童文学の古典としてつとに有名ですが、不思議の国に比べればマイナーなその続編に、鏡の国のアリスがあります。前作同様ジョン・テニエルの挿画が魅力的なこの本の、最も有名な絵は「鏡の中へ入っていくアリス」と「鏡から鏡の国へ出てくるアリス」がセットになったものです。

化学とはもっとも縁が無さそうなこのイラストは、昔私が所属していた研究室のホームページに、分からないくらいうっすらと使われていました。しゃれ者の教授がやったらしいのですが、それが何であるかと、何故使われているかについて気づいた人は何人もいなかったため、けっこう寂しい思いをされていたようです。

研究室で手がけていたのは、不斉触媒でした。これはある物質を合成するとき、その物質の片方のエナンチオマーだけを合成してくれる触媒を差します。と言って分かるのは専門の人だけです。エナンチオマーとは鏡像異性体、「鏡に映すと別のものになってしまう分子」を差します。

むつかしいことは置いといて、右手と左手を比べてみてください。鏡像異性体は両手と同じく、「表」と「裏」のある構造をした分子です。分子量もそれ以外の構造もまったく変わらず、融点、沸点、水溶性などの物理的数値はすべて同じ価を示します。にも関わらず、甚だしい場合は「右手構造の分子は舐めると甘いが、左手構造の分子は苦い」等のまったく違う性質を持ちます。

この性質を持つ条件は、「一つの炭素に四つの異なるものが結合している」構造を持っていること、のみですので、有機物質のかなりの部分、アミノ酸のほとんど全てが適用されます。すなわち、人間というか生き物の体は鏡像異性体の塊です。

アリスに話を戻します。鏡の国に入る前に、「鏡の国ではミルクの味が違う」云々の台詞が挟まれています。これは化学的に完全な事実であって、どうやらキャロルはオックスフォード大学の教授仲間から研究結果を聞いてでもいたらしいです。ミルクの味をかなりの部分決定している蛋白質はアミノ酸で構成されていますので、左右反転させると味がまずくなる以前に、体内の酵素が受けつけず、消化できません。

そう、実は一部の特殊な例を除いて、生物が代謝するアミノ酸は片方の鏡像異性体だけで構成されています。そして、右左が反転しただけの構造である鏡像体は異物となってしまい、身体に対して不具合を起こす例が多いのです。

鏡像異性体について学習を始めるとき、必ずひかれる例があります。その昔、ヨーロッパで開発された睡眠薬がありました。これは安全な薬品であるとして商品化されたのですが、ラセミ体すなわち右手型と左手型の分子が混合された状態で販売されていました。化学合成された分子は基本的にラセミ体になるのが普通で、「右手」と「左手」を分離するのは非常に困難であるのがその理由です。

しかし、この睡眠薬の場合、「左手」は妊娠中の女性がある一定時期に服用した場合のみ、恐ろしい副作用を持っていました。「コンテルガン」もしくは「イソミン」、後に言うサリドマイド薬禍事件です。

サリドマイドの場合、問題があったのは片方の鏡像異性体だけで、鎮静作用を持つ「右手」は催奇性を持たないことがはっきりしています。ただ右と左が違うという条件だけで、鏡の国は迷い込んだ生き物を餓死に追いやる、死の国になるしかありません。自然のもたらす条件の差は、大きい場合も、小さい場合もあります。ただ、小さく見える差が本当に小さいかどうかは、結果が出るまで誰にも分からないのです。



2006年03月04日(土)
兵士の掟

K先生はフィリピンから帰ってこられた、元日本軍の兵士でした。うちの高校は学校自体がかなり古かったのですが、先生も負けず劣らず古株が揃っていて、K先生も含めて最古参の方々には、私が覚えているだけでも三人は第二次世界大戦当時の記憶を生き生きと留めている方がいらっしゃいました。

それぞれ、忘れることのできない話を語ってくださった先生方でしたが、ことにK先生の語り口調は、長年の教師生活で培われた名調子も相まって、未だに高校生活の主要な一部というほど印象に強く残っております。

その中で、最も印象に残ったお話です。敗退期のジャングルの中の逃避行で、K先生は一人また一人と戦友を失っていきました。自決用の手榴弾で自ら命を絶っていく負傷兵の間で、先生は彼らを力づけ、何とかして共に日本へ連れ帰ろうと必死になられたそうです。

そういう負傷兵の中に、K先生をとても慕ってくれた人がいました。状況がいけなくなったときに、その人は当時としては貴重品だった「二色ボールペン」を出して、受け取ってくれるように頼んだそうです。

『これはいよいよ弱っている』と思った先生は、特に注意を払ってその人をかばうように努めたそうです。自殺しないようにと。先生は既に何人分もの遺品を預かっていました。それが更に増えるようなことは、真っ平だったんだろうと思います。

行軍は続き、その間にも米軍は迫ってきます。何かで先行して状況を偵察してこなければいけなくなった先生は、ずっと連れ歩いていたその人に「今からここを離れるが、すぐ戻ってくるから、動かないで待っていてくれ」と何度も何度も言い聞かせ、それからその場を離れました。




……離れた途端に、手榴弾の爆発音が響いたそうです。




K先生はその二色ボールペンをまだ持っていると言い、さらに決然とした口調でこう続けられました。「誰かを心配したいと思ったら、遠くでどんないい心を持っていたってだめなんだ。どれだけ立派なことを言ったって、目の前にいなければ何の役にも立たん。そういう人の傍を、絶対に離れるんじゃないぞ」と。

また、学生時代の思い出です。初めてつき合いはじめた彼氏とどうしてもうまくいかず、ついに『人とつき合うってどういうこと?』と泣き言を垂れた私に、友達は呆れたような口調で言ってくれました。『好きな人と、一緒にいるってことだよ』と。

この時は恋人の話限定でしたが、世界の中である人と別の人との縁ができるということは、詰まるところそれに収束するのではないかと思います。一緒にいるということ。傍にいたいと思うこと。実際に傍にいること。生き物の法則にしたがって、どんな人々であろうとそれはついには虚しくなってしまいます。しかしそれでも、いやだからこそ、もしかするとそれはその人の、人生自体を表すほど重要なものになるのかもしれません。

K先生の時代の厳しさに比べれば及ぶべくもありませんが、我々もまた主観的な戦場を生きています。少なくとも、自らの身を兵士の誇りをもって処している人にとって、戦うものの掟は決して他人事ではないでしょう。何十年経とうとその想いを捨てなかったK先生を、私は今でも心から尊敬しています。



2006年03月03日(金)
飲みますか。

こんばんは。春です。絶好調で春先です。私はどうもこの時季になると妙に気分が沈むので、この場をしのぐネタを探すのに頭を抱えています。


イチゲキで脳を活性化させてくれるとまでは行きませんが、気分転換として笑うのはとてもいいことです。ほんの一瞬、気持ちを楽にしてくれる。これで人生を埋め尽くそうと思っちゃいけないとは思いますが、コーヒーブレイクのお茶請けにはこれに勝るものはありません。


そのネタのおすそ分け。仕事の勉強中に検索で引っかかったページに別コンテンツがありまして、その中でも特に下らないコーナーです。読みふけってしまいました。

毒物ドリンク探検隊

猛毒・劇物指定されているが全般的にお勧めですが、個人的にツボにはまったのは笹ドリンクホーリージュースです。栄養補給という本来の目標がアンドロメダ星雲の彼方に吹っ飛んでいるのがポイント高いです。どうでもいいですがこのHP、内容も文章もたいへん立派で読みごたえがあるのですが、見事に興味の対象がバランバランなのが人事ながら心配です。


ちなみに、他の充実コンテンツはやっぱり学術系です。「今週の分子」とかのタイトルを見て胸がときめく方は、是非ご一読ください。