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ムシトリ日記
加藤夏来
→ご意見・ご指摘等は

2005年07月31日(日)
唐突ですがオリジナル

毎月恒例の創作教室の日でした。前々から短いのを一つやりたいと思っていたので、きっかけと思って短編を一本仕上げてみたのですが、超大敗北。具体的に言うと、決めにあたるくだりが「……判り辛い」と(涙) 負け虫となって帰ってからしつこくしつこく直したものを、上げてみました。ただ、アイデア一発ストーリーなので磨いたところでたかが知れています。

……このキャラクター、もっと使いようがあったよな。具体的に言うと、一事件起こさないと真の魅力が発揮できないよな……。

羽根がしおしおしている昆虫の愚痴を聞かせて申し訳ありませんが、負け絵姿を残すのも武将のつとめ(?)なのであえて書き記しておくことにしました。オリジナルの方に入れましたので、よろしければどうぞ。見られている人が真の主人公です。


拍手レス

29日>トム母の反応
楽しみにしていた母の言い分ですが、「ホイットニー・ヒューストンやマイケル・ジャクソンが奇行に走ってもニュースじゃないけどトムがはしゃぐとニュースになるのよ! やっぱり格が違うから!」……だそうです。
ポジティブシンキンとか何とか言ったら、ポジティブの神様に脳天に雷落とされそうですね。



2005年07月28日(木)
ギリシャ悲劇もっと勉強

本題に移る前に、たいへん素晴らしいニュースに対して、お祝いのリンクを張っておきます!

よくないことが起こりがちな世の中ですが、ちょっと目を転ずれば明るい面も見えることがあります。いや、この話も多分違う人が見れば暗いニュースに見える場合もあると思うんですが、とりあえず自分にとってはぱっと気持ちが明るくなるような、とてもよい話でした。おめでとう、おめでとう、トム・クルーズ!





え、さて、前回の勉強の続きです。

ごちゃごちゃ矛盾点をつつきましたが、オイディプス王の研究においては前述のようなことは割りと今更だったようで、図書館で借りてきた初心者向けの入門書にも別項を作って説明してありました。

『観衆は(中略)「すべてが明らかになった」ような気がするのであって(中略)作者の提示したものを受け入れてしまうということであろう。(中略)もっとも、作者がどの程度初めから意識してそれをやったかは(中略)疑問である。書いているうちに、自分自身も引っかかってしまっていた、というのが実情かもしれない』(『ギリシア悲劇入門』中村善也/岩波書店)

意外と粗忽な方です。それにしても、舞台稽古とか色々スタッフとの打ち合わせがあっただろうに、当時も誰も指摘しなかったんでしょうか。それはともかく、この後の話も総合すると、要は事実関係の矛盾とかはどうでもいいらしいです。確かに、こないだ某推理小説を読んで心の底から思ったことですが、矛盾が無くたって「ただそれだけ」じゃ、ストーリーというのはどうしようもありません。もっと大枠の流れを見るべきなんでしょう。

お話の初めに戻りますと、このエピソードの内容は当時もすっかり周知のものでした。オイディプスが登場した時点で、この人の事情も最後どうなるかも見ている人は分かっているわけです。流れとしては推理小説で言うところの「倒叙もの」にあたります。いや、今ちょうど後ろでかけてるから言うのですが、ハリウッドの歴史物超大作とかが近いのかもしれない。(ちなみに『トロイ』です。かっこいいです)

なんとか実感できる例が出てきたところで歴史もの超大作(っつうかトロイ)の話に移りますが、初演当時にこの映画を見ていて一番胸が躍ったポイントというのは、「木馬登場」と、「ブラッド・ピット踵射抜かれました!」だったりします。あの映画が元々素晴らしく完成度が高い、というのはさて置き、踵で大興奮するのは自分ながら納得がいかなかったらしくて、前のサイトの日記を読み返すと「いったい何がそんなに嬉しかったんだ、当時の私よ」と既に自己ツッコミが入っています。

(ところでトロイの殺陣最高だ……衣装もセットも素晴らしく美しいんだよな……つうかヘレネよりパリスの方が姫っぽい……オーランドのへたれっぷりをこう使った配役のセンスが絶妙だと思う……以下永遠に続く)

上記の二つは当然ながらトロイア戦争のエピソード中一二を争うほど有名なもので、自分も見る前から「アキレス腱」と「トロイの木馬」の二つの単語が頭の中にちらついていました。「来るぞ来るぞ」と思いながら映画を見ていたので、パリス役のオーランド・ブルームが弓の練習を始めたときには思わず笑ってしまったくらいです。(もちろん、オーランドに弓という組み合わせに笑った部分もありますが)

この「来るぞ来るぞ」感が見ている側に存在しているからこそ、目の前で展開されているストーリーに別の意味が付加され、実際に起こっていることとあわせて楽しむことができる、というのがそもそもこういう作品のミソではないかと思われます。

オイディプス王に戻ると、この話では最初の場面で「犯人出て来い! しまいにゃ呪うぞ!(意訳)」と叫んでいる王様自身が実は犯人である―――というのが一番面白いところなので、むしろネタが割れていてくれないと困るわけです。倒叙もので「犯人がいつばれるかとどきどきしている」状態が眼目になるのと同じこと。

そういう、意味を重ねることでストーリーに深みを増す手法の、物凄いご先祖様がこの作品で。




で、締めようとしたんですがまだ何かあるらしいです。




勧められた通りギリシャ古代史もひもといてみたのですが、ギリシア演劇についての解説が何か……物凄い言い回しがいっぱい使ってあってよく分からんのですが……宗教行事? なのかな? えーと、しかし残念ながらこれ以上解釈を始めるともう、作品がどうとかいう問題ではなくなってくるので一旦この辺で中断します。あと、もうちょっと阿呆な話題を心がけます。



2005年07月27日(水)
ギリシャ悲劇、勉強中

さ、にわか勉強の続きです。(読んでる人の存在は放りっぱなしです!)今更ながら俎上に上げている作品をご紹介しますと、題名「オイディプス王」、ギリシャ悲劇の名作中の名作だそうです。この高評価はよっぽど磐石のものであるらしく、当のテキストならびに全集の解説、入門書にまで「最高のものであるしるしとして”王”の一文字をつける」との但し書きがありました。かっこいいですね。

けっこう有名なエピソードなので言わずもがなな説明になりますが、オイディプスの伝説というのはギリシャ神話に有名な話で、運命のいたずらから実の父を殺し、母と姦通してしまう王の悲劇の物語になっています。エディプス・コンプレックスという心理学用語まで存在するくらいで、この戯曲も筋自体は意外でも何でもありません。ここのところの条件は上演当時(2500年前だ)にも全く変わらなかったようです。

伝説について一応書いておくと、この話の発端は主人公であるオイディプスの出生当時にまで遡ります。この人の父上が「息子が生まれると、お前はいずれその子に殺される」という予言を受けたために、オイディプスは生まれると同時に山に捨てられ、しかし仏心を起こした従者に他国人に渡されて立派に成人します。で、また余計なことに、その後で別の予言として「いつの日がお前は父親を殺し、母親を犯すことになる」と聞かされてびっくりし、その国を逃げ出します。予想はつかれるでしょうが、逃げた方向は元の自分の国です。そして、その道の途中で神託を聞くために旅に出た実の父に出会って、しょうもない争いの末に従者ごとこの人を殺してしまいます。

紆余曲折を省略しますと、オイディプスは結局自分の国の王になって元の王の妃、つまり実の母と結婚してしまい、かくて予言は成就してしまうわけです。劇は、このオイディプスが王になって十年も過ぎた後のことで、彼がことの真相を全て知ってしまうまでの経緯を描いています。こないだ見た映画から無意味に引用すると「この事件はもうとっくに終わっている。拝み屋を呼べ!」ということになるでしょうか。普通に、筋立てのセンスがよろしいです。


………で終わっちゃあいけないんだってことを、ついこないだ学習したところです。


とは申せ、実は読んでいる最中に「ん?」と思うことが少しあったもので、まずそこから入らせてもらいます。つまり、一人地味だけど決定的におかしい言動の人物がいるんですね。まず、先王に「子供を捨てて来い」と言われ、結局はその子を生かしてしまった従者。そして、オイディプスが先王一行を殺してしまった際に、一人だけ生き残って帰ってきて、何故か「賊は複数いた」と証言した従者。そして、結局最後の決定的な証言「あなたがあの時の他国に渡した子供なら、あなたこそが先王および王妃の子供です」を行った羊飼い。これらは全て同一人物ですが、この人はほとんどストーリー上の矛盾を一手に背負い込んでいます。

まず、くだんの「賊は複数……」証言。当然ながらオイディプスは一人です。そして、ここで従者のした証言と数が食い違っていたために、ストーリーの前半で彼は「それは自分じゃないはずだ」と思って安心しようとしています。何故かこの数の食い違い問題、途中からすっかり忘れ去られて影も形も出てきません。(問題が出てきてから追求が終わるまでのページを十回くらい読み返しましたが、やっぱり書いてありません。あまりに堂々と欠落しているので、お約束で見ないことにするのかと思っちゃった)

この問題については安心もくそも、「例えその人が父親でなかったにせよ、お前そこらへんで四人も人殺して堂々と王様になっとるんかい」という別の問題が発生するのですが、告白を聞かされた他の人も特に気にしてないようなので見なかったことにします。

で、致命的な証言を行った後も、この従者の奇行は続きます。王様が殺された後の混乱した国にさらにもっと問題が起こり、そのせいで王様の殺害問題はすっかり棚上げにされ、オイディプスが王になってやっと国が落ち着いた後で、従者は「引退させてくれ」とお妃様に泣きつきます。彼の今までの業績に比べれば、不思議なほどに軽い望みだそうです。

ここで注意。彼は事件についての証言を行った唯一の目撃者であるわけですが、ということはこの人、オイディプスの顔をばっちり見てるわけです。また、当然ながら玉座の新しい主人となったオイディプスのことも、宮殿の使用人なんだから見ないわけもないです。

……普通「あ、あいつは……!」となりませんか。何故に宮殿どころか国からさえほとんど出て行くという選択肢になったんでしょう。

この人がよほど軽い扱いで、王様の顔を見られるような立場になかったとしましょう。ですが、ストーリーの後半で従者と王様は思いっきり対面しています。この場合は「お前はあの時の!」となるでしょう。でもこの場面で従者が問題にしているのは、その昔先王に託された子供の話です。動揺した様子はありません……。

ここまで来るとこの矛盾を解決する方法はただ一つ。この従者は事件当初、最初っから最後まで何も見ちゃいなかったと考えるしかありません。車の荷物入れにでも隠れてひたすら震えていたんでしょうか。だから「賊は複数」というのもテキトーな証言、オイディプスの顔も見ておらず、そもそもだからこそ一人だけ生き残れたと考えるのが妥当です。……それでも最初一人で近づいてきたはずのオイディプスを少しも、まったく見ていないというのは腑に落ちないんですが……。

続きます。


拍手レス

>「ちい」にコメントくださった方
諸事情により棚上げになってしまい、申し訳ありません(汗 ゆったり行くと思いますので、気長に見守っていただけると…。

>団地妻さん
いえいえ、お節介失礼致しました(。。; 色々お忙しいとは思いますが、ハァハァしつつ待っておりますので頑張ってください! お宅の兄はすっごい天然サオ師だと尊敬しております。いや、真面目に。



2005年07月26日(火)
ひととせ

今年も七月二十六日の零時を回りましたので、ひとつ馬齢を重ねることになります。二十八歳になりました。

年齢と一人暮らし・学歴職歴・結婚の予定なし、と条件が揃っていることでもありますので、生活の周辺状況はぶっちゃけ物凄く典型的に世知辛いです。家からの突き上げがそろそろ哀願口調になりつつある現在、誕生日といっても西を向いて笑う以外にすることがありません。

ただし、そうしたしょっぱい現実をまあ一時置いて考えれば、この一年少しも無駄にしなかったよな、というのは自信をもって言い切れます。昨年から使い始めたほぼ日手帳のおかげで、生活の軌道がだいたい追いきれるので、よけいにそれははっきりしています。

阿呆な趣味ではありますが、その時その時夢中になれることを精一杯楽しみました。一年前にどうしようもなかった人間関係も、少しばかり処し方を覚えました。どうもいつも時間が足りないような気ばかりしていましたが、その分隅っこまで生活を味わったと思います。さらに自分としては最大の収穫、医師のお墨付きでちょっとした持病が改善しました。三年来の懸案事項だったもので、これだけでも本気で何者かに感謝を捧げていいと思います。

27歳の最後のプレゼントかもしれませんが、この前の週末は本気で遊び倒しました。新しい友だちと一番古い友だちと、語り倒し飲み倒し楽しみ倒して下宿の滞在時間が異常に短かったです。妙な言い方になりますが、「ものが友情であっても、ここまで人を好きになることがあるんだなあ」としみじみした気分になりました。一部人前でやっちゃいかんことを堂々とやってしまったような気がする。まあいいや嬉しかったし。

体力が整い、下地を積んだら、次にすべきは具体的な行動を起こすことです。去年のこの時期はあまりものが見えていなかったので無理でしたが、今は目標の設定と整理もできるはず。というわけで、一年後には成果を数え上げます。上のような、ごまかしのテクニックをフル活用するのはなしでいきましょう。



2005年07月20日(水)
教養とか文化なんですが……

むかしむかしのそのむかし。

学生時代、一般教養のコマが何単位かありました。言い忘れてましたが、大学は田舎のちっちゃい工業大です。「工業大学だからって教養を無視しすぎるのは良くない! 文系の授業もそれなりに取ろう!」という方針があったらしく、学校の成り立ちにしてはその方面が充実していたようです。比較対照がないのでよくわからんのですが。

ちっちゃい大学はちっちゃいなりに、田舎の市では唯一の国立大学だったりしたので、「○○市の概要」みたいなデータページでは、文化施設として真っ先に名前が挙がったりしていました。

しかし、機会あってそれを見ることになった学生は、男も女も口を揃えて「ねェよ」と吐き捨てたものです。謙遜とかでなく、心底軽蔑しきった表情で。その通り、文化というものの正体はいざ知らず、学生教授とも自分たちのやっていることが教養や高雅とは程遠いものであることは、皆が自覚していました。

別にそれは日々の作業が、バイオハザード(生物汚染警告)の出ている扉の内側でシャーレをいじることだったり、アセトン(ほぼ、マニキュアの除光液です)や液体窒素をざぶざぶ汲み上げることだったり、鼠の子供の頭をハサミでぱっちん☆と切り落とす(脳の小片をガラス板の間で培養します)ことだったりするからではありません。いや、それも多分にあったでしょうが、真の理由は学んでいるのが、あまりに単純な原理にもとづいていたことだと思います。

と言っても、別に情報量が少ないわけではありません。最低の学生だった私はともかく、同僚の学生諸兄はじつによく論文を読みました。しかし、それらの膨大なデータは結局のところ「で、この目の前にある実験をどうすんの?」という目的のためのみに使用されるという点は変わりありませんでした。反応温度を何度にするか。どの金属を配位させるか。カラムにはどの移動相を使うか。結果さえ出れば論文はファイルに閉じこまれるだけです。内容を覚えておく必要もなく、どこにどのデータが入っているか分かりさえすればよろしい。

最近影響の大きい向きより、先方の専攻していた分野について「美しい学問でした」なる発言を聞いて、その世界観のギャップにビビったことがあります。「さすが、文系の人というのは物凄いことを考えてはるなあ」という気分でした。よく分からん例えかもしれませんが、愛用のスパナやNMRやフラスコを指差して、「 ……で、それについてどう思う? 」と聞かれたような……。意味とか解釈とか世界観とかは(少なくとも私の見た限りでは)工学には無いか極端に少ないものでした。あるのは「役に立つのか立たんのか」、企業に入るともっとあからさまに、「いくら儲かるの?」……これだけです。

今思い返してみると私が生活してきたのは、恐ろしいくらい「実体験至上主義」の世界だったとも思います。えらい先生の書いた本に、いくら「これこれこうすれば目的物は取れますよ」と書いていようが、実際やって手に入らなければ、その知識はクソの役にも立ちません。現実に本の通りにやって一ヶ月も止まっていた同僚の実験を、ぜんぜん違う手順をアドバイスして成功させたこともありますし、その逆もあります。手の中にあるフラスコの中身、目の前で起こった反応以上に信じられるものなど、この世のどこにもありませんでした。(勿論、大抵は知識はあった方が役に立ちます……でも、『実際やったことのある人の経験』はもっと役に立ちます……)

冒頭の話に戻りますと、私たちは自分らがやっている活動を文化的とは到底思えませんでした。だって作業だし、という話は置いておいても、それらは他の人の活動の上に積み上げていく、という感覚が非常に薄いものだったからです。いきおい、目の前にあるもの以外のことは考えない癖がつきますし、言葉は言葉どおりに受け取ります。「AはBです」っつったら、それはそれ以上でも以下でもありません。



古典文学の解釈をするとき、それじゃ話は済まないんだと知ったのは、つい昨日の夜のことです……。



いきなり何の話だと思われるでしょうが、ここの管理人は最近何週間だか「教養を高める必要がある」という危機感に駆られていたと思ってください。原因は大したことでもないんですが、どうやら自分には想像もつかない世界があるらしいと思ってたまげたようです。

で、薄い本から手をつけ、読み終わって感想を話したら、呆れられました。……時代背景。文化的な位置づけ。当時の神と王の概念。女性の立場。または、これまでの研究によって導き出された解釈。そういう知識の裏づけの上に読むんでなければ、そもそも読んだことにはならないみたいです。

ていうか、よく考えてみればそういう知識の裏づけ部分を習得するからこそ、古典が教養ということになるんでしょうね。気づくのが遅いな。

ただ、そう言われてもう一回原典を読むだけでも、分かることはあります。一つは(ものが古典劇だったので)舞台を見ないと分からんことがあるな、ということ。演劇というのは因果な芸術で、基本的に咲いて散る花火です。二度同じものは作れませんし、ビデオにとってもやはり『その空間を共有している』という状態は残すことができません。(そこに永続性を持ち込むために、仮面劇という芸術形式が存在したという程度の教養はあるー……)もう一つ、残念ながらこの作品は、どうしようもなく既に墓に入っているということです。さすがに二千五百年を耐え切れる言霊は存在しません。となると反魂の儀式を執り行うために、やはり一定の手続きが必要だということになるでしょうか。

結局何の話かというと、どえらい新機軸な分野の勉強のために無い知恵を絞ってるという現状報告だったりします。ただし本屋を五件回っても資料が一冊も手に入らなかったため、やっぱり原典を読み返しているんですが。



2005年07月17日(日)
コスメティック

書いてふっと不安になったんですが、表題の言葉の意味が分からない人がいたらどうしよう……。

Cosmetic、化粧品もしくは美容整形のこと。普通にコスメと使いますね。うちの学校がとんでもなく無邪気であったことと、オタクのデフォルト思考が原因で、私は化粧に関してはだいぶ晩生でした。大学に入った後で、危機感を覚えたらしい母に一式揃えてもらったので、環境は整っていたんですが、余程のことがないと手を出しませんでした。いや、ただ単に面倒くさかっただけで、それ以上でも以下でもありません。

一時期マニキュアに凝ったことがあるのですが、服とか顔とかそのまんまで爪だけ塗ったので、今になって考えてみると、変でした。ポケモンネイルアートで遊びたかっただけです。

元がそういう単純な思考の持ち主なので、この傾向を変えるに至った動機も単純なものです。「コスメの魔法」という一話完結の少女マンガを読んで、「へえ、そんなものか」と思ったのがきっかけでした。

ご存知の向きもおありかとは思いますが、「コスメの魔法」はだいたい二十代から三十代の女性のありがちな悩みを、とにかくとにかく化粧品で解決する話です。こう書くと「美味しんぼ」みたいですが、あそこまで無理やりでないのは、化粧することを自己表現と捉えているあたりが、(かなり強引ではあるものの)一面現実に通じるところがあるからでしょうか。

なにはさておき、「キレイ」であることにこだわるのが、この作品の持ち味です。ただし、何をどうするとキレイになるのかは、それこそ一人一人のお客さん(その回の主人公)ごとに千差万別です。パターンはいっぱいありすぎて説明しづらいんですが、唯一直接的に定義している台詞に従えば「キレイとは、自分に自信を持つ強さ」ということになります。

さて具体的な化粧品の話に戻ります。お化粧をするとき、当然ながらその人は鏡に向かいます。(……向かわない人もいるんじゃないかとか言わないように! 結果を想像するだに気味悪い!)それなりの時間をかけて自分(の顔)と向かい合い、どこが足りなくてどこが余っているのか、自分で好きだと思ったり嫌いだったり、世間的にこれは売りだ! と思えるポイントを見つけ出します。要は内省し、自己評価を定着させます。しかるのちに、「自分はかくありたい、こうであってほしい」という理想像を描きます。そして、様々なアイテムを使ってそれを具体的に描き出します。自分の顔の上に。

そして当然ながら、自分の現実である素顔の上に努力と願望を描き出した顔をもって、世間に出て行きます。家で一人でいるときに無茶な化粧を顔に塗ったくって喜ぶ私のような変人もおりますが、大抵はそういう行動になります。

結果として、他の人に出会ったりその顔をもって語りかけたりするとき、外見的な印象という言葉にならない言語によって、その人は相手と交流することになるわけです。理想的な展開として「きれいな人ですね」という評価を得ることもあり、「そのアイシャドウ殴られたみたいやで」と真顔で注意されることもありますが、さまざまな反応が考えられます。反応をフィードバックし、自己評価やその上に築く理想像を変化させることで、当人の心理に質的な影響をもたらし……と、見ていくと、これは手順としては当たり前の「自己表現」と何ら変わるところがありません。

こないだ色々と理屈をこねくり回す機会があって考えたことですが、人と言うものは内にあるものを外に向かって表現し、それが他人に影響を与え、影響を受けた他人がまた何かを表現するという、連鎖反応によってそのあり方が決定されています。ある一人の人間を語る場合に、必ずその人間をとりまく周囲の人間の存在は欠かせないですし、大げさに言えば人の人格とは元々個人的なものではないという見方もできるわけです。当然まったく同時に、完全な交流が不可能である以上、個人的なもの以外にはなり得ないという見解もありますが。
(何かむっつかしそーなこと言ってますが、読み飛ばしても人生にはまるで影響ありませんよー。ってそれはこの文章自体がか)

「わたしはこういう人です。わたしを分かってください」

という気持ちに全てが流れ込んでいる自己表現という分野、この界隈では絵・文書の製作等で全然不思議のないものととらえられていますが、何もこれはそこまで輪郭のくっきりしたものでなくても、普通に誰もがしていることだと思います。「わかってもらえなくていいんだ」という態度に固執している人さえ、そこで壁を作ること自体が既にその人についてかなり多くのことを語っています。すみません、ここの部分は私の師匠の受け売りです。

個人の外見、飾る、化粧するという分野において、女性は数千年におよぶキャリアを持っております。エジプトのピラミッドから発掘された出土品の中には既に化粧道具入れが交じっており、この時代には結晶を利用したラメ入りのアイシャドウまであったとか。もともと呪術的な儀式であったといいますが、女という存在そのものを発露するための手段として、その霊力は現在もいささかも衰えておりません。

ごちゃごちゃと理屈を並べましたが、要はコスメも私の趣味の一つです。すっごい庶民的な、ピエヌのファンだったりします。



拍手レス

>団地妻さん
「リングにかけろ」については、古本屋で一巻と最後のほうの巻を立ち読みして、その路線の変わりっぷりにぶったまげたことがあります。「あしたのジョー」もどきと聖闘士☆矢の間に一体なにがあったんだろうと……。そしてそれ以来路線を変更した形跡の一切ない、車田兄貴の男らしさにもたまげましたね。是非お子さんたちにも、英才教育で漢としての道を教え込んであげてください。



2005年07月11日(月)
GWの頃に書いた発掘した文章

何故かGWに実家に帰った折、日記に載せようと思って書いた文章が、雑文入れの中で塩漬けになっているのを発見しましたので、これを忘れないうちにアップしておきます。正真正銘くだらない笑かしなんですが、だからこそ捨てるのはもったいないと……。


--------------------------(以下過去の文章


爽やかな気候です。爽やかに引きこもっております。昨日までは外を出歩いておったのですが、それも飽きたので本格的にPCに向かっています。今頃原作の方の「Shall we ダンス?」とかを見たので、ああそう言えば結局うちのくくにょって兄と踊ってないじゃん、この展開だといつになるんだろうと思い、挙句に元のゲームの話は本当にどこ行っちゃったんだと暗澹としています。そんな感じの作業中です。

芸なくボケボケしてるのもアレなんで、折角在所だしと自分の兄弟スキーのルーツをさぐる旅路に出てみました。押入れに。


とりあえず聖T☆矢のアニメスペシャル1と3が出てきました。もう直で見たことない若い衆もいらっしゃるでしょうから、一応説明しますが、これは13歳から15歳の義務教育ほっぽってる男子が五名、殴り合いで世界を救おうというお話です。彼らが奉ってる女神さま(と言っても自分は女神であると主張している13歳の女の子です……職業は財閥の総帥です……)が毎度危機にさらされ、彼女がわるもんにやられてしまうと地球が危ない(何故だ)ため、瀕死の重傷を負いつつその女神さまを助けるというストーリーになっています。

当時、美形キャラを複数集めて色々なアイテムを着せ、アニメを全国に放映しておもちゃ会社とのタイアップで商売をやっていく、という商法が出てきた初めの頃です。ガキ・黒髪長髪・金髪碧眼とタイプ別に網羅されていた主人公グループの中に、カテゴリ「兄弟」が一組おりました。と言っても、最初は敵であった兄の方の登場にあたり、「そっちのほうがインパクトがあるから」というだけで兄弟になった、「女顔担当」の弟、という組み合わせです。

この二人が、主人公グループが安定していなかった当初の展開が終わると、兄弟キャラだけで全ての展開を渡っていくようになりました。

とにかくとにかくどんな敵が相手であろうと、まず兄は最初はグループの中に入っていません。そして主人公グループのお約束として一人一人がタイマンでバトルを行うわけですが、弟くんは何があっても勝てません。(一応秘密の切り札はあるんですが、ちゃんと役に立ってるのを見ない)弟がぶちのめされたところを見計らって、兄が出てきて敵を殺ります。これがワンセットです。

実績が出たからそういうお約束になったんでしょうが、この繰り返しによって『一人では何もできないやつ』と化した弟くんは、女性的をとっくに通り越し、ほんとにいさぎよいオカマになっていました。

今思い出して布団の上をのた打ち回ったのですが、各美形キャラには「テーマソング」というものがひっそり用意されており、弟くんのそれの歌詞は声優さんが裏声で叫ぶ「そうだね兄さん、そーおーだーねー♪」という……小学六年生当時でさえ聴いた瞬間にテープレコーダーの電源をたたっ切ってしまったような代物でした。さすがに百何話だったかのアニメシリーズ中にも、一回しか使っているのを見たことがありません。ついでにその場で目を覚ませよと、昔の自分に言いたいです。あの弟はなあ、姉さん座りで両手を揃えて傍の箱にしとやかにもたれかかるような男なんだぞ!

そう、以前も書きましたがこの弟、アンドロメダ瞬はいわゆる一つの自分にとっての「初恋の王子様」というやつでした。今アニメスペシャルを読み返して見ても、瞬は人気投票で総合一位をとっていたりして、それは決して珍しいことではないのですが、いかんせんオカマです。そして今に至るまで私はきれいなオカマさんが大好きな人間ですので、その呪いの深さたるや尋常なものではありません。

ついでに思い出したので記しておきますが、アニメ☆矢には当時、誰もが目を疑った演出がありました。「凍らされて死にかけた仲間の一人を、瞬が体温で温めて命を救うの巻」という、これは原作にもあったエピソードで、「男同士でくっつくのって美しくないじゃん?」という思想の元その回のスタッフが突っ走ったのです。原作では「床に座らせた状態の仲間を片腕で支えている」オンリーだった姿勢が、アニメでは「床に仰向けにさせた仲間に添い寝して、半ば膝が交差した状態になるまで脚を絡ませ、頬を寄せて抱きしめ(以下省略)」に変わりました。そして、野郎同士のこのシーンを「美しく」するために、この回の作画の瞬はどこからどこをどう見ても美少女にしか見えない顔にされていました。むしろ逆効果なんじゃねえかというか、別の効果を狙ってるようにしか見えません。ええ認めます。ビデオにとって何回見直したことやら。

そろそろ何が言いたいか分かってもらえますか。

BL、やおいが同人女界に芽生えて幾星霜。長からぬその歴史の中で、☆矢ほど盛り上がったジャンルはいくつもありません。原作者にとっていい迷惑だっただろうことは重々承知ですが、こういう遊び方、こういう作品の愛し方が日本の漫画界に確固として存在していたことは確かなのです。その源流はと言えば、きれいな顔の少年とまごうかたなき女の境界壁を限りなく薄くしていく、非常にオーソドックスな手法にありました。

というわけで結論。

ククールが女受で何が悪い。
私はきれいなオカマさんが大好きです。

ろくでもない締めが入ったところで、ルーツ探索は終わりです。