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----------2005年02月28日(月) それなりにいいひと

「きみは人からよく思われたいのか? そのことを自分で言ってはならない。」(パスカル「パンセ」/白水社)

いい人だと思われようと懸命に努力して気を遣い顔色を伺って態度をころころ変える人よりもどー思われてもいいやと開き直って好きなように勝手気ままに振舞っている人のほうがどこから見ても魅力的であり、そうして「いい人だ」と思われるのであり、実際「いい人」なのである。

その必要はないのに、会話の最後で笑顔を浮かべる自分が嫌い。

「この人、いい人だと思われたがってる」オーラが滲み出していたらどうしよう、かっこ、わりぃ。

つか私、「それなりにいいひと」(ピンときた人、いるかなあ?)なんだけどさ。根が「それなりにいいひと」だから、放っておいても「あの人いい人だから」って言われるんだけどさ、別にいい人と思われたくてそうしてるわけじゃない、ってことだけ、分かっといてほしいの。

----------2005年02月27日(日) 誰がキルケ?

「そういうキルケの言葉を聞いて、われわれの雄々しい心も納得し、こうしてこの屋敷で、来る日も来る日も、豊富な肉を食い、旨い酒を飲みながら、丸一年を過ごしてしまった。」(ホメロス「オデュッセイア」/岩波文庫)

今日はほぼ同期のみんなと飲み会の約束があって、みーんなで残業要請を断って職場の近くの居酒屋でぐびぐび。やーい困りやがれ、あたしらみんなおらんかったらどんだけ仕事に響くか痛感しやがれこのやろーかんぱーい、ってな感じで。

ジーンズが禁止になって面倒くさい。私はかつてずっとスーツを着ていたので別に困らないけどストッキングが破れたりとかスニーカーがはけなかったりとか端末2台の前で足がばーっと開いて、ができなかったりとか、余計なクリーニング代がかかったりとか、ホントに鬱陶しい。だから「辞める」なんてな人ももちろんいるわけで。

だいたいさー、そうそう、分かる分かる、つかさー、やろー? やっぱりそう思ってた??

そんな会話を繰り広げながら飲んで飲んで飲みまくっていたら、デカ長を筆頭に超ベテランのおねーさま3人がふらりと現われてあら。あら。あら。あんたら。なにやってんの。今日10時までかかったのに。このやろ。

とかなんとか怒られながらも結局皆で合流して「だいたいさー」と愚痴をこぼしながら飲んだのだった。あんたが続けるんやったら私ももうちょっと、私も頑張るからあんたももうちょっと、こうして誰がキルケなのか分からないながら気づけば又一年が過ぎ去っていたりもしなくなさそうなそんな予感がした今夜。

私もたまには話さなくては、笑わなくては。

そうしてジーンズ争議は再開される。

----------2005年02月26日(土) 行こう。

「ようこそ、おお、人生よ! ぼくは出かけよう、現実の経験と百万回も出会い、ぼくの族のまだ創られていない意識を、ぼくの魂の鍛冶場で鍛えるために。」(ジョイス「若い芸術家の肖像」/新潮文庫)

おそらくもっとも愛している部類に入るフレーズを冒頭において、さあ、闘いに備えよう。灰色のビルの中で、「現実」の経験にどれだけ出会えるのかなんて知らない、きっと何も新しいものなんて生まれない、そこにあるのは終りのない反復と疲労でしかなく、日々私の皮膚組織は衰えゆき、脳細胞は鈍感になっていくけれど、それでもそれが私の人生だ、

行こう。



----------2005年02月25日(金) 泣かせて、歌わせて

「【涙と音楽とを私は区別することができない。】(ニーチェ)この言葉の意味をただちに了解することのない者は、いまだかつて音楽に親しんだことのない者だ。およそ真の音楽は、楽園への悔恨から生まれたものである以上、例外なく涙に由来する。」(E・M・シオラン「涙と聖者」/紀伊国屋書店)

では涙と言葉では?

音楽が涙に由来している、当たり前のことだ、そんなことは。ご大層なセンセイがたに語ってもらうまでもない。上手く歌えなくて泣いた、思う声が出せなくて泣いた、死んでしまいたいとすら思った、自分の生得の声が甲高く金属的で深みを持っていないことにどれだけ悩んで泣いたかなんて誰も知らないだろうけどとにかく私が放つ音楽は涙に由来していた。

それは、あいつだけが理解していた。

いつしかファルセットを使いこなすようになって
いつしか高く張りのある声だけに価値があるのではないことを知るようになって

思うような声が出せるようになったとき、あいつはもういなかった、ただ力任せに強い声を出すだけの女を選び、「楽しければそれでいい」とかつて私たちが蔑んだはずの道を選んだ。

そうして私は今、あいつがそれを「楽しんで」いず、むしろ自己嫌悪に陥っていることを知っている。

そんな男はあんたにあげるから、
熨斗紙つけてあんたにあげるから、

だからそんな男を神様に仕立て上げた私を泣かせて。

どんなに書いても、どれだけの言葉を費やしても、私の奥底で泣きたがっている自分の12年間を心ゆくまで泣かせてやることができない。言葉はいつも客観的だ、鬱陶しすぎるほどに客観的でまわりくどい、私の感情とはまったく無関係な「文法」という厳格なものに縛られすぎている、

だから歌わせて、腹筋に力を込めて、鋭い声で嘲笑を投げつけ、そうして力を抜いた優しい声ですべてを許してみせるから。身体で、心で、存在のすべてで、涙を流してみせるから。

----------2005年02月24日(木) 吝嗇にして貪欲

「ノーの代わりに、構わないに決まってるじゃないかと言う欲望。自らの拒絶を各個爆破する欲望。吝嗇からも貪欲からも解き放たれ、多系的な支出、乱脈経理、乱費、浪費に溺れる欲望の不死鳥。」(フェリックス・ガタリ編「「30億の倒錯者」/インパクト出版)

吝嗇でありなおかつ貪欲でもあるしみったれた欲望。陳腐で、軽薄で、くだらない。「喚起される欲望」にはもううんざりだ、「生起する欲望」はいったい何か、何が自分の中から湧き上がってくるものなのか、私はいったい本当は何を欲しているのか、

分からない、分からない、分からない。

街の中でまた迷子になった。

だから手当たり次第にものをつかんだ、そうして自分のものにした、変わったデザインのものに思えたスーツは案外安っぽいつくりで、トラッドなスーツはワードローブにまったくそぐわない、ふんだんにレースを使ったカットソーはいったいどうやってクリーニングに出せばいいのか迷うだけ、パイソンのハイヒールなんてそんなものが映える服はすべて捨ててしまった、もうなんだかすべてがちぐはぐだ。

「支払いどうすんだよ・・・」と青い顔をしてうろたえる自らの吝嗇を、「構わないに決まってるじゃないか」、と頬を引きつらせながらでも爆破してやりたかった。だけど偽物の欲望にそんな破壊的な力はなかった。所詮踊らされているだけだ。

----------2005年02月23日(水) 人間失格。

「瑪瑙や玉髄や翡翠を切り出す人足となって一日八時間はたらくならば、欲望に形を与えるこの労苦はそれ自身の形を欲望から得ているのであり、またアナスタジアのすべてから満足を得ることができると信じているとき、その実、人はその奴隷にすぎないのでございます。」(イタロ・カルヴィーノ「マルコ・ポーロの見えない都市」/河出書房新社)

「今朝届いたCDを一刻も早く聞きたいから」なんてな理由で仕事早退して(もちろん眉間にシワを寄せて「頭痛が・・・」と一芝居打ったんだけど)、そのうえまだ日も高いうちから酒飲み始めてる自分っていったいどうなのさと本気で思うよそりゃ。オトナ失格どころか人間失格くらいのレベルだと思うよ。

だけど私は毎朝私を捕まえるアナスタジアという「都市」の要請−働いて、金を得てこい、アレも欲しいだろ、コレも欲しいだろ、だから8時間、働いてこい−の奴隷なんかじゃないことを、たまには証明してやらないといけないから。

とかなんとか格好つけてみても、ただの阿呆であることになんら、かわりは、ない。

----------2005年02月22日(火) 無関心な人びと

「ぼくと同じようにしてごらん」彼は冷ややかに言った。「嵐が荒れ狂いそうになったら、かたく口をつぐんで開けないんだよ・・・そのうち嵐は過ぎる、そうして何もかも終わるのさ」(モラーヴィア「「無関心な人びと(上)」/岩波文庫)

もうずっとながいこと口をつぐんでいるような気がするけれど嵐は過ぎない。終わったのは他人に対する欲望の問題だけ。黙り込んでいる間に望むことをしなくなった。「まあ、所詮、結局、そういうものだから」。そうして何も感じない。

怒っても、悲しんでも、笑っても、喜んでも、以前とは強度が確実に違っている。

感情を分かち合える人も減った。

いなくなった、かな。

だいたい話さないのだから分かち合えるわけもなく。

自分に起こった出来事や自分に生じた感情を誰かに教えることの意味とか意義とかを問うてみても虚しい。バックグラウンドが違う、同じ「解釈共同体」に属していない、理解も共感も望めない、私は人びとに対して無関心であり人びとも私に対して無関心である。

こうしてどんどん無口になって、いつしか「何もかも終わる」、すなわち、「タイムアップ」がやってくるんだろう。

----------2005年02月21日(月) 「応用」アナーキー原理

「《アナーキスト》とは、人間が習慣的に見るものを見るのではなく、自分の眼が見るところのものを見る人である。」
「アナーキーとは証明不能なものの命令に服従することを一切拒絶する各個の姿勢である。」
(ポール・ヴァレリー「純粋および応用アナーキー原理」/筑摩叢書)

明日返却するんです・・・。

上記のような「純粋」の状態を不完全なりにもなんとか実践できるのは学生という身分の間だけである。

ありきたりでないものの見方を学べ。
そうしてありきたりでない未来をつかみとれ。

・・・そんなふうに、思っていた。私はあんまりありきたりではない道を通って生きてきたはずだけれど、今では証明不能なものの命令に服従することで−たとえばジーンズ禁止、とかさ−生計を立てている。働く、とはそういうこと、よく仕組みの分からない、誰がいつ決めたのかも分からない厳密なルールに自分をすり寄せていくこと、なのだから仕方ない。フーリエのファランステールにだって阿呆のように細かい決まりごとがあった。

常に、醒めていること。
常に、自分で、判断を下すこと。
常に、妥協をする前に一旦考えること。

まあそれが、妥協ばっかり繰り返している私流「応用」アナーキー原理、かな。

----------2005年02月20日(日) ゆっくり、帰ろう。

「一枚の木の葉の前に立ちつくしたり、一本の樹木を眺めて我を忘れたりすることのできないこうした連中をわたしは憎む。彼らはみんな自分の《新聞》を持って、そこに鼻をつっこみ、彼らの精神は新聞のおぞましい、悪臭ふんぷんたるおしゃべりに興奮し、《政治》の支離滅裂さと卑猥な言葉に唖然とし、吐き気がするほど信じやすく、ニュースの新しさに気をとられて、つねにそこに−われわれの眼の前に−あるものの汲み尽せぬ新しさに瞠目することを知らない・・・」(ポール・ヴァレリー「純粋および応用アナーキー原理」/筑摩叢書)

今日は起きているようなので(笑)復刊ドットコム、ご協力いただける方は是非。

9時過ぎに仕事が終わるとみんなわれ先に通用門におしかける。「おつかれ、バイバイ」の挨拶もそこのけに、コートの襟をたてて、背中をすぼめながら、駅へと急いでいく。でも私は知ってるの、隣の空き地に子猫が何匹かいることを。ホントはそんなことしちゃいけないのは分かってるけど、残業用にいつも携帯しているクラッカーを砕いて掌にのせてちゅちゅちゅ、と舌を鳴らすと何匹か寄ってくる。子猫たちは用心深いので、決して私の手からは食べてくれない。だから地面において、少し離れたところにしゃがんで様子を見る。にゃあ、と鳴いて寄ってくる子もいるけれど、撫でてやろうとするとすぐに逃げ出す。こんなに冷え込んだ夜、あいつらは何処でどうやって眠ってるのかな、うちのアホ猫2匹は押入れに入り込んで出てこないけど。

急いで帰ったって、待っているのは父か母が見てるくだらないテレビの音だけだから、私は今日も、回り道をして、ミスドでコーヒーを飲んで本を読んでから、帰った。

ねえねえ知ってる、あの通りでは9時半とか10時になると鐘が鳴るんだよ、ライトアップした街路樹と鐘の音の組み合わせはちょっと、キレイだよ、そんなに行き急いで、生き急いでどうすんのさ、たまには、じっくり、周りを見渡してみたら、と言ってあげたい同僚がいるんだけれど彼女は新婚ほやほやなのだった。

そりゃー早く帰りたい、か。

ゆっくりできるのは、独身の間だけ、だって? それじゃ男って単なる足枷ぢゃんね(負け犬の遠吠えとか言うな)。

----------2005年02月19日(土) 文字は眠らない

「書かれたものは眠ることのない怪物だ。文字謎だ!」(ポール・ヴァレリー「純粋および応用アナーキー原理」/筑摩叢書)

返却期限が迫っているのだけれど返したくない、全部コピーして手元に置いておきたいくらい気にいってしまっている、この本。もちろん復刊ドットコム行き、リンクを貼ろうと思ったらメンテナンス中、だった。「眠ることのない怪物」であらなければならないはずだ・・・。

私がこうして毎日書いているくだらない文章も眠らないのだ。私が眠っているわずかな間も、仕事に出かけている間も、それは起きていて、晒されている。それは当たり前のことなのだけれど、こういう言葉に出会うとあんまり当たり前のこととも思えなくなってくる。この指先は怪物を生み出しているのか、とちょっと考え込んだりしてしまう。いったん私の脳内を離れ物象化された「言葉」は私を遠く離れ、誰もに閲覧可能なものとして解き放たれる。それは何処かで見知らぬ誰かに牙を剥いているのかもしれない、謎をかけて混乱させているかもしれない、もしくは捕えられ、曲解されているかもしれない。

・・・その言葉の行く末を想像すること、もまた書くことのひとつの楽しみでもあるのかもしれない。

システムが眠らないかぎり、あなたはいつも、此処で私の欠片に会えます。会いたくないといってもクリックすると会ってしまいますのでご注意ください、書いた言葉は眠りません。

----------2005年02月18日(金) もう浮気しない

「飲み込みすぎた言葉が多すぎて
肺に溢れて心を塞ぐ
海の深くで黙り込むおまえを今夜もひとり拾っていこう」
(中島みゆき「MEGAMI」/from「グッバイガール」

私は女神でも聖女でもないからそんなことはできない、おまえが紡ぎだすどうでもいい言葉を包み込んで抱え込むなんてことはできない、おまえの前で飲み込んだ言葉、黙れ黙れ黙れ、頼むから黙れ、おまえは美容師だろう、黙って髪を切ってりゃいい、が肺の中で煙を噴き上げて今日はいつもにもましてひどく不機嫌だ。

非寛容に過ぎるのか、とも思う。
寛容に過ぎるのか、とも思う。

一日でいったいいくつの言葉を飲み込むのかを考えれば、何事にもすぐに腹を立てる私は非寛容で、そうして何事も決して口に出さない私は寛容なのだけれどその二律背反が私をおかしくさせる。

雨が降っているからと、いつも行ってる美容院に行かなかった私が悪いのだけれど。

ハヤシバラさんごめんなさい、もう浮気しない。

----------2005年02月17日(木) 氷の華

「デカルト的な挙措の有する意味は、フーコーが断言するごとく、「思考する私は狂人ではあり得ない」ということではなく、むしろ、狂人であろうがなかろうが、我思う、我在り、「私の思考するものの全体が虚偽もしくは狂気に侵されていたにせよ(・・・)私は思考し、私は思考している間は存在しているのである」、といったことなのである。」(ショシャナ・フェルマン「狂気と文学的事象」/水声社)

ザッツライト、ファッキンライト。

もう多分狂ってるよ、だって話通じないし、皆がナニ話してるのかも分かんないし、少なくとも50メートルくらいは置いていかれてるのかそれとも超越してるのか、とにかく私は今全体を俯瞰してるの、全体がすべて私とは無関係なの、離れたとこにぽつんといる私は「こいつらアホだなー」とか「こいつらアホだけど幸せそうだなー」とかぼんやり思ってるの、ただそれだけのことなの。

そうしてもう二度とその全体の中に自分が戻れないことに気づいてる。そんな人は多分たくさんいるけれど、おのおのが自分だけの宇宙を形成してしまっているので手を取り合えることはまずない。

だけど忘れないで、あなたが考えるのをやめたとき、その氷の華は溶けてなくなる。

----------2005年02月16日(水) 眠りたい

「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機−あらゆるキ−ノ−ウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。」(サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」/新潮文庫)

仕事が終わってから、ミスドでこれを読み返していてこのフレーズにぶつかって泣きそうになった。私は本当の眠気なんかもう永いこと覚えたことがない。いつも白い錠剤が無理矢理つれてきてくれる幻の眠気に騙されて無理矢理眠ってる。あらゆる「キノウ」(原文にあたれなくてごめんなさい)、昨日、機能? は傷だらけ。

なーんにも戻ってこないんだ。

眠りたい。

一昨昨日3時間。

一昨日3時間。

昨日2時間。

しか眠ってないけど多分今夜も朝まで起きているだろう。いつも耳元で声がする。眠っちゃいけない、眠ってる時間なんか、何処にもない、もっと読め、もっと書け、もっと考えろ・・・

眠りたい、眠れないのなら文字に還元されて二次元の世界に取り込まれてしまいたい。そこでなら無傷の人間に会える。

----------2005年02月15日(火) 人のことは分からないけど

「主観的生命は、それが体験せられたものであるかぎり、決して知の対象となることはできない。」(J・P・サルトル「方法の問題」/人文書院)

だから考えても無駄だ、それにもうどうでもいいことだ。

ただ、あれだけの醜態を見せつけられても、たった一つだけ言えることは、私はある一点、もしかすると二点、三点、いや、もっと? 分からないけれどいくつかの点において確実にあの女に「劣っている」部分がある、ということ、

・・・なのか?

・・・・・・・・・それだけは、納得できないんだけど・・・・・。

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・(以下略)。

----------2005年02月14日(月) たまには手も抜く。

「犀川は五分間ほど、ずっとキーボードを叩き続けていた。一秒間に数回は打つ。だから五分間で千回以上のキーを叩いたことになる。たとえばこれが、ローマ字入力ならば、平均して五百文字程度になって、一時間だと六千文字、原稿用紙で十五枚分だ。すると一日二十時間キーボードを叩けば三百枚、一年続ければ十万枚、一生働けば五百万枚程度になる。」(森博嗣「四季 秋」/講談社ノベルス)

あ、てめえ今日は手抜きでさっさと仕上げてさっさと「冬」を読もうとしてるだろ、とか言わないで、その通りだから(笑)。

なんせ私の今現在の職業というのは8時間、ときには9時間、多いときには11時間キーボードを叩き続ける仕事なのであって、こういうふうに描写されてしまうといったい私は一日で何回キーを叩いているのかな、と途方に暮れたのだ、5分で1000回だとしたら8時間で96000回である。TabとかBackspaceも含めるとおそらく10万回近いだろう。

ぎょえー、そりゃ腱鞘炎にもなるわな。

というわけで本当に手抜きで失礼します。

----------2005年02月13日(日) 自由だ

「祈るためにひざまずくことができない。いわば私の膝が硬いからである。私が柔らかくなれば、(私が)くずれてしまうのではないかと心配なのだ。」(ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章―文化と価値」/青土社)

泣こうと思えばいくらでも泣けるはずなのに私の眼はそれを拒否して乾ききっている。

ここで、膝を折ったら、終わりだ。

私の膝は、硬い。

もう神様はいないのだから、私はもう、祈らない。

「自由だ。」

と無理矢理微笑んでみる。私は最後のハードルを越えた。

----------2005年02月12日(土) 空ニ返レ

「すべての象徴はひとつの経験である。それは生きねばならぬ根本的な変化であり、やりとげなければならぬ飛躍である。だから象徴があるのではなく、象徴的な経験があるのだ。」(モーリス・ブランショ「来るべき書物」/筑摩書房)

私は紙コップを捨てにホールを出ただけだ。

誰も私についてこなくていい、私は皆を置き去りにして背筋を伸ばして歩いていく、私の身体は今これ以上ないというくらい軽い、そうして私は正しい歩き方を知っている、膝を伸ばし、顎をあげて、灰色の目に灰色の景色を映しながらただまっすぐ前だけを見て歩いていく、もう誰も、ほんとうにもう誰も私についてこなくていい、インテリ気取りの高慢ちきな女だって? かまわない、所詮痩せこけた傷だらけの負け犬だって? まったくかまわない、その通りだ、私には何もない、何もなくていい、何もかも邪魔なだけだ、

甘くて暖かくて酸っぱくてこそばゆくて、どこにもなかったからこそなによりもきれいだったすべての想いを今夜空に返す。

飛んでいけ、どこまでも。

もう、戻ってこなくていい、もう、二度と、戻ってこなくていい。

----------2005年02月11日(金) 「対象f」

「ことばの体系のなかでこうしてかき消された「私」は失われた調和と全体性を取りもどそうとして、「対象a」を欲望する。それは対象aがことばによって象徴化しきれなかった残り物として、失われた世界への通路をしめしているからだ。」(中沢新一「ポケットの中の野生」/岩波書店)

いいのかな・・・、まあ、いっか。

「対象a」が私を押しつぶしにやってきた。それは限界を知らないかのように次から次へと湧き上がってきては「私」をへりの部分へおしやっていく。本来意識と非意識の境界部分で揺らいでいるはずのものが時折こうして意識のどまんなかに浮かび上がってくる。もちろん「対象a」である以上言語化することなんかできない。区切りをつけてやることも、整理することもできない、ひたすらぐちゃぐちゃの、べちゃべちゃの、どろどろの、非定型なものとして増殖を続ける。身体の粘膜にへばりつき、息を詰まらせ、果てのない嘔吐感としてだけ認識される。

私は象徴化に失敗している、すなわち精神の均衡を欠いている、だから正常な言葉の繋がりを見失っている、◇aだって? まさか、Sは去勢を受けていない、対象が存在しないのだから禁止なんか知らない、制限も知らない、受け止めてくれる器がないのだから際限なく拡張する、S≦a、それはあまりにも恐ろしい地獄的な構図じゃないのか?

こうして判断力を持っているはずのS、「私」は周縁へ、自分の端っこへ追いやられていく。意識の中心に居座っているのはfでありsでありnであり、今のところ言語化するメドなんて到底たたないからラカンの「対象a」とはまったく無関係だけれどとりあえず「対象f」だとか「対象s」だとか「対象n」だとかいうことにしてみても事態はちっともかわらない、ねえ私狂ってるんじゃない?

----------2005年02月10日(木) 線の上

「線とは行為の形である。線が与えられるということは、行為が与えられるということだ。」(ポール・ヴァレリー「純粋および応用アナーキー原理」/筑摩叢書)

なんかエヴァンゲリオンの最終話(だったかな・・・?)を思い出させるような言葉だ。真っ白な紙に線を一本引っ張ると上と下ができて自由をひとつ失う、って、そんなのあったよね。

線がないと、真っ白なのだ。真っ白は怖い。上も下も右も左もなくて、ただ自分の意識だけがぽっかりと、対象を一切失って、ゆらゆらとさまよっているだけ。だから必死で線を探す、とりあえず線に乗っかっていれば迷うことはない、時にその線は鬱陶しいし、それに従っていくことは腹立たしいし、行きたくもないところに連れていかれたりもするけれど、それでもその線を見失ってしまったら私は本当に何でもなくなってしまう。

今日はこの線、明日はこの線、ってな具合で何本もたぐることのできる線を持っていれば理想的なんだけど、そんな贅沢は言ってられないから、だからどんなに朝、起きるのがいやで、3時半に追加のロヒプノールを1ミリ飲んだせいで足元がおぼつかなくても、起きろよ、動けよ、会社行けよ、と本当に大声で自分に言い聞かせて、今んところ私に与えられている唯一の行為の線に付き従わなきゃならないんだ。

結局は空白が怖い。私はいつも、誰かがひいてくれた線の上だけを歩いてきた。

----------2005年02月09日(水) ブック・コンシャス

「ナジャとは、希望の中断の名、希望を告げながら、しかしその実現を成就せずに「はじまり」だけで消えていく名なのだから。」(小林康夫「表象の光学」/未來社)

久しぶりに一日を図書館で過ごす。しばらくそういうことをしない間に図書館は大きく変わったようだった。警備員が巡回し、眠っている人のかたわらに警告のカードを置いていく。鼻をつく臭いを発散させている男たちがそこここにいる。漫画が増えている。雑誌が増えている。CDが増えている。試聴ブースからは「あなたあなたあなたがいてほしい」という小坂明子の甘ったるい声が延々と洩れてきていた。ブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」を読もうと思ってロシア文学の全集を取りにいったらその前に労働者風の男が大荷物を床において座っていて、とてもではないけれどそこをどいてください、と声をかけることができなかった。

だからなじんだ棚の前に行く。目新しい本は見つからない。ショシャナ・フェルマンの「狂気と文学的事象」が何故だか2冊置いてあるのも、山形和美氏編の「聖なるものと想像力」が何故だか下巻だけしか置いてないのも、いまどき誰も読まないだろうに、クルティウスの「ヨーロッパ文学とラテン中世」がどかーんと居座っているのも、変わらない、何も、変わっていない。

変わったのは人間の側、私の側であるのだろう。そうして私は「ナジャ」らしく、何事をも実現、成就することなく、また何回目かの「はじまり」を繰り返そうとしている。いつまでも、永遠に、「はじまり」だけを繰り返す、そういう意味も、あったみたい、この名前。

----------2005年02月08日(火) それは言い訳に過ぎない

「とにかくわたしには、自分が気がヘンになりそうだということしか分んない、とフラニーは言った。「エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、何でもいいからものになりたい、人目に立つようなことかなんかをやりたい、面白い人間になりたいってそればっかしなんだもの、わたしはうんざり。いやらしいわ―ほんと、ほんとなんだから。人が何と言おうと、わたしは平気。」(サリンジャー「フラニーとゾーイー」/新潮文庫)

それがゲームを降りる理由、IMIに足を向けない理由、100枚近く書いた原稿を真夜中にCtrl+Xで削除する理由、何かが形になりはじめると気持ち悪くなってくる、とてつもなくいやらしいものに見えてくる、自分の中にある攻撃性がむくむくと力を持って一刻も早くその排泄物を壊してしまえと語りかけてくる。

多分書きたいことはある。

けれどロラン・バルトの定式にそって還元していけば「鬱陶しい」と真っ白な紙に真っ黒なペンで大書きにすれば済むだけのこと。詳細を克明に綴る―たとえば時系列を整えて。たとえば第三者の視点から。たとえばはっとするような比喩を用いて。等々―うちにすべての装飾をはぎとりたくなってくる。

生活とか年齢とか虚栄心とかの要請から私はモノを書こうとしている、けれど書き上げる前からうんざりしている、いやらしいと感じている、そうして本当に書きたいのかどうかを見失ってしまう。

うんざりさせる、いやらしいと感じさせるものしか書くことのできない人間が「理由」というとき、それは「言い訳」に置き換えられる、ってことくらい、知ってる。

----------2005年02月07日(月) もう、自分に、飽きた。

「ひとりっきりで、何をしていなくても、時間を無駄にしているわけではない。誰かと一緒にいるとき、私たちはほとんどいつも時間を浪費している。自己との対話は、たとえそれがどのようなものであれ、まったく不毛なものというわけではない。いつの日にか己を再発見するという希望にすぎないとしても、必ず何かが生まれるはずである。」(E・M・シオラン「悪しき造物主」/法政大学出版局)

かつてひとりっきりの時間を過ごしていたころ心の糧にしていた言葉。今も私は何処にいても誰といてもひとりっきりの時間を過ごしているけれど、あのころと同じようになんらかの心強さを感じさせてはくれない。自己との対話、それこそが不毛であると感じる。誰かといるとき時間を浪費している、と考えるその裏には、誰かよりも自分に価値があるという暗黙の前提がある。誰かの中にいて自分を滅却させてしまうことに価値をおかないのは、自分を本当に疎ましいものと認めていないことの証左だ。誰かよりも我を愛す、おそらくシオランはその手の思想家だ、絶望、崩壊、災厄、そんな物騒な言葉を多用したとしても、シオランには確固たる「自分」がある。

多分ひとりっきりでは何も生まれないだろう、再発見するべき己なんかはとっくの昔に朽ち果てているだろう。

自分と向き合うことは苦痛だ、おそらく彼女たちとのおしゃべりの間で昨日のことも明日のことも忘れ去っておくほうが、ずっとずっと、楽だ。もう、自分には、飽きた。

----------2005年02月06日(日) 蒼ざめた午後

「子供の頃、わたしは太陽を凝視したことがある。太陽はわたしの目をくらまし、光の輝きでわたしを灼いた。子供の頃、わたしは愛を、母親の愛撫を知っていた。わたしは無邪気に人びとを愛し、喜びにみちて生活を愛していた。いま、わたしは誰をも愛していない。愛したいとも思わないし、また愛することもできない。世界は呪うべきものとなり、いちどきに、わたしにとって荒涼たる砂漠と化した。すべては虚偽であり、すべては空の空である。」(ロープシン「蒼ざめた馬」/岩波同時代ライブラリー)

「いつのことだか思い出してごらん あんなこと こんなことあったでしょう」と幼児がテレビの向こうで歌う。たしか幼稚園の頃、私も歌っていた。母はその頃の私が「可愛らしかった」といって目を細める。ハイジみたいにほっぺたが赤くて髪はくせっ毛でくりくりで頭がよくて。

私の頬はいつの間にか蒼白くこけ、くせっ毛はストレートパーマで取り去られて、飴色に染まっている。頭がいい、は小賢しい、気難しい、に置き換えられ、私が部屋で本を読んでいる間、母はまるで腫れ物にでも触るかのようにイヤホンを突っ込んでテレビを見ている。

とてつもなく静かで、蒼ざめた、日曜の午後。

多分行くべきところはあった、するべきこともあった。けれど内側でこだまする声はすべてに「虚しい」と判定を下した。

太陽とはぐれて久しい。

----------2005年02月05日(土) あんたいったいだれ?

「こうして、社会的主体は、「人工の代替器官をつけた神のようなもの」として思い描かれることになる。このような「神」が持つ空想的な人工の手足は、生まれながらにして<運命>によって与えられている、より劣った手足の代わりとなる。文明は、空想を現実化したような身体や、おとぎ話を思わせる諸力を主体に与えるのだ。」(ジョアン・コプチェク「わたしの欲望を読みなさい」/青土社)

もうなんだかすべてがいやになってきた。いろんなものに肥大させられている自分が。本当の私はベッドから起き上がることもできないくらい疲れていて弱々しいのに、服を纏い化粧をのせてヒールを履いた「社会的な」(それは失笑を誘うような言葉ですらある)私は、さまざまなツールを操って本当の自分ならば持てるはずもない力をかざしてみせる。

どうして私が九州の南の端っこにいるはずの頭の悪い代理店の店員と話すことができるのかを考えるとめまいがする。いったいどんな目に見えない力が自分に宿っているのかを考えるともっとめまいがする。本当の私は部屋のベッドで眠っているのに、「社会的な」私は何百キロも離れた土地の人間にある種の権力を帯びた存在として(その権力はなんら私の本質に属するものではないにも関わらず、だ)「もうすでに6回線でご加入いただいてますのでこれ以上の追加はお受けできかねます」と高飛車なことを言い放つだけの力を有している存在として現前する。

気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。

おまえはいったい何者なんだ? あんたいったいだれ? 本当はいったい何ができるの、何を知ってるの、何を持ってるの?

----------2005年02月04日(金) 併走する生命線

「彼の掌を見たとき、この若いイギリス娘の顔は、コンプスキュールもロワも、その理由を訊かずにはいられないほど、驚きの表情を示した。
「まあ、これはどういうことでしょう!・・・」とエリザベスは答えた。「あたし、こんな手を見たことがなくってよ。生命線が一本じゃない、何本もあるのよ」
「だと僕の死は単数? それとも複数ですか?」とギヨムは尋ねた。」
(ジャン・コクトー「山師トマ」/角川文庫)

私の掌にも三本の生命線が走っている。一本はとてつもなく短くて、人間の一生を80年と考えるならまずもうそれは確実に死を迎えている。もう一本はそのとてつもなく短い線の外側に、その倍の長さで走っている。けれどもそれですら親指の付け根までも届いていない。そうして三本目の生命線は二本目の生命線と併走するような形で掌の真ん中に突如出現する。

今日遅い遅い新年会で何故か手相の話になって気持ち悪い、不吉だ、と注目を浴びた私の生命線は確かあの悪名高き五島勉のノストラダムス本の中で、私と同じくらいの歳の人にだけたまに見られる奇妙な生命線で、その分断は1999年の破局とそれを乗り越えるべく運命づけられている我々日本人の姿を象徴しているのだ、と書かれていたような気がする。そんなこと書かれてなかったかもしれないけどあったこともなかったことに、なかったこともあったことになってしまうのがノストラダムス本なので別にかまわないだろう。

とにかく私は今ちょうど、二本の生命線が併走しているあたりを生きているはずだ。三本目の生命線にうまくバトンを渡せなかったらおしまいだよ、と三つの死が刻み込まれた掌は語っているのかもしれない。

----------2005年02月03日(木) Fとの生活

「わたしはFをどのように愛しているのか? 
十全な愛。わたしはどのように愛することが出来るのでしょうか? 本当にわたしは愛してしまったのか? わたしが愛しているとしたら何故なのか? わたしは何故愛するのか? わたしが愛しているのはFなのですか?」
(金井美恵子「愛の生活|森のメリュジーヌ」/講談社文芸文庫)

私の地の文じゃ、ないよ、引用。この一文だけであまりよくは知らない金井美恵子という作家を愛するに足りる。FがEだったりGだったりしたらまた話は別だけれど。

時々空想する。もしもFが此処にいて、という空想。多分私は「豆まきしよう」と言うのだ、お寿司屋さんでもらってきた鬼のお面にちゃんと輪ゴムを通してから。「阿呆、俺どんだけ仕事して帰ってきたと思ってるねん」とFは文句を言う。けれど私は気にせずFにお面をかぶらせて豆を投げつける、するとFは少しの間だけ調子に乗って遊んでくれる、けどすぐに「あほらし、やってられるかボケ」と言ってお面を投げ捨てるだろう。そうして多分二人であほらし、といいながらもちゃんと西南西を向いて太巻きをまるかじりする。あんたさあ、頼むからもうちょっとキレイに食べてよ、と私は文句を言うだろう。「ああ? んなもんまるかじりなんやから食いたいように食ったらええんじゃ」というFの顔が目に見えるようだ。

たとえばアクセル・ローズの夢を見て身体中汗びっしょりになって飛び起きた朝なんかは特にそういうことを空想する。なあ、あたしアクセルの夢見た、と呟いたときに大笑いをしてくれる人であったらFでなくてもかまわないのかもしれない、とはあまり思わない。

やっぱりFでなければならないようなそんな気がする、理由は何年経っても分からないけど。

----------2005年02月02日(水) with my little grey eyes

「わたしはどこへ行くのか? わたしの精神のなかで飛び狂う昆虫を函の中に固定するピンを求める旅にむけて。おそらくは死にむけて。」(トリスタン・ツァラ「愛・賭け・遊び」/書肆山田)

ささやかなる敬意を込めて。>U

さあ灰色の目で何処へ行こう、何を見よう。こんなにささやかなことで「世界の色が変わる」ならそれはなんともお手軽なことだ、何も変わらない、灰色の地下鉄も灰色のビルも見なれた画面も何も変わらないけど、灰色の目にあわせて全身を真っ黒のぞろっと長い服に包んで9センチのヒールを履いて出社したら周りの目は確かに変わった。もしかするとそれは思ったより簡単に変わるものなのかもしれない。

・・・なんだか周りを「裏切った」みたいで楽しかったの、「どっか行くの?」と尋ねられても「ちょっとね」とお茶を濁すことくらいしかできないんだけど、終業と同時に端末落として地下鉄に駆け込み、向かった先は中央図書館だったりするだけのことなんだけど。

そうしてそこであたらしい昆虫を見つける、私は詩人じゃないからピンはそのへんに落ちている言葉を使えばそれで足りる、一匹、二匹、と見知らぬ昆虫を数え上げて白い紙の上に留めていく、そんなことを繰り返しているうちにいつか私は向かうべきところへ向かっているだろう、という淡い期待を込めて。>S

----------2005年02月01日(火) あなたの知らないわたし

「いつもマリは「同時にいくつかの人格を持つべきだ」と言った。あるときはひたむきに何かに打ち込み、あるときは欲望の虜となる。あるときは徹底的に他人に尽くし、あるときは自分のためだけに生きる。つねに他人の印象を裏切り、新しい自分を生み出していく。果たしてそんなことが自分にできるだろうか。」(植島啓司「オデッサの誘惑」/集英社)

あなたから受けた影響は否定しない、できない。

だから駆り立てられる、もの凄く駆り立てられる、自分の別の顔、疲れて、やつれて、生気のない顔の下に、もうひとつの自分の顔を作り出すことに。あなたが見ているわたしは本当のわたしではなくわたしはあなたが想像もできないような知的な−もしくは猥らな−わたしを隠し持っている、という甘美な想像。

単一化されてしまったらそれで終わり、人は他人の知らないもうひとつの人生を持つ必要がある、此処はたしかにその一部かもしれないけれど足りない、とても足りない。他人が私に対して抱くイメージを毎日のように覆していくこと。

「それがすべて」という生き方では疲れるだけだ、逃げなくては。

果たしてそんなことが自分にできるだろうか?