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----------2005年01月31日(月) インサイド・アウト
「想像の世界は全然孤立しており、私はその世界には自分を非現実化しないかぎり入ることを許されない。」(ジャン・ポール・サルトル「想像力の問題」/人文書院)
キミの話には飽きたしキミの阿呆さ加減には呆れたし
なんだかいろんなことにうんざりしたし
そろそろ自分の裏と表をひっくり返して外の世界をそのまま内へ包みこみ、内の世界をそのまま外へどしゃーっとぶちまけてみたらどうだろう、ってなことを考えてみた。
私を裏返しにするのだ、非現実化するのだ。そうしたらきっと想像の世界は内側で受肉する、そうして現実の世界には引きちぎれた血管だとかむき出しの内臓だとかをぷらんぷらんと垂らした無気味な血の塊が残るだけ。
さぞ気持ちがよかろうと思うのだけれど、どう?
----------2005年01月30日(日) 傍観者
「ほら、あんなにたくさんの人間が、たえまなく何処かに向って、歩いて行くでしょう・・・みんな、それぞれ、何かしら目的を持っているんだ・・・ものすごい数の目的ですよね・・・」(阿部公房「燃えつきた地図」/新潮文庫)
猫のような目をしたナカニシさんは車のローンを支払うために働いている。関東のアクセントで早口にまくしたてるヒラカワさんは最近入籍した、そうして挙式をハワイで挙げる資金を貯めるために働いている。いつもユニクロ風のフリースにジーンズのタカイさんは実は組み紐教室に通っていて、平日に休みが取れるからという理由で今の職場を選んだ。愛媛の小さな漁村で生まれ育ったハマノさんは家賃のために働いている。いつもキレイな服装で出社するクボタさんは多分洋服代のために働いているのだろうと思う。5日前パリから帰ってきたムカイさんはまたどっかに行きたいから働いているので次の有給をいつ取るのかをもう考えはじめている、4つ年下の彼氏が結婚を決意してくれるのを待っているホソノさんは暇つぶしに働いている、だから残業は決してしない、タシロさんはそろそろ結婚したいのだけれど偉くなりすぎて誰かが仕事を引き継いでくれないかぎり上が辞めさせてくれないから働いている、ミズノさんは子供ができるまで、ニワさんはバンドの追っかけをするため、私とよく似たメガネをかけて私と同じ香水をつけているオカダさんとは話したことがないから知らないけれどとにかく働いているからにはなんらかの目的があるんだろう、
私は皆が働いているので働かなきゃならないような気がして働いている。信号待ちで誰かがふっと歩き始めると赤信号でもつられて歩き出してしまうのと同じ。
・・・私が生理痛をおしてまで働く目的って何なんだろう・・・。
----------2005年01月29日(土) 今夜も逃げられた
「いつかは彼女も誰かにたいして無気味な神になれるときがくるのだろうか? ともかくそれだけはまだ訪れたためしはない、だってひたすら服従することに、或いは崇めることにかかりきってきたように思われるからだ。」(A・ピエール・ド・マンディアルグ「オートバイ」/白水社Uブックス)
それは私がとろくさいからだ、「昨日」が降り積もった足元の沼地、発酵して胸をむかつかせる沼地を蹴って、一気に駆け抜けるだけのスピードを持っていないからだ。取り憑いてくる、それは足元からじわりじわりと腰へ、胸へと迫ってくる、そうして私を動けなくする、
最もスピードを感じていられる瞬間、それはこの文章を書いているとき、手の赴くままにキーボードを自在に操っているとき、他人の書いた粗雑な筆跡を読み取るのではなく、私の頭の中だけにあるまだ現前していないイメージを追いかけているとき、それは逃げていく、いつも私の目の前をすり抜けていく、けれどいつかきっと捕まえてみせる、そいつの尻尾を捕まえてそうして皮を剥いでやる、一瞬たりとも手を止めてはならない、また逃げられる、また遠ざかる、だから全身の神経を指先に集中させて・・・
今夜も結局逃げられる。
ただ、私がこのキーボードを叩く、という行為を偏愛していることだけは確かだ。ただその瞬間だけ、世界は私の手の中にある。私が世界を操っている、そんな錯覚を覚えるから。だってそうでしょ、私がこれを「叩かなければ」あなたは生涯これを目にすることなどなかったはずなのだもの。
だけど今夜もやっぱり逃げられた、だって本当は、こんなことじゃなくて、生理がきそうでこなくて苛々するから誰かとっとと私の子宮口を突き上げてよ、そのためだったらタクシーにでも新幹線にでも夜行列車にでも飛び乗ってあなたのもとに駆けつけるから、ってなことを書こうと思っていたんだもの。
----------2005年01月28日(金) そこにあるべきもの
「幸福に対しても不幸に対しても、また絶対的権力とかまったくの無力に対しても無関心であること、おそらく至高性と結ばれているようなこういう無関心は、なにかしら原始的なところに発しているということは間違いないだろう。」(ジョルジュ・バタイユ「至高性―呪われた部分 普遍経済論の試み」/人文書院)
違うんじゃないの、原始的なものっていうのは決して無関心ではないと思うよ、だって無関心であるということはそこに欲望が欠如しているということであって、欲望の欠如は生存の危機につながる、原始的なものはただ無我夢中で生きようと、ただ生きようとする、無関心であることは原始的な状態からはもっとも遠いところにある。無関心は退廃としか結ばれていない。
いつか大学院の指導教官が「グノーシス主義は何も生み出さないでしょう」と言ったことがある、彼が私に授けてくれた唯一の指導である。だからグノーシス主義者は決して「文学者」にはなりえないはずだ、と彼は言った、多分それは正しい、ウィリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」を「新ロマン主義者ですか」と言い放った、落語をこよなく愛し、ノスタルジアを研究するあの好々爺はもしかすると文学の本質をメガネの奥の小さな目で捉えているとてつもなく鋭い「文学研究者」であるのかもしれない。
そこには原始的な欲望が渦巻いていなければならない、過剰で、統御不能で、予測不能な欲望が渦巻いていなければ、「なにものか」が形を持って生み出されることは決してないのだ。
至高なものは何も生み出さない、至高な無関心だって? それは本当に呪われている、それこそが呪われている。
----------2005年01月27日(木) ダ・チュ・ラ。
「人を片っぱしから殺したくなったらこのおまじないを唱えるんだ、効くよ、いいか覚えろよ、ダチュラ、ダチュラだ。」(村上龍「コインロッカー・ベイビーズ(上)」/講談社文庫)
ものすごく残虐なことを書いてプレビューを押し、登録しようと決意してクローズボタンを押した時に本文まで一緒にクローズしてしまった。同じことをもう一度書き直す気力はない。
書くな、という神意が働いたのだということにしておく。
とにかくもう分からないからダチュラだ。
ああ なんかすごくいいことを書いてたような気がするんだけど・・・。
これって私がダチュられた、ってことか。
----------2005年01月26日(水) 叫んだって何も来ない。
「ねえアネモネ、あなたは欲望ってものがないんでしょ? スーパーマーケットの中で生まれたものだから、何が欲しくて何が食べたいのかわからないのよ、何かが欲しいって大声で叫ぶのは恥ずかしいって思ってるんじゃないの?」
「よくわからないけどあたしは待ってるのよ」
「何を? 何を待ってるって言うのよ、待ってたって何も来ないわよ、あなたが待ってるっていうのは弁解よ、錯覚、乾きに乾いた砂漠の迷子が水と間違えて砂を飲んでるんだわ。」
(村上龍「コインロッカー・ベイビーズ(上)」/講談社文庫)
砂を飲み込みすぎていつの間にか動きが取れなくなった。見渡せば右も左も前も後ろも砂、砂、砂。何も生えない、何も育たない。皆から水分を奪い潤いを奪い、軋ませる。あの部屋には砂が詰まっている。
だからこんな本を読み返したくなる、キクとハシがコインロッカーで生まれたのは1972年、その2年後に私はコインロッカーで生まれたわけではないけれど、長じて今とてつもなく大きなコインロッカーのような箱の中に詰め込まれている。
叫べ、って?
いったい何を。
叫んだって何も来ない。
----------2005年01月25日(火) 私は、何も、しない。
「すべてを見とおす己れの本能や明晰すぎる心を抱きながら、なお、生き続けるには、どんな手だてを用いればよいのだろうか?」(E・M・シオラン「崩壊概論」/国文社)
多分私は頭が良すぎるのだ。
あ、今笑った?
ありがと。
笑ってて。
それが救いになるから。
こいつ何にも分かっちゃいねえな、と笑ってて。
悪いけど私は、すべて分かってるから。
あなたの思うことを叶えてあげることも、望む言葉をかけてあげることもできるけれど、そんな奴隷のような天使のような自分には吐き気がするから何もしないだけ、自分の明日も明後日も、どう動いたって何も変わらないことも分かってるから何もしないだけだよ。
----------2005年01月24日(月) 唯一の絆は、嘘
「僕たちのあいだにある唯一の絆は、どちらにもある嘘だ。」(ミシェル・レリス「幻のアフリカ」/河出書房新社)
この本ものすごく分厚いんだけれどものすごく美しい言葉に満ちていて大好きなのです。今ものすごく読み返したくなりました。でも持ってないんです。復刊ドットコム行きになってるんです、もしよろしかったらユーザ登録なさってる方は投票お願いします、お願いしますよ。
ところで今某ちゃんねるで父の会社がぼこぼこに叩かれていてやっぱり気になるのだろう、父がしきりに私の部屋にやってきて「どーなってる?」と尋ねてくる。ぼったくりだの893だの書かれてるけどうちの父は真夜中に携帯が鳴ったら「鍵なくした」とか「お湯出ない」とかいうお客さんのところに車で駆けつけるくらい腰のひくーい取締役なんだぞ、そりゃ家賃滞納したら速攻ロックかける、ってのはちょっと厳しいかもしれないけどそんなもんは払わない方が悪いのだバカモノと書き込んでやりたいのだけれど私は某ちゃんねるという存在自体が恐ろしく、たとえばこうして閲覧しているだけでコンピュータが悪いものを拾ってきそうなのでノートンのインターネットセキュリティの警告レベルを「高」に引き上げているのだ。
冒頭の美しい一文を某ちゃんねるの住人に捧げるのはもったいなすぎるような気がするけれどつまりはそういうこと、キミたちみんな、嘘だけで、虚構だけで繋がっているんだよ。
----------2005年01月23日(日) あー、給湯器つぶれてん?
「浴槽はやっぱり縁が平行で、背もたれは斜め、底は平らで足置きを使う必要のないものに限る・・・」(ジャン=フィリップ・トゥーサン「浴室」/集英社文庫)
そんな引用はどうでもいいんだ、うちの浴槽はよくある家庭用のピンク色の浴槽で縁は平行だけど別に背もたれは斜めになんかなってないんだ、でもそれでもいいんだ、いいんだよ、入れさえすれば。9時間働いて、夜風に吹かれて寒い寒いおお寒い、と凍えながら帰ってきたこんな夜、あったかいお湯に浸かってそれこそJULIE DOIRON なんかを聞きながらゆったり弛緩することが唯一の楽しみであったりするのに、
「あー、給湯器つぶれてん」
って。
今すぐ買うてこいやてめえこらあと暴れそうになるのを必死でこらえた。母は家で風呂に入らない(毎朝フィットネスクラブのサウナに行ってる)から「あー、」なんて言ってられるんだちくしょー。私は今日とても可哀想だ、とあなたも思ってくれたらせめてもの慰めに「投票」ボタン押して頂戴。
----------2005年01月22日(土) 「一般経済学」批判
「言説とは、それが意味の表出である限り、《至高性》の喪失そのものである。」(ジャック・デリダ<限定経済学から一般経済学へ>「エクリチュールと差異(下)」/法政大学出版局)
実はおなかの具合がかなり悪くて、今日は朝から差し込むような痛みがひどかったので会社を休んだのだった。そうしたらざまみろざまみろざまあみろ、と気分がかなりよくなって、ここんとこ数日痺れたままだった右腕も快調で、予定よりもずっとずっと滞っているメモ類の打ち込み作業もさくさくと進んだのだった、単なる子供である。
で今日は大学院のときに作ったレジュメを見直していてこんなものを発見したんだけど全然分からない。2000.1.20の日付があるから5年前のとにかくこの頃これを発表してHくんとかI田センセイの厳しい批評に晒されたはずなんだけどぜーんぜん覚えてない。んもう私にとってデリダは何の意味も表出していない、よってそれは非常な《至高性》を保っている、ってこと、か?
・・・限定経済学っていうのは乱暴に言えばしみったれた自己保全を基調にして常に「守り」に入るやり方、一般経済学っていうのはもうとにかく乱暴に言えば浪費しろ、ってこと、消尽しろ、ってこと、ポトラッチを基調に据えて豪快に攻めろ、ってこと、つーか要するにいわゆるポストモダンの時代、哲学とか思想はそんな夢みたいな話に浮かされて何千万枚、何億万枚という紙片を無駄に費やしてた、ってこと、私が作ったレジュメなんぞはその周辺部分にあって無駄の最たるものでどうしようもないからちゃんとメモサイズに切って裏紙を利用しなくちゃならない、ってこと。これこそが言葉の本来の意味での「一般的」経済学だ、どうだ参ったか。
----------2005年01月21日(金) 大学狂ひの女
「いかなるたぐひの触れあひとて、むかつくなり。おのれの名をよむことすら。」(D・H・ロレンス「島狂ひの男」/不死鳥社)
the man who loved the islands、というタイトルのこの小編、不死鳥社という謎な出版社から鈴木新一郎という人が全編を文語体で訳したものが500部限定で出ている。K大の地下書庫で昔読んだ。普通批評などでは「島を愛した男」と訳されているし、後に原書でも読んだけれど、6匹のヒツジと1匹の猫だけを連れて周囲1609mの小さな島に移住してそこで次第に壊れていく男を描いたこの作品の、「狂ひ」という強烈な感覚はほかのものではどうしても希薄だった。あの地下書庫の静謐を思い出す。直射日光を完全に拒み、空気を調節し、すべてを分類しつくした、完璧に整えられた広大な地下世界は、愛するに足り、そうしてそこでひっそりと「狂ふ」に足りる空間だった。
あーもう大学帰りてぇ、ほんっと大学帰りてぇ。
----------2005年01月20日(木) 結局、同じこと。
「すべての深淵は、たった一つの深淵しかつくり出さないのである。(・・・)あらゆる相違は巧みに欺く類似であり、《他》は《同一物》の逆説的状態である。慣用的言い回しを使ってより乱暴に言えば、《他》とは結局《同じこと》なのだ。バロック的世界とは、こうした視覚の苦痛が表現の幸福のうちに解消する−完成する−感動的詭弁である。」(ジェラール・ジュネット「フィギュール〈1〉」/書肆風の薔薇)
もう「私が誰かと違っている」、なんていう錯覚はうんざりだから。何も変わらないから。「私」であろうとする努力なんてどこまでいっても絶望的だし、「私」に固有の思想もなければ思弁も語彙も特徴もないし苦悩もない、痛みもない、不幸もない。まったく「孤独」な人間、という存在はありえない。「私」はつねに、すでに、共有されている。
まわりを見渡せば吐き気を催すほどの多様性に圧倒されるけれどそれこそが「巧みに欺く類似」だ、と気づいて本当に吐きたくなった。
・・・このように文学理論はすべての表現から意味を取り去ってしまう。一篇の詩を解説しているそぶりをみせながら、多様な解釈を展開しているようにみせておきながら、実は・・・の一種です、亜流です、と言い放ってしまうための「理論」。まあそもそもテクストを再生産するための手段なのだから存在じたいがバロックなものなのだけれど。そうしてその文学理論の感動的詭弁も今世紀完全に沈黙している、その沈黙しているものを再び取り上げている私もまた、あなたと同じ深淵に取り込まれているだけのことに過ぎない。
----------2005年01月19日(水) フェイス・ハード?
「フェイス・ハード。」(就業中誰かから回ってきた手紙)
なんだろう。その「フェイス・ハード。」という言葉は妙に面白くて、誰が何の意図で書いたのかちっとも分からないのにくすくす笑いとともに回ってきた手紙はそこらじゅうにくすくす笑いを巻き起こして、いまいち仕事にならなかった今日。
言葉にするのはすごく難しいのだけれど、職場に最近入ってきた妙齢35歳くらいの女性が、いつも「これでもかっ」ってくらい気合いの入ったセットで出社なさる。今日はワックスで浮かしまくった巻き毛がにわとりのとさかのようになっていて、おそらく、くすくす笑いの中心はそのとさかにあったと推測されるのだけれども。だってうちのぼっちゃんSVがその女性の後ろを通りかかったとき目が点になっていた現場を目撃したし、その後目がきょろきょろと泳いでいた彼と目があった私は吹き出してしまい、それを見た彼も笑いをこらえるのに必死だったから。
だからたとえば「とさかちゃん。」とか「スーパーサイヤ人?」とか「浮いてます。」とか書いてあったら納得するのだけれどなんで「フェイス・ハード。」なんだろう。誰が書いたんだろう。すごいセンスだと思う。意味をなしてない。完全に無意味である。シュルレアリスムの世界である。「顔が硬い」なのか? それとも「ハードに向かい合え」ってことなのか? 「笑うな」ってことなのか?
でもまあ今日は一日楽しかった。
明日もとさかだったらいいな(女って・・・とかため息つかないの、そこのキミ)。
----------2005年01月18日(火) 言葉を見捨てたのは
「またしても、言葉はぼくを見捨てるのです。」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」/講談社文芸文庫)
見捨てられていなかったことなどなかったのかもしれないけど。腱鞘炎があまりにひどくて、ホームポジションを今更のようにきちんと押さえるよう自分に課したのだけれどそうしたらタイピングの速度がぐっと遅くなってしまって、それでなくてもすぐ行き詰る私の中の言葉の流れはなお一層、ぽつりぽつりと途切れ途切れにしかでてこなくなった。小指を使うことがこんなに難しいとは思ってもいなかった。「Enter」ってほんとに小指で打つものなんだろうか?
この時代、「書く」という行為はすぐすなわち「キーボードを叩く」という行為である。紙に、ペンで、ものを「書く」ことをすっかりしなくなった。そうして当然漢字を忘れ、自分の筆跡も忘れ始めた。文字は記号になり、記号はいつも自分から遠い。
もしかして言葉を見捨てたのは私の側なのかもしれない、と今少し思った。
「本書は、声から文字へのメディアの変化がプラトン哲学を生んだとする画期的著作である。いま進行している活字から電子メディアへの変化ははたしてどのような哲学を生むだろうか? 本書は21世紀を考えるヒントに満ちている」、という帯たたきのついたエリック・ハヴロックの「プラトン序説」(新書館)を買ったのは1999年のことなのだけれどまだ読んでいないのでいつぞや講義で使ったホフマンスタールでお茶を濁した、こんなことをしてるから、言葉に見捨てられる、やっぱり言葉を見捨てている。
・・・読もう。
----------2005年01月17日(月) アンコクであるその理由
「あらゆる表象はすでに一つの解釈である。」(ジャン=ミシェル・アダン「物語論―プロップからエーコまで」/白水社クセジュ文庫)
このあいだ自分のメモ帳を読み返していてプロップってプロットの書き間違えかなと一瞬本気で考えた自分があまりに情けなくて(プロップはナラトロジーの創始者ともいわれる高名な民俗学者です、文学理論かじった人なら誰でも知ってます、私はどこまで忘れていくんだろうと軽いショック状態に陥りましたよ)こんな入門書を購入して読み始めたらこんなよく考えれば当たり前の、よく考えなくても当たり前の一文にぶつかってそれで一日がつぶれた。
つぶれた一日を振り返り解釈する、それが今書いている文章。
書くには解釈しなければならない。
私の一日はどのようにつぶれたか反芻し、視点を定め、トレースし、言語で切り取っていく、
という作業は時に苦痛だったりする、つぶれたものはつぶれたのだからどう解釈しても生産的な意味は見出せないから。一度空虚に生きたものをもう一度反芻してさらに空虚に落ち、その表象を眺めてさらに空虚に埋没する、というこの空間は本当にアンコクになりつつある。
----------2005年01月16日(日) Plug in Baby
「my plug in baby
crucifies my enemies
when i'm tired of giving
my plug in baby
in unbroken virgin realities
is tired of living...」
(「Plug in Baby」/MUSE from「ORIGIN OF SYMMETRY」)
ギターを弾こう、と決めてウキウキしながらホントウに飛ぶように地下鉄に駆け込んだら帽子をかぶった男の子が膝の間にフェンダーのギターケースを大事そうに抱えて座っていた。ネックの部分に添えられた手は、割ときれいな手だったのだけれど。
でも違う、私の思うギタリストの手じゃない、彼の手は、もっと細くて、白くて、繊細で、神経質だった。しなやかに、よどみなく、正確にフレットをたどっていくあの細くて長い指は今いったい、と逸れ始める思考を「Plug in Baby」が引き戻す。
・・・でも今こうして少し・・・ウソ。かなり、ズキズキと痛む左手の指を動かしているとあの手がまた私を招きはじめる、闇の奥、虚空からそっと手を差しのべてくる。そういえば昔、ずっとずっと昔、手のひらをあわせて、手の大きさをくらべっこしたことがあったっけ。
冷たい手だった、ように思う。どうして覚えていないのだろう。どうして私はあの手を握ったことがないのだろう。どうしてあの手はあんなに遠いのにどうしてこんなに近くに感じられるのだろう。今にも其処に、此処にありそうな、そんな予感が何年経っても消えないのはどうしてなんだろう。
どうしても実在だけが足りないのなら電気仕掛けで作ってしまえばいいじゃないか、と今ちょうど「未來のイヴ」を読んでいるので思う。今夜はすべてが繋がっている、私と、彼の、手だけをのぞいて。
----------2005年01月15日(土) 欲望する諸機械たち?
「欲望する諸機械と器官なき身体との間に、明らかな闘いが起る。さまざまの機械がそれぞれに接続し、その機械がおのおのに生産を行って、そのすべてが運動音をたてることになると、このことが器官なき身体には耐え難いものとなるのだ。この器官なき身体は、種々の器官となるべきもののその下に胸の悪くなるような蛆虫や寄生虫がうごめくのを感じて、<神>の働きが到来するのを感ずることになる。この<神>の働きは、この器官なき身体に器官を与え有機体化することによって、まさにこの器官なき身体を台無しにし、これを圧殺する働きをなすものなのだ。」(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「アンチ・オイディプス」/河出書房新社)
この部分だけ切り取ってみると、まるで私の職場の俯瞰図そのものじゃないか(笑)。
もしかしたら最初に欲望したのはコンピューターだったかもしれない。途切れることなく稼動することを、大量の情報を打ち込まれることを、そうしてそれらを関連付け、まとめあげ、蓄積することを欲したコンピューターは、ある夜誰かの流動的な思考の中にこっそり忍び込んで、とある不思議な夢を教えた。手のひらに世界を収納するという奇妙な夢に取り憑かれた彼はその夢に「身体」を与えるべく、「機械」を発明するのだ。
生まれ落ちた「機械」はコンピューターの欲望を知らない。けれど0と1の記号の中に埋め込まれた欲望はオートポイエーシスを繰り返し、電磁波をまきちらし、ああそうだ、まるで蛆虫や寄生虫のようにうようよと・・・いまや機械はだれもかれもの鞄の中で息づいている、そうしてうごめいている・・・。
この場合<神>とは・・・?
私のゴッドハンドかな、もしかしたら。
私は人間性の瓦解に手を貸しているのかもしれない、だとしたらこれはなかなか興味深い仕事だ、みんなみんなGPSに見張られて奴隷になっちまえ、それがいやなら
申し込んでくるなっ!!
----------2005年01月14日(金) ミニ、土へ還る
「何を植えようか 何を咲かせようか
茶色い深いベットは 愛の束でかざろうか
あなたがいつしか もう一度生まれるなら、
あなたがいつしか もう一度生まれるなら」
(小谷美紗子「紫式部」/「宇宙のママ」より)
ベランダで見つけたときから、いちばん小さくて、いつまでたっても、いちばん小さいままだったミニが、ガラスの容器の上のほうにくっついたまま、干からびてしまった。
多分すごく寒かったんだと思う。
ガラスのビンは、多分すごくすごく冷たかったんだと思う。
ごめんなさい。
だからせめて大好きだった(と思う、多分)サラダ菜の葉っぱに包んであげよう、そうして大阪城公園の、野外音楽堂の近く、奥まった、ひっそりとした場所の太い木の根っこに埋めてあげよう、
と、ココイチのカレーについてたプラスチックのスプーンで土を掘ったら、「いきもの」の匂いがした。
きっと、土の中は暖かいに違いない。
ミニ、ごめんね、次はうちのベランダなんかじゃなく、広い森の中で、土の上で、にょろろんと生きろ。
・・・なんてことをしてたら会社に30分遅刻したんだけど、別に、いいよ。
こんなだったのが
こんなになって
土へ、還っていったんだもの。
----------2005年01月13日(木) おしゃべりと、気ばらし
「人間生活のみじめさから、すべてこのようなことは生じた。すなわち、人々はみじめさを見たので、気ばらしを求めたのだ。」(パスカル「パンセ」/白水社イデー選書)
「パンセ」を開いたのはどうやら10年ぶりくらいであるらしい、なぜなら「Kansai Tele Massage」の「フリーワード一覧表」がさしはさまれていたから。ポケベル。そんなものも、あったね、「ア」は「11」、「イ」は「12」、そんなこと、やってたね、懐かしい。
ちょうどポケベルを使っていたころの友人に今日会った。「モッキンバードがなくなったらしい」「キャベツハウスはまだあった」「衣笠がつぶれてた」「ケープコッドはあいかわらずだ」「やっぱりボルカノの上をいくスパゲッチにはいまだめぐりあえない」「ジュエルはまだあるのか」「パレットはまだあるぞ」「なによりも1グラがなくなったことがさみしくてならない」、そんな話を数時間して、お互いあまり変わっていないこと(遜色ないよ、だって。お世辞でもうれしいよ)、相変わらず理想と現実の大きすぎるギャップに苦しんでいることを確認しあって、「今年こそ」ととりあえず言ってみた。だけど私は多分今年も何も変わらないであろうことに薄々気づいている。
いつも逸れていく、誰かと何かを話すたびに「核心」から遠ざかっていく。私たちはおしゃべりを繰り返しながら、逃げている、忘れている、誤魔化している。今現在、という唯一の時間と対峙することは恐ろしい。だから過去を振り返り、そうして未来を語り、気ばらしに現を抜かすのだ。
心地よい気ばらしをありがとう、それは時に明日を耐える理由くらいにはなりえる。
----------2005年01月12日(水) 生活は空想の婢
「あの人いつも歩きまわって空想ばかりしているのよ。あの人はこう言うわ。なぜ本当に生活する必要があるだろう、空想しているほうがずっといいのにって。空想ならどんな楽しいことでもできるけど、生活するのは退屈だ、なんて。」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟(下)」/新潮文庫」)
生活がなんだか知らない。けれどとにかく退屈だ。どうしようもなく退屈だ。だから何かで埋め尽くさなければならない(多分明日あたりはパスカルを引用していそうな予感)、空白は恐ろしい、凡庸で低俗な笑いが自分の中に侵入してくることが許せない(そのうち多分ベルグソンも出てくるような予感)、かといって眠りに自分を明け渡すことは怠惰の罪を貪っていることと同義である(常に目を開けていなければ云々、と書いたのはフーコーだったか?)、だから私は空想するのだ、ありえたかもしれない、ありえるかもしれない、若しくはまったくありえないであろう、物語を。
1974年のある日彼女は生まれた、大阪という狭苦しい、薄汚れた街の、日生病院という古い病院で。父と母の間になにがしかのロマンティックなやりとりは一切必要ない、むしろそれが欠けていることが後に唯一の決定的な条件になるのだから。その日は晴れていた、梅雨の合間にさしこまれた見事な青空が彼女を祝福していた、ようにも思われた。母と、祖母と、そして父ではない男は彼女が初めてこの世で発した声をレコードに録音した。こうして彼女は生れ落ちた瞬間から記録され続ける。
ただ第三者に記録されることによって
ただ第三者に語られることによってのみ
「生存」が証明されるのならば
・・・生まれたはずの彼女は、そのとき、同じ日、同じ場所で生まれた別の赤ん坊の脳内に幽閉された。いつしかその赤ん坊が成長し、ものを読み、ものを書くようになったならば彼女は解放されるだろう。そうしてその赤ん坊を内側から食い破り、身体を乗っ取るだろう(近いうちワイルドも登場するに違いない)。私はただ、「彼女」を創りだすためだけに、若しくはサルベージするためだけに、己の時間を空想に明け渡す。
彼女のほうがはるかに、私より強靭な時間を生きている。生活よりも空想のほうがずっといい。そこではすべてが可能だ、そう、彼を取り戻すことですら。
生活は空想の婢である。
----------2005年01月11日(火) 砂の本は何処へ
「一枚の葉をかくすに最上の場所は森であると、どこかで読んだのを、わたしは思いだした。退職するまえ、わたしはメキシコ通りの国立図書館に勤めていて、そこには九十万冊の本があった。玄関ホールの右手に、螺旋階段が地下に通じていて、地下には、定期刊行物と地図があった。館員の不注意につけこんで、「砂の本」を、湿った棚のひとつに隠した。戸口からどれだけの高さで、どれだけの距離か、わたしは注意しないように努めた。」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス「砂の本」/集英社文庫)
帰りに立ち寄った書店で迷子になった。ジュンク堂でも紀伊国屋でもなく、地下街の小さな丸善で。よく分からない本、どうやって読めばいいのか、どうやって読み始めればいいのか分からない本が周りを取り囲んでいて、途方に暮れたのだ。平積みになっているもの、棚に詰め込まれているもの、数冊手にとってぱらぱらと頁をめくってみたけれど、私はそれをどうすればいいのか一向に分からなかった。だから何も買わずにその書店を後にした。
私は「砂の本」をいったい何処に置き忘れてきたのだろう。まさか書店で自分を見失う日がやってくるとは夢にも思っていなかった。
----------2005年01月10日(月) 疲労と懈怠
「「倦怠」の不気味さは二重である。第一にそこは恐ろしいほどに耐え難い場所であること、そしてそれゆえに人は理不尽な幻想までをも動員して「別の残酷な夢」、つまりは「倦怠の終り」の光景を要求するにいたる可能性があるということである。「倦怠」に倦み果てた心身は突如自滅的なカタストロフ−カタルシスを夢見始めてしまう危険があるのだ。」(丹生谷貴志「終りなき「倦怠」」<現代思想の冒険家たち 月報第6号所収>/講談社)
時間を殺せば「倦怠」を殺せると思っていたけれどそれは大きな過ちで何処へ逃げても何をしてもそれは通低音として常に地鳴りを伴って背後から迫ってくる。「倦怠」に「疲労」が加わった分だけ、「別の残酷な夢」はより現実味を帯びてありえないカタストロフを待ち望む。
すべての所作は所詮「倦怠」を耐え忍ぶための方策に過ぎない。疲れているよりは疲れていないほうがいい、けれど赤貧を洗うよりは「生活」を保てるほうがいい、バランスを欠いているこの状態は以前にもまして危険である。
・・・「城砦」に取り囲まれた造成地の小さな庭で「家事」に倦み果てることを選ぶべきだったのかもしれない。疲労にかこつけて私は何かを懈怠している。
----------2005年01月09日(日) 顔がない
「わたしはなくしてしまった
なくしたって なにを?
どこかで見かけましたか?
見かけたって なにを?
わたしの顔を
いいえ」
(R・D・レイン「好き? 好き? 大好き?」/みすず書房)
私の仕事には顔がないのでIDカードとセキュリティカードさえもっていればほかには別になにもいりません、だからなくしてしまってもかまわないのだけれど年賀状をいただいた大学時代の友人に久しぶりに会わなければならなかったりするとやっぱり顔は必要なのでそろそろ返してもらえませんかね、
いや別に8年前の顔を返してくれなんていいませんから
せめてやつれたなあ、と思われなくて済むようなのを返してくれたらそれでいいです、顔、ってのは、看板ですからね、彼が迷ってしまうといけないので。
・・・あわせる顔がない、っていう表現は非常に的を得ていて少しドキリとした、ないないない、どこを探してもない、ホントにどなたかどこかで見かけませんでしたか? 才気煥発にして理路整然、明朗快活にして冷静沈着であるはずの、私の、顔。
----------2005年01月08日(土) ペンギンさんが通る
「それに、ここだけの話ですが、「自然」といふのはぜひ紹介して頂きたい貴婦人ですよ。なにしろ、猫も杓子も自然、自然と言ってゐますが、誰一人お目にかかつた者はゐないのですからな!」(ヴィリエ・ド・リラダン「未來のイヴ」/創元ライブラリ)
ぺたこん、ぺたこん、とかわいい足を「人工」の雪の上で動かしてペンギンさんがこっちに寄ってくる。少し手を伸ばせばあの暖かそうな羽毛に触れられそうだ。けれど柵がある、警備員が見ている、「王様ペンギンの嘴はとても鋭くなっております、決して手を伸ばさないで下さい・・・」
ぽってりと丸いフォルム、見事な黄金色の首輪、燕尾服のような毛並み、それらはすべて「自然」の産物であるはずなのに、海遊館で生まれ海遊館で育った7匹のペンギンさんたちは「人工の自然」なのだ。飼育員が手を叩けば、7匹で揃ってその後ろをぺたこん、ぺたこん、とついていく。ペンギンさんたちのために敷かれたカーペットの周りは黒山の人だかりで皆が皆携帯やデジカメを用意してパレードを待ちかねている。「人工の自然」であるところのペンギンさんたちは臆することもなく人だかりの中へ歩み出ていく。
ぬいぐるみだ。とても「自然」のものとは思えない。だっこしておなかに触れて重みを(13キロもあるらしい)感じてみれば「それ」が生きていることを実感できるのだろうか。目の前にいて、動いているのに、ペンギンさんたちはつくりもののようだった。
飼いならされた「自然」はいつもどこか物悲しい。
でも、かわいい。
----------2005年01月07日(金) まぶたを閉じている間だけ
「わたしは、おのれのなりたいとねがうものに、心のなかで、おのれを犠牲に捧げる!」(ポール・ヴァレリー「テスト氏」/福武文庫)
という一文にはカッコがつけてあったりするのだけれどその直前には「もしこれが、君以外の誰かにもとづいていたとすれば、そのときはこれを否定し、これを知ってしまうことだ」と書かれていることにたった今10年ぶりくらいに気づいた。
もとい、私はもうガクセイではなくましてや研究者などでは毛頭ないのだからどの部分を切り取ってどのように解釈しようがそれは私の勝手、別に私の「おのれがなりたいとねがうもの」が私以外の誰かにもとづくものであったとしたってなんら問題はないのだけれど私は独我論の罠からいまだに抜け出せないのであって「彼女」というときそれは必ず「私が解釈した彼女」と但し書きがつけられるのである。
とすれば結局私以外の誰かにもとづいた存在なんてどこにも存在していないことになる。「あなた」は「私の知っているあなた」でしかなく、私に見せないその側面を私は「あなた」とは呼ばない。名前と、それに付随する2、3の事柄、時にそこには匂いが加わり目線が加わり呼吸の音が加わったりするけれど大差はない、それらすべてを解釈する私、というフィルターを通してしかあなたは私に知られることがない。
だから畢竟「彼女」は私がつくりあげたものである、私は私がなりたいと願うすべてのものであるところの「彼女」に私が見た、聞いた、読んだ、知ったすべてのことを注ぎ込む。
現実的なものになんて意味はないのだから私がこうして脳内でひそやかな生活をはじめたとしても、その脳内のひそやかな生活のためにおのれをすべて犠牲に捧げたとしてもムッシューテストに文句を言われる筋合いは一切ない、ってことだ、「彼女」が肉体を欲しさえしなければすべてはうまくいく。
まぶたを閉じている間だけ、「彼女」に会える。だから眠れなくてもいい、虚数空間に意識を投げ出して何処にもない幸福な夢を見よう。
って虚数空間ってなんだ(笑)?
・・・文系の人間って時々こういう言葉に憧れるからなあ・・・。
----------2005年01月06日(木) おもしろきこともなき世をおもしろく
心のはじっこに小さな渦巻き。誰もやらないなら私がやってあげてもいいけど? そうして多分バカを見る、出る杭は打たれるから。まあ別にそれでも全然かまわないんだけど。
と、とりあえずワードを立ち上げる。
意見書くらい朝飯前だ。
でも今度のは規模が違う、職場に入ってる三社オペレータ共同の意見書、約200人分の署名を募った上で出す意見書。
職場環境向上委員会各位、と打ってみて我に返る、此処で梯子はずされたら笑い話じゃ済まないよな、って。
でもまあ何もしないより書くだけ書いてみるか、と一気に打ち終えてにやにや。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」、高杉晋作だったっけ。
----------2005年01月05日(水) 長い間、私は遅くから床についた
「長い間、私は早くから床についた。」(プルーストの「失われた時を求めて」の冒頭部分であるらしいのだけれど私はまださすがにプルーストに手を出せるほど時間がありあまっているわけではなく、それを解説したはずのロラン・バルトの「テクストの出口」はぱらぱらっと流し読みしただけなので忘れてしまった、とりあえずなんだか例のマドレーヌのくだりと同じくらい有名なフレーズのようなので書いとけ、みたいな。)
そういうわけで眠くてならない。
長い間、本当に長い間、日付が変わる前にベッドに入っていた試しがない。眠りに落ちていた試しなんてあっただろうか。
早く床につくことに憧れる、けれどももうすぐ母がでろんでろんになって帰ってくるだろうしなんだか掛け布団がいつもと違う、のは多分ごくうとかいう名前のバカネコが私のいつもの羽根布団の上でおしっこをしたからに違いないのだ、なんだか部屋が臭いもの。
こうして結局「長い間、私は遅くから床についた」が続く。
肩こりと頭痛、睡眠不足と眼精疲労に殺されそうだ。
(手抜きとか言うな。)
----------2005年01月04日(火) 生きていますか?
「この話をどんなふうに始めたものかと、わたしはいろいろ迷いました。最初はこんな出だしにするつもりでした−
【わたしが存在を失いはじめたのは、ある火曜日の朝です】
しかし、よく考えてみると、
【これはわたしの身に起こった怪談です】のほうが、いいんじゃないかという気がしてきました。」(ハーラン・エリスン<聞いていますか?>「世界の中心で愛を叫んだけもの」/ハヤカワ文庫)
なんだか生きている感じがしない。せっかくの休みを一日ベッドの中でもう切れてしまった糸を無理矢理たぐりよせる作業に費やした。誰も私を見ていないし誰も私を聞いていない、いや、見られることを欲していないし聞かれることも欲していないのだけれど。
父は一日ぼんやりテレビを見ていた。朝から晩まで。
母は一日せわしなく市場に出かけたり掃除に出かけたり、そうしてやっぱり食べ物の話に余念がなかった。朝から晩まで。
そうして私は音楽を聴いて本を読んでいた。朝から晩まで。
圧倒的な退屈と憂鬱と反復。
何もする気が起こらないのは何故か、と自分に問うてみたけれどする気が起こらないのではなくする気を起こせないのだということに気づいたのは何気なく体重計に乗ったときのことだった、多分あの体重計は壊れているのだ、と思いたかった。私は4キロもいきなり痩せていいような身体をしているわけではないのだ。
私、ホントウに、ちゃんと生きていますか?
----------2005年01月03日(月) 大衆の責任
「彼らの最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じていないのである。」(オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」/ちくま学芸文庫)
そう、だから私は自分が心底忌み嫌っているものを売っている会社に勤めている、企業責任という概念を一切有していないのではないかと思われるほどずさんな顧客管理しかできないような会社で、日々犯罪の種を世間に撒き散らしている。
正月早々残業、ってありなの?
自己規制、という良心に訴えかけることが困難なこの時代、おそらく企業はもっと積極的に「表現」を規制しなければならないと思うのだ。
・・・ってなことを一介の派遣社員が考えても虚しい、利益追求型の社会についていけないと思ったからこんな道を選択したのに気づいたらそこにはただメリトクラシーの泥沼だけがひろがっていた、私は自分で自分の安楽な生活の根拠を破壊している。
ほらまたスパムメールが飛んできた。
・・・いつまでも「楽だから」なんて言い訳は通用しないな。
----------2005年01月02日(日) プーさんは何処?
「−ぼくはどっちでもいいよ。君から見れば、ぼくは狂っているかも知れないね。でも同じ世界に生きてるんだ。君は頑張って、世界の中に自分を確立しようとしている。でも、世界は思う通りにならないだろう。ぼくは世界の中に自分が溶け込んでしまえばいいと思う。ぼくは空になったり、野原になったり、蠅になったりできるぬいぐるみになりたいな。でも、君はヒトに進化することにこだわっているマリオネットだよね。」(島田雅彦「君が壊れてしまう前に」/角川文庫)
誰と争っているわけでもなく誰に求められているわけでもなくただただ馬鹿馬鹿しいから鬱陶しいからまるで壊れてしまったおもちゃのようにカタカタとキーボードを叩き続ける、私は職場で一番のピノッキオ、最もコストパフォーマンスに優れたマリオネットだ。
身体の継ぎ目という継ぎ目がぎしぎしと不気味な音を立てている。
ピノッキオの親友、プーさんは何処にいるのかな。
----------2005年01月01日(土) ひそかに祈る
「清められるための一つの方法。神に祈ること。それも人に知られぬようにひそかに祈るというだけでなく、神は存在しないのだと考えて祈ること。」
1.どうしても決別できないたったひとつの思い。
彼はもうきっと永遠に存在しないのだから私が彼に向かって祈ることは神に祈ることに等しい。
「もしわたしの永遠の救いが、なにかの物体となってこの机におかれており、それをつかむには手をのばしさえすればよいとしても、わたしは、そうせよとの命令が与えられないかぎり、手を出そうとはしないだろう。」
2.そうせよ、という命令もきっと永遠に与えられない。一度すれ違ったものはもう二度と交差しない。けれどおぼろげに救いのような形をしたものが存在しているかもしれないと思えることじたいが私にとって唯一の救いである。
1と2は矛盾していて論理的に破綻しているけれど理性をすべて超えたところで私はあるひとつのことを信じている。
「不可能なものに触れるためには、可能なものをやり遂げておかなければならない。」
3.小さく静かに生きていく。どうか健やかに。
(引用部分はすべてシモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」/ちくま学芸文庫)