チフネの日記
DiaryINDEX|past|will
2012年09月02日(日) |
lost 悲劇編 最終話 |
「絶対に迎えに行くと思ってたのになあ」 「何の話だ」 「とぼけないでよ。越前君のこと!婚約解消したらすぐに追いかけて行くと思っていたのに、 何もしないで時間だけ過ぎて行って、今もこんな所にいるってどういうこと? 俺の予想をかなり裏切ってくれたよ」 「ふん、勝手に言ってろ。そんなことよりなんでてめえが当然のように俺の部屋に出入りしているんだ?ああん?」 「だって、入れてくれたのは跡部君だよ? それに俺達、友達でしょ!」 「……」 誰と誰がと反論しようとして、跡部は口を閉じた。
千石と交流を始めたのは、リョーマが出発してしばらくしてからだった。 街でばったり会った時、「元気?」と聞かれて「まあな」と答えた。 そして千石が一緒にお茶しようよと誘われて、断らずに店に入り、だらだらと会話を続けた。 そこからずっとつかず離れずの付き合いが続いている。 千石は最後にリョーマの見送りに来なかったことを責めたり、怒ったりすることはなかった。 あかりと婚約解消した時でさえ、「へえ、そうなんだ」と言ったくらいだ。 リョーマの話題を出したのは、ここ最近のことだ。 いよよいよグランドスラムの制覇も間近となって、頻繁にニュースで名前を見かけるようになった。 南次郎の息子という肩書きじゃなく、リョーマ個人として評価されていることは喜ばしいことだ。 頂上に向かって勝ち続けているリョーマの様子を知ることが出来るだけで、満足している。 心の中で応援すること位は許されるだろう。 だけど、千石は納得してくれない。こんな風に、何故会いにいかないのかと文句を言うようになってきた。
「もう、いいんじゃないかな」 ソファに横たわっていた千石は体を起こしてこちらに向き直った。 「跡部君も素直に行動しなよ。本当は誰よりリョーマ君のことを想っているくせに。 もう、会いに行きなよ。許されるくらいの時間は経ったはず。 それに家を出たのだって、リョーマ君が帰って来た時に迎える為だったんじゃないの?」 「そんなんじゃねえよ。ただのけじめだ」 「嘘、嘘、嘘だあ!」 「三回も言うな。……もう家には戻らない覚悟で出ただけだ。 越前は関係ねえよ」
千石は頬を膨らせて、素直じゃないんだからと言っている。 放っておこうと、跡部は顔を背けた。
あかりが家を出たのは、大学在学中の頃だった。 相手の家は順番が少し狂ったが問題ない、今すぐ結婚式を行うことを提案していた。 跡部の両親も驚いたものの、すぐに賛成した。 この一件で両家はより強く結びつく。喜ばしいものだと考えていた。 だが、 「お腹の子は景吾さんの子ではありません」 あかりの発言で、計画は崩れ去った。 さっさと結婚させようと父親は跡部に責任を取るように迫ったのだが、不審に思った両親が調査を入れて、あかりがお腹の子の父親と駆け落ちしたことがわかった。 当然、婚約は白紙になった。 後にあかりの家からは謝罪の言葉をもらったが、跡部には本当の原因が自分にあるとわかっていた。 だから両親に賠償は望んでいない、そっとしておいて欲しいと頼み込んだ。 本来なら非難されるのは自分だった。 あかりは全てを背負い込み、跡部が糾弾されることないよう、自分を愛してくれる人の手を取って去ったのだ。 今は幸せだと言ったのが、跡部にとって救いだった。 自分といる時は少しも幸せそうじゃなかった。作ったような表情で幸せそうなふりを続けていた。 あんな笑顔を見たのは、久し振りだった。 彼女はもう迷うことなく、選んだ道を愛する者達と共に歩んで行くのだろう。 元気で、と最後に呟いた跡部に、あかりはニコッと笑って店を出て行った。
「あー、そろそろ雨止んだかな?」 相手をしてくれない跡部に気が削がれたのか、千石が窓の方へ寄って行く。 「止んだのなら、さっさと帰れよ」 「あー、その言い方酷い!もう来てあげないよ」 「静かになって結構なことだ」 「素直じゃないんだから。そうだ、今度宍戸君達も誘って飲みに行こうよ。 たまには外で食べるのも悪くないでしょ」 「てめえの奢りならな」 「それはちょっと……。安いところ探しておくから、行こうよ。ね!」 「気が向いたらな」 「じゃ、宍戸君達にも連絡しておくよ。雨止んだし、帰るねー!」
手を振って、千石はバタバタと足音を立てて帰って行った。 騒がしい奴だが、こうして遊びに来てくれるとそれなりに楽しいのは確かだ。 あの屋敷を出て、誰もいない家に帰るのが寂しいと思うこともある。 しかし選んだのは自分だ。 あかりとの話が破談になり、両親はまたすぐに別の女性との縁談を持ち込んだ。 とてもそんな気になれない。もうこれ以上、好きでもない相手の手を取るつもりはない。 家との繋がりだけで、結婚なんて出来ない。 両親はそんな言い分を許してはくれなかった。 だから跡部は家を出ることにした。 反対はされたが、止められるほど子供でもなかった。 想像以上に一人で生きていくというのは大変だったが、今のところなんとかなっている。 両親から受けた教育のおかげというのは皮肉だけれど、自分でお金を稼ぎ、生活する分には困らない。 贅沢な暮らしではないが、満足している。 借りている部屋は狭いが、一人で寝るには十分だ。 ここに来るのは樺地以外では千石か、宍戸と鳳くらいだった。 当時のことをよく知っている彼らは、跡部の様子を見によくやって来る。 鳳は宍戸の付き添いと言い張っているが、その割には「これ、家の母が持って行くように持たされました」と惣菜などを差し入れてくれる。なんだかんだと言いながら心配してるらしい。根がお人よしという部分は変わらない。
ジローとは、メールの時折やり取りをする位だ。 まだ前のようにというわけにはいかない。信頼を回復するには時間が掛かるとわかっているので、ジローから会いたいというまで黙っているつもりだ。 いつかは会える。そう、信じている。
忍足とは、卒業以来会っていない。テニス部を辞めてから、校内でも見掛けなくなった。 大学は関西の方へ進んだとは聞いている。 未だに彼が噂を流したとは信じられない。でも、誰にでも理由もなく悪意を向ける瞬間はあるのかもしれない。 もし、もっと忍足の話を聞いてやれていたら。レギュラーになるにも必死で努力してたと言っていた。 気付きもせず、手を抜いてるなんて思っていた自分が恥かしい。忍足と向き合って、悩みなどを打ち明けてもらえていたら、あんなことにはならなかったかもしれない。 そう考えると、少し後悔している。 忍足を恨む気持ちは今は無い。むしろあの頃の自分の未熟さを後悔するばかりだ。
噂の件だがリョーマがアメリカへ行った直後は、 メールも流れなくなって、騒ぐ者もいなくなった。 しかしプロとして試合に出るようになった頃はまた色々言われたりもしていたようだ。七光りとか、勝って当たり前だとかそんな意見を耳にした。 しかし淡々と試合を勝ち進み、圧倒的な実力を見せ付けるようになってからは批判も無くなっていた。 誰に何を言われても構わない。覚悟を持って試合に挑むリョーマの顔をテレビで見て、遠くなったなと跡部は距離を感じていた。 もう彼は彼の道を進んでいる。 今更、会ってどうしようというのだ。 自分のところに戻って来るなんて、そんなの冗談でも語れなかった。 ただ、リョーマが幸せであればいい。 それだけを願っている。
(陽が差して来たな)
雲の切れ間からうっすらと夕陽が差し込んでいる。 虹は出ているだろうかと、窓へと向かう。 あれからも無意識に虹を探している。 虹を見ると、リョーマとの思い出が蘇る。 跡部にとってささやかな幸せだ。 滅多に見られないけど、だからこそこの位は許される気がした。 今日は見えるだろうかと、窓を開ける。
(あ……) 空を見上げると、そこには大きな虹が架かっていた。
(越前にも、見せてやりたい)
約束を覚えているのが自分だけでも構わない。 リョーマと一緒に、この虹を見たい。綺麗だと、あの時のように言葉を交わせたら……。
泣きそうになって、目尻をぐいっと手で拭う。 どこにいるかもわからないのに、こんなこと考えるなんて自分は馬鹿だ。 それでもリョーマに会いたい。今でも好きだと伝えたかった。
「越前……」
約束は忘れたと言っていたが、嘘だとわかっていた。 彼も虹を見て、自分を思い出してくれればいい。 そう思った。
***
どうして、自分はここに立っているのだろう。 何度考えてもわからない。 気付いたら、ここにいた。
グランドスラムを制覇を前にして、緊張しているというわけじゃない。 むしろいつでも試合出来る、そんな気持ちでいるのに、周囲はそうは思ってくれない。 疲れているのか、とか、どこか気持ちが上の空のようだとか言われる。 リョーマにとって、そんなつもりはない。 だけど練習でミスが目立つようになってから、本格的に休暇を取るように勧められた。 ここに来て試合に負けるようなことがあったら困るからだろう。 無理矢理という形で、休みを取らされた。 暇だったから寝ていようと部屋でだらだら過ごしていたら、急に父親が訪ねて来た。 「大会に出る前に、やるべきことをやっておけよ」 そう言って、封筒を投げ付けて帰って行った。 中に入っていたのは日本行きの航空チケット。 なんで?と思ったが、この際だから久し振りに友人に会うのも悪くないと考え直して、行くことにした。
千石とは、アメリカに出発した以降一度も会っていない。 こっちでの生活が忙し過ぎたからだ。 テニスをもう一度始めてから、ずっとがむしゃらに練習していた。 やっと納得いく位まで実力をつけて、プロになろうと決めてから、休みなんてほとんど無かった。 最近ではメールも返せていない。 それでも千石からは律儀に近況を伝えるメールが送られてくる。 進学したこと、付き合っていた子に振られたこと、今日食べたものとか、話題は様々だが途切れることはない。 香澄が、今は彼氏がいて毎日楽しく過ごしているようだ、と教えてくれたのも千石だ。 心の隅で気に掛けていることを見抜いていたのだろう。 新しい恋を見付けた彼女に、良かったと素直に思えた。どうか、幸せにあって欲しい。
跡部の話は、これまでのメールに書かれたことは一度も無かった。 だけど、ついこの間会ってやってくれないだろうかというメールが送られて来た。 驚くことに、千石はあれからずっと跡部と会っていたらしい。 時々鬱陶しいと言われるけど、仲良くやってるんだよ!という言葉は、千石らしくてちょっと笑った。 跡部は今、婚約者とも別れて、家を出て自活しているとのことだ。
『家を出たのは多分、リョーマ君のことを迎えたいと無自覚で思っているんじゃないかな』
そんなはずは無い。 跡部とは、あの日はっきりと別れた。 もう、自分のことは忘れているはずだ。 しかし千石メールは『まだ、リョーマ君のこと好きなはずだよ。時々、空を見上げてぼんやりしている時にそう思うんだよね』と続いていた。 『日本に来る機会があったら、跡部君の家へ寄ってあげて』 ご丁寧に現住所まで教えてくれた。
それについては見なかったことにした。 だって跡部と会っても、今更どうしようもない。過去のことだ。もう、終わった。
(日本に行っても、千石さんや桃先輩や青学の先輩達に挨拶するだけだから……)
言い訳みたいにして心の中で呟く。
だけどタクシーに乗って真っ先に向かった先は、千石が教えてくれた跡部の住む部屋だった。 いるかどうかもわからないのに。 どこか出掛けてる可能性もあるのに、来てどうするのか。 会って、どうするつもりなのか何も考えていないのに。
「お客さん、着きましたよ」 運転手の声に、ハッと顔を上げる。 「ああ、ちょうど雨が止んだところみたいですね」 「はあ……」 お金を払って、荷物を降ろす。大して持って来ていないから、軽いものだ。 雲のの間から陽が差し込んできて、辺りを照らす。
こんな誰もいない所に突っ立っていてどうしようと、リョーマは考える。 引き返すなら今の内だ。まだ、間に合う。
(どうしようか……)
近くまで来ているのはわかるけど、跡部が借りている部屋がどこなのかはまだ具体的にはわからない。 ここはどこだとぐるっと見渡した時、’それ’を見付けた。
(虹だ)
空に架かる虹を見付けて、目を細める。 雨が降った直後だったので、ちょうど虹が出たようだ。
(今ここで見れるなんて)
タイミングを計ったような展開に、ぽかんと口を開ける。 こんな偶然、起こりえるわけがない。 ふらっと日本に来て、そして跡部の部屋を行こうかどうか迷っている途中で虹を見付けるなんて。
『もし、虹を見付けたら……』
だって虹を見たら、跡部に会いたくなってしまう。 果たせなかった約束を、どうしたって思い出す。 嘘をついてまで、跡部を遠ざけようとしてあの日別れた。 だけど本当は離れたくなんかなかった。 一緒に居たかった。気持ちを閉じ込めて、跡部を待っている人の元へと向かわせた。 それで吹っ切れたはずなのに。
(会いたい)
跡部がこの虹を見ていないか、探してしまう。 もし、会えたら。 見付けることが出来たら、今度こそ離れたくなかった。
―――人と人との間には見えない縁がある。 一生続くと思っていた縁が、望まない形で消えてしまうことだってある。 そしてもう二度と道が交わることなく、それぞれの人生を歩んで行く。
だけど、再び結ぶチャンスが与えられたとしたら? そんな奇跡が起こるとしたら、考えるまでもない。絶対に逃さない。
急いで跡部が住んでいる部屋を探す。 虹が出ている間に見つけなければと、焦ってぐるぐると見渡したところで気付く。
(あ……)
窓から顔を出して、ぼんやりと外を見ている男がそこにいた。 視線は、空に架かる虹だけに向けられている。
(あんたも、見ていたんだ)
何を思っているのか。 少し大人になった顔を見て、思いを馳せる。 同じだったら、いい。そうであって欲しいと願う。
じっと見詰めていたせいか、跡部が視線に気付いてふと顔をこちらに向ける。
どうして、と言いたげに目を見開いた表情に、小さく笑う。
(いい男が台無しだよ。折角もてるのに。 あんたは俺の前だと、いっつもそうだよね)
でもその素の表情が好きだった。ううん、今も好きだ。 顔を見たら、一気に想いが溢れ出した。もう止められそうにない。
今にも乗り出してきそうな跡部に、空を指差して口を開く。 涙声にならないように、必死で平静を保って言う。
「……一緒に虹が見たくて、だからここに来た」
約束を今も覚えている。 かなり年月は過ぎたけど、あの日一緒に見た虹を今も覚えている。
「すぐにそっちに行く!待ってろ!」
大慌てで部屋を出ようとしているあの人に、待ち切れなくなって自分も入り口へと走る。
待ってろなんて、出来るはずがない。もう、待てない。
虹が消える前に、少しでも早く会いたいから。
終わり
2012年09月01日(土) |
lost 悲劇編 44.あかり |
お久し振りですね、景吾さん。 連絡をくれるとは思ってもいなかったので、少し驚きました。 もう……お会いすることは無いと、そんな風に考えていたので。 私達の仲は終わっていた。言葉で確認する必要もありませんよね? そもそも始まってもいなかった。 ああ、そんな顔しないでください。景吾さんを責めるつもりは無いのです。 むしろ責められるとしたら私の方でしょう。 あんな形で終わらせて、景吾さんから逃げ出したのですから。 その後の揉め事も全部景吾さんに押し付けて、大変申し訳なく思っています。 でも当時はどうすることも出来なかった。その事情がなにかは、景吾さんも知っている通りです。 今日は彼があの子の面倒を見てくれてます。景吾さんと会って最後に話をしたいと言ったら、自分が見ているからと申し出てくれました。 彼も景吾さんには迷惑を掛けたと気にしています。そんなことはない、と。ええ、そう伝えておきます。景吾さんにそう言って頂けたら、きっと少しは楽になれるでしょうから。 景吾さん、らしいですね。もう別れたとはいえ私のことを心配して連絡くださったのでしょう? でも、大丈夫です。私達は今、幸せですから。もう立場とか、家のこととか考えず正直な気持ちでいられる。それだけでも随分楽になれました。だから、幸せです。
あの日。妊娠を父に告げた時、相手は景吾さんだと疑ってもいませんでした。 景吾さんとの、跡部家との絆はこれで揺ぎ無いものになると喜んでさえいました。 そんな父に私は真実を告げました。 お腹の子の父親は景吾さんではないと。 キスさえしていないのに、どうして子供が出来るのでしょう。 しかし父は私の言葉を信じてくれませんでした。 その後のことはよくご存知ですよね。 娘が婚約者以外の子供を身ごもることを信じられなかった父は、景吾さんの家に責任を取るようにと焦って結婚を早めようとしてました。 私は父を止める為に、初めてあの家を出る覚悟をしました。 勿論、私は一人では出来なかったことです。彼と、彼の家族や友人達が手助けしてくれたおかげでした。 家を出た後はお腹の子を無事出産するまで、父に見付からないよう身を潜めて過ごしていました。 もし、見付かっていたら。想像したくもない恐ろしいことになっていたに違いありません。 あの頃の父は、景吾さんとの家の繋がりが無くなることを絶望し、正常な判断を失っていたように思えます。 今ではもう、諦めてしまったのか何も言いません。 大学でもずいぶん私と彼の話が広まったようですから、噂を消すことも無理だったのでしょう。 彼とのことも認めてはくれていないようですが、私を連れ戻すこともせずに仕事に没頭しているようです。 いつか和解出来たらと、考えてます。きっとずっと先の話になりますが。
きっとこれも罰なんでしょうね。 あの日、景吾さんの手を握って引き止めてしまった。 それから私の中で全てが変わった気がします。 そんな、嫌そうな顔をしないでください。 私はあの日のこと、一度足りとも忘れたことはありません。
景吾さんへあの人の所へ行くべきだと言えることが出来たら、今とは違う結末になっていたはずなのに。 ええ、わかってます。当時の私は景吾さんを引き止めることで精一杯だったんです。 邪魔者が消えて、これで景吾さんは私だけを見てくださる。そんな風に考えてしまったのです。 でも、それは大きな間違いでした。 景吾さんの心はずっとあの人しか見えていなかった。 わかっていたのに私はそれを考えないようにしました。 景吾さんに側にいて欲しくて、だから引き止めてしまった。 帰りましょう、なんて口に出さなければ良かった。 私の手を景吾さんは振り払うことは出来ない。 家同士の付き合いで将来を約束した私を置いてあの人の元へ行くことは決して出来ない。 わかっていたから、私と一緒に帰った、そうですよね? でも、それは間違いでした。
正直に話しますね。 あの人のことを忘れていない景吾さんと一緒にいるのは苦痛で仕方ありませんでした。 驚きましたか? でもこれが私の本音です。 決して景吾さんの一番にあることが出来ない、そのことに気付いた私の心は虚しさでいっぱいでした。 引き止めても結局幸せにはなれない。 しかし別れるとも言い出せなかった。 景吾さんとの結婚を望む両親に申し訳なく思っただけではありません。 あの人の元へ行かせないようにしておいて、やっぱりあなたとはやっていけないなんてどうして言えるのでしょう。 だったらあの時突き放してくれれば良かったと、景吾さんになじられるのが怖かったのかもしれません。 ですが景吾さんと結婚しても上手くいくはずがないのは目に見えてます。 義務的な扱いを続けたまま一緒に暮らすなんて、とても耐えられない。 悩み続けておかしくなりそうでした。 そんな時です。彼に、出会ったのは。
彼は、私と景吾さんとのことを知っていました。私は知らなかったのですが、学内では有名だったようです。 それでも、婚約者がいると知っていても、私が好きだと想いを打ち明けてくれました。 玉砕覚悟で告白して来た彼の体は緊張で震えていました。 断られるのをわかっていて、少し泣きそうにもなっていた。 でももし私が景吾さんと婚約していなかったら、この人との告白をもっと真剣に考えていたかもしれない。 そう思うとすぐに断るのは間違いのような気がして、「少し考えさせてください」と口にしていました。 彼は非常に驚いていました。 断られることを前提に告白したので、当然でしょうが。 それから彼と話をする機会が増えました。 景吾さんとの約束も事務的にこなしていましたが、会うたびに罪悪感ばかり募って、苦痛になってました。 だから自然と彼と過ごす時間の方が増えていきました。 しかしある時、彼が遠慮がちに「君の婚約者は、僕と会っているこを知っているの?」と尋ねたのです。 こんなに頻繁に会えることを不審こに思ったでしょう。 婚約者を放っておいて、何故自分と会うのか。そこに望みがあるのか確認したかったのかもしれません。 問われて私は、今まで溜め込んでいた気持ちを吐き出しました。 勿論、あの人のことについては伏せてあります。 景吾さんには他に好きな人がいたのに、私が邪魔をした所為で結ばれることが出来なかった、 その所為で今も罪悪感に悩んでいると伝えました。 彼はこんな私を慰めてくれて、そして景吾さんと別れるべきではないかと言いました。 取り返しがつかなくなる前に、お互い解放されて別の道を歩んだ方がいい。 このままでは不幸になるだけだと言う彼に、はっと目が覚めました。 景吾さんをこれ以上苦しめて、幸せにも出来なくて一緒にいる意味などない。 もう、解放するべきだと思いました。
もちろん簡単なことではありまあせん。 両親は婚約解消など許すはずもないですし、景吾さんの家でも破談を黙って受け入れるとは考えられない。 困り果てた私を励ましてくれたのはやはり彼でした。 話せばちゃんとわかってくれる、と。 しかし私は周囲が騒ぎ出すのが怖くて、行動に移せずにいました。 それから数ヶ月過ぎて、とうとう引き返せない状況になりました。 お腹に彼の子を宿したからです。私はその時、決心しました。この子を守ろうと。強くなろうと。 彼もまた私の妊娠を喜んでくれました。 そして一時的に身を隠し、無事出産をするまでずっと側にいて支えてくれました。
景吾さんにとっては、私が一方的に逃げたということになって破談したことは結果的に良かったんじゃないでしょうか。 もし私を捨ててあの人の所に行ったとなれば、色んなところから非難を浴びていたでしょう。 きっと私以上に酷かったと想います。 これであの日、引き止めたことが相殺されるとは考えてはいませんが、不幸になる道へ引き込まずに済んだと思います。 もし私と結婚していたら、あの人といる未来は完全に絶たれていたでしょう。 いえ、景吾さん自身が諦めてしまったでしょうね。 でも景吾さんはあの人と一緒にいるべきなんです。 もしかしたらまた景吾さんの両親が誰かと引き合わせて結婚させようとするかもしれませんが、 拒否してください。 どうか私みたいに愛されていないとみじめな思いをする人をこれ以上増やさないでください。 お願いします。
私も酷いことをしたと思いますが、景吾さんの拒絶をしない優しさも酷いことだと自覚してください。 勝手なことを言っているのはわかってます。 でも景吾さんが私に婚約者として相応しく振舞う度に、心が削られていくような気持ちになりました。 結局、愛してはもらえない。それを突きつけられている気がして辛かったです。 もう、素直になりましょう。 景吾さんが今でもあの人を想っているのはわかります。……わかっている、つもりです。
そろそろ帰っても良いでしょうか? 彼はゆっくり行っておいでと言ってくれましたが、そういうわけにもいかないので。 景吾さんが今日、会いにこられたのは私が幸せかどうか確かめたかったからですよね。 幸せなのかどうかと聞かれたら、間違いなく幸せだと答えることが出来ます。 大切な家族が待っている。それ以上の幸せがありますか? だから景吾さんも私のことは気にせず、あの人と幸せになってください。 私の最後の願いです。 もう二度と会うことは無いでしょうが、お元気で。 そして、さようなら。
チフネ
|