チフネの日記
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2010年06月28日(月) 熱ピタ 4 塚リョ 

新学期が始まった。

今日は部活動が無い日なので、午前中に帰宅することが出来る。
つくづく暇だな、と手塚は思った。

いつもなら「時間が空いた分、俺とテニスしよ」とリョーマが誘って来るところだ。

しかしその彼はもう、ここにはいない。

新学期を待たず、渡米してしまった。
他の部員に挨拶も無く、ひっそりと。

だが手塚だけは事情を知っていた。

「大会が終わったらアメリカに行くことになった」

リョーマの衝撃の告白に、内心では驚いていたが顔には出さなかった。

だって、何か悔しいじゃないか。
本当なら自分が先にドイツへ行くはずだった。
きちんと計画を立てて留学を決めていたのに、ひょいっとコンビニでも行くかのようにアメリカ行くと言うリョーマの自由さが少し羨ましく、そして妬ましくも思えた。

平静を装い、「本当に行くのか?」と訪ねると、「うん」と無邪気な笑顔で答える。

「わかった。行って来い」
「止めないんだ?」
「ああ。向こうに行くことがお前のプラスになるとわかっているから、俺は止めない。
それとも行くなと言ったら止めるのか。そんな軽い覚悟じゃないだろ」

手塚の言葉に、リョーマは無言で頷く。

決意は固いとわかったので、もう手塚はあれこれ言うのは止めにした。


「ところで荷造りは出来ているのか?
ここ最近、ずっとこっちに入り浸りだろう。大丈夫なのか?」

クーラーが無いからと、リョーマはずっと手塚の家に避難していた。
手塚の家族が歓迎してくれるのを良いことに、ほとんど越前家には帰っていない。

「うーん。多分大丈夫」

目を逸らして言ったリョーマに、何も準備出来ていないことを悟った。


それから嫌がるリョーマを引っ張って、越前家に行き荷物を纏める作業へと入った。
一度では無理なので、何度かにわけて仕分けしていく。

そうこうしている間に、全国大会が終わった。

後、一日を残してアメリカに行く直前も、二人は掃除に追われていた。



「面倒くさい……。こんなの放って、今ある荷物だけでアメリカ行くから大丈夫だよ。
足りないのは送ってもらえばいいし」
「そうはいかない。旅立つ前に整理整頓しておくべきだ。
ご家族に余計な仕事を増やすつもりか?」
「そういう意味で言ったんじゃないけど」

わかったよ、とリョーマは荷物を片付ける。
不貞腐れる表情に苦笑しつつ、手塚も一緒になって手伝った。


リョーマの自室の全てがダンボールやトランクに納められたのを最後に、
二人は床に寝そべった。


「ああ。疲れた。暑いー。早く部長の家に行って涼みたいー」
「もうそろそろこちらに戻ったらどうだ。家族と過ごせる日も残り少ないのに、俺の家に来ていていいのか」
「いいよ。いつでも会えるから。それよりこの暑さの方が耐え切れない。
でも動きたくないー」

疲れた、というようにリョーマは溜息をつく。
その顔を覗きこむと、部活の後みたいに汗をかいている。
前髪はべっとりと額にはりついていて、鼻の周りも水滴のような汗が浮かんでいる。
つと、頬から鎖骨へと汗が伝わるのが見えた。

「暑いよ、もう。部長、なんとかして」
「なんとか、と言われても無理だな」
「簡単に諦めてないでさあ」
「無茶言うな」

不意に手塚はリョーマの頬に手を触れた。

汗まみれのリョーマの姿を見て、欲情した所為だ。

汗を掻いている状態でくっ付くのは嫌だとリョーマはよく言うが、
クーラーの中で涼しげにしている顔よりも、ずっとそそられる。

「部長?」
訝しげに視線を向けるリョーマに構わず、上に圧し掛かって汗ばんでいる頬にキスをする。
くすぐったいのかリョーマは身を捩って、抵抗しようとする。
逃さないよう片手で腰を押さえ込み、シャツの中に手を入れた。

さすがにそこで「ちょっと、待ってよ!」とストップが入る。

「ここ俺の家だよ?下には親父もいるし、それにこんな汗かいているの嫌なんだけど」
「なるべく静かにしよう。汗は後でまとめて流せばいい」
「本気で言ってんの!?絶対ばれるって。
部長の家に行ってからにしよう。逃げたりしないから、お願い」
「悪い。こちらも我慢出来ない」

そう言って手塚が下半身を押し付けると、リョーマは驚愕したように目を開ける。

「何それ。どこでスイッチ入ったわけ!?」
「お前の無防備な姿を見てからだな」
「そんな言い訳」
「それと、もうすぐ手を伸ばしてもいない距離に行くと思った所為かもしれない」
「……今頃それを言う?ずるいよ、部長」

抗議しながらも、リョーマは体から力を抜いた。
しょうがないというように、目を閉じる。
どうやらこのまま続けても良いということらしい。

階下にはリョーマの家族がいるので、あまり無茶は出来ない。
それを承知で、手塚はリョーマの体に触れていった。
ここからいなくなっても忘れないように、丁寧に。


声も出せない状況だったけれど、あの日は大いに盛り上がったな、と手塚は思った。
自ら両手で声を押し殺すリョーマの姿は反則的に可愛かった。
終わった後は、ものすごく怒られたが後悔はしていない。


一人で自分の部屋にいると、夏の間中ずっと居候状態だったリョーマのことを思い出す。
残暑が厳しいと、特に。


(アメリカも暑いだろうに……)

クーラーがあるから平気、というリョーマの声が聞こえそうだ。

フッと手塚は笑った。




もう少し涼しくなって、そうしたら。
秋には面白そうなことが待っている。

今日、竜崎先生から聞かされたU−17の合宿の話を思い出す。
青学のレギュラーは全員招待されるということらしい。

きっとそのメンバーには、リョーマも入っているに違いない。
面白そうなことは無視出来ない彼のことだ。
遠路はるばるやって来るだろう。
いつものように遅刻して、それでも堂々と入ってくる姿が目に浮かぶ。


(この夏が終わったら、また会える)


そうしたら、きっとぴったりくっ付いても怒られることはないはず。
これから先は今以上に良い季節になりそうだ。

手塚は窓から外を眺め、早く秋になれと願った。


2010年06月27日(日) 熱ピタ 3  塚リョ

ベッドの上で、リョーマは気持ち良さそうに寛いでいる。

ずっと見ていたい光景だ。
自分の部屋にリョーマがいる。
それだけで手塚の心は幸せに満たされていた。


「やっぱりこれだけ暑いとクーラーは絶対必要だよね。
なのに親父の奴、どうせ学校行っているんだから勿体無いって、
俺の部屋に付けてくれないんだ。
暑くて寝られないのに、何考えてるんだか」

例えリョーマの目的が手塚と過ごすことではなく、
クーラーの効いた快適な部屋目当てだとしても、文句は言うまい。

二人で過ごしているという事実だけを考えていれば良いのだから。

「そういえば、部長」
「なんだ」
「ファンタ」
「……」

「お茶」「ご飯」と言えば出て来ると思っている中年の親父か、と一瞬思ったが、
リョーマが望むのならといそいそとファンタを調達しに階下へと向かう。
冷蔵庫には常にリョーマの好きなファンタが常備してある。それも手塚の小遣いから購入したものだ。
ペットボトルの中身をグラスに空けて、トレイに乗せて手塚は再び自室へと戻る。

「おかえりー。ファンタちょうだい」

先ほどまで寝転がっていたリョーマは、壁を背にしてベッドの上に足を投げ出して座っていた。
膝には漫画の本がある。

ちなみに二人共、風呂も食事も済ませてある。
練習後の汗臭いままでいるのは嫌だというリョーマの主張に、早々と風呂に入ってパジャマに着替えて寛いでいた。

「ベッドの上で飲むのは駄目だ。せめてこっちに来い」
机の上にグラスを置くと「ちぇっ」と舌打ちしてリョーマは起き上がった。

「あれ?部長の分は?グラス、一個しかないよ」
「俺はいい。お前の分だけだ」
「ふーん。じゃあ、遠慮なく頂きます」

ごくごくと美味しそうにファンタを飲むリョーマに、
手塚は「冷えたりしないのか?」と声を掛けた。

「えっ、なんで?」
「クーラーの効いてる部屋でファンタを飲んだら、普通体温が下がるだろう。
今日は欲しがるとは思わなかったぞ」
「そんなの関係ない。俺、冬でもファンタ飲む自信あるよ」
「止めとけ。聞いてるこっちが寒い」
「本当のことなのに」
「せめてファンタを温めたらどうだ。それならなんとか」
「そんなの飲みたくないよ」

眉を潜めてリョーマはまたベッドへと戻る。
伏せてある漫画を読もうとする姿に、手塚は「おい」と再び声を掛ける。

「宿題はどうした。ここに泊まりに来る条件として、きちんと勉強もするとご両親に約束したはずだ」
「あー、部長やっといて。鞄に入っているから」
「どうして、俺が」

反論しようとする手塚に、リョーマは「お・ね・が・い」と上目使いして、ぱちんと両手を合わせる。

「この本、明日桃先輩に返さないといけないんだ。
だから、ねっ」
「おい」
「部長なら一年の宿題なんて楽勝でしょ?
俺、見たいなあ。部長がすらすらと問題を解いていく所」

期待に満ちた目を向けられ、手塚の中で何かのスイッチが入った。

「任せておけ!」
「あ、国語の宿題だから。よろしくっ」

リョーマが持って来た鞄を開け、教科書とノートを手にして、
「今日の宿題」とメモが挟んである箇所をものすごい勢いで解いていく。
ひょっとして最初から自分にやらせるつもりで、このメモを挟んでいたのではないだろうか。
そんな疑惑が一瞬浮かぶが、
恋人を疑うのはよくないと思い、ノートを埋めていくことだけに専念する。


30分ほどで全てが終わり、ふと振り返ると……リョーマはこちらを見ておらず、漫画に夢中になっている。

ここで問い詰めても、「いや、さっきまでちゃんと部長のことを見てたよ?」と白を切るのは間違いない。

さて、どうしようかと考えた手塚の目に、エアコンのリモコンが目に映る。

(こっちを向いてもらうぞ。越前)

そーっとリョーマに気付かれないよう手を伸ばし、設定温度を下げた。


しばらく様子を眺めていたら、リョーマはページを捲りながら腕を摩っている。
何度かそれを繰り返した後、ぶるっと体を震わせて顔を上げた。

「ねえ、ちょっと寒くない?」
「そうか?」
「気付いてないの?あんたの体も震えているよ」
「ハッ、しまった」
「わかっていて、そのままにしてたんすか」

呆れたような目を向けるリョーマに、手塚は黙って立ち上がり、すぐ隣に腰掛ける。

密着する形になるので、リョーマの体温が直に伝わる。
暖かいな、と手塚は思った。

「ねえ、温度上げてよ。これじゃ涼しいを通り越して寒い」

リモコンを探し始めるリョーマを止めるように、手塚は横から手を回して引き寄せた。

「えっ。何?これじゃ漫画読めないんだけど」
「この体勢でも読めないことは無い。それにくっ付いていれば暖かいから問題無いはずだ」
「いや、問題あるだろ。電気代の無駄遣い。後、ページが捲り辛い」
「そうか?」
「そうだよ」

抗議されるが手塚は手を引こうとはしなかった。
折角くっ付くことが出来たのだ。
もう見ているだけじゃ済まない。

なんとかして続きを読もうとリョーマはしばらく苦戦していたが、
不自然な体勢では無理だとわかって、一先ず漫画の本をベッドへ置く。

「部長。これ読み終わるまで我慢出来ないんすか?」
「出来ないな」
「そんなに時間掛からないと思うけど」
「1分でも無理だ」
「……我侭っすね」

ハア、とリョーマは大きく溜息をつく。

呆れている。

けれど、もう許されていることがわかった。

リョーマも我侭だけど、手塚だって我侭だ。

お互いの性格は把握している。
時々譲り合って、お互いの幸せを積み重ねて行く。
毎日がそんなことの繰り返し。
だからこそ上手く行っているのだ。


「しょうがないな。折角、クーラー付きの部屋とファンタを提供してくれたんだから、
今日は部長に付き合うよ」
「そうか。冷房とファンタのお礼ってやつか」
「違うよ」

ニッといつもの不敵な笑みを浮かべて、自ら体を押し付けて来る。
リョーマの体をを支えると、
「俺がそうしたいから」と言われる。

「それに、くっ付いていると暖かい。
くそ暑い部室で抱きつかれるのは勘弁だけど、ここなら良いっすよ」
「俺は部室でも一向に構わないんだがな」
「それ、絶対変だって。だって蒸し風呂状態だよ?
お互い汗臭いのに、俺は嫌だ」

ヤダ、ともう一度言うリョーマに、手塚は耳元に鼻を寄せて口を開く。

「むしろお前の匂いを感じられて、良いと思っていたのだが」
「やっぱり変!
それとも部長ってそういう趣味?引くんだけど」

うわあ、と声を出して逃げようとした体に気付き、両腕を使って引き止める。

「そういう趣味って、何だ。
むしろそれだけ好かれてると思って、喜ぶ所だろう」
「いやいや、無いから」
「他の誰もお断りだが、お前だけなら許せる。ありがたく思え」
「なんでいっつもそんなに偉そうなの?
本当に部長ってさあ、」


我侭だよね、と呟いたリョーマの声は、ベッドへ押し倒した時の音に消された。

ついでに桃城から借りた漫画も、下へと落ちる。

そんなものに構う余裕も無く、大人しくしている小さな体へ手塚はそっと覆い被さった。


今の間だけは、まだ温度設定を下げたままでいい。
リョーマが眠る頃に適正温度に変えておこう。

クーラーも悪いものじゃないな、とパジャマのボタンを外しながら、手塚はそう思った。


2010年06月26日(土) 熱ピタ 2  塚リョ

今日も暑くなりそうだ。

学校へ向かって歩きながら、手塚はそう思った。

朝練の為に早起きしたのだが、この時間でも暑い。
日中は更に気温が上がるだろう。

今日の練習はきついものになるな、と内心で呟く。

同時に「部室にクーラー欲しい」と不満を漏らしていたリョーマの顔を思い出す。
この湿度と気温にうんざりしたように、文句を言っていた。

なんとか宥めたものの、夏が終わるまでずっと暑い暑いと騒いでいるんじゃないだろうか。
また氷帝に行くと言い出さなければ良いが……。

その時は再びお仕置きだな、と頷く。
最も手塚としては、純粋にリョーマにくっ付いていたいだけなのだが。
暑くても構わない。
むしろ恋人だからこそ触れていられるのだと、満足感を得られるのに、
リョーマは違うらしい。

クーラーの効いた部屋ならいいと、我侭ばかり言う。
こちらが自室まで我慢出来合い時はどうするんだと、言い返したい気持ちをぐっと我慢している。
そんなこと言えば、ケンカになるのは目に見えている。

お互いにとって良い方法は見付からないものか……、と手塚は眉を顰めて、部室へと向かう。

もし今日またリョーマが不満を言い出したら、すぐに家に連れて行こうと決めておく。
先日のように寒い位冷やした部屋ならリョーマもご機嫌になる上、
密着しても怒られない。それどころかリョーマからもくっ付いて来てくれる。

知らず手塚は笑みを浮かべていた。

早く来ていた一年生達はそれを目撃し、怖いものを見てしまったかのように慌てて目を逸らした。










「今日はリョーマから休みの連絡があった。体調を崩したらしい。
皆も夏バテには気を付けるんだよ。いいね!」

練習前の顧問の言葉に、手塚は思わず目を見開いた。
リョーマが休み?そんなことは聞いていない。

解散の声に皆がコートへと散らばる中、手塚は顧問に話し掛けた。


「先生。越前は本当に休みなんですか?」
「ああ。南次郎から直接連絡があったからね。明日は出て来られるだろうと言っていたよ。
大したことは無いんじゃないか」
「そう、ですか」

手塚は一礼して、顧問から離れた。

夏バテしたのだろうか。大したことじゃなくても心配でたまらない。
あれだけ暑い暑いと訴えていたのだ。
体調を崩すサインを出していたのかもしれない。

なのに呑気にも、リョーマに触れることばかり考えていた自分が恥ずかしい。

放課後の練習が終わったら見舞いに行こう、と手塚は考えた。













早く終われと思っている時に限って、時間の流れを遅く感じる。
リョーマのことをずっと気にしていたので、練習も身に入らかった。
乾と不二に気付かれ、からかわれたりしながらなんとか最後までやり遂げた。

手ぶらで行くわけにもいかず、スーパーに立ち寄ってフルーツを購入してリョーマの家へ向かう。
何度も訪れたことがあるので、迷うことは無い。

覚悟を決めてインターフォンを押すと、「誰だー?」と南次郎が髭を摩りながら出て来た。

「なんだ。部長さんかい」
「こんにちは。今日はリョーマ君のお見舞いに来ました」
「お見舞いー?」

南次郎は可笑しそうに笑った。

「わざわざ来るほどのもんじゃねえけどな。
ま、上がんな」
「はい」

玄関から中へと通される。
南次郎の後に続きながら、「それで、具合は」と尋ねる。

「おう。リョーマの奴なら、ぴんぴんしてるぜ。
全く、人騒がせだよな。アイスの食い過ぎで腹壊すなんてよ」
「お腹を……?夏バテの間違いでは」
「違う違う。あいつ、昨日の夜に俺が買って来たアイスを箱ごと全部食べやがって、
それで今朝になって腹が痛いとか言って騒いでやがるの。馬鹿だよなー」
「……」

笑う南次郎と反対に、手塚は(そんな理由だったのか)とホッとする。
夏バテでは無かった。サインを見逃したんじゃない、と再び自信を取り戻す。

「まー、折角来てくれたんだ。リョーマの顔を見て、ふざけた理由で休むなって言ってやってくれ」
「さすがにそれは……。後、これお見舞いの品です」
「おっ。気を使わせて悪いな。早速頂くぜ」
「どうぞ」

スーパーの袋を持って、南次郎は奥の部屋へと行ってしまう。
勝手にして良いということらしい。

遠慮なく手塚はリョーマの自室へと向かう。

ドアの前に立ち、「越前」と一声掛けて中へと入る。

「あれ、部長……?」

リョーマはベッドサイドに腰掛けていた。
ちょうど水分を補給していた所なのか、ペットボトルを手にしている。

「具合はどうだ。様子を見に来た」
「あー……、うん。まあまあかな」

気まずそうに目を逸らす。
アイスを食べて腹を壊したと言えないのか。
しかしもう先に知ってしまったんだがな、と手塚は苦笑して近付いていく。

「食べ過ぎは感心しないぞ。全く、限度があるだろうが」
「それ、親父から聞いたんすか!?」
「ああ」
「あいつ、ばらすこと無いのに!」

歯軋りするリョーマに、「まあまあ」と宥めるように手塚は肩を軽く叩いた。

「アイスを1箱食べたらどうなるかわからなかったのか。
これに懲りて、もう無茶なことはするなよ」
「だって、暑かったから……。アイス食べると少しは涼しくなるでしょ。
だから止まらなくってさ」

バツが悪そうに下を向くリョーマに、「仕方無い奴だ」と手塚は小さく笑った。
そんな顔をされると、これ以上強くは言えない。

「もし我慢出来ないほど暑いと思ったら、これからは俺の家に来るといい。
家族もお前なら歓迎してくれる。泊まっても何も言わないだろう」

この部屋にはクーラーが無い。だから暑くてしかたないんだと、文句を言っていた。
だからこそ、アイスを1箱食べるという暴挙に出たのだろう。
もう二度とそんなことさせない為、夏の間はリョーマを自分の部屋に連れて行くべきだ。

本音は、長く一緒にいられることを望んでいるだけだが、勿論それは言わないでおく。

リョーマは顔を上げて、「行ってもいいんすか?」と期待に満ちた目を向けて来た。

「ああ。だがクーラーの温度設定はほどほどにな」
「うん!それでも嬉しいっす!」

やった!と抱きついて来るリョーマに、「暑くないのか?」と手塚は尋ねた。

「暑い……。けど、なんか安心するのも本当」
「そうか」

体調を崩して、気弱になっている部分もあるかもしれない。
こうしてくっ付いて安心してくれるのなら、ずっと側にいてやりたいとも思う。

「なら、ずっとこうしていようか?」
「それはちょっと。やっぱり暑い」

すぐにリョーマは体を離したが、手塚の右手を取ってベッドに横になる。

「ここでくっ付いているのは無理だけど、手を握るくらいなら平気。
眠るまでこうしていてもいい?」
「ああ。勿論だ」

左手で髪を撫でると、リョーマはそっと目を閉じる。

しばらくそうしていると、規則正しい寝息が聞こえた。


このまま元気になってくれるようにと、汗ばんだ手を握ったまま手塚は祈る。


次の熱帯夜は二人で快適な時間を過ごせるように。

手塚の心の声が聞こえたかどうかはわからないが、
リョーマの寝顔は笑っているように見えた。



終わり


2010年06月25日(金) 熱ピタ 塚リョ


グラウンドを走り終えて、へとへとになりながらリョーマは部室へ入った。

「暑っ!」

入り口も窓も開いている。他の部員達は走っている間に帰ってしまったらしく、もういない。
なのに暑い。
まるで蒸し風呂だ。

帽子を脱いで、団扇の要領でパタパタと扇いで顔に風を送るが、
当然涼しくなるわけがない。

「暑いんだけど」

今度はそこで座って日誌を書いている手塚へ話し掛けるように、はっきりと声を出す。

既に制服に着替えた手塚は、この温室の中で涼しげな顔をしてペンを走らせている。
よく見ると、汗も掻いていない。
本当に人間なの……、とリョーマは軽く首を振った。

「暑いと言われても、夏だからな」

一瞬だけ顔を上げて、手塚はそう答えた。
再び、日誌を書くために下を向く。

だからリョーマは再び抗議した。

「夏って言い訳しているけどさ。
外で運動して来て、こんな暑い部屋で着替えしろって酷くない?
青学って私立なんでしょ。部室にクーラー位、入れてくれてもいいと思うんだけど」
「無茶言うな。大体、お前が暑い暑い言うのは遅刻した分の罰走を終えたじゃないのか。
皆は普通に着替えて出て行ったぞ。ぶつぶつ言っていないで、早く制服に着替えろ」
「ちぇっ、ケチ」

舌打ちすると、「そういう言い方は無いだろ……」と手塚が苦笑する。

「走らなくても十分暑いのに。
クーラーが駄目なら、せめてシャワールームが欲しい」
「そっちの方がお金が掛かると思うぞ」
「けど、このまま汗だくで帰るのって嫌じゃない?」

手塚と話していてもクーラーやシャワールームが設置されるとは思っていない。
要するにただの愚痴だ。

ウェアを手早く脱いで、ロッカーから出したシャツを羽織る。
すると汗を掻いた肌にぴったりと張り付く。
気持ち悪い、とリョーマは眉を寄せた。

「テニス部だけとは言わないけど、やっぱりシャワールームが欲しいなあ。
なんか汗臭い……」

軽く溜息をつくと、手塚が「気にし過ぎじゃないのか」と言った。

「そんな風に思ったことは一度も無いぞ」
「部長がそう言っても、俺は気になるの。
もっと設備が充実していればいいのに。
ほら、氷帝とかって設備すごいんでしょ。菊丸先輩がそう言ってた」
「どこからそんな話を……」
「いいよなあ。俺だったら確実にレギュラー取れるだろうから、あっちにしとけば良かったのかも」


暑さで頭もぼんやりして、つい浮かんだことを口にしたに過ぎない。

しかしそれは地雷だったらしい。

「氷帝に行くつもりなのか?」
「部長?どうしたの。顔、怖いよ」
「お前があんまりにも酷いことを言うからだ。
青学の皆との絆よりもクーラーやシャワーを選ぶつもりか」
「は?いや、そんなそこまで真剣に言ったつもりじゃ……」

手塚の表情に、失言だったとリョーマは気付いた。
深く考えて言ったわけじゃない。
この気温と湿度で、ポロッと不満を零しただけだ。

でも手塚は本気に受け取ってしまった。


「我侭ばかり言うやつは、こうしてやる」
「えっ、ちょっと!?」

手塚が立ち上がった、と思ったらものすごい勢いでこちらに近付いて来る。
そのまま抱きつかれ、衝撃に二人して床に倒れるが、
手塚が庇ってくれたおかげでリョーマは激突を免れる。
しかし事態が良くなったとは思えない。

「何、何なの。暑苦しい!」
ぎゅうぎゅうに抱きしめられて、リョーマは抗議の声を上げる。
「罰を与えている。少し黙れ」
「罰って?意味わからないんだけど」
「青学よりもクーラーを選ぶなんてバカなことを言うからだ。
こうするのが何よりも堪えるだろう」
「けど、窓もドアも開いてるよ!?誰かに見られたら」
「だからこそ見付からないように押し倒した。大人しくしている分、ここからは見えない」
「……そういうこと言っているんじゃなくって」

たしかに二人して床に腰を下ろしてくっ付いているなら、外からは見えない。
けど中に入って来たらどうするんだ、とリョーマは手塚を睨む。


「暑いって。窒息死する」
「閉め切った部屋じゃないから大丈夫だ」
「そうじゃなくて、部長が引っ付いてくるから暑苦しいってこと。
氷帝に行きたいなんて言わないから、もう放してくんない。限界だから!」
「もう少しだけ、我慢しろ」
「なんで?そんなに俺、酷いこと言った?謝るから」

ごめん、って言うリョーマに、手塚は「そうじゃない」と笑う。

「最初は罰を与えようかと思ったけど、少し気が変わった。
こんなに暑いのに抱き締めていられるのは、相手のことがよほど好きだからだと、
そう思わないか?」
「はあ?」
「汗くさいなんて思わない。気にならない。
クーラーなんてなくても、俺はお前と一緒ならどこでもいい。
今やっていることは、その証だ」
「部長……」


この暑さでもくっ付いていたい位好き。
相手のことを特別じゃないと言えないだろう。
じっとりした不快な空気がまとわりつく中、手塚の手が頭を撫でてくる。
それはいつもより体温が高い。
汗ばんでいる手で、同じく湿っている髪を撫でてくる。
傍から見たら滑稽な光景だろう。
けれどお互い好き合っていたら、どんなに暑苦しくても離れたくないと思う。

なんて。

少しだけ絆されるが、額に流れた汗に「やっぱり暑い!」とリョーマは声を上げた。

「部長の気持ちは嬉しいけど、もう無理。倒れそう」
「おい、越前」
「クーラーの効いた部長の部屋ならいくらでもいちゃいちゃ出来るんだけど。
駄目?」

上目遣いで訴えると、「しょうがないな」と手塚は溜息をついてリョーマを解放した。

すぐに窓へと移動して、大きく息を吐く。

「あー、もう窒息するかと思った」
「お前は……人が折角恋人らしいことを言ったのに、それか」
「だから涼しい部屋ならいくらでもいいって言ってるのに」
「そうか、だったら」

覚悟しとけよ、と言う手塚に、リョーマは少しばかり顔を引き攣らせて、頷いた。

快適な空間なら、いくらでもくっ付いていても問題は無い。


(それより、部長がこんなこと言い出すなんて珍しいよね。
いくら俺が失言したからってさ……)


やはり夏の暑さの所為なんだろうか。
手塚の頭のネジも緩んでもおかしくない。

もうこの暑さの中で引っ付いてこられるのはごめんだ。

言動には注意しようと、リョーマはこっそり胸の内で呟いた。


2010年06月14日(月) miracle 41  真田リョ

青学は都大会初戦をなんなく勝利で終えた。続く二戦も危なげなく全て勝利し、ベスト16入りを果たす。

「楽勝、楽勝。この分なら次もきっと勝てるにゃ」
「英二。そういう油断はよくないぞ。今日勝っても、明日はどうなるかわからないだろ」
「もー、わかっているって。でも今日くらいは喜びに浸ってもいいだろー?」

少し前を歩くゴールデンペアの会話を聞きながら、リョーマはまだまだだね、と肩を竦めた。
そして携帯を取り出し、時間を確認する。
今からなら幸村の病院の面会時間に間に合う。
行って、今日の報告をしようかなと考えていると、不意に前方に誰かが立ち塞がった。

「越前、ちょっといいか」
声を掛けられて、顔を上げる。立っていたのは手塚だった。
「何すか」
「明日、少し時間をもらえないか」
「明日?」
「ああ。高架下にあるコートは知っているか」
「え?」
「そこで待っているぞ」
去って行く手塚の背中を見て、何なんだろうと首を傾げる。
明日は試合後ということで部活は休みだ。その休みに後輩に指導をつけてやろうとしているのか。
普段、遅刻ばかりしている自分に対して、地獄のトレーニングを命令するとか?
それとも、試合の申し込みか。

(ま、いいけどさ……)

それよりも幸村の所に急ごうと、あまり深く考えずに駅へと向かった。


(前回の訪問から少し間が空いちゃったな)

言い訳するつもりはないが、練習やら真田の相談に乗ったりしてごたごたに首を突っ込んだ所為でここに来る余裕が無かった。
少し緊張した気持ちで、病室のドアをノックする。

「どうぞ」

幸村の声にドアを開けると、先に来ていた真田が椅子に座っているのが目に入った。

「やあ、リョーマ。来てくれたんだね」

笑顔で迎えてくれたことにほっとしつつ、「約束も無しに来たけど、良かった?」と尋ねる。
「もちろん。君なら大歓迎だよ」
「でも、真田さんと話しているんじゃないの?」
ちらっと、真田の顔を見る。
立海の方でも今日は大会があった。
きっと真田も幸村に結果を報告しに来たんだろうと察する。

リョーマの思考を読み取ったのか、「ああ、もういいよ。話は終わったから」と幸村は微笑みながら言った。
「ね、真田?他に話は無いよね?」
「そうだな。越前、こっちに来て座ってくれ。俺はもう帰る所だからな」
「え、でも」
「幸村に付いててやってくれ」
「真田。俺は子供じゃないなから、そういう言い方はないんじゃないかな」

付いててって何、と笑う幸村に、「すまん」と真田は頭を掻いて謝罪する。

「とにかく俺は帰るから、後は頼む」
「はあ……」
「では、失礼する」

そそくさと帰って行く真田に、(何なの?)とリョーマは違和感を抱く。
先日の件で一言あっても良さそうなのに、幸村に遠慮でもしているのだろうか。

後で電話で聞いてみるかと判断し、リョーマはさっきまで真田が座っていた椅子に腰を下ろす。

「久し振りだね。少し痩せた?」
幸村が手を伸ばすのを、リョーマはじっと見ていた。
膝に置いた自分の手に触れられる。
相変わらずスキンシップが好きなんだ、と呑気に考えて、幸村の好きなようにさせておく。

「練習きついから、ちょっと体重減ったかもしれない」
「そう。あまり無茶して体を壊したりしないでね」
「わかってる」
頷くと幸村は「本当にわかっているのかな?」と言った。

「聞いたよ。仁王の件では色々迷惑掛けたそうだね」

少し変えた声色に、リョーマは思わず背筋を伸ばした。
他校の生徒がでしゃばった真似をした、その位はリョーマにだってわかっている。
幸村の機嫌を損ねないように、「迷惑、とかじゃないけど」と小声を出す。

そもそもあれは自分が勝手に行動したことだ。しかも大したことはしていない。
仁王が元に戻ったとしたら、青学にまで迎えに来た真田の熱意と、おそらくは幼馴染である舞子の説得によるものだ。

しかし幸村は「君のおかげでもあるんだよ」と言う。

「ありがとう、リョーマ」
「だから礼を言われるようなことしていないって」
首を横に振る。そんな風に言われると困ってしまう。
眉を寄せるリョーマをふっと笑いながら、幸村は「でも俺にも相談して欲しかった」と呟く。

「そんなに頼りないように見えた?」
「え?違うと思うけど。真田さんは最初から幸村さんだけには心配掛けたくなくて、それで」
一生懸命真田の援護をしようとしたが、「違うよ」とストップを掛けられる。
「俺が言っているのはリョーマのことだよ。
仁王の件で真田に手を貸しているんだって、一言言って欲しかった」
「だって、本当に何もしてないから言うまでもないって思って」
言い訳がましく声を出すリョーマに、幸村は悲しげに目を伏せる。

「でも真田と連絡を取り合って相談に乗っていたのは事実だよね?
立海で揉め事が起きているのなら、俺も知りたい。解決するよう力になってやりたい。
でも、駄目なんだろうか。病室から出られない部長じゃ、頼りにならないよね」
「まさか!そんなことは無い。真田さんだってそんなつもりじゃなかったと思う」

幸村があまりにも寂しげにしていたので、つい大きな声を出してしまう。

「心配掛けたくなかっただけで、決してのけ者にしようなんて、考えていない。
今度からはちゃんと幸村さんにも言うから。だから、そんな顔しないで欲しい」
手をぎゅっと握り返すと、幸村は「本当に?」と尋ねる。
「うん。約束する」
「そう。だったら、指きりしようか」
「え?」

リョーマが戸惑っている間に、幸村は勝手に小指を絡め取ってしまう。

「約束。これからは何でも俺に話すこと」
「……」

いや、それはなんか違うと思ったけど、リョーマが拒否する間もなく、「指きった」と幸村は満足そうに微笑む。
あまりにも機嫌が良いその顔に、別にいいかと訂正はしないでおいた。

「そうだ。今日、都大会だったんでしょう?どんな感じだったか聞かせてよ」
「勝ったよ。俺の試合もだけど、青学も」
「さすが。リョーマは強いね」

にこにこと笑う幸村の顔を見て、リョーマはほっとしていた。

さっきみたいに仲間はずれにされていると、誤解されたままなのは嫌だった。
幸村のことをそんな風に思ったことなどない。出来るだけ力になってやると、今だってそう思っている。
友人として、この先も側にいる。だから悲しい顔はさせたくない。
少しでもこの入院生活が楽しいものであるように、幸村が望む限りは無理してでもここに来ようと決めている。



他愛の無い会話は、それからしばらく続いた。

帰らないで欲しいと幸村に引き止められたが、それでも帰らなければならない時間はやって来る。

「また来るからさ、絶対に」
「うん。絶対にだよ」

なんか今日は念押しされてばかりだ。
頷いて、リョーマは病室から外に出た。

(なんか、幸村さんの甘え癖が酷くなっている気がする……)

手だけでなく、髪も撫でられ、最後にはもう少しここに残っててと抱き締められた。
泊まるわけにもいかないから、ちゃんと解放されたのだけれど。

(子供みたい。でも心細いから甘えたくなるのかもしれない)

やっぱりちゃんと見舞いに行かないと駄目だなと考える。

そして病院を出て駅に向かおうとしたところで、「越前」と名前を呼ばれる。
振り返ると、こちらに向かっている真田が見えた。

「真田さん?どうしたんすか。帰ったんじゃなかったの」
「お前のことを待っていた」
「だったら帰ることなかったのに」

何故先に病室を出てしまったのか。
疑問に思うリョーマに、「邪魔したくなかったんだ」と真田は言った。
「幸村に会いに来たのも久し振りだったんだろう?二人でゆっくり会話をさせてやりたいと思ってな」
「だからってこんな所で待っていなくたって、電話でも良かったのに」

真田も試合の帰りで疲れているだろうに、わざわざこんな所で待っているなんて余程重要な話だろうか。

「いや、電話で済ますようなことじゃない」
「それって、一体?」
何かあったのかと、リョーマはごくんと唾を飲み込む。

すると、「仁王の件で、お前には迷惑を掛けて済まない。そしてありがとう」と真田は頭を下げた。

「ちょっと、止めてよ。俺は何もしていないのに」
「それは俺の方だ。お前が相談に乗ってくれなかったら、そして仁王を引き止めていなかったら取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
だからこうして直接礼を言いたかった」
ありがとうと、さっきより深く頭を下げる。

(言いたかったことって、これ?)

電話ではなく顔を見て言いたいという、真田の真面目な一面がここにも出ている。
やっぱりこの人、不器用すぎてそしてそこが好感持てるなと思う。
何に対しても適当ということが出来ないのだろう。
疲れているのにこんなところで礼を言う為だけに待っていて。

こんな人、今まで見たことがない。

「うん、真田さんの気持ちは充分伝わった」
そう告げると、真田は顔を上げた。
「でもそんなに畏まることないっすよ。だって、友達でしょ?手を貸すのは当然っすよ」

改めて友達と確認するなんてこれまで無かった。少し照れ臭いが、今のリョーマの正直な気持ちだ。

真田は目を見開き、そして「そうだな」と頷く。

「お前のような良い友人を持って俺は幸せだと思う」
「……何言っているんすか。恥かしいんだけど」
「そ、そうか」
「あ、でも嫌とかじゃないっすよ。その、俺もあんたみたいな正直で真面目な友達がいて、嬉しいと思う」

何言っているんだと、自分の言葉にむず痒くなるが、真田が心の内をいちんと話してくれているのだから、こちらも曝け出すべきだと思った。
どうも、真田といるといつもみたいなひねくれた態度の自分ではいられない。突っ掛かったりする態度や、生意気な言葉も引っ込んでしまう。
多分、素直に本音を出せる相手なんだろう。

「そうか。お前が嬉しいと言ってくれるのならありがたい。いつも助けてもらってばかりだから、もしお前に何かあったらすぐに相談してくれ。何があっても駆けつけるからな」

真顔で言う真田がおかしくて笑ってしまいそうになるが、本気で言っているのがわかる。
だからリョーマは顔を引き締めて、「うん。わかった、そうする」と言った。

途端に真田はどこか安心したような顔になる。
きっと困っていると言ったら、言葉通りに掛け付けてくれるのだろう。
真田は嘘をついたりしない。
無いとは思うが、この先困った事態が訪れたら、頼れる相手がここにいる。そういうのっていいな、と思った。

「あ。俺、そろそろ電車に乗らないと。真田さんも帰るところでしょ?」
居心地の良い空気を壊すのは勿体無いが、これ以上遅くなったら家族が心配する。
真田もそれを察して「そうだな。駅まで送ろう」と申し出た。
「別にいいのに」
「いや、駄目だ。最後まで見送る」

引きそうにない真田に、リョーマは「わかった」と言った。駄目だと言ってもついて来るのが目に見えたからだ。


そして歩きながら、今日の試合の内容をお互い報告しあう。

「初戦だったからか、楽勝だったっすよ。そっちは?」
「同じだ。多分、スムーズに決勝に行けるだろう。どちらかというとそちらの方が激戦区なのではないか?」
「え、そうなの。どこが強いとかあんまり気にしていないから、知らない」
「お前は……。少しは敵のことも知った方がいいぞ」
「はあ」
「気の抜けた返事だな。己の実力を磨くことだけで、他は眼中にないというところか」
「そうかもしれない。だって情報集めたって、実際当たってみなくちゃわからないことだってあるでしょ」
「それは、そうかもしれないが」

今までみたいに相談に乗るという以外でも案外スムーズに話せるもんだ。
気の合う友達ってこういう関係だろうか。
今まで一人で行動することが多かったので、よくわからない。
だけど、真田との会話は楽しいとも思う。

「じゃあ、ここで」
駅に到着して、リョーマは真田の顔を見上げた。

「またね、真田さん」
「ああ、また今度……」
言いかけたところで口を閉じる真田に、「どうしたんすか?」とリョーマは首を傾げる。

「いやなんでもない。気をつけて帰るんだぞ」
「わかってるって」

改札を通り、軽く手を振ってから、階段を駆け上がった。

(真田さん、さっき何を言いかけたんだろう?)

気になったが、電車が到着するとのアナウンスにリョーマは振り返ることなく足を速めた。












リョーマを見送った後、真田は自分の家へ帰る為にバス停へと歩いた。

頭の中にあるのは、リョーマと幸村のこと。
二人共、真田にとって大切な友人だ。
特にリョーマは、仁王との一件でとても世話になった。この恩は絶対に忘れない。
リョーマの為なら、何をおいても真っ先に掛け付けようと誓った。その気持ちに嘘は無い。

だけど。


『それで、仁王とのことでリョーマに手を貸してもらったっていうのは理解した。
でも、俺の知らないところでリョーマとあんまり仲良くされると寂しいって気持ちになるんだ。真田にはわからない?
俺はここから出られないんだよ。リョーマと会うことすら自由に出来ない。
真田は簡単に青学にまで行けるかもしれないけどね。
そういう所わかってくれるよね?
俺に協力するって、言ったんだから』

幸村の恋を応援すると言った気持ちにも嘘はない。

だから、幸村に言われたようにリョーマとはこれからはあまり仲良くしない方がいいのだろう。
今日だけは仁王と件で礼をきちんと言っておきたかったから、どうしても会っておきたかった。
これ位は許されるだろう。礼を言うだけ、なのだかr。

(折角、友人として打ち解けたところなんだが……)

頻繁に会えないとなると、寂しくなる。
でもそんな風に思うべきではない、と真田は自分を無理矢理納得させる。

リョーマは、幸村が好きになった人。
自分に出来ることは、幸村の恋を応援するだけだ。


2010年06月13日(日) miracle 40  真田リョ

都大会当日。
大事な試合を前にしているというのに、桃城と菊丸に付き纏われて、リョーマはうんざりしていた。

「立海の仁王と真田って、おチビとどういう関係?詳しく教えて欲しいにゃー」
「そうだぞ、越前。今日こそはきっちり聞かせてもらうぞ!」

うっとうしい、とリョーマは溜息をつく。
こういうことがあるから、他校の生徒と知り合いということを隠しておきたかったのだ。
話す、となると彼らと顔を合わせるのに切っ掛けとなった幸村との出会いまで遡る。
それを言いたくない、というのが正直な気持ちだ。
親に頼まれ、幸村を元気付ける為に病院に見舞いに行き、そこから交流が始まったなんて軽々しく話す内容ではない。

『初めまして。君が、越前リョーマ君だね』

録画された試合を見て、興味を持ったんだ。良かったら、話相手になって欲しいと点滴の後がある手を差し出される。

思わず、リョーマは手を差し出していた。
触れた手はひんやりとして、リョーマのよりずっと大きいのに握ったら壊れそうに思えた。


幸村が外に出てテニスをしたがっているのは、すぐに気が付いた。リョーマの試合についてあれこれ褒めてくれるが、本当は自分自身がボールを打ちたい、走りたいと切望している。
言葉の端々からそんな本音が見え隠れして、どう返事したらいいか言葉に詰まった。
もし自分が、ある日突然入院するようなことになって、テニスをする自由を奪われたらどうなるのだろう。想像も出来ない。
幸村はそんな状況に耐えている。見掛けよりもずっと強い心を持っているんだろう。
黙り込むリョーマに『どうかした?』と顔を覗き込んで来る。

『あ、いや。俺なんて上手く会話出来ないから、幸村さんが退屈じゃないかって思って』
『そんなこと気にしているの?』

ふふ、と幸村が笑う。
『君と会えただけで嬉しいよ。あんなすごいプレーをする子が目の前にいるなんて、少し舞い上がっているかな』
『大袈裟っすよ』

本当なのになあ、と幸村は笑う。
どこか無理しているようなその笑顔に、リョーマの心がちくりと痛む。
この人が一刻も早くコートに戻れますように。
そう願った時から、この人の力になろうと決めていた。



「なあ、おチビー」
しつこくしてくる菊丸の手を振り解こうとしたその時、
「やめなよ。越前が困っているでしょ?」と不二が間に入って来た。
「英二。もうすぐ試合なのに何してるの。大石が探しているよ?」
「あ、いっけね!」
走り出した菊丸に、桃城も「待って下さいよ!」と後に続く。
この場に残って、不二に何か言われたら堪らないと思って逃げたのだろう。

「災難だったね」

にっこりと笑って近付いて来る不二に、誰の所為だよとリョーマは顔を引き攣らせた。
「おかげ様で。不二先輩が仁王さんとの試合を青学のコートでやるなんて段取りしてくれたから、皆に知れ渡る羽目になったからね」
「言葉に棘があるなあ。仁王を引き止める為に手を貸したっていうのに」
「他のコートでやれば済むことだったのに」
「あれ?君は部活をサボるつもりだったの?大会前にそんなこと許されないよ。
グラウンド100周とどっちが良かった?」
「……」

不二には何を言っても無駄だ。
言葉の出ないリョーマに、「ほら、英二と大石の試合が始まるよ」と不二は皆の所に行こうと促す。
「そういえば、聞きたかったんだけど」
「何?」
「この前、言ってましたよね。俺が立海の人と一緒にいる所を見たって」
「ああ、うん。確かに言ったね」
「それ、誰だったんすか?」
自分だけ知らないというのはフェアではない。不二の持っている情報が何か知りたかった。
「教えて欲しい?」
「そりゃいつまでも何だかわからないまま、含みのあるようなことを言われるのは好きじゃないんで」
「君は正直だねえ。言ってもいいけど、後で一つ質問に答えてくれるかな?」
「何すか」
「それは後でのお楽しみ」

嫌な予感しかしないが、ここでうんと言わないと、不二は何も話してくれないだろう。
仕方なく「わかりました」とリョーマは頷いた。

「それじゃ、話そうか」
フェンスに視線を向け、いかにも試合を観戦してますという姿勢を取ったまま不二は語り始める。

「僕の親戚で神奈川に住んでいる人がいるんだ。この春にちょっとしたことで入院することになって、
そのお見舞いに行った時にね、君を見かけた。
入部して一週間くらいの頃かな。早々に手塚に注意されて走らされていた子だったから、顔は覚えていた。どうして立海の部長と一緒なのかな、とその時疑問に思ったんだ」
「……」

よりによって幸村との面会を見られていたのか。しかも不二に。世間は狭過ぎる。
リョーマは肩を落とした。

「見たのはそれだけっすか」
「ううん。その後、親戚の退院祝いでもう一度神奈川に行った時だったかな。
今度は真田と一緒に歩いているのを見かけた。
立海の部員と親しいのに、何で青学に入ったのか、ひょっとしてスパイかなって考えたけど、そんなわけないってすぐに思った。常勝立海が関東止まりの青学にそんなことする理由はないからね」
「はあ」
「でも君が彼らとどういう知り合いなのか、ずっと気にしていたよ」

幸村と真田とも知り合いだったというのはバレていたようだ。

「言っておくけど、スパイじゃないっすよ」
「それはわかってるって言ったつもりだったけど?
例えば、立海がうちの情報を知りたいとしたら君のことじゃないのかな。期待のルーキーのことで探りを入れるのなら納得出来る。でもいくらなんでもその本人をスパイにするとは思えないよね」
「はあ……」

フェンスの向こうでは大石と菊丸の試合が始まっている。
相手との実力差は最初のプレーでもう見えていた。ストレートで勝つのは簡単に予想出来る。
応援する振りをしながら、不二との会話を続ける。

「それじゃ、不二先輩は俺がスパイじゃないとわかっていて、今までなんで意味深なこと言い続けていたんすか?」
「それは純粋な好奇心かな。君がどんな意味で幸村と真田と仲良くしているか、知りたいと思って」
「好奇心、っすか」

性質が悪いなと、顔を顰める。面白がっているような不二の目に、嘘はないと察する。

「あの二人とは縁があって友達になっただけっす。それ以外の意味も何も無い」
「そうかなあ?」

不二は首を傾げて言う。

「君だけがそう思っているだけじゃないの」
「えっ」
「さっき、一つ質問したいと言ったけど、今は止めておこう。だって、君は何も気付いていなさそうだからね」
「何それ。どういう意味っすか?聞きたいことあるなら、今聞いたら?」

またはぐらかされる、と咄嗟に不二を引きとめようとすると、「聞いても、どうせ答えられないでしょ」と、呆れたように言われる。

「そんなの聞いてみなくちゃわからないじゃん」
「じゃあ、聞くけど。幸村と真田。どっちが君にとっての本命?」
「本命?何すか、それ」
「ほら。答えられないじゃないか。
いいけどね。その内、決まったら教えてよ」

ぽん、と肩に手を置いて、不二は手塚や乾がいる方へと行ってしまう。これ以上会話しても無駄だと拒否するかのようだった。

(本命って、なんだ)

残されたリョーマは、不二の言ったことの意味を考える。
友達に対して本命も何もあるものか。どちらも大切で、比べられるようなもんじゃない。

(わかってないのは、不二先輩の方じゃないの?)


やっぱり言っていること滅茶苦茶だ。バッカじゃないの、と鼻を鳴らして横を向く。




リョーマが不二の言う「本命」の意味がわかるようになるのは、もう少し先のことになる。












一方、立海も県大会初日を迎えていた。

仁王の姿を見て、真田はほっと胸を撫で下ろす。
大会に来ると言っていたが、最後の最後に幼染の見送りを優先されるかもしれない、とも覚悟していた。
その時は、自分がフォローするしかない。他の部員からは不満の声が上がるだろう。多分、管理が出来ていないことで責められるのは真田だろう。
それでも、仁王の気持ちを知った今となっては彼を強く責めることは出来ない。
例えあの幼馴染を優先したって、構わないという気持ちにさえなっていた。

だから仁王がこちらに向かって来た時、思わず「その、今日は大丈夫なのか?」と声を掛けてしまった。

よほど意外に思ったのか、仁王は目を見開いてから、「ああ、平気じゃ」と答えた。

「舞子との挨拶はもう済んだ。今日は試合は無いが、応援に手を抜くなって言われたぜよ。
ちゃんとわかってるから、ここに来た」
「そうか」

どうやら仁王なりに吹っ切ったようだ。
一つの問題が解決したことに、真田はほっと息を吐く。

「俺が試合に出られるまで、負けたら許さんぜよ」
「誰に向かっていっている。他の者も負けたりはしない」
「そうじゃな」

二人の友好的ともいえるような態度に、他の部員達は遠巻きに見ながら驚いている。
ついこの間までぎくしゃくしていたのに、ここ最近の変化はどうしたものか。
てっきり仁王は真田を嫌っているものだと考えていた者達は戸惑っている。
自分達と同じ側にいると思っていた仁王が、態度を変えたと捉えて、面白くないという顔をしている。


そして別の意味でも真田に対して、不信感を抱く者がここにもいる。

「どうした、丸井。元気が無いようだけど、腹が減っているのか?」

心配そうに顔を覗き込むジャッカルに、背中を丸めて座ってた丸井は背を起こした。

「そんなんじゃねえよ。だけど、さ」
「なんだ?」
「もし俺に好きな子がいたとして、お前もその子のことが気になったりしたら、どうする?」
「は?なんだ、そりゃ」

目を瞬かせるジャッカルに、「なんでもねえよ」と丸井は笑って誤魔化す。

「変な話をしたな。試合前なんだから集中しなくちゃいけねえのに」
「いや。でも大丈夫なのか?もしかして恋愛絡みで悩んでいるとか」
「だから違うって。そんなんじゃない。さっきのはちょっとしたおふざけで聞いただけだ。
深く考えるなって」
「そ、そうか」

丸井の勢いにジャッカルは頷いた後、「でもな」と続ける。

「お前に好きな子が出来たら応援するぜ。それが俺のタイプと重なっても、きっと好きにはならない。
だってお前と上手く行ってくれた方が嬉しいと思うからな」

ジャッカルの言葉に丸井は目を丸くして、
「そうだよな」と頷く。

「友達なら応援してくれるはずだよな……。後から割り込んでくる方がおかしいんだって」
「丸井?」
「いや、なんでもねえ。俺、ちょっとトイレ行ってくる」
「あ、ああ」

何か可笑しいと思いつつも、それ以上丸井は追求されたくないようだったので、ジャッカルは聞くのを止めた。
歩いて行く丸井の背中を見て、大丈夫なんだろうかと首を傾げた。



(そうだよ。友達なら応援してやるのが普通だろ。しかも約束したのなら、尚のことだ)

柳と試合の打ち合わせをしている真田の横顔を睨み付ける。

幸村の気持ちも知らないで、いい気なものだ。


その内、真田にはしっかり言い聞かせてやると、丸井はふいっと真田から視線を外した。


2010年06月12日(土) miracle 39  真田リョ

翌日の練習に、仁王が来るかどうか、真田はいつになく緊張した気持ちで部室に置いてある椅子に座っていた。
時間ぎりぎりまで仁王を待つつもりでいる。
必ず来る、と念じていると「おはようございます」と着替えを終えた柳生が挨拶しながら寄って来た。

「お、おはよう」
意外な反応に驚いて顔を上げる。たしか昨日、柳生は自分に対して怒っていたような気がしたが、今の表情はずいぶんと穏やかなものだ。

「聞きましたよ」
「何のことだ?」

声を落として言う柳生に合わせて、真田も小声で聞き返す。
「実は昨日、仁王君と連絡が取れましてね。説得する前に今日の練習に来ると言ってくれました。
真田君が話をしてくれたおかげだそうで」
「そんなことは、ない」
むしろほとんど仁王の幼馴染に任せてしまった気がする。
仁王を捕獲出来たのも、リョーマのおかげ。
たいしたことはしていない。

訝しい顔をする真田を気にすることなく、「昨日は少し言い過ぎました」と柳生は言った。
「正直、意外でした。あなたが部活を休んでまで仁王君を引き止めに掛かるとは思ってもみなかったので。その真摯な態度がきっと彼の心を打ったのでしょう」
「いや、だから」
勝手に勘違いしている柳生にどう説明したものかと、冷や汗が流れる。
これでは自分一人で何もかもやり遂げたみたいではないか。
違うんだ、と否定し掛けた所、「おや、噂をすればやって来たようです」と柳生が出入り口に目を向ける。

「おはようさん」
少し気まずそうに挨拶しながら、仁王が部室へと入って来た。

「あれー、仁王。お前もう体の具合はいいのかよ。しばらく休むって言っていただろ」
一番近い所にいる丸井がそう言って話し掛けると、「もう大丈夫じゃ」と仁王が頷く。
「今日からまた練習に参加するからの」
「そっか。元気になって良かったぜ。あ、これやるよ」
丸井はポケットからガムを取り出し、一枚渡した。
「サンキュ」
「どういたしまして。あ、今日俺と打ってくれよ。それとも久し振りで勘が鈍って無理か?」
「まさか。相手になってやるぜよ」
「そうこなくっちゃ」

二人のやり取りを見て、真田はほっとした。
仁王の態度が前を変わらないままだったので、これでもう大丈夫だろうと思った。
待っている必要が無くなったので、外に出るかと腰を上げる。

「あ、真田」
部室を出て行こうとすると、仁王に呼び止められた。
「何だ」
「ちょっと話がある。外で待っててくれんか」
断る理由が無いので、「ああ」と頷く。

そのやり取りに、丸井を含む他の部員達が何事かと視線を向けてくる。
無理もない。
以前、仁王を殴ったことで仲が悪いと悪いと思われたままだ。
また揉め事かと期待するような目にうんざりしながら、真田は外へと出た。

数分も経たない間に、仁王はウエアに着替えて現れた。
「コートに向かいながら話そう。そんなに時間もない」
「わかってる。すぐ済む話じゃ」

歩き出すと同時に「昨日は世話を掛けたな」と仁王は前を向いたまま声を出した。

「舞子にもさんざん怒られて目が覚めた。勝手な話じゃが、またテニス部に戻ってもいいか?」
その問いに、真田は少し笑って答えた。
「戻るも何も、退部届けを破いたのをお前も見ていただろう?
最初から何も無かった、ということでいいんじゃないか」
「真田……」
「掃除だけは一ヶ月しっかりやり遂げるんだな」
「そこは免除無しか」
「当然だ。俺も今日はグラウンド100周するつもりだからな」
「100周?なんでじゃ?」

私用で昨日休んだ自分への罰だと仁王に教えたら気にするだろう。
だから理由は言わずに、「ただのケジメだ」とだけ言っておく。

「よくわからんが、頑張れ」
「お前に応援されると、何か複雑だな」
「どういう意味じゃ」
「いや、何でもない。それよりそろそろ始まるな」
皆が集まっているのを見て二人も走ってコートに入った。









「それで、確認したいのだが、仁王はこの先も部活に出ることになったんだな?
そう認識してもいいのか」

ミーティングが終わり解散してすぐ、真田は柳から説明を求められた。
「ああ。多分大丈夫だろう」
「多分じゃ困る。県大会は明日なんだぞ。しかし仁王は練習に出ていない為、しばらく補欠扱いとする。
他の部員の手前、そうするのが良いだろう」
「妥当な判断だな」
頷くと、「本当に来るんだろうな?」と柳に念押しされる。
「仁王の幼馴染が引っ越す日は、」
「明日だろう。わかっている」
よりによって県大会初日と被っているとはついていない、と頭を抱えたのでよく覚えている。
補欠とはいえ、仁王が大会をすっぽかすような真似したら、部員達が動揺するのは目に見えている。
柳の心配は最もだった。

「本人にきちんと確認しておくべきかもしれないな」
「いや、折角やる気になっているのだから」
そっとして置いた方が、と続けようとする真田を無視して、「仁王!ちょっと来てくれ!」と柳は声を上げてしまう。
「おい、人の話を」
「直接聞いた方が早い」

あてにならない話は必要ないというように、柳は走って来た仁王に顔を向ける。

(俺の話は信用無いってことか)
散々失敗している所為か、と真田は肩を落とした。

「何じゃ、柳」
「明日の県大会のことだが、来られるのか確認しておきたい」
「……」
ちらっと、仁王がこちらを見る。そしてきっぱりと顔を上げて告げる。
「これだけ練習を休んでいたから、俺は補欠になるんじゃろうな。でも、ちゃんと行くぜよ。
精一杯応援させてもらう」
「本当か?」
「ああ」
仁王の言葉に、真田は安堵の息を吐く。それと同時に美空舞子を見送らなくてもいいのかと、疑問に思った。
「仁王、その」
「なんじゃ」
「美空のことだが」

一言で察したようだ。仁王は笑って、「大丈夫じゃ」と答えた。

「舞子とは朝、会場に行く前に送り出してもらうことになっている。出発するのは舞子なのに、俺を見送りたいんだって、変だろ?
でも空港で別れようが、家の前だろうがどっちも俺達にとっては同じじゃ。
二度と会えないわけじゃない」
「……そうか」
「あ、そういえば、あの青学の一年生。舞子がよろしく言ってくれって。忙しくて挨拶する暇も無いから伝言になるけど。
真田、頼めるか?」
「わかった。俺から言っておこう」

確認も終わり、仁王は再び練習に戻って行く。
それを見届けてから、柳が「青学の一年とは何のことだ」と尋ねて来る。
「まさかまた手を貸してもらったとか、言うんじゃないだろうな」
「……」
「弦一郎」
更に追求する柳に「グラウンドを走って来る!」と真田は走って逃げ出した。

結局一人では何も出来なかった。
そんな情けない話を簡単に出来るかと、心の中で叫んだ。









「ちぇっ。仁王が戻ったってことは、結局空いたレギュラーも元通りってことか」
「大会前に復帰するなんて、俺らに対する嫌がらせとしか思えないよなあ」

練習の合間に聞こえて来た声に、丸井は顔を顰めた。

(仁王がいなくたってお前らがレギュラー入りなんて、有り得ないだろい。
まず陰口叩くの止めて、練習しろっての)

その熱意をテニスに向けてみろ、と心の中で呟く。
文句を言うのだけは一人前。常勝立海大と評価されても、志が低い者もいる。どうしようもないことだ。

「けど仁王の奴も、手の平返しやがってさ、ずるくねえ?」
「休んでいても真田にゴマ擦ればレギュラーの座は安泰だって思っているんだろ」
「あんなに反発してたくせにな。今更仲良しこよしなんて虫がいいっていうか」

ふう、と丸井は息を吐いて、彼らに気付かれないよう立ち去る。

今のは言い掛かりレベルの話だ。
仁王は決して、レギュラーの座が惜しくなったからって真田に媚を売ったりしない。
そういう奴だってことは、わかってる。

だけど。
(何で、俺に一言の相談も無いんだ?おかしいだろ)

休部する件だって、事前に何も聞かされてなかった。そのことに、丸井は腹を立てていた。
親友とまではいかないが、入部してからそれなりに仁王と仲良くして来たつもりだった。
なのに、ここ最近は上手く話せていない。
仁王が部活をサボりがちだったりした理由も教えてくれなかった。
何か悩んでいるのなら、話してくれてもいいのに。

それなのに出て来たと思ったら、真田とやけに親しげに話をしているとか。

何でも話してくれと言っているわけじゃない。そこまで仁王と踏み込んだ仲ではないのはわかっている。
だけど真田よりは近い距離にいたつもりだった。
それが、何だ。出て来たら、一番に話をしようとした相手が真田か。
納得出来ない。

(柳生も真田に話し掛けていたし、一体何だよ。
今まであいつに不満を持っていたんじゃねーのかよ)

誰もわかってくれそうにないな、とガムをくちゃくちゃと奥歯で噛む。
ジャッカルも切原も気にしていなさそだし、柳は常に中立の立場だ。

ストレスが溜まりそうだぜ、と髪を掻いて、ふと思い出す。

(そうだ。久し振りに幸村の所に行ってみよう)
いつでも穏やかに話を聞いてくれる幸村なら、きっと自分が望む言葉をくれるに違いない。
最近練習がきつくて、すっかり病院から足が遠退いていた。
幸村の顔を見に行こうと、勝手に練習後の予定を決める。
県大会前日なので、今日は早く帰れるはずだ。




いち早く着替えを終えた丸井は、部室を飛び出した。
万が一でも真田と鉢合わせしたら嫌だなと思ったが、またグラウンドを走っている姿を見て、
しばらく終わりそうにないなと悟った。
(この暑いのに、よくやるぜ……)
でも、これで真田が病院を訪れたとしても時間帯が被ることはないだろう。

駅前にあるケーキ屋で土産を買い、丸井は幸村のいる病院へと向かった。

(美味しいケーキを食べて、愚痴を聞いてもらって、そんで明日の大会をすっきりとした気持ちで迎えるんだ)

病室へ行く足取りも軽い。
到着したところで、ドアの前に立ってノックをする。
突然来たけれど、幸村は起きているだろうか?
いつも快く迎えてくれるから、心配はないだろうが……。

「どうぞ」
幸村の声にほっとして、丸井はドアを開けた。

「よう、元気かー?」
幸村はベッドの上で膝を丸めて座っている。こちらを見ることもなく、視線はテレビに向いている。
何を見ているのかと、丸井は好奇心からテレビに近付く。

「思いもんでも映っているのかよ?」
画面を覗き込んだところで、それがテニスの試合だと気付く。
今日って何か試合をやっていたっけと思いながらよくよく見てみると、そこに映っているのはプロではなく、子供の試合だった。
(ジュニアの試合が放送されてんのか?でもテレビ放送ってするもんだっけ?)
おかしいなと思ってもう一度よく見てみると、その選手が見知った人物だと理解する。

「幸村、これって、あいつの試合じゃ……。でも、なんで?」
「それ、録画したものを再生しているんだよ」

幸村はリモコンを手に取って、画面を消した。

「録画って、じゃあ、これはいつの試合のものなんだ?」
「去年の大会だよ。見てわかったと思うけど、アメリカで開催されたものなんだ」
「アメリカ?あいつは帰国子女だったのか?」
「そういうこと」

幸村が見ていた試合は、今より少し幼いリョーマと知らない誰かだった。
一年前にあんなごいプレーが出来る程の実力の持ち主なのか。
今はどの位成長しているのだろう。もしかして関東大会で青学と当たることになったら厄介かもな、と丸井は思った。

「幸村って、あいつとはいつからの知り合いになるんだ?この試合も直接観に行ったとか?」
「いや、違うよ。でもこの録画された試合を観たのが切っ掛けで知り合ったことになるね」

ふっ、と幸村が笑った。
夕陽が差し込み、光の加減の所為か、丸井にはそれがどこか暗い笑顔に映った。
気のせいだとわかっているけれど、何か思い詰めたような。

考え過ぎだ、と自分に言い聞かせる。

「ふーん。けど、仲良くなれて良かったじゃねえか。
あいつ、青学に通いながら、今まで見舞いに来てくれたんだろ?
友達思いなんだな」

もうこの話題は終わりにしようと考えていた。
ここでケーキを出して、一緒に食べてから帰ろう。
なんだか愚痴を言える雰囲気じゃない。幸村の様子が変だ。
とにかく話を逸らし、この場を取り繕うとケーキの箱を前に掲げる。

「これ、さ」
「友達か。やっぱりそう見えるのかな」

幸村の言葉に、「え?」と丸井は目を見開いた。

「でも俺は友達なんかじゃ、満足出来ないんだ。おかしいよね。
最初は知り合えただけで良かったのに、どんどん欲深くなっていく」
「なんの、話だ?」

これ以上聞きたくない。そう思っているのに勝手に言葉が出ていた。
幸村は顔を上げて、笑いながら言った。

「俺はあの子のこと、越前リョーマが好きなんだ。
勿論、友達としていう意味じゃない。わかるよね?」
「……」

丸井の返事が無くても、幸村は構わず続ける。

「でも彼は最近、真田と仲良くしているようなんだ
俺の知らない所で、二人で会って話をしている。それがたまらなく辛い。
なんだか、置いて行かれるような気がしてさ。
真田に悪気が無いのはわかっている。だって俺の気持ちを知っているからね。
あいつが裏切るような真似はしない。出来ないんだ。
そういう奴だってことは、よくわかっている」

足が動かない。
幸村の話を聞いて、丸井は手は知らず震えていた。

この病室に一人きりで、外に出るにもままならない状態。
それなのに自分の好きな人が、たとえ他意はなくても、別の人と親しくしていると知ったら。
どんな思いが幸村の胸の内で渦巻いているのだろう。
想像も出来なかった。


「わかっているくせに、俺は割り切ることが出来ないんだ。
こんな俺のことを、丸井はどう思う?」

聞かれても、答えることが出来ない。

幸村が笑っているのが余計怖くて、そして悲しくも見えた。


2010年06月11日(金) miracle 38  真田リョ

どうしてこんなことになったのかと、ボールを追い掛けながら仁王は思った。
リョーマの挑発に乗るもんかと無視して立ち去れば、こんなことにはならなかったはずだ。
普通なら、軽く流せたはず。
なのに、「逃げるんだ?」なんてリョーマが笑うから。
凹ませてやろうと思っていた相手が全く堪えることなく、しかも真田の気持ちをわかってやれという説教までされて、いい加減頭に来たのかもしれない。
だかが一年生が何を偉そうにしているんだ。
これでも常勝立海大付属のレギュラーの座にいたのだ。
いつも関東大会止まりの青学のレギュラーになった奴が調子に乗るところじゃない。
実力の差を思い知らせてやると、リョーマからの勝負を受けた。

どこか別のコートでやるもんだと思ったが、わくわくとした顔の不二に「良かったら、うちのコートを使って」と提案された。
呆気に取られている間に、不二がてきぱきと物事を進め、ほんとに青学のコートで打つことになった。
部長でもない不二がどうやって周りを説き伏せたのか。
苦い顔をしているが、手塚は文句を言うこともなく、仁王に「よろしく頼む」とまで言った。
見渡したところ、顧問の姿はない。融通が利いたのも、部員だけだからだろう。
皆が見ている中、仁王はネットを挟んでリョーマと向かい合った。

「1セットだけじゃぞ」
「いいよ。それより後で借り物のラケットだからとか、制服だからって言い訳は無しにしてくれる?」
「……」

ほんとに生意気な奴、と胸の内で毒づく。
ラケットは青学の部員の中から自分が使っているのと一番近いものを貸してもらった。着替えはしないので、制服のままだ。一年生相手に、軽く打つ程度だろうと仁王は思っていた。
さっさと決着をつけて、リョーマに実力の差を思い知らせてやる。もう二度と、生意気な口が叩けないほどに。
                        
だけど。


(なんじゃこいつは。本当に一年生か?この俺が走らされてる。しかもリードされとる?
今までどこにおったんじゃ。これまでの大会で名前なんか聞いたことなかった。無名でこんな、ありえん……)

苦戦してるのは仁王の方だった。
しかもリョーマはわざと引き延ばすようにボールを返している。
決して余裕があるというわけじゃないのに、すれすれの所で決め球を返さない。
仁王を走らせるだけのボールを打つだけだ。

(ふざけてるんか、こいつ……!)

自分がゲームを翻弄するのは構わないが、人にされると腹が立つ。
さっさと終わらせたいのに、ことごとくボールを返すリョーマにはもっとムカつく。
折角青学の部員が見ている前で恥を掻かせてやろうと思ったのに、それが出来ないのも悔しい。

(くそっ)

こんな子供に主導権を握られるなんて、あってはならないことなのに。
負けるなんて、冗談じゃない。リョーマにだけは、負けたくない。
どうにかして攻略するとリョーマの動きを読み、チャンスを伺う。

(俺がこんな一年に負けるなんてありえん。立海でレギュラーになる為どれだけ努力したか、どれだけ苦労したか。こんなところで負けるようなテニスを続けていたはずじゃない……!)

タイミングがずれたのか、少し浮いたボールを見逃さず、リョーマの立ち位置から届かない場所へと鋭く打つ。
「くっ……」
追いつこうとリョーマは走るが、間に合わない。ボールは後ろへと転がってようやっと仁王のポイントが決まった。


「結構、やるじゃん」
にやっと笑うリョーマに、「当然じゃ」と返す。
「でもまだやっと1ポイントだけどね」
「これから巻き返す。絶対にじゃ」

いつになく、気分が良かった。リョーマからポイントを奪えた、それだけじゃなく久し振りにテニスに夢中になっていたからだろう。

汗を拭い大きく息を吐く仁王に、「テニス、楽しいでしょ」とリョーマは言った。
「さっきのあんた、楽しそうに打っていたよ。本当はわかっているんじゃないの」
「何のことじゃ。それよりさっさと続きを」
「あ、もう終わりだから」
「終わり?でも1セットやるって」
「迎えが来たからね。俺の役目はここまで」
「迎え?」

リョーマが視線を移したその先に、こちらに向かって全速力で走って来る真田が見えた。
げ、と仁王は顔を引き攣らせる。
すっかり忘れていたが、真田がこっちに向かっていたのだった。その前に終わらせようと思っていたのに、ペースを崩された。まんまとリョーマの作戦に嵌ってしまった。

「真田さん、こっち!良かった、間に合った」
「越前!」
リョーマが手を上げて、ここに仁王がいると示す。
真っ直ぐに向って来る真田を見て、外に逃げ出そうとする。出入り口は一つしかないから無駄だとわかっても、それでも。

「いい加減にしろ、仁王!」
逃げ出そうとした仁王に、真田はスピードを上げて追い付く。
そしてあっさりと捕まってしまう。
「放せっ、真田。大体今は部活の時間じゃろう」
「黙れっ!学校をサボった奴に言われたくない。こんなに心配を掛けて、いい加減にしろ!」
大声で怒鳴られ、耳の奥がキンと痛んだ。
真田の顔は怒っているけれど、どこか泣きそうにも見えて、仁王はもがいていた手を止める。

さすがに、本気で心配されているとわかった。
あの真田が部活を休んでここに来た。それだけで十分非常事態だ。風邪を引いて熱を出しても、部活に出てた位なのに。

(こいつ、俺のこと嫌ってたんじゃないのか。不真面目な奴だって怒っていたのに。
必死になってこんな所まで来て……。調子狂うぜよ)

大人しくしていると、「真田さん、この人連れて行ってよ」とリョーマが声を掛けて来る。
「こっちも練習始めなくちゃいけないんで、そろそろ出てもらってもいいっすか?」
「ああ。すまなかった。色々迷惑を掛けた」
真田はリョーマに向かって深く頭を下げた。
「俺は構わないんだけど。どっちかというと、それは部長に言ってやって。
さっきから眉間に皺寄っちゃって戻らないんだ」
「……わかった」

真田は仁王ごと手塚のいる所へと向かう。
手塚は腕を組んだまま、じっと成り行きを見守っていた。青学も大会前だというのに、他校生との勝負を許すとは随分寛大な態度だ。

「うちの部員が大変迷惑を掛けた。すまない」
「いや、まあ、大会前にいい刺激になったから、そんなに恐縮することじゃない……」
後ろでは何やら不二が笑っている。
手塚は顔を強張らせたまま「だが、そろそろ帰ってもらえるか」となんだか泣きそうな顔して言った。

そして真田はリョーマに「また後で連絡する」と言って、仁王を引き摺って青学の外へと出た。


「もう放してくれんか。さすがに恥かしい」
ずっと腕をホールドしたままの真田にそう言うと、「だめだ」と却下される。
さっきからじろじろと見られて居心地悪い。
それだけなのに、真田は「手を放したら逃げるつもりだろう」と言う。
「もう、逃げたりしない」
「その保証はない。だからこうするしかないな」
「無茶苦茶じゃな……。部活をさぼって何してる。もう帰りんしゃい。これは俺だけの問題じゃろ」

真田が関わるようなことではない。
冷めた目で告げると「まだそんなこと言っているのか!」と耳元で怒鳴られる。
「俺だけの問題?ふざけるな!お前にとっては迷惑なだけかもしれないが、心配して何が悪い。
部活を休んだのは俺の意思だ。恩を着せるつもりはもない。
だから俺は自分のしたいように動く。お前の問題に積極的に関わらせてもらう」
「何を言って……」
「うるさい。さっさと歩け」

ほらっと、駅に向かって引っ張られる。
真田の背中を見ながら、こいつ人の意見とか全く聞く気が無いんだろうなと思う。

だが、「美空が、心配している」の言葉に、仁王は大きく目を見開いた。
「ここに来る前にお前を連れて帰ると約束した。だから無理にでも一緒に来てもらう」
「なんでそんな勝手な真似するんじゃ」

ますます舞子に合わせる顔が無いじゃないかと思った。
折角今までなんでもないような振りを続けて来たのに、今更どうしたら良いのか。
まるでわかってないと真田を睨むが、「行くぞ」とますます腕を引っ張られる。
「行くもなにも、俺はもう舞子と会うつもりはない。舞子にとっても、もう俺なんかどうでもええんじゃろ。
この先会うこともない幼馴染はもう用無しだと思って」
「本気で言っているのか!」
後頭部に痛みが走った。真田が空いている方で殴ったからだと気付く。
「何するんじゃ」
「こっちの台詞だ。美空の気持ちを少しでも考えてみろ。新しい環境に飛び込むことに不安がないわけがないだろう。それでもあえて普段通りに振舞っているのは、お前の為でもあるんだぞ。
弱音など吐いて心配を掛けまいとしているのが何故わからない。
自分ばかり置いて行かれるといじけて、逃げ回るつもりか。そんなの俺が許さん!」
「……舞子、が。そんな」

家族で行くのだから仕方無いねと、最初から受け入れるように見えた。
向こうで絵の勉強が出来ると楽しそうに語っていた。その気持ちに嘘は無いはずだ。
でも多少なりとも、不安はあったのだろう。ただ、仁王には見せなかっただけで。
慣れ親しんだ土地を離れて、家族以外に知り合いのいない所へ行く。寂しく思わないはずがない。
どうして、気付いてやれなかったのだろう。
しかも真田に指摘されるとは。不覚にも程がある。

「すまん……」
謝罪すると、「俺にではなく、美空に直接言うんだな」と真田は言った。
「さあ、行くぞ。美空が待ってる」
「ああ」

もう抵抗する気は無いとわかったのか、掴んでいた手が離れた。
そのまま駅に向かって、大人しく改札を通る真田の後に続く。

もし、リョーマが引き止めていなかったら、真田が迎えに来なかったら。
舞子と擦れ違ったまま、出発の日になって後で後悔することになったかもしれない。
結局、迷惑だ、お節介だと疎ましく思っていた彼らに助けられたことになった。

「何だ」
隣に座る真田の顔をじっと見ていたら、こちらを向いた。
「いや、なんでもないよ……」
こんな時、何て言ったら良いのだろう。
感謝の気持ちを伝えるには照れ臭くて、口篭ってしまう。

(今は、ちょっと無理じゃ)

言葉が見付からない。口に出す勇気もない。
もう少しだけ時間が必要だ。これまで本心を曝け出すことがほとんど無かった自分には難し過ぎる。
待っててくれ、と心の中で呟く。
真田もそれ以上蒸し返すことなく、沈黙したまま、二人は電車に揺られていた。


仁王の家に一番近い駅に到着し、一緒に降りる。
ここまででいいと真田に言っても、「美空のところまで送る」と言い張る。
もう逃げるつもりはないのだけど、真田にしたら連れて行くことが義務として考えているのだろう。
その気持ちを尊重して、好きにさせようと思った。

「舞子は、家で待っていると言ってたのか?」
「ああ。お前を連れて来たら知らせる段取りになって」
真田が言い終わるよる前に「雅治!」と名前を呼ばれる。
振り向かなくても誰の声かわかる。この数年、一緒に過ごして来た幼馴染のものだ。

「舞子……、ぐっ」
後ろを向いた瞬間、カウンターを食らった。
不意打ちだった所為で綺麗に拳が頬に減り込んだ。とはいえ、大した威力じゃない。
見上げると、左手を軽く振っている舞子が立っている。利き手を使わなかったのは、筆を持つ為に庇ったのか。こんな時も絵を描くことを考えているんだなと、感心してしまう。
「痛いじゃない」
「それはこっちの台詞じゃ」
「素手で殴るってこっちにもダメージあるから、カバンで殴ることにするわ」
「おい、舞子っ!?」
振り上げてくるカバンに、仁王は後退りする。それを見た真田も慌てて舞子の手を止めようと、間に入って来た。
「落ち着け、美空。折角見付かったんだから、先に話を」
「殴ってやらなきゃ気が済まないのよ。雅治、ちっともわかっていない。なんでテニスを辞めるなんて言うの。これまでの努力を全部無駄にするとか馬鹿じゃない!?ふざけんなっ!」
声を上げて、涙を滲ませる幼馴染を見て、仁王は項垂れた。
これだけ人を巻き込んで大騒ぎして心配掛けて、何がしたかったんだろう。
テニスを嫌いになったわけじゃないのに。
馬鹿と罵られるのは当然だ。

「私はどこに居たって絵を描くよ。誰にも認められなくても、見てもらえなくても、雅治がいなくたって続ける。
楽しくても、寂しくなっても、きっと描き続ける。なんで辞めなくちゃいけないの。
雅治だって、そうでしょ。私がいなくたってコートに立てるはずだよ。
わかってるくせに、人を言い訳にして逃げんな!」
「待った、待て、美空!」
再びカバンを振り上げようする舞子を落ち着かせるように、真田は必死で腕を掴んで止める。
「もう一回殴ってやらないと気がすまない!」
「止めとけ。もう充分だ。仁王もわかっているはずだ。そうだろ」
な?と目で問われ、仁王は小さく頷いた。

「心配掛けて、悪かった」
「もっと大きい声で言って」
ふん、と鼻から息を吐く舞子に、仕方無いと、すっと息を吸い込んで顔を上げる。
「俺が悪かった。舞子がいなくなるとわかって、どうしたらいいかわからなくなったんじゃ。何もかもやる気を失くして、それでもうテニスまで辞めようとしたのは、考え無しだったと反省してる」
「本当に、馬鹿なんだから」
知ってるけどね、と舞子は笑った。

「でも今からならまだ間に合う。そうだよね?真田君」
「え?」

真田に目を向けると、「絶対戻って来ると信じていた」と言って、胸のポケットから仁王が書いた退部届けを取り出す。
「これはもう、必要ないな」
ビリ、と勢い良く破ってしまう。これで無かったことにする、と言いたいのか。

「じゃが、俺はもう顔向け出来る立場じゃない……」
真田と柳にはっきり辞めると言ったのに、のこのこと戻れるはずがない。
無理、と首を振る仁王に、「それでも明日は部活に来い」と真田は言った。
「体調不良での休部ということにしてあるから、部室掃除一ヶ月で勘弁してやる。
来なかったら引退するまで掃除を続けさせるからな」
「滅茶苦茶じゃ」
「何とでも言えばいい。皆、待っているぞ」
「……」
「雅治」
舞子に名前を呼ばれて、仁王は頷いた。

「わかっちょるよ。明日は、部活に行く。これでいいか?」
「もう、素直に行くっていいなさいよ」
ぽかっと舞子に背中を殴られる。真田はそれを見て「いいから」と穏やかに笑った。
「俺も、待ってる」

そう言って真田は駅に引き返して行く。言いたいことは言った、という顔をしていた。
後は仁王の判断に任せるというのだろう。

「さ、私達も行こ。食事に行く前に着替えないと」
今度は舞子に腕を捉まれる。
「本当に行くのか?」
「何、その嫌そうな顔。幼馴染の旅立ちを素直に祝ってやってよ」
「祝えるか……寂しいとしか思えん」
素直に気持ちを伝えると、舞子は目を見張って、そして「私もそう思っているよ」と、言った。

「でも進んで行かなきゃいけないんだよ。
だから、行こ。私達がどんな方向に進んでも、幼馴染って絆は消えないよ。
10年経っても20年経っても、それは変わらない」
「そうか……」

慰めの言葉にも、やっぱり心の中にある寂しさは消えない。
しかし舞子の言う通り、進んでいくしかないのだ。
立ち止まっても寂しいままなら、少しでも前に進む方がずっといい。

「そうだ。食事会が終わったら、家に寄ってよ。雅治に渡したいものがあるんだ」
「なんじゃ、俺の絵か」
「何で知っているの?あっ、越前君から聞いたの!?もう、驚かそうと思ったのに」
失敗したなあと清々しい顔をする舞子に、仁王も笑顔を返す。


まだ見ていないけれど、きっと舞子らしい素敵な絵なんだろうと想像する。


‘そこには楽しそうにテニスしているあんたが描かれている’

ふと、リョーマに言われた言葉を思い出す。

(ああ、そうだな。忘れていたけど)

皮肉なことに文句を言ってやろうとした相手と打ち合ってテニスが楽しいものだって、
思い出したんだ。


2010年06月10日(木) miracle 37  真田リョ

元来た道を辿りながら、仁王はこの後どうするのかと考えた。
よりによって今日は舞子の家族と自分の家族とで引越し前に食事に行こうという話になっている。
行きたくない。もう舞子と顔を合わせたくなかった。
仲直りしたくないわけじゃないが、今日だけは舞子と顔を合わせたくない。

(それもこれも、あのチビが余計なことをしたせいじゃ……)

リョーマの所為だ、と仁王はそう思っていた。でなければ舞子があんなこと言い出すはずがない。
出発が決まってからは放っておかれがちだったのに、急にお節介を焼くような真似をするなんて、リョーマが色々吹き込んだからだ。
こっちは放っておいて欲しいのに。
舞子の前では別れなんて何でもないというふうに装って、見送りたかった。
引っ掻き回すような真似をしたリョーマを、許せないと思った。

今から青学に行って文句の一つでも言ってやろうか?
しかし他校生が紛れ込むには難しい時間だ。せめて放課後になるまではどこかで時間を潰す必要がある。
家は今、無人だ。放課後になるまで待機して、それから青学に向かうかと仁王は考える。
そうしようと、早足で歩き始めた。






「真田君。仁王君が休みのようですが」
「わかってる……」

休み時間にどういうことかとやって来た柳生に、真田は顔を引き攣らせて答えた。
なんとかしてみせると言った結果がこれだ。
文句を言われても仕方無い。

「しかも体調が悪いから練習を休むというのは、どうなっているんですか?県大会は明後日なんですよ!?」
「わかってる。その件は充分わかってる……」
「ならば何らかの対策案があるんですよね。聞かせてもらえますか」
「それは、」

無いとも言えず、真田は黙り込んだ。実際の所、こんな展開になると思わず、自分でも困っている。それを見透かしたように柳生は「もういいです」と溜息をついて、眼鏡をくいっと人差し指で上げる。
「仁王君のことはこちらで対処します。どうやら真田君んは荷が重過ぎたようですね」
「……」
「最初からそうするべきでした」

言いたいことだけ言って、柳生は席から離れて行った。
失望させてしまったんと、重く息を吐く。
解決するつもりだった。なのに、上手くいかない。
自分が不甲斐無いせいか。
また落ち込みそうになって、軽く首を振る。
出来ないからといって、諦めてしまうのは自分らしくない。
リョーマも言っていたじゃないか。
仁王が辞めるとは思えないと。
勘に過ぎないようなことを言っていたが、確証する何かを舞子から聞いたのかもしれない。
まだやれることはあるはずだ。

真田は一つの覚悟を決めた。
テニス部に入ってから練習を休んだ日はない。
誰よりも早く来て自主練習もして、遅くまでも残っていた。遅刻も早退だってしたことない。
しかし今日はそれを実行しようと思う。もっと大切なことを成し遂げる為に。
部活をサボるなんて考えただけで、身震いするような出来事だ。
挙動不審に思われないよう上手く外に出られるだろうか。

少しずれた心配しつつ、真田は仁王に会うことだけを考えていた。










青学の授業が終わる頃、仁王は校門前へと到着した。
リョーマに何か一言言わないと気が済まない。その思いが、ここまで動かしたのだ。
これ以上自分の周りをうろちょろするなと警告しなければ。
部活が始まる前に、リョーマを捕まえておきたいのだが、上手く行くだろうか。うるさそうな三年生達に見付からずに、ことを運びたい。

その辺を歩いている生徒にテニスコートの場所を聞いて、まずそちらに向かう。

どうせ相手は一年生だ。少しきつく言えば、大人しく引っ込むに違いないと仁王はそう思っていた。
部室の前で張っていると目立つから、少し離れた方がいいと移動しかけた所で、
「あれ、君はたしか立海の……」と早速、声を掛けられる。

振り向いて、仁王はそれが誰なのか確認する。
青学のNO.2.天才と名高い不二周助だ。さすがにその位のデータは把握している。

「たしか仁王、だっけ。こんな所で何しているの。偵察?」
意外そうな顔をする不二に、厄介なやつに見付かったかと身構える。
「あー、まあ、そんな感じじゃ」
リョーマに文句を言いに来たと言えるはずもなく、曖昧にごまかす。

しかし不二は仁王の顔をじっと見て、「へえー、君が?」と薄く笑う。見透かすような視線に、仁王は一瞬怯む。他人を怖いと思うなんて無かったことだが、この得体の知れない視線は、ここから退きたくなるほどの迫力がある。
さすが青学の天才だな、とそんなことを思う。

長く関わらない方が賢明だ。
立ち去ろうとしようとするが、不二の方が早かった。
腕を掴まれ、
「ひょっとして、越前に会いに来たとか?」なんて言われる。

「……」
「あれ、その顔、図星?」
仁王は冷や汗を掻いた。
こいつは人の心を読めるのか、と。
固まっていると「呼んで来てあげようか?」と、わくわくしたような顔で言われる。

「は?なんでじゃ。部活前に無駄話するなとか、追い払ったりしないんか」
「あいにく僕は好奇心を優先させる方なんでね。越前と会話をする条件として、僕がいる所でというのを付けさせてもらうけど」
「断ったら?」
「この先ずっと越前には近付けさせない」

にっこりと笑う不二に本気だと察する。
(不二のいるところで話をする、か……)
ここまで来て手ぶらで帰ってたまるかという気持ちはあった。忠告だけしてさっさと帰ればいい。
不二に聞かれて困るものでもない。

「わかった」と仁王は頷く。
「そう。じゃあ、ちょっと待ってて。越前連れて来るから」
どこかウキウキとした様子で不二は背を向けて走り出した。

一体あれは何なのだろうかと、仁王はその場で眉を寄せた。
面白がっているとしか思えない。先輩として、それはどうなのか。

(けど、俺には関係ないことじゃ……)
リョーマさえ連れてくれればそれでいい。さっさと話をつけて青学から出よう。

そして、どうしようか。
家に帰れば家族同士の食事会が待っている。それは行きたくない。
ならば、どこに行くというのだ。
訳を話せば柳生や丸井あたりは泊めてくれそうだが、退部(一応休部扱いだが)した身としては申し出るには図々過ぎる。
それにこんなくだらないこと、話せるわけがない。

どうしようか、と考えている途中でリョーマがこちらにやって来るのが見えた。












部室で着替えている途中。
不二に外に出て、と耳打ちされて、今度は何なんだとリョーマは思った。
しかし「立海の仁王が来てるよ」の言葉に大きく目を開く。
小さい声だったから、他の部員は気付いていない。
リョーマは慌ててシャツを羽織りなおし、不二に引っ張られるまま外に出た。

「こっちだよ」
さらに進もうとする不二に「ちょっと待ってください!」とストップを掛ける。
「先にメールしてもいいっすか?」
「誰に?」
「……」

にこっと、笑顔を向けられる。ぞわっとする感覚に、やっぱり得体の知れない人だと改めて思う。
大体、何故不二が呼びに来るのか。
騙されているんじゃないかという目を向けると、不二は笑顔を張り付けたまま口を開く。
「君が前から立海の誰かと親しいことは知っていたよ」
「え…?」
「説明は後。仁王が待っているから、メール打つなら早くしてね」
「はあ」

誰と親しいのか聞きたいところだが、今はそれ所じゃない。素早く真田宛に「今、青学に仁王さんが来ている」とだけ打った。
仁王が今日も部活をさぼったとしたら、舞子の説得は失敗に終わったということになるはずだ。
真田に知らせる必要があった。

「越前、ほら早く」
「あ、はいっ」
不二に連れられて、テニスコートの裏手に回る。
たしかに仁王がそこで立って待っていた。
こちらを見ている目に敵意が含まれているのを感じる。

「あの、俺に何か用っすか」
口を開くと、「お前さんに言っておきたいことがある」と仁王は目を細めて言った。
「俺に関わるな。舞子にまで余計なことを言って迷惑しとる。お節介もほどほどにしといてくれんか」
「お節介なのはわかっているけど……」

言いながらリョーマはすぐ側にいる不二をちらっと見る。
どうして去ってくれないのか。会話を聞くなんて悪趣味だと目で訴えても、堂々とした様子でそこに居る。
「ああ。僕のことは気にせず続けて。仁王との約束だからね。
僕の目の届く範囲で話をするっていう条件で君を連れて来た」
「俺の意思は無視っすか?」
「いいから続けなよ。一体君が何に関わっているか興味があるんだ」
「……」

最悪だ、と不二を睨み付ける。
しかし不二を相手にしている場合じゃない。今は仁王との話の方が先だ。
真田から連絡を貰うまで時間を稼いでおこうと考えた。

「俺だって余所の学校のことに口出しするべきじゃないってわかっている。
でも友達が困っているのをわかっていて、知らん顔なんて出来ない」
「友達、ね。真田のことか?」
「そうだよ。あんな真面目で不器用な人、放っておけない。
あんたは何とも思わないの?真田さんは本気で心配してるのに」
「真田が心配しとるのはテニス部に支障が出るからじゃろ」
「そんなこと、」

ない、と続けようとしたその時、リョーマの携帯が着信を知らせる。
少し迷って、表示を確認すると真田の名前がそこにあって、慌てて着信ボタンを押す。

「もしもし、真田さん?」
「メールを見た。仁王はそこにいるのか!?」
切羽詰った真田の声に、リョーマは「いるよ」とハッキリ答えた。

「どうして青学にいるんだ。じゃなくって、今からそっちに向かうから待ってろと伝えてくれ」
「え。でも真田さん、部活は?」
「今日は……自主的に休むことにした。仁王が学校に来ていないとわかって、これから自宅に向かうところだた。しかしまさか青学に行っていたとは。とにかくすぐにそっちに行く」
「あ、ちょっと」

いきなり通話が切れた。

待ってろと正直に仁王に伝えていいものか。逃げられたら責任重大だ。
そんな思いから口を開けずにいると、
「今の、真田からでしょ」と不二がまた余計なことを言う。

「不二先輩、今はちょっと黙ってて欲しいんだけど」
「なんで?仁王を迎えに来るって話なんでしょ。本人に伝えなくちゃ」
「だから、それは」

やり取りを聞いていた仁王が目を丸くする。

「真田がここに来る?そんなはずはない。県大会直前の練習をさぼって、俺なんかを迎えに来るものか」

仁王の言い方に、リョーマはムッと顔を顰める。
大会前とかそんなの関係なく、仁王のことを心配して探している真田の気持ちがわからないのか。

「来るって言っていたよ?あんた、今日学校さぼったんだってね。
それで居ても立ってもいられなくなって、家に行こうとしていたみたい。
いい加減理解したら?あの人、本気であんたのこと考えているのに……。
大体、テニス辞めようとしているなんて変だ。本当はすごく好きなんだろ」
「お前に何がわかる」

鼻で笑う仁王に、「わかるよ」とリョーマは答えた。

「テニスしている所を見たわけじゃないけどさ。美空さんの絵を見ればわかる」
「舞子の?」
「うん」

リョーマは頷いた。
舞子の部屋に置かれていた描き掛けのキャンバス。帰る前に、「もうすぐ完成するんだ」と見せてくれたあの絵。

「美空さんは引越しする前にあんたに渡したいって、ずっと頑張って絵を描いていた。
そこには楽しそうにテニスしているあんたが描かれている。
遠く離れたって、自分は絵を、あんたはテニスを、別々の夢を追い続ける気持ちは変わらないって信じているんだって教えてくれた」
「……舞子が」

そんなこと一言も聞かされていない。
でもきっと驚かそうと思って、内緒で描いていたのだろう。
ここ最近、舞子の帰りが遅いのも夜ずっと電気がついていたのも中々部屋に入れてくれなかった理由が繋がる。

「ねえ。あんたは本当にテニスが嫌になったんすか?」
リョーマは仁王に近付いて、顔を覗きこんだ。

「本当は違うんでしょ?あんたはテニスをするのを心から楽しんでるはず」
「いや、俺は」
「それでもまだ否定するのならさ」


トン、と仁王の胸を叩いて、リョーマは挑発的に笑ってみせた。

「最後に、俺と勝負してみない?」


2010年06月09日(水) miracle 36  真田リョ

カーテンを開けて、仁王は隣の家の窓を確認した。
向こうは既に開かれている。
もう舞子は学校に行ったのだろうか。
引越し前に私物を持ち帰ったりと、色々準備が大変なのはわかっている。
昨日も遅くまで電気が点いていた。
結局、学校であの越前とかいう他校生に絡まれたのを振り切った後はぶらぶらと彷徨って時間を潰していた。
家に帰った途端、舞子から何故部活を休んだのかと追求されるのを恐れたからだ。
しかし意外にも家に押し掛けて来ることも、携帯にも連絡は無かった。
もう、舞子は自分に興味は無いのだろうか。
引っ越した後のことで頭がいっぱいなのかもしれない。
大切な幼馴染が遠くへ行くことに寂しさを覚えているのは、自分だけのようだ。
だったら尚更そんな気持ちを口に出せるはずがなく、こうして一人で不安を抱えているだけだ。

学校に行くか、と仁王は部屋から出た。
気が進まないが、仕方無い。部活は出なくていいのだから、後は授業さえこなしていけばいい。
舞子がいなくなるというのは覆せない事実で、それに慣れていかなければならない。
いないのが、当たり前になる。半年後にはすっかりそれが普通の日常になっているんだと言い聞かせて、階段を降りて行く。

出掛ける前に水でも飲もうとキッチンへ向かうと、
「おはよう」と母親に声を掛けられる。出勤前なので、もうスーツ姿だ。
「今日は随分とのんびりしてるけど、朝練はどうしたの?」
「あー、今日は休みじゃ」
「そう。私はもう行くから、鍵掛けておいてよ」
「へーい」
バタバタと母親は慌しく玄関から出て行った。
父親も姉も出る時間は早いので、もういない。自分も朝練が会ったのなら、彼らと同じ時間に出るのだけれど、もう早起きする必要はない。
これからはゆっくり眠れると呟いても、どこか虚しい。
テニスを続けてもそうじゃなくても空っぽな気もちには変わりない。

つまらんのう、と軽く首を振った所で、玄関のチャイムが鳴った
こんな朝から誰だと玄関に近付くと、「雅治、いるんでしょー?」とでかい声が響く。

「舞子?」
慌ててドアを開けると、「おはよー」と笑顔を浮かべた舞子が制服姿で立っていた。

「一緒に学校へ行こうと思って、誘いに来た」
「……」
「何?他の誰かと待ち合わせでもしてる?」
「そういうわけじゃ」
「ならいいじゃない。行こうよ」

どういうつもりなのかわからないが、このままはぐらかせる相手ではない。
小学生の頃からずっと一緒居た幼馴染だ。
追い払ってもきっと仁王が出て来るまで家の前で待っている。
そうさせるのも気が引けて、「わかった」と仁王は頷いた。

「けどまだ終わっとらんから、上がって待っててくれんか」
「いいよ」
互いの家を行き来している仲なので、舞子にも遠慮はない。
おかげで二人は付き合っているんだなんだの噂されたりしたが、そういう関係じゃないことは二人共わかっている。
男女とかそいうのは関係ない居心地の良さがあるのだ。
なのに、それももうすぐ失われようとしている。
考えても仕方無いが、やり切れない。

ソファに座って勝手にテレビを見ている舞子を横目で見てから、歯磨きする為に洗面所に向かう。
髪をセットし、ネクタイを結んだ所で、「準備出来た?」と舞子が声を掛けて来る。
「ああ。行くか」
「うん」
「テレビは」
「消した」

二人で玄関から外に出る。
そういえば小学生の頃も、舞子が毎日こんな風に迎えに来てくれたことがあった。
こちらに転校して馴染めない自分の為に、舞子は毎朝欠かさず呼びに来てくれた。隣なんだから仲良くしないとね、と子供心にそう思い込んで仁王の為になんとかしようと思ったのだろう。
学校でも何かと親切に接してくれた。そのおかげで、学校を休もうとは考えなかった。
自分が出て行くまで舞子がそこで待っているかと思うと、馴染めない土地に尻込みしている場合じゃないと学校に行く気になった。

一緒に歩きながら、「こうして登校するのは久し振りじゃな」と仁王は言った。
「うん。雅治が朝練始まってからはずっと擦れ違いだったからね。小学生の時は毎日一緒だったのになあ」
「……」
「本当なら今日も朝練あったんでしょ?大会前に一体何やってるの」

やっぱり説教か、と仁王は思った。
大方、昨日のチビが舞子に何か言ったんだろう。
リョーマは幸村と親しい。事情はいくらでも聞き出せる。
あのお節介野郎と、内心で溜息をつく。

「誤解ないよう言っておくが、俺がテニス辞めることと舞子が引っ越すことは関係ない」
「へえ。本当に辞めるつもりなんだ?」
舞子は怒ったように言った。
「そんなの間違っているから。雅治は何から逃げようとしてるの?
なんで辞めるなんて言ったの。あんなにテニスが好きなのに、信じられない」
「……うるさいのう」

思わず、本音が漏れた。
今までずっと放置していたくせに、急に構うような真似するなと反発したくなる。
それを切っ掛けに、言葉が次々と零れてしま。

「お前に俺の何がわかる」
「雅治……」
「俺がテニスを続けようが辞めようが舞子には関係ないじゃろ。もうすぐいなくなるくせに、偉そうなこと言うな。
どうせ俺を置いて行くんあら、最後まで放ってくれたらええんじゃ」
「……」

ショックを受けたように立ち尽くす舞子を見て、瞬時に後悔する。

やってしまった。
ずっと仲良しでいていた幼馴染を傷付けた。
わかっているけど、謝罪の言葉が出て来ない。
さっきのは本心でもある。いなくなるくせに、テニスを辞めるな、なんてそんなこと言う権利、舞子にはない。
なのにわかったような顔をして、説教して欲しくなかったのだ。

「そう、わかった。変なこと言って、ごめん」

泣きそうな顔をして、舞子は仁王を置いて走り出す。
後を追えば簡単に捕まえることは出来る。自分の方が足は速い。
わかっていても、追わない。

このまま別れてしまったら後悔するのはわかってるけど、もうどうしようもなく心の中がぐちゃぐtになって、その場から動くことが出来なかった。

















朝練がもうすぐ終わるという頃、真田は柳かr「弦一郎、ちょっといいか」と呼ばれた。

「どうした」
「あそこ。仁王の幼馴染がいる」
「何?」

コートの外をウロウロしている舞子の姿を見付け、真田は目を見開いた。
「仁王を探しているのだろうか?休みだというのを、彼女は知らないのか?」
「い、いや。ちょっと聞いてくる」
「弦一郎?」

柳の声を無視して、真田は舞子の元へと掛け付けた。

「どうかしたのか」
真田の顔を見て、舞子は焦ったような声を出す。
「さ、真田君。あの、ちょっと話いいかな?」
「ああ」
こちらを見る部員達の目があったので、真田はコートから離れた場所へ舞子を誘導した。


そして人目がなくなった所で、「ごめんなさい!」と、舞子がいきなり頭を下げる。
面食らう真田に、「失敗しちゃったみたい」と説明をする。
「今朝、雅治と一緒に登校して話をしたんだけど、あんな風に思っているなんて知らなくって偉そうなこと言っちゃった。
どうしよう。あいつ、本気でテニスを辞めるかもしれない」
取り乱す舞子を前に、真田はオロオロしつつ「どういうことだ?」と尋ねた。
「説得してみたんだけど、急に怒って私に何がわかるかって言われた。本気で怒ってるみたい。
任せてなんて言っておいて、余計まずいことになったみたい。どうしよう……」

涙目で言われてもこっちこそ、どうすれば良いのかわからない。

ふと頭に浮かんだのは、リョーマの顔だ。

こんな時彼ならどうするのだろう。
すっかりリョーマに頼り切っている自分に気付き、これではいけないと心の中で叱咤する。

「とにかく仁王には俺からも話をしよう。学校には来ているのだな?」
「多分……」
「わかった。休み時間にでも仁王の教室を訪ねてみる」
「うん、お願い」

頼まれてみたものの、何の案も思いつかない。
しかし行動するしかない。
いつまでもリョーマを頼りにすることは出来ないのだから。

とはいえ上手く話せる自信などあるはずもなく、
期待に満ちた目を向けてくる舞子からそっと視線を外した。


2010年06月08日(火) miracle 35  真田リョ

リョーマがこちらに向かっているとわかったせいか、真田はどこか落ち着かない気分で放課後の練習をこなしていた。

仁王の姿は勿論ない。
今日は休みと告げたものの、いつまで誤魔化せるだろう。
退部届けを出したと知られたら、ほれみたことかと真田に反発している部員から攻撃されるのは目に見えている。
いくら仁王が自分の意思で退部すると言っても、原因は自分にあると責め立てられるに違いない。
そう考えると、憂鬱になる。

だけど、それだけではない。
仁王は本当にテニスを辞めたいのか。
そんなわけない、と真田は思っている。
ペテン師と呼ばれる仁王のテニスは対戦相手を霍乱し、自分のペースに持ち込んでゲームを支配そる。それを楽しんでいるように見えた。
少なくとも惰性で続けていたわけじゃない。そんな奴が辛い練習を続けていられるはずがない。
退部届けを出したのは、何かの間違いと真田は今でもそう信じている。
幼馴染との別れがそれ程ショックだったのかどうかはわからないが、
今は少しテニスする気持ちに向かうことが出来ないだけだ。

何か良い手立てはないものか。
仁王がコートに戻って来られるような良い方法……は、残念ながら思い付かない。

情けないが相談に乗ってくれるリョーマが何か言ってくれるのを期待している。
不思議と彼の言葉は信じられる。
いつの間にかこんなにも信頼してしまっている自分に驚いてしまう。
知り合ってそう長い時間を共に過ごしているわけでもないのに、真田の中ではもう掛け替えの無い友人として位置している。
リョーマが力になってくれるのなら、なんとかなるという気持ちにさえなる。

(そろそろ越前が到着する頃か……)

携帯に連絡が入っているかもしれない。
メールが届いているのに気付き開いてみて、声を上げそうになる。

「どうした、弦一郎」
「なんでもない。それより先に帰ってもいいか?用事が出来た」
「そうか。鍵は俺が掛けておこう」
「頼む」

柳に後を任せて、急いで部室から出る。
ネクタイを緩く首に巻いた真田らしからぬ格好で、ダッシュする。
普段ならたるんどるときちんと結び直す所だが、今は構っていられない。

(全く、あいつはどうして勝手な行動を取るんだ……!?)

‘仁王さんの幼馴染って人に会って、今から話をする所。
後でまた連絡するkら待ち合わせに少し遅れると思う’

リョーマからのメールに何故自分のことを待っててくれなかったのかと呟く。

事態が悪化したらどうするんだ。
だけどもう一方で、もしかしたらこれが良い方向へ行く突破口になるかもしれないと期待している。
リョーマがすることに間違いなんかない、と思っているのも事実で。
ああ、どれだけ彼のことを信頼しているんだろうなと自分に呆れてしまう位だ。

勢い良く校門を飛び出したのは良いが、仁王の幼馴染とどこに行ったのかまではわからない。
携帯に掛けてみるかと、ポケットから取り出す。
同時に、着信を知らせる振動音が響く。
表示を見るとリョーマからだ。まるでこちらの気持ちが伝わってきたかのように掛けて来たようだ。
迷わず真田は通話ボタンを押す。

「越前か。今どこにいる?」
「あ、真田さん?部活終わったんだ」
あっけらかんとしたものの言い方に、一瞬拍子抜けしてしまう。
しかしすぐに気を取り直し、「今、どこにいる」と尋ねる。

「学校に向かっている所。美空さんに送ってもらっているんだけど、どっか途中で待ち合わせ出来ないかな」
まだ仁王の幼馴染と一緒ということらしい。
「わかった。何か目印になる場所はないか?そこまで行こう」
「目印……。あ、ちょうど公園がある。ちょっと小さいけど」
場所と特徴から、真田はそれがどこにあるかすぐに見当がついた。
「わかった。そこで待ってろ。すぐに向かう」

急いで公園へと走る。
部活の後で体力はかなり消耗していたが、そんなこと言っていられない。
走って目的地に向かって、リョーマの姿を探す。

「真田さん、こっち!」
「あ……」
先に見付けられて、名前を呼ばれてしまう。
声がした方に視線を向けると、仁王の幼馴染の美空舞子とリョーマが一緒にベンチに座っているのが見えた。

「早かったっすね」
「ああ、急いで来たからな」
「真田君」
舞子は立ち上がって、真田に小さく会釈をした。

「雅治が色々心配掛けているんだってね。私の方からも話、するから。
だからあいつのこと見放さないで欲しいんだ。
中々素直に感情を出すようなやつじゃないから、真田君みたいな友達が必要なんだと思う。
迷惑掛けるけど、雅治のこと頼みたいんだ」

舞子の真剣な目に、真田はわかったというように頷いた。

「俺も仁王が本心でテニスを辞めると言ったとは思っていない。
だが説得がどうにも上手くいかなくて困っている」
「テニス辞めるって言ったの!?本当に?」
「あ、ああ……」
「ったく。何言っているんだか」

溜息をついた後、「説得は任せて」と舞子は言った。

「雅治がテニスを辞めるなんて無いから。今までテニスを楽しんでいたのはよーくわかってる。
だから、少し待っててもらえるかな?」
「ああ」

にこっと笑って舞子は座ったままのリョーマに「今日はありがとね」と言った。
「越前君と話が出来て良かった。また何かあったらよろしくね」
「俺としてはこれで終わってくれるのがいいんだけど」
「うん、そうだね」
「あと、絵の完成も頑張って」
「わかってる。越前君も大会あるんでしょ。頑張って」
「っす」
「じゃあ、私、行くね」

バイバイと手を振って公園を出て行く舞子を見送ってから、
「絵とは何のことだ?」と真田はリョーマに尋ねた。

「ああ。あの人、美術部なんだって。日本を発つ前に仁王さんに贈りたい絵があって、今までそれに掛かり切りだったって言ってた。
もうすぐ完成するみたいだけど」
「そんな話までしたのか」

二人は初対面だったよな?と首を傾げると、
「俺も色々とあの人に話したから」と言われる。
「そうしないと解決出来ない気がしてさ。真田から聞いた話を喋った。
勝手な判断で動いてごめん」
「あ、いや。それは良いのだが、お前ばかりに負担を掛けて申し訳なくて」

たった一日で舞子と接触し、話を付けて来たリョーマと、ここ数日何をやっていたんだと言いたくなる自分の行動をと比較すると情けないやら、恥かしいやら。

「負担?別に大したことないけど」
何てことの無いようにリョーマは言う。
しかも「これで解決しそうだね」と笑顔まで浮かべる。
誰かの為に行動することを負担に思わないのか、と驚かされる。

「やっぱり仁王さんって、美空さんがいなくなるのが寂しいと思う。
居心地の良い家に、気を使わないでいられる幼馴染。失うのが怖いって、少しわかる気がする。
けどずっとこのままってわけにいかない。乗り越えてもらわないと」
「そうだな……」
「テニスを辞めるなんて言ったのには驚いたけど、一時の気の迷いじゃないっすか。
信じて待っててあげて」
「何故、断言出来る?」

自信ありげなリョーマの顔に、真田はその理由を問い掛けた。

「美空さんの絵を見たから」
「絵を?」
「うん」
頷いて、リョーマは言った。

「あれを見たら仁王さんがテニスを辞めるなんて到底思えない。
だから大丈夫」
そう言われても、よくわからない。
だけどリョーマの顔付きに何故か信じられるような気がして、
「わかった」と真田は頷いた。


2010年06月07日(月) miracle 34  真田リョ

その日、リョーマは部活が終わるや否や適当に片づけを切り上げて急いで立海へと向かった。
単なる予感に過ぎないが、早い所問題を解決した方がいい。
その思いが、足を急かしていた。

(それに大会が始まったら、忙しくて相談に乗れるかどうかもわからない……)

離れている分、すぐに会うというわけにもいかない。
その間に何かあったら、真田一人では対処出来ないだろう。
明日はちゃんと片付けするからと心の中で言い訳して立海へと急ぐ。

何とか道に迷わず辿り着き、今度はテニスコートを探そうときょろきょろしていたその時、
見覚えのある人物が歩いて来るのが見えた。


「あの……仁王さん?」

リョーマの声に仁王は顔を上げる。

「なんじゃ。またお前さんか。何しに来た?」
「真田さんに会いに来たんだけど、部活は?もう終わったんすか?」

昨日聞いた練習時間より、まだ少し早い。今日はたまたま早く終わったのだろうか。
すると仁王は「まだじゃ」と短く返事をして、リョーマの横を通り過ぎようとする。
「ちょっと待ってよ!まだってことなら、あんたはなんでここに居るんだよ」
「うるさいのう」
鬱陶しそうに仁王は顔を顰める。
「俺が何をしようと関係ないじゃろ。それとも何か。真田や幸村に頼まれでもしたんか。
どっちにしろ大きなお世話じゃ」
言われて、リョーマはムッとして言い返した。
「頼まれたわけじゃない。けどあんたのことを心配してる人がいるから、わかって欲しくて」
「それが余計なことなんじゃ。大体もう俺はテニス部とは関係ない」
「関係ない?どういうこと?」

思わず仁王の腕を掴むと、「触るな」と手を払いのけられてしまう。

そこへ「雅治!?無いやってんの!}と立海の制服を着た女子生徒が走って来る。

「舞子……。部活はどうしたんじゃ?」
「今日はもう終わった。それより他校生の子相手に何してるの?見た所、一年生じゃないの」
舞子、と呼ばれた女子生徒の言葉に、仁王はバツの悪そうな顔をする。
「そいつから絡んで来たんじゃ」
「え?」
「用事があるから、俺はもう帰る」
「ちょっと、雅治!」
「じゃあな」

走って仁王は外へと出てしまう。
一瞬の出来事に対応が遅れて、リョーマも引き止めることが出来なかった。

「逃げられたか」
小さく溜息をついてから、舞子がリョーマの方へと向いた。
「君、どこの学校の子?雅治の知り合いなの?」
「あ、いや俺は……」
どう言い訳しようかと考えたところで、ふっと気付く。
この女子生徒が仁王の幼馴染なのではないか。
もしそうなら、話をする必要がある。
そう思って、口を開く。

「あの、俺は青学の一年生で越前って言います。
仁王さんとは友達じゃないけど顔見知りというか、色々訳があって事情を知ってるというか」
「どういうこと?」
「その前に質問したいんだけど、もうすぐ海外に行くっていう幼馴染って、あんたのこと?」
「そう、だけど。なんで君が知ってるの?」

驚く舞子に、リョーマはやっぱりなと頷く。

「実は仁王さんのことで、俺はある人から相談を受けてて。
その悩みを解決するのに、どうしてもあんたの力が必要なんだ」
「ちょ、ちょっと待って」
ストップ、と舞子が両手を軽く上げた。
「いきなり言われても何がなんだかわからない。
一体誰から雅治の相談を受けたって言うの?」
「それは……」
少し迷ったが、リョーマは答えることにした。
隠していたって問題は解決しない。ならばいっその舞子に話した方がいいと考える。

「テニス部の、真田さん」
「真田君が?彼とも知り合いなの?」
「そうっす。元々は幸村さんとの繋がりで友達になったんだけど」
「幸村君とも?じゃあ、もしかして雅治のことで相談したいことって、テニス部絡み?」
こくっと頷くと、舞子は「そっか」と頷く。

「ここじゃなんだから、場所を移動しない?」
「いいけど」
「そういえば私、まだ名乗ってなかったね。
美空舞子、立海の三年生。もうすぐ引越ししちゃうけど」
「はあ……」
「さ、行こっ」
舞子に促される形でリョーマは後に続いて歩いた。
真田にはメールで連絡を入れておこうと考える。
どうせまだ部活の時間だ。
それよりも舞子と話をする方が解決に繋がるヒントを得られる。
上手く行ったら、真田は悩みから解放される。

(早く、そうなるといいけど)
責任ある立場に置かれた真田のことを、リョーマは少し気の毒に思っていた。







「ここが私の家」
しばらく歩いて、舞子はある家の前で立ち止まった。
てっきりファーストフードとか、適当な店で話をすると考えていたが違ったようだ。
「で、隣が雅治の家」
「へえ。本当に近所なんすね」
ふーん、と返事するリョーマに「そうよ」と舞子は笑った。
「さ、入って。引越しの準備で散らかっているけどお茶くらいは出せるから」
「でも」
初対面の人をホイホイ家に上げていいのか?
戸惑うリョーマに「平気平気。雅治の話をちゃんと聞きたいから」と舞子はリョーマの背中を押す。
無理矢理という形で、玄関に入れられる。
ここまで来たのなら仕方無い。
覚悟を決めて、リョーマは靴を脱いだ。

「ただいまー!」
「……お邪魔します」

二人が声を出すと、「あら、舞子。今日は早かったのね。……そちらは?」と母親らしき人が出て来た。
「この子は越前君。雅治の友達。折角訪ねて来たのに留守みたいだから、困っていたんだ。
雅治が帰って来るまでうちで待っててもらってもいいでしょ?」
すると母親は「いいけど、こんな散らかっているのに」と苦笑する。
「舞子、あなたの部屋もまだ片付け終わっていないじゃない。もうすぐだって言うのに。
越前君、こんな所だけどゆっくりしていってね」
「はあ……」
「お母さん、ジュースかなんかはない?」
「冷蔵庫にオレンジとグレープフルーツのジュースならあるけど」
「越前君、どっちがいい?」
舞子の質問に、リョーマは「オレンジかな」と返事する。
「用意するから、先に私の部屋へ行ってて。二階の右側だから」
バタバタとキッチンに向かう舞子に、「こら、お客さんの前でもう少し静かに歩きなさい」と母親が注意する。
「騒々しくてごめんなさいね。何もお構い出来ないけど、ゆっくりしていって」
「はあ……」

軽く会釈すると、母親は舞子の後を追って行く。それを見送ってから、リョーマは言われた部屋へと向かった。
どちらも初対面だというのに、やけにフレンドリーな親子だ。
毒気を抜かれた感じになった。

「お邪魔し、ます……」

本人不在なのに女の子の部屋に入るのは少々気が引ける。
しかし廊下で待っていたら舞子に何か言われそうなので、ゆっくりとドアを開ける。
すると流れてきた匂いに、リョーマは顔を顰めた。
どこかで嗅いだような、そうだ美術室と同じなんだと気付いた。
部屋にはいくつかの段ボール箱が積まれ、隅っこに布で覆われたキャンバスがある。
何の絵を描いているのだろうか?
勝手に見るのは悪いので、じっと布を見詰めていると、
「お待たせー」と舞子がトレイを持ってやって来た。

「本当に散らかっているでしょ?いざとなると色んな物が出て来て中々片づけが進まなくってさ。
空いている所に座ってくれる?椅子が無いからクッションでいいかな」
クッションを渡され、リョーマはそれを床に置いて座った。

「はい、オレンジジュース」
「どうも、っす」

トレイを勧められ、リョーマはストローが差してあるグラスを手に取った。
一口飲むと、程好い甘さと酸味が広がっていく。渇いた喉が潤され、一息ついた気分だ。
そこでやっと話をしようという気持ちになった。

「美空さんって」
「ん?」
「誰に対してもこんな感じなんすか?俺達は今日初めて会ったのに、家に上げるとか……。
俺の方が驚かされたんだけど」
「でも越前君は雅治の知り合いなんだから、初対面とはちょっと違うよ」
「そう、じゃなくて」

何?というように首を傾げる舞子に、リョーマは溜息をつく。
舞子の母親との会話を聞いててなんとなく思ったのだが、人を疑ったりすることはしないのか。
善意と親しみを持って相手に接する、それが自然に出来る人なのだろう。
良い人なんだよね……、とリョーマは舞子のことをそんな風に分析して、話題を変えることにした。

「あー、仁王さんってこの家によく来るんすか?」
舞子は「うん」と即答sた。
「小学生の頃からお互いの家を行き来しているから、それが当たり前になってる。
私が絵を描いている横で、雅治が宿題やったりゲームやったりと、一緒にいても会話が無い時もあるけどね。それも普通なんだ」
「ふーん」
「今の話、相談の内容に何か関係ある?」
問われて、「そう、かも」とリョーマは頷いた。

「俺の口から言うべきことじゃないかもしれない。
でも仁王さんが今の状態になって困っている人がいるんだ。俺はその悩みを解決してあげたい。
だらら美空さんにも手を貸して欲しい」
「わかった。まず、最初から聞かせて」

背筋を伸ばして座り直す舞子に、リョーマはこれまで真田から聞いた出来事を説明する。
今の仁王をどうにかする為には、この幼馴染の助力がどうしても必要だと判断したからだ。


2010年06月06日(日) miracle 33  真田リョ

「仁王さん……?」

思いの外早く出て来た仁王の姿に、リョーマはベンチから立ち上がった。
まさか。話もしないで出て来たのだろうか。
そんな気持ちが伝わったのか、仁王はこちらを向いて「もう終わったぜよ」と言った。

「ちゃんと話もしてきた。だからもうお前は幸村の所に行きんしゃい」
「でも」
「俺はもう帰る」

片手を上げて仁王はエレベーターのある方へと歩いて行く。
一瞬追い掛けようかと思ったが、思い止まった。
引き止めても、自分には何も話してくれないだろう。
今は幸村の所へ行った方がいい。
何かわかるかもしれない。


ノックするとすぐに「どうぞ」と幸村の声が聞こえた。
ドアを開けると、柔和な笑みを浮かべた幸村と目が合う。
そして幸村はベッドから降りて、小型の冷蔵庫からジュースを取り出した。

「何か飲む?君が来た時の為に色々用意しておいたんだけど」
「じゃあ、ファンタ……、ってそうじゃなくて」
「どうしたの?」
「今ここに仁王さんが来たと思うんだけど」

幸村は笑顔のまま「ハイ」とファンタを手渡しして来た。
それを受け取りながらも、誤魔化されないぞというようにじっと幸村の顔を見詰める。

「うん、わかってる。仁王から君が来てることを教えてもらったからね。
それで、何?」
「仁王さんは、相談事があってここに来たと思うんだ。
この間も、お見舞いの帰りにすぐそこの駅で見掛けたから……。
幸村さんにだけ伝えたいことがあったんじゃないかって」
「仁王のこと、心配してくれているんだ?」

不思議そうに言う幸村に、「まあ、ね」と曖昧に頷く。

「幸村さんにも真田さんにも無関係なことじゃないでしょ。
だからちょっと気に掛かるっていうのかな」
「君は優しいね」

それはからかっているような言い方ではなく、どこか溜息交じりに聞こえた。
余所の学校の問題に首を突っ込むことを呆れている?
そう思ってリョーマが顔を上げると、「大丈夫」と幸村は言った。

「仁王とちゃんと話したよ。具体的な内容は言えないけど、解決はした。
あいつももう吹っ切れたんじゃないかな」
「そう、っすか」

腑に落ちないが、この場で幸村を疑うことは出来ない。
もしかしたら仁王も本当の悩みを隠して、別の話をして誤魔化したかもしれない。
何が本当なのかは、リョーマにはわからない。

「ところでもうすぐ都大会なんだろう?調子はどう?」
「あ、うん。毎日頑張ってる……」

話題を変えられ、仕方なく仁王のことを聞くのは諦めた。
ここで考えてもしょうがない。
後で真田に電話をして、今日の出来事を言おうと決める。
幸村にぴったりと張り付かれたままベッドに腰掛け、会話している間もリョーマはどう話したものかなと考えていた。










その夜。
真田は未だに仁王と上手く会話出来ないことに悶々として悩んでいた。
県大会をこんな調子で乗り切ることが出来るのだろうか。
しかし仁王の実力を考えると、メンタル面で不安というだけでレギュラーから外すわけにはいかない。
そんなことをしたらまた他の部員達から反発されるだろう。
困ったなと悩んでいると、携帯が着信を知らせた。
表示されたリョーマの名前に急いで出ると、「越前っす。今、いいっすか?」と声変わり前のあどけない声が聞こえて来た。

「ああ。話しをしても大丈夫だ」
「そうっすか。良かった」
「何か、あったのか?」
「それが、今日のことなんだけど」

リョーマの話を聞いて、真田は少なからず驚いた。
仁王はやはり幸村だけに相談をしたかったのか。
自分では頼りにならないと判断されたも同然だ。
がっかりしつつも、「では幸村と話をしたのなら、解決したのだろう」とリョーマに返事をした。
こんなことで不満を持つなんて、リョーマに狭量だと思われたくないからだ。

「いや、それが解決したわけじゃないっていう感じゃないような」
「どういう意味だ?」
「それが病室から出て来た仁王さんの顔が、ちっともすっきりしたように見えなくって……。
もしかしたら根本的なことは何も話さなかったのかもしれない」
「しかし幸村に任せておけば大丈夫だろう。
俺なんかよりもよっぽど信頼されているからな」

さっき卑屈な所は見せないと考えたばかりだったのに、思わず本音をぽろっと零してしまう。
すると「何言ってんすか」とリョーマが少し怒った声を出した。

「あんたが立海を纏めようと必死だってことはちゃんとわかってる。
なんか、ってそんな風に思うのは間違ってる。
真田さんはちゃんと頑張ってるよ。それを認めようとしない奴がいたら、俺が代わりに怒ってやる。
勿論、あんた自身だって例外じゃない。だから、自分の方が負けてるみたいなんて言うな」

リョーマの言葉に、真田は「そうだな」と静かに返事をした。
こんなにも自分の為に怒ってくれる彼の前で言うべきことじゃなかった。
もっと自信をもたなければ、と強く思う。
どうしても幸村とつい比較し、上手く出来ないことでやはり無理なのかと卑下していた。
もう、変わらなければならない。
少なくともここに一人、わかってくれる友人がいる。
その気持ちに応える為にも、幸村と比較して落ち込むのは止めよう。

「お前と話していると色々考えが変わることがあるな」
「えっ、何が?」
「いや、こっちの話だ。それより明日、会えないだろうか」

素直に出た気持ちだった。
特に重要な相談があるわけではない。
だけど、リョーマに会いたかった。
顔を見るだけでいい。
それだけでもっと自信が持てて、不安が消える気がした。

しかしリョーマのいる青学と立海とでは距離が離れている。
すぐに思い直し、「今のはちょっとした間違いだった。すまん」と言い直す。
「え、別に構わないけど。そっちの練習が終わるのって何時?」
「19時だが。本当にいいんだ、言ってみただけで」
「青学の方が終わるの早いから、俺がそっちに行くよ。立海ってどの辺にあるんすか?」
「だから無理して来ることは無いと言っているだろうが」
「無理してなんか無いっすよ?」

何言ってんの、とリョーマはあっけらかんと言う。

「相談ならいつでも乗るって言ったじゃん。直接会って話ししたら、また別の意見も出て来るかもしれない。
だから、そっちに行く」
「いや、それなら俺が青学の方に」
「だから練習終わるのこっちが早いんだって。あんたがこっち来るまで待ってろって言うの?」
「……」

ほぼ押し切られる形で立海の場所と落ち合う時間を決めた。

でも、明日はリョーマに会える。
そう考えると、なんだかそわそわするような、嬉しい気持ちになるから不思議だ。
親友とは、こういう関係を指すのだろうか?

今まで会った人達と、リョーマはまた別の特別なポジションにいる気がする。
それが何なのかわからない。

(親友の、そのもっと上の存在って何になるんだ……?)

そんなことを考えながら真田は早起きする為に布団に入った。






そして翌朝。
予期しない事態が、真田を待ち受けることになる。

朝練前に仁王に柳と揃って呼び出されたと思ったら。

「何だ、これは」
「退部届けだな」
「見ればわかる。どういうことかと仁王に聞いているんだ」
「……」

差し出された退部届け。無理矢理、仁王に押し付けられる形で受け取ったものの、納得出来るはずがない。

「本気なのか、仁王」
柳の言葉に、仁王は「ああ」と頷く。

「このまま在籍しても期待に応えられんのはわかっとる。
俺がいたら、返って足手まといになるのも。
だからこれが一番良い方法なんじゃ」
「お前、何を言っているのかわかっているのか!県大会はもうすぐなのに、どうして」
「よせ、弦一郎」

大声を上げた真田を、柳は手で制した。

「これは一旦預かっておく。だがしばらくは休部扱いにさせて欲しい。
今、お前が辞めることを発表したら皆も動揺するからな。
その位は譲歩しても良いはずだ」
「ああ、構わんぜよ」
「体調が優れないという理由にしておく。お前もそれで合わせておいてくれ」
「了承した。何か言われても、そこは上手く誤魔化しておく」

もう朝練に出る気も無いのだろう。
仁王は校舎に向かって歩き出す。
HRが始まるまで、どこかで時間を潰すつもりなのかもしれない。

仁王の姿が見えなくなった所で、真田は柳に向き直った。

「蓮二、俺は認めていないぞ。退部などありえん。仁王は何を考えているんだ!」

頭を抱える真田に「俺だって認めたわけじゃない」と柳は言った。

「だった何故退部届けを受け取った?休部扱いだと?そんな勝手は許さん」
「しかし今から説得した所で仁王は聞き入れてはくれないだろう。
むしろ状況が悪化するだけだ。
皆に知られたらそれこそ大事になる。
多分、お前が辞めさせたんだと、そう解釈されるだろうな」
「それは……」
「俺の取った策が間違いだと言いたいのか?」


言い返すことが出来ない。
たしかに騒ぎ立てても仁王は考えを改めないだろう。
ここは一旦引く方が良さそうだ。

「すまない。少し感情的になってしまった」
「構わないさ。それより仁王の説得の方法を考えよう。
例の幼馴染にも当ってみることも検討するべきかもしれないな」
「そうだな。ところで彼女はいつ出発のかはわかっているのか?」
「それがだな、あまり時間は残されていないようだ」
「……」

ついていないとしか言えない。
今でさえ不安定な仁王が、その幼馴染がいなくなったところでどうなるのか。
考えたくも無い。


朝練が始まり、柳の口から仁王がしばらく休むということが皆に伝えられた。
柳から言ったおかげか、皆も納得したようで今のところそんなに騒ぎにはならずに済む。
自分が発表したらどうなっていたか。また反発されていたのか。
そんなことを考え、真田は軽く首を振った。
昨日、リョーマに言われたのにまたそんなつまらないことが浮かんでしまった。
誰かと比べてどうとか、悩む前にまず動かなければ。
この事態を良い方向へ導く為の回答を出そう。

ぱしっと両手で頬を軽く叩いて、ラケットを手に取る。

簡単に解決出来るものではないが、立ち止まっている場合ではない。
前に進んで行こう。

いつも以上の気合いを入れている真田に、
周囲が何かあったのかと興味本位の視線を向ける。
それにすら気付かないまま、真田はひたすら練習に打ち込んで行った。


2010年06月05日(土) miracle 32  真田リョ

もうすぐ都大会が始まる。
そうなったら幸村の所に行くのは難しくなるだろう。

今日は病院に行くかどうしようかと、リョーマは考えていた。
毎日電話は掛かって来るが、それだけでは足りないと幸村は言う。

「君の顔が見たいんだ」

本当に甘えんぼなんだと、苦笑してしまう。
真田の前ではそんな素振りも見せないくせに、自分と二人きりの時は妙にスキンシップが激しく、べたべたと引っ付いてくる。
そういうのは好きな子を相手にすればいいのに。
でも幸村に釣り合う女の子となると、かなりレベル高い容姿の持ち主じゃないと釣り合わないなーと考える。

「越前。何をボーっとしているの?」

ふっと目の前に差した影に、リョーマは驚いて顔を上げた。

「不二先輩」
笑顔の裏で何を考えているかわからない不二に、思わず一歩下がる。
この先輩は苦手だ。
知ってか知らずか、不二はにこにこと笑いながら更に近付いて来た。

「ぼんやりしちゃって。疲れたのかな?」
「そういうわけじゃ、ないけど」
「だったら何を考えていたか、教えてくれる?」
「えっ?何でっすか」
「純粋な好奇心だよ」
「……」

駄目だ、この人。話が通じない。
妙に楽しそうな顔をしている不二に、厄介な人に目を付けられたと、顔を引き攣らせる。
取り合えず、どう逃げようか。
トイレでも行く振りをして……、駄目だ、きっとついて来る。
仮病を使う。これも付き添って来るから駄目。
良い策は無いかと唇を噛む。
すると、「越前。次、コートに入れ!」と手塚に名前を呼ばれた。

「はい!」

大きな声で返事をし、ラケットを握ってコートに走る。
良かった。とりあえずこの場は逃げることが出来た。
ほっとして、練習に集中する。





「不二ー。おチビちゃんのこと見てんの?」
リョーマと入れ替わりにコートから出た菊丸が、楽しげに笑っている不二を見て首を傾げる。
「うん。なんか越前って構いたくなるんだよね。いじりがいがありそうで」
「おチビ、気の毒に……」
「なんか言った?」
「なーんにも」

くすくす笑う不二に、絶対巻き込まれないように気をつけようと菊丸は思った。












部活が終わって直ぐに、リョーマは神奈川行きの電車に飛び乗った。
不二が意味ありげに見ていたのには気付いたが、無視して急いで着替えた。

(なんなの、あの人。やたら絡んでくるけど言いたいことがあるならはっきり言えよな)

しかしこれといった実害はない。
時折うっとうしい言葉を掛けて来るくらいだから、やり過ごせるレベルだ。
放っておこうと決めて、目的の駅まで電車に揺られる。

到着して、すぐに病院へとリョーマは走った。
ドアが開いているエレベーターに滑り込もうとしたところで、先客がいることに気付く。

「あ」

思わず声が出た。
よりによってそこに居たのは、仁王だった。ついこの間会ったばかりなので、さすがに覚えている。
向こうもリョーマに気付き、驚いたように見つめて来る。

「幸村さんの、お見舞いっすか?」

ドアが静かに閉まり、上に昇り始めたところでリョーマは仁王に話し掛けた。

「そうじゃが。お前さんもか?なら、俺は遠慮させてもらおうかの」
「ちょ、ちょっと待ってよ。何言ってんの?」

なんでそんなこと言うのかと目を丸くすると、仁王は無表情のまま口を開いた。

「幸村の見舞いなら一人で十分じゃろ。俺は帰るから、気にしなさんな」
「二人で行けば済むことなんじゃ……」
「お邪魔だろうからな。やっぱり帰るわ」
「邪魔とか、そんな問題じゃないっすよ。なんで帰るんすか?」

はあ、とリョーマは溜息をつく。

「幸村さんに会いに来たんでしょ?二人で話ししたいことがあるなら、会いに行けば?
俺は話が終わるまで待ってるからさ。会って行きなよ」

リョーマの言葉を、仁王は鼻で笑った。

「俺が行くよりもお前が顔を見せた方が幸村は喜ぶ。
だから帰ると言っているんじゃ」
「はあ?」
「とにかく俺は」

エレベーターが目的の階に着いた。
そのまま下の階のボタンを押そうとした仁王の腕をリョーマは強引に掴んだ。
そしてさっと外へと引きずり出す。

「お前、さっきから何を」
「幸村さんの所に行って」
真剣に訴える。
「話が終わるまで、俺はここで待ってるから」
そう言って廊下に置いてあるベンチを指差す。
「ゆっくり話して来ていいよ。俺はそれまで病室に入るつもりはない。
あんたが出て来るまで待ってる」

リョーマの言動に仁王は目を丸くしえ、「変な奴じゃな」と薄く笑った。

「けど俺は話すことなんて、本当に無いんじゃ」
「ごちゃごちゃ言っていないで、幸村さんの所に行ったら?」

リョーマはどっかりとベンチに座り込んだ。
仁王は少しの間じっと立っていたが、諦めたように幸村の病室に向かって歩き出す。

(やれやれ。真田さんもそうだけど、何で気楽に悩みを打ち明けることが出来ない人ばっかりなんだ)

相談したいのなら、さくっと言えばいいのに。
変なの、とリョーマは膝に肘をついて顔を乗せた。
立海大付属は悩み多き人の集まりなのか、なんて思った。














ノックの音に、幸村は顔を上げた。

今日は誰かが来るという約束はしていない。
だけどもしかしてという期待はあった。
リョーマかもしれない。そう思うと胸が高鳴る。

「はい」

返事をするとドアがゆっくりと開く。そこに立っていたのは、仁王だった。

なんだ、とがっかりして肩を落とすと「あのチビと勘違いしたんか」と言われる。

「そんなことはないよ」
「嘘じゃな。顔に書いてある。期待外れで悪かったな。
けど、あのチビならすぐそこにおるよ。後で会える」
「それ、どういうこと?」

来ているなら何故リョーマは入ってこないんだろう。
眉を寄せる幸村に、仁王は溜息をつきながら説明をする。


「エレベーターで一緒になったんだけど、俺が帰ると言ったら引き止められてな。
お前さんと話ししろの一点張りじゃ。
振り切って帰ろうとしたら騒ぎ出しそうなんで、とりあえず来たってわけじゃ。
適当に切り上げたら俺は帰る。そしたらあのチビが入れ替わりで来ることになっとる。
心配はいらんぜよ」
「ふーん」

幸村は仁王をじっと見詰めて言った。

「僕に話があるってことなんだよね?内容は?」
「いや、それは……。あのチビが勝手な解釈しただけで」
「嘘だね」
きっぱりと次げる。
「彼が気付く位だ。何か言いたいことがあってここに来たんだろ?
ちゃんと話をしてくれないと、後で聞かれた時に返答に困るじゃないか。
さ、詳しく聞かせてもらおうか」
「俺の心配より、あのチビにどう思われるかどうかの方が重要なのか」
「そういうことになるね」

笑顔で言う幸村に、仁王は「正直じゃな」と軽く首を振った。

「まあ、いい。俺の頼みも大概勝手なものじゃからな」
「頼み?」
「ああ。今度の件大会のメンバーから俺は外してもらえんかの」

予想外の言葉に、幸村もさすがに絶句する。
冗談を言っているように見えないから、余計に困ってしまう。

「それは、どうして?」
「やる気の無い奴を出して、うちが負けることになったら取り返しがつかんからの。
お前さんから柳と真田に話してもらえんか」
「出来ないよ」
ぴしゃり、と拒絶する。

「自分で言えばいい。俺に言うのはお門違いだ」
「けど、それじゃ納得してもらえん」
「だろうね。でも、よりによって俺に言うことはないだろう?
試合に出たくても出られない。そんな状態の人によく言えるね。
やる気が無い?
だったらもうテニス部を辞めたら?その位の覚悟で訴えれば、柳達も考えてくれるだろうよ」
「幸村……」

コートに戻りたい。ラケットを握りたい。走って駆け回りたい。
一つも叶わない自分に対して、仁王はどれだけ残酷なことを言ったのかわからないのか。

怒りを込めた目で見上げると、さすがに理解したらしく、
「すまん……」と頭を下げる。

「俺が考えなしじゃったようじゃ。出直して来る……」
「そうだね。頭を冷やすべきだ」
「容赦ないの。けど、おかげで冷静になれた」
「そう。良かったね」

のろのろと病室を出て行く仁王の背中に、
「彼をちゃんと呼んで来てよ」と声を掛ける。

どんなことで悩んでいるか知らないが、
よりによってこの自分に「試合に出たくない」なんてよく言えたものだ。

結局、皆は心配してくれているようで、こちらの気持ちなどわかってくれない。


(でも、構わない。側に居て欲しいのは一人だけだから)

リョーマさえいてくれれば、救われる。他の誰もいらない。

早く来ないかなと、病室のドアを眺める。

リョーマの顔を見たら、この鬱屈した気持ちもすぐに晴れるような気がした。


2010年06月04日(金) miracle 31  真田リョ

柳生に言われたものの、仁王が誰かとの別れを寂しがっているようには到底思えなかった。
一昨年、去年とお世話になっている先輩達が卒業する時も、実にあっさりした態度で見送っていたのを見ていただけじゃない。
あまり人と群れるのが苦手のように思っていたからだ。
勿論、レギュラー内ではそれなりに親しくしているようだが、仁王は基本的には一人で行動している。
一人が好きなんだろうと、そんな風に真田は考えていた。

だから誰かの別れで、仁王が動揺するとは少し信じ難い。
それとも、その幼馴染は特別な存在なのだろうか。
わからない、と首を横に振る。

あの後も仁王をこっそり観察していたが、得られたものは何も無かった。
柳生の話が真実なのか、本人に確かめなければわからない。
しかし問い質した所で仁王が口を割るとは思えない。
パートナーにも打ち明けない位だ。
それを真田に話すとは、考えにくい。



悩みに悩んだ挙句、真田はリョーマに電話を掛けてみることにした。
相談というわけでもないが、リョーマと話をしたら良い考えが浮かぶかもしれないと思ったからだ。
不思議と、リョーマには何でも話すことが出来る。
色々本音を曝け出した所為か、年下ということにも拘らず悩みを打ち明けられる。

「あ、真田さん?」

夕飯が終わった頃合を見計らって掛けたからか、リョーマはすぐに出てくれた。

「いきなりすまない。今、話しても大丈夫だろうか?」
「別に平気だよ。それにしても電話でもそんな口調なんだ?」
「そんな、とは?」
「いや、真面目で真田さんらしいというか」

からかわれているのだろうか、と真田は眉を寄せた。

「それは堅苦しくて、話をしてもつまらないということか?」

真面目なやつ、と悪い意味で陰口を叩かれる時もあった。
己の信念を通して何が悪いと、堂々と胸を張って対峙したが、
リョーマに言われるとどうしてかショックを受けてしまう。
つまらない奴と思われたくない。
自分を変えるべきなのかと考えていると、
「そうじゃないっすよ」と明るい声が返って来た。

「何でそんな風に考えるんすか。真面目って悪いことじゃないのに。
真田さんは不器用だけど真っ直ぐで、何に対しても真剣だって知っているから。
少なくとも俺はあんたのそういう所気に入ってるよ」
「そ、そうか」

リョーマの言葉が、じわっと温かく心に沁みこんで来る。
こんな風に思えるのも大切な友人の言葉だからだと、真田はそう解釈した。

「ところで本題に入っても良いか?」
「うん。何?」
「昨日会った仁王のことで気になる話を聞いたのだが……」

柳生から聞いた情報をリョーマに伝える。

全部聞いてからリョーマは「その人のこと、俺は全然知らないんだけど」と前置きしてから口を開いた。

「やっぱりその幼馴染がいなくなるから、寂しいんじゃないっすか。
落ち込んでいるのかもしれない」
「仁王が?いや、しかし」
それは無いと、真田は言った。
仁王は一人でいても平気な奴だとも説明する。
しかしリョーマは「でも聞いてみなくちゃわからないでしょ」と返す。

「印象だけで結論出すのは早いんじゃない?
まずはその仁王さんって人に聞いてみたら?」
「けど、俺に打ち明けるとは思えん。パートナーにも言わない位だからな」
「でもこのままだと何も変わらないっすよ。変えたいんでしょ?
だったら、なんとかしないと」
「それも、そうだな」

原因が何にあるかなんて、ここで話をしても正確な答えは出ない。
やはり仁王本人に確認する他なさそうだ。

「すまなかったな。俺の相談を聞いてもらってばかりで」
「何言ってるんすか」

携帯の向こうで、リョーマが呆れたように言う。

「あんたの話を聞くって言い出したのは俺の方だろ。
困っているならいつだって相談に乗るから、一人で抱え込んだりしないでよ」
「……わかった。ちゃんと報告しよう」

年下なのに妙に頼りになって、安心させてくれるようなことを言ってくれる。
いつか見合った分の恩を返すことが出来るだろうか。
こちらが負担を掛けてばかりで申し訳無い。
そんなこと言ったら、「何言ってんすか。水くさい」と怒ったように言われるのgaわかっているから、黙っておku。

でも、いつか。リョーマの助けになることが出来たらなとは、思う。
リョーマが困った時には一番に掛け付けて、手を貸してやりたい。
今の所、頼ってばかりで説得力も無いのだが……。

心地良いリョーマとの会話を楽しみながら、真田はそんなことを考えていた。










翌日。
部活が始まる前に仁王の姿を見付け、真田は思い切って話し掛けてみることにした。

他に、人影は無し。
今だと思って、「仁王」と名前を呼んだ。

「真田か。おはよう」
「おはよう。その、少し話がある。いいか?」
「もうすぐ朝練始まるぜよ」
「わかってる。なるべく手短に話す」
「なんじゃ」

軽く言う仁王に、内心緊張しつつ真田は話を切り出した。
二年以上チームメイトとして過ごしたのだが、
仁王の思考を理解出来た事は無かったと、気付かされる。
しかし尻込みしている場合じゃない。

「その、最近悩んでいることはないか?」
「は?」

意外な言葉を聞いたかのように目を丸くする仁王に、構わず続ける。

「落ち込む要因を抱えているのなら、相談に乗るぞ。
頼りないかもしれないが、これでも副部長だ。話位なら聞いてやれる。
良かった、何でも言ってくれ」

それを聞いた仁王は半笑いをして、
「別に何も悩んではおらんよ」と言った。

「何を思ったのかは知らんが、お前さんの気のせいじゃろ。
相談するようなことは無いよ」
「しかし、幼馴染が留学すると聞いたんだが。その、気落ちしているんじゃないかと思って」

その途端、仁王の顔色がさっと変わる。
やはりか、と思って「いなくなることを考えると、寂しいのだろう?」と口にする。

「まさか。そんなのありえんよ」
「仁王」
「余計なお世話じゃ。朝練が始まる時間だから、この話は終わりじゃな」

話を続けようとしても仁王は無視して、集合場所へと行ってしまう。

真田は大きく溜息をついた。

どうやら失敗してしまったようだ。
何故、上手くいかないのdろう。
ただ悩みを聞いてやりたいだけなのに。
副部長失格だなと、帽子をぎゅっと被り直した。






「おー、仁王。真田と何話していたんだよ?」

朝からガムを噛んで声を掛けて来た丸井に、
「ちょっとな」と仁王は話をはぐらかした。

「なんだ。また説教されtのか?真田の奴、なんだかんだとお前に文句つけてばっかりだな」
「いや、そうじゃない……」

大丈夫だというように笑うと、丸井は腑に落ちない顔をしながらもそれ以上の追及はしなかった。
もう朝練が始まるからだ。
私語を続けていたら、真田に注意されてしまう。
ポケットから包み紙を取り出し、ガムをそこへ吐き出す。

正直、これ以上話をしたくなかった仁王にとっては、ありがたいことだ。
ミーティングが始まって、今朝のメニューを発表する柳と、隣にいる真田に目線を移す。

‘寂しいのか?’

言われて、ドキッとした。
まさか当てられるとは思っていなかったから。
いつだって風の吹くままというスタンスを取っている自分が寂しいなんて悟られたくない。
舞子がいなくなるまで後僅か。
行ってしまった方がいっそのこと楽になるかもしれないと、この頃思い始めている。
大丈夫だ。彼女がいなくなっても変わることは何もない。

今はそう言い聞かせて、必死で耐えている。
いつも一緒だった存在がいなくなる、たかがそれだけで崩れそうになる自分の弱さを、誰かに見せるわけにはいかない。


(真田の奴、当てずっぽうにしちゃ鋭いの……。
しばらく近付かんようにした方がいいかもしれん)

舞子には「元気でな」とあっさりした態度で見送ってやりたい。
そうしなくてはいけない。
寂しいなんて言って困らせたらいけないのだから。


2010年06月03日(木) miracle 30  真田リョ

駅へと向かって歩いている間、リョーマの機嫌が上向きになっていることに真田は気付いた。

病室では少し元気が無かったようだが、何か考え事でもあったのだろうか。
もしかして幸村の気持ちを知って、どう応えるか悩んでいるのかと思ったが、
そういうわけでも無さそうだ。

『だからそんな友達がいる幸村さんが……少し羨ましいかも』

リョーマの言葉を思い返し、おかしなことを言うものだと軽く首を振った。
もうリョーマのことは大切な友人だと認識している。
何かあったら全力で助けてやりたい、駆けつけてやりたいとも思っている。
羨むことなんて無いのに、一体何を言い出すのだろう。

しかし今は落ち着いているようなので、やはり本音で語って良かったと真田は思った。
リョーマ自身も何か色々思うことがあるかもしれない。
出来る限り、力になってやろうと心に誓う。
立海の件で色々思い悩む時も、リョーマは黙って話を聞いてくれた。
心救われたことも度々あった。
もしリョーマが何かで悩んでいるというのなら、惜しみなく手を差し伸べたいと考えている。


「ねえ、あの人って……」

不意に足を止めたリョーマに、真田は「どうした」と声を掛ける。
リョーマは駅前のベンチに座って項垂れてる人物を指差して、「幸村さんの所で見たことある人なんだけど」と言った。
「同じ学校の人だよね?」
「あれは……」

顔は伏せているが、髪型でそれが仁王だと気付く。
こんな所で何をしているのだろう。
誰かと待ち合わせしているわけでも無さそうだ。
かといって、幸村の見舞いに行こうとしている感じでもない。

「具合でも悪いのかな?声掛けた方がよくない?」
「いや、しかし……」

仁王には、必要最低限以外は関わらない方が良いと考えていた。
以前あった一件から、あまりうるさく言うのはトラブルの元だということに、真田も気付いていた。
今は割りと部内が落ち着いている分、波風を立たせたくないと思ってしまう。
だから仁王に駆け寄るのを躊躇し、足を動かすことが出来ない。

そんな真田に気付かず、
「どうかしたんすか?」とリョーマはスタスタと歩いて仁王に近付く。

「具合でも悪いとか?」
リョーマの声に、仁王はゆっくりと顔を上げる。
迷惑そうなその表情に、真田は慌ててリョーマの元へと走った。
「おい……、越前」
「なんだ、真田か。って、幸村のところで会った、えーっと」
「越前っすけど」
「ああ。そんな名前だったな。俺に何か用か」
「用っていうか。具合悪そうだったから、どうかしたのかと思って」

リョーマの言葉に、仁王はフッと笑った。

「別に。元気じゃよ。少し眠たかっただけじゃ。
用件は済んだか?だったら、もう放っておいてくれ」
「おい、仁王」

そんな言い方はないんじゃないか、と言おうとして真田は止めた。
ここで言い争いして、また険悪になるのを恐れたからだ。
やはり声を掛けるべきではなかったな、と内心で溜息をついた。

しかしそんな真田の様子に気付くことなく、
「幸村さんの見舞いに来たんじゃないんすか?」とリョーマは再び仁王に話し掛ける。

「今なら誰もいないから、行って来れば?」
「……幸村の見舞いは関係ない。たまたま降りたのがこの駅だっただけじゃ」
「そう、っすか。
なんか幸村さんに相談乗って欲しいことでもあるのかと思った」

リョーマがそう言うと、仁王は目を逸らして「そんなことない」と言った。
「けど」
「もういい。お前らがここに居るのなら、俺が移動する」

いつも飄々としている仁王にしては珍しく、苛立ったように立ち上がる。
そして病院とは逆の方向に向かって歩き出す。
本当に幸村の見舞いに来たわけじゃなかったのか。

首を傾げる真田に、「あの人、やっぱり何か言いたいことあるんじゃないかな」とリョーマは言った。

「悩んでいるように見えたけど、幸村さんに相談しに来た所だと思うんだけど」
「そうだとしても本人が話したくないのに、無理に聞き出すことは無いんじゃないか」

近付いたところで、今のようにきっと拒絶されるだろう。
それでまた部活に顔を出さなくなったら、元も子も無い。
今のところ、仁王は練習にだけはちゃんと出ている。
このままでいい、と真田は思ったが、リョーマは眉を寄せて「けど、なんか引っ掛かる……」と呟く。

「真田さんも、なかなか誰かに相談出来なかったよね?
それに近い気がするんだ。
本音を誰かに見せられない分、苦しんでいそうな気がして」
「……」

それを言われると、少し弱い。
幸村にも柳にも相談することも出来ず、立海の現状を憂うだけで何も出来なかったあの頃。
リョーマという聞き役が居たから、救われた。

(仁王も、そうなのか?)

悩んでいる素振りなど、今まで一度も見せたことなどない。
しかし心中では、どんなことが渦巻いているかなど知ろうともしなかった。
悩みがない、なんて軽々しく言い切れるものじゃない。

(それに今の苛々とした態度……。仁王にしては珍しいものだ。
あれこそが煮詰まっているという証拠ではないか?)

考え込む真田に、「どうしたんすか?」ときょとんとした顔でリョーマが尋ねる。

「いや、お前の言う通りなのかもしれないと思ってな。
そういえば無断で部活を休んでいたのも、あいつなりに理由があったことなのかもしれない。
なのに訳も聞かずに怒ってしまった。
もっとよく話し合えば良かったのに……」
「今からでも間に合うよ」

大丈夫、というようにリョーマが笑う。

「真田さんが部のことを考えてるっていうのは、傍から見てもわかる。
だからちゃんと向き合えば、今の人だってわかってくれるんじゃないの?
きっと悩みも打ち明けてくれると思う」
「それは、どうだかわからんな」

仁王の性格上、そうやすやすと口を割るとも思えない。
それに悩みを抱えているかどうかも、確定していないのだ。

「とにかく明日、話をしてみるとしよう。
県大会も近い。いつまでもあのままでいられると、勝敗にも影響出るかもしれん」

なんとかしなければと拳を握り締める真田に、
「うん、頑張って」とリョーマが励ましの言葉を口にする。

「俺も練習忙しくなるけどさ、何かあったら言ってよ。遠慮せずにさ」
「ああ、……そうする」

自分でも驚く位に素直な言葉が出た。
でもリョーマの前ではもう強がったり、我慢したりすることは無いとわかっているから、
こんな風に簡単に頷くことが出来る。

(さっき、いつでも味方になると言ったが……、助けられているのは、いつでも俺の方だな)

リョーマに出会えて本当に良かった。
もし出会うことがないまま過ごしていたら、今の自分の心はもっと深い迷路に迷い込んでいただろう。
部内をまとめる余裕もなく、もっと酷いことになっていたかもしれない。

「何かあったら、一番に相談する」
「うん」

真っ直ぐな視線を向けてくるリョーマに、年下で小さいけれど頼もしさも感じて。

このような友人と巡り合わせてくれたことに、そっと感謝をした。


















翌日。

真田はまず仁王の様子を観察してみることにした。
いきなり話をしても、昨日のように逃げられる可能性が高い。
今までと変わったところが無いか、まずそこを考えてみることにした。

(詐欺師と呼ばれるだけあって、何を考えているか推測するのも難しい。
蓮二ならばこういうのは得意かもしれないが……)

しかし練習メニューの一切を柳に任せきりにしている以上、他に負担を強いるわけにもいかない。
なんとか解決出来ないものかと唸っていると、
「真田君」と柳生に声を掛けられる。

「あ、ああ。どうかしたのか」
「それはこちらの台詞です。
今日はやけに仁王君のことを熱心に見ているようですが、また彼が何か……」
「いや、違うこちらの事情だ。問題を起こしているとか、そういうわけではない」
「だと良いんですが……」

ふと真田は、表情を曇らせている柳生のことが気になった。
もしかして、何か知っているのかもしれない、と。
ダブルスのパートナーとして柳生は仁王とよく一緒にいる。
もしかして相談を受けているのかと考えて、思い切って口を開く。

「時に柳生。最近、仁王から何か話を打ち明けられたりしていないか」
「それは、どういうことでしょうか?」
「いや、その、仁王の様子は少し変だと思わないか?
それで、お前なら何か聞いているのかと」
「いいえ。私にも何も言ってくれませんよ」
「そ、そうか」

落胆する真田に、柳生は溜息交じりで話す。

「仁王君はそういう人です。誰にも悩みを打ち明けたりしない。
でも真田君も気付く位なんですね。よっぽど、参っているのでしょう」
「何か、知っているのか?」

柳生はゆっくりと頷いた。

「ただの推測に過ぎませんが……」
「もし良かったら、話してもらえないか。解決出来るかもしれない」
「いえ、残念ですがそれは誰もどうすることは出来ないことです」
「それは、一体?」

深刻なことかと身構える真田に、柳生は軽く首を振る。

「真田君から見たら、きっと取るに足りないことでしょう。
知っても、怒ったり呆れたりしないですか?」
「いや、人の悩みをそんな風に受け取ったりはしない。それこそ失礼な話だろう」
「そうでしたね。今のは失言でした」

すみません、と柳生は謝った。

そして再び仁王の方に視線を向けて言った。

「実は、彼の幼馴染がもうすぐ転校するそうです。
簡単に会える距離ではなくなるそうで、多分それで仁王君は落ち込んでいるのだと私はそう考えています」
「……」

柳生の言葉に、真田はどう回答したら良いかわからず黙った。

幼馴染とはいえ、仁王は誰かとの別れを惜しみ、落ち込むような性格とは思えなかった。
むしろサバサバと笑って送り出すような、今までのイメージからそんな風に見えていた。

意外過ぎて、こちらが混乱させられてしまった。


2010年06月02日(水) miracle 29 真田リョ

「やあ、真田。来てくれたんだ」

言いながらも幸村は掴んでいるリョーマの手を放そうとしない。

何故だろう。
その時に限って、リョーマは不自然なものを感じ取っていた。
常ならば人前で手をんぎられることなど当たり前として受け止めていたのに。
どこか、真田に見せ付けているようにしている。
そんな気がしたのだ。

根拠は無い。
いつも通りの行動なのに、何故そんな風に思ってしまったのか。
リョーマは混乱していた。

真田の方はこちらを見て、「ああ」と納得したように頷いている。

「本当にお前達は仲が良いな。うむ、良いことだ」
「うん、今日もわざわざお見舞いに来てくれたんだ。
しばらく来られないからって。ね、リョーマ?」
「リョーマ……?」

真田が首を傾げるのを見て、
「この前から名前で呼び始めたんだ」と幸村が説明する。

いちいち言う必要なんて無いのに。

どうしてだか、今日の自分は妙に幸村の言葉に反発してしまう。
なんでだろう。
自分でもわからない。

「そうだ。真田もお菓子食べる?母さんが持って来てくれたんだ。
いつもお世話になってるから、そのお礼にどうぞ」
「そうか。ならば断るのも失礼だな。頂こう」
「リョーマはぶどうだったよね」
「うん……」

幸村が菓子箱へと移動して、そこでやっと手が解放された。
瞬間、ほっとしてしまう。
そして空いた手をじっと見詰める。
何度も触れられていたのに、こんな気持ちになったことは無かったのに……。

「どうかしたのか?」
「え?」
真田に問い掛けられ、顔を上げる。
心配そうにこちらを見ている視線とぶつかった。

「元気が無いようだが、具合でも悪いのか」
そんな風に言われて、慌てて否定する。
「ううん、平気っす。でも、ちょっと疲れたかも。
今日、こっちの病院も寄って来たところだから」
眼帯が取れた瞼を指差すと、「そうか」と真田は納得したように頷く。

「もう、平気なのか?」
「うん。明日から部活に出られるって。
だからしばらくこっちに来られないって幸村さんに報告しに来た」
「そうなんだよね。リョーマと会えないって聞いて、ショック受けていたんだ」
ハイ、と真田とリョーマの間に割り込むようにして幸村が菓子を渡して来る。
干し葡萄の入ったバターケーキだ。
真田の手には小さなタルトレットが乗せられた。

「あーあ。しばらく会えないなて辛いなあ」
「越前も部活があるから、仕方無いだろう」
真田は一旦幸村を窘めるものの、
「それでも時間ある限り、見舞いに来てやってくれないか」と結局賛同するようなことを言う。

何だよそれ、とリョーマは横を向いて「オフの時には来るっすよ」と答えた。

「良かったな、幸村」
「うん。さっきもそう言ってくれた。
俺の為に休日は空けといてくれるんだって。ね、リョーマ?」
「……まあ」

自分が言ったこととニュアンスが違うような気がしたが、否定はしなかった。
真田が嬉しそうにしているから、水を差すのも悪いと思ったからだ。



しかしその後もおかしな時間が続いた。
真田はやたらと幸村とリョーマを仲良くさせようとして不自然な言動が目立つし、
幸村はリョーマとの親密さを真田にアピールしているように見えた。

おかしい、何か変だと思いつつもリョーマは口に出すことが出来ずに、
ぎこちなく時間だけが過ぎて行く。

そろそろ帰宅する頃に差し掛かり、もういいだろうと椅子から立ち上がる。
いつもならまだいいかなと思うが、今日は別だ。
この空気に耐えられない。
さっさと帰ってしまいたかった。

「俺、帰るね!」
宣言すると、
「えー、もう少しいいんじゃない」と幸村が引き止めに掛かって来た。
「そうだぞ、越前。少しだけでもいいから、居てやってくれないか。
何なら俺が外に出よう」
後押しする真田の言葉にも、リョーマは頷くことは出来ない。
「ううん。今日は夕飯早いって聞いてるから、無理っす」
「そう……なら、仕方無いね」

寂しそうに言う幸村に、少し心が痛む。
けど今日は、一刻も早く解放されたいという気持ちが勝った。

「また、来るから」
「うん。必ず来てね」
ぎゅっと、また手を取られる。
思わず引っ込めそうになるのを我慢する。

(本当に俺、どうしたんだろう……)

嫌だなんて思ったこと一度も無いのに、何故か触れてくる幸村の手を疎ましく感じた。
離れた瞬間、「じゃあね」と平常を装って病室から外へ出る。


「なんか……疲れた」
エレベーターの壁に凭れ、ぐったりと息を吐く。

試合の時よりも疲れた気がする。
一体、なんだったんだろう。
幸村はいつもと少し違っていた。
しばらく来られないと言ったからだろうか。
それにしては、真田も変だった。
幸村とやたらと近付けさせようとしていたように感じた。
一体、何が目的だというのだろう。
二人の考えていることが、さっぱりわからない。

(今更、幸村さんと仲良くって……?一体、何を考えているんだか)

よくわからない、と肩を落とす。
何か思うところあれば、言ってくれればいいのに。
そうじゃなきゃわからないよ、と顔を顰めた。

やがてエレベーターは一階に到着した。
静かに扉が開き、外へと足を踏み出したその時、
こちらに駆け寄ってくる足音に気付く。

「越前っ、ちょっと待ってくれ!」
「真田さん!?」
走って来た人物は真田だった。
大声を出したことで、注目を浴びる。
非難めいた視線に、ここは病院だったと慌てて口を閉じる。
そして声を潜め、「とりあえず外に出た方が良くないっすか?」と告げた。

真田も多くの視線に気付き、黙って頷く。
そして足並み揃えて、ロビーから外へと出た。

「追い掛けて来るなんてびっくりしたっす。どうかしたんすか?」
人気が無いことを確認し、そう尋ねると真田は困ったような顔になった。

「お前の様子が気になったから、つい追い掛けてしまった。
驚かせてしまって、すまない」
「それはいいんだけど、わざわざ階段を使って来たんすか?」

エレベーターが到着すると同時に来たのだから、よっぽど急いで来たのだろう。
ドタドタと足音を立てて駆け下りる真田を想像して、
よく途中で静かにしろと怒られなかったな、と思った。

「仕方無いだろう。お前があんな帰り方をするから、幸村が心配していたんだ。
何か気に障ったことをしたのかと、悩んでいた」
「そういうわけじゃないけど」
ぷいっと、リョーマは横を向いた。

ただの気のせいかもしれない。
勝手に変な雰囲気のように受け取って避けているのを知られるのが嫌だった。
ごにょごにょと口の中で言い訳をする。

「それに俺なんている必要ないんじゃないの。真田さんが一人居れば、充分でしょ」
「俺なんかよりも、お前が側に居る方が幸村は喜ぶと思うぞ」

真顔で言う真田に、リョーマは首を横に振った。

「そうかな。
俺なんかより真田さんの方がずっと付き合い長いし、親身で頼りにもなる。
今だって、そうやって幸村さんのことちゃんと考えているでしょ。
味方にいれば、心強いと思う。寂しいなんて、考えたりしないはず。
だからそんな友達がいる幸村さんが……少し羨ましいかも」

口に出してみて、初めて気付く。
モヤモヤしていたのは、真田という友人がいても尚、幸村がこっちにも側にいて欲しいなんてわがままを言っているからだ。
贅沢だといってやりたい。

―――でも、言えない。
病院から出られない彼の心の寂しさは、わかっているつもりだ。

(幸村さんにあんな態度取って悪いことしちゃったな)

今度改めてフォローしようと、心に留めておく。
勝手に拗ねて心配まで掛けた自分に落ち込んでいると、
こつんと頭に拳を当てられる。

「真田さん?」
「羨む必要など無いぞ」
「え?」
「お前も幸村と同じ位、その、大切な友人だ。
何かあったら必ずお前の味方になってやる。遠慮なく、頼ればいい」

今まで散々相談持ち掛けておいて、偉そうなことは言えないが、と真田は少し気まずそうな顔をした。

「しかしお前の為なら惜しみなく手を貸そう。
約束する。
俺は最後までお前の味方だ」

照れも恥も無く言い切る真田に、目を見開く。

きっと本心から言っているんだろう。
嘘とか、その場凌ぎの誤魔化しとか考えたことも無さそうな人だ。
こんなくさい台詞、今時口にする人なんていないと笑う者もいるかもしれない。
けど、リョーマは笑わなかった。
真剣に言ってくれた真田の気持ちをバカにしたり、軽んじたりするなんて、
どうして出来ようか。

「ありがとう……」

小さな声だけど口に出すと、真田はどこかほっとしたように笑う。



この誠実な人が苦しんだり、傷付いたりすることが無いように―――。

ふと、そんな思いが心の中に浮かんだ。


2010年06月01日(火) miracle 28 真田リョ

「お大事に」

会計の人の声を待たずに、リョーマは病院を後にした。
やれやれ。
これでようやく練習に参加出来る。
眼帯が完全に取れない限り部活に出ることは許さんと、きつく言われていた為我慢していたが、
大手を振って出られる日が来たのだ。

(長かったな……。けど退屈はしなかったか)

病院への往復、図書当番に、幸村へのお見舞い、真田の相談を受けたりと、
テニスをしなくても色々忙しかった気がする。
明日から部活に行くことになるから、当分幸村にも真田にも会うことは出来ない。

(どうしよう。今から幸村さんの所に行ってみようかな)

しばし、考え込む。
当分顔を出せないことをメールのみで連絡するのはまずい。
電話越しにさめざめと泣かれそうで怖い。
そうなる前にフォローしておくべきか。

(俺なんかよりよっぽど良い友人に恵まれているくせに、まだ不満だなんて我侭だ)

自分の性格を棚上げしてそんなことを考える。
それも仕方無いことだ。
幸村には真田という得がたい友人がいる。
あんな真っ直ぐな性格で友人思いの真田が側についてて、何が不満だというのだろう。
真田一人居れば、ずいぶん心強いはずだ。
その上他の部員にも慕われているようだ。
もう充分なのではないか。

(なのに俺に会いたいって、変だよなあ)

それともやはり同じチームの友人には心配掛けたくないという部分があるのかもしれない。
だとしたらそこだけは支えてやらなければならない。
ああ見えて幸村は意外と色々考えているようだ。
家族には弱気なところは絶対見せたりしない。気を遣っていることはわかっている。

リョーマはポケットから携帯を取り出した。
幸村の病院へ行く前に、真田に連絡しておこう。
この前、一緒に見舞いに行こうと会話したものの、ハッキリとした日時は決めていなかった。
待ち合わせて行くのは次回でもいい。
今回は先に行くけど、後から来られるだろうかと、メールを送っておいた。
部活で忙しいのなら無理して来ることもない。
真田はいつでも病院に行ける距離にいるのだから。
しかし自分はそうはいかない。
遅れた分を取り戻さなければいけないし、都大会も始まる。
地区大会の時ほど、楽に勝たせてはもらえないだろう。
その為にも、これまで以上に練習に励まなくてはならない。
今までみたいに、ふらっと平日に見舞いに来ることは出来ないのだ。



「やあ。来てくれたんだ」

約束無しの見舞いだったが、幸村はとても喜んでくれた。
しかし明日からどうなるかわからないという事情を告げると、たちまち顔を曇らせる。

「しばらく来られないって、本気で言ってる?」
「しょうがないじゃん。やっと練習に参加出来ることになるんだし、大会だって近い。
その代わり、オフの日はこっちに来るからさ。我慢してよ」
「それもいつになるんだろ。オフがいつかって、決まってないんでしょ……。
当ても無く待ってるのは寂し過ぎるよ」
「……」

予想以上のごね方に、閉口してしまう。
年上のくせに、時々こんな子供みたいな事を言うから驚かされる。
しかしそれだけ寂しがっているのかと考えると、無下に突き放すことも出来ない。
心を許されているからこそ、幸村は自分に本音をぶつけ来るのだろう。


『俺なら、大丈夫だから』
家族の前では、いつも気丈に振舞っているのを知っている。
だったらせめて寂しいと言えない部分はこちらで埋めてやりたいと思う。

(案外俺も、お節介な奴なのかも)

肩を竦めて「決まったら、一番に連絡するから」と言う。
「ばあさんにいつ休みになるのか、早い所教えてもらうよう頼んどくからさ。
そんなに拗ねないでよ」
「本当に?一番に教えてくれるのかい?」
「うん、約束する」
「絶対だよ。守ってくれないと病院を抜け出して君の家に押し掛けるから」
「ちょっと。それは俺が皆から怒られそうなんだけど」
「冗談、冗談」

あんたが言うとしゃれにならないんだよと、唇を尖らせる。
しかし幸村は涼しい顔して笑っている。
どこまで本気なのか、さっぱり読めない。

「そうだ、リョーマ。昼に母さんが来てお菓子を置いていってくれたんだ。
見舞いに来た友達に出してあげてって。良かったら食べる?」
「あー、うん」
「どうかした?」

口篭るリョーマに、幸村は不思議そうに首を傾げる。

「いや、名前で呼ばれるの、まだ慣れなくって」
「やっぱり、嫌?」
「そんなことは無いよ」
首を振って否定する。
「向こうじゃ名前で呼ばれるのが普通だったから、むいろ越前って呼ばれた時の方が違和感あった。
でもそれが段々当たり前になってきて、突然名前で呼ばれてびっくりしている。
多分、それだけ」
「そう、ならこれからもリョーマって呼んでもいい?」
「うん」
こくんと頷くと、幸村は楽しそうに笑った。
「なんなら君も俺のことを名前で呼んでもいいんだよ?」
「え……」
少し考えて「止めとく」と答える。
「言いにくいし、幸村さんって呼ぶので慣れてるから」
「酷いなあ、それ。毎日呼べば当たり前になるかもしれないよ?」
「……考えておく」

またごねられる前にはぐらかしておこうと、リョーマはそんな風に返した。
幸村は納得していないような顔をしているが、それ以上しつこくすることもなく、
「じゃあ、お菓子食べようか」と言ってベッドを降りる。
「あ、俺が用意するから」
「いいよ、この位。今日は気分がいいんだ。
何のお菓子にする?焼き菓子だけど、あんずといちじくとぶどうとりんごがあるよ」
「ぶどうがいい」

即答すると、幸村がくすっと笑った。

「リョーマは本当にぶどうが好きだね」
「そう?」
「うん。ファンタもグレープが一番好きでしょ」
「まあ、わりと。でもよく見てるね。そんなことまで」

つまらないことなのにと、笑おうとした。
が、幸村が真顔でいることに気付いて、笑うのを止める。

「そんなこと、じゃないよ。俺にとっては全部大切なことだ」
「幸村さん?」
「リョーマに関することは、なんだって知っておきたい」

そう言いながら、左手に触れてくる。
手を握られても、リョーマは特に何も思わなかった。
いつものスキンシップだと捉えていたからだ。
だけど顔が近付いていて、少し妙だなと思った瞬間、
病室にノックの音が響いた。


「……はい」

仕方無さそうに幸村が答えると同時に、扉が開く。

立っていたのは真田だった。

幸村とリョーマの二人がそれほど距離を取らず立っているのを、
不思議そうに見比べていた。


チフネ