チフネの日記
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2010年03月24日(水) lost 悲劇編 24.跡部景吾

まさかこんな所で再会するとは思わなかった。
リョーマに絡んでいる二人を睨みつけ、
「つまみ出される前に退散しろ」と跡部は低い声を出した。

「なんだと、てめえ」
「おい、相手はあの跡部だ。やべーよ」
矛先を変えようとした男を、もう一人が慌てて制す。

「懸命な判断だな。ここは俺様が保有している施設の一つだ。
品位を欠いたやつが来るようなところじゃねえんだよ。さっさと出て行け」

跡部の言葉に彼らは「行こうぜ」とそそくさと去って行く。
びびる位なら最初からくだらないことするんじゃねえと内心で思いつつ、
こちらを見ているリョーマに「大丈夫か?」と声を掛ける。

「……大丈夫。そもそも何もされてないから」

リョーマと顔を合わせたのはあの日以来だ。少し痩せて見える。
色んな所で苦労しているのだろうと、胸が痛んだ。
外見は成長しえいるが中身は’12歳’のリョーマのままだ。
あれこれ周囲から言われたり中傷されたりと、理不尽なことの連続ばかりだろう。
まだ二年の空白も埋められていないというのに。


「何も、って色々言われていただろうが。どこの奴らかわかるか?」

とはいっても、リョーマだって今の連中がどこの誰かわかっていなさそうだ。
期待せずに尋ねると、知らないというように首を横に振った。

「さあ。いきなり話し掛けられただけで、見覚えも無いっす」
「こういうこと、よくあるのか」
「え?」
跡部の質問に、リョーマは顔を上げた。

「だから今みたいに知らない奴らからあることないことごちゃごちゃ言われるってことだ。
あるんだろ?
おかしな噂が流れているせいで面倒なことになっているのは、知ってる」

リョーマの手が小刻みに震えているのを見て、辛いことに耐えているんだろうと解釈する。
その苦しみを掬ってやりたいと心から思った。

「俺の方でも色々調べている。
噂を流している奴が誰かわかれば止めることが出来るだろう。なんとかするから、少し時間を」
「どうして?」

リョーマの声は震えていた。
そして跡部の顔を見る。

「どうして跡部さんがそんなことするんすか」

質問の意味がわからず、跡部はゆっくりと瞬きをする。
そんなこと。中傷している犯人を捜すのは何かリョーマにとって都合の悪いことなんだろうか。
まさか。有り無い。
犯人を突き止めたらこの馬鹿げた行為を止められるはずだ。

「大したことはしてねえよ。けどいずれ原因がどこにあるか突き止められるはずだ。
それまで辛抱してくれ」
「そうじゃなくって」

苛々した様子でリョーマは軽く舌打ちをする。

「なんで跡部さんが関わってくるんすか。
俺達、もう別れたんでしょ。助けてなんて頼んでいない。むしろもう関わって欲しくない。
ここが跡部さんの所有するクラブって知っていたら、来たりしなかったのに」
「……」

拒絶の態度を取るリョーマに、言葉が出て来ない。
迷惑に思われるなんて予想もしていなかったからだ。

「俺のことは放っておいて下さい」

そう言って足元のボールを拾って、コートから引き上げようとする。
慌てて跡部はその背中を追い掛けた。
放っておくなんて出来るはずがない。リョーマ一人でどうやって解決するというのだろう。
そうしている間にもまた心無い連中がリョーマを傷付けるかもしれない。
そんなの黙っていられない。

「待てよ、越前!」
ボールの入った籠を持っていない方の腕を掴んで引き止める。
「放せよ!」
声を上げるリョーマに構わず、跡部はぐっと掴んでいる手に力を込めた。

「意地張るなよ。どうやってこの事態を収めるつもりだ。
一人でどうにか出来るはずがないだろう。
俺が力を貸す。何とかしてやるから、だから!」
先を続けようとする前に、リョーマは渾身の力を込めて腕を振り払った。

「俺は……跡部さんだけには助けてもらいたくない。
もう別れたんだから、俺に近付いて欲しくない。なのになんでそんなこと言うんすか」
「それはお前の力になりたいからだ」
リョーマは俯いたまま声を出した。

「そういうことは彼女だけにしてあげたら?
俺は、同情なんていらない」
「越前……」
「さよなら」

逃げるように走って行くリョーマの後姿を見送ることしか出来なかった。

あれだけきっぱりと拒絶されて、何が言えるというのだろう。
プライドの高いリョーマのことだ。
別れた相手に情けを掛けられ、そんな自分がみじめだと思っているのかもしれない。


(同情、なんかじゃない)

跡部としては決してそんなつもりではなかった。
リョーマの手を放してしまった後悔と、せめてもの罪滅ぼしからと、
もうこれ以上苦しめたくないという思いからの行動だった。
それなのに自分がしゃしゃり出たことで、リョーマが傷付くなんて。考えもしなかった。

(だったら、諦めるのか?)

このまま見ないふりをして、リョーマのことは忘れていけばいいというのか。
苦しんでいるのを知っているくせに、素知らぬ顔して婚約者と人生を歩んで行くなんて……。

(出来るわけがないだろう)

例え疎まれても罵られても、この件からは手を引かないと決めている。
二年前のように後悔だけはしたくない。
その為にも早く解決してやるのが、自分の使命だと思った。















「あーとーべー」

翌日、部活に向かうと珍しく起きた状態のジローが話し掛けて来た。

「お前が俺より先にコートに来てるなんてどうしたんだ。
夕べはここに泊まったのか?」
正直に話すと、「今のはちょっと失礼だよ」とジローは頬を膨らました。
「偶然早起きしただけだもん」
「そうかよ。でもいつもこの位に起きて部活に来いよ。
お前が本気を出せばレギュラーにだってなれたのかもしれないのにな」

二年生でレギュラー入りしたのは結局忍足と跡部だけだ。
もっと精進しろというように告げると、「それよりさ」とジローが話題を変えてきた。

「昨日、跡部って中等部の方に行った?」
「なんだそりゃ。どこの情報だ」
ジローが何故知っているんだというように目を向けると、
「跡部は目立つからねー。色々聞こえて来るんだよ」とにこっと笑った。

「中等部に何の用事だったの?」
「……大したことじゃねえよ。ちょっと野暮用だ」

どうしてかわからないが、ジローに追い詰められているような気がした。
いつもの無邪気さとは違う。
じっとりした目線を向けられ、内心で汗をかく。
もしかして、知っているのだろうか。
リョーマの為に動いているということ。
あれほど近付くなと警告したのに、それを無視した自分の行動を責める為に、早く来て待っていたのか。


「あのな、ジロー」
「跡部はどうしたいの」
静かな口調だが、ジローが怒っているのは伝わって来た。

「二年前、さんざん振り回されて、結局捨てられた相手を助けようとしているの?
もう関わりたくない、忘れるんだって俺に言ったよね?
跡部が言ったこと、全部覚えているよ。
なのにどうしてまた踏み込もうとしてるの。おかしいよ」
「ジロー、二年前のことなら俺も悪かったんだ」
「何が!?あの子は跡部を忘れて、しかも向き合おうともしなかったじゃないか。
どうして庇うようなことを言うんだよ。跡部にはあかりちゃんがいるんだよ?
それとも彼女に堂々と言えることをやってるつもり?信じられない」
「ジロー、ちょっと落ち着けや」

慌てた様子で忍足が割って入って来た。
ジローの肩を掴み、「ケンカは止めや。大会前やで」と諌める。

「ケンカじゃないもん。跡部がバカなことをしようとしているから、止めようとしているだけだよ」
「バカなことってなんだ。俺だって色々考えて」
弁明しようとするが「やっぱりあの子の味方をするんだ!」とジローは大声を出した後、コートから走って去ってしまう。

「おい!折角来たのにサボるつもりか!」

あの分だと部活に出る様子はなさそうだ。
溜息をつくと、「ジロー、どうしたんや」と忍足が心配そうな声を出す。

「なんでもねえ。ちょっとした意見の食い違いだ」
説明するのも面倒でそう答えると、忍足は全てお見通しだと言わんばかりに「越前のことやろ」と言う。

「わかっているなら聞くなよ。それともお前も説教がしたいのかよ」
「そうや無いけど、俺もジローと同じ意見や。
お前が何をしたいのかわからんけど、もう関わらん方がええんやないか。
二年も前に終わったことやろ」
「……」

終わったこと、か。
改めて他人から言われると、寂しく聞こえるものだ。

忍足は肩を竦めて「大会前に揉め事は勘弁やで」と釘を刺す。

そんなことはわかっている。
自分が首を突っ込むべきじゃないことだって。リョーマにだって拒絶された。
だけどどうしても、放っておくことは出来ない。

ジローへの言い訳をどうするかが頭の痛いところだが、今この瞬間も覚えの無い悪意を向けられているリョーマに比べたら軽いものだ。

(悪いな、ジロー)

全部終わったらちゃんと説明するからと、心の中で謝罪をした。


2010年03月23日(火) lost 悲劇編 23.越前リョーマ

リョーマがそのスポーツクラブを選んだのは自宅や青学から遠いという理由からだった。
近いと知り合いに会うかもしれない。
練習している姿を見て、また根も葉もない噂が広まるのが嫌だ。
そう思ってわざわざ電車に乗ってまで行こうとしたのだが、そうう時に限って見知った人達と出会ってしまうものだ。


「越前、だよな。……久し振り」
気まずそうに目を逸らしながら挨拶をする堀尾に、リョーマも「久し振り」と固い声を出して応える。
隣にいる二人は髪型も変わり背も伸びているが、カツオとカチローだとわかった。
向こうはリョーマと会ってどう接したら良いかわからないというように黙ったままだ。
同じ電車に乗って会うなんて、そうそうない偶然だ。
心の準備も出来ていないのにと、運命を恨みたくなる。

「どこか出掛ける途中なのか?ひょっとして、その」
リョーマの持ってるラケットバッグに気付き、堀尾は言葉を濁す。
やっぱり噂通りテニス部に戻って来るつもりなのかよ。
そんな疑問の声が聞こえた気がして、「うん、ちょっと」と誤魔化す。

「堀尾達は?部活帰り?」
三人は制服を着ている。だからちょっと時間は早いが練習が終わり、どこかへ寄る所なのかなと考えた。
しかし部活という言葉がリョーマの口から発せられ、そのことに対してカチローとカツオが微妙な反応を示す。
「あー。部活終わったところなんだけど、これからカチローのお父さんがいるクラブへ打ちに行くところなんだ。
大会前にやることはいくらでもあるからな。なんたって青学のレギュラーなんだし」
「堀尾、レギュラーだったんだ」
へえ、と感心したように呟く。
二年の間に何があったのか全く知らなかったので少し驚く。
一年の頃はまだまだレギュラーなんて程遠いと思っていた堀尾だが、努力を重ねてレギュラーになる位に成長したようだ。
ひょっとして他の二人もそうなのだろうか。
目線を向けると、「カチローとカツオもそうだぜ」と堀尾が胸を張って答えた。

「噂の青学トリオとは俺達のことだ。な?カチロー、カツオ」
「……」
「なんだよ。黙ったままでどうした?」

笑っている堀尾を目で制し、カチローが意を決したようにリョーマの方を向いた。
「こんなこと聞くのも変かもしれないけど、リョーマ君はテニス部に戻ったりしないよね?」
「カチロー、何言って」
「堀尾君は黙ってて。大事なことなんだから」
少し大きい声を出した為、車内にいる人達から注目を浴びてしまう。
だがカチローはそれを気にすることなく「はっきりさせておきたいんだ」と言った。
「噂が流れていることを、リョーマ君は知ってる?
記憶が戻って、それでまた前みたいにテニス部に戻って大会に出るつもりだって。そう言われている」
「うん……、知ってる」
頷いてから「誰が流しているかは知れないけど、全部デタラメだから」とリョーマは答えた。
「じゃあ、テニス部に戻って来ることは」
カツオも会話に入ってくる。二人にとってそれは重要なことらしい。
だからきっぱりと「ないよ」と告げた。

「そんな都合の良い話なんてあるわけない。
二年のブランクがあって、しかも一度は退部しておいて。のこのこと戻るなんて、あり得ない」
「越前……」
気遣うような堀尾の声に、リョーマは「でもテニスは続けるつもりだから」と笑ってみせた。
「記憶が戻ってテニスが好きだったことを思い出したんだ。
テニス部に戻るつもりはないけど、俺なりに頑張って行く。それは曲げられない」
「そう、なんだ」
リョーマの出した答えにカチローは俯いて「変なこと聞いてごめん」と謝罪した。

「あの噂が流れてから青学の方に他校の偵察が押し掛けて来ては、リョーマ君のことを聞くんだ。
本当なのかどうかって。後輩達も落ち着かなくて説明しようにもリョーマ君に確かめたわけじゃないから、何も言えなくて。
だから久し振りに会えたのにこんなこと聞くしか出来なくて……」
「僕らも本当ならリョーマ君と一緒に大会に出たかった。一緒に戦えることが出来たらと思っていた。
二年前、なら。
でもテニスを辞めちゃってずっとチームから離れていた人が参加するのは変じゃないかなって話していたんだ。
最近記憶が戻ったばかりのリョーマ君には酷いことかもしれないけど」

そんなことないと、リョーマは首を横に振った。
カチローとカツオが言っているのは真っ当なことだ。
大会を目指してこれまで頑張っていたのに、ひょいっと現われた誰かが参加すると聞かされたらやはり良い気はしない。
他校生に押し掛けられて迷惑もしている。
本人を前にしたら、当然確認したくなるだろう。
そう、頭では理解している。
だけど心は傷付いていた。
あの頃「リョーマ君」と言って何かと近くに居た仲間達に拒絶されることが、こんなに堪えるとは思っていなかった。
見知らぬ誰かに何を言われようと、痛くも痒くもない。
だけどリョーマにとってそれなりに大切だった人達に「もう、お前の居場所はここにない」と突きつけられると流石に冷静なままではいられない。

「おい、次降りる駅じゃないか?」
この場の雰囲気を取り直すように堀尾が明るい声を出す。
「あ、そうだね。リョーマ君、えっと、元気で」
「練習、頑張ってね」

ドアが開き挨拶もそこそこに二人は電車を下りて行く。
さっきの質問の所為で気まずいのかもしれないが、そんな余所余所しい態度にもっと傷付く。
「越前、また今度会って一緒に打とうぜ。俺、上手くなったからよ!」
軽く肩を叩いて、堀尾も二人の後を追って行く。

最後に少しだけ、変わらない堀尾の態度に救われた。
けれどドアが閉まり遠くなって行く三人の後姿に、もうあの中には入れないと思い知らされ、悲しく思う。


二年前に戻ることが出来たのなら、テニスを辞めるなんて絶対言ったりしない。
だけどどんなに悔やんでもどうすることは出来ない。

(俺は俺として頑張るしかないんだ)

溜息をついて、バッグを抱え直す。
前向きになっていたはずの気持ちが一歩後退した気がする。
それでも泣き言なんて言っていられない。
進んで行く他、ないのだから。














しかし続いて行ったスポーツクラブでもリョーマのやる気を削る出来事が起こる。

「青学の越前リョーマだよな」

小一時間程、予約したコートでサーブの練習をした頃だろうか。
まだコントロールが完全に取り戻すことが出来ずパワーも落ちてる自分のサーブに苛々していた。
白線上を狙うことはまだ難しく、それどころかネットを越えないことすらある。
失敗ばかりしていたのは、今よりずっと子供だった頃だ。
あの時もボールが上手く打てずに途方に暮れていた。
それでも諦めずに練習を続けていた結果、大会で優勝出来るくらいになった。
挫けている場合ではないと、一心不乱にサーブを打ち込む。
少しでもコートでの勘を取り戻したくて、何度もボールに手にする。

そんな時だ。見知らぬ誰かに名前を呼ばれて振り向く。

「随分お粗末なサーブじゃないか。それで大会出ようっていうのか?」
「まさか冗談だろ」
「だよなあ」

二人組の男は、今のリョーマとそう変わらない位の年に見えた。
しかし見覚えはない。
無視してサーブを打とうとすると、「おい、待てよ」と声を上げて近付いて来る。

「全国大会出るって話はどうなっているんだよ。本当なのか?」
「人違いじゃないっすか?俺は越前じゃないっすよ」
一瞬怯むがもう一人が「嘘付け。お前、越前だろうが!」と叫ぶ。
「隠すってことはやましいことでもあるからか?
青学のエースがこのままじゃ優勝どころか初戦敗退もありえるからなあ」
「あんた達も大会に出るんすか?」

他校の部員かと当たりを付けて言うと、「俺らのことはどうでもいいんだよ!」と返される。
「そうだよ。あと一歩で青学を追い詰めてやれたのに」
「次に当たれば俺らの勝つよな?」
ぶつぶつと文句を言っている様子から、都大会辺りで青学と当たって負けた学校かと推測する。

「それで?俺は大会に出るつもりはないし、予定もないんだけど。
わかったならどいてくれる?邪魔なんだけど」

リョーマの言葉に二人はさっと顔色を変える。

「なんだよ、その言い方は」
「二年間もテニスを捨てた奴が今更偉そうにコートに入ってくるんじゃねえよ」
「そうだよ。ラケット置いて帰れよ」

何故、見知らぬ人達からここまで言われなくてはいけないのか。
ただテニスを続けていたいのに。
記憶喪失になった間、テニスから離れていたというのがそんなに悪いことなのか、自分がどうしてたかなんて覚えていないのに。

言い返そうとしたその時、
「お前ら、そこで何してる」と鋭い声が割って入って来た。

「まさかケンカじゃないだろうな。あーん?」

こちらへと歩いて来る人物を見て、リョーマは言葉を失う。

出来ればもう顔を合わせたくないと思っていたのに。
それに、こんな場面を一番見られたくない人なのに。

こちらに向かって歩いて来る跡部に、どうしてここにいるんだと心の中で呟いた。


2010年03月22日(月) lost 悲劇編 22.跡部景吾

「結局、全部喋ってしまいました。出しゃばるようなことをしてすみません」
「あ、いや。お前が謝ることなんてねえよ。
俺だって本当は跡部に言うべきだってわかっていたんだ……」

申し訳なさそうな顔をする鳳を前に宍戸は軽く首を振った。
さっきのことは、鳳が正しいと思う。
このまま跡部に隠して解決出来るはずがないと思っていた。
けれど、それでも口に出せなかったのは話したことによって何か良くない方向へ進んで行きそうで怖かったからだ。
あの頃の跡部がリョーマをどれほど強く想っていたかよく知っている。
だから二人が接触したら、また二年前に逆戻りしてしまうんじゃないかと心配して、
どうしても言うことが出来なかった。

今の 跡部には、婚約者がいる。

親が薦めた相手を振って、リョーマを選んだりしたらどんなことになるか。
宍戸でもその位、想像がつく。
無意識にリョーマから遠ざけようとして、話すことが出来なかったのかもしれない。
その切っ掛けを自分が作ったらと思ったら、怖くて―――。


「宍戸さん」
鳳の声に、顔を上げる。
「跡部さんに、任せた方がいいと俺は思います」
「そう、だな」
知ってしまった今、どうするのか選ぶのは跡部だ。
彼なら後悔のない道を進んでいくはずだ。
それを助けることこそが、あいつの為になるはずと宍戸は自分を納得させる。

「ありがとうな、鳳。お前が言わなかったら、俺はあいつにずっと嘘をついたままだった。
間違っているとわかっていても、知らないふりしているなんて友達じゃないよな。
後で知って傷付くのは跡部なのに、そんなこともわからなかった俺は馬鹿だ」
「俺はそうは思いませんよ」

にこっと、いつもの人当たりの良い笑顔を浮かべて鳳は言った。

「跡部さんのことを心配している気持ちが本物だって、わかってます。
だから出来るだけフォローはしてあげて下さい。
跡部さん、ああ見えて色々繊細ですから。友達が側にいると心強いと思いますよ」
「さっきは任せておけって言ったくせに」
「そうですけど。跡部さんだって、話し相手くらいは欲しいんじゃないですか」

鳳の言葉に、そんなこと言うやつじゃねえよと言いながら宍戸は笑った。
でも、そうだ。今はフォローに回ることだけを考えよう。
最後のところで間違わずに済んだ。友達として、やれるべきことを自分はすればいい。





















リョーマに降りかかった厄介ごとを解決するにはどうしたら良いか。
まずは情報が必要だと、跡部は氷帝の中等部に顔を出すことから始めた。

あれから宍戸と電話で話をして知ったのは、各学校の中等部のテニス部を中心にろくでもない噂が出回っているということ。
誰が何の目的があってやっているのか、まだわかっていない。
それでまず中等部の部員に聞いてみようと考えた。
現部長とは当時一年生だった為あまり関わりがなかったが、顔を名前は知っている。
すぐに部室で会う約束を取り付けた。

その現部長は勿論跡部をよく覚えていて、緊張した面持ちでこの訪問が何事かと視線を彷徨わせている。

「そう緊張するな。中等部のやり方に口を出しに来たわけじゃない。
全国大会出場が決まったんだってな。頑張っているじゃねえか」
「せ、先輩達の威光を引き継いで、せいっぱいやらせて頂いてます!」
上擦った声に、まあ座れと指示をする。
もう跡部は中等部の人間ではないのだけれど、この部室を作らせた本人だ。
主のように振舞う跡部に何の疑問も持たず、現部長はぎくしゃくとした動作で椅子に腰掛けた。

「今回俺がここに来たのはプライベートだ。聞きたいことがあってな」
「それは、一体……?」
「青学の越前リョーマに関して何か噂とか聞いたことは無いか」

何故跡部がそんなことを聞くのか。一瞬腑に落ちない顔をするが、すぐに取り直したように口を開く。

「それでしたら何回かメールが回って来ました。
大会に復帰するかもしれないだの、彼女を捨てた酷い奴だの、根も葉もないレベルなので放置しておきましたが」
「誰から回って来た?」
「面白がった部員達から何件か。あまり感心しないことだと咎めてからは俺の所にはメールしなくなったようですけど」
「そうか。そいつらは誰から聞いたのか、知っているか?」
「えーっと、たしか最初の奴は他校のテニス部のやつからだって聞いてます。もう一つのはテニスコートで知り合った人から送ってもらったとか」
「誰からなのか、詳しく聞いてくれないか。出来れば出所を知りたい」
「わかりました」
跡部からの言葉に、現部長は大きく頷いた。

まず誰が出所なのか、突き止めたい。
悪戯にしては悪質だ。
犯人を見付けたら止めさせるつもりだ。
話が通じない相手なら、こちらも相応の手段を使ってやる。

(一体何をしたいのか知らないが、あいつに危害を加えたことを後悔させてやる)

他校を含めてテニス部中心に噂を流しているのは、何かしらの意図があるからだろう。
何が何でもリョーマをテニス部に復帰させたくない、とか。
ふと思いついた疑問を、跡部は口にしてみた。

「そういやお前はメールを見た時、根拠の無い噂だって思ったんだよな。
けどそれが噂じゃなく事実ならどうした。
越前リョーマが大会に復帰したらまずいと思うか?」

少し考えてから、彼は答えを口にした。

「二年前の大会で活躍したことはよく覚えています。強敵になるでしょうね。
けどずっと公式試合に出ておらず、テニスを続けていたかどかもわからない相手にうちの部員が負けるとは思えません。
出るなら叩き潰す。その位の気持ちで挑みます」
「そうか」
萎縮しているかと思えば、言うべき所は言う。
氷帝の強さはちゃんと引き継がれているようだ。
その答えに満足して跡部は頷いた。
「じゃあ結果は追って連絡してくれ。忙しいところ、悪かったな」
「いえ。跡部先輩の顔を見たら何だか大会に対して気合いが入りました。
また来て下さい」
素直な言葉に少し笑って、跡部は懐かしい中等部の部室を後にした。


(中等部に来るのも久し振りだったな)

リョーマとの思い出が残っている為、顔を出そうという気にずっとなれなかった。
しかしいざ向き合うと決めたら、不思議なもので以前のような苦しいという気持ちにはならなかった。
今はそれよりもどうしたらリョーマの為に解決してやれるか。それだけが心を占めている。

当時の自分が行ったことに対しての罪滅ぼしというわけではない。
理不尽な仕打ちを受けているリョーマに手を差し伸べてやりたい。それだけだ。

懐かしさから、跡部はふらっと校門から外へと出た。
車は連絡したら来るように指示してあるからこのまま自力で帰った所で問題はない。

(たまにあいつが氷帝に迎えに来て、一緒に歩いて帰ったりしたよな)

車だとすぐに到着してしまう。二人の時間をもっと楽しみたいと考えて、わざと徒歩で帰った。
暑いのに、車に乗った方が楽だとかぶつぶつ言いながらも、リョーマも一緒に歩いてくれた。
あの頃は、そんな些細なことですら幸せだった。
何故今は一緒に笑い合っていた二人が離れ離れのままでいるのか。

(リョーマが記憶喪失さえならなければ、今とは違う未来があったはずだ)

無駄だとわかっているが、何度だって考えてしまう。
あの夏に戻ることが出来たなら、決してリョーマから離れることなく決勝までどこかに閉じ込めていただろう。
たとえ罵られても、殴られても。
こんな未来になるよりはマシなはずだ。
一番大切だったはずの人を失う位なら、自分は躊躇いも無く卑怯な手段を使う。

(しかし考えたところで、時間は戻らない)
認めたくないが跡部にも出来ないことはある。
時を戻るなんて映画や小説じゃあるまいし、不可能な話だ。
今のこのどうにもならなくなった状況をどうにかするしかない。

だがそれでリョーマと友達に戻るとか、そんなことは考えていない。そうしたいとも思わない。
会えば辛くなるだけだ。
けれど鳳から今回の件を聞いてしまった今、放っておくことは出来ない。
せめてこれの件だけで力となってやりたいと思うのは、エゴなんだろうか。

(あいつが聞いたらなんて思うだろうな)
解決の目処がついたなら、リョーマと直接会って問題は無くなったと伝えてやりたい。
そうして沈んでいる心が少しでも浮上出来るなら、なんだってやるつもりだ。
自分が出来るのは、その位しかないのだから。


2010年03月21日(日) lost 悲劇編 21.跡部景吾

リョーマのことを考えて、昨夜はほとんど眠れなかった。
それでもレギュラーの残る一枠が決まる大事な試合を見届けなくてはいけないと、
いつも通りに起きて学校へと向かった。

校門の近くで車から降りて中へと入る。
夏休みということもあって部活がある生徒以外はいないので、いつもより静かだ。

「おはよー、跡部」
眠そうな声の挨拶に振り返る。
目を擦りながらジローが立っていた。
「おはよう……って、珍しいな。
ちゃんと遅刻しないで来れたのは久し振りじゃねえか?」
「うん。母さんが朝からレンジが壊れたーって騒いでいて、その声で起きちゃった。
試合もあるし二度寝は止めるかって着替えて出たら、ちゃんと間に合った」
「いつもそうしろ。つか二度寝するな」
「だって二度寝って気持ち良いんだもん」

えへへ、と笑うジローを見て、もし昨日のことを話したらどなるのかと考える。
きっと怒るに違いない。
どうしてリョーマと接触したのか、関わったりするのかと。
激しく叱責してくるはずだ。

しかしそうさせているのも、自分の所為だ。
あの時、リョーマが悪いという言い方をして完全に自分は被害者だということをアピールしていた。
慰めてもらい、ジローと一緒にリョーマのことを悪く言うことで、失った悲しみから目を逸らそうとした。
そんなのただの責任転嫁だ。
本当は、わかっている。
自分は間違ったやり方をした。
だから記憶を失くしていたリョーマは、跡部を拒絶した。
『もう二度と、顔も見たくない』
そこまで言わせたのは自分の所為だ。
しかしそれはジローに隠している。
軽蔑されるのが怖いからだ。
おかげでジローはリョーマが何もかも悪いと思い込み、今も嫌悪感を抱いてる。

やはり全部話すべきだろうか。

「忍足がレギュラーになったらお祝いしようよ。どこでやろうかなー」
笑顔で話をしているジローの横顔を見て、跡部は今も迷っていた。
本当のことを言って軽蔑されるのが怖い。
今まで黙っていたのかと、きっとジローの信頼を失ってしまう。
今日ここまで友人として支えてくれたジローを失いたくないという気持ちの方が大きい。

(俺は卑怯者だ……)

自分に都合の良いことばかり考えている。
それで大切なものを守ることが出来るのだろうか。

きっと取り返しがつかなくなる時が来る。

結局何も話せないまま、ジローとはそれぞれの部室へと別れた。








試合の結果は予想通り忍足のレギュラー入りとなった。
二年生にレギュラー入りさせてたまるかと三年生達も奮闘したのだが、
後一歩が及ばないまま終わった。
「ありがとうございました」
最後の試合を終えて、忍足は嬉しそうに笑顔を覗かせている。
ここでの努力が報われたのだ。
嬉しくないはずがない。

と、コートの外でキャアっと黄色い声が上がる。
見ると女子テニや他の部の子や、中等部の生徒までが忍足を見て騒いでいる。
ファンだろうか、と跡部は思った。
中等部から忍足に女生徒のファンがいたことは覚えている。
最も、テニス部のレギュラーには誰かしらファンが付いているのだが。
しかしその頃より更に増えている。
女性には親切で、その上、特定の相手の相手とは長続きしないということで、
次こそは自分がと狙っている女子が多いのかもしれない。

「忍足、すごい人気。でも前は跡部の方がすごかったよねえ」
いつの間にか試合を終えたジローが、欠伸をしながら話し掛けて来た。
「けど跡部に婚約者がいるって噂になった途端、皆離れていったんだよねえ。
少し寂しい?」
「バカ言え。騒がれても迷惑なだけだ。
それにまだ婚約はしてねえよ。お付き合いだけだ」
「いずれはそうなるんでしょ。
でも彼女がいればもう充分だよねえ」

にこにこと笑うジローに、実はあかりのことは愛しているわけじゃない、
そう言ったらどうなるのか、想像して身震いする。
可愛いとも、大切だとも思う。
けれどリョーマに感じたような情熱はどこにもない。
それでも救われたという恩があって、離れることは考えていない。
つくづく最低だと、自分自身を嫌悪する。

「おーい、ジロー!」
「なあに、忍足。ファンの子が呼んでるよ。サービスしなくていいの?」
からかうように言うジローに、「アホ」と忍足は笑って返す。
「呼ばれてんのはお前や。ジロー先輩呼んでくれって言われたで」
「え、俺?」
「知り合いと違うんか」
忍足が指差した方向に視線を向けると、
長い髪を二つに分けて肩で結んでいる女子と、ショートカットの癖毛の子がぺこっと頭を下げる。
いずれも中等部の子だ。
「あー、うん。ちょっと行って来る」
「ジロー、すぐ戻って来いよ。部活中だからな」
釘を刺すと「わかってる!」と声を上げて行ってしまう。
すぐに女子二人と合流し、楽しそうに会話しながらコートから離れてしまう。

「なんだ、ありゃ。ジローのファンか?」
「知らんが親しげやな。これはひょっとして本命の登場かもな」
「ふーん。今度はどれだけ続くだろうな」
寝るだけにしか興味がなさそうなジローだが、意外ともてるのだ。
可愛いと評判で、告白される数も少なくない。
しかしデートしようにも睡眠の方を優先させて、結局最後には振られている。
また振られたーと、よく愚痴を言っているが、「ちゃんと起きろよ……」としか言いようが無かった。

「それより、とうとうレギュラー入りだな」
忍足の目を見て言うと、「ああ」と僅かに頷く。
「目標は全国制覇やろ。頼むで、大将」
「だたら今まで以上にトレーニングに励むんだな。
温いやり方じゃ、いつまでも補欠のままだぜ」
「うわっ、キツっ。けど期待に沿えるよう頑張ってみるわ。
またお前と全国に行けるようになって、ほんまに嬉しいんやからな」
「ふん。だったら一つでも勝て。氷帝の優勝に貢献するんだな。
それこそ俺に回さない位の勢いでな」
「了解。跡部部長」

ニッと笑顔を向けてから、忍足はまだフェンスから離れようとしない女子達の方へと向かう。
今は部活中だからと、追い払っている。
ご苦労なことだと苦笑する。

(忍足のレギュラー入りが決まったことだし、明日からレギュラー用のメニューに参加させないとな)
そうだ、部室もこっちに移動しなければならない。
今日からで良いのか、副部長に相談しようと探していると、
不意に‘彼の名’が耳に届く。


「で、越前の噂の出所はまだわからないのかよ」
「それが色んな人から聞いたって話がごっちゃになっているらしくて、
メールでも回っているみたいですし」
「メール?そんなんで越前の悪口回しているのか?」
「俺に怒らないで下さいよ……」
「あ、悪い」

耳を澄まして聞いてみると、たしかにリョーマのことを話している。
この声は宍戸と忍足だ。
しかし、一体どういうことなのだろう。
何故この二人がリョーマに関わっている?
しかも噂とか悪口とか、不穏な単語ばかりだ。

居ても立ってもいられず、跡部は二人の前に飛び出した。


「今、話していた内容はなんだ」
「跡部……」
「言えよ。越前のことなんだろ」
「……」
「黙ってないで、何とか言え!
それとも俺には話せないことなのか!?」
黙っている宍戸の肩を揺さぶると、「止めて下さい」と鳳が止めに入って来る。
「宍戸さんを責めないで下さい。跡部さんのことを思って黙っておこうと決めたんですから」
「そんなこと頼んでねえよ!
越前のことで隠し事される方が、不愉快だろうが!」

何を言っているんだと鳳を睨みつけるが、全く動じることはない。

「そうですか。じゃあ言いますが、たしかに俺達は越前君のことで話をしてました」
「おい、長太郎!」
「宍戸さんは黙ってて下さい。
跡部さんにこれだけは言いたいんです」
ぴしゃり、と間に入ろうとした宍戸を止める。
そして鳳はもう一度、跡部に向き直る。
「それで越前君のことを跡部さんに報告して、どうするんですか」
「決まってるだろ。あいつが困っているのなら手助けしてやりたいと思っている」
「それが余計なお世話だって言うんです」
「お前、何を言っている?」
鳳は冷静な声で答えた。
「越前君の気持ちも考えてあげて下さい。
婚約者がいる跡部さんに手を貸してもらいたいなんて、思うわけないでしょう。
むしろ関わっただけ、辛くなる。
最後まで面倒見られないのなら、最初から手を出さない方がいいんじゃないですか。
中途半端なことはするべきじゃない。俺はそう思います」
「……」

返す言葉が無かった。
呆然として立ち尽くしていると、「行きましょう、宍戸さん」と鳳は宍戸の袖を引っ張る。
「けど、跡部が」
「跡部さんは、少し頭を冷やすべきだと思います」
その言葉に納得したかはわからないが、宍戸は渋々というように鳳と一緒に、この場を離れて行った。

一人になった方がありがたかったので、引き止めることなく跡部はじっと俯いていた。


自分は中途半端なことをしようとしているのか。
リョーマにとって迷惑な存在にしかならないのか。
友人として、側にいることさえ出来ない。

なんて悲しいのだろう、とぐっと拳を握り締める。
これでは記憶を失くした時よりも、ずっと苦しくて辛い。
リョーマが何かしらの困難に巻き込まれているとわかっていて、助けることも出来ないなんて。


(いや、出来るはずだ)

ゆっくりと、跡部は顔を上げる。

中途半端?迷惑?
そんなもの、全部リョーマの都合だけでしかない。

知ったことか、と小さく呟く。

自分が助けたいと思ったから、そうする。やりたいようにやってやる。
このまま見過ごすことなんて出来るものか。
それこそが跡部景吾のやり方だ。

何を言われても構わない。
必ずリョーマの抱えるトラブルを解決してやる。
その後で文句を言われても、どうでもいい。
迷惑だと言われても知るものか。

見てろよ、と誰とも無く宣言する。


久し振りに自分らしさが戻って来たような、そんな気がした。


2010年03月20日(土) lost 悲劇編 20.越前リョーマ/跡部景吾

すっかり忘れていた。
体力は以前と違ってかなり衰えている。
息が切れた所で、リョーマはゆっくりと立ち止まった。

「にゃろう……」

たったこの程度の距離も完走出来ないなんて情け無い。
けど跡部から離れることが出来たんだから、いいかと思って歩き出す。

「おーい、越前君待ってよー!」
聞こえて来た声に振り返ると、千石が手を振ってこちらへと走り寄って来る所だった。
「突然帰っちゃうんだもん。びっくりしたよ」
「ごめんなさい……」
確かに千石を放置して逃げたのはまずかった。
友人に対して失礼なことをしたと反省して謝罪する。

「いーよ、別に気にしていないから。
それより良かったの?跡部君と話をしなくて。
相談したら、今回の件に力を貸してくれるかもしれないよ?
跡部君なら簡単に解決出来そうだし」
「やめて下さい!」
自分でもびっくりする位、大きな声が出た。
言われた千石は驚いたように目を見開く。
やり過ぎたと感じ、もう一度リョーマは「ごめん」と謝った。

「けど跡部さんは……、あの人だけは巻き込みたくないんだ」
「どうして?本人はすごく気にしているようだったよ。
きっとまだ越前君のことを好きなんじゃないかなあ」
千石は隠すことなく本当のことをずばりと言う。
そんな所は嫌いじゃない。
腫れ物に触れるような扱いよりマシだ。
なのでリョーマも本音で答える。

「だから嫌なんです。跡部さんには今、付き合っている人がいるんでしょ」
「それが何?まさか跡部君の幸せの為に身を引くとか考えてる?
だったら言わせてもらうけど、越前君に未練を隠して彼女と付き合う方が不幸だと思わない?」
「思わないっす」
きっぱりとリョーマは断言する。
「跡部さんは俺なんかのことを忘れて、その人と添い遂げるべきなんだ。
家柄や容姿も誰もが認めるような人の方が似合っている。
俺じゃ最初から不釣合いだったんだよ……」

最後は自分に言い聞かせるように言った。
跡部が気に掛けてくれたのは嬉しかったが、勘違いしてはいけない。
彼との道はもう別れているのだ。
このまま関わらないようにするのが、ベストだと思った。

「……わかった。
越前君がそこまで言うのなら、もう無理に跡部君と会うべきだ、なんて口にしない」
降参、というように千石は軽く首を振った。
「辛い選択になるけど、大丈夫?」
リョーマはゆっくりと頷いた。
「あの日から覚悟していたことだから」

跡部に別れを告げられた日に、決めていた。
この先、偶然どこかで出会っても関わるようなことはしないと。
会っても知らん顔して跡部から距離を取るんだと。

(ただ、気持ちだけはどうしようもないけど)

会えばやっぱり好きだという感情が溢れて来てしまう。
心が揺れなくなるのはいつの日になるだろう。
それには沢山の時間を必要としそうだ。

千石と一緒に駅に向かって歩きながら、リョーマは内心で溜息をついた。












まさかリョーマと再会するとは思わなかった。

今一つ晴れない心を抱えて、気まぐれに徒歩で家へと向かう途中、
ふとストリートテニス場に寄ってみようという気になった。
そこはリョーマと初めて出会った場所だった。


『それよりそこにサル山の大将さん。俺と試合しようよ』

一年生のくせに物怖じすることなく、真っ直ぐ挑んで来たその目に興味を持った。
それが都大会でリョーマと日吉の試合を見て、興味は別の気持ちへと変わった。
手に入れたい。あの目をこちらに向かせたい。
初めはこちらだけが関心持っているのが気に入らなくて、
無理矢理リョーマに付き纏う形で存在をアピールした。
名前すら知らないと言われた時には脱力したものだ。

俺ばかりが気にしているなんて、許せない。
そう思って、帰り道に待ち伏せしては乗り気じゃないリョーマを引っ張って、
あちこちへと連れ回した。
こうやって一緒に居れば、いずれリョーマの方が俺を必要とするだろう、と。
頃合を見計らって、青学に行くのは止めた。
精々気にすればいいと思った。
いつ現れるのかとそわそわして、もしかしたら氷帝にまで様子を見に来るかもしれない。
その時が楽しみだと想像して笑っていたのだが、
いくら待ってもリョーマが姿を現すことは無かった。

結局痺れを切らし、俺は再び青学を訪れた。
まだ練習時間だったが構うことなくコートへと向かって行く。
そしてそこで見たものは……。
いつも通り元気いっぱいにコートを走り回る姿と、
他の連中に可愛がられているリョーマの姿。

ぷちっと、何かが切れた。

「おい、越前!」
声を上げると、当然コートの中にいる部員達が振り返る。
それに構うことなく「こっちに来い!」と声を出す。
「ちょっと、あんた何してんの!?」
目を丸くしながらもこちらに来ようとしないリョーマに苛立ち、
ついにはフェンスの中へと乗り込む。
手塚が九州に行っていて助かった。
居たら間違いなく阻止されていただろう。
他の連中はオロオロしてるか、硬直してるか、面白がって見ているだけだった。
それを良いことにリョーマの腕を掴み、強引に外へと連れ出す。

「痛いっ。何なんだよ、もうっ」
人気がいないことを確認して、やっと腕を解放する。
文句を言いながら、リョーマはこちらを睨んで来た。
「何しに来たんすか。ハッキリ言って練習の邪魔なんだけど」
「お前は俺より部活を取るのか!?」
「意味わかんないし。普通、部活でしょ」

ふん、と横を向くリョーマに「言いたいことはそれだけか?」と肩を掴む。
「ここ数日、俺がいなくて寂しいとか会いたかったとか、そんな言葉はねえのかよ!?」
「はあ?ある訳ないし」
何それと眉を寄せるリョーマに、がっくりと肩を落とす。
期待していたわけじゃないが、あまりにも冷たい反応に心が苦しくなる。
やっぱり気に掛けているのは自分だけなのか。

黙っていると、
「あんたはどうなの?」と今度はリョーマから質問される。
「頼んでもないのに頻繁に俺に会いに来てさ。
あんたは一体、何を考えてんの?」
「何って……」

そこでやっと俺は自分の気持ちに気付いた。
リョーマに関心を持ってもらいたい。
いつも自分のことを考えてほしい。
そう思うのはきっと……好きだからだ。

自覚した気持ちに動くことが出来ずに固まっていると、
「変な顔」とリョーマは小さく吹き出した。

その笑顔にまた、好きだと思った。






全ての始まりであるストリートテニス場の階段を上がりながら、
跡部はあのことを思い出していた。
この記憶もいつか、薄れていくのだろうか。
まだ辛いことだが目を背けてはいけないと、リョーマのことを考えながら一つ一つ上がって行く。
そして到着すると同時に、少し離れた所で数人が一人を小突き回している場面に遭遇した。
仲間内のケンカなら通り過ぎていただろう。
しかしそれがリョーマだと気付き、瞬時に全身が熱くなった。
どうしてリョーマがここに。
いや、それよりも誰に絡まれている?
助けなければと思って近付こうとする前に、千石が駆け寄って行くのが見えた。
千石がいるなら安心だと思ったが、
念の為にリョーマに絡んだ連中の顔をポケットから取り出した携帯で写す。
もしもの時の保険だ。
そして事態が収まらなさそうな雰囲気に、今度こそリョーマの元へと向かう。
聞こえて来る会話からリョーマのことが相当気に入らないのだとわかる。
大会?
何の話だと考えながら、走って千石を殴ろうとする男の手を間一髪で止めた。

連中はあっけない程、簡単に退散した。
それから未だにしゃがみ込んでいるリョーマを起こそうと、手を差し伸ばしたのだけれど……。
振り払われた上、拒絶された。
もう関わらないで欲しいとまで言われる。

ショックだった。
友人としても関わってほしくないと言われるとは思ってなかった。
しかしリョーマの目が悲しみで満ちているのに気付き、
嫌いだからそんなことを言ったんじゃないんだと理解した。
多分、自分にはもう彼女がいるからそっちだけを大切にしろと釘を刺したのだろう。
それにまるで戒めのように言っているようにも聞こえた。

(お前はどんなことからも逃げるような奴じゃなかったよな。
なのに今日は走って行ってしまった。
そうさせたのは、俺の所為なのか……)

リョーマの気持ちを汲んで、追う事はしなかった。
ただ千石に「頼む」とだけ言って、後を追わせた。
自分が行けばますますリョーマの心は頑なになる。
それがわかっていたからだ。



(俺はこれからどうするべきなんだ)

何かトラブルを抱えているのは間違いなさそうだ。
でなければ、あんな他校生達に絡まれるはずがない。

調べるべきか、放っておくべきか。

跡部は今、重大な岐路に立たされていた。


2010年03月19日(金) lost 悲劇編 19.越前リョーマ

じっとこちらを見ている彼らに、関わらないでおこうとリョーマは思った。
そしてすぐに体の角度を変える。
目を合わさないようにやり過ごそうとした。
しかし相手は逆のことを考えていたようだ。

「お前、青学の越前リョーマだろう」
一人が話し掛けて来る。
悪意があるように聞こえるのは気のせいだろうか。
「おい。無視するんじゃねえよ。こんな所で何しているんだ。
秘密の特訓か?」
「だとしたらあの噂は本当なのかよ」
「人に迷惑掛けておいて、のこのこと大会にエントリーするのか。
天才様は俺ら凡人とやる事が違うねえ」
ギャハハ、と下品に笑う彼らを、リョーマは必死で無視をした。
相手にしてはいけない。
反論しても聞くような連中では無いことは見てわかる。
放っておこうとひたすら視線を下に向けた。

大体、青学の関係者でも無い彼らに、何故あれこれ言われなくてはいけないのか。
これがかつて一緒に戦った先輩達や、現在迷惑を掛けている青学の部員にならまだわかる。
謗られても甘んじて受ける覚悟は出来ている。
しかし部外者からこんな風に言われるのは納得出来ない。
ありもしない話を鵜呑みにして攻撃してくるなんて。
何か迷惑掛けたのかよ、とリョーマは心の中で呟く。
口に出せば騒ぎ立てられるのはわかっているからじっと黙っているが、
腹立たしい気持ちでいっぱいだ。

「おい。黙ってないでなんとか言えよ」
一番長身の男子が、リョーマの肩を小突く。
それでも何の反応もしないことに苛立ったのか、次々と別の者も手を出して来る。
リョーマの肩を小突きながら、連中は罵りの言葉を浴びせる。
「お前みたいな奴、二度とコートに出る資格は無いんだよ!」
「遊び半分で出てこられると迷惑ってわからないのか?青学の連中だってそう思っているぜ」
「さっさと辞めちまえ。
お前にはラケットを持つ資格は無い。それも放せよ」
千石から借りたラケットを奪われそうになり、咄嗟に両手で抱きかかえた。
ここまでされる覚えはない。
睨みつけると、「何だよ、その目」と言われる。

「ちょっと全国で活躍したことがあるからって、調子こいてるんじゃねえぞ」
「そうだ、そうだ!もう二年も前の話だろ。一度辞めた奴はすっこんでろ!」
「これまで遊んでいたくせに途中から出場するなんてずるい手使いやがって。
卑怯だよなあ。すぐに辞退しろよ」

彼らの言っていることは的外れなことばかりだけど、
それでもリョーマの心を傷付けるのには十分だった。
青学にいる同級生達も噂を聞いて同じようなことを考えているのだろうか。
だとしたら、居た堪れない。
しかし噂は出鱈目と否定した所で信頼を失ったことには変わりない。
記憶が無かったこととはいえ、一度テニスを捨てた身だ。
再びラケットを持ったと知ったら、良い気分はしないだろう。
思っている以上に辛い現状だと、リョーマは目の前にいる彼らを忘れて、フッと自嘲する。

それを笑われたと勘違いし、一人が「何笑っているんだ!」と声を上げる。
そして長身の彼がリョーマの肩を突き飛ばす。
思ったより強い力だったので、ベンチから落とされて尻餅をついてしまう。
「いい気になっているんじゃねえぞ」
座り込んだリョーマを見下ろす形で近付いて来る。
殴られるのかな、と身構えた瞬間、
「越前君!!」と千石が走り寄って来た。

「大丈夫!?」
慌てた様子で千石は庇うように男とリョーマの間に入った。
手に持っているペットボトルを握りつぶしてしまいそうな勢いで連中を睨みつける。
すると、彼らもさすがに怯んだ様子に変わった。

「一体、何の権利があって越前君を非難するんだよ。
どんな迷惑を掛けたか、言ってみろ。さあ!」
千石の剣幕に押され、
「いや、俺達はただ……なあ」
「そんなつもりじゃ」
途端にいい訳じみたことを言って逃げようとする。
千石がいるとわかった途端、これか、とリョーマは鼻白む。
所詮、大勢で寄って集って文句を言うことしか出来ない。
気にするまでも無いと立ち上がろうとしたが、
斜め前にいた最初にリョーマを小突いた長身の男に軽く蹴り飛ばされてしまう。
油断していた所為で、もろに肩に当たった。
響くような痛みに、再び蹲る。

「おいっ!お前、今何やったのかわかってるのか!?」
千石の怒声にも怯えることなく挑発的な目を向ける。
「前からこいつのこと気に入らなかったんだよ。
しかもテニスを辞めたくせに、のこのこと大会にエントリーしようなんて舐め過ぎだろ。
俺がこいつに迷惑なことしてるって教えてやってるんだ」
「だからって、こんな!」
「あ?何、やる気っすか。別にいいけど。
こっちは大会も途中で敗退して暇だし。
けどあんたはまずいんじゃないの。大会の前に不祥事なんて、どうなるんでしょうねえ」

殴れるもんなら殴れ、と薄ら笑いを浮かべている。
性質の悪い奴だ。
仲間はそんな彼に引いているというのに、よっぽど自分のことが嫌いなのか、とリョーマは思った。

「ほら、殴れよ。俺にムカついているんだろ」
拳を震わせている千石を見て、リョーマは痛む肩を押さえながら声を上げた。
「千石さん、ダメだよ!こんな奴、殴る価値も無い!」
「リョーマ君?」
「馬鹿みたいな言い掛かりを間に受けてもしょうがない。
俺なら大丈夫。だから、もういいよ」
リョーマの言葉に、千石は「わかった」と手から力を抜いた。

「だってさ。越前君に感謝しなきゃね。
俺が殴っていたら、コート脇まで吹っ飛んでいたと思うよ。
わかったら、さっさと行っちまえ」

馬鹿馬鹿しいと千石は顔を背けて、リョーマを立ち上がらせようと手を差し出す。

そんな態度がまた相手の怒りに火を注いだのだろう
リョーマに続き、千石にまで馬鹿にされた。
屈辱に、顔が歪んでいる。
「お前らみたいに中途半端にテニスしている奴が、一番ムカつくんだよ!」
カッとなって腕を振り上げる。

「危ないっ!」
リョーマは声を上げた。
自分の所為で千石が怪我なんてしたら、きっと一生後悔する。
けれど庇うにも地面にへたり込んでいる状態ではどうしようもなくて、
助けて、と目を瞑ったその時、
「何してやがる」と聞きなれた声が耳に届いた。

そっと、目を開ける。
そこには男の腕を片手で止めている跡部の姿があった。

「跡部、さん……?」
どうして彼が、ここに。
信じられない思いで、目を見開く。
跡部は「一部始終を見ていた。お前らのしたこと、学校に報告してやっていいんだぜ」と冷たい目をして言った。
側で聞いている仲間達の顔が瞬時に強張る。
「なっ、どこの学校かなんてわからないくせに」
「ふん。お前らの面はさっき携帯で撮らせてもらった。
あちこちに転送すればどこに通っているかなんて、誰かは教えてくれるだろうなあ」
「ひ、卑怯だぞ!」
上擦った声で抗議しても、どちらの立場が上なのか、もうハッキリしていた。

跡部は無表情で「去れ」と命令する。

「卑怯なのはどっちだ。
部外者がこいつを非難する権利はねえんだよ。
わかったのなら二度と関わるな。
本当は許せない所だが、こいつが相手にするなって言うからな。
この場から去るのなら今回は忘れてやろう」

跡部の出した恩情とも言える案に、
「おいっ、行こうぜ!」と仲間達は呆然としている長身の彼を引っ張って、退散して行く。
脅しではなく本気だとわかったのだろう。
振り返ることはなく、彼らは行ってしまった。

「跡部君、助かったよー。でもなんでここに?」
礼を言いつつ不思議そうな顔をする千石に、
「偶然だ」と跡部は言った。
「それより越前、立てるか」
ほら、と未だにしゃがみ込んでいるリョーマに手を差し伸ばして来る。

以前はこの強引で、だけど優しくもある跡部の手が好きだった。
いつでも知らなかった世界を見せてくれる、そんな魔法のようなものだと思っていた時もあった。
テニス漬けの日々から騒がしく、時に苛立ったり、恥かしくなったり、蕩けそうにもなった。
跡部の手に導かれて、恋を知ったのだ。

でも今は。
―――別の人のもの。

そう認識した瞬間、リョーマは跡部の手を振り払っていた。

「越前?」
「いい。一人で立てるから」
大丈夫、自分は一人で何とか出来る。
これ以上、醜態を晒さないようにと素早く立ち上がる。

「今日は、その、迷惑掛けてすみません。
でもこれからは大丈夫だから。
もう手助けとか必要ないんで放っておいてくれますか」

自分でも驚く位スラスラと言葉が出た。
久し振りに跡部の姿を見て嬉しいと思う反面、悲しいと思った。
どんなに近くにいても、もう同じ道を進むことが出来ないのならいっそ、突き放してしまいたかった。

「お前、何言って」
跡部は動揺したように口元を震わせている。
千石はオロオロとして二人の顔を交互に見ているだけだ。

「放っておけって何だよ。
友人として手を貸すことも許されないのかよ」
「友人?」
その言葉に、リョーマは笑った。
そんな偽りだらけで薄っぺらいもの、誰も望んじゃいない。

「友人になんてなれるはずがない。
少なくとも俺はそんなの御免だ。
あんたは今隣にいる人だけを見ていればいいんだよ。
もう俺に構わないで。
……迷惑だから」
「越前!」

引き止める跡部も、そこにいる千石も無視して走り出す。
少しでも跡部から離れようと、速く。
さっきの連中が出て行った方と逆の入り口へと向かう。

一つ、嘘をついた。
迷惑なんてそんな風に思っていない。

本当は嬉しかった。
さっき助けてくれたことも、手を差し出してくれたことも。

けど跡部はもう前を向いて別の道に進んでいる。
もう二度と心を通わすことは無いのだ。
そんな彼とこれ以上一緒にいるのが辛かった。
ましてや友人になんて、なれるはずがない。

(それ位、察しろよな)

涙で滲む目を擦りながら、ひたすら駅へと向かって走り出す。

全速力で走り抜けるリョーマに擦れ違う通行人が不思議そうな目を向けて来るが、
そんなものも気にならなかった。


2010年03月18日(木) lost 悲劇編 18.越前リョーマ

「それじゃ桃城君の方も、何もわからなかったんだ」
「そうっす」
毎回、千石に家へ来てもらっては悪いと考え、久し振りに外で待ち合わせをした。
千石が今日は午前中のみの練習の為、昼過ぎに集合することになった。
とはいえ、いつものファーストフード店だが。
前とは違う青学からは離れた店舗の為、知り合いには遭遇することは無いだろう。
こそこそしているようで気分良いものではないが、青学の部員の方がきっともっと嫌な気持ちになるだろう。
そう考えて、あえて山吹に近い場所を指定したのだった。

「こっちの部員はクラスメイトから聞いたって人がほとんどみたいっす。
俺が記憶喪失になったのは有名なことだったんで……。
結構あちこちで噂されてる為、誰からって言うのは特定し辛いって」
「そっか……」
千石は真剣な顔をして頷いた。
「山吹の方では壇君に聞いて教えてもらったんだけど、
どうやら部員の中に氷帝に通っている従兄がいるらしくってそこから情報を拾ったみたい。
後、青学の女の子と付き合っている奴とか、意外なところから漏れてるみたいだね。
それだけなら俺も心配しないんだけど」
「他に何かあるんすか?」
リョーマの問いに、千石は迷う素振りをしてからポケットを探り携帯を取り出した。

「これ、見てよ」
「何すか?」
千石が表示した場面を覗き込み、目を見開く。
信じられないことが書かれている。

『越前リョーマの最新情報!!
新たなターゲットを山吹中の千石と一緒に物色中!?
女性の皆さん、気をつけて!』
絵文字で飾られているが、悪意ある内容に眩暈を起こしそうになる。
「これ、一体何っすか?」
「噂の正体、かな。あちこちから回っているんだって。
壇君の所に来たやつを転送してもらった」
「誰から?」
「その氷帝に従兄がいるっていう部員から。
それだけじゃなく面白半分で送っている奴もいるみたいで……タチ悪いよね」
怖い顔をする千石に、リョーマは「許せないっす」と同調した。
「千石さんのことまで巻き込んで、本当何考えているんだろ。
今すぐにでも止めさせないと」
「いや、俺のことは別にいいんだけど。物色中なのは本当だし」
「よくないっす!」
リョーマは声を上げた。
「前から思ってたけど、何で自分のことはいいって言えるんすか?
俺は千石さんが悪く言われるのは嫌だよ……。その、友達なんだから」
少し照れ臭い台詞を言ってしまったと目を逸らすと、
「ありがとう」と千石の手がぽんと頭に置かれる。

「でも俺は平気なんだ。こういうことでやっかみ受けるのは慣れているし。
リョーマ君は違うよね。まだ心は12歳の子供なんだ。
なのに傷付けようっていう奴がいるってことが許せない。それだけなんだよ」
「千石さん……」
「しかしこうなると噂の元は氷帝か青学ってことになるかな?
宍戸君の方で何かわかるといいんだけど」
「宍戸さんって、氷帝の?」
聞き覚えのある名前に目を瞬かせると、
千石は「そうだった。説明しないとね」と言った。

「実はこの間、宍戸君が俺を訪ねて来たんだよ。
リョーマ君に関して悪い噂が流れているから気を付けて欲しいって。
ついでに出所も出来る範囲で調べてくれるって約束してくれた」
「どうして、宍戸さんが?」
跡部と付き合っていた頃もほとんど話をした覚えはない。
たまに氷帝に行った時に挨拶する程度だった。
その彼が何故……と訝しい顔をすると、
「跡部君の為だろうね」と千石が語る。

「多分、この一件を跡部君は知らない。
知って騒動に巻き込まれることを恐れたんじゃないかな。
ほら、あんな風でも部長として慕われてるわけだし?
宍戸君なりに友達を守ろうとしての決断だと俺は睨んでいるけど」
「そう、っすか」

跡部は知らないのか。
ほっとした思いで体から力を抜く。
もう彼にには迷惑を掛けたくない。
だから余計に知られたくないと思った。
きっと耳に入ったら、別れた相手といえども心配する。そんな人だとわかっている。

早く解決しなければ、とリョーマは思った。
跡部が知ってしまう前に犯人を見付けて止めさせなければ。
もたもたしている暇は無いと決意を固めた瞬間、
「こら。あまり力まない」と千石におでこを指で押される。
「焦る気持ちもわかるけど、まず宍戸君からの情報を待とう。
それからでもいいよね?」
「……はい」
「よし、良い子だ」
ニッと笑う千石の笑顔に、安堵を覚える。
友人がいて良かった、と何度そう思ったかわからない程だ。

「ところでさ、この後はどうする?
まだ時間は早いけど。リョーマ君、帰らなきゃいけない用事はある?」
「あ、多分大丈夫」
母にはちゃんと外出することを伝え、夕方までに戻ることを約束したから平気だ。
リョーマの返事に「じゃあさ、ちょっとだけ打たない?」と千石が身を乗り出して来た。
「打つって、テニスするってこと?」
「そう!俺さ、リョーマ君とテニス出来たらなあって、本当はずっと思っていたんだ。
勿論、やりたくないのならそれも仕方無いって諦めていたけど、今はどうかな?
やっぱり嫌?」

正直、まだブランクは全然埋まっていない。
ボールのコントロールも酷いもので、誰かの相手になれるなんて出来ないと考えている。
けれどこの大切な友人の願いを取り下げるのも、どうかと思う。

「俺、まだリハビリ中で、サーブ打つのもやっとなんだ。
それでもいいって言うのなら……」
控え目に承諾したリョーマに、千石はパッと笑顔を浮かべる。
「本当?じゃあちょっと肩をならす程度に打とうよ。
あ、ラケットは俺のを使って」
「うん」
「誰かと打つのもまた違った刺激になるし、こういう練習も悪くないと思うよ」

笑って言う千石に、もしかして、とリョーマは思った。

自主練習に煮詰まっている自分の為に、気分転換させようとしてくれているのでは無いのだろうか。

(いつも迷惑掛けてばっかりだ……)
この恩はいつか返そうと、心の中で決心する。

「それでどこで打つんすか?」
「そうだなあ。ちょっと電車に乗るけど、ただで打てる所があるんだ。
こんなに暑いし、外で打ってる奴なんていないと思うからそこに行ってみない?」
「いいっすよ」
そうして二人は店を後にした。
千石に案内されるまま、リョーマはただ後ろをついていく。
しかしその場所に近付くにつれて、どこへ向かうかわかってしまった。


「ここ……」
「あ、ストリートテニス場なんだけど、結構立派なコートがあるんだ。
ひょっとして知っていたかな?青学からも近いよね」
「……」
「リョーマ君?」
顔を覗き込まれ、リョーマは軽く首を振った。
「あ、いや、何でも無いっす」
「本当に?もしかして気分でも悪くなった?暑さで参ったりして」
「ううん。平気、っす」
動揺を抑えて声を出す。
千石にはこれ以上心配を掛けたくない。
それに、跡部と初めて出会った場所だからってなんだというのだ。
ここに彼が来るとは限らない。
今頃は氷帝で練習中か、自宅の設備でトレーニングしているだろう。
会う可能性は極めて低い。
ここで逃げたら何も出来ないままだ。

「行こう、千石さん
そう言って階段を上がって行く。
戸惑いながらも千石も後から続いて来る。

階段を上がり切った所で、コートを見渡す。
こんな炎天下の中、テニスをしようとする物好きはいないらしい。
コートの中は無人だった。

「ラケット貸してくれる?その前にストレッチしないと」
「うん。暑いから休憩取りながらやろうね」
それにお互いウエア姿ではない。
千石も真剣勝負を望んでいるわけでもないから、今日は軽いラリーが出来れば、と考える。
最も自分がミスをして続けることが困難かもしれないが。

きちんと準備運動してから、二人はコートの中へと入った。











「199……200、201!」

とりあえずの目標は100で、と始めたラリー。
やはりリョーマのミス続きで10を続けることさえ困難だったが、
途中から段々とコントロールが掴めるようになって来て、目標を達成。
次は200、と数を増やして今も続行中だ。

千石とのラリーは楽しかった。
こちらのミスを気にすることなく、いつでも楽な位置へと返してくれているおかげかもしれない。
テニスのコーチとか向いているのかも、と真剣に思ってしまう。
そして208回目のところで、リョーマがネットにボールを引っ掛けて、中断となってしまう。

「もっと打ちたかったのに……」
「でもここまで続けられれば上等だよ。ちょっと休憩しようか」
「そうっすね」
「俺、飲み物買って来る。さっき全部飲んじゃったし。
リョーマ君もスポーツドリンクでいいよね」
「あ、俺も一緒に」
「いいから。そこで座ってて」

ウインクして千石は少し遠くに設置されてる自販機へと走って行く。
息が上がっているのが見抜かれているなと苦笑して、木陰に入っているベンチに座る。

体力も落ちている。
昔ならこの位、なんとも無かった。
もっとメニューを増やすべきか。
そんなことを考えていると、ふと背後に人の気配を感じる。

振り向くと同じ年位の男子が数人、少し離れた所からこちらを見ている。
私服なのでどこの学校の生徒かはわからない。
だけど、どこぞのテニス部員だろうか、と思った。
何故なら彼らの目にははっきりとリョーマに対する嫌悪感が映っていたからだ。


2010年03月17日(水) lost 悲劇編 17.越前リョーマ/跡部景吾

「中等部での噂の出所がどこからかって?
いや、俺は知らねーけど」
「そう、っすか」

話があると連絡し、今日は桃城に来てもらった。
部屋に通して早速例の件を切り出す。
千石も調べてくれているので自分だけ何もしないわけにはいかない。
そう思ってまず桃城に確認を取ろうと思ったのだが、
予想通り何も知らないらしい。
やはり中等部に行って、直接確かめるしかないのかと考えていると、
「なんなら、俺が聞いといてやろうか?」と桃城が言った。

「いいっすよ。自分のことなんで」
「けど、中等部に行っても誰が誰かわかるのか?」
「それは……」
桃城の言う通りだ。自分の記憶は二年前で止まっている。
皆もあれから背が伸びて、容姿にも変化が出ているだろう。
それでも行けばなんとかなる、と考えるリョーマに、
「会っても気まずいだけだろ。俺が話を聞いといてやるから」と気遣うように言われる。

「言いたいことはわかるけどな。けど今は結構ぴりぴりした雰囲気になってるから。
その、お前のことで他校からも問い合わせがあるから、それで」
「え……」

そういえば千石が山吹でも噂になっていると言っていた。
他の学校にも思っている以上、知られているのかもしれない。
大会に出場なんてありえないことなのに、信じた上でわざわざ青学に確かめる者もいるのか。
だとしたら結局、中等部にいる部員に迷惑を掛けてしまっていることになる。

申し訳無さそうに身を小さくするリョーマに、
「そんな顔するなって!」と桃城が肩を叩く。
「悪いのはお前じゃねえ。つまらないことを吹聴して歩いている奴だ。
そこを間違えるなよ」
「……っす」
桃城の言葉に、リョーマの心も少し軽くなる。

そして改めて、周囲を苦しめるような真似をする相手を許せないと思った。
誰だか知らないが、自分が気に入らないのなら直接向かってくればいい。
周囲を巻き込むことが、何より許せない。
一体誰なのか、複数なのかは知らないが、必ず尻尾を掴んで正体を暴いてやりたい。

「それじゃ俺は何をすればいい?何でも言ってくれよ。
あっ、でも小遣いは残り少ないから貸してやることは出来ねーぞ」
おどけながら話す桃城に、ついくすっと笑いが漏れる。
そして「じゃあ、お願いします」と、一つ頼みごとをする。
最初にその噂を聞いたのは誰なのか。
わかる範囲でいいと、調査を依頼する。

「任せておけよ」
頼もしい言葉を残し、桃城は「またな」と越前家を後にした。





















氷帝、空いたレギュラー枠の席を賭けた試合の二日目。

今日になって結果はほぼ確定したと言ってもいい。
ここまで全勝しているのは忍足一人だけだ。
明日の試合を全部落としたとなると別だが、
そんなヘマはしないだろうな、と試合結果のノートをコート前の観客席で眺めながら跡部は思った。
どうやらこの日の為に、忍足は密かに特訓をしていたらしい。
今までの動きと違っているのは明らかだった。
おかげで対戦相手達の一歩上を行くことが出来る。
やっとやる気になったか、と全ての結果を眺めながら考え込んでいると、
「どうしたん、跡部。眉間に皺が寄ってるで」と声を掛けられる。

「なんだ、てめえか」
「なんだ、とはご挨拶やなあ。試合結果に何か問題でもあったんか?」
「いや、そうじゃねえよ」
中等部の頃から変わらず丸い伊達眼鏡を忍足は掛けている。
薄いレンズ越しにじっと見られて、跡部は軽く首を振った。
「このままで行くとレギュラーになるのはお前だろうなって思って見てただけだ」
「そんなんわからんで。明日、全敗するかもしれへんし」
「嘘付け。自信あるんだろ?」
それには答えず、忍足はひょいと肩を竦める。
わからない、ということか。
変わりに跡部は別の質問をぶつけてみることにした。

「お前、なんでもっと早くに勝ち抜いて来なかったんだ?
個人戦の出場枠だって出られたかもしれねえのに」
「無茶言うわ。勉強との片手間にレギュラーになれる程甘くはない。
お前かてそれはわかってるやろ」
「けど」
「俺はお前みたいに出来が良くないからな」
「何言って」
反論しようとしたが、忍足に遮られる。

「いや、俺とお前じゃ出来が全然違う。
そりゃお前が努力してへんとは言わん。
けど俺が理解するのに100必要とする所で、お前は10でええはずや。
どうしようもない。元々生まれ持ったものの差や。
お前は特別なんや。だから成績も常に主席で、すぐにレギュラーにだってなれた。
俺は成績を落とさんようするだけで必死やったからな」
「……」
「そんな顔せんでもええって。
前期のテストがかなり良かったからな。
親も今はあまりうるさいことは言わへん。
せやからその分、自主練の時間が出来たってわけや。
来年はどうなってるかわからんけどな……。受験前に無理矢理辞めさせられるかもしれへんし」
軽い口調の忍足に、跡部は笑うことは出来なかった。
彼の家も相当なプレッシャーを息子に掛けている。
それを無視してまでレギュラーになれるよう努力しろとは言えない。
忍足が納得していることなら、口を出すべきことではないからだ。

「ま、レギュラーになったら褒めてくれや。
そんで氷帝を優勝まで導いたって。
お前なら出来るはずや」
「ふん、言われなくても」

忍足は片手を上げて、同級生達の方へと歩いて行ってしまう。
その背中を見ながら、こっちも大したプレッシャーだと息を吐く。
青学の手塚や、立海の主力の面々が留学で不在の今、
優勝するのは不可能ではないとはいえ険しい道には違いない。

(それをこんな凡人に託すなんてな)

忍足は自分のことを特別だと言ったが、それは大きな勘違いだ。
特に、テニスに関しては。
そこら辺の選手に負けない自信はある。
だが相手が……リョーマのようにテニスに関してずば抜けた才能を持っている相手には、一生敵うことはない。
今は記憶を取り戻したばかりでブランクもあるけど、きっといずれ世界に出て行くはずだ。
越前リョーマはそれだけの価値がある人間だ。
側に居た頃が嘘のように、遠い存在になっていく。近い内にそんな日がやって来る。

(けどあいつが世界に羽ばたく姿を見たいと思っているのも、俺の本当の気持ちだ)

リョーマがテニスコートを駆けるたび、その才能に嫉妬しつつも憧れの気持ちも持っていた。
二つも年下の少年に抱くにしてはおかしな感情かもしれないが、
あんな風に人の心を動かすようなプレイをしたいと思っていた。

今でも鮮やかに思い浮かべることが出来る。
光輝くような、リョーマのテニス。
たった一度でも公式で戦えたことを誇りに思う。

(だからあいつの幸せと活躍を今でも願っている。
その位は、良いはずだ……)

家に帰ったら、あかりに電話をして恋人としての役割を果たす。
トレーニングもするけど、勉強することも怠らない。

ちゃんとつまらない人生を歩んで行く、だからただ少しだけリョーマの行く末を案じることは許されるはずだ。

今頃リョーマは何をしているだろうか。
再びテニスを始めているとしたら、……頑張れと、届かないエールを送った。


2010年03月16日(火) lost 悲劇編 16.氷帝

全国大会を前に、氷帝では一つだけのレギュラーの枠を賭けて準レギュラー同士の試合が行われていた。

「折角の全国前に、黒星上げるなんて高梨先輩ついてないよなあ。最後の大会なのに……」
「けどしょうがねえよ。負けたらレギュラー落ちがうちの伝統なんだから」

聞こえて来る声に、跡部は溜息をつく。
実力主義のやり方に異論を唱えるつもりはない。
しかしフォローはしておくべきだろう。
このまま部に顔を出さないまま引退というのはあまりにも虚しい終わり方だ。
しかし部長とはいえ後輩の自分が進言しても、反感を買うだけだろう。
同学年である副部長に上手く話しをしてもらうかと考える。

「あーとべっ」
背後から聞こえたジローの声に振り返ると、
ラケットを振ってこちらに近付いて来るのが見えた。
「負けちゃったー。忍足の奴、手加減してくれないんだもん」
「当たり前だ。手を抜いたりするような真似したら、グラウンド100周させてやる」
「アハハ、厳C。でも忍足、かなり頑張っているよ。
ひょっとしたらレギュラーになれるかも」
「そうだな」

午前の試合でも忍足は三年生の準レギュラーに勝っている。
このまま行くと、順当にレギュラーの座を獲得出来るかもしれない。
いや、むしろ遅い位だった。
忍足の実力ならば一年生の時からレギュラーになれたはずだ。
勿論練習不足でなければ、という条件がつくが……。
高等部に進学してから、忍足は部活より学業を優先させるようになった。
成績は常に上位でいること。
それが忍足の家が出したテニスを続けることの第一条件だった。
自主練習の時間を勉学に変えた結果、準レギュラー止まりになったわけだ。
勿論、それで忍足を責めることは出来ない。
成績が下がったら、即退部させられるというプレッシャーの中、よくやっている方だ。
しかしそれでは努力し続けているレギュラーに勝てないのも事実だ。
氷帝はこれでも強豪校だ。全国を目指している選手が集まっている。
勉学よりもテニス、という者も少なくない。
忍足がレギュラーになれなくても仕方無いことだと、跡部は思った。

しかしここへ来てやる気を出したらしい。
個人戦には出られなかったが、せめて団体戦だけでもと考えたのだろうか。
精々頑張れよ、と遠くで向日と話している忍足を見て、跡部はフッと笑った。











「宍戸さん、何も今日山吹に行くことないんじゃないですか。
明日も試合を控えているのに」
「バカヤロウ。こういうのは思い立ったらすぐ行動するもんだよ」
レギュラーを賭けた大事な試合というのはわかっている。
だがこのまま放っておいて噂が広まり続け、
リョーマの立場がどんどん悪くなっていったらそれも目覚めが悪い話だ。
千石の所に行くと決めたのなら、一日でも早い方がいいと判断した。
だから今日の練習が終わってすぐに山吹へ向かうことにしたのだ。
お人よしだと鳳に言われるが、これが自分の性格なのだ。どうしようもない。
一人で行くと言ったが、鳳も「最初に話を持ち込んだのは俺なんで」と、一緒について来た。
宍戸に言わせたら、鳳もかなりのお人よしだと思う。

「けど練習日じゃなかったらどうするんですか?全員帰っていたりして……」
山吹の高等部の校門前に到着してから、鳳は不安そうに口を開く。
「どうもこうも、明日も来るまでだ」
「はあ。そんなことだと思いました」
肩を落とす鳳に構うことなく、宍戸はその辺を歩いている山吹の生徒に声を掛けてテニスコートの場所を尋ねる。
丁寧に説明をしてもらえた為、すんなりと場所を見つけることが出来た。


「まだ練習していたみたいですね」
「ああ、幸いだったな」
氷帝の方が試合形式だった為、今日は早めに解散となった。
おかげで山吹の練習時間内に辿り着くことが出来たらしい。
ついてる、と宍戸は呟く。
「千石はどこだ?あいつ、髪の色変えてから見つけ辛くなっているんだよな」
「えーっと、あ、いました。あそこです」
鳳が指差す方向に、千石がいた。
ダブルス相手に一人で奮闘している。
遊んでばかりいるという噂とは逆に、なかなか良い動きをしている。
そういえば一応、中等部の時に選抜に行っていたんだっけと思い出す。

ぼんやりと練習風景を眺めている内に山吹の顧問がやって来て、
今日は終わりだと、解散の指示を出している。
氷帝と違って山吹は結構のんびりした雰囲気だ。
しかしそれでも千石は個人戦で全国に行くことは決まっている。
どっちの指導が良いかなんて、一概には言えない。
氷帝には氷帝の、山吹には山吹のやり方があるのだから。

「宍戸さん。千石さんが出て来ますよ」
「わかってる」
出入り口に向かう千石を見て、宍戸と鳳もそちらへと移動する。

「千石!」
部室へと行こうとする千石に、思い切って声を掛ける。
振り返った千石は驚いた顔をしながらも、すぐこちらへ駆け寄ってくる。

「宍戸君と鳳君、だよね?今日は何、偵察?」
「いや、違う。実は……越前のことで話があって来た」
「リョーマ君の?」
さっと千石の顔が険しいものになる。
「ちょっと、移動しても良いかな」
「ああ」
山吹の部員にじろじろと見られながら、というのでは落ち着かない。
それに誰に聞かれるかわからないので、別の場所へ行くことに同意した。

千石の後に続いて、二人も歩いて行く。
すぐそこの部室の裏らしき場所で、千石は足を止める。
さっと周囲を確認してから、「どういうこと?」と口を開く。
「それは、だな」
説明は苦手だ、と頭を掻く宍戸に代わって、
「俺が話します」と鳳が一歩前に出る。
「実はうちの中等部の部長に相談されたことなんですが」
宍戸に話した内容と同じことを語る。
鳳の話を聞いて、千石は難しい顔をして腕を組んだ。

「氷帝でもやっぱり噂は広がっていたのか。予想はしてたけど」
「氷帝でもって、どういうことだ」
「だから同じだよ。うちの中等部や青学でも同じ話が飛び交っているってこと」

宍戸は驚きのあまり、ぽかんと口を開けた。
そんなのは聞いていない。
あまりにも酷過ぎるんじゃないか。
同意を求めるように鳳の方に目を向けると、
事の深刻さに気付いたらしく、顔色を濁して俯いている。

「それで二人は俺に伝えて、どうして欲しいの?
むやみに不安を煽るだけなら、むしろ黙っていて欲しかったんだけど」
「千石さん、それは言い過ぎです。宍戸さんは心配して」
「よせ、長太郎」
鳳を止めてから、宍戸は千石に向き直った。

「お前に相談すればなんとかしてくれると思っていた。
後は丸投げするつもりだったんだ。……すまない」
「別に謝らなくてもいいけど?
当事者じゃないんだから何かして欲しいとは俺もここまで望んでいないよ」
ふう、と千石は溜息を吐く。
「でもね、リョーマ君のことを考えると気の毒に思えるんだ。
記憶を失くして、それがいきなり戻って。
今、あの子の支えになるものはほとんど無い。
なのにこんな無責任な噂を流されて、追い込まれている。
一体、どこのどいつがやっているんだよ……!」

千石は声を荒げた後、困ったようにぐしゃっと手で髪を掴む。
相当、参っているらしい。
無理もない、と宍戸は思った。
もしもこれが自分の友人の身近で起きたことなら、同じような思いをするだろう。
どうすることも出来ない、やり切れない気持ち。
それがわかるから、……。

宍戸は覚悟を決めて、顔を上げた。

「手助けはしない。
けど、こっちで噂の元が誰なのか聞くこと位は出来るかもしれねえ」
「宍戸君?」
「勘違いするなよ。お前や越前の為じゃない。
こんな事態が長引いて跡部の耳に入ったら、またあいつが動揺するからな。
それだけのことだ」
宍戸の申し出を黙って聞いていた千石は、それでも嬉しそうに頷いた。
「ううん。それでも助かる。
勿論、こっちでも調べてみるけど、一人でも手が多い方が助かる」
ほっとしたような顔をする千石に、
宍戸は改めて一時だけという条件で手助けすることを約束する。

いいんですか?と鳳が非難を込めた目で見ていたが気付かない振りをした。

結果的にこれは跡部の為になることだと、宍戸はそう信じていた。


2010年03月15日(月) lost 悲劇編 15.跡部景吾/越前リョーマ


「景吾さん、少し痩せたようおに見えます。練習がそんなに大変なのですか?」
「まあ、大会が近いしな」
「あまり無理しないで下さいね」

待ち合わせたカフェに、彼女はもう先に着いて待っていた。
跡部がその前に座ると同時に顔をじっと見て、心配そうな目を向けて来る。
そんなにやつれたように見えるのか、と苦笑しつつ口を開く。

「無理なんてしてねえよ。ただ、ちょっと忙しかっただけだな」
「そうですか。でも私との約束は大会が終わってからでもいいんですよ?
こっそり遠くから応援出来れば、それだけでも満足出来ますから」
「……」

嘘ではなく心からそう思っていることがわかる。
彼女の心には疑う気持ちが無いのだと、付き合っている間に気付いた。
父親は相当のやり手なのだが、まるで対照的な性格だ。
相当大切に育てて来たんだろうな、と想像する。

「景吾さん?」
「あ、悪い」
少しぼんやりしていたことを反省して、軽く首を振る。
彼女が勧めてくれたハーブティーを一口飲んで、落ち着きを取り戻す。
「しばらく忙しいかもしれないから、こんな調子が続くかもしれない。
我慢させることになるけど、大会が終わるまで待っててくれるか?」
「勿論です。それに我慢だなんて思っていませんから」
肩より下に伸ばしているさらっと真っ直ぐな髪を揺らしながら、頷いている。
待て、と言われたらきっと一年でも二年でも耐えることが出来そうだと、ふと思う。
そこまで好きでいてくれているようだが……。
本当に、こんな自分のどこが良いのか、さっぱりわからない。

「あかり」
跡部は彼女の名前を呼んだ。
「大会が終わったら、日帰りだけど少し遠出するか」
「いいんですか?」
「ああ。だからそれまで行きたい場所を考えておけよ」
「……はいっ!」
パッと顔を輝かせているあかりをそれまで見ていられず、
再びカップに手を伸ばして目を逸らす。

喜ばせようなんて、これっぽっちも思っていない。
今の提案だって罪悪感から逃れたいだけ。
嘘つき。お前は嘘つきだと、心の中で何度も呟く。

それでも彼女に全てを話すつもりにはなれない。
傷付けたくない。その気持ちの方が大きいからだ。
名前の通り、あの時暗く閉ざされた心に光を差し込んでくれたあかりに感謝している。
だから出来るだけ望みを叶えてあげたいのだ。

でも、ただ一つだけ叶えられないことがある。
二年前に彼を激しく愛したような気持ちには、決してなれない。
あの時、自分の中の情熱は彼と共に全て失われた。


どこに行こうかしらと微笑みながら、今から行き先を考えているあかりに、
跡部は相槌を打って答える。

―――他人から見たら、それは仲の良い恋人のように見えた。




















今日も良い天気だと、リョーマは大きく伸びをした。
夕方からは千石と会う約束をしている。
申し訳ないが、家に来てもらうことにしたが、千石は二つ返事でOKしてくれた。
あの噂がどこまで広がっているかはわからないが、テニス部の同級生の誰かに会うのが気まずいという理由からそれを決めた。
昨日の南次郎との会話で、自分の所為だと思うのは先輩達に対して失礼だと考えを改めることにした。
けれど全部が納得出来たことではない。
それに噂では大会に復帰するとか、根も葉もないことが含まれていた。
同級生達が耳にしたら、今更何だと気を悪くしそうだ。だからなるべく外に出たくなかった。
本当に引き篭もりになりそう、とリョーマは溜息をつく。
が、すぐに背筋をぴんと伸ばす。

嘆いても仕方無い。
前に進もうと軽く頬を叩いてラケットを握る。
折角の良い天気だ。
無駄にしては申し訳無い。
やるぞ、と肩を回しつつ裏庭のコートへと向かった。








「あれー、何かやけにすっきりした顔してるね。
今日、相当頑張ったでしょ」
千石が現れたのは夕方過ぎてからだった。
それまでにすっかり体力を使い果たしていたので、
「まあね」と軽く手を上げて答える。

それから千石を自室に通して、「ハイ」とよく冷やしておいたペットボトルのジュースを渡す。
グラスに入れて運ぶのも面倒になったからだ。

「相当頑張っているみたいだけど大丈夫?無理するのも良くないよ」
「わかってる。明日は控えるから」
「うん、いい返事だ」
ぐしゃっと頭を撫でてくる千石に「何するんすか」と疲れたような声を出す。
今は払いのけることさえ疲れて出来ない。
それでも報告だけはきちんとしようと思っていたので、
少し体をずらして千石の方へと向き直る。

「彼女との話、終わったっす。
結局別れることになったけど、千石さんの言う通りちゃんと話が出来て良かった」
「そっか。うん。話し合いって大事だからね」
それ以上、千石は何も聞かない。
もう香澄の方からメールでいくつか事情を知らされているかもしれない。
だけど何も言わずに黙って側に居てくれるのは、こちらのことを気遣ってくれているのだろう。
本当にありがたい。
友人っていいな、と素直に思った。

「それで、千石さん」
「何?」
「昨日、桃先輩が家に来たんす」
「オモシロ君、じゃなくて桃城君が?」
「うん。何か俺の記憶が戻ったって噂を聞いて訪ねて来たんす」

すると千石は険しい顔をした。

「越前君」
「何?」
「今日、俺が来たのはその件を含めてなんだ。
うちの学校の中等部のテニス部にも、越前君の噂が流れている」
「山吹中に?」
「そう。壇君が教えてくれた」
バンダナをしていた壇のことを、うっすらと思い出す。
そうか。壇もテニスを続けていたのだ。
その点に関しては、嬉しいことだ。

千石は壇から聞いた内容を、掻い摘んで教えてくれた。
ほとんど桃城から聞いたことと同じだが、違う点も含まれていた。

今度の噂には千石のことも入っていて、一緒になって悪く言われているようだった。

「千石さんのことまで……。一体、何で?」
「いや、俺のは本当のことだから、別にいいんだけど。
女泣かせなのは事実だし。もてる男は辛いねえ」
「良くないっす!」
「越前君?」
「俺だけじゃなく千石さんも巻き込んで、何がしたいんだよ。
言いたいことがあれば、はっきりと言えばいいのに」

怒りに売る得るリョーマに、千石は宥めるように肩に手を置く。

「あのさ、面と向かって文句を言う人の方が少ないんだよ。
大抵は陰でこそこそ言って足を引っ張ったり、陥れたりするんだ。
きっとこの噂を流した奴も、そんな卑怯者なんだよ」
「でも、だからって」
「うん。気分は良くないよね。
山吹や青学のテニス部にばら撒いたりして、何を考えているんだか。
噂の元が誰なのか、確かめて見る必要がありそうだ」
「俺一人でやります。千石さんは大会前で忙しいでしょ?だから」
「そんなのダメ!」
千石は声を上げて、リョーマにストップを掛けた。

「相手が誰だかわからないのに、そんなことをするのは危険だって。
もしかしたら複数かもしれないんだよ?」
「それは、わかんないけど」
「でしょ。だから一人では行動しない。何かやる時は俺に連絡をすること。
いいね?」
「でも、大会が」
「大丈夫。練習はほどほどに、が俺のモットーだから」

ウィンクして答える千石の仕草に、つい笑ってしまう。

「あー、残念。女の子だった千石君って、素敵!って見直される所なんだけどなあ」
「それ冗談ですよね?」
「真顔で言わないでよ。傷付くからー!」

千石のおかげで殺伐とした空気が和んだ。
とりあえず互いの学校に情報を集めて、どうするのかそれから決めようということにする。

噂を流したのは誰なのか。
千石を巻き込んだことだけでも、きっちりを侘びを入れて貰おうとリョーマは心に誓う。

まず、桃城に連絡を取って青学の情報を集めなければ。
必要なら、テニス部に顔を出す展開にもなるだろう。

気が重いが、真実を掴む為なら仕方無い。

皆、あれから色々と成長しているはずだ。

こちらを見た時どんな反応するのか、少しだけ怖いと思った。


2010年03月14日(日) lost 悲劇編 14.氷帝


「跡部は忙しいってさー。俺達だけで寄り道していこうよ」
「おー、いいぜ」
ジローの声に、向日が笑顔で応えた。
「侑士は?今日も忙しいのかよ」
「ああ。ちょっとな。悪いがパスさせてもらうわ」
「ちぇっ。最近、付き合い悪いよな。ひょっとして女絡みか?」
肘で突く向日に、「あほ。そんなんとちゃうわ」と忍足が笑って返す。
「家の用事でな。その内解放されるで、待っといてや」
「ふーん。なんか大変そうだな」
それ以上は絡むことなく、向日は宍戸の方を向いた。
「宍戸は?用事無いんだったら、行こうぜ」
「あ、この後、長太郎と練習する約束が入ってるんだ」
「またかよ!どれだけ自主練すれば気が済むんだよ。
お前ら、いい加減にしないとその内倒れるぜ」
「そこまで無理はしてねえよ」
苦笑いする宍戸に、「いいけどな」と、向日は肩を竦めた。
「滝は委員会で顔出さねえんだよな。今日は俺達だけで行こうぜ」
「そうだね。バイバイ、忍足、宍戸」
「またなー」
「おう、また明日な」

手を振って向日とジローは部室から出て行く。
同級生でレギュラーになったのは今の所跡部だけだ。
高等部でも正レギュラーとそうでないものは部室が別れている。
跡部が建てたものではなく、監督の意向だ。
レギュラーになって特別待遇を受けたければ、それなりの結果を出せということらしい。
実際、それで頑張っている者もいるから効果はあるのだろう。
レギュラーでない者達は大人数でも十分入れる広いi室を使っている。

二人が去った後、宍戸は思い切って忍足に話し掛けた。
「なあなあ、忍足。ちょっといいか」
「なんや。改まって」
「ジローのことなんだけど、どう思う?
様子が変とか感じるところとかは無いか?」
「は?」
「いや、ちょっとしたことでもいいんだ。いつもと違うって思わないか?」
「何が言いたいかさっぱりわからんわ。さっきもいつもと同じに見えたけどなあ」
「いや、それがな」

一瞬、躊躇ったが宍戸は結局鳳から聞いたことを話した。
黙っていても何も解決しないと思ったからだ。

「ジローが越前の悪い噂を流してる?まさか、そんな」
「けどお前だって知っているだろ?ジローが越前のこと嫌っているって。
記憶が戻ったって俺達に話した時のあの顔、ちょっと普通じゃなかったぜ」
憎憎しげに言うジローに、宍戸は口に出さなかったがそこまで言わなくても、と思っていた。

たしかに二年前、記憶を無くしたリョーマが跡部を振ったのは事実だ。
しかしそれはどうしようもないことだろう。
記憶が無い人間に、もう一度好きになれと強要した所で思い通りになるとは限らない。
そして現在、跡部には付き合っている人がいるのだ。
親公認で、世間的にも堂々と顔向け出来る相手だ。
今更リョーマが記憶を取り戻したからって、そんなに騒ぐことか?というのが正直な感想だった。

「跡部のこと忘れていたくせに、会いたいとかどうかしてる!おかしいよね!?」
宍戸にしてみたら、跡部の問題に口を出すジローの方が変に思えた。
勿論、それだけ心配しているのだろうが……。

「ジローは跡部のこと大事な友達だと思っているからな。
ちょっと言いすぎな所もあるけど、まさか越前の悪口を言い触らしたりまではせえへんやろ」
「けど、だったら誰が広めているんだ?」
「そんなの知らんわ。越前のこと嫌っている奴は、他にもおるやろ。
言動や態度で敵が多いみたい感じやったしな」
「そうかもしれねえけど」

釈然としない気持ちで宍戸は首を振った。
それにしても他校にまで噂を流すとは、酷過ぎるのではないだろうか。
たかがその程度の恨みで、そこまでするのか疑問だ。

「なあ、このこと跡部に報告するべきだと思うか?」
「なんで、跡部に?」
忍足は眉間に皺を寄せる。
「なんでって、一応……後でどうして黙っていたんだって言われるのも嫌だからな」
「黙っておいた方がええで。大体、越前とはもう関係無いんやろ。
余計なこと言って、また関わることになったらジローが黙ってへんで」
「だよなあ」
「せや。もう跡部は越前のこと忘れていたいんやろ。
折角彼女とも上手くいってるのを、そんな話で台無しになったらかなわんで」
真剣な訴えに、宍戸はそれもそうかと思って頷く。
「やっぱり跡部には黙っておくか。言っても仕方無いもんな」
「ああ。このことは秘密にしておこうや。跡部の為にも」
「わかった」
忍足に話して良かったと、宍戸は肩から力を抜いた。
相談しなかったら、間違った判断をしていたかもしれない。

「それにしても越前の噂をばら撒いているのって、どんな奴だろうな。
他校にまで広めるのって、ちょっとやり過ぎだと思わないか?」
「さあなあ。ひょっとしたら女かもしれへんで。
振られた相手が腹いせに、ってありそうなパターンやんか」
「女が?まさか」
「女は怖いで。お前も彼女の一人でも作ったら、その内わかるわ」
「今は別にいらねえよ」
「宍戸らしい答えやな。特訓の方が大事か。
ほどほどにしとかんと、卒業まで女っ気ないままやで」
「大きなお世話だ」

軽口を叩きながら外へと出る。
ちょうと片付けを終えた一年生達が、着替えの為にこちらへと歩いて来るのが見えた。
その中には鳳もいる。
宍戸が軽く手を上げるのを横目で見た忍足は、「お先に」とj歩き出す。
中等部の時より少し背が伸びた忍足の後姿に、「また明日」と挨拶をの言葉を投げる。
振り向かないまま軽く右手を上げて、忍足は校門へと歩いて行った。

「宍戸さん。すぐ着替えるんで、待ってて下さいね」
こちらに近付いて来た鳳に、「ああ」と頷いて壁に凭れる。
「どうかしたんすか?」
様子が違うと感じたのか、そんな風に聞いてくる鳳に、
「忍足に例の件を話したんだよ」と伝える。

「そうですか。何か、言っていましたか?」
「跡部には話すなって。
確かにあいつにはもう恋人もいるし、波風立てること無いからな」
「そうですね。巻き込むとなると、芥川先輩も黙っていないでしょうし」
頭を掻いて、鳳はそっと小さな声で言った。
「でもまだ噂は流れているみたいでうしょ?
今度は山吹の千石さんのことも一緒になって言われているみたいで」
「千石が?」
鳳はこくん、と頷いた。

「千石さんみたいな不真面目な人とつるんでいるから、テニスを蔑ろにしているとか、
本当は記憶を失った振りをして、遊びたかっただけじゃないかって言われてるみたいです」
「なんだそりゃ。テニス関係ないだろ。そんな噂流してどうするんだ」
「ええ。でも何も知らない人は信じてしまうみたいで……。
とはいえ、宍戸さんの言う通りテニスとは関係無い話なんで、
例の中等部の部長は、聞かされてもどうってこと無いって言ってましたけどね」
「そうか。気にするのは越前が大会にエントリーするか、それだけだもんな」
「はい」

だけど、そうは思わない奴もいるだろうな、と宍戸は思った。
世の中にはどんな形で悪意を向けてくるかわからない人がいる。
ただでさえ悪い噂を流され、攻撃を向けられるような対象になっている。
もし、大会にのこのこと現れたりしたら。
それこそ四方八方から因縁をつけられるのでは、と想像する。

(大会に出るとは思えないけどな……)

記憶を取り戻したとはいえ、リョーマはずっとラケットを振っていなかった。
いくら二年間があれだけ強くでも、トレーニングを怠っていては実力もかなり落ちただろう。
大会になんて、笑われる為に出るようなものだ。

「まあ、その件は大丈夫だろ。
念の為、一度青学に偵察に行くよう勧めておいたらどうだ?」
「そうですね。言っておきます」
鳳は着替えの為に、部室へと入って行った。

壁に凭れたまま、宍戸は噂は今後も続くのかと考えた。

(相当、悪意のある奴のようだから、止めることは無いかもしれないな。
もし跡部が知ったら、やっぱり越前の為に手を貸そうと動くんだろうか)

それはまずい、と思った。
忍足の言っていた通り、跡部は幸せを掴んで静かに暮らしている。
波風を立たせたくないと思うのは、二年前の落ち込みようを知っているからだ。
ジロー程ではなくても、宍戸だって跡部のことを心配している。

(越前がなんとか自分で解決してくれるのが、一番なんだが)

そこまで考えて、宍戸はふと思いついた。
さっき千石も噂に巻き込まれていると、鳳は言っていた。

千石に伝えるのはどうだろうか。
彼とリョーマは親しいようだから、こちらから伝えれば二人で解決していくかもしれない。
記憶を取り戻したばかりのリョーマでは心許ないが、
千石が味方なれば色んな情報も集まるのではないか。
誰がこんなことをしているのか、心当たりのある人物も容易に思いつくかもしれない。
そうすれば、跡部の出番は無くなる。

それがいい、と宍戸は心の中で頷く。

近い内に山吹の高等部へ行こうと決める。
これ以上噂が広がって跡部の耳に入る前に、知らせておくのがベストだ。

鳳にもこのことを相談しようと、出て来るのをじっと待った。


2010年03月13日(土) lost 悲劇編 13.越前リョーマ/跡部景吾

桃城との話が終わり、リョーマはぐったりとした様子でベッドに横になっていた。

「気にすんなよ」

桃城はそんな風に言ってくれたが、簡単に流せるようなことではない。

二年前の自分が取った行動は間違っていた。
そう考えるのを止めることが出来ない。
今までずっと自分の判断に後悔したことは無かったはずなのに、
あの時に戻ってやり直したいと、そればかり考えている。

「おーい、リョーマ。いつまで塞ぎ込んでいるんだ。
いい加減降りてきて、飯食えよ。でないと俺が全部食べちゃうぞー?」
「勝手にしたら」
ノックもしないで入って来た南次郎に、リョーマは不機嫌そうに答えた。
今は言葉を交わすことすら辛い。
壁の方を向いて、きゅっと唇を結ぶ。

「冗談だって。お前が食べないと、母さんも菜々子ちゃんも心配するだろうが。
いいか加減拗ねてないで起きたらどうだ?」
「……」
「おい、リョーマ」
「……」
「なんだ、そのまま引き篭もりにでもなるつもりか?」
「それもいいね」
「おい」
「今は食べたくないだけ。放っておいてよ」

投げやりに言うと、南次郎は頭を掻きながら溜息をつく。

「まあ、なんだ。さっきのツンツン頭と何話したんか知らねえが、
起きてしまったもんはしょうがねえだろ。
腹括って、これからのことを考えろよ」
「仕方無い?簡単に言えることじゃないのに……」
リョーマは、南次郎の方へと振り返った。
そんな言い方をされるのは心外だった。
あの大会は仕方無いで済まされる程、些細なことではないからだ。

「俺があの時ちゃんと試合に間に合ったら、青学が負けることは無かったかもしれない。
皆、優勝を目指して努力して来たのに記憶喪失なんてものになって、
試合にも出られないまま終わったんだ。
先輩達にどう顔向けすればいいんだよ」

桃城は決してリョーマの所為ではないと言ってくれた。
他の先輩達も同じ考えだと慰めてくれたけれど、失望させてしまったことには変わりない。

大体、試合の当日に間に合わないような真似をしてはいけなかった。
もっと強くなれる糸口を掴もうと足掻いていたとしても、前日までには帰って来るべきだった。
試合に勝つ為に特訓していたと言い訳しても、遅刻した選手は失格になるだけだ。
それが、ルールというもの。
ルールを無視しようとした自分に、罰が下ったのだろうか。
それにしても重過ぎて、耐えられない。

リョーマの言葉を聞いた南次郎は、ふんと鼻で笑う。

「お前が捻くれているのは勝手だが、その先輩達とやらを理由に使うな。
先に三勝上げれば、青学の優勝は決まってたんだろ。
黒星を上げた選手が、お前の泣き言を聞いたら怒ると思うぜ。
自分が出たら優勝出来た?思い上がるなって、な」
「……」

あまりの言い分に返す言葉もない。
そんなの考えてもみなかった。
自分一人で青学の勝利を担っているわけではない。
たしかに負けてしまった選手からしたら、失礼な考え方だ。

「わかったら、自分の所為で負けたなんて二度と言うな。
あの時、会場で頑張っていた他の選手の為にもな」
「……うん」
「ま、あんな所に連れて行った俺にも責任はあるしな……。
これからのことに手を貸すこと位はしたいと思っている」
「これから、って」
「お前、もう一度コートに立とうって思ってるんだろ?」
「まあ、ね」
二年もブランクがあるくせにと笑われるかと思ったが、南次郎の表情は真剣だった。
「そっか。なら、俺にも考えがある」
「親父……?」
「まず、お前は飯を食え。食わねえとテニスする気も無くなるぜ。
ほら、さっさと立って下に行け」
「わっ、ちょっと」
強引に部屋から出されてしまう。
南次郎はそのままリョーマの背を押して、リビングへと連れて行く。


席に着いたことに母は驚きつつも、嬉しそうに茶碗にご飯を装い始める。
菜々子もにっこり笑って、お茶を入れてくれた。
にやにや笑っている南次郎を見ないようにして、リョーマは「いただきます」と箸を取った。

そうだ。テニスを続けると決めたのだ。
こんな所で立ち止まってはいられない。
悔しいが、南次郎の言う通りだった。
自分の所為で負けたと言う資格は無い。
悔やむことが出来るのは、あの場で戦った者だけだ。

桃城も言っていたではないか。
「お前の所為じゃない」
そしてテニスをまた始めたいと言ったら、素直に喜んでくれた。
「また今度一緒に打とうぜ。けどダブルスは組まないけどな」
冗談交じりでそう言った桃城の笑顔はあの頃のままで、
それが余計に嬉しく感じた。
彼の中ではまだ仲の良い先輩だと認識してくれているのがわかって、
だからこそ忘れていたことを申し訳なく思った。

(せめて桃先輩と打ち合える位、頑張らないと)

そ思うと急にお腹が空いた気になって、結局ご飯をお代わりした。
元気を取り戻したと思ったのか、母はやけに上機嫌で大盛りに装ってくれた。





















いい加減、彼女を避け続けているわけにもいかない。
そろそろ限界だと感じて、跡部は今日の練習が終わったら会おうと約束を取り付けた。
それに対して部活が忙しいのなら無理しなくても、と彼女は電話でそう言ってくれたが、
今日は大丈夫だと、返事をした。
本当はまだ平常心を保てるか怪しいものだが、いつまでも放っておくわけにもいかない。
ふとした拍子に自分の両親から、彼女と最近会っているのかと確認されることがあるかもしれない。
家同士の結び付きが絡むと、面倒なことが多いと苦笑いする。
だが彼女には政略的な気持ちが全く無いということを跡部は知っていた。
親が引き合わせた相手なのに、自ら恋をしたものと思い込んでいる。
ある意味純粋で、そして無知だとも思う。

しかしその彼女のおかげで救われた部分もある。
いつまでもこちらを見ようとしないばかりか、完全に拒否したリョーマへの当て付けで、
親が決めた相手と付き合おうとやけになっていた。
もし彼女が自分の家の利益の為に近付いて来るような人間だったら、
ますます心が荒んでいっただろう。

無知だが、こちらに向ける信頼だけは本物だ。
その純粋な心に癒されて、少しずつ立ち直っていくのを感じだ。
だからこそ、跡部は彼女と別れるつもりはなかった。
こんな自分を心から好きだと言ってくれる相手がいるのだと、教えてくれた存在だからだ。

(いい加減、あいつのことは考えないようにしないと……。変に思われる)

高校を卒業する頃には、正式に婚約する予定のはずだ。
いつまでも過去を振り返ってはいられない。
前を向かなければ、明日さえ見えない。




本日の部活も終わり更衣室で溜息をついて座っていると、
「跡部いるー?」とジローが入って来た。
ここは正レギュラー専用の更衣室で、ジローはまだ準レギュラーなのだがそんなことはお構いなしだ。
先輩達もあいつならしょうがないと、何故か反感を買うこともない。得な性格をしている。
なのでジローは時々こんな風にひょいっと入って来ることがあるのだ。

「なんだよ、ジロー」
「ねえねえ。今日、時間ある?良かったら、俺の家に寄って行かない?
新しいゲーム買ったんだー」
屈託の無い笑顔を向けられるが、跡部は首を横に振った。
「悪い。今日は用事がある」
「何それ。まさかあの子と会おうとしてるんじゃないよね」
スッ、とジローの表情が変わる。
冷たい目に、跡部は体を少し引いた。
ジローにこんな顔をさせるのは、自分の弱さが原因だったとわかっている。
だから心配させてはいけないと、正直に今日の予定を話す。

「そんなわけねえだろ。今日は彼女を約束しているんだよ。
そっちと先に約束していたから、お前とはまた今度な」
「なんだ。彼女とか。じゃあ、しょうがないね」
ころっと、また笑顔に戻る。
彼女となら安心だと言いたそうな表情だ。

「じゃあ、また今度誘うから。彼女と仲良くね」
「ああ……」

ご機嫌な様子で去って行くジローに、跡部は疲れたように息を吐いた。

いつまで本当のことを黙っているつもりなのか。
大切な友人にあんな顔をさせて。
彼女にも気を使わせて。
本当に好きだった人の力になることも出来なくて。

嘘だらけのこんな自分を、今すぐ消してしまいたい。



2010年03月12日(金) lost 悲劇編 12.越前リョーマ/氷帝


彼女の家を出た後、リョーマは千石へのメールを打った。
今回のことで色々迷惑を掛けている彼だけには、報告をきちんとしておかなければならない。
千石が居てくれてよかった、と心から思っている。
おそらく香澄があれだけ潔く引き下がったのも、千石の口添えがあったからだろう。
もう元の二人に戻れないことを、伝えていたのかもしれない。
跡部との別れで動揺している自分の為に働きかけてくれたのだと、推測する。

(お人よしというか、友達思いというか……)

千石との間にあったこともすっぱり忘れているというのに、ここまで力を尽くしてくれるとは。
見掛けとは違い友情に厚い人、なんて言ったら怒られるだろうか。

とにかくきちんと礼を伝えなければ。
こんなメールだけの報告じゃなく、会ってありがとうと伝えたかった。
彼のことだから「いいよ、そんな畏まらなくても」と照れた顔をしそうだ。

そんなことを考えながら自分の家へと向かっていると、
門の前にうろうろと誰かが徘徊しているのが目に入る。
インターフォンを押すのを迷っているようだ。
一体、誰?と思って目を凝らすと、二年前までは見慣れていた髪型に気付き、
リョーマはダッシュした。


「桃先輩!」
声を上げると、桃城は驚いたようにこちらを振り向く。

「越前、お前、本当に越前なのかよ!?」
「何わからないこと言っているんすか。頭でも打ったの?桃先輩」
「俺のこと、ちゃんとわかるのかよ。しかも相変わらず生意気な言い方しやがって。
でも、許す」
「わっ」
途端に、桃城に髪をぐちゃぐちゃに撫で回される。
二年前と違い、桃城の背も自分の背も伸びていて、
こんな大きな二人が何やってるんだと、誰かが見たら怪訝に思われそうだけど。

でも今の二人は、心だけはあの頃に戻っていた。
桃城を見上げる位のチビだった頃、
あの時も二人でふざけあっていて、今みたいに髪を撫で回されたことがあった。

「良かった、本当に。
またあんたなんて知らないって言われたらどうしようかって、俺……」
泣きそうになってる桃城に、リョーマの心がズキンと痛む。
記憶喪失になったことで、色んな人達を悲しませている。
何て言ったら良いかわからず黙っていると、
「あ、悪い。責めているわけじゃねえんだ」と桃城は無理矢理笑顔を作る。
「思い出してくれたから、もういいんだ。
もう二度と会話出来ないって、ずっと気にしていたからよ」
「……ごめん」
「だから謝るなって!えーっと、ほらまたこうして再会出来たんだし、
もう水に流そうぜ。なっ」
「桃先輩……」
明るく話してくれる桃城に、嬉しくなると同時に、じわっと涙が出そうになった。

こんな風に会話してもらう資格が、自分にあるのだろうか。
きっと記憶喪失した直後は、酷いことを言って遠ざけていたに違いない。
―――跡部にしたのと、同じように。
けれどあえてそこには触れず、昔のようおに接してくれる桃城に、
ありがたいと感謝する。

「ところで俺の記憶が戻ったって、なんで知っているんすか?
ひょっとして千石さんから聞いたの?」
「いや、それがよお」
何故か表情を曇らせる桃城に、リョーマは首を傾げた。
千石が気を利かせて連絡を取ってくれたわけではなさそうだ。
だったら、一体……?

じっと桃城の顔を見ると、少し言いにくそうに目を逸らす。
だが、決心したようにもう一度向き直って口を開いた。

「いや、実も俺もなんでかはよくわからねえけど、鳳から変なことを聞いてな。それがすごく変でどう言えばいいのか」
「あの、もっとよくわかるように説明して下さい」
「あ、ああ。実は、な」

桃城は、ここ最近あったことを全て話してくれた。
リョーマが記憶を取り戻したのを教えてくれたのは、氷帝の鳳から聞いたということだ。
その彼もかなり迷って、桃城に知らせたそうだ。
鳳とは中等部の時に何度か合同練習や試合をしている間に、親しくなって連絡先を交換していたと説明される。
その彼から一昨日、メールで「越前リョーマ君の記憶が戻ったって本当ですか?」と問い合わせがあった。
何も知らない桃城は逆にどういうことかと質問を返すと、
氷帝の中等部でそういう噂が流れているのだと教えてくれた。
後輩から、リョーマが全国大会に復帰するらしいので、どうしたら良いかとアドバイスを乞われたらしい。
どこからそんな情報が、と鳳は驚いて、桃城に連絡を取ったという流れだ。

「氷帝の中等部で?なんで?」
わからない、と唸るリョーマに、「それが氷帝だけじゃないんだ」と桃城は言った。
今日、中等部のテニス部にも顔を出して、さり気なく皆に確認した所、
三年生の部員の全員がリョーマの記憶が戻ったことを知っていた。
勿論、噂レベルのことだが。
どうして知ったのかと尋ねると、メールで広まっているのだと教えてくれた。
「なんか全く関係の無い奴から、越前の記憶が戻ったんだって?と聞かれた。
俺達も直接会ったわけではないから、知らないって答えてるっす。
どういうことなのか、こっちが知りたいっすよ」

どうやら噂はテニス部限定というわけではないらしい。
記憶が戻ったということ以外にも、今まで付き合っていた彼女を捨てた、
今更になってまた復帰するらしいとのこと、あれだけ迷惑掛けていても、
反省の色無く自分の方が強いから試合に出せと言っているらしい等、勝手な話が流れているようだ。

リョーマは香澄から聞いたことを思い出した。
香澄が心配していたのは、これだったのだと理解する。

「なあ、一体どうなっているんだ?
お前、誰かの恨みでも買っているのかよ」
「いや、わからないっす」
「けど勝手なことばかり言いやがってよ。悪意があるとしか思えないじゃねえか」
「……」

最初に記憶が戻ったことを知ってたのは、家族と香澄と千石と跡部だけだ。
普通なら振られた香澄を疑うところだが、
先ほどの様子から、とても言い触らすような風には見えない。

今、付き合っている彼女が居て幸せに過ごしている跡部がやったとは思えない。
むしろ自分と関わりたくもないと考えているはずだ。
残るは千石だが、これも違うと思いたい。
何故ここまで親切にしてくれるか疑問が残るが、裏があるようには見えなかった。
友人だと言ってくれた千石の言葉を信じたいのだ。

「今は考えてもわからないっす」
「そうか」
桃城は眉を寄せて、首を振った。
そんな噂を流す奴が許せないという表情だ。

折角再会出来たのに、ずっと立ち話していることに気付き、
リョーマは桃城を見て口を開いた。
噂の件よりも、もっと大事なことを聞かなければならない。

「ねえ。時間あったら家に入ってよ。お茶位なら出せるから」
「おう、いいぜ」
桃城を伴って、家の中へと入る。

噂が流れてることも気になるが、それ以上に二年前の大会のことを知りたい。
決勝に間に合わず、終わってしまったあの日。
どうなったか全て聞かなくてはと、リョーマは覚悟を決めた。













鳳に一緒に帰りませんか、と誘われ、断る理由も無く宍戸は了承した。
何か悩んでいるようだったので、相談でもあるかと漠然に思っていると、
予想外の話をされて驚いてしまう。

「越前の記憶が戻ったことが噂になってる!?なんだ、そりゃ!」
「し、宍戸さん。声が大きいです」

下校中の他の生徒にじろじろ見られ、宍戸は慌てて声のボリュームを落とした。

「おい、長太郎。一体全体何の話だ。どこでその噂が流れているって?」
「中等部のテニス部で知らない部員はもいないそうです。
現部長がもし本当なら、大会に参加することになるかもしれないって、そうなったらどうしようって泣き付いて来たんですよ」
「あー。なるほど」

元部長の日吉よりも、鳳の方が相談し易いのは確かだ。
しかし一体どこからその話が漏れたんだろうと、宍戸は思った。
先日、ジローが興奮した様子で「越前リョーマが記憶を取り戻して、また跡部に近付こうとしている!」と喚いていたが、
あの時は忍足と向日と滝と、そして自分しかいなかった。
まさかジローが言い触らしているのか?と考える。
だとしたら、中等部にまで喋ることないだろ、と溜息をつく。
とりあえず、後輩の相談に答えてやることにする。

「記憶が戻ったからって、大会に出るとは限らないだろう。
都大会にも出ていなんだし」
「そうですけど、出るとなったら強敵になりますからね。
他の学校も内心穏やかではないでしょう」
「まあな。たしかに越前の凄さは嫌という程わかってる。
あの跡部が負けるなんて、当時は信じられなかった位だからな」

二年前を、懐かしい目をして振り返る。
あの頃の跡部は、とても幸せそうに見えた。
生意気なリョーマに散々手こずらされながらも、両想いになって、
ケンカしつつも上手くやっているようだったのに。
リョーマが記憶を失って、全てが崩れた。
もう立ち直れないんじゃないかと思う位に焦燥し切っていた跡部の姿は、
正直二度と見たくない。

「その跡部さんなんですけど、噂の件を話すべきでしょうか?」
「何で跡部に言う必要があるんだよ」
「一応報告というか。大会の参加だけじゃなく、悪意のあるような話も流れて来ているんで……」
「悪意?」
「ええ。恋人を弄んで捨てたとか、迷惑掛けているのに反省する様子が無いとか」
「くだらねえな」

宍戸は溜息をついた。
その程度の噂なら、気にすることはないんじゃないかと思う。
どうせ噂なんて、飽きた頃には皆忘れている。

「跡部に、か。
話すかどうかは、ちょっと考えた方がいいかもしれないな。
あいつ、今は彼女がいるんだし」
「そう、ですね」

決して納得しているようではないが、鳳は小さく頷いた。

たしかに嫌な噂を流すような行動は、褒められたものではない。
もしジローがやっているのなら、止めさせるよう忠告するつmりだ。

それとなく聞き出そうと、宍戸は鳳からの報告を心に留めておいた。


2010年03月11日(木) lost 悲劇編 11.越前リョーマ

‘彼女’との顔合わせは二度目になる。
記憶を取り戻したあの日i。
見知らぬ女の子に戸惑い、そして反発したことしか覚えていない。

あんたは一体誰なんだって。

千石から付き合っている恋人だと説明された時は嫌悪感でいっぱいになった。
そんなはずがない。
記憶が無いとはいえ、跡部を無視して他の誰かと付き合うなんてありえない、と。

しかし今は冷静になっている。
跡部との別れで、目が覚めたのかもしれない。
この二年の間、身に覚えはなくても色々なことがあったのだと。
目の前にいる彼女と付き合い、恋を育んでいた。
覚えていなくても、紛れも無い事実だ。
逃げるわけにはいかない。

だからこうして千石に取り次いでもらい、彼女と……香澄と話をする為に再び自宅を訪問した。
記憶を取り戻した日と同じ場所に再び来るとは思っていなかった。
あの頃とは自分の気持ちがまるで違っているが。

記憶が無かったことだからでは済まないと、跡部との別れで学んだ。

誠意を持って話しをしようと、リョーマは香澄に向き直る。

「あのさ……」
「ちょっと、待って」
リョーマが口を開いてすぐに、ストップを掛けられる。

「リョーマの話を聞く前に、私の話を聞いて欲しい。いいかな?」
「……わかった」

香澄の迫力に押されて、頷く。
彼女もまた何かしらの決意を秘めている。
目を見て、それがわかった。

「これをまず見てくれる?」
用意しておいたのだろう。
香澄は沢山のアルバムを机の上に広げた。

「私とリョーマの思い出。これが全部」
「……」

何冊もあるアルバムに、リョーマは手を伸ばした。
正直な所見たくないが、この二年にあった真実の出来事だ。

目を逸らすなと言い聞かせて、アルバムを捲って行く。
どれもこれもが自分と香澄の思い出ばかりが綴られていた。
知らない人が見たら、仲の良い恋人だと言うだろう。
リョーマの目から見ても写真に映ってる二人は幸せそうに見えた。

初めはぎこちないが、少しずつ親密になっていくのがわかる。
写真には千石もよく登場している。
知らない女の子も何人か映っているが、きっと千石の彼女だった人なのだろう。
そうして全ての写真に目を通してから、リョーマはアルバムを閉じた。

「全部、ちゃんと見たよ」
「何か、思い出さない!?」

切羽詰った声で言われても、期待するようなことは無い。
写真に自分が映っているのは認める。
けれど他人事のようにしか思えない。
一体どこで何をしているのか、まるで思い出せないのだから。

首を横に振ると、香澄は落胆したように肩を落とした。

「そっか、やっぱり無理なんだ。
リョーマはこの二年間を全部忘れちゃったんだね」
「……」

ごめん、とは言えなかった。

好きでこんな風になったわけではない。
記憶喪失にならなければ、彼女と付き合うことは無かった。
思い出したりしなければ、こんな辛い思いはしないで済んだ。
どうしようもない。
神様の悪戯がこの結果を招いただけだ。

「私ね、いつかこんな日が来るかもしれないって思っていたんだ」

急に香澄は明るい声を出した。
無理しているのはわかったが、リョーマは黙って耳を傾けた。

「リョーマと付き合い始めた時、今までの記憶を失ったって聞いていたんだ。
もしそれを思い出したら、私と付き合っているリョーマは居なくなっちゃんじゃないかって、ずっと不安だった。
だから写真に残そうと、いっぱい撮り続けていた。
これを見たら、忘れても思い出してくれるかもって。
でも、結局……駄目だったみたい」
香澄は力無く笑った。

その顔を見て、リョーマは瞬時に理解する。
彼女はもう全てを受け入れるつもりでいるんだ、と。
わかっていたのだ。
記憶が戻り、更にこの二年の間にあったことを全て忘れた自分が、彼女を選ぶわけがないと。
わかっていて、それでもと、この最後になるであろう話し合いに賭けていた。
もしかしたら気持ちが戻るかもしれないと、祈るような気持ちでいたに違いない。

けれど、現実はこんなにも残酷だ。
思い出の写真に目を通しても、リョーマの中にあったであろう彼女への気持ちは蘇ることはない。
全て、自分の所為だ。
覚えていないとはいえ、彼女を選んだのは自分だ。
目を逸らしてはいけない。
彼女の苦しみは自分が招いたことだと、リョーマは自分の心に刻んだ。

少しでも、早く解放しなければ。
香澄にしてやれることは、それしかない。
ここで同情して、もう一度付き合うなんて嘘を言ってもきっと喜ばない。
彼女も待っているのだ。

夢だったと、リョーマが断言して、現実に帰るその瞬間を―――。

「俺は、あんたともう一度付き合うことは出来ない」
きっぱりと告げると、香澄が目を潤ませるのが見えた。
それでも必死に泣くまいと耐えている。
「続けて……」
言われて、リョーマは先を続けた。
「さっきの写真を見て、俺とあんたがすごく幸せそうに過ごしていたのは伝わった。
もし俺の記憶が戻らなかったら、多分このまま付き合っていたと思う。
でも、それは叶わない。
今ここにいる俺は、12歳のときに戻ってしまったから。
振り出しに戻って、また最初から付き合えばいいって人もいるんだろうけど、それは出来ない。
だって、好きな人がいるから」

香澄は驚いたように顔を上げる。
彼女には正直に話そうと決めていた。
だからリョーマは本心を隠すことなく伝えた。

「もう振られているんだけど、忘れられないんだ。
だからあんたとは付き合えない。……ごめん」
「やだ、謝らないで。リョーマが悪いんじゃない。
きっとめぐり合わせが悪かったんだよ」

香澄は自分に言い聞かせるように言った。

「この二年、ずっと幸せだった。
リョーマと過ごした日々、忘れないよ。
今日はありがとうって、言いたかったんだ」
「……そっか」
「ねえ、もしかしてまたテニスを始めるの?」

不意にぶつけて来た質問に、リョーマは目を丸くした。
香澄は「そうなんでしょ」と笑う。

「私、リョーマと出掛けたり遊んだりしてすごく楽しかったけど、
やっぱりテニスをしている姿の方がしっくり来るってずっと思っていたんだ」
「でも俺は、テニスをしようとしなかったんだよね?」
「うん。色んな人から復帰するように言われて、すごく嫌がっていた。
だから私は何も言えなかったんだ。
告白した時も、自主練習しているリョーマを見て、ずっと好きだったって伝えたかったんだよ。
おかしいね。今になって言えるなんて」

そう言って香澄は目元をそっと拭った。
心から想いが溢れて来ているのだろう。
掛ける言葉が見付からず、リョーマは目を伏せていた。

誰かに真実を告げるのは、こんなに苦しいものだと知った。
跡部も、同じ気持ちだったんだろうか?

どうして自分は今更記憶を取り戻してしまったのだろう。
変わらないままだったら、誰も傷付かずに済んだのに。

「今日はわざわざ、ありがとうね」

これ以上は話をするのは無理、と香澄が言い出した為、
帰ることになった。
一人で泣きたいのだろう。
自分が居たら、思い切り泣けない。
だからリョーマは香澄の言葉に従うことにした。

玄関まで見送りに出た香澄に、
「俺の方こそ、色々ありがとう」と礼を言う。

二年間、こんな自分の側に居て楽しい時を過ごさせてくれた。
それは香澄のおかげでもあると心から思っている。

「あの、もう一つだけいいかな」
「何?」

迷いながらも、香澄は意を決したように口を開く。

「最近、リョーマに関して変な噂が流れてるみたい。
その、記憶を取り戻したのかって昨日クラスの子から確認のメールがあったんだ。
そんなに親しくない子だったから、返信はしなかったけど、なんでそんなこと知ってるのかって……。
でも今日もまた、別の子から問い合わせがあったの。
なんか変だと思わない?」
「……」

ふと、リョーマは千石と待ち合わせしたファーストフード店での出来事を思い出した。
青学の制服を着た見知らぬ生徒達が、こちらを妙な目で見ていた。
もしも、自分の噂していたとしたら……?
考え過ぎだろうか。


「だからもしかしたらリョーマの知らない所で色々嫌なことを言われているかもしrない。
そんなこと勿論否定するけど、知らない人は鵜呑みにする可能性があるから。
でも、気にしないで」
「わかった。教えてくれて助かった」

リョーマの言葉に、香澄はふっと笑う。

「私がその噂を流しているかもとは考えないんだ?
記憶を戻ったことを知っている人は限られているんでしょ?
一番怪しいのは、私じゃないの」
「まさか」
リョーマは即座に答えた。
「そんな相手だったとしたら、俺はあんたを選んだりしてないと思う。
覚えてなくても、わかるんだ。
あの写真の中の俺は、すごく幸せそうだった。
あんな顔をさせる位に好きだった相手が、そんなことするはずないって確信しているから」
「本当に、もう……」

再び香澄は目を潤ませる。

「折角諦めようとしているのに。
これ以上、好きになるようなこと言わないで」
「えっと」
「冗談に決まってるじゃない。バカ」

シャツを捉まれ、体を引き寄せられる。
同時に頬に香澄の柔らかい唇が触れた。

「さよなら、リョーマ」

耳元で囁かれ、そして肩に手を置いて突き放される。


「さよなら」

そのまま振り返らず、リョーマは香澄の家を出た。

一人で泣いているのだろう。
でも、慰めることは出来ない。

彼女の涙が早く止まるようにと、それだけを祈った。


2010年03月10日(水) lost 悲劇編 10.跡部景吾

ずっとこのまま一緒にいられたら―――。

ささやかだけれど、それは跡部にとって最も重要な願いだった。

リョーマも同じように考えてくれたら、もっと嬉しい。

そう考えて、ある日何気なく探りを入れてみた。


『お前って、将来のこととか考えてるのか?』
『は?何、いきなり』
『いや、やっぱりプロ目指しているのかって気になっただけだ』

跡部の問いに、リョーマは首を小さく捻る。

『さあ。テニスを続けていたら、いずれそうなるかもしれないけどよくわからない』
『なんだ。てっきりもう具体的に考えているんじゃねえのか』
『まさか。先のことなんて、そんなの全然考えているわけない。
今は試合にさえ出れたら、それでいい』

本当に何も考えていないリョーマの言い方に、らしいと思ったが、がっかりもする。

二人の将来も考えていないのか、と肩を落とす。


そんな跡部の様子に気付くことなく、
『あんたは?』と問い掛けて来る。
『俺か?』
『うん。なんか考えてんの?』

黒い大きな目が、じっと跡部を捕らえる。
誤魔化すのは簡単だが、リョーマには正直でありたい。
だから素直に話すことにした。

『多分、俺は家を継ぐことになる』
『うん』
『……お前みたいにプロを目指すことはしない。
多分、テニスも高等部に進学したら止めることになる』

途端にリョーマの表情は曇らせた。

『どうした?』
『あんたがテニス止めるなんて、言うから』
『それはしょうがねえだろ。テニス続けるのも今だけって約束させられて』
『しょうがない?跡部さんにとって、その程度のものだったんだ』

怒っているのはすぐにわかった。
けれどその時の跡部には、どうしてという気持ちの方が大きかった。
リョーマも当然わかってくれているものだと思っていた。
これだけの大きな家を見て、将来も自由に振舞えるものだとそんな風に考えられるはずがない。

それに、プロになれるまでの才能もない。

だから家を飛び出せない。
世界一を目指せるような、そんな力を持っていたら。
一人で生きて行くと、啖呵を切っていたかもしれない。
出来ないのは、そこまでの選手じゃないと気付いているからだ。

そう思って黙る跡部に、リョーマは体を乗り出して『聞いてんの?』と詰め寄る。

『テニスするの、好きなんでしょ。見ていてわかるよ。
跡部さんはテニスを止めることなんて考えたりしない』
『いや、だから現実問題としてだな』
『なんでしょうがない、なんて諦めたように言えるのかわかんない。
あんなにテニスが好きで好きでしょうがなくて、しかも強いのに。
本当は続けたいんでしょ。
なのに周囲のこと考えて、止めようって考えて。
跡部さんらしくないよ』
『……』


簡単に言えるリョーマが、羨ましくさえ思えた。

(こいつには迷いとか、無いのかよ)

無いんだろうなあ、と苦笑する。

父親を追い掛けていたとはいえ、知らずテニスを好きになって、
毎日のように練習して、生まれ持っての才能が開花して、上達して。
今も高みに昇ろうとしている。
しかも無意識の内に。

自分は特別な存在だと勘違いしていた時もあったが、
越前リョーマこそが選ばれた‘特別’なやつなんだと思い知らされる。

反則だろ、こんなの、と跡部は内心で呟く。

だからきっとリョーマにはわからない。

もう限度が見えた自分と、今も成長を続けるリョーマと。
今この瞬間にもはっきりとした差があるというのに、
全くわかっていないリョーマの言葉は残酷で、それでいて心地良いものだった。

『お前が、俺のこと強いって認めてるのなら……まだ捨てたもんじゃねえな』
『はあ?何言ってんの。いつも自信持ってるあんたらしくもない。
どこかで頭でもぶつけた?』
『ひでえな、その言い方。
全部本当のことを話してるって言うのに』
『だって俺の評価なんてどうでもいいことでしょ。
いつも自分が一番って顔してるくせに、今日はなんか変だよ』


どうでもいいことじゃない。
これだけの才能を持つリョーマが認めてくれている。
過大評価だとしても、嬉しい言葉だった。

それに自信あるように振舞っているのは、ただの虚勢だ。
氷帝を背負っている以上、弱い所は見せられない。
パフォーマンスに過ぎないと、自分でもよくわかっていた。

『なあ、リョーマ』
『何?』


リョーマの両手をぎゅっと握ると、不思議そうに見詰めて来る。

『テニスを続けるなんて言ったら、絶対反対される。妨害もされるだろう。
けどお前が側に居てくれたら、きっと乗り越えられる気がする。
だから一緒に居てくれるか?』

質問に、リョーマは跡部の手を握り返すことで答える。

『そんな当たり前のこと、聞く必要無いのに。
俺はあんたのことを選んだ。
これからも一緒にいるよ』
『そっか。なら、大丈夫だな』
『うん』

テニスを続けると言ったことで、リョーマは嬉しそうに笑っている。

しかしリョーマのように自分はプロにはなれないだろうな、と跡部は思った。

その前に壁にぶち当たって、苦しんで結局テニスの道から去って行く。
そんな将来が見えるようだったけれど。

リョーマが側に居続けてくれるのなら、どんなにみっともなくても乗り越えて、受け入れていくことが出来けそうだ。

その時が来ても、今みたいに手を握って『一緒にいる』と言ってくれるはず。


だからもう少しだけ、あの四角いコートの中で同じ夢を見たいと思った。

例え無謀で、叶わないものだとしても。














(最悪だ……)


目を覚まして、跡部は大きく息を吐いた。

さっきまで見ていた夢は、よりによってリョーマとの過去の出来事だった。

封印したはずの日を思い出したのは、この前リョーマと会ったからだろうか。

しかし今のリョーマの姿じゃなく、あの頃のまだ背も小さかった彼が夢に出て来る方が、
跡部にとってダメージが高い。

幸せだった頃を思い出して、結局一緒にいられないこの現実に打ちのめされそうになるからだ。

(今の俺は前を向いて生きて行く。そう、決めたじゃねえか)


着替えを終えて、用意された朝食を取る。

今日も部活があるから、もたもたしていられない。
二年生の部長というだけで、反感を買っている。遅刻なんて論外だ。
中等部の時とは違う。
やりたいようにやって、ねじ伏せる方法ではいつかしっぺ返しを食う。
人の上に立つにはどうするのが一番か、きちんと考えるようになっていた。

学校へ行く前にいくつかの携帯をチェックすると、
彼女からのメールが入っていた。

内容は今日、会えないかということだった。
特に用事があるわけではないが、時間が空いていたらという控え目なメッセージだったが、
跡部は何故かそれを疎ましく思えた。

そしてそんな風に思う自分に、驚く。

今まで、一度として彼女のことをそんな風に思ったことはない。

親に紹介された相手とはいえ、誠実に接していた。
リョーマとの吹っ切る切っ掛けが欲しかったのは事実だが、
純粋に慕ってくれる彼女の愛情に救われていた気にさえなっていたのに。

余裕が無いのだろうか、と跡部は考えた。
リョーマとの出来事は、自分の中でも消化し切れない大きな出来事だ。
いきなり記憶が戻った彼と会話したことで、彼女のことまで思いやれる余裕が無くなっている。
ただ、それだけだ。

時間が経てば、きっと元通りの自分に落ち着く。

そう思って、今日も練習が長引いて忙しい為、無理だというメールを送る。
必ず時間を作るから、こっちから連絡するの一文も入れておいた。

こうすれば彼女は気を使って、しばらく連絡を控えようと気を使ってくれるに違いない。

そんな風に考える自分に罪悪感を抱きながらも、
しばらく顔を合わせることが無くなると思うとどこかホッとしている。

(疲れているんだよな、やっぱり……)

過去のことを夢にまで見てしまう程だ。
そんなに簡単に割り切れるものじゃない。

だけどもう忘れなければ、と今日も言い聞かせて学校へと向かった。












「おー、跡部。今日も早いな」
「まあな」

学校へ到着すると、忍足が声を掛けて来た。
忍足も練習熱心なやつで、登校する時間は早い。
医者を目指していると以前に聞いていたので、てっきり高等部ではテニスは止めるのかと考えていたが、
意外にもまだ続けている。
学業でもそれなりに上位の成績で、立派に両立させているようだ。
だから家族も文句は言わないらしい。


(俺と似たような立場だな……)

進学と同時に、テニスは捨てるつもりでいた。
けれど、結局止めることは出来なかった。
もうリョーマとは別れていたけれど、テニスを失ったら本当に最後の望みさえ消えてしまいそうで、
ただの未練から入部を決めた。
リョーマ本人はラケットを投げ出したというのに、何故コートに立っているか、跡部にもわからなかった。

当然、家族には反対された。
けれど部活範囲内だけでやるということ、そしてある程度の成績を残すことは将来有利に繋がることにもなると説得すると、渋々という形で認めてくれた。

それから彼女の家族を紹介されて。
あちらの両親は跡部がテニスで好成績を収めていることを知っていて、その事をとても気に入ってくれた。
どうやら彼女の父も一時期は熱心にテニスをしていた時期があったらしい。
頑張れ、と笑顔で言われた時はどう返したら良いかわからず、曖昧に誤魔化した。

それを知ると、跡部の家族は手の平を返したように部活動することを応援するようになった。


未練からテニスをしていただけなのに、皮肉なものだとその時は笑いたくなった。

(理由はそれだけじゃない。あいつへの当て付けもあったからな……)

記憶を失くしたリョーマがテニスをしないと宣言した時、
本気で殴ってやろうと思った。

自分がどれだけ恵まれた才能を持っているか、こいつはまるでわかっていない。
例え記憶が無くったって、『越前リョーマ』には変わりない。
その眠っている才能を捨てるなんて、何を考えているんだと憤慨した。
望んでも多くの人間は高みへと行けない。
だがリョーマは違う。
努力さえ続けていれば、必ずその先に到達出来る。そんな才能を持っているのだ。

なのに、記憶を失くしたリョーマは振り返ることなくコートから去って行った。

そんな彼に対する当て付けの意味も込めて、跡部はここに残った。

本当なら部長になる資格すら無いはずだ。
しかし実力を認めたことでの判断だと、前部長と顧問に説得されて結局引き受けた。

リョーマがテニスを止めて、手塚を含む当時のライバル達が何人かが留学したから、
インターハイでも当たり前のように勝てるようになっただけだ。
決して、自分の実力が認められたじゃない。
本物の才能というものをわかっている分、勝利を手にしても虚しさが残った。
勿論、部長という立場上、悟られないようにはしている。

でも今の自分がテニスを好きかどうか聞かれたら、きっと迷うだろう。
中等部の頃は、そんなの考えもしない程夢中になっていたのに。


「なんや、顔色悪いな。朝食抜いたんか?」

ストレッチしつつ、忍足がそんな質問をぶつけて来る。

「馬鹿言え。ちゃんと食べて来た」
「なら、悩み事か?まさか越前絡みとか言うなよ」
「な、なんで越前の名前がそこで出て来るんだ」

動揺しつつ言うと、忍足は少し眉を顰める。
そして動きを止め、跡部の側にそっと近付く。

「ジローがあれだけ騒いでいたからな。
越前と会って心が揺れたりせんか、俺も心配するわ。
まさかよりを戻そうなんて」
「考えてねえよ」

強く否定すると、「なら、ええけどな」と忍足は肩を竦めた。


「今のお前には大事な恋人もおるからな。
余計な揉め事は起こすなよ。
何よりジローがあれだけ拒絶反応起こしとるんや。
刺激しないほうがええで」
「わかってる」

頷くと、忍足は「頼むで」と肩をぽんと叩きストレッチへと戻る。


ジローにも困ったものだ。
きっといらないことをあちこちで騒いでいるに違いない。

跡部は大きく息を吐いた。

最もその原因を作ったのは、他でもなく自分だ。
宥める為にも、リョーマとのことは一切口にしない方がいい。


(よりを戻す気なんて、ねえよ……)

そうする為にも、ちゃんと会ってけりを付けた。

リョーマも納得していたはずだ。
いずれ気持ちに折り合いを付けて、歩き出す。
そうした強い精神を持ち合わせている。
越前リョーマとはそういうやつだ。

だから、もう悩むべきことは無いはずなのに。


未だに過去に縛られているような気がするのは、どうしてだろう。


考えるな、と気持ちを切り替える為、
部長の顔を作って、集まり始めている部員の顔を見渡した。


2010年03月09日(火) lost 悲劇編 9.越前リョーマ

その日の夕方。
リョーマは千石と会う為、外出をした。
どこにでもある普通のファーストフードで会う約束になっている。

母は仕事で不在。南次郎もどこに行っているかわからないが、多分すぐには帰って来ないだろう。
従姉は今日はテニスサークルがあるので遅くなる。
ちょっとの間だから大丈夫だろうと、メモを残さず鍵を掛けて家を出た。

(夕方になっても暑いなあ)

少し走っただけで額に汗が滲んで来る。
2年前もこんなに暑かったっけ、と思いながら急ぐ。
もっと早く家を出るつもりだったが、少しうたたねした所為で遅くなった。
急がなければ、待ち合わせの時間が過ぎてしまう。

’今度、越前君の都合の良い時で構わないから会わない?’

お昼ご飯を食べている最中に、千石からのメールが入った。

多分、彼女とのことでいつ会えそうか聞きたいのだろう。
迷うことなくリョーマは、‘今日でもいいよ’と返事をした。

遅くなればなる程、その香澄という彼女を傷付けていくのはわかっている。
きちんと向き合って話をしようという決心はついた。
だから千石からの申し出は有り難いものだった。

’じゃあ、夕方はどうかな?’

千石の返事に、すぐにいいよとメールを打つ。
リョーマの家に迎えに行こうか?と気を使ってくれたが、それは断った。
いい加減、一人で行動出来るようにならないと苦労するだけだ。
たしかに二年前と違う町並みに驚くこともあるが、その位はどうってことはない。




千石が指定したのは2駅ほど先のファーストフードだ。
わかりやすい場所にある為、すぐに見付かった。

中に入ると、「越前君っ」と名前を呼ばれる。
「良かった。迷わず来られたんだね」
「千石さん……」

やっぱり未だに髪を黒くした千石には慣れない。
二年前のオレンジ色が印象的過ぎたからだろうか。
黒髪の千石を見ると、まるで別人のように映る。

「ん?どうかした?」
「いや、それより注文はもうしたんすか?」
「ああ。ちょっと早く着いたからね。飲み物とポテトだけ」
「すみません……」
「謝らなくてもいいよ。ちゃんと来てくれたんだから。
それより越前君もなんか食べる?」
「あ、夕飯すぐなんで飲み物だけ買って来るっす」
「そう。じゃ、俺あっちで座っているから。奥の方に席取っておいたんだ」
「っす」

急いでレジに向かい、炭酸飲料を注文する。
夏休みの部活帰りなのだろうか。店内には制服を着た学生達が大勢いる。
見知った顔は無いが、自分が気付かないだけかもと思い、目を逸らす。
二年前も人の顔はあやふやなのに、わかるわけがない。

飲み物を持って千石の所に行くと、「どうかした?」と首を傾げられる。

「暗い表情してるけど、なんかあった?」
「無いけど……」
真正面に座ると、「うん、でも血色は良さそうかな?」とじろじろ見られる。

「ご飯、ちゃんと食べているみたいだね」
「あー、うん。母さんがうるさくって……」

記憶が戻ってから、実際かなり気を使われている。
料理はあまり得意な方では無い母は、それでもリョーマの為にと仕事から帰ったらせっせと食事作りに励んでいるのだ。
そんな母を見て、とても残せる状況ではなく全て平らげている。
時々、しょっぱかったり、味が微妙だったりしても黙って食べた。
ちょっと焦げた魚や、上手く揚がらず、油がべったりした唐揚げを見ても、
母なりの愛情だと気付かされる。

記憶が戻ったことで、結局より一層心配させてしまっている。
だけど息子を元気付けようと頑張っている母に、感謝してもし切れない。

リョーマが前を向こうと思ったのも、これ以上家族に心配させないという理由が含まれていた。


「そっか。よく食べて、よく寝る。大事なことだからね」

頷いている千石に、「それで、今日連絡して来たことなんですけど」と話し掛ける。

「よく考えたんだけど、やっぱりその、香澄さんと直接会って話ししようと思ってるんだけど」
「え……いいの?」
「はい。千石さんの言う通り、逃げるの止めます」

考えが変わったのは、跡部と会ったからだ。
もう二年前に終わったことなのに、跡部はきちんと会いに来てくれた。
無視し続ける選択肢もあったはずだ。
けれど彼はちゃんと顔を見て全てを話してくれた。

だからこそ、自分だけが逃げ回っているわけにもいかない。
跡部がそうしてくれたように、ちゃんと彼女の顔を見て今の気持ちを伝えようと思った。


「そっか」
千石は安心したように頷く。
「それで、千石さんに頼みがあるんだけど」
「何?俺で出来ることなら手助けするよ」
「その、香澄さんって人に連絡取ってもらえないかな。さすがに自分からは、どう言ったらいいのか、わからなくって」

上手く言えないかもしれない、とリョーマが頭を掻くと、
千石は「任せといて」と軽く胸を叩く。

「お安い御用だよ。じゃあ、越前君と香澄ちゃんの都合の良い日で、ってことでいい?」
「はい。俺の方はいつでも構わないんで」
「OK。そう伝えておくね」
「何から何まで、ありがとうございます」

軽く頭を下げると、「やだなあ。止めてよそういうの!」と千石は明るい声を出した。

「元々、俺が勝手なお節介焼いて、首突っ込んでいるようなもんだけだし?
越前君が気にすること無いよー」
「でも……」
「うん、でも香澄ちゃんと会う気になってくれて嬉しいよ。
なんか、心境の変化でもあったの?」

千石の質問に、一瞬言葉が詰まった。
けれど、この人にはちゃんと言おうとリョーマは姿勢を正す。
記憶を失くし、またそれが戻ってもこんな風に親しく接してくれるのは彼だけだ。
友人だった期間を覚えていないと言っても、傷付くことなく世話を焼いてくれようとする。
千石になら、何でも言える気がした。

「うん。実は跡部さんと会ったんだ」
「ええっ!?」
少し大きな声を上げた所為で、こちらに注目が集まる。
千石は慌てて口を塞いで、「それって、いつ?」と声を潜めて言った。

「昨日、だけど」
「えっ、じゃあ俺が氷帝に行ってすぐってことじゃんか」
「氷帝に?」

何の為に、とリョーマが首を傾げると、
千石は気まずそうに目を逸らした。

「いやあ。跡部君にちょっとお願いしに……」
「ひょっとして、俺と会うようにって言ってくれたんすか?」
「ごめん!勝手なことして。でも越前君が会いたがっているのは、やっぱり跡部君しかいないと思ったから。
会ってくれたらいいなあと思って、行動したんだけど迷惑だった?」

恐る恐る尋ねる千石に、リョーマは首を振った。
迷惑なんてとんでもない。
跡部の家に伝言をお願いしただけで、電話を掛けて来るなんて変だと思った。
悪戯か間違いだと思って、無視されてたかもしれない。
きっと千石の言葉に動かされて、こちらに連絡を取って来たのだろう。

「ううん。おかげで会えたから。千石さんには本当に感謝してる」
「や、止めてよ、それー。越前君は、もっとこう、勝手なことすんなって低い声で叱るようでなくちゃ」
「何すか、それ」
「いや、照れ隠しだって」

笑顔の千石に、つられてリョーマもくすっと笑う。

記憶を取り戻してから、久し振りに笑った。
ずっと暗い気持ちの中にいたけれど、千石の明るい空気のおかげで少し楽になれた。


なんとなく、記憶を失くした自分が千石と友達になったのも理解出来た。
皆が皆、テニスしろと押し付ける中、千石のどこ吹く風のような雰囲気に救われていたのだろう。
さっきだって、跡部とどんな話をしたかとは聞いてはこない。察しているが、何も言わず黙っている。
そんな気遣いに、ありがたいなと素直に思う。

「あのさ、千石さん」
「ん?何?」
「千石さんとはこの二年間友達だったって言うけど、俺はその間のことを忘れちゃったよ」
「うん。そうだね」
「でもさ、また友達になりたいと思う。今度は忘れないように」
「越前君?何、どうしたの急に」
「記憶が戻っただけだって、平気な振りしてたけど結構心細かったりもしたんだ。
テニスも辞めちゃって、跡部さんとも別れたりしてて。
でも、千石さんが今も友達だって言ってくれてさ、嬉しかったんだ。
忘れちゃったから、関係ないって見放されても仕方なかったのに」
「越前君……」
「だから、ありがと。そして出来れば、これからも友達でいたい」

リョーマの言葉に、千石は「勿論だよ」と右手を差し出す。
自分より少し大きい手を握り、お互い軽く握手をする。

これからも友達、という意味を込めて。

「香澄ちゃんのことも含めてさ、何かあったら相談に乗るからね。
一人で考え込んじゃ駄目だよ」
「うん。わかった」

千石が友達で良かったな、とリョーマは思った。
誰か一人でもこうして言ってくれるのは、有り難いものだ。

「それじゃ、またメールするから……」

不意に千石は口を閉じ、じっと後方を見据える。
「千石さん?」
「いや、なんかさっきから視線を感じていて変だと思ったんだけど。
越前君の知り合いかな?」
「えっ?」

慌ててリョーマが振り向くと、青学の制服を着ている男子生徒が数人、
こちらを見てひそひそと話しをしているのが見えた。

リョーマが振り返ったことで、彼らは驚き、バタバタと店の外へと出て行く。

「なんだろ、あれ。やっぱり知り合いだった?」
「ううん。わかんない」

とりあえず見覚えのある顔では無かった。
しかし記憶が戻る前の顔見知りか、クラスメイトという可能性はある。

「なんか、嫌な感じだったなあ」

ストローを齧る千石に、リョーマは同感だとばかりに頷く。

あれは知り合いに対する態度というより、
嫌いな者を見たような目線だった。


2010年03月08日(月) lost 悲劇編 8.越前リョーマ/跡部景吾

跡部が去った後も、リョーマはしばらく動けずにいた。

覚悟はしていたはずだ。

だけど跡部本人から別れた事実を口に出されることが、
こんなに辛いものだと思わなかった。

リョーマの心境を察してか、カルピンは先程から離れず、慰めるように寄り添ってくれている。

片手で長い毛を撫でながら、もう一方の手で瞳に溜まった涙を拭う。

跡部が部屋を出て行くまで、我慢出来て良かった。
泣いても、彼が困ってしまうだけだ。

跡部にはもう彼女がいるのだ。
優しくする相手は、自分じゃない。
涙なんか見せて、罪悪感に駆られた跡部に手を差し伸べられても、嬉しくない。

もう、いい加減認めなくてはいけない。

自分と跡部は、あの夏の時間を生きているのでは無いのだ。
2年後の、分かれた道にお互い立っている。
その間は決して埋めることが出来ないほど離れていて、引き返すことも出来ない。

(今日限り、跡部さんのことは忘れよう)

その方がお互いの為だ。

元々、勝手に記憶喪失になって跡部のことを忘れた自分が悪い。
見切りを付けて、跡部が彼女を作ったって責めることは出来ない。


(けど、せめてちゃんとした終わりを迎えたかったな……)

例えばどちらかが心変わりしたり、相手のことを嫌になったり。
そんな単純な理由でも構わない。
だけど記憶を失くしている間に、終わっていた……なんて中途半端な形を迎えたことが残念だ。

(もう、何を考えても遅いけど)

今日が最後だと思って、リョーマは静かに泣いた。

カルピンは決して離れることなく、眠る時までずっと側から離れなかった。












泣いていてもどうしようもない。

跡部とのことは残念な結果で終わったが、まだ自分にはやりたいことが残っている。


「あら。リョーマ、今日は早いのね。夏休みなんだから、ゆっくり休んでていいのに」

階下に降りると、もう起きていた母親に声を掛けられる。
記憶を取り戻してから、母は過敏なほどこちらの動向を気にしている。
無理も無いことか、とリョーマは思った。
またいつ記憶がどうなるかわからないと、疑っているのだろう。
親として心配するのは当たり前だ。

安心させる為に、リョーマはこれからの行動を口に出した。

「うん。ちょっと走って来ようと思って」
「走る、って」
「体力作りの為にだよ。すぐに沢山走ることは出来ないから、今日は1時間も掛からないと思う」
「そう、なの」
「うん。だからご飯用意しておいて。じゃ、行って来る」

少し不安そうな顔をしているが、その位ならと母は口を出して来ることはしなかった。
あれこれ制限してうるさく思われるのを避けているのか。

心配させないよう行動しよう、と思いながらリョーマは軽く走り始める。




幸いなことに、この体は太ってるわけではない。
自分と付き合っている彼女の為に、体系を維持していたのだろうかと自虐的な考えが浮かぶ。

(テニスはやっていないようだけど、筋トレはしていたみたいだからな……)

無駄な肉がついていないことにホッとする。
スポーツを止めたらファーストフードの食べ過ぎで、メタボ一直線だ。
もし鏡に映った自分がそんな姿だったら、泣くに泣けない。

とはいえ、2年のブランクは大きい。
テニスを離れたこの時間を取り戻すのに、どれ位掛かるのか。

努力しても、無駄かもしれない。
試合に出るレベルどころか、ボールコントロールさえ怪しい。
以前のようには、決して戻れないだろう。

だけど、諦めたくは無かった。

跡部のことは、仕方無い。
最後に会いに来てくれただけでも良かったと、忘れることにした。

でも、テニスは。
せめてテニスだけは続けたいと思った。

だからこうして少しずつでも体を動かそうと考えている。

(焦らったら駄目だ。体が動かなくても、無理はしない。
でもテニスを続けることは諦めない)

どんなに辛くても、続けていこう。
報われなくてもいい。

何も知らない間に諦めるのは、沢山だ。
そんな思いをするのは跡部との恋だけで充分。

テニスだけは、自分の好きなようにやらせてもらう。
みっともないと言われても、足掻き続けてやる。


(それにしても、息切れるの、早っ……!)

20分ほど走ったところで、リョーマは走るのを止め歩くことにする。

思った以上に、持久力が落ちている。
これは最初から鍛え直す必要がありそうだ。

けど焦らない、とスローダウンして足を進め続けた。






















リョーマと別れた後、跡部は暗い気分を引き摺ったまま家へと帰った。

どこかに寄る気にもならない。
彼女との約束が無くて本当に良かったと思う。
酷い顔をしてたと思うから、心配させてしまう。

その夜掛かって来た電話も、取る気になれなかった。
声の調子で何か悟られたら、と思うと怖かった。

別に、寄りを戻したわけでもない。
リョーマに触れたりもしていない。

だけど、どこか後ろめたい気持ちがある。


彼女は、リョーマと付き合っていた過去を知らない。
これからもきっと話すことは無いだろう。

男と付き合っていた、それだけが理由ではない。

リョーマとのことを冷静に話せる自信が無いからだ。

―――胸を掻き毟るほどの、激しい気持ち。

きっとあんなに誰かを好きになることは無い。

彼女のことは、勿論好きだ。
一緒にいると安らぐ。
親も賛成してくれる相手だから、誰にでも堂々と紹介出来る。

純粋で人を疑うことを知らなくて、決して裏切ることは無いだろう。
だからこそ、跡部にとって必要な人だ。

彼女を裏切るような真似はしたくない。


だけど。

あんな顔をしたリョーマを、放っておいて良かったのか。

ずっとそればかりを考えてしまう。

12歳のリョーマには何も罪は無い。

記憶を失った時、たしかに拒絶された。
それに絶望して、彼の言葉通り二度と顔を合わすことはしなかったけれど。

記憶喪失前のリョーマは、その時のやり取りを何も知らない。
なのに「俺達は別れたんだ」と、そんな説明だけで終わらせて。

少し大人びたその顔は青褪めて、だけど文句一つ言わずこちらの言葉を受け入れていた。

耐え忍ぶその姿に、心が痛んだ。
いつも強気で、生意気な彼をこんな顔させているのは自分だと。

それでもここには決着をつけに来ただけだと言い聞かせて、
リョーマを一人残して部屋を出たのだ。

だけど、一日経過してもあれで良かったのかと悩んでいる。

どうしようもない位、自分は後ろ向きな奴だと跡部は自嘲した。



「おっはよー。跡部!」
「ジロー……」

朝から厄介な奴に見付かった、と跡部は顔を背けた。
が、直ぐにジローは探るように覗き込んで来る。

「なんか顔色悪いよ?どうしたの」
「いや、別に何も」
「まさかあいつと会おうなんて、考えてたりしてないよね?」

一瞬で、ジローの声色が変わる。
冷たく、鋭いものだ。
あいつ呼ばわりしても、それが誰だかわかる。リョーマのことだ。
ジローは名前すら呼びたくないと考えいているようだった。


「考えてねえよ。もうその話は止めろ」
「ふーん。なら、いいけど」

じっと観察するように見られて、跡部は内心で冷や汗をかく。
もし会ったと知られたら、どんなに責められるか。
終わったことだと言っても、きっと聞いてくれないだろうなと思う。

「いい?でも、もしあっちから会いたいって言っても、無視するんだよ。
跡部が断れないと言うのなら、俺が断ってやるよ!」
「わかった、わかった……」

両手で制しても、ジローは興奮したように声を上げている。
困ったものだ。


「おーっす。お前ら、朝から何やってんだよ」
「元気やなあ。今日も気温上がる言うとるのに、ジローはなんでそないに元気なんや」

途中で会ったのか向日と忍足が一緒にこちらに向かって歩いて来る。
ジローはくるっと振り返り、「おはよー」と返事した。

「だって、聞いてよ!あいつ、また跡部にちょっかい掛けようとしてるんだよ!」
「あいつって?」
「おい、ジロー……」

何を勝手に、と止めようとしたが、
それより先にジローは口に出してしまう。

「越前だよっ!記憶が戻ったからって、跡部に会って欲しいなんて言うのは間違っていると思わない!?」
「え、記憶が戻ったって、どういうことだよ!」
「いつからや。跡部、ほんまなんか?」

向日と忍足が驚いたように騒ぎ始める。
二年前のチームメイト達は多少事情を知っている。
だからと言って、ばらして良いものではない。
どうして、とジローを見るが、跡部の視線に気付かず、更にその先まで話してしまう。

「本当だよ。なんでかは知らないけど、記憶が戻ったって千石が言っていたの聞いたもん」
「千石が?ふーん。あの二人、まだ繋がりがあったんか」
忍足が、納得したように頷く。
「で、跡部に会いたいって?そりゃ、ちょっとムシが良すぎるんじゃね?」
「でしょ?岳人もそう思うよね!」

二人が盛り上がったところで、跡部はこれ以上はまずいと判断して釘を刺す。

「おい。お前ら、いい加減にしろよ。
俺は会うつもりは無えんだ。これ以上、関係ないやつのことで騒ぐな」
「なんで?記憶が戻ったのは事実なんでしょ」

庇うのか?というように、ジローはこちらを見る。

「その内、噂になって広まるんじゃないの。
そうなる前に、忍足や岳人とかには一言言っておいてもいいと思うけど」
「……そうかもしれねえが」

お前が言うことじゃないだろ、という言葉を飲み込む。

ジローをこんな風にさせてしまったのは、自分に原因がある。

あの頃、リョーマに拒絶されたのが辛くて、ほとんど悪口みたいな風に話していた。
ジローはそれを真に受けて、同情して慰めてくれていた。

あの言葉を真実だと、ジローは思い込んでいる。

けれど……。


「忍足達もさあ、千石かあいつがこの辺りをうろうろしているの見たら、
迷惑だって言ってやってよ。跡部は会う気無いんだって」
「そうだな。ハッキリ言わないと、わからないだろうからなー」

ジローに同調するように、向日もそう言いながら二人は部室へと歩き出す。

忍足だけが何か聞きたそうな顔をしてこちらを向いたが、すぐに二人を追い掛けて行く。


残された跡部は、ジローの誤解を解くべきかどうか迷って立ち尽くしていた。


あまりにも情けない過去の自分の行動。
それによって何もかも、駄目になってしまった。
あの日の出来事を、詳しく語ったわけではない。
傷付いている自分の都合良いよう、リョーマに拒絶されたとだけしか言っていない。




(俺は、ジローに全てを話したわけじゃない)


2010年03月07日(日) lost 悲劇編 7.跡部景吾

リョーマの心が12歳のままと聞いて、じっとしていられるはずが無かった。

千石が嘘を言っている可能性もあるので、まず確かめる必要がある。

使用人に探らすのは簡単だが、リョーマのことに関して人の手は借りたくない。
だから跡部は直接問い合わせる方法を取った。

二年前、付き合っていた頃に聞いていた越前家の自宅の番号。
そこに電話を掛けて、まずリョーマ自身に会えないかと言うつもりでいた。

さすがに番号を押す時は、指が震える。

もう二度と掛けることは無いと思っていた。
しかしそれでもリョーマに関する全ての情報を捨ててしまわなかったのは、
いつかまた……とどこかで期待していたからだろうか。

いや、違うと跡部は首を振った。
そんな甘い考えは、リョーマとの決定的な別れで砕け散った。
これは恋人の思い出をいつまでも捨てられない、そんな女々しい自分の心の残骸みたいなものだ。

それが今、役に立って良かったと乾いた笑いを浮かべる。

一度だけだ。
リョーマに会うのは今回限りと言い聞かせて、最後まで番号を押す。

受話器を取るまでのたったの数秒が長く感じられる。

相手が出たら最初に、何を言おうか。
リョーマ本人ではないかもしれない。
家族だったら挨拶から、と考えながらどんどん混乱していく。

「はい、越前です」

心音が限界じゃないかと思うほど速くなったのと同時に、
誰かが電話口に出た。

少し低い声だ。
だが、跡部はその声の持ち主に気付いた。

昔のような子供っぽさは無い。
けれど、どうしてかリョーマに間違いないと直感した。

「越前、か?」

跡部がそう言うと、向こう側で息を呑む気配がした。

「俺だ。……久し振りだな」
「うん……」
「この前、家に来たんだってな。俺が留守にしていたから、会えなかったが」
「ううん。突然行ったりして、ごめん」

リョーマの遠慮するような物の言い方に、きゅっと胸が締め付けられるようだ。
前は絶対こんな風に言ったりしなかった。
記憶が戻ったことで相当参っていると伺わせる声に、悲しくなってくる。

それでも跡部は自分のやるべきことのみを考えようと、
振り切るように先を続ける。

「いや。それより、近々会えないか?」
「え?」
「俺も、ちゃんとお前と話がしたいと思っている」

期待させないように、素っ気無い言い方をしたつもりだ。
それが伝わったのか、リョーマは「わかった……」と暗い声を出す。

「俺の方はいつでも暇だから、そっちの都合の良い日でいいよ」
「そうか。じゃあ、明日の夕方はどうだ?」
「うん、大丈夫。どこかで待ち合わせする?」

少し考えて、跡部は「いや、迎えに行く」と答えた。
失った記憶を取り戻したリョーマは、今の風景に慣れていないこともあるだろう。
たった二年とはいえ、街並みも変わっている。
一人で歩かせるのは、やはり心配だ。

跡部の提案に、「だったら、俺の家で話をする?」とリョーマは言った。
「いや、しかし……」
「明日は母さんも親父もいないみたいだから、邪魔は入らないっすよ。
どこかに移動するのも面倒でしょ。何も無いけど、話する位なら出来るから」

反対する理由も無かったので、跡部は「わかった」と答えた。

「じゃあ、明日5時過ぎにはそちらに行く」
「うん、待ってる」


そこで電話をお互いに切った。

5分も掛からない短い会話だったが、どっと疲れた。

電話でこれだから、明日会ったらどうなるのか。
あまり考えたくも無い。









翌日、跡部は部活に出た時、普段と態度を変えないよう注意を払った。
特にジローを警戒し、なるべく近寄らないようにしていた。
最もジローは今大会ではレギュラーにならなかったので、練習メニューが被ることが無い。
意識的に避ければ、ほとんど顔を合わすことはない。

ジローに知られたら、間違いなくリョーマと会うことを阻止される。
それだけは避けたいところだ。

(今日一日だけだ。もう会うことはしないから……)

おそらく最後になるであろうリョーマとの約束を守りたい。

ジローとの接触をこそこそ避けて、その日の練習をやり過ごす。

帰りも、うっかり忍足や向日に声を掛けられないよう、急いで学校を出た。







車に乗って、懐かしい越前家へと向かう。
二年前はよく行き来していた道だ。
なんとなく覚えているものだと、跡部は苦笑する。

リョーマはよく寝坊する為、約束した日は直接起こしに迎えに行ったものだ。
パジャマ姿で出て来た彼は、いつもの生意気そうな顔ではなく、少し申し訳なさそうにしていて。
とても可愛かったと、記憶している。

けれど、それも全部過去のことだ。
もうあの頃の二人のままじゃない。
例えリョーマの心が12歳のままで止まっていたとしても、
こちらの時間は二年分流れている。

会ったとしても何も変わらない、と跡部は小さく呟いた。




どれ位の話し合いになるかわからない為、跡部は運転手に余所で待つように伝えて車を降りた。

家の前に立ち、インターフォンを押そうと指を伸ばす。
が、それより前に玄関から出てきた人影に気付き、跡部は顔を上げた。

「越前……」

こちらを見ているリョーマの顔に、言葉を失くす。


見ない間に身長はかなり伸びた。
当時の自分よりは低いが、それでも十分な成長だろう。
顔つきも、ずいぶん大人びた。
付き合っていた時のリョーマは本当に子供と言えるようなあどけなさがあったが、
もう青年という方がしっくりくる。
離れた間に随分変わったな、としみじみ思う。

だけど目だけは、あの頃と少しも変わらない。
大きな印象的な瞳が、当時と変わらず跡部をじっと見詰めている。

(動揺、するな)

現れたリョーマに意識を奪われた自分を叱咤し、
「よお」と何でもないように声を掛ける。

「元気そうだな」
「うん。どうぞ、入って」
促されて、中に入る。

電話で聞いた通り、家族は誰もいないようだ。
中はしん、と静まり返っている。

「お茶とジュース、どっちがいい?大したもの出せないけど」
そう言って振り向くリョーマに、「いや、結構だ」と返す。
「飲み物をもらいに来たわけじゃないからな。お前も気を使うな」
「……うん。じゃあ、俺の部屋に行こうか。そこで話、しよ」

階段を先に上がるリョーマの後に、跡部も続いた。
二階の奥の部屋。そこが自室だと、わかっている。

もしも付き合いが続いていたら、今も気軽に出入りしていた……はず。

(いや、だからそれも終わったことだ)

いちいち動揺する自分が情けなくて、跡部はぐっと拳を握り締めた。
ここに来たのは、決着をつけに来ただけ、と首を振る。


「どうぞ」

跡部の心境など知らず、リョーマは至って普通に部屋へと招く。

平静を装って中へと入る。
するとベッドの上にある毛の塊から「ホアラ」と鳴き声が聞こえた。

そういえばベッドはこいつの指定席だったなと思い出す。

「カルピン、元気だったか」
名前を呼んでやると、カルピンはのそっと立ち上がる。
そして床にストッと降りて、跡部の足にじゃれつくように体を摺り寄せてくる。

「ああっ、カルピン。もう、毛がつくだろ」
「別に気にしない。そうか、俺のこと覚えていたのか」
「ホアラ」
カルピンの嬉しそうな声に、跡部はそっと屈んで体を撫でてやった。
リョーマを起こしに来た時に、こうやってよく触れていた。
跡部が友好的な態度で接していた所為か、カルピンも懐いてくれた。
珍しいことだと、リョーマが言ったことも覚えている。


「そっか。カルピンはちゃんと跡部さんのことを覚えていたんだ……」

寂しげなリョーマの声に、跡部はハッとなって顔を上げた。

自分は忘れてしまったけど、猫のカルピンは覚えている。
比較して落ち込んでいるのだろうか。
ベッドに腰掛けて、リョーマは項垂れていた。
いつもの彼らしい勝気な表情はそこにない。

どこか諦めたかのような目に、話をするのを躊躇われる。
しかし、迷っていては先に進めない。

カルピンから手を放して、跡部はリョーマのすぐ隣に座った。


「二年、ぶりだな」
「うん。けど、俺の方はそんな久し振りって感じじゃないんだけどね」

自嘲気味に笑って、リョーマは跡部の方を見た。

「千石さんに聞いたんでしょ。記憶、戻ったんだ。
それより自分が記憶喪失だった、ってことに驚いているんだけどね。
しかも二年だよ?テニスも止めたって聞かされて、最初は嘘かと思った。
笑っちゃうよね、本当」
「……」

捲くし立てるリョーマが痛々しくて、声を掛けることすら出来ない。

「笑うしか、無いよ」
そう言って、左手を額に押し当てる。

今更ながら、こんな彼に現実を突きつけていいのだろうか、という気になる。

だってあまりにも酷過ぎるじゃないか。

不可抗力で記憶喪失になり、戻ってみたら大好きだったテニスを止めて、
側にいるべきだった自分は離れている。
12歳のリョーマを傷つける勇気がない。
何も言わずに離れていくべきだったのだろうかと、後悔する。


しかしこのまま終わり、というわけにもいかない。

真実を知りたいと思っているのは、リョーマ本人だからだ。

「ねえ、跡部さん」
「なんだ」
「俺達って、もう別れているんだよね?」

直接的な質問に、一瞬跡部は怯んだ。
だがここで嘘を言うことは出来ない。

「違う」と答えても、この先側にいられないのだから余計に傷つけるだけだ。

覚悟を決めて、跡部は口を開く。
迷うな、と息を吐いてからその質問に答えた。

「ああ。そうだ。俺達は二年前に、終わった」
「やっぱり、ね」

納得するように、リョーマは頷いた。

「ねえ。この二年の間に俺は彼女を作ったんだって。
信じられる?女の子と付き合っているなんてさ。
じゃあ、跡部さんはどうしたんだろうと思って考えてみたけど、
やっぱり別れていたんだよね……。」

自らに言い聞かせるように喋るリョーマに、跡部は頷いた。

「お前のことをずっと待っていられなかったのは、悪かったと思う。
もしすぐに記憶が戻っていたなら、俺もこんな選択はしなかったけどな」
「ううん。跡部さんの所為じゃない。全部、俺の所為だ。
本当になんで大会前に遠くに行くようなことしたんだろ。
あのまま試合に臨んでいれば、こんなことにはならなかったのに」

馬鹿だね、とリョーマは呟く。

「今日は来てくれて、ありがとう。
どうしても、跡部さんの口からハッキリと事実を聞きたかったんだ。
でも、もう気が済んだ。十分だよ」

納得しているなんてそんなはずないのに、リョーマはそう言って話を終らせようとする。
強がっているとわかったけれど、跡部はもう優しい言葉を掛けることは出来なかった。
ここに来たのは、きちんと別れを告げる為。その覚悟を持って、来たはずだ。


「あのな、越前。いずれお前の耳にも入ると思うから、俺の口から言っておく」
「何?」
一番残酷であろう真実を、突きつける。
それでも他人から聞かされるよりは、マシなはずだ。
例えば千石やそれとも他の人間から聞いたら、もっと落ち込むだろうから。
今、言っておくのが最良だと信じて、本当のことを告げる。

「今、付き合っているやつがいるんだ。
多分、このままでいくと結婚相手になると思う」

リョーマの表情が強張ったのを目の端で捉えながらも、先を続ける。

「親が推薦する相手なんて、冗談じゃねえとずっと思っていた。
けどお前と別れてから、もうどうでもいいって気になって、
そんな時親に連れて行かれた会場で、今の彼女と引き合わされた。
作られたレールなんて馬鹿らしいと冷めた気持ちだったけど、
あいつと会っている内に段々と変わっていった。
おかしいことに、親の仕組んだものって気付かないような鈍くさいやつなんだ。
けど純粋で、俺のこと本気で好いてくれているのはわかる。
だから、この先の人生をあいつと生きて行こうと思ってる……」

リョーマはじっと身動きもせず、跡部の言葉に耳を傾けている。

いっそ裏切り者と罵られた方が楽になれるのだが、
責めることもなく、リョーマは黙って受け止めようとしている。

じっと目を閉じた後、
「そっか……。恋人がいるんだ」と言った。

「跡部さんが選んだのなら、きっと素敵な人なんだよね。
ご両親も祝福してくれる相手だし、良かったと思う」
「越前」
「本当に、良かった」

泣くのを我慢しているのだろうか、肩を震わす姿に思わず目を背ける。

けれど、自分にはどうしてやることも出来ない。

二年前だったら、その肩を引き寄せて安心させるように抱き締めていただろう。
でも、もうリョーマにしてやれることは何も無い。

あの日を境に、全てが変わってしまったのだ。


「じゃあ、もう俺は行くから……」

居た堪れず立ち上がる跡部に、再びカルピンが纏わりついてくる。
しかしリョーマは手を伸ばし、ぎゅっと抱き込んで押さえつける。
不満げにカルピンは「ホアラ」と鳴く。

「俺もカルピンみたいに、忘れないままでいたら……そうしたら」

その後の言葉は、聞こえなかった。
言っても仕方無いと思ったのかもしれない。

後ろ髪引かれつつも、跡部は部屋から外へと出る。

とてもじゃないが、平静でいられない。
早く離れなければ、またとんでもない間違いを起こしてしまいそうだ。

あの頃のリョーマと違って体は成長したけれど、
前よりもずっと頼りなげに見えて、放っておけないと思ってしまう。

それらの感情を振り切るように、表へ出る。


(結局、会っても後味の悪さだけが残ったな……)

ならば、どうすればいいか。
考えても答えは出ない。


越前家を出ると顔に当るものを感じて、跡部は上を見上げる。

「雨、か」

今にも土砂降りになりそうな雨に、急いで車を呼び出す。

そういえば昔、リョーマと約束をしていた。

「雨が降った後、虹が出ているのを確認しよう」

虹を見付けたら、すぐに連絡して一緒に眺めると。

しかし結局あれから一度も見つけられないままだ。

リョーマに振られた時、もし虹を見つけることが出来たらまた一緒にいられるような気がして、
必死に探していた。
だけど空に虹が架かることは無いままで。

二人が寄り添うことは無いと、空にも否定されていたのだろうか。


「ごめんな、越前……」

きっと自分はもう虹を見つけることは出来ない。

ただ、この先のリョーマの幸せを祈るだけだ。


2010年03月06日(土) lost 悲劇編 6.跡部景吾

ほとんど眠れないまま、朝を迎えてしまった。

夏休みに入っているが、朝から部活の練習がある。
リョーマがいつ来るかわからないので、ここで待っていても仕方無い。
学校へ向かうことにする。

(次に越前と名乗る奴が来たら、通すように指示してあるから大丈夫だろ)
連絡が来たら部活は理由をつけて、早退すればいい。

とにかく会ってみないことには、わからない。
リョーマの名を語った別の人間なら、その相手はただで帰すわけにはいかない。
だが、本人だったら……?

結局、どうしたら良いか考えても答えは出て来ない。
リョーマが接触して来た理由を尋ねないことには、話も進まない。

(大丈夫だ。あいつを前にしても、冷静に対処出来るはず……)

この二年でリョーマへの想いを乗り越えて来た。
何を言われようと、平静を保てると跡部は自分に言い聞かせた。





朝食を取ってからいつも通りに学校へ向かうと、
「跡部、おっはよー!」
珍しく遅刻もしないで登校していたジローに声を掛けられる。

「おう……。早いな」
「うん。昨日は暗くなる前に寝たからかなー?」
「それは寝過ぎってやつじゃないのか」
「そうかも」

明るく話すジローを羨ましく思いながら、跡部も調子を合わせる。
しかしジローは直感で何かに気付いたようだ。
こちらの顔を覗きこみ、
「跡部、昨日はちゃんと眠った?」と聞いてくる。

「顔色、悪いよ?きちんと寝ていないみたい」

内心でぎくっとしつつ、跡部は「そうだな。夜更かししていた」と嘘をついた。

「夏休み明けのテスト勉強の準備を始めたら、止まらなくなってな」
「何それ。夏休みに入ったばっかりなのに、もう試験勉強始めてんの!?」
「準備は早い方がいいだろうが」
「全く。跡部って見掛けによらず努力家なんだからー」
「見掛けによらず、は余計だ」
「アハハ。ごめん」

明るく笑うジローに、どうやら上手く誤魔化せたと胸を撫で下ろす。

二年前の件で、特にジローには散々心配や迷惑を掛けた。
リョーマが訪ねて来たことは、出来ば知らせたくない。
誰にも言わずに密かに決着をつけようと、決めている。
もうリョーマとのいざこざで周りを巻き込みたくない。

自分一人で解決してみせると、跡部はジローの笑顔を見ながらそう思った。





インターハイに向けて、部員達の練習にも身が入る。
跡部は部長なので、余計に手が抜けない。
寝不足で動きが鈍くなるなんてあってはならないことだ。
ただでさえ、二年生で部長に指名されてから三年の先輩達よりよく思われていない。
実力で選ばれただけなのだが、認めない人も多いということだ。

中等部の時とは違い、無理に学校やテニス部を掌握するような真似はしなかった。
一部先輩には警戒されていたが、跡部が何もしないとわかると調子に乗る連中もいた。
しかしレギュラーを選抜為の校内試合では全く跡部に歯が立たず、
結局彼らは大人しくなった。

何もしなくても実力さえあれば、トップに立つことになる。
跡部はそれに気付いていたので、中等部の時ような行動を起こさなかっただけだ。

当時の部長が引退する際、「跡部に任せようと思う」との意見に、
反対する者はいなかった。

しかし全部認められたわけではない。

未だに二年生の跡部が部長であることに不満を持つ部員は何人かいる。
だがそれでも構わない。
広い世界に出れば、これから先いくらでも反発する者と出会うことになる。
たかが学校の部活の中で嫌わてる位、どうだというんだ。
いちいち気にしていたら、この先身が持たない。

そんな風に開き直っている所為か、陰で何を言われようが気にもならなくなっていた。

最も最近は大会前ということもあって、先輩達も跡部に嫌味を言う余裕すら無いようだ。

(練習もハードになっているからな……)


昼休みの時間になっていることに気付き、跡部は部員達に休憩を取るよう声を上げた。

少しでも休もうと皆、食堂や部室へ急いで向かって行く。

コート外で練習している一年生達にも声を掛けてから、
跡部も食堂に行こうと歩き始める。

この気温と寝不足の所為で食欲もわかないが、そうも言っていられない。
食べないと後がもたなくなる。
少しだけでも胃に入れなければ、とぼんやり考えていると、
ふと前方に立ち塞がる人物に気付く。

しかも氷帝の制服を着ていない。
偵察か?と思って顔を上げると、
「やあ。跡部君」
そいつは手を上げて挨拶して来た。

黒髪だったから、一瞬わからなかった。
けれどそれが千石と気付き、跡部は驚いて目を見開く。
最後に見た時の髪の色はオレンジだった。印象が全く違うように見える。
しかしこのへらへらとした笑顔は千石本人で間違いない。

「あー、そんなに驚かなくても」と、千石は苦笑する。
「二人して、同じ反応するなんてねえ。そんなにこの色、俺に似合ってない?」
問われて、跡部はようやく声を出した。
「いや。見慣れた色じゃなかったから、戸惑っただけだ。学生らしくていいんじゃねえのか。
それより、二人って誰と誰のことだ」
「決まってるじゃん。跡部君と、越前君の二人だよ」

あまりにも千石がさらっとした口調で言うものだから、一瞬、反応が遅れた。

「越前君も、びっくりしたように固まっててさあ。見ていて面白かったよ」
勝手に会話を続けている千石に、跡部は警戒しつつ口を開いた。
リョーマの名前を出したことで、昨日の件を思いだす。
越前リョーマの名前を語って跡部の家に訪問する。千石ならそんな悪戯を思いついてもおかしくない。

「お前、だったのか?」
「え?何が?」
「惚けんな。昨日、越前の名前使って家に来たんだろ。何企んでいやがる」

今度ははっきりとした敵意を込めて、千石を睨みつける。

記憶を失くしたリョーマと、千石が交流を持っていたことは知っている。
よりによって何故千石なのかと、あの頃は腹が立って仕方なかった。

『だって、千石さんは俺にテニスしろって強要したりしないから』

理由を尋ねると、リョーマはぬけぬけとそんなことを口にした。
たしかにあの頃、リョーマの周囲ではなんとか再びテニスをさせようと躍起になっていた感はある。
自分もその内の一人だ。
なんとか記憶を戻す切っ掛けになってくれればと思い、何度も無理矢理テニスコートに引張って行った。
結果、リョーマはテニスさせられることを嫌がり、ラケットにも触れようとしなくなった。

それなのに千石とは遊び歩いていた。
結局楽な方に逃げたんじゃねえかと、当時はそう思った。

あいつに余計なことを吹き込むな、と跡部は千石に意見したこともある。
それに対して、
『え?だって、越前君はテニスしたくないって言っているんだよ?
本人の好きにさせてあげなよ』と千石は無責任なことを言った。
何も知らないくせに。リョーマの才能をこのまま潰すつもりかと、怒りが頂点に達した。

いい加減記憶を戻さなければならない。
その為にも千石との付き合いは絶つべきだ。、
そして強引な手を使って、結局リョーマに嫌われてしまった。
二度と会うこともなくなってしまう。

当時の出来事から跡部の中での千石への評価は最悪なままだ。

こいつならリョーマの名前を語って、何か企ててもおかしくないと思う位に。


しかし千石は跡部の言葉に、
「違う、違う。それ、本人だから!」と両手を振って否定した。

「本人?」
「そう。あ、跡部君は知らないんだよね。
ええっと、何から話したものかなあ。
俺がここに来たのも、越前君に頼まれたからってわけじゃないんだけど、
友情の為でもあるってわかって欲しい」
「さっぱりわからねえ。何が言いたい?」

要領の得ない千石の言葉に、跡部は顔を顰める。

友情の為なんて言われて、苛々する。
どうやらリョーマは今も千石と付き合いがあるらしい。
それは恋愛とは違うものだとわかっていても、ムカつくことに変わりない。
こんな奴とつるんでいても碌なことは無いと、内心で悪態をつく。

「だから、跡部君の家に行ったのは越前君本人だって」
「それが本当だとして、何故今更あいつが俺の所に訪ねて来るんだ。
……二年前に、とっくに縁は切れているはずだ」

苦い顔をする跡部に、「それが違うんだな」と千石は人差し指を立てて軽く左右に振った。

「越前君、記憶が戻ったんだ。
今の彼は十二歳の当時の心のままだよ。
だから跡部君に会いに来たってわけ。納得した?」
「おい、どういうことだ……!?」

納得なんて出来るはずがなく、思わず千石に掴み掛かる。

「十二歳のままって、なんだよ。嘘つくんじゃねえよ!」
「嘘なんて言っていない。俺もよくわからないけど、突然記憶が蘇ったらしい。
変わりにこの二年間の出来事は消えて、十二歳の越前君に戻ってしまった。
今になって、ね」
「……」

千石の目は真剣で、嘘を言っているようには見えない。
だから余計に混乱する。

あの頃のリョーマが戻って来た?

つまり彼の中ではまだ自分と恋人同士のまま、ということになるのだろうか。


「跡部君にもそれなりの事情があること位わかってるよ」
千石は静かな口調で言った。
こちらの今の現状を知っているということなのか。
勿論画しているつもりは無いから、噂で色々聞いているかもしれない。

それに、リョーマとの関係も知っている口振りだ。
本人から聞いたのかもしれない。
だが、千石には色々話過ぎだとまた腹が立って来る。

こっちの複雑な心にも気付かず、千石は話を続ける。

「けど、それでも越前君に会ってもらいたいんだ。
跡部君の口から説明しないと、納得しないことが色々あると思う。
その為にも一度でいい。会ってくれないか」

必死の訴えに、跡部は思わず頷きそうになった。

が、「勝手なこと言うなよ!」と飛び出してきたジローによって、遮られる。

「え、芥川君……?」

突然現れたジローに、千石も跡部も面食らってしまう。
どうやら隠れて話を聞いていたようだ。

ジローは興奮したように、千石に詰め寄る。

「あの時、跡部がどんな思いでいたか知らないくせに、よく言えるよ。
記憶が戻った?そんなのそっちの勝手だろ。
跡部はもう吹っ切れているんだ。今頃会って、かき乱すような真似止めろって言ってくれない?」
「は?なんで君に指図されなきゃいけないわけ?」
「千石が余計なこと言うからだろ。跡部の今の生活を壊すなよ!もう、帰って!」

怯む様子も無く、千石はフッと鼻で笑った。

「それは跡部君が決めることでしょ?君には関係ない」
「だったら千石にも関係ないことでしょ。
会ってやれなんてよく言えるよ。これ以上、跡部を苦しめるなよ!」

ドン、とジローは千石の肩を押す。

「おい、ジロー止めろ。こんな時期に揉め事起こすな」
「けど」
「千石。話は聞くだけは聞いた。もう帰ってくれないか」

これ以上ジローを刺激したくなくて、そう言うと、
千石は「わかった」と頷いた。

「さっきの件、よく考えておいてね」
「だから跡部は会ったりしないって」
「ジロー、もういいから」

ジローを抑えるように、跡部はぐっと両肩に手を置いて力を込めた。
その間に、千石は校門へと歩き始める。
十分に距離が開いたところで、跡部は両手を離した。
くるっとジローは振り向いて、口を開いた。

「跡部……。またあの子と会うつもりなの?止めなよ。
もう二度と関わらないって、俺に言ったじゃん」

声には、怒りの感情が溢れている。
そうさせたのは、自分の所為だ。
二年前の件で、跡部は色々リョーマのことで相談に乗ってもらった。
落ち込んでどうしようもない時に、一番側にいて慰めてくれたのもジローだった。

記憶を失くしたことへの不満をぶちまけていたことや、別れた後でしばらく落ち込んでいたこともあて
ジローは次第に跡部以上にリョーマのことを嫌うようになった。
こんな風になったのも、リョーマの所為だと口を滑らせたのが原因かもしれない。

だから今になってリョーマが接触して来たことを、許せないと思っているようだ。

(もし俺が逆の立場だったら……)

やっぱり会うべきじゃないと、言うかもしれない。
あれだけ辛い気持ちを味わって、立ち直れなくなった程の相手だ。
関わるべきじゃないt言うジローの気持ちもわかる。


「いい?跡部。会っちゃ駄目だからね」

念押ししてくるジローに、跡部は曖昧に頷くことしか出来なかった。

一度だけ会ってもいなんて考えていると知られたら、反対されるのはわかっていたからだ。


2010年03月05日(金) lost 悲劇編 5.跡部景吾

二年も前のことは、思い出したくもない。

自分はいつから弱い人間になったのだろうと、跡部は自問した。
少なくとも『彼』に会う前は、もっと割り切って振舞っていたはずだ。
去って行く者を追うほど、暇じゃない、と。
すぐに新しい恋人など見付かる。
そんな風に過ごしていたのに。

それが、どうだ。
二年前に恋人を失ったことを、今も冷静に受け止めることが出来ないでいる。

もしあんな事さえなければ、『彼』はまだ自分の隣に居てくれたのだろうか。
幸せな日々は続いていたのだろうか。
ありもしない想像をして、何度も何度も虚しくなった日々。
そんな絶望に帰りたいと、誰が思うだろうか。

あの日以来、跡部はすっかり変わってしまった。

事情を知らないものは、元から変わっていないと言うだろう。

しかしあの出来事が起こる前、跡部は良い意味での変化が訪れていた。
それまでは誰かを本気で好きになるなんて考えてもしなかった。
恋なんて勘違いだ、と鼻で笑うような性格だった。

しかしある少年に出会い、そして自分の思い通りに行かない恋に悩み、
何度も挫折しながらもようやく恋が成就した。
その幸せにより、跡部はそれまで考えなかった他人の気持ち、というものを考えるようになっていったのだ。
それも『彼』の影響が大きかった。

だが、『彼』は跡部の前から去って行った。
しかも最悪の結果だけが残った。

その時の跡部は自分の方こそ記憶喪失になればいい、
そうしたらこの苦しみから解放されると、そう願っていた。

『彼』に出会わなければ、こんな気持ちを抱かずに済んだ。
自分ばかりこんなに辛い目に合わせて、去って行った『彼』のことを今も恨んでもいる。

好きだけれど、憎い。
それが跡部の中にある『彼』への気持ちだ。

だから二度と『彼』と接触するのは止めようと決めていた。
近付いて、また傷つけ合って絶望する。
そんな思いは、一度でいい。
再び心を壊されたら、もう耐えられない。
前回以上の酷いことになるのは、想像出来る。

もうこのまま、『彼』のことは思い出にして行こう。

気持ちの整理が一区切りした頃、跡部はある女性との交際を決心した。









「あの、景吾さん?…どうかしましたか?」


名前を呼ばれて、跡部は顔を上げた。
『彼』のことを考えて沈黙したのを、退屈していると捉えたらしい。
不安そうに見上げている彼女に、完璧な笑顔を見せる。

付き合っている彼女を不安にさせてはいけない。
そう思って、言い訳の言葉を口にする。

「申し訳ありません。少し、考え事をしていました」
「まあ。心配事でもあるのでしょうか?」

小首を傾げて尋ねる姿に、わざとらしさは無い。
純粋に親身になってくれている。
彼女は疑うということを、全く知らないのだ。
そんな所も惹かれた理由の一つだった。
純粋に、ただひたすら自分を愛してくれる。
決して裏切ったりしない。

今の跡部にとって、裏切りは何よりも恐ろしいものだ。
しかし彼女はそんなことをしないと、信じることが出来る。
昔の自分なら「世間知らずが」と、切り捨てていただろう……。


「心配事というほどでもありません。今度の大会のことで、少し調節しなければならないことがあって。
それだけです」
「景吾さんは部長ですから、大変でしょう。
私で力になれることがあったら、何でも言って下さいね。微力ながらお手伝い致します」
「そうですね。お願います」
「任せてください」

にこにこと微笑む彼女は、本当に跡部の為に何かしたいと考えているのだろう。
その純粋さが、とても眩しく映る。
寄せられる好意に、ほっとさせられる。

「ありがとうございます」
跡部は感謝の言葉を口にした。

彼女のことを大事にしてやりたい。

(俺も、決して裏切らない……。あいつのようにはならない)

呪文のように心の中で繰り返す。


彼女と一緒に過ごしていれば、いつか完全に『彼』のことを忘れられるはずだ。
傷は癒えないままでも、封印することは出来るだろう。

(二年前のあの日、俺と『リョーマ』の道は完全に分かれたからな……)


思い出の中にいるリョーマは、まだ小さい12歳のままだ。
今は身長も伸びて、大きくなっているはず。
きっとどこかで擦れ違っても、気付かない。

その位、自分の中で存在が薄れてしまえばいい。
いつかは名前も思い出さなくなる位になってしまいたい。






彼女を送っていた後、跡部は所有するスポーツクラブに立ち寄り、
トレーニングに励んでから帰宅した。
もうすぐ関東大会だ。部活の練習の他にもこなさなければ試合を勝ち抜いて行くことは出来ない。
上に行くのはそんなに簡単じゃないと、嫌というほどわかっているつもりだ。

車が家に到着する前に、彼女からのメールが来たので開くと、
今日は会えて嬉しかったということと、大会への応援メッセージが綴られている。
跡部の体調を気遣うことも、忘れない。

嬉しく思いながら、跡部もお礼の言葉をメールで返す。
次の約束の予定を聞くことも忘れない。

まるで世間一般の男女のようだ、と最初は恥ずかしく思ったが、
今では全く普通にやり取りしている。

これでいいんだ、と跡部は呟く。
似合わないかもしれないけど、こんな普通な付き合いでいい。
これで幸せになろう、と彼女からのメールをもう一度眺めて自分に言い聞かせた。




開かれた玄関から中へ入ると、使用人達がずらっと並んで迎えてくれる。
その内の一人が「景吾様」と遠慮がちに声を掛けて来た。
この春に雇った女性だ。名前は忘れたが、顔は覚えている。
伝言でもあるのか?と顔を向けると、
「景吾様がお留守の間に、訪ねて来た人がいました」と言った。

「約束も無いようでしたのでお通しはしませんでしたが、
また来ると仰っていました」
「誰だ?氷帝の部員か?」

中等部からの付き合いのある部員は、この女性を雇った後からでも遊びに来ているから覚えているはずだ。
それ以外の部員だろうか?
しかしそれなら練習時にでも言えばいいことだ。
首を捻る跡部に、使用人は先を続けた。

「それが名前しか言わなかったので、わかりません。
越前リョーマと、名乗っていました」
「越前!?」

思わず跡部は大声を出した。
使用人の女性はその反応に驚き、後ろへ一歩引いてしまう。

それを見て、跡部は我に返った。
今度は少し冷静に声を出す。

「本当に、越前リョーマと名乗ったのか?」
「ええ。間違いありません。お知り合いの方でしょうか」
「……ああ。本人ならな」

しかし跡部にはリョーマが訪ねて来たとは、到底信じられる話では無かった。


『二度と俺の前に姿を見せるな。あんたの顔を、一生見たくもない!』

はっきりとそう宣言された日のことを、忘れたことはない。

例えリョーマがこの先何か困ることがあっても、
自分にだけは助けを求めることは無いだろう。

それが、今何故接触しようと思ったのか。

本人ではなく、別の者が名前を語って接触して来た可能性も否めない。
しかし、何の為に……?
考えても答えは出て来ない。

「どういたしましょうか?」
跡部は少し考えて、ここにいる使用人全員に聞こえるように言った。
「今度そいつが来たら、客間に通してくれ。そしてすぐに俺に連絡しろ。
一応、話だけは聞いておきたいからな」
「は、はい」

跡部の剣幕に呑まれたように、女性は何度も首を縦に振る。
それに構うことなく、自室へと向かう。

混乱している気持ちを落ち着かせる為に、じっくり考えてみる必要がありそうだ。

リョーマを名乗る人物は果たして誰なのか。
会ってみなければわからない。
しかし本人だったら?

蓋をしていた気持ちが、揺れるのがわかる。
しかし彼女の顔を思い浮かべて、跡部は首を振った。

(今頃、なんだよ……。
二年前なら素直に喜んでいただろうが、あの時とは違っているんだ)

お互い、離れ過ぎていた。

もう二人が幸せだった日々は取り戻すことは出来ない。


2010年03月04日(木) lost 悲劇編 4.越前リョーマ


「まず、俺と越前君の出会いから話そうか。
あ、出会いって記憶を失くした直後のことだよ」

席に座るなり、千石は口を開いた。
とりあえずざっと説明しようと、歩いている間に考えていたらしい。

「越前君が全国大会決勝直前前に記憶喪失になったって聞いた時、
不謹慎だけどドラマみたいだなって思った。でも他に感想は無い。
だってそんなに親しくしていたわけじゃなかったからね。大会が終わったらすぐに忘れた位だ。
で、引退してしばらくした頃かな。
街で君を見掛けたんだ」

その頃の千石はテニス部に顔を出すことも無くなって暇を持て余していた。
どうせこのまま高等部へ上がることも確定しているから、あくせく勉強する必要も無い。

だらだらと時間ばかりが過ぎていく毎日だった。
ちょうどその日もクラスの仲の良い女子達に帰ろうと声を掛けられ、断るわけもなく一緒に目的も無くふらふら歩いていた。
通り掛ったゲームセンターで一人の女子がプリクラを取ろうと言い出した。
女の子達と密着して写す。悪くない提案だ。
千石は賛成と、声を出した。

そしてプリクラの機械をあれこれ言いながら決めている時、
退屈そうに対戦ゲームの前に座っているリョーマを見つけた。

一年生なら部活の時間だろうに、何故という思いで千石はリョーマに声を掛けた。

「越前君、だよね?こんな所で何してんの?」
問い掛けに、リョーマは不機嫌そうに振り向く。
そして、
「あんた、誰?」と首を傾げた。

「またかよ。いい加減覚えてくれてもいいと思うけど。
山吹中の千石清純だよ」
「へえ。そんな名前なんだ」
「ふざけてんの?酷いなあ」
リョーマの言い方に顔を引き攣らせると、違うというように首を振る。

「今までのこと全部忘れちゃったんだから、しょうがないじゃん……。
覚えていないのはあんただけじゃないよ」

リョーマの言葉に、千石は記憶喪失の件を思い出した。
しかも未だに思い出していないことにも気付く。

「そっかあ。じゃあまた覚えてくれればいいよ」

明るく告げたのはリョーマがあまりにも暗い表情をしていたからだ。
記憶を失くして不安なのか、忘れたことによる罪悪感からなのかはわからない。
だから気にしなくていいよ、と千石は笑ってみせた。

その反応にリョーマは驚いたように目を見開く。

「あんた、変わってるね」
「そう?」
「そうだよ。忘れられてそんな風に笑っていられるなんて……ありえない。
皆、悲しんだり怒ったりしているのに」

段々と語尾が小さくなっていく。
色々あったんだろうなと、千石は圧した。
誰だって忘れられたら、相手に思い出して欲しいと願うものだ。
しかしそれを直接的にリョーマにぶつけたら、かなり傷付くだろう。
忘れたくて忘れたわけじゃないのだから。

リョーマを元気付けたくて、千石は「俺は怒ったりなんてしないよ」と笑って言った。

「忘れたとしても、これからまた知り合っていけばいいんだから。ねっ。
今日、俺の名前覚えたんでしょ。それでいいって」
「……うん」

リョーマが頷くと同時に、
「千石、何やってんのー?こっちは決まったよ!」と一緒に来た女子達に呼ばれる。

「あ、ちょっと待って!」

咄嗟に千石はリョーマの手を取って、「一緒にどう?」と誘った。
「えっ、でも俺は」
「いいから、いいから。
暇なんでしょ?どうせなら楽しく過ごそうよ。
一緒に来てるのはクラスメイトなんだけど、皆可愛い子ばっかりだよ」
「そういうんじゃなくって」
「まあまあ。おーい、この子も一緒でいいかなあ?」

強引に引っ張って行くと、リョーマは抵抗することなくついて来た
女の子達は綺麗な顔立ちしたリョーマを連れて来たことを喜び、歓迎してくれた。

それから皆でカラオケへ移動して、しばらく楽しい時間を共有した。

部活を引退して時間が出来た千石と、テニスを辞めてしまったリョーマ。

その日を境に二人は親しくなっていった。


「皆、テニスしろってうるさいんだよね。
でも俺は無理にやりたいとは思わない。
色々言われて、今はもう、うんざりする」

会っていく内に、次第にリョーマは現状を千石に相談するまでになっていた。

「千石さんも俺にテニスしろってやっぱり思ったりする?」
リョーマの問いに、千石は首を傾げた。
「どうだろうね。以前の君ならテニスをするべきだって思うけど、
やりたくないならいいんじゃない?
サッカーとか野球とか好きなスポーツ選ぶのも自由。何もしたくないのならこうして遊んでいるのも自由。
あれだけの実力を捨てるのは惜しいと思うけど、それはリョーマ君自身が決めることでしょ」

本人の好きなようにさせてやればいと、千石は考えていた。

「でしょ?だから俺はやりたくないことはしない。
皆の期待している目線とかも鬱陶しいんだよね」

それより千石と遊んでいる方が楽しいとリョーマは笑う。
以前のリョーマなら決してこんなこと言わなかっただろう。
記憶を失くしたことによって、別人になったみたいだ。

このまま新しい人生を歩んで行くのだろうか?

大会で試合を見た時は迷うことなくプロになって行くのだろうと予想したが、
今はどうなるのか全くわからない。

最低限、道を踏み外さないよう見守っておこうと千石は考える。
自分の影響であまりにも不真面目な性格になるのは忍びない。

「ところで越前君って勉強はちゃんとやってるの?」
「やってるよ。従姉が付きっ切りで面倒みてくれたおかげで、中1の勉強までは追い付いたかな」
「へえ。それは良かった」
「なんでそんなこと聞くの?」
「いや、それも女の子にもてる為の秘訣だよ。ここわからないのって言われたら、答えてあげられるような男にならないとね」
「ふうん。参考になるなあ」

楽しそうに笑って、「それじゃ、これからナンパしに行く?」とリョーマは言った。
「頭の良い千石さんのナンパ術見せてよね」
「いや……俺のキャラとはちょっと違うかなって」
「何言ってんの。もてる秘訣だって言ってたくせに」

あれから時々、山吹中の女子を交えて遊ぶことはあったが、
基本は二人で行動している。
女の子に声を掛けるのが得意な千石と、綺麗な顔をしたリョーマ。
ナンパの成功率はほぼ100パーセントだ。

最近はリョーマも積極的に行動している。
やはり男なんだな、と妙に感心しまう。

そうやって男二人でつるむようになって、一年が過ぎた。
千石が進学しても、友情は途切れる続いてる。

ある日、「たまには青学の女の子も誰か誘って来てよ」と千石は提案してみた。
青学の子はレベルが高いし、リョーマがどんな子を連れて来るか楽しみでもあった。

わかった、とリョーマは頷き、次の約束でクラスメイトを含む4人の女子を連れて来た。

その中にいたのが、香澄だった。
リョーマが誘った女子の友達だという彼女は、あきらかにリョーマ目当てだった。
他の3人もそれはわかっているらしく、二人をくっ付けようとしているのはすぐにわかった。

なるほどねえ、と千石もすぐ理解し、香澄はリョーマに任せて他の女の子に話し掛けることにした。

帰り道、同じ方向だからとリョーマにくっ付いていく香澄に、
これは告白するんだろうなとピンと来た。

千石の予想通り、リョーマは告白を受けてすぐに「どうしよう。好きだって言われたんだけど」と相談の電話を掛けて来た。

「俺に聞いてどうすんの。大事なのはリョーマ君の気持ちでしょ」
「うん」
「あの子のこと、どう思ってんの」
「可愛いとは思う。話しても楽しいし……付き合ってもいいかなって」
「なんだ、もう答え出てるんじゃん」

呆れたように笑うと、「そうだね」とリョーマは頷いた。

香澄とリョーマが付き合うことを決めた時、少し寂しいと思ったのは事実だ。
つるんでいた相手に恋人が出来る。
当然、一緒にナンパしたり、遊んだりする時間が無くなってしまう。
良かったね、と思う反面取り残されたような気持ちになった。

それでもやはり2つ下の友人の恋を見守っていこうと思ったので、
頑張れ、と千石は後押しするようなことを言った。


それからリョーマと香澄は付き合い始めた。

千石と遊ぶ時間はたしかに減ったが、全く会えなくなったわけでもない。
リョーマは色々千石に相談する為に連絡を取ってきたし、
三人で会うこともあった。

二人の仲は順調に見えた。
香澄はリョーマにベタ惚れで、リョーマも付き合いが長くなるにつれて好きになっていた。
千石に向かって「千石さんって可愛い子は皆好きみたいだけどさ、香澄には手を出したら駄目っすよ」と笑って言ったことがあったが、
あれは本音だったのではないだろうか。

勿論、千石は友人の恋人に手を出すなんてことは考えていなかった。
むしろ幸せそうなリョーマの顔を見て、ずっと二人が付き合っていけたらと願ってさえいたのに。

運命というやつは、実に皮肉だ。

お互いの両親でさえ公認と認める仲になったというのに、
今ここでリョーマの記憶が戻って、香澄のことを忘れてしまうとは……。

相談を受けた千石だって、本当は困っている。

一つわかっているのは、リョーマがこの2年間あったことから目を逸らさず、
きちんと向かい合ってから答えを出して欲しい。それだけだ。






千石の話を聞いて、リョーマはしばらく俯いていた。

彼女と上手く行ったいたと聞かされても、自分とは無関係なように聞こえていた。

けれど、千石の誠実な物の言い方に少し心が動かされた。

例えば自分だったら。
昨日まで恋人だった相手に、記憶を失くしました。だから付き合えないと突き放されたら。
ショックを受けるのは間違いない。
ましてそれ以前に避けられているとしたら、不誠実だと責められてもしょうがない。

なのに彼女はリョーマを気遣い、千石という第三者を介して様子を確かめるだけに留めている。
両親公認の彼女の立場であるなら、家に押し掛けて来るのも可能だったはずだ。
あえてそれをせず、こちらのことを考えてくれている辺り良い子なんだと思う。




「わかった……。元に戻るのは無理だけど、ちゃんと会って話はしてみる」
「それでこそ、越前君だよ」

ニッ、と千石は明るい笑顔を向けた。

「本人に直接連絡するのはまだ勇気がいるでしょ。
会う覚悟が出来たら、俺に電話してよ。越前君の携帯に登録されていると思うから」
「うん」

以前の自分が使用していた携帯は、跡部の名前が無かったのを確認して以降電源も入れていない。
しっかししなくちゃいけないな、とリョーマは軽く首を振った。


「それと、これは香澄ちゃんとは関係無い話なんだけどさ……」
「何?」

少し言いにくそうにしている千石に、リョーマは自分から尋ねた。
この際、全て知っておこうと思ったから、もうどんな話でも聞こうという気になっていたからだ。


「越前君って、以前は跡部君と付き合っていたりした?」
「え……?」

意外な言葉に目を見開く。
跡部とのことは、ごく限られた人しか知らないはずだ。
しかも青学と、氷帝の関係者のみ。
他校の千石が知っていたとは思えない。

どうして、という目を向けると、「いや、実は」と千石は深刻そうな表情をして口を開いた。

「記憶を無くした越前君と俺が友達なってから、数日経った頃かな。
一緒に歩いていたら、跡部君が突然現れてさ。すごい剣幕で迫って来るから何事かとびっくりしたんだ」



ただ目的も無く、リョーマと歩いていただけだった。
その頃はまだナンパもしていなかったから、咎められるようなことはしていない。

なのに突然現れた跡部は、千石とキッと睨み「こいつと何しているんだ!」と怒鳴った。
事情もわからず、千石はぽかんと立ち尽くすしか無い。
何故、怒られなければならないのか。
意味も分からず呆然としていると、跡部はチッと舌打ちして今度はリョーマの腕を取った。

「お前もこんな所で遊んでいる場合じゃねえだろうが。今日も部活あるだろ」
「何言ってんの?俺はもうテニスはしないって決めたんだけど?」
「勝手なこと言ってんじゃねえ。お前がテニスを捨てられるわけないだろうが」
「勝手なのはそっちだろ。テニスなんかもうしたくない。それにあんたに行動も決められたくないんだけど!」

次第に熱くなっていく二人に、千石は我に返って「ちょっと、跡部君も越前君も落ち着いて」と、止めに入る。

「大体、跡部君も突然やって来て、何?越前君がやりたくないって言っているんだから、そっとしてあげたらいいのに」

青学の部員でもないのに、ムキになっているのが不思議だった。
大会で自分を負かした相手が遊んでいるという状況が気にいらないのかと、この時はそう思っていた。

「ああ?てめえには関係無いだろ」
「あるよ。俺と越前君は友達だもん」
「友達?」
「そう。友達が困っていたら、助けるよ。普通のことでしょ?」

跡部はふん、と鼻で笑った。

「越前、こんな奴と付き合うとおかしな影響を受けるだけだぞ。すぐに付き合いは止めるんだな」
「あっ、酷いー」
声を上げても大してショックを受けていない千石と反対に、
リョーマは「あんた、最低」と吐き捨てるように言った。

「俺が誰と仲良くしようが、勝手でしょ。千石さんは良い人だよ。
あんたに非難されたくないね。
大体、俺が誰と居ようとあんたには関係ない」
「……てめえ、本気で言ってるのかよ」
「うん」

直後、跡部は手を上げた。
リョーマが殴られると勘違いした千石は咄嗟に庇おうとしたが、
それは違っていた。
跡部はリョーマの体を掴み、強引に抱きかかえていたのだ。

「放せよっ」
「今からコートに戻るぞ。いいな」
「ヤダって言ってるじゃん!」
「こうなったら無理矢理にでもテニスさせるって決めた。
口で言ってもわからない奴には、こうするしかないからな」
「ちょっと跡部君!それは誘拐ってやつなんじゃ」
「あーん?てめえは引っ込んでいろ」

抵抗むなしく、リョーマは跡部が待機していた車に押し込まれてどこかへ連れて行かれた。

翌日会った時に話を聞くと、跡部が所有するスポーツクラブのテニスコートでずっとしごかれていたらしい。


「でも、跡部君ってなんなの?学校も違うのに越前君の世話を焼くなんて変だよね」
「わかんない。とにかく俺に思い出せって言って来るんだ。なんか、変でしょ。
俺としてはもう会いたくないんだけど、突然現れてはああいうことするんだ。
本当に迷惑」

顰め面したリョーマに、大変だなあと千石は同情した。
跡部はリョーマの才能を認め、このままでは終わらせないとしているのかと推測した。

しかしそれは間違いではないだろうか、と思うことが起こった。


二ヶ月ほど過ぎた辺りだ。

待ち合わせをしていたリョーマから、『またあの人に拉致された』と連絡があった。
あの人とは跡部だともうわかっていたので、今日もリョーマは来られないと千石は悟った。
度々跡部には邪魔されるので、もう慣れっこになっていた頃だ。
思い出す素振りも無いのに相変わらず跡部は頑張っているなー、と軽く受け止めていた。


けれど、翌日会ったリョーマは妙に疲れていて、その上跡部への嫌悪感を隠そうともしなかった。
「あいつ、もう二度と顔も見たくない。最低。消えてしまえばいいのに」
具体的に何があったかは、話してはくれない。
リョーマにとって忘れてしまいたいことなのだろう。
千石も無理に聞き出そうとはしなかった。

そしてその日を境に、跡部がリョーマを追い掛けて来ることは無くなった。




「今思うとさ、跡部君は俺に嫉妬していたんじゃないかな。
俺は記憶を無くした君と仲良さそうにしているのに、自分は嫌われているようで。
だから引き離そうと必死で、なんとか思い出してもらおうとしていたんだと思う」
「……それで、跡部さんと俺は会わないままだったんすか?」

気になることを尋ねると、千石は「そうなんじゃないかな」と言った。

「越前君の口から二度と跡部君の話が出ることも無かったからね」
「そう、っすか……」

何があったのかは、千石にもわからないらしい。
やはり跡部本人に聞かないと駄目か、と項垂れる。

「それで今越前君は、跡部君と会おうとしているってわけだ」
「えっ、と」

気まずさに言葉を濁すと「隠さなくてもいいよ」と優しく言われる。

「さっきも言ったけど、越前君のことは今も友達だと思っているから。
記憶が戻ろうと、それは変わらないよ。
だから何か力になれることがあったらどんどん相談して。
勿論、君が迷惑じゃないければだけどね」

千石の明るい表情に、救われた気になる。
多分、記憶を無くしていた間の自分も同じように思ったのではないだろうか。

「……ありがとう」

だから素直にその言葉を、口にすることが出来た。


2010年03月03日(水) lost 悲劇編 3.越前リョーマ

悩み続けても仕方無い。
行動を起こさなければ、何一つ知ることは出来ない。

眠れない夜を越えて、リョーマは一つの決断を出した。

跡部に、会いに行ってみようと。

何があったのかと思い出そうとしても、思い出すことは出来無い。
空白の2年にこのまま悶々とするより、跡部と会ってハッキリさせた方がいいだろう。

どんな態度を取られても、受け入れる覚悟は出来た。

ベッドから起き上がり、リョーマはカーテンを開けた。
強い日差しが降り注いでくる。
今日も暑くなりそうだ。

記憶を取り戻したのが、夏休み直前で幸いした。
とりあえず休みの間に気持ちの整理をつけることが出来る。

しかしずっと休学扱いというわけにもいかないだろう。
とはいえ復帰した所で、そこに自分の居場所があるとも思えない。
偽物の記憶のまま過ごした場所だ。
今のリョーマにとっては未練も何も無い。このまま学校へ行かなくても構わないとすら思っている。

ただ一つ気になるのは、テニス部のことだけ。

決勝直前に記憶を失ったので、結局青学が全国制覇したのかわからないままだ。
それに、今のテニス部がどうなっているのかも知りたい。
部長だった手塚に柱を託されたのに、不本意とはいえ結途中退部の形を取ってしまった。
同級生達は今のテニス部でどう過ごしているか、大会は順調に勝ち進んでいるのか気になっている。

しかし今は跡部と会う方が先だ。

外出を渋る母をなんとか説得して(意外にも父親が援護してくれた)、遅くならないと約束した上で自由行動を許される。

跡部の家はどうやって行けばいいか、ちゃんと覚えている。
それだけが救いだ。


駅に向かって電車に乗り、そこから徒歩で向かう。
あの大きな屋敷は遠目からでもわかる。
当時は通い慣れた道を、リョーマは歩き続けて行く。

連絡を取る手段が無かった為、急に押し掛けてしまったが跡部は家にいるだろうか。
色々忙しい人だから、不在の可能性も高い。
その時は来たことだけ伝えてもらって、出直すしかない。

氷帝の高等部に行けば会えるかもしれないが、
彼が今もテニス部に所属しているかどうかがわからない。
プロにはならない、テニスは学生の間だけだと過去に語ったことは覚えている。
きっとその頃にはもう将来について色々覚悟していたのだろう。
もしかしたら高等部に上がってすぐにラケットを置いてしまったかもしれない。

願うことなら、続けて欲しいところだ。
跡部ともう一度テニスがしたい。
勿論、自分にもブランクがあるのはわかっている。
それを乗り越えた上で、彼ともう一度だけでもいいからネットを挟んで向き合いたい。


(無理、なのかな……)

どうして記憶を失くしてしまったのだろうと、何十回目の後悔に浸る。
強くなる為とはいえ、大会を前にして遠くになんか行くべきではなかった。
時間が戻せるものなら、あの日の前日に戻すだろう。
そうしたら違う未来が、きっとあったはずだ。

こんな望んでもいない今を、変えてしまいたい。













「景吾様はただ今不在ですが、失礼ですがお約束されていたでしょうか?」

インターフォン越しに聞こえた女性の声は、事務的で冷たいものだった。
約束も無しに押し掛けてきた不審人物に、会わせるわけにはいかないと判断したのだろう。

2年前、ここに訪れた時は誰もがリョーマを丁重な客として扱った。
跡部がよく言い聞かせていたのだろう。
しかしその時ここに仕えていた人も入れ替わった可能性もある。
ここで粘っても入れてはくれないだろうし、本当に跡部は外出しているかもしれない。

咄嗟にリョーマはそう判断して、諦めて伝言だけを頼むことにした。

「じゃあ、伝えて下さい。
越前リョーマが来て、会いたいと。それだけでいいですから」
「わかりました」

ぷつっとそれだけで向こうは会話を打ち切った。
跡部にメッセージが届くかどうか、怪しいところだ。


(しょうがないか)

もう一つの可能性に掛けてみようと、再び駅へと向かう。
跡部が高等部でもテニスを続けているなら、氷帝に行けば会えるかもしれない。
インターハイを前にして、各校練習に力を入れている頃だ。
勿論、跡部が所属しているならという前提だが。

高等部へは足を踏み入れたことが無いので、当然テニスコートがどこにあるかわからない。
勝手に校内を探し回ることも出来ない場合もある。

それでも折角こうして外出したことだから、行ってみようと電車に乗る。
行って駄目だったら、後日出直しすればいい。

(そうだ、可能性がゼロってわけじゃない)

いつかは会えるだろうと、リョーマは自分を励ました。





数分ほど電車に揺られ、乗り換えの為にある駅で降りる。
次の電車は、とリョーマが周囲を見渡したその時、
ぽんと肩を叩かれる。

「越前君っ。奇遇だねー。
ちょうど今、君の家に向かおうとしていた所なのに、ここで会えるなんてやっぱ俺ってラッキー」
「……誰?」

首を傾げると、目の前に立った男は「そりゃないよー!」と声を上げた。

青学の制服を着ていないので、余計怪しく見える。
何かの勧誘だろうかと警戒するが、相手はまだ馴れ馴れしく話し掛けて来る。

「一応、これでも前からの知り合いなんだけど。
何か思い出さない?」
「え?」

記憶が無い頃に知り合った相手だろうか。
じっと見詰めると「ほら、都大会で君の学校と試合したじゃん」と言われる。
都大会ということは、今の自分が知っていなきゃいけない相手だ。
でも覚えが無い、と困惑していると「相変わらずだなあ」と男は溜息を漏らした。

「おでこにボールぶつけて、知らないって言っていた頃とちっとも変わらない。
それとも俺って、そんなに印象薄い?だとしたら、また髪染め直そうかなあ」
柔らかそうな髪を撫で付ける男に、リョーマは「そういえば」と呟く。

この軽薄なものの言い方。覚えがある。
髪の色は以前と違うが、確かに見たことはある。

「あ、えっとラッキーなんとかだっけ」
「千石だよ!千石清純!もう、いい加減覚えてくれてもいいと思うけど」

苦笑交じりに言う千石に、「髪の色変えたんすか?」とリョーマは尋ねた。
以前見た時は鮮やかなオレンジ色した髪だった。
今は黒に近いブラウンなので随分落ち着いて見える。

「まあね。校則はうるさくない方だけど、あんまりやり過ぎるのはNGなんだ。
前の色は中学と同時に止めちゃった」
「へえ」

どうでもいい話だった。
なんでこの人声を掛けて来たんだっけ、とぼんやり考えると、
千石は「でもこの話したの、2度目なんだけどね」と言った。

「えっ」
「俺がこの色にした時、びっくりしてたけど似合うねって言ったこと忘れちゃった?」

にこっと笑う千石に、リョーマは目を見張る。

まさか、千石は記憶の無い間の自分と接触していた人物なのだろうか。
そう言えばさっき家に行こうとしていたとか言っていたような。

リョーマの気持ちを読んだかのように、
千石は「やっぱり、記憶が戻ったって本当だったんだ」と呟く。

「驚いたけど、こうして直に会うとはっきりとわかるね。
あの頃の越前君が戻って来たんだって。うん、納得」
「あんた、一体誰にその話を聞いたんだよ」

記憶が戻ったことは、当時の知り合いはまだ誰も知らないはずだ。
学校には話を通してあるが、内容までは伏せてもらっている。
知らないクラスメイトとかにお見舞いという形で家に来られても困るからだ。

しかし他校の千石が知っているとはどういうことだ。

不審な眼差しを向けると、
千石はこれまで軽薄だった表情をがらっと変える。
そしてリョーマの腕をぐっと掴む。

「ちょっと、あんた何して」
「俺が越前君に会いに来たのは、香澄ちゃんから頼まれたからだよ」
「誰、それ」
「わかっていて言っているの?記憶を失くす前の君の彼女だよ」

その単語にカッとなって、千石の手を振り払おうとする。

「彼女なんかじゃない!」

しかし掴んでいる力は強く、千石は痛い程握り締めてくる。

「そうやって逃げようとしてるんだ。
でもね、避けては通れないことだよ。
今の君が関係ないと言ったところで、俺や香澄ちゃんが知ってる越前リョーマもちゃんと存在していたんだ。
記憶が戻ったから知りません、なんてそれこそ君らしくないんじゃない?」
「……」

千石の言葉は痛いところを突いた。

逃げてることなんてわかってる。
それでも改めて言われると、落ち込んでしまう。

俯いたリョーマに、千石はふっと表情を和らげる。

「何も君を責めてるわけじゃないんだ。
俺としても香澄ちゃんに頼まれたわけだし、ちょーっと話をしたいかなと思って。
これでも俺達仲の良い友達だったんだよ?って信じてもらえないかもしれないけど。
その辺の事情も説明したくってさ。
ちょっと時間貰えないかな?」

そう言って千石はリョーマの腕を解放した。
後の判断は任せると、言いたいのだろう。

「いいよ、わかった。
全部聞かせてよ」

彼女本人に詰め寄られるよりも前に、千石から話を聞いた方が良いだろう。
第三者の意見は貴重だ。
それにどうやら一方的になじるつもりで来たわけでも無いらしい。
だから聞こうと言う気持ちになった。

「じゃあ、どこかお店で冷たいものでも飲んで話そうか。
こんな暑い中立ち話もなんだし」
「そうすね」
「ここの駅に近くにファミレスがあったはず。そこに行こう」
「うん」

先に歩く千石にリョーマはゆっくりとついて行く。

今は何を聞かされても驚かないと呪文のように唱えることしか出来なかった。


2010年03月02日(火) lost 悲劇編 2.越前リョーマ

2年前の全国大会決勝戦直前。
記憶喪失になって、そのまま元に戻ることは無かった。

なのに今、記憶が戻り、今度は逆にそれまで過ごしていたことを忘れてしまった。

そんな話を聞かされても、リョーマには全て信じ難いことだ。
しかし両親からの説明と、
何より成長した自身の姿に受け入れるしかないのだと悟る。

とりあえず最初に病院に連れて行かれ、検査を受けた。
異常無しとの診断にほっとしたものの、
これからどうしようという不安が圧し掛かる。

「どうだ、調子は」
病院まで付き添ってくれた父親である南次郎は、ロビーでずっと新聞を読んで待っていた。
普段と変わらない口調に、「大丈夫だってさ」とリョーマもいつも通りに返事する。
「そっか。じゃあ、会計してこないとな」
「あ、診察券出しておいたから、そこで呼ばれると思う」
「じゃ、もう少し待つか。
終わったら何か食べに行くか?こんな所に来て俺も疲れた。甘いものでも食うか?」

南次郎の笑顔を見て、リョーマは首を振った。
そんなことよりも、聞きたいことがある。

「あのさ、親父……」
「ん?」
「この二年間、俺ってどんな風に過ごしていた?
詳しく聞かせて欲しいんだけど」

普段のリョーマなら南次郎にこんなことは聞かない。
聞いてもはぐらかしたり、嘘を教えられたりするから無駄だと思っていた。
だけど今はそんな場合ではない。
藁にでもすがりたい気分だった。

二年。短いようで長い時間。
一体、自分は何をしていたのか。
まるで覚えていない事実が、恐怖として心に広がっていく。

そんなリョーマの表情を見て、
南次郎はいつもの飄々とした態度ではなく、真面目な顔をして言った。

「別に普通に過ごしていたぜ?学校に行って、勉強して。
当たり前のことしていただけだ」
「嘘」
リョーマは小さく呟く。
「ああ?嘘じゃねえって」
「だったら、これはなんだよ!?」
そう言ってリョーマは手の平を差し出した。
「はあ?手相でも見ろって言うのか」
「そうじゃなくて、この手……ラケットを握っていた手じゃないだろ。
変だってこと位、今の俺でも気付くよ。
一体どうなっているのか、答えろ!」

声を上げると、周囲の人達に視線を向けられる。
南次郎は「おい、ここは病院だぞ」と人差し指を立てて、自分の口元へと持っていった。
そこへちょうどよく「越前さん」と会計から名前を呼ばれる。
「金、払ってくるからちょっと待ってろ。なあに、別に逃げたりしないからよ」
「……」

南次郎が会計を済ませる姿を、リョーマはじっと眺めていた。
誤魔化されるもんかと、身構える。
この二年で何があったのか。
知るのが怖いけれど、このままにしておくわけにもいかない。


「ここだと迷惑になるから、まずは外に出るか」
先を歩く南次郎の後に続き、駐車場まで移動する。

車に乗ってから、南次郎は「さっきの質問の件だ」と口を開いた。
「そうだな。確かにお前はこの二年、ラケットを握っていない。
テニスをしようとしなかったからな」
「どうして!?」

わけがわからないと、助手席に座ったリョーマはショックを受けて固まっていた。
記憶喪失の次は、テニスを止めたなんて。
悪夢なら覚めて欲しい所だ。

南次郎は冷静に前を向いて運転したまま、再び続けた。

「記憶を失くしてから、なんとか思い出させようとお前の周りにいる連中も必死になっていた。
けど、戻らなかった。
次第にお前はテニスをすることを押し付けられるのを嫌がり、二度とやらないと宣言した。
テニスをしなくちゃいけないと、決め付けられるのは真っ平だってな。
それを聞いて、俺は仕方無いなと考えた。
このまま記憶が戻らないのなら、好きにさせてやろうと。
普通の子供らしく過ごしているお前の姿を見て、無理強いするのは止めにした。
そんな所だ」
「俺が言った?テニスしたくないって、本当に?」
「ああ。こんなことで嘘言ってどうする」

南次郎はフッと笑った。

「学校にはちゃんと通って、勉強もしていた。
その内彼女も出来て、結構楽しそうにしてたぜ。ほら、家まで送ってくれたあの子がそうだ。
お前には勿体無いような可愛い子だな。後でちゃんと礼を言っておけよ」
「……」

記憶が戻ってパニックを起こしたリョーマを家まで送ってくれたのは、
全く見知らぬ女子だった。
『とりあえず家に行こう?私が事情を説明するから……』
不安そうな目をしながらも、ちゃんとリョーマを家まで連れて行って、
在宅していた南次郎にきちんと話をしてくれた。
その後すぐ母親が家に戻って来て、うやむやになったのだが、
きっと家に戻って行ったのだろう。
どこだかわからない状況の中、家族の所へ送り届けてくれたことは感謝している。
だけど……。

(俺に彼女がいるって、やっぱりあの人のこと、なんだろうな)

想像したくないが、記憶を取り戻した状況と、
南次郎の話からするとあの女子と付き合っていたのは本当のことらしい。

(じゃあ、跡部さんは?)

二年前、恋人だった人を思い浮かべて、リョーマはぎゅっと目を閉じた。
記憶を失くし、好きだったことを忘れた自分に愛想を尽かして別れてしまったのだろうか。

そんなこと、知らない。
何が起こったかなんて、未だ12歳の心のままの自分にはわからない。

なのにいきなり見知らぬ女子と付き合っていると聞かされて、
ハイそうですかと受け入れられる状況ではない。
今はまだもう少し時間が必要だ。

それよりも跡部とどういう結末で終わったのか。
そっちの方がよっぽど重要だった。



家に到着して、リョーマはまず自室に向かった。
そして跡部に連絡する方法は無いものかと探し始める。
携帯にメールアドレスも番号も残っておらず、電話番号のメモも無い。
やはりこの二年、跡部と連絡は取り合っていないようだ。
事実を突き付けられて凹んでいまう。

(けど、直接聞かないと納得出来ないよ)

今更思い出したと言っても、跡部には迷惑なことなのかもしれない。
でもこちらの心はまだあの時のままだ。
どうせ駄目になったとしても、このまま引き摺るよりもハッキリ言われた方がマシだ。

(家なら何度も行ったから場所はわかる。……直接行くしかないのかな)

溜息をついてベッドに寝転がる。

テニスを止めて、恋も失って。
何をやっているんだろう。

いっそ記憶祖失くしたままの方が、良かったんだろうか、と考えた。


2010年03月01日(月) lost 悲劇編 1.越前リョーマ

人と人との間には目に見えない縁がある。
偶然や巡り合わせで繋がった縁でお互い知り合って、親しくなっていく。
けれど距離や環境の変化、様々な理由で人は別れたり、互いを忘れたりと、
一度は交わった道が消えてしまう。
そしてまた新たな出会いをして、見知らぬ人との縁を結んで行く。

もしずっと繋がっていたいという相手と出会ったとしても、
望んだ気持ちとは全く違う形で引き裂かれることがあるかもしれない。
誰かを恨むことも出来ず、その人とは縁が無かったと諦めてしまうような。


―――これは、望みを叶えることが出来なかった恋人達の話。






越前リョーマは、雨が大嫌いだ。
理由は単純で、テニスが出来なくなるから。それだけのこと。

「なんで、雨が降るの」
「知らねえよ。俺の所為じゃないだろ」
リョーマの独り言に、ソファに座って本を読んでいた跡部が突っ込みを入れる。
ちなみにリョーマは昨日から跡部の家に泊まりに来ていた。
付き合い始めてから、もう何度目の宿泊になるのか覚えていない。

跡部の家は居心地がいい。
自分の家だと決まって父親が邪魔しに来るから、ゆっくり寛ぐことが出来ない。
だから自然とリョーマが跡部の家に運ぶことが多くなる。
なによりご飯が美味しい。
それもここに来る理由の一つに挙げられる。

大会を前にしてお互い忙しいけれど、
空いた時間の全ては一緒に過ごすことに費やしている。
認めたくないけど、その位好きなんだよなあ、とリョーマは内心で呟いた。
普通の友達なら、こんな面倒なことしない。
家でゲームするか、自主練するかの方を選ぶ。
けれど、跡部に誘われたら嫌とは言えない。
むしろ誘われることを望んでいたりもして、末期だと、軽く溜息を吐く。
こんなこと、跡部には悟られたら、ますます調子に乗ってしまう。
だからいつも素っ気無い態度で返している。
自分のペースをこれ以上乱されなくない。
だからリョーマは絶対に隙を見せないようにしていた。

「室内コート予約しようって言ったのに、
なんで嫌だなんて言ったんだよ」
テニスが出来ないことに不満を訴えると、
「しょうがないだろ」と跡部は持っていた本を閉じた。

「俺もお前も一応別の学校なんだから、外で見られたりしたら色々言われるかもしれない。
俺に文句言う奴はいねえだるが、お前の方が心配だ」
「その時は言い返すから大丈夫」
「大丈夫、じゃねえ。揉め事起こすな。
出場停止になったらしゃれにならないだろうが」
「あ、そっか」
納得したように頷くリョーマに、跡部は溜息をついた。

「大会が終わるまでの新保だ。
終わったら外でもどこでも付き合ってやる。だからちょっとだけ我慢しろよ。な?」
「うん……」

青学と氷帝の部員同士が付き合っている。
しかも今は大会前。
リョーマにとっては些細なことなのだが、周囲がどう思うかはまた別の話になる。
青学の先輩達にばれた時、反対はされなかったが、
「今はあまり大っぴらにしないように」と釘を刺された。
きっと跡部も同じようなことを考えているのだろう。
跡部はこちらの心配ばかりしているが、リョーマだって一応気に掛けていたりする。
もし氷帝の部長が青学のレギュラーと付き合っていると知ったら、部員達はどう思うか。
跡部を認めないと言い出す人も出て来るかもしれない。

色々不便だなと思うが、今はまだ表に出さない方が良いだろう。
そんな風にリョーマも考えるようになっていた。

「不満そうな顔すんなよ」
リョーマの方を見て、跡部は少し笑いながら言った。
「テニスが出来なくて退屈なのはわかるが、
恋人と一緒に居て仏頂面しているのは頂けないな」
「もともとこんな顔っす」
「まあ、俺にとっては世界一可愛く映っているがな」
「目、悪いんじゃない?」
そう返すと跡部は立ち上がって、こちらへと歩いて来た。
ずいっと顔を近付けて、リョーマの顔をまじまじと眺める。

「目が悪くなったとしたら、お前の所為だな。
責任取れよ」
「なんで俺の所為になんの。意味わかんない」
「お前が俺の前に現れてから、他の誰も目に入らなくなった。
これは立派な理由になるよな」
「どこが?頭も悪くなったんじゃない?」

毒舌を吐くのは、妙な雰囲気を吹き飛ばしたかったからだ。
昨夜も跡部と親密な時間を過ごしたばかりだ。
今日はもう遠慮したい。
でなければ、明日の朝練に差し支える。
そう思っていても、跡部はリョーマの頬に手を添えて、顔を近付けてくる。

「確かに頭も悪くなったかもしれない。
お前のことばかり考えるようになったからな」
「ちょっと……!」
何とか逃れようと顔を背けて、リョーマは窓の外に目を向ける。

そして「あっ」と声を上げた。
「何だよ?」
「ほら。外、明るくなってる!」

光が差すのが見えた。
跡部の気が逸れたところで、リョーマは素早くその腕から逃げて窓を開ける。
いつの間にか雨は止んだようだ。
すぐには無理でもテニスは出来るかもしれないと、周囲を見渡す。

「あれ……」
「どうした?」
「虹が見える」
そう言ってリョーマは側に寄って来た跡部に「そこ」と外を指差す。

空に架かる虹を最後に見たのはいつだろうか。
もう覚えていない。

「珍しいな」
跡部も同意して呟く。
「うん。虹見たの久し振り」
「そうだな。雨が降ったら必ず見られるものでもないからな。
それがお前と一緒に見ることが出来て、嬉しいぜ」
「またそんなこと言って」
「お前だってそう思っているだろ?」
「さあね」
「そうは言っているが、俺のことが大好きだって顔に書いてあるけどな」
「書いてない!」

反論したけれど、リョーマの本当の気持ちは跡部に言い当てられていた。

好きな人と一緒に虹を見ることが出来て、嬉しかった。

次に虹を見る時。
その時も跡部と一緒に居られるだろうか。
お互い子供で、またこの先がどうなるかなんてわからないけど。
出来ればこの恋が続いていけばいいなと思っている。

跡部も同じことを考えていたのだろうか。
「なあ。次に雨が降った後も虹が出ているか確認しようぜ」と、そんなことを提案してきた。

「そう都合よく出ているとは思えないけど」
「だとしても可能性はゼロじゃないだろ。
次の時もお前と一緒に見たいから、雨上がりに二人で確認しようぜ」
「別にいいけど」
「素っ気無い振りしているけど、嬉しそうだな」
「してない!勝手な解釈するの、止めろよ」
「勝手か?まあ、いい。
これからも虹を見る度、俺のことを思い出すようになるだろうからな」
「どこからそんな自信が……」

子供のように笑う跡部に呆れつつも、やっぱり好きだなと確認する。

今のような居心地が良い時間が続くのだと、この時のリョーマはそう思っていた。













衝撃に、後頭部が痛む。
ズキズキとした痛みに、リョーマは顔を顰めた。

(何が起きたんだろ。軽井沢でテニスをしていて……それから、どうしたっけ)

記憶を手繰り寄せている中、
「リョーマ!大丈夫!?」と、聞き覚えの無いの女性の声に名前を呼ばれる。

「痛い?吐きそう?救急車呼んだ方がいい?」
「あ、えっと……」
「気を失っていたから心配したんだよ。これ、何本かわかる?」
指を二本立てるその彼女に、「二本」と律儀に答えて、リョーマは体を起こした。

「あのさ、ここ……どこ?」
見る限り、自分の家であない。
何でこんな所で倒れているか全く理解出来ない状況だ。
「どこって、私の家だけど」
不安そうに見詰める彼女に、全く見覚えがない。
一体、誰なのだろう。
見た所、少し年上らしいが知り合いにはいない。

「あんた、誰?」
「えっ……?」
「俺、なんでこんな所にいるの」
「リョーマ……、どうしたの。悪い冗談やめてよ」
「冗談じゃない。本当にわからないんだけど。
あんたが誰なのか知らないから、説明してよ」

嘘、と呟いて彼女は呆然と目を見開いていた。
話にならない。
リョーマはそっと起き上がった。

まるで見覚えの無い場所。
一体ここはどこだと周りを見渡した所で、違和感に気付く。

目線が、今までと違う。
高くなっている。

どういうことだと眉を顰めたところで、食器棚のガラス戸に映った自分の影に気付いて近寄る。

「なんだよ、これ……」
改めて自分の姿を間近で見る。
何かの間違いだと思いたかった。
鏡ではなくおぼろげな姿だから、見間違えているのだと。
慌てて自分の手足を確認する。
記憶にあるものとは違う。
まるで一晩で成長したような。

「どういうことだよっ……!」

痛む後頭部を抑えて、リョーマは声を上げた。

悪夢なら覚めてくれと願うが、事態は変わらない。

わけのわからない恐怖が心を支配していく。


助けて、と目を瞑った瞬間浮かんだのは、
跡部の姿だけだった。


チフネ