チフネの日記
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2009年11月26日(木) 最後のチャンス 千→リョ  

告白の返事に、越前君は頷くでもなく拒否するわけでもなく、
「俺、これからすぐにアメリカに戻るんだけど」と言った。
「……すぐって、いつ?」
「三日後」
その言葉に、もう会えないんだと俺は思った。
アメリカへ戻るというのはプロを目指す、そういう意味に受け取ったからだ。
いつかは彼はプロになるんだろうと、試合を見て将来の姿を想像したけれど、
それはもっと先だと思い込んでいた。
三日後なんて、そんな現実を突きつけられてうろたえてしまう。言葉が見付からない。
そんな俺を越前君はじっと大きな瞳で見上げている。
感情もなく、ただそこにあるものとして見ているような。
ああ、そっか。
俺は頭を掻いた。
この子にとって、別に俺は親しい人間でも、興味を引くような選手でもない。
最初から失恋していたんだと、気付く。
「そっかあ。あっちでも頑張ってね。越前君なら、どこでも上を目指せるよ」
振り絞って声を出す。普通に聞こえるようにと思ったけれど、掠れていた。
だけど越前君は怪訝な顔をするわけでもなく、いつもと変わらない調子で「そうだね」と頷く。
全く俺のこと、眼中にないらしい。ひょっとしたら、どこの誰のなのかもわかっていないんじゃないか。
いきなり声を掛けられた相手に告白された。彼にとってはそれだけ。

(俺はずっと、好きだったんだけどなあ)
全国大会が終わったら、告白しようと決めていた。
会場からずっと目で追っていて、チームメイト達から離れるチャンスをずっと伺っていた。
やっとの所で捉まえて、気持ちを伝えてみればこの結果だ。
最初から実ることはなかったんだ。
すっぱり諦めるしかないらしい。
ここですがって見苦しい所を見せて、彼の記憶にそんな俺が残るのはさすがに格好悪過ぎる。
気持ちよく送り出して、良い印象のままアメリカに渡って欲しいと思った。
だから告白の返事を問い質すことなく、
「じゃあね」と笑ってみせた。

本当は引き止めたかったけれど。
三日しかないのに、どうにもならない。振り向かせることなんて出来ない。
そう言い聞かせて、俺はこの恋に終止符を打った。

暑い夏の日のことだった。



もう彼と二度と会うこともない。
俺がどんなに頑張っても追い付けない高みを、越前君は目指しているのだから。
好きになったのは、一目ぼれに近かった。
今思うと、あの時すぐに告白しておけば良かったんだ。
あの頃なら、タイムリミットがあったとしても時間はあった。
ひょっとしたら振り向かせることが出来たかもしれない。
手が届くところに、居たのだから。
短くても越前君と付き合うことが出来たのなら、それだけでも幸せだっただろう。
彼に負けない程頑張って、それから告白しようなんて。
何先延ばしにしていたんだよ、と今更後悔しても仕方無い。
もう、彼は行ってしまったのだ。

そんな風に俺は残された夏休みをただウダウダと過ごした。
越前君が居なくなったことと、全国への目標も終わりぽっかりと空いてしまったかのよう。
気付いたら、季節は秋へと移り変わっていた。

そんな時だ、U−17の合宿に招待されたのは。
山吹中からも何人か呼ばれた。
気持ちを切り替えるいいチャンスかもしれない。
少し前向きな気持ちでそこへ向かうと、予期しなかった再会を果たす。

「ちーっす」
どうして、越前君がここにいるの?
アメリカに行っていたんじゃないの?
最後の一つになったボールを掴み、得意げな笑顔を浮かべている彼の顔を凝視する。
見間違えるわけがない。
大好きだった彼、だ。




「あの、越前君……久し振り」
正直なところ、俺は迷っていた。
声を掛けるべきか、どうか。
迷惑に思うかもしれないし、あんた誰?と告白したことも忘れているかもしれない。
だけど入浴後に彼が一人でロビー自販機の前でうろうろしているのを見掛けた時、
もう足は踏み出してた。
この合宿こそ会話出来る最後の機会かもしれない。
そう思ったら居ても立ってもいられなくなっていたからだ。

越前君は俺に声を掛けられても驚くことなく、「どうも」と素っ気無く返し、
自販機にコインを入れてジュースを購入する。
……無視されてるのかな。
でもめげずにもう一回口を開く。
「いつこっちに戻ってきたの?驚いちゃった。
越前君がこの合宿に参加するなんて聞いていなかったから」
「そりゃ、誰にも言っていなかったからね」
「え……」
返事、してくれた。
相変わらず目も合わせないけれど。
ちゃんと答えてくれた。

嬉しいと、思わずベンチへ移動する彼を追う。
真ん中に腰を下ろした彼の隣に、遠慮がちに俺も座る。
越前君は一瞬、何?というように俺の方を見たけれど、またすぐに缶へ視線を移す。
と、とりあえず座ってもいいってことかな。
都合よく解釈して、また話し掛けてみる。
「じゃあ、今回は飛び入りで参加したってことなのかな?青学の連中も驚いていたようだし、皆も知らなかったんだね」
「さっきもそう言ったじゃん。こっちに来られるかはぎりぎりまでわかんなかったんだから」
「へえ。じゃあ、ひょっとして飛行機が到着したのも今日だったりして」
「そうだよ」
「えっ……そりゃ、大変だったねえ」
「別に」
頷いた後、越前君は缶を口に持って行きごくごくと飲み出す。
ファンタのグレープだ。大会中も何度かそれを飲んでいる所を目撃したから、きっと好物なんだろうなと思った。
ああ、駄目だ。
彼といると色んなことを思い出してしまう。
あの日、もうこの恋は諦めると決めたのに。
未練がましいなあ、と苦笑する。
本人に会ってしまうと、やっぱり忘れられない。側にいたいなと思ってしまうから。
だけど彼は俺のことなんて眼中に無いかのように、無言でファンタを飲み続けている。
話掛けたのも迷惑だったんだろうか。
それとも告白されたことも忘れている?越前君の性格ならそれも有りだろう。
俺からの告白なんて、取るに足りないこと。
何も気にするようなことじゃない。
…考えたら、なんか落ち込んで来た。
ラッキー千石なんて自分でも名乗っているくせに、実は大事なものはいつも手に出来ずするっと逃げて行くばかりで、ラッキーなんかじゃなかったりする。
だけどこの再会は、最後に神様がもう少し頑張れと俺にチャンスを与えてくれたラッキーなのかもしれない。
諦めちゃいけない。
勇気を振り絞って、もう一度顔を上げる。

「あのさ、今度はどの位滞在出来るの?合宿が終わるまで居られるのかな?」
「は?何でそんなこと聞くんすか?」
素っ気無いのは変わらないけれど、無視しているわけじゃないらしい。ほっとして会話を続ける。
「何でって、気になるからだよ。その、出来るだけ長く一緒にいたいし」
すると彼は眉を寄せた。
「長くって、言うけどさ。この合宿、いつ帰されるかわからないじゃん。あの高校生達、見たでしょ?」
ボールを拾えなかった高校生達は即退場した。
たしかにそうだけど。
「明日も誰かが退場なんてこともあるかもね。そうなったらどうする?」
「ならないように頑張るよ。折角越前君と会えたんだから。
君と再会出来たことを、ものすごく喜んでいるんだ。
もう、会えないと思ってたから……」
彼は俺の言葉を聞いて、ふうっと溜息をつく。

「どうせまたすぐにアメリカに戻るのに?バカみたい」
「バカって、酷いなあ。本心から言っているよ?」
「あんたの気持ちは会えなくなるとわかったら、すぐ諦めるような軽いもんでしょ」
「え……」
越前君はファンタを飲み干し、そして空になった缶をぎゅっと握り潰した。その音が誰もいないロビーに響く。
じっとその手元を見ている俺に、越前君は鼻で笑う。
「三日しかないとわかったら、すぐ引いたくせに。
あんたの気持ちってその程度でしょ。へらへら笑って軽いんだよ。
そんな奴に嬉しいとか言われたくない。迷惑っす」
「……」

俺は呆然と彼の言葉を受け止めていた。
反論する余地もない。
返事を聞く前から諦めてしまった。
彼は俺のことなんて眼中にないと決め付けて。ちゃんと聞いていてくれていたのだ。
三日しかなくてもいいからと食い下がっていたら、本気を見せていたら。
越前君が振ったんじゃない。無理と決め付けていたのは自分の方だ。
そんな俺の気持ちを越前君は見抜いていた。
だから、返事をしなかったのか……。

「もう、俺行くから。あんたも部屋に戻ったら?」
越前君は立ち上がり、ゴミ箱に缶を投げ入れる。
そしてくるっと背中を向けた。
「あのっ」
「何?まだなんかあるの?」
射抜くように見詰められて、俺は僅かにたじろく。
彼の言うことは正しくて、だからこそ痛い。
でもこっちも最後のチャンスを逃すわけにいかない。
みっともなくたって格好悪くたって、今度は「ちゃんと」失恋するまでやり遂げるんだって、今そう決めたから。

「やっぱり、君のこと好きだから。諦めないよ」
「へえ。俺はなんとも思っていないけど」
「……」
1秒も間を開けず、玉砕した。
だけど、構わない。
背筋を伸ばして、俺は声を出す。
「だとしても好きなのには変わらないから。
合宿中に君が注目するくらい頑張って、それから気になる存在にもなってみせる。
そう決めたから」
ほとんどやけくそ気味の宣言だった。
女の子達に告白するのはもっと簡単でスマートに言えるのに。
彼を前にすると、こんなにも格好悪くて不器用な言葉しか出てこない。

でも。
「へえ、案外あんたも真剣な顔するんだね。いつもへらへら笑ってばかりだから、知らなかった」
と、越前君は笑ってくれた。
苦笑でもなく、呆れているのでもなく、ちょっと可愛い笑顔で。
「そりゃ、まあ。本気だから」
「だったら精々頑張れば。言っておくけど、俺は簡単に落ちないよ」
「それはもう、わかっているよ」
十分過ぎるほどね。
大きく頷くと、越前君はまた笑った。
「話はそれだけ?今度こそ、行くからね」
「あああっ!出来ればもう少しここに居てくれないかな?せっかくこうやって話も弾むようになったことだし。ねっ」
「何がねっ、だ。調子に乗んな」
ぴしゃっと跳ね付けられる。
だよね、さすがに今日はここまでか、と引くことにする。
でも、恋を諦めたわけじゃない。
夏の時の俺とは違う。
いい人のままでいたいからと遠慮もしない。時間が無いことを言い訳にしない。

じゃあ、と片手を振って部屋に戻る彼に、「おやすみー、越前君!」と声を上げる。

明日から、やり直すんだ。
失恋未満なんて中途半端な真似はやめて、最後の最後までこの実らないかもしれない恋に掛けてやる。
たとえ泣いたとしてもそれでいいじゃないか。
その為にも何がなんでもこの合宿に残らないと。
ちゃんと睡眠を取っておこうと、俺も急いで部屋へと戻ることにする。
テニスと片思いの恋と忙しくなりそうだけれど、ウダウダしていた頃よりずっといい。

明日は何て言って話し掛けようか。
そんなことを考えながら、足取り軽く自室へと向かった。


終わり。



2009年11月25日(水) happy together 千リョ

「ちーっす」

Uー17合宿参加日、初日。
突然現れたリョーマの姿に、皆驚きの表情を浮かべる。
千石もその中の一人だ。
最後の一つとなったボールを手にしたリョーマは、悠々と近付いて来る。
すると早速、青学のメンバーが構い始める。
「おチビっ、久し振りっ!」
「お前、今まで何やってたんだよ。って、またおいしい所取りやがって!」
それと同時に、他校生の何人かもそれぞれリョーマに一言二言、声を掛ける。
全国大会以降から、突然に消えたルーキーを気にしていたのだろう。
だけど千石はまだ動けずにいた。

アメリカに行ったはずのリョーマが、どうしてここにいるのか。
まだ実感がわかない。
都合のいい夢を見ているんじゃないかと、呆然としていた。
あの日、たしかに空港まで見送りに行ったはずなのに。

千石が突っ立っている間に、リョーマは挑んで来た高校生相手にさっさとコートに入り、
ご丁寧に相手の技を真似て、顔面にボールをぶつけて勝ちを取った。
文字通り、倒したってわけだ。
してやったりと不敵な笑みを浮かべるリョーマに、千石はやっと本人だと確信する。
そして、
「どーして、リョーマ君がここにいるの!?」と、周りのことなど気にせず、叫んでいた。

当然、コートからリョーマは慌てて千石の方へ向かって駆け寄る。
よし、来い。抱きとめてやるから!と、千石は両手を広げたのだが、
代わりに飛び込んで来たのはリョーマのラケットだった。
もろに額にぶつかって、千石は悲鳴を上げた。
「でかい声出すからだよ」
痛む頭を押さえていると、リョーマの声が聞こえる。
この素っ気無さ。リョーマ君に間違いない、と千石は呟いた。


それから今頃になってこの場を仕切に来たコーチによって、通常の練習が始まって、
リョーマと会話どころでは無くなってしまう。
やっと二人きりになれたのは、夕飯後、それぞれの学校ごとに振り分けられた部屋に入ってからだった。

「いやー、オモシロ君が快く承諾してくれて良かった。ねっ、リョーマ君!」
「泣き落としてやっと替わってもらったくせに何言ってんの。
桃先輩の呆れ顔、見たでしょ?」
「細かいことは気にしない、気にしない」
「はあ、まあいいけど」
折角、再会出来たのに離れ離れで眠るなんて、考えられない。
そう思って、千石はリョーマと同室の桃城に土下座する勢いで頼み込んだ。
涙目になって訴え、今度奢るからと条件を付けたところで、了解を得ることに正解した。
それもこれもリョーマと一緒にいたいからだ。

「リョーマ君は、俺と一緒の部屋じゃ嫌なの?」
「さあね」
「もう、相変わらずクールだなあ。久し振りに会えたんだから、嬉しいって言ってくれてもいいのに」
「言うわけないじゃん」
相変わらずの素っ気無い言い方。
しかしそんなことは気にならない。
目の前に、すぐ手が届く所にリョーマがいる。
それだけで、千石は幸せな気持ちになれるのだから。

「で、一体どうしたの?選抜の合宿に来るなんて聞いていないよ。
この前、貰ったメールにもそんなこと書いていなかたよね?」

リョーマがアメリカへ行ってからも、二人の交際は続いている。
遠いけど、なんとかなるだろう。
楽天家な千石と、あまり物事を深く考えないリョーマが出した結論がそれだった。
離れ離れになってからは、メールとたまの電話でやり取りを交わしている。
リョーマは冬休みに日本へ戻ることが決まっていたので、
それまでの我慢だと千石は自分に言い聞かせた。
高等部へ上がったらバイトも始める。稼いだお金で自分からも訪ねに行こうとも密かに計画していた。
今のところ、お互い距離と同じに気持ちまで離れているということは無かった。
このまま冬まで待てる、と思っていたのに、今日の突然の帰国。
どういうこと?、と千石が驚いても無理もない。

「来れるかどうか、ぎりぎりまでわかんなかったから言わなかっただけ」
ベッドに腰掛けて、リョーマは言った。
当てられた部屋はさほど広くない。あるのはツインのベッドが二つと、奥に洗面所。
千石ももう一方のベッドに腰掛けて、リョーマと正面から向き合った。
「それで?」
「だから、行くかもってメールして、行けなかったら清純ががっかりすると思って。
はっきりするまでは黙っていたんだ。飛行機もぎりぎり乗り込む位だったし」
「そうなんだ」
リョーマがどれだけあちらで忙しくしているか、短いメールからでもそれは伝わっている。
合宿に来られるかは、本当に微妙なところだったのだろう。
いや、しかしそもそもこの忙しい中、何故参加しようと思ったのか。
首を傾げて、千石は疑問を口に出した。
すると、珍しいことにリョーマはさっと目を逸らすではないか。

もしかして、と千石は考えた。
全国大会を終え、一通りの強い選手と試合をしてリョーマは成長した。
そして更なる高みを目指して渡米したはずだ。
それなのにわざわざ日本に戻って来た。
たしかにこの合宿に集められた選手のレベルも高いが、それだけで戻って来るとは考えにくい。
やっとあっちでもプロを目指して軌道に乗って来たと、メールに書いてあったのだ。
それを休んでまで来たのは……。

「ひょっとして、俺の為?」
遠慮がちにそう聞くと、リョーマの頬がさっと赤くなる。
ビンゴ、だったみたいだ。
「なんだ、そうだったんだ!もう、早く言ってくれればいいのに!」
感極まって千石はリョーマに抱きついた。
自分に会いに来る為、一生懸命予定を調整してくれたかと思うと、愛しさが募る。
可愛くて仕方無いというようにリョーマの頬に何度も軽いキスを送ると、
「そんなんじゃない、たまたたまっ・そう、どうしてもって言われたから来ただけだよ」と反論される。
しかし、そんな真っ赤な顔して言われても説得力は無い。

「ふーん、どうしても、ねえ。
でもちょっとは、俺と会えるから嬉しいって思ったでしょ。ね?」
「しつこいなあ、違うって言っているのに」
「だとしても、俺は嬉しいけど?こんなに早くリョーマ君に会えて良かったあ。」
「……」
「もう、本当に幸せっ。来てくれてありがとうねっ、リョーマ君!」
「別に、礼を言うほどじゃ……」
もごもごと言いながら、リョーマは俯いた。

「それに、俺もちょっとは清純に会えるの期待してた。本当にちょっと、だけど」
「うんうん、わかっているよ」
素直じゃない性格だから、なかなか本当のことも言えない。
そんなリョーマに笑いながら、千石は頬にそっと手を添えた。
「本当に来てくれて嬉しいよ。これから一緒に頑張ろうね」
「うん」
こくんと頷くリョーマが可愛くて、今度はこめかみ辺りに口付ける。
これから毎日一緒に寝起きを共に出来ると思うと、
自然に顔がにやけていく。
休みの日は当然デートだな、と色々想像を膨らませていると、
するっとリョーマは腕の中から抜け出す。
そして「じゃあ、寝るから」とベッドに潜ろうするではないか。

「え?なんで?夜はこれからでしょ?」
「明日も早いって言われてたじゃん。向こうから直接飛んで来て、もうくたくただから寝る。
朝、起こしてよね。頼むよ」
「えーっ、そんなあ、もっと起きていようよ。折角だし、ねっねっ」
「うるさい。もう限界だから、黙っててよ……」

言いながらリョーマは目を閉じて、そのまま眠ってしまった。
3秒も掛かっていないんじゃないだろうか。
しかも肩を揺さぶってもびくともしない。
千石はがっくりと肩を落とた。
これからもっと色んなことをするはずだったのに。
すっかりあてが外れてしまった。

仕方無い。
今日のところは引くしかない。疲れているのは本当だろう。
忙しい中、わざわざ来てくれたんだ。
ここで不満を漏らしたら、バチが当たるかもしれない。
今日は手を出すのを止めようと、ぐっと我慢を決めた。

「俺も寝ようかな。明日、リョーマ君を起こさなきゃいけないし」
少し考えて、千石はリョーマが眠るベッドにもぐりこんだ。
狭いスペースだが、くっ付けばなんとか二人でも眠れる。
どうしても離れたくない。
蹴飛ばされることは覚悟して、温かい小さな体を抱きしめる。

「おやすみ、リョーマ君」

明日になったら夢だった、なんてありませんようにと祈って、千石も目を閉じた。


終わり


2009年11月04日(水) 怖いもの知らず 千リョ

越前リョーマに怖いものはあるのだろうか。

練習が終わった後の、山吹中テニス部の部室の中。
チームメイト達にそれを聞かれた時、千石は首を捻った。

考えても思い付かない。
付き合って数ヶ月。
リョーマが怖がっている所を見たことが無い。

「無いんじゃないかなあ」

千石の声に、部員達の間にどよめきが起こる。

「さすが、越前君です!尊敬しちゃいます!」
「おいおい、マジかよ」
「けど、隠してるだけで何かあるかもしれないだろ?
怖いものが無いなんて、そんなまさか」
「リョーマ君に限って隠すような真似はしないと思うけど。
怖いものなんて、本当に無いかもね……」

何故か皆は千石の話に興味津々というように寄って来る。
気が付くと、囲まれていた。

「すごいです。僕なんて、虫とか嫌いで悲鳴を上げちゃいます。
越前君は大丈夫なんですか?」
「それが飼ってる猫がそういうのをよく見せに来るけど、平気で手で掴んでるよ?
蝶とか蝉とかも。そういや、大きな蛾をぽいっとゴミ箱に捨てた時は、俺の方が悲鳴上げちゃったなあ」
「絶叫系はどうだ。今度、遊園地で試してみろよ」
「もう行ったことあるから。リョーマ君は全然平気で、もう一回乗りたいとか言うんだよ。
こっちは立ってるのもやっと、だったのに」
「雷はどうっすか?意外とそういうのに弱かったりして」
「ああ、全然平気そうだよ。光っているの見ようと、カーテン開ける位。
近くに落ちて停電になった時も、平然としてたなあ」
「じゃあ、ホラー映画はどうだ。怪談話とか」
「駄目駄目。深夜にやってた映画を一緒に観たけど、怖い場面なのに笑っていたんだよ!
俺なんてびくびくして、リョーマ君にしがみついていたっていうのにさあ」


はあ、と大きく溜息をつく。
そう。大体、人が怖がるものに、リョーマは動じたりしない。
男前過ぎるというか、無敵過ぎるのだ。


「越前君がすごいのは、当然ですけど」

壇がくるっと大きな目を開けて、「千石先輩は情けさ過ぎですね!」とハッキリとした声で言った。
周りもうん、うんと頷いている。

「あのね、君達……」

普通の反応だろと、千石が反論しようとした所で、
「清純、いる?」とリョーマがドアを開けて入って来た。

「あ、リョーマ君。早かったね」
「今日は片付け当番じゃなかったから。
清純を待たすと、ろくなことにならないってわかってるから急いで来た」
「ろくなことって……」
「どこかの女の誘いについて行くかもしれないでしょ」
「そんなこと、しないよー!」

制服のボタンを留めて、「じゃあ、お先!」と部室を出る。

残された部員達は、互いの顔を見渡す。

「他校の部室なのに、堂々と入って来るとか、なあ」
「いつものことだから、俺はもう慣れた」
「本当に怖いもの無しじゃないっすか?」
「さっすが、越前君です!憧れちゃいます!」

呑気な声を出す壇に、あんな風にはなるなよ、と全員が思った。








「ねえねえ、リョーマ君。聞きたいことがあるんだけどっ」
「何?ファンタなら、今日はレモンが飲みたい気分だけど」
「あっ、それじゃ買ってから家に行こうか。グレープとオレンジは用意してあるんだけどさあ……じゃなくって!」
「何?」
「リョーマ君って、怖いものとかあるの?」

皆との会話が気になっていた千石は、ストレートに質問をぶつける。
こそこそ探った所で、掴めることは無いと判断したからだ。
それよりリョーマに聞いた方が早い。
彼は決して誤魔化したりするような子ではないとわかっている。

「怖いもの?」
「そう!例えば虫とか遊園地の絶叫系とか雷とかホラー映画とか」
「全部平気なんだけど……」
「何か思い当たるようなものは無いの?」

千石の質問に、リョーマは「うーん」と考え込む。


しばらく、そのままの状態のまま並んで歩く。

こんなに悩むということは、やっぱり何も無いかもしれない。
千石がそう思い始めた時、
リョーマが「これが怖いものに入るかはわからないけど」と、口を開く。

「えっ、何かあったの?」
「うん。テニス、出来なくなると思うと怖いかなって」
「……そう」

期待していたものと違って、千石が肩を落とす。
一般的なものはリョーマにとって、怖いものは無いらしい。


(しかもテニスか。リョーマ君らしい答えと言えば、そうかもね)

何も恐れず真っ直ぐに立ち向かっていく。
格好良過ぎて、こっちが困ってしまう位だ。

「他には何も無いんだ?なんかもう、映画に出て来るヒーローみたいだね……」
「何言ってんの。そんなわけないじゃん。
それに他に無いわけでも、無いよ」
「えっ、あるんだ!?何、教えてよ」
「それよりも、清純の怖いものも教えてよ。
俺ばっかり喋って、不公平でしょ」
「え?俺の怖いもの?そんなの沢山あるのに……」



例えば姉の我侭とか。小さい頃は絶対命令で、何度泣かされたか。
顧問の伴爺のしごきも怖い。笑顔でとんでもないことを要求してくるから。
ゴキブリも嫌いだ。顔に吹き出物が出来るのも怖い。心霊ものの話にも弱い。

そう。千石が怖いと思うものは多い。


けれど、その中でも一番怖いものを挙げるとすれば……。


千石は隣にいるリョーマの顔を眺める。


(リョーマ君に、愛想を尽かされることかな)


彼がいなくなってしまうこと。

それからの日々はどれだけ虚しいものになるのだろう。

考えただけで恐ろしい。



千石の考えが伝わったのだろうか、
リョーマはこちらを見て、くすっと笑った。


そして。
「俺も、同じだよ」


吹いている風に消されてしまいそうな、小さな声。
だけど、千石の耳にはちゃんと届いた。


「それって、どういう」

聞き返そうとした瞬間、「コンビニだ」とリョーマが声を上げる。

「ファンタ買ってくれるんでしょ。寄って行こうよ」
「あ、うん。でもその前にさっきの言葉の意味を」
「早く。先に行くよ」
「ま、待ってよー!」

早歩きして行くリョーマの背中を追い掛ける。


間違っていなければ、今の二人の気持ちは同じはず。





―――もう一つの怖いものは、清純がいなくなること。


リョーマの心の内が聞こえたようがして、千石は頬を緩める。


(それだったら、大丈夫)


別れるつもりも離れるつもりもないのだから、怖い目に合うことはこの先も無い。


家に入って、二人きりになったら伝えよう、と決める。

千石は浮かれた足取りで、リョーマの後を追ってコンビニに入った。


今日はファンタだけでなく、いくらでも散財してしまいそうだ。


2009年11月03日(火) アイスとファンタと愛情と

『いいものがあるから、家においでよ』

千石からの誘いに、リョーマは素直に乗ることにした。

こう暑いと、外でだらだら遊ぶ気にはなれない。

テニスなら良いのだが、千石はあまり付き合ってくれない。のらりくらりと交わされることが多いのだ。
折角会うのだから、テニスは忘れようよ、とわけのわからないことを言ってはぐらかそうとする。
それでも二回に一度は無理矢理引っ張って行くのだが……。

今日はテニス抜きでもいいかな、とリョーマは思った。
なにしろ暑過ぎる。運動するには適していない。下手をすると倒れてしまう。
千石の家でクーラーの効いた部屋の中、まったりと過ごすのも悪くない。

(それにしても、いいものって何だろう?)

流れる汗を手で拭って、リョーマは考えた。

もしろくでもないものだったら、殴ってやろう。
千石のことだから、そっちの可能性が高い。
前も似合うからと猫耳グッズを押し付けられ、写真を撮られそうになった。
その時は千石が「ごめんなさい」と言うまで蹴り続けた。

もう忘れてまた懲りないことを考えているのかなあと思いつつ、千石の家のインターフォンを押した。

「いらっしゃい、リョーマ君!」

千石のテンションは、いつもより少し高い。
だがこの気温の中、駅からここまで歩いて来たリョーマの機嫌は決して良くない。

「どうも」

不機嫌にも似た声を出すが、千石はそんなことを気にしたりしない。いつものことだからだ。

「さ、上がって、上がって」
「……うん」

靴を脱いで、家の中へと入る。
いつものように誰もいない。静かだ。

ここの家族は外出好きのようで、ほとんど姿を見たことが無い。
千石には姉がいて、写真を見たことがあるが結構な美人だ。
デートに忙しいというのが不在の理由だが、納得出来る。
しかし、一度は会ってみたいものだ。
両親は仕事や趣味でやはりほとんど家にいないと言う。
千石の自由で気楽な性格は、きっとそんな所から来ているのだろう。

家族がいないということで、リョーマも気兼ねすることなくリビングで寛ぐことが出来る。
千石は「待っててね」と、キッチンへと入って行った。
きっとファンタを用意してくれるはずだ。
そういう所は流石というかマメで、リョーマの好みをきちんと把握してくれて、欠かしたことは一度も無い。
これが過去沢山の女子と付き合った上での振舞いかと思うと腹が立つので、
あまり考えないようにしている。
ファンタ出してくれるんだから、大目に見ようとリョーマは小さく息を吐いた。


「お待たせ、リョーマ君。あれ?なんか疲れてる?
ここまで来るのに、大変だったとか?」
「ううん。なんでもない」

千石の不思議そうな視線に、リョーマは首を振って否定する。

「それよりファンタ、ちょうだい」
「はいはい。本当にファンタが好きだよねえ」
「当然」

千石はトレイをテーブルに置いた。
そこにはグラスに注がれたファンタと、ガラスの器に盛られたアイスが乗っている。

「アイスも持って来てくれたんだ?」
「うん。だって、これをリョーマ君に食べてもらいたくって、呼んだようなものだからね!」
「はあ?アイスが?」

いいものってひょっとして、これ?
ただのアイスクリームじゃないか、とリョーマは思った。

眉を寄せるが、千石は構わず「溶けちゃうから、食べて」と勧めて来る。

「じゃあ、一口……」

これがなんだって言うんだ、とリョーマはスプーンを手に取った。
器を手にして、口に運ぶ。


「どう?ねえ、美味しい?」
「まあ、ね。美味しいよ」

バニラアイスの中に、オレンジマーマレードが入っているらしくほんのり甘酸っぱい。
しかしやはりどうってことのないアイスだ。

「これが、清純が言っていたいいもの?そんな特別なものとは思えないけど……」

正直な気持ちを伝えるが、千石は気を悪くした風でもないようだ。

「うん。普通に美味しいって言ってもらえて良かった。さ、全部食べちゃって」
笑顔すら浮かべている。

一体、なんなんだ。
腑に落ちないまま、リョーマはスプーンでアイスを掬って口に運んで行く。
全部食べたら何かわかるのかなと思って、早く片付けることにした。


「ねえ。このアイス、何かあるんでしょ。
清純が嬉しそうにしている訳を教えてよ」

まさか媚薬入りじゃないだろうな。
ほとんど食べてしまってから、思い付いたことだ。
千石ならやりかねないと、じろっと睨む。

「うん。実はね」
「何。いいから早く言ってよ」
「それ、俺が作ったんだ」
「は?」
「俺の手作り。どう?驚いた?」
「……」

最初、何を言ってるのかよくわからなかった。
アイスは買って来るものだ。
手作り、と言われても頭がついていけない。

「どうやって?」
間抜けな声が出たと、自分でも思った。

「それがさ、結構簡単なんだよー。
姉ちゃんも彼氏に手作りケーキやらプレゼントするから、器具も揃っているからね。
で、この間手作りアイスを彼氏の部屋に持ってくって奮闘してた時に、
俺も一緒に手伝って作り方を覚えたんだ。
ハンドミキサー使っても結構疲れるけど、自分で作ったアイスと思うとまた美味しく思えてさ。
とにかく材料を混ぜるのが大変」
「……はあ」

どうやら姉から影響を受けたらしいとわかった。
千石が作り方の説明を続けているけれど、いまいち理解出来ない。
適当に相槌を打って、リョーマは何度も頷いた。

「これはリョーマ君にも是非食べてもらいたいって思って、
昨日の夜に頑張って作ったんだ。
自分で言うのもなんだけど、良い出来だったし。
でも美味しいって言ってもらえて良かった」
「うん。美味しいよ」

千石が苦労して作ってくれたのは、わかった。
作り方を知っても中学生男子は作ろうとしないのでは、とちょっと思った。
が、千石の気持ちは素直に嬉しく思える。
アイスなんて簡単に手に入るものなのに、手間暇掛けて作ってくれたと思うと、
少しだけ感動する。

「このマーマレードが味のアクセントになっていい感じ。
お姉さんも彼氏にこれ作ってあげたの?」
「いや、姉ちゃんはラムレーズンを入れてた。
それは俺のオリジナル」
「へえ。そうなんだ」
「うん。ほら、オレンジって俺の髪と同じ色でしょ」

得意げにしている千石に、リョーマは「だから?」と尋ねる。

「リョーマ君の体内に俺が溶け込んでいるような気がしない、って……痛っ!」
「気持ち悪いこと言うな」

容赦なく額を手の平で叩いてやると、千石はぶたれた場所を両手で押さえた。

「痛いよー、リョーマ君。ほんの軽い冗談のつもりだったのに」
「今のは清純が悪い。
折角美味しいアイスだったのに、台無しにするようなこと言うから」
「だってー」

不満を訴える千石に、リョーマはにっこりと笑顔を向けた。

「そんなことしなくたって、実際溶け合っているようなものだから必要無いでしょ。
それとも俺達がいつも何してるか忘れたの?」
「え、え?」

千石の上に覆い被さるように体を密着させると、戸惑ったような声を出される。

「忘れてるなら、思い出させてあげようか?」
「あのー、リョーマ君?」
「何?」
「確認しときたいんだけど、俺の勘違いじゃないとしたら、
誘われているんでしょうか?」
「うーん、俺が清純を襲っているが、正解」
「立場逆転ですか!?」
「そうしたいのなら、それでもいいけど」
「いや、そこだけは激しく遠慮します!」

そう言って体勢を入れ替えて、今度はソファにリョーマが押し倒される形になる。

「本当に家の人、帰って来ないんだよね?」
「うん。平気」
「なら、いいけど」
「いいんだ?リョーマ君が乗り気で、嬉しいなー」

にやけた顔をする千石に、
(当たり前じゃん……)と、リョーマは内心で呟く。

そんなつもりは無かったけど、手作りでのおもてなしにかなり心が動かされてしまった。
手間を惜しむことなく愛情を注いでくれる彼を、なんだかものすごくぎゅっと抱き締めたい気になったから仕方無い。

(俺も、結構単純なのかもね……)

横になりながら、ふとテーブルを見ると手付かずのまま残されてるグラスが目に入る。


さすがに氷解けて温くなるよなあ、と一瞬考える。

しかし触れられる手の気持ちよさに、すぐに千石との行為に没頭していった。


2009年11月02日(月) 二人の時間 千リョ

ほとんど会話する間も無く、桃城は注文したハンバーガーを口の中に押し込み、
さっさと帰ってしまった。
千石にとっては嬉しいことだ。
リョーマと早く二人きりになれる。
正直、桃城に認められようがどうでもいい。
誰に反対されようが、リョーマのことを諦めるつもりは無いのだから。

しかしリョーマは桃城の態度に不満を抱いているようだ。
顔を顰めて、「あんなに早く帰ること無いのに」と呟く。

「なんで?桃城君も気を利かせてくれたってことでしょ。
いちゃいちゃ出来るのに、リョーマ君は嬉しくないの?」

顔を覗きこむと、「そういうことじゃなくって……」と、溜息をつく。

「折角良い機会だと思ったのに」
「え?何が?」
「もういい。俺達も出よう」

見ると、リョーマも食べ終わっている。
「あ、うん。ちょっと待ってて」
千石は飲み物だけだったから、急いで残り全部を飲み干す。

トレイを片付けて、二人は外へと出た。


「これからどうする?俺の家に来る?」
「ヤダよ。面度くさい。もう帰る」
「えー。じゃあ、家までついて行っていい?」
「いいけど、部屋には上げないよ」
「なんで?折角会えたのに、送って終わりなんて嫌だよ」
「清純が勝手に来たんでしょ。今日は練習で疲れたから、帰る」
「そんなあ」
「あんた連れて行くと、親父に色々言われるんだよね。だからヤダ」
「リョーマ君〜」

先に帰ろうとするリョーマの後を必死で追い掛けて、
結局千石は家まで引っ付いて行った。




ラッキーなことに南次郎は留守だった。夕飯はいらないと出て行ったらしく、しばらく帰って来ない。
そのおかげでか、リョーマも無理に帰れとは言わない。
ここまで来たので、流石に無下に追い返す真似はしないようだ。
リョーマならやりかねないと、千石は部屋に入るまではずっと身構えていた。

なんとしてでも二人きりになりたい。
いざとなったら抱きついてそのまま中に入ってやるつもりでいた。

しかしここまで来たら大丈夫だろうと、ホッと力を抜いてベッドに寄り掛かって座り込む。

「なるべく早く帰りなよ。清純の家だって、ご飯作って待っているんでしょ」
「リョーマ君、冷たい!なんでそんなに俺を早く帰らせようとしてんの!?
どうせ俺の家なんて、皆まだ外に出てるよ」

共働きの両親は勿論のこと、姉もデートとかで帰りは遅い。
まだまだ余裕の時間なのに、リョーマがそんなことを言うなんて。
一緒にいたくないんだろうか、と不満げな視線を送る。

「だからこっちは練習で疲れているんだって。
清純の所は結構自由にさせてもらってるけど、こっちは乾先輩のメニューをこなしてくたくたなんだよ……」

ふわあ、と欠伸するリョーマは確かに疲れているように見えた。
毎日毎日、リョーマは熱心に練習している。部活以外でも自主練習をする時もあるらしい。
テニスが大好きだとわかっているからこそ、千石もなるべく邪魔しないように我慢していた。

けど、時々理由もなく会いたくなる時だってある。
他の女の子では絶対に埋められない心の隙間。
それはリョーマでないと満たされない。
ちょっとでもいいから会いたいと思って来たのに。
全然、わかっていない。

しかしリョーマに文句言うのも、大人気ないと思い、
疲れたように投げ出している体を、そっと引き寄せて自分に凭れさせた。

「リョーマ君が頑張っているのはわかってるよ。
でも少しでもいいから、俺のこと構って欲しいんだ」
「それは、わかってるつもりだけど……」

余裕無い、とリョーマが呟く。

「でも、桃城君とは寄り道しようとしてたじゃん。
その時間を俺の方に回して欲しいのに」
「桃先輩とはそんなに長いこといるわけじゃないし。食べたらすぐ帰るつもりだったのに」

千石の肩に頭を乗せて、リョーマは軽く溜息をついた。

「そこまで責められるようなことでも無いと思うけど?
大体、清純が急に来るからでしょ。明後日の休みには会う予定だったのに」
「それまで我慢出来なかったんだよー!なんで?急に来ちゃ駄目?
もしかしてリョーマ君は俺といるよりも、桃城君との時間の方が楽しいとか思っていたりして」
「馬鹿」

それまで黙っていたリョーマは素早く体を起こし、千石の肩を両手で押した。
結構な力だったので、ごろんと床に転がってしまう。
いきなりだったから、受身も取れず顔に痛みが走る。

「えっ、なんで俺が怒られるの!?」
痛む頬を押さえてリョーマを振り返ると、
「つまらないこと言ってるからだろ」と怒った声で言われる。

「もしそうだとしたら、清純のこととっくに振ってると思うけど?」
「うわあ。身も蓋もない言い方……」
「桃先輩とは確かに仲がいい方だと思うよ。
でもそれは清純とは全然立場違うから。どうしてそれがわからないかなあ」
呆れたように言うリョーマに、「本当に?俺とは違う?」と聞き返す。

「しつこいなあ。
大体、もし俺が桃先輩に好意持っているとしたら、清純も一緒に店行こうなんて誘うわけないじゃん」
「そうだけど……。
でもひょっとしたら、桃城君との仲を見せ付けて別れたいことをアピールしようとしてるかもって」
「考え過ぎ」

今度は額を指で弾かれる。
それも結構痛くて、千石は「痛っ」と小さく悲鳴を上げた。

「俺はただ……清純と一緒にいる所を桃先輩に見てもらって、安心させたかっただけだよ。
先輩達、すごく心配しているからさ。今日が良い機会だなって考えていたんだ。
ちゃんと上手く行っているんだって納得させる為にはそうした方がいいって……。
それとも不二先輩とか部長と一緒の方が良かった?
清純にとっては桃先輩の方がいいと思ったんだけど」
「いや、桃城君がいいです。他の人は遠慮します!」

千石は声を上げた。
不二とか手塚とかなんて、冗談でも無理な話だ。
きっと納得する前に締め上げられる。無事で帰れる保証は無い。

「桃城君で良かったよ、うん。
でも話なんてほとんど出来なかったけど、大丈夫かな?」
「平気でしょ。俺達が仲良いってことはわかったみたいだから。
後は上手く先輩達にアピールしてもらうだけ。その変は俺が上手くやるから大丈夫」

強気に笑うリョーマにフラフラと引き寄せられて、
柔らかな頬に手を添える。
リョーマが目を閉じたのを確認してから、唇を寄せた。
うっとりするような感触に、このまま止まらないかもと千石はもう一方の手でリョーマの制服のボタンに手を伸ばす。
ちょっとだけなら、と思った瞬間、手を払われる。

「はい、そこまで」
「えっ、リョーマ君……?」
「疲れてるって言ったじゃん。今日はこれ以上は勘弁ね」
「そんなあ!すっかりその気になっていた俺はどうなんの」
「どうもこうも。本当にそろそろ帰ったら?
言っとくけど、無理矢理しようとしたら本気で怒るから」
「リョーマ君〜」
「可愛く言っても駄目」

そう言って千石から離れてリョーマはベッドに横になってしまう。

「疲れた……。ご飯出来るまでちょっと寝るから、清純はもう帰ってくれる?」
「酷いよ、リョーマ君。こんな気持ちで帰れないよ」
「最初から相手出来ないって言ってるのに。しょうがないなあ。
ちょっと耳貸して」
「え?何?」

横になっているリョーマに顔を近付けると、
「明後日まで我慢してよ。その時はゆっくり相手するから」と囁かれる。

「マジで!?俺、本気にしちゃうよ!」
「うん。だから、今日はこのまま休ませてくれるよね?」
「勿論!明後日の為にも休んでいて。またメールするね。明日は電話するかもしれないけど!」
「わかった。またね、清純」

そう言って枕に顔を埋めるリョーマに、「また、ね」と千石は小さく手を振って部屋の外へと出た。

これ以上不興を買うのは得策ではない。
楽しみは明後日まで取っておくべきだと浮かれながら、越前家を後にする。




(すっかり真に受けて帰って行ったか……。
明後日はなんのことか忘れたとか言えばいいよね。それで押し通せば、清純もそれ以上は何も言わないし)


眠い眠い、とリョーマは夕飯までの時間を無駄にしないようにと、訪れた睡魔に身を任せた。


2009年11月01日(日) もう一人じゃない 千リョ

一人で帰ろうとするリョーマの後姿を見付け、桃城は声を掛けた。

「おーい、越前ー。一緒に帰らないか?」

するとリョーマはこちらを振り返り、足を止める。
了解、という合図だ。
桃城は自転車を引っ張って、急いで追い付く。

「まず確認しときたいけど、千石さんは今日は来ないんだよな?」
「来ないけど、なんで?」
不思議そうな顔をするリョーマに、
「なんでって、勝手にお前のこと誘ったりしたら怒られるだろうが」と、桃城は言った。

浮気者のくせに、千石は嫉妬深い。
リョーマと比較的仲が良い桃城は、千石に何回か問い詰められたことがある。

「本当にリョーマ君のことは後輩としか思っていない?神に誓って言える?」

いつものへらへらと笑っている顔ではなく真剣な目で言われて、
桃城は「あいつはただの後輩です!」と訴えた。
だから千石が迎えに来る時は、リョーマに近寄らないようにしていた。
やましい気持ちは無いけれど、千石に誤解を与える真似はしたくない。

しかしリョーマは「怒られる?なんで?」と鼻で笑う。

「清純が怒ることなんて何も無いし、言われる覚えが無い。
文句言われたら、俺に知らせてよ。ちゃんと言い聞かせてやるからさ」
「お、おう……」

あの千石よりも、リョーマの立場の方が強いらしい。
今の言い方はまるでしつけのようだ、とごくんと唾を飲む。
浮気者の千石と付き合うなんて大変だなとリョーマを心配していたけれど、
ひょっとして大変なのは千石の方かもしれない。


「で、どっか寄る?」
「そうだな。腹も減ったことだし、久し振りにマック行くか」
「いいっすよ」
「じゃ、後ろ乗れよ」
「ん」

リョーマを後ろに乗せて、自転車を漕ぎ始める。

数ヶ月前は、よく二人で寄り道したものだ。
当時レギュラーになったばかりのリョーマは、ほとんど先輩を口を利こうとしなかった。
練習さえこなせばいい。
そんな態度を見るに見兼ねて、桃城は何かと声を掛けてやった。
無口だけど、正面から話せば無視をすることもない。
次第に一緒に帰る位まで仲良くなっていた。

「そういえば、お前覚えているか?」
「何が?」

背中越しに聞こえて来る声に、桃城は会話を続ける。

「ずっと前にこうして一緒に帰った時に、話していたこと。
お前が一年の女子に告白されてるの見てさ、付き合うかどうか聞いたじゃねえか」
「そんなこと話したっけ」
「したんだよ。ったく、忘れたのかよ。
あの時は、誰とも付き合うことはないって言っていたよな」






その場面を目撃したのは、偶然だった。
まだリョーマがレギュラーになりたての頃、一年の女子に告白されている所にちょうど通り掛ってしまった。
桃城に見られたことで女の子は「返事は今度でいいからっ」と走り去ってしまった。
その帰り、「どうするんだよ。付き合うのか?」と尋ねた桃城に、
リョーマは「そんなわけないじゃん」と言ったのだった。

「結構可愛い子だったのに、勿体ねえなあ」
「じゃ、桃先輩が付き合ってあげたら?」
「どうしてそうなる。あの子はお前が好きなんだぞ?ちったあ考えてやれよ」
「あっちが勝手に好きって言ってきただけじゃん。
俺には関係無いんだけど」

すっぱりと言い切るリョーマに、駄目だこりゃ、と桃城は思った。
付き合う気はさらさら無いらしい。

「じゃあ、やっぱり断るのかよ」
「当たり前っす。付き合うとか、興味無いし。桃先輩はあるんすか?」
「そりゃあ、まあ普通の中学生男子としては当たり前だろ。
無いとか言うお前の方が変だって」
「勝手に変とか決め付けないで欲しいんだけど。
テニスのこと以外、考えられないだけっすよ」
「だから、それが問題だろうが」
「問題?」
「もっと他のことにも関心持てよ。テニスだけが人生じゃねえぞ」

そう笑い飛ばした桃城に、リョーマは「テニスだけっすよ」とニコリともせず答えた。

本気で言っている。
リョーマの目を見て、桃城は何も言い返すことが出来なかった。

こいつはこのままテニスだけを選び続けて、一人で生きて行くんだろうか。
きっと強くはなるだろうけど、それはとても寂しく思えた。
ラケットを持って、一人で世界に立ち向かって行く。
そんなリョーマの姿を思い浮かべて、誰か隣にいて欲しいと願った。
リョーマの強さも弱さも受け止めて、隣にいれるような人がいたら、きっと大丈夫だと思えるから。



それからしばらくして、リョーマは千石と出会い、付き合うことになった。
誰とも付き合う気が無いと言っていたのに、その考えを覆したのだ。
相手が千石と聞いてかなり驚かされたけれど、
リョーマが誰かを選んだのを知って、桃城はほっとした。
三年生の先輩達は反対しているみたいだけれど、
リョーマがずっと一人きりのままでいるよりは良いことだと、密かに応援してた。












「千石さんを選んだのは意外だったけど、お前が誰かと付き合うのを決めたのは良いことだと思ってる。
なんかあったら俺に言えよ。相談くらいには乗ってやるからよ」
「……うん」

いつになく素直に返事するリョーマに、桃城は少し笑った。
これも千石の影響なのだろうか。
以前なら「そんなのいらない」と即座に断っただろうに。
千石との付き合いは、決してマイナスだけじゃない。そう思えた。





「あ」
不意に後ろで声を上げたリョーマに、「どうした」と桃城は聞き返す。
「清純がいる」
「ええっ!?どこだよ」
「ほら、そこ。前見てよ」

慌てて桃城はブレーキを踏んだ。
千石がいないと思って、リョーマを後ろに乗せたのだ。
なのに見られたと知って、青くなる。

「リョーマ君っ!」

手を振りながら、千石が駆け寄って来る。

「なんで清純がここに居るんだよ。今日、会う約束していなかったのに」
自転車から降りて、リョーマは千石にそう尋ねる。
「会いたいから来ただけだよ。迷惑だった?」
「そうは言って無いけど、今から桃先輩とマックに行くところだったんだよね」
ちらっとこちらを見るリョーマに、話を振るな!と桃城は心の中で叫ぶ。

「へえ。桃城君と?本当に仲が良いよね」

顔は笑っているけど、目つきは鋭い。
これはやべえ、と桃城は背中に汗を掻く。
なんとか言って、この場は逃げ出そう。

しかしリョーマは桃城の考えと全く逆のことを提案する。

「清純も一緒に行く?ねえ、桃先輩。いいよね?」
「えっ、俺は……」
「たまには三人でもいいでしょ」

一瞬、千石は嫌そうな顔をする。
二人きりが良いのだろう。
当然だ。千石はリョーマに近付く輩を快く思っていない。
早く桃城に帰ってもらいたいと、顔に出ている。

だが、「桃先輩に普段の俺達のこと見てもらったら、安心すると思うんだ。
皆色々心配してるけど、ちゃんと付き合っているんだって。
だからいいでしょ。ね?」と言うリョーマの言葉に、態度をいきなり変える。

「勿論だよ。俺達がどんなに好き合っているか、ここはオモシロ君、じゃない桃城君にわかってもらおうじゃないか」
「いや、俺は……」
「いいでしょ、桃先輩。清純が奢ってくれるって言ってるし」
「えっ、言ってないだろ!」
「いいよね、清純」
「勿論、俺に任せなさい」

リョーマに乗せられて、千石は胸をどんと片手で叩く。
どれだけコントロールしているんだ!?と目を見開く桃城に、リョーマが囁く。

「その代わり、他の先輩達にも清純と付き合っていても大丈夫だってアピールしといて下さい。
あの人達色々うるさくって……。もう説明するのも面倒なんで、お願いします」
「俺が!?先輩達にそんなこと言えるわけが」
「お願いしますね」

ぎゅっと腕を強い力で捕まれて、桃城は顔を引き攣らせる。


リョーマが一人でなくなったのは良いことだ。

けど性格は違う方向へ変わった気がして、
やっぱり相手は選ぶべきだったのでは……と、思い直す。
三年の先輩達の説得に俺を巻き込むなと桃城は呟くが、リョーマは聞いていない。

「さ、行きましょう。桃先輩」
「うん、行こうか。桃城君」

二人にがっちりを挟まれて、桃城はさっさと帰るべきだったと数分前の自分の行動を悔やんだ。


チフネ