チフネの日記
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2009年08月21日(金) 夏の夜の夢 不二リョ 後編

翌日。
部活へ行くと、早速不二先輩に声を掛けられた。

「あれ?また寝不足?」
「おかげさまで」
先輩の心配そうな視線を、ツンと無視する。
昨日あんたが変なことを言う所為でおかしな夢を見た。
またしても眠りを邪魔された。
その怒りの矛先を先輩に向ける。
しゅんとした横顔を見て、ちくっと心が痛んだけれど知らん顔をする。
それだけ、苛立っているからだ。
ああ、もう寝不足なんてなるもんじゃない。


全国大会を前にして今日もやることが一杯だ。練習は日々ハードになっている。
時間が足りない。48時間あっても足りない。
なのに寝不足でベストな体調じゃない俺は、何しているんだろう。
足元がふらつく。

「動きが遅いよ、リョーマ!」
遠くからおばさんの声がする。
わかっているって。俺だってもっと早く走ってボールに追い付きたい。
でも睡眠が足りなかったから、これが精一杯。
チクショウ。こんなの言い訳にならない。
試合だったら、どうするんだ。
体調管理なんて出来て当たり前。眠れなかったなんて、どうにもならないくらいわかっている。

「先生!越前を保健室に連れて行ってもいいですか?」
「はい?」
突然の申し出に、俺は間の抜けた声を出した。周囲もこっちに注目している。
練習中だっていうのに、不二先輩は構うことなく堂々と手を挙げている。
「なんだい、リョーマの具合でも悪いって言うのかい?」
「はい。少し休ませた方が良いと思います」
「ちょっと、あんた勝ってなこと言って」
文句を言おうとした瞬間、また足元がふらつく。
おばさんがこっちを見て、「仕方無いねえ。不二、連れてってやりな」とあっさり承諾した。

「さ、行こうか」
勝ち誇ったように笑って近付いて来る不二先輩に、俺は無言でそっぽを向いた。
なんだっていうんだ、もう。

「保健室くらい、一人で行けるっすよ」
「駄目。もし途中で倒れたら、どうするの」
「……」
腕を支えられて歩くなんて、格好悪過ぎる。
抵抗しても不二先輩はそれを許さず、がっちりと掴んでいる。
細い腕のくせして力が強いなんて、詐欺だろ。

「あれ?先生、いないなあ」
保健室のドアは開いたけれど、中には誰もいない。
「休憩でも行っているのかな?とにかく越前は休んでて」
「俺、練習を続けたいんだけど」
「駄目!ここで体調を崩したら大会所じゃなくなるよ。それでもいいの?」
「……うーん」
そう言われると反論出来ない。
眠れるのは嬉しいことだと自分を納得させて、靴を脱ぐ。
そして空いているベッドに横になった。

「昨日の夜、また変な夢を見たのかな?」
「…なんであんたは当然のように椅子に座っているんすか」
パイプ椅子をベッドの横まで寄せてきて、不二先輩は俺のすぐ横に腰を下ろす。
この体勢はしばらく付き添う気満々ってことか。
「だって、君の事が心配だから」
しれっとした顔で言う。
「少し眠ったらよくなると思うから平気っすよ」
「でもまた夢を見たりしたら」
「しつこいっ!」
自分でもびっくりするような大きな声が出た。
「大丈夫だって言っているじゃん俺のことは放っておいてよ」

苛々する。
不二先輩がおかしなこと言うから、変な夢を見て安眠出来なくなったんじゃないかって思ってしまう。
八つ当たりだとわかっているけれど、
練習時間にこんな所にいるってだけでストレス溜まっている俺には余裕なんて無かった。
フン、と先輩の顔を睨みつける。

「ごめんね…」
沈んだような声を出して、先輩は立ち上がった。
「もう行くから、ゆっくり休んでいて。今度こそ安眠できるといいね」
そして静かに保健室から出て行ってしまう。


「なんで、こんなことになるんだよ…」
先輩がいなくなってから、俺は大きく溜息をついた。

別にケンカをしたかった訳じゃない。
なのに零れた言葉は酷く刺々しいものばかりだった。

あの人が俺に対して怒ったりすることは無い。
それを知っているから、ついつい冷たい態度を取ってしまう。

(これじゃ、一方的に甘えているだけだよな)

結局、そんな事を考え続けていたら、眠ることなんて出来なかった。
折角、休んでいいって言われたのに、何をやってるんだろう。
しばらくしてコートに戻ったら、おばさんからはゲームなんてやってないで早く寝るんだよと釘を刺されるし、
桃先輩と菊丸先輩からは体調管理も大事だとか説教されて散々だった。


不二先輩はというと、保健室から戻った俺に近付く素振りを見せず、
結局擦れ違ったまま帰宅時間になってしまった。

さすがに愛想も尽きたのかもしれない。
あれだけ素っ気無い態度を取っていたら、告白の返事もしたと同然と捉えてもおかしくない。
やっぱり態度悪かったよな、と頭を抱えたくなって来た。

「おい、リョーマ。食わないのなら、そのおかず貰うぞ」
「……どーぞ」
夕飯もろくに進まない俺に、親父がいつもの如くちょっかいを掛けて来る。
とてもじゃないけれど相手する気になれず、適当に返した。
今は親父に構っている場合じゃないんだって。
「どうした!?お前、熱でもあるのか?」
「別に。食べたかったら、食べれば?驚くことでも無いでしょ」
「いや、だっていつもなら怒るくせによ……。本当に大丈夫なのか?」
「うん……」
気味悪がる親父もほとんど眼中に無かった。
上の空のまま、夕飯を終える。

そしておばさんにも早く寝るようにと言われたこともあって、いつも以上に早い時間にベッドへ潜り込んだ。
どうせ起きていてもごちゃごちゃ色んなことを考えて、何も上手く行かないのなら寝た方がいい。
そうしよう。
今夜こそ安眠!と、意気込んで(睡眠に意気込みも無いと思うけど)タオルケットを被った。

そしていつの間にかうとうとしていたら、また夢を見た。

今回はホラー仕立てじゃない。
学校へ行って、テニスをしている。至って普通の日常風景だ。
皆と打ち合って、ランニングして。
乾先輩の汁すら出て来ないので、うなされるような内容じゃない。
でも、その中で不二先輩は俺の方を向いてくれない。
他の人には話し掛けているくせに、俺だけを無視している。
いない者のように扱っている。
いい加減ムカついて、俺は先輩の肩を叩いた。
そしてこっちを向かせると、うっすらと目を開けた先輩は嫌そうに口元を歪めて言った。

「もう、僕に構わないで。君の望む通り、これから二度と話し掛けないから」
「……!!」

そこで、目が覚めた。
幸いなことに夜中じゃなく、外は明るくなっていてもう朝になっているらしい。
睡眠時間としては十分な位だろう。
目覚めは最悪だけど……。

(なんであんな夢見たんだ。もしかして正夢?
今日から、先輩に無視されるとか。そんな現実、嫌だな)

昨日、あんなことを言っておいて、勝手だと思う。
先輩が本当に話し掛けて来なくなったとしても、文句言う筋合いは無い。
でも、今になって後悔している。
無視されると想像したら、結構辛いものなんだって気付かされた。

(今日は、ちゃんと謝ろう)

着替えしてから下に降りて、朝ご飯を食べる。
そして部活へ行こうとのろのろと学校へ向かって歩き始める。
(不二先輩に会ったら、謝罪するんだ)

機嫌を直してくれるかなあと考えていたら、「おはよう」と肩を叩かれた。
振り返ると不二先輩が立っていた。
「あれ……なんで、先輩がここにいるの?」
「なんでって、もう学校は目の前なんだけど……」
「あ、ホントだ」
ぼーっとしている内に着いていたようだ。
「大丈夫?まだ寝惚けているんじゃないの?」

夢の中で見せた冷たい視線と違って、先輩は優しく声を掛けてくれた。
なんだか、ほっとする。心が落ち着いて行くのがわかった。
すごく勝手な話なんだけど、この人に甘やかされているのが当然、だと俺は思っていたみたいだ。
バカだな。今頃気付くなんて。
告白に対する答えは、もうとっくに出ていたんじゃないか。

「あの、不二先輩」
「そうだ。越前、ちょっと待ってね」
謝罪しなければと口を開き掛けた俺に待ったを掛けて、
先輩は肩に掛けていたバッグを唐突に下ろしてごそごそと漁り出す。
一体、何なんだ。折角、決意した所だっていうのに。
「あった!」
先輩は嬉しそうな声を出した。
「何が?」
「越前、手を出してくれる?」
「何っすか?」
言われるまま手を出すと、小さな袋みたいなものを乗せられた。
フリルがついていて、ちょっと乙女チックなものだ。これは一体……。
まじまじと見詰めると、詰められているらしいものからふわっと優しい香りがした。

「それ、ラベンダーのポプリなんだ」
「ポプリ?」
「ほら、安眠出来ないって言っていたよね。
気休めかもしれないけど、この香りを側に置いとくとよく眠れるんだって。
姉さんに頼んで分けてもらったから、良かったら使ってみてよ」
「……俺の為に?」

昨日、あんな態度を取ったのにわざわざ持って来てくれたらしい。
どうして?と顔を上げると、照れたような笑顔を浮かべている先輩と目が合った。
「うん、だって好きな人の心配をするのは当然でしょ。 
僕に何か出来ないかなって考えて、結局こんなこと位しか思い付かなかった。
なんか、情けないよね」
「そんなことないっすよ!」
「越前?
「そんなこと……ない」

貰ったポプリの袋を握り締めて、俺は何度も「そんなことない」と繰り返した。
眠れない俺の為に一生懸命どうにかしようと考えてくれていた先輩の気持ちが嬉しくて、
それ以上の言葉が出て来なかった。

もう少し、気持ちが落ち着いたら謝罪と、お礼を言おう。
それから話があるから、今日は一緒に帰ろうと誘ってみよう。
明日からも一緒に帰る為に、告白の返事をするんだ。


もう、悪夢は訪れない。
そして今夜はきっと良い夢が見れる。

鼻を擽るラベンダーの香りに、俺はそう確信していた。


終わり。


2009年08月20日(木) 夏の夜の夢 不二リョ 前編

切っ掛けは親父が借りて来たB級ホラームービーからだった。
一緒に見ようぜとニヤニヤ笑う親父に「ヤダ」と断ったら、
「ほー、怖いのか?」と挑発された。
「そんな訳無いじゃん」
「じゃあ、観れるよなあ?」
「当たり前っ」
乗ってしまってから後悔する羽目になるとは思わなかった。
映画自体は特に怖くもなく、こんなもんだねと笑う位だったんだけど、
その後見た夢が悪かった。

ストーリーの中に入った俺は、迫り来るモンスターから必死で逃げている。
観ているだけなら怖くもなく、そこで攻撃しろよと呑気なコメントしていたけれど、
夢の中では思うようにいかない。
掴まったらまずいと、全速力で逃げていた。
そしていよいよ廃墟に追い詰められて、物陰に隠れた俺を怪物が手を伸ばして引き摺りだそうとした瞬間、目が覚めた。

「なんだ、夢か」

目を開けるとまだ辺りは暗かった。
体を動かして時計を確認すると、夜中の2時過ぎ。
こんな時間に目が覚めたことなんて無かったのに。
寝直そうと思った所で喉がカラカラなのに気付いて、起き上がる。
汗で張り付いたパジャマが気持ち悪い。
首元を掴んで風を送る。
今夜も暑い。
この後もスムーズに眠れないかも、と思った。



「あれ?越前、ひょっとして寝不足?」

日中になると暑さはぐんと増す。
休憩時間になって不二先輩が音も無く近付いて来た。
全く、物音一つさせないんだから。
俺の顔を見てまじまじと言うから、思わず頷いてしまう。
「だったらあっちの木陰で休もう。涼しいよ」
「え、ちょっと」
反論する間も無く手を引っ張られて移動させられてしまう。
強引過ぎと思ったけど、つれて行かれた場所が本当に涼しかったので、
文句は言わないでおいた。

「よく眠れなかったの?昨日は蒸し暑かったからわかるよ」
「はあ」
木に背を預けて生返事をする。
にこにこと笑顔を浮かべる不二先輩に「はい」とスポーツドリンクを渡されて、受け取る。
「寝苦しい夜は嫌だね。練習が身に入らなくて困る」
「あ、えっと…俺は寝られないっていうんじゃなくて」
「違うの?」
しまった、ここはうんって言っておくべきだった。
アップで問い掛けられて、俺は顔を引き攣らせた。
「ちょっと夜中に目が覚めて、それから寝られなかっただけっす」
「もしかして怖い夢でも見た?」
「……」
鋭い。
不二先輩って、こういう勘が異様に働くからびっくりさせられる。
「そんなとこっすね」
「へえ、どんな夢?」
「どんな、って」
「聞かせてよ」
俺としてはゆっくり休んでおきたい所だったけど、
せがんで来る不二先輩をあしらうことが出来るはずもなく、話す他は無かった。


「へえ。モンスターに追われる夢ねえ」
聞き終えた後、先輩は納得したように頷く。
「親父が借りて来た映画の影響っすよ。今夜はもう見ないと思う」
きっともう安眠出来る。……出来るはず。
そう思いつつ言った俺に、「どうかな?」と不二先輩は意味ありげに言った。

「どうかなって、何が?」
「ねえ、越前。夢の中で君はそのモンスターの姿を確認したかい?」
「は?いや夢だから、多分見てないと思う。というより、あの映画に出て来た奴で間違いないっすよ」
「そうかなあ」
ふふっと、笑われる。
「何が言いたいんすか」
先輩の横顔を睨む。
が、全く動じない。
涼しげな顔で、先輩は口を開いた。

「いや、実は夢の中で君を追っ掛けていたのはモンスターじゃなく、
僕かもしれないんじゃないかって話」
「はあ?」
「君の事を掴まえたい。その気持ちが夢の中に現れたとしたら、面白いでしょ?」
「何が面白いんすか?」
笑顔の先輩を睨みつける。
「そんなんで安眠を邪魔されたら、たまったもんじゃないっす」
少し低い声を出すと、「そういうつもりじゃないんだけど」といい訳される。

「あまりにも君がつれないから、別の所から攻めようと思っただけだよ。
そんなに怒らないで」
「……別に怒っていないっすよ。どうせただの夢なんだから」
そこまで言うと、やっと不二先輩はほっとしたように息を吐く。
全く、後悔するなら妙な冗談なんて言わなければいいのに。

「だけど、君のことを掴まえたいと思っているのは本当だよ」

独り言のような呟きに、俺は何の反応もしなかった。
それよりも疲れていたから、少しでも休んでおきたい。
俺の気持ちが伝わったのか、先輩は休憩が終わるまで黙ったままだった。





不二先輩に告白されたのは関東大会が終わった直後だった。
「こんな時にって思ううかもしれないけれど……君の事、好きなんだ」
そうですか、としか感想が出て来なかった俺に、先輩は少し悲しげだった。
返事はいつでもいいと言ったけれど、どうしたら良いかはまだわからない。

(やっぱり返事を待っているのかな)

夢の中でも俺のことを掴まえていたいなんて言う位だから、少し煮詰まっているのかもしれない。
焦らしているわけではない。でもやっぱり告白に対して何か言うべきなんだろうなと考えてしまう。
何か、がすぐ思い浮かばないけれど。



そして、その夜。

俺はまた夢を見た。
今夜の舞台は映画の中ではなく、学園の中へと変わっていた。
誰かに追い掛けられて逃げている状態は同じ。
部室に逃げ込んでやり過ごそうと思った矢先、そいつが入り口の前に立った音がした。

「逃げても無駄だよ。必ず掴まえるから」
その声で目が覚めた。


「今の、声」
額に浮かんだ汗が伝わるのがわかった。
時間はまたしても夜中だ。

いや、それよりも夢に出て来た俺を追いかけて来たあの声。
不二先輩にそっくりだった、……気がした。


2009年08月13日(木) 真田リョ 炭酸と宿題と、そして君

着信を知らせる携帯の音に、真田は「失礼する」と一言断りを入れて部屋の外へと出た。

「もしもし」
「やあ。真田」
朗らかな幸村の声が聞こえた。
「どう?大会を終わってからの夏休みを満喫しているかい?
ほら、俺達は一応引退した身だから、毎日テニス部に顔を出すことも無くなったじゃないか。
急に暇になってずっと草むしりでもしているんじゃないのか、ちょっと心配になってね。
それよりも今日はこれから俺達とプールにでも行かないか?柳生がただ券を頂いたらしくてね。
皆に連絡を取っている所なんだ。勿論、来るよね。草むしりよりもずっと楽しいよ」

何故か草むしりをしていることを前提で喋っている幸村に、
そんなイメージが定着しているのか?と真田は首を傾げ、まあいいかと口を開いた。
「折角誘って貰ったのだが、申し訳無い。今日はその、他に用事があって抜けられない」
「君に用事?へえ、珍しい。まさかデートだなんて言わないよね?」
「な、何を言う。そんなことは断じてあり得ない」
「わかっているって。で、用事って何?早く終わりそうなら、途中で合流って形でもこっちは構わないよ」
気を使ってくれている幸村に感謝しつつ、真田は「すまないがいつ終わるかは、俺にもわからない」と告げた。

「わからない?ひょっとして留守番でもしているのかい?誰かが帰って来るまで出られないとか、そういうことかな」
「いや、違う。ただ、その、客が来ていて……」
「珍しく歯切れの悪い回答だね。もしかしてその客は俺が知っている人なのかい?
テニス部の応援に来ていた女子の一人とか」
「いや、違う」
真田はきっぱりと否定した。
「よく知らない、しかも女子を家に上げたりはしない」
「そうだよねえ、真田に限って。でも、じゃあそのお客と今、何をしているんだい?」
真田は少し間を置いた後、「実は、夏休みの宿題を手伝っている」と言った。
「君が?赤也が泣きついてきた時自力でやらんかと叱った君が、宿題を手伝っているだって!?
相手は?赤也じゃないよね、今日は部活に行っているはずだ」
「も、もう良いではないか、幸村」
これ以上詮索してくれるな、と真田は懇願するが許してはもらえない。

「駄目だよ。通話を切ったら、相手が誰なのか気になって仕方なくなる。
プールでも考え事をしてうっかり溺れたとしても、真田はいいって言うの?」
「まさか、そんなはずが無いだろう」
「でしょ。だったら誰が来ているか、教えて」
無茶苦茶な言い分だ。
しかし真田はそれもそうかと思い、「わかった」と答えてしまう。
「あまり驚かないで欲しいのだが」
「うん、うん」
「青学の……越前リョーマが来ている」
「そうか、越前か。なんだ。って、越前?あのボウヤがなんで君の家に来ている訳あごいじょえいこぽじゃ」
最後の方は言葉にもなっておらず、よく聞き取れない。
「幸村?幸村?大丈夫か?」
必死で叫んでいると、幸村から別の声へと変わる。
「もしもし、弦一郎か」
「柳?何故お前が電話に出るんだ」
真田の問いに、柳は冷静に答える。
「幸村からプールに行こうと誘われてな。どうせ集合場所に向かうまでの間に幸村の家が途中にある。
だから迎えに来たのだが、幸村の母に家の中へと通されて部屋まで来たらこの有様だ。
上手く喋れないようだから、俺が代わった。それだけだ」
「幸村は?大丈夫なのか?」
「心配ない。プールに行けることが嬉しくてはしゃいでいるのだろう」
「そうか。いきなり叫んだからびっくりしたぞ」
「大会も終わって気が緩んだのだろう。そういうこともある。
ところで後日、何故越前と会っているのか俺も詳しく理由を知りたい所だな」
「わかった。改めて説明しよう」
「ああ。それじゃまたな、弦一郎」
プツッと
通話が切れる前に、また幸村が叫んでいるような気がした。
相当プールに行けることが楽しいのかと思って、真田は微笑んだ。
病気や部長としての責任から解放されて、童心に返っているのかもしれない。
今日は思い切り楽しんで来いよと、通話が切れた携帯を見詰めた。

部屋に戻ると「おかえりー」と声を掛けられる
「真田さんがいない間、ここまで解いてみたんだけど、どうしてもわからない所があって……。
見てもらえるっすか?」
「どれだ?」
ここ、とプリントを指差すリョーマのすぐ隣に腰掛ける。

今日はテニスではなく、リョーマの宿題を見る為に自宅へと招待した。
夏休みの宿題がまだ終わっていなくて困っている。
昨日、そうぼやいていたリョーマに、真田は良かったら手伝うかと申し出た。
ここ毎日、リョーマとコートで打ち合っていた。
その疲れの所為で宿題をする時間が無くなっていたとしたら……。
責任を取らなくてはならないと、使命に燃えた。
後輩がこんなことを言ったら、何故計画的に片付けないかと怒る所なのだが、
どうもこの少年に対しては甘くなってしまう。
勿論、手伝うと言っても代わりに解いてやる訳ではない。
詰まったら解説して、答えに導いてやるだけだ。

「真田さんって、教えるの上手っすよね」
1つの問題を解いてから、リョーマは嬉しそうに言った。
「うちの学校の先生よりも丁寧でわかりやすいっす。
いつも後輩にこうやって指導しているんすか?」
「いや、まさか」
指導という名の下の鉄拳制裁ならしているとは、とても言えない。
だから、らしくもなく真田は曖昧に誤魔化そうともごもごと口を動かす。
「せ、生徒が優秀だからだろ。答えに辿り着くのが早くて、教える側としては楽だ。それだけに過ぎぬ」
「……」
真田の言葉に一瞬リョーマはきょとんとして、それからニッと皮肉めいたものじゃなく、可愛らしい笑顔を向ける。
「でも、やっぱり真田さんのおかげっすよ。おかげでもうこんなに片付いた」
「そうか」

偏った教科だけ残された課題は、午前中の内に半分以上も終えることが出来た。
後少しの所まで、見えている。
一旦集中すると、後は早かった。
テニスと比較するのもどうかと覆うが、試合の中で速攻を決めてくる姿勢に似ている、と思った。

「真田さんは宿題はもう終わったんすか?」
不意にリョーマはきょろっと大きな目を動かして、そんな質問を口に出した。
「勿論だ。一週間で終わらせて、後は自身の勉強時間に当てている」
「やっぱり、そうだと思った。もし残っていたら英語位なら手伝えると思ったのに、終わってたんじゃしょうがないっすね」
「手伝う?お前がか?」
こくんと、リョーマは頷いた。

「だって俺ばっかり手伝ってもらうのって、なんか不公平じゃないっすか?」
「何を言うか。これは俺から申し出たことだ。別に気にすることではない」
無意識に真田は隣に座っているリョーマの頭部をくしゃっと撫でた。
懐いている猫に触れるような、そんな感覚で。

「……」

不思議そうにこちらを見ているリョーマと目が合って、ハッと気付く。
そうも親しくない相手に、何をしているのだろう。
他意があった訳ではない。
しかしいきなり頭を撫でるなんて、あまりにも配慮に欠けていた。

「すまないっ」
慌てて手を引っ込めて、真田は立ち上がった。
「お茶のお代わりを持って来よう。それまでに次の問題を解いておくがいい」
「はあ」

慌しく部屋から出て、キチンへと駆け込む。
そこでようやく一息をつく。

リョーマといると、なんだか調子が狂う。
テニスをしている時は意識することは無かったのだけれど、
コートから離れたリョーマは思ったよりも素直で戸惑ってしまう。
教えられるもんなら教えてみろと、そんな態度を想像していたのだが、
180℃も違うでは無いか。
手伝いを申し出た自分に感謝をしているから、素直に接してくれてるのかもしれないが、
正直あの笑顔は……反則だ。

いや、動揺している場合ではないと、真田は首を横に振った。
リョーマの宿題を見てやるのが今日の最優先事項だ。
つまらないことを考えるなと、雑念を振り払う。

「そうだ。お茶のお代わりだ。早く出そう」
独り言を言いながら、冷蔵庫から新しい麦茶を出そうとして扉を開ける。
「……」
麦茶のポットを取り出そうとした所で、手を止める。
リョーマがよく飲んでいるファンタのペットボトルが目に入ったからだ。

テニスをする際によく買っていたことを覚えていた。
スポーツマンがそんなものを、と渋い顔をする真田に、リョーマはあっけらかんと言った。
「どうせなら好きなものを飲みたいっす。やっぱり飲んでおけば良かったと後悔するよりずっといい」
全く妙な答えだった。
けれど常に自分に正直に生きているリョーマに、不思議とそれ以上体に良くないぞと、止める気は無くなっていた。

今日、彼が来るからとその為にファンタを買った。
真田にとって勿論初めての購入だ。
この味で良いか、期間限定のものにするか30分も悩んで、結局リョーマがいつも飲んでいるものを手に取った。

先程はわざわざ用意したことを知られるのは、何だか恥のような気がして出せなかったが、
家の者は誰も飲まないのだからこのまま置いても仕方無い。
それにファンタを出してやれば、……きっとリョーマは驚いた顔をした後、
喜びに満ちた笑顔を見せてくれるだろう。

彼の笑顔は何度だって見たいと思えるのは、どうしてだろう。

その疑問は答えを出さないまま、宿題にしておこうと頭の隅に追いやる。
用意したグラスに氷とファンタを注ぎ、トレイに乗せた。

深呼吸して、また自室へ。
宿題を頑張っている子へのご褒美だといい訳しつつ、シュワシュワ音を立てる飲み物を慎重に運んだ。


終わり


チフネ