チフネの日記
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2009年03月15日(日) スローモーション (最終話)跡リョ

無言で手招きする向日を見付け、跡部は迷うことなくダッシュでそちらに駆け込んだ。
振り切れ。
コートでボールを追い掛けるスピードと同様の速さで、空き教室に滑り込む。
しーっ、と向日が人差し指を立てるのを見て、跡部は零れそうになる呼吸を両手で押さえた。

すると教室の外からバタバタと何人かの足音が聞こえる。
「あれ?たしかこっちに来ていたのに」
「私も見た。でもいないー?」
「まだ外には出ていないはず」
「あっち探してみよう」
「うん、行こう」

声と共に足音も遠くなっていく。
ほっとして、口を開放した。

「うぜぇな、全く。卒業式だからって、羽目外し過ぎだろ」
ハーっと息を吐いて、向日を見た。
その上着にはボタンが一個も無い。
ここに来る間に全て奪われたか、と推測する。

「サンキュ。助かったぜ」
礼を言うと向日は「気にすんな」と笑った。
「この後、越前と待ち合わせしてるんだろ。それで引き千切られた制服なんて見せたくないよな。
何百人かの女子に狙われてると知ったら、さすがに引くよなあ」
「何百人も狙っている訳ないだろ。…多分」

教室から出た途端、大勢の女子生徒達に囲まれてさすがの跡部も逃げられないかもと、観念し掛けた。
ボタン下さいと、数週間前から何人も何人も申し込まれては、誰にもやるつもりは無いと断ったというのに。
諦めが悪いというか、ポジティブというか。
当日になれば気が変わるかもと思った女子生徒達が押し寄せた結果だった。
樺地を始めとする後輩達がその場に現れて逃がしてくれなかったら、あの場で身包み剥がされていたに違いない。
難を逃れて廊下から階段を駆け下りようとしたその時、第二弾の津波がやって来た。
そして校内を舞台にした鬼ごっこの始まりだ。

もう越前との待ち合わせ時間なのに、と時計を見て顔を顰める。

「こっからどういうルートで行くかだよな……。2階だしさ。この樹を伝って下りられないか?」
窓をの外を見て、向日が指差す。
なるほど。
すぐ側には大きな樹木が立っていて、それを使えば降りられないこともなさそうだ。

が。
「靴はどうするんだよ」
下駄箱付近にも、追っ手は回っているはず。のこのこ行けば、捕獲されるのは目に見えている。
「そんなもの、諦めろよ」
向日が肩を竦めて言う。
「越前と靴、どっちが大事なんだ?」
「決まっているだろ。考えるまでもない」
即答する。
越前より大切なものなんて、あるはずなかった。
靴の代わりはいくらでもあるけど、あいつだけは……。

「なら、決まりだな。急がないとここも見付かるかもしれねえし」
向日が窓をそっと開ける。
卒業式にこんな所から退場なんてありかよと思うが、仕方無い。
鞄を肩に掛け、覚悟を決めた。
「お前ら、上手く行っているようだけどさ。あんまり越前に無茶なことすんなよ」
先に窓から外へ手を伸ばしながら、向日がそんなこと言う。
どうやら一緒にここから降りてくれるらしい。しかも誘導までしてくれるみたいだ。
付き合いの良いやつ、と今更感心してしまう。

「無茶って、なんだ。おい」
越前にそんなことしてないよな、と思いつつ聞き返すと、
向日は溜息混じりに口を開く。
「だから、あっちは成長過程なんだからよ。わかるだろ。
部活に支障を来たすことはあんまりするなってことだ」
「はあ?」
「とぼけんな。お前の今までの行動を考えたら、すぐにわかることだろ。
いちいち言わせんな」
喋りながら向日は大きな枝を掴み、樹へと移ろうとしている。
二階だけど落ちたら危ないよなと心配しつつ、向日の質問に答える為口を開いた。
「言っておくけど、まだ手は出しちゃいないからな」
「はあ?……あ!?おい、今、何て言った」
「越前とはまだ何もしていないって、言ったんだよ。おい、余所見していると危ないぞ」
こっちを向いた向日はぽかんと口を開けている。
「マジかよ。意外過ぎて、驚いた」
「ほっとけ」

意外で悪かったな、と跡部はぷいと横を向いた。
けど大切だからこそ手を出せないって、今まで生きて来てようやく知ったんだ。
好き過ぎてどう触れたら良いか、逆にわからない。
それに折角リョーマとの仲も順調に進んでいるのだ。
ここで失敗はしたくない。
テニス以外でも外出することも増えて、用も無いのに会うことだってある。
やっと望んだ恋人らしい付き合いが始まったところだ。

(そりゃ、越前も望んでいるのかもしれない。そうに決まっている!
俺だって同じ気持ちだからな。けど、ここは慎重にタイミングを見極めなければならない)

そう考えて、もう少しと、モタモタしている内に日々が過ぎて行った。
気付けばまだ、リョーマにキスすらしていない。

「へえ。跡部が何もしていないなんてなあ」
あり得ないと言うように、向日が笑う。
「笑うな」
「お前が二の足踏んでいるのなら、越前にOKかどうか俺が聞いてやろうか」
「何言ってる?おい、向日!」
「先、行ってるぜー」

ひょいっと樹に移り、向日は軽々と腕を足を使って下へと降りていく。
機敏な身のこなしに感心している場合じゃない。
こうしちゃいられないと、跡部も後へと続いて窓から外に出る。

「待て、こら」
「お先に」
上履きのままで、向日は校門方面へと駈けて行く。
リョーマと合流するつもりだ。
まずい、と慣れないながらも跡部も一生懸命に樹を伝って地上へと着地した。

「くそっ。向日の野郎……」
制服の汚れを払って、跡部は向日の後を追うべく足を踏み出そうとした。
その瞬間、
「こっちの靴使うた方がええとちゃいます?」と、にゅっと見覚えのある靴を差し出される。
「忍足!?」
「気が利くやろ」
片手で持っていた靴を、忍足は「どうぞ」と地面に置いてくれた。
「ああ。助かった」
素直に礼を言いながら、履き替える。それまで履いていた上履きは鞄へ突っ込んだ。
「岳人が上の階で待機してるメール貰ってからな、こうなるって予想してこっちも用意してたんや。
先に靴を押さえとけば、身動きもとり易いやろ」
「ああ。お前の言う通りだ」
忍足の言うことに頷く日が来るとは。参ったな、と頭を掻く。

「ところでお前は無事だったのかよ」

ボタンが全滅だった向日に比べて、忍足はきっちりと全部揃っている。
こいつも何人かの女子生徒のファンがいたはず。(ただしフィギュアのことを知った途端、逃げ出すが)
奇特なやつが欲しがるかと思ったのに、一個も取られてないとは不思議だ。
疑問を口に出すと、忍足は「愚問やな」と笑う。
「俺には108人の天使達が家で待っているんや!だから誰にも渡せへん。
あの子達が悲しむからなあ。
そう言うたら、全員素直に引き下がったで」
「へえ……」
何か力が抜けてしまう。
「100体以上揃えていたのかよ」
「俺の天使達は108人いるんやで」
「もう、いい」
聞くんじゃなかったと、首を振る。

「靴を持って来てくれたことには感謝する。じゃあな、忍足」
「おー、越前にもよろしくな」
「ああ」

今度は外へと目掛けて走る。ひたすら、他にも目をくれずに。
「跡部様だ!」
そんな声も振り切って、ただ走る。
校門前だとこんな連中が集まっているからと予想して、少し離れた公園で待ち合わせをしている。
当然、向日もそれを読んでいるに違いない。
変なことを吹き込むなよと祈りつつ、急ぐ。

(いた!)

公園の隅に置かれたブランコに、リョーマと向日の姿を見付ける。
ここからだと彼らの背中しか見えない。だからまだ跡部が到着したことは、気付いていないようだ。

(……一応、確認してみるか)

二人が何の話をしているか聞く為に、跡部はそろりそろりと背後から近寄って行った。


「でも、跡部にそんなこと言ったら大変だぞ。言わない方がいいんじゃないのか?」
向日が何か助言している。
言わない方がいいとは、なんだ、と跡部は眉を寄せた。
彼氏でもないお前にどうこう言われたくないと、叫びそうになる。
が、ちょっと様子を伺おうともう少し我慢する。

リョーマはというと、待っている間にそこに設置された自販機で買ったらしいファンタを飲みながら答える。
「うーん、でも俺としては構わないんだけど」
「マジでいいのか」
「まあね。結局、あの人が俺を好きなら問題無いみたい。
多分、今押し倒されてもそれなりの覚悟は出来ているのかもしれない」

その言葉が跡部の限界を振り切る。
「越前ー!本当か!?」
声を上げると、二人の肩がびくっと大きく揺れるのが見えた。
「跡部、声でけえ!」
「何だ。聞いていたんすか」
こんな時にも澄ました表情で言えるリョーマの度胸は大したものだと思う。

「俺はいつでも準備OKだ。越前」
「おいっ。昼間の公園で堂々と言うことじゃねえぞ」
向日が焦ったような声を出す。
見ると靴はちゃんと履き替えている。きっと忍足から同じ様に受け取っていたのだろう。
「良いだろ、別に。越前の本心が聞けたんだ。周りなんてどうでもいい」
「あっそ。恥ずかしいから、俺はもう行くぜ」
立ち上がって、向日はブランコから離れた。

「じゃあな、越前。あんまり早まるなよ」
「わかったっす」
こくんと頷くリョーマに、跡部は声を上げる。
「わかったって何だよ。考える必要なんて無いだろ」
「声でかいよ、跡部さん。公園はみんなのもの。ちょっと静かにしてよ」
「……はい」

結局、言うなりになってしまう。
リョーマにはどうしても弱い。

公園を出て行く向日がちらりと振り返り、「まるで犬とご主人様だな」と呟いたが、
それは跡部の耳には届かなかった。

肩を落としつつ、さっきまで向日が座っていたブランコに腰掛ける。
そして今度はもう少し、静かな声で問い掛けてみることにした。
「なあ。さっき向日に言ったのは、本心なのか」
「……」
リョーマは黙ったまま、またファンタを飲んでいる。

焦らしプレイには慣れっこなので、跡部は答えを黙って待った。

(本心だよな?冗談でもあんなこと言える訳ない。どうなんだ、越前。
俺はいつでもOKだ。お前もそうだと素直に言えよ……)

そして沈黙を破るかのように、リョーマがファンタの缶を軽く握り締める。
軽い音を立てて、缶は潰れた。

「本当、っすよ」
「越前」

顔を上げる。
リョーマの横顔は少し赤く。こちらを向こうともしない。
珍しいことに、照れているらしい。

それでも、答えを言う為にまた口を開く。
「あんたのこと好きだからその気持ちがあれば先に進んでいける。
その位の覚悟だって出来たよ」
「そっか……。やっぱり俺達は通じているようだな。勿論知っていたぜ。
俺も越前のことが大好きだ」
「真顔で言われると、恥ずかしいんだけど」

リョーマはますます顔を背けてしまった。

やばい、しくじったかと跡部は奥歯を噛んだ。
折角良い方へ向おうとしているのに、この後もどうしたら良いかわからない。
家に行くことは決まっているのだが、ここで「帰ろうぜ」なんて言ったら下心見え過ぎて気まずい。
じゃあ、他へ行くか、と言うのも不自然だ。

(参ったな)

跡部が頭を抱えていると、すっとリョーマが立ち上がった。
そしてスタスタと前へろ歩き、数メートル先で止まる。
そのまた先には自販機があって、空き缶入れが置いてある。

どうするんだろうと見守っていると、
すっと左手を振りかぶって、持っていたファンタの缶を投げる。

その一連の動作が、まるでスローモーションのように跡部には映った。

時の流れがこの周囲だけ、違っているような。

弧を描き、コマ送りで空き缶は見事にダイブした。

たったそれだけで、拍手を送りたくなる気持ちが湧き上がる。何故だかはわからないけれど。


「今日、跡部さんの家に泊まってもいいっすか」

リョーマが振り返る。
直後の第一声に、跡部はしばし硬直してしまう。

くすっと笑われて、ようやく我に返った。

「も、勿論、いいぜ。当然だ」
どもってしまったことに、また笑われる。

「それじゃ、決定。何も用意とか持って来てないから、貸してくれる?」
「ああ」
「俺の家にも跡部さんから連絡しといてよね」
「え」
「ちゃんと親父の許可も取ってよ。後でうるさいから。よろしく」
「ええ!?」

サムライ南次郎相手に説得しろというのか。
ちらりと横目でリョーマの様子を伺うと、笑いを堪えながらこっちを見てる。
絶対、面白がっている。
しかし他に選択肢は無さそうだ。
次にリョーマが泊まりたいと言う日がいつになるかはわからない。
いずれは立ちはだかる壁(南次郎)だ。今立ち向かっても同じこと。

(俺は愛の為に戦う!そして負けない!)

拳を握り締める跡部に、クールな声が響く。

「何やってんの。早く行こうよ」

そして先を歩く小さな背中を、慌てて追い掛ける。

(素っ気無いのは相変わらずだが、まあ、いい。
こいつが俺に惚れているのは、とっくにわかっているからな)

照れ隠しも可愛いものだと、満足げに頷く。

きっとこの先も振り回されたり、焦らされたり、苛々することもあるだろうけど。
離れることなんて、考えられない。

何故ならこの先も、こいつさえ隣にいてくれれば何も怖くない。
誰の失望にも怯えることなく、胸張って生きて行ける。



リョーマの隣に並んで、跡部はさり気なく小さな手に触れた。
一瞬、リョーマは顔を上げたが、何も言わない。
指を絡めても、されるままになっているのは……いいよってことだともわかっている。
嬉しくて、跡部は少しだけ指に力を込めた。



これから過ごす時間に期待も膨らむけれど、今の心地良さも離したくない。

だから、家までの道のりをゆっくりゆっくり二人で歩いて行った。



終わり


2009年03月14日(土) 世界の枝葉 12 跡リョ スローモーションシリーズ

こちらに戻って来たから、日常に特に変化は無く過ぎていく。
勿論、またどこかに飛ばされる事態に遭遇することもない。

結局、あの世界はなんだったんだろうと、今も考える。
跡部と置いて逃亡したのが夕刻で、家に帰ったのは夜だった。

もしかしてずっとぼんやりと歩いている最中に見た幻覚だったのかもしれない。
不安な気持ちがあの跡部と接点の無い別世界を生み出して、
どっぷり浸かってしまっていたとか。
そう結論を出し掛けた時、リョーマはあることを思い出して携帯を開いた。

(あった……)

もう一人の跡部へ掛けた、発信履歴。
これが無かったら、夢だったと思い込んでいたところだ。
勿論このナンバーに掛けても、誰かに繋がることはない。
こちらとあちらの世界は平行したまま、決して交わることないのだから。

(でもやっぱり俺はあの時別世界に行って、もう一人の跡部さんと会っていたんだ)

あちらの彼は留学してしまったが、きっとどこに行っても頑張っているに違いない。
そして、またいつか。
もう一人の越前リョーマに会いに来るはずだ。
最初は手強いかもしれないが、きっと大丈夫。
熱心に会いに来る跡部に迷惑な顔をしながらも、いつの間にかペースに乗せられていて、
気付いたら好きになってしまう。
自分もそうだったから、結末は簡単に予想出来る。

通る道は違うけれど、同じ幸せな未来に辿り着けばいい。
そう願って、今日もリョーマはそのナンバーを眺めて思いを馳せていた。

「何やっているんだ、越前」
「あ、跡部さん」
いつの間にか待ち合わせ場所に来ていた跡部に気付いて、リョーマは携帯を閉じた。

「誰に掛けようとしてたんだ。おい」
「時間を確認してただけっすよ。ちょっと待ち合わせ時間よりも早く着いたから」
「まあ、珍しく早いよな。俺の方が先に着いたと思っていたのによ」
現在、予定時刻の10分前だ。
リョーマは「たまにはね」と笑った。

「今日はオペラを見に行くって言うから、退屈で寝ないようにと8時にベッドに入ったら、
すごく早くに目が覚めたっす」
「8時って、おい。早過ぎだろ」
「その位しないと、本当に寝るかもしれないんで。
折角誘ってもらったのに、それじゃ悪いっすよ」

オペラを見に行かないかと誘ったのは、勿論跡部の方だ。

ここの所、テニス以外でも二人で外出することが多くなった。
いわゆるデートって、やつだ。
とはいえ、気構えすることなく二人でいるのが楽しいから一緒にいる。至ってシンプルな理由だ。
外出することによって、お互いのことを知る機会も増えた。
こういう日々もいいなと、リョーマは跡部との外出を楽しんでいる。

「無理するなよ。眠たくなったら、いつでも俺の肩に凭れていいからな」
胸を張る跡部に、リョーマは笑って答えた。
「考えておく」
「じゃあ、行くか」
「うん」

会場へ向う為、歩き始める。
二人きりの時間を大事にしたいからと、相変わらず跡部は車を使うことをしない。
リョーマもその方がいいと思っているから、跡部の好きなようにさせている。

「そいえば、卒業式は来週だっけ。代表の言葉とか、もう準備終わった?」
「当然だろ。俺にぬかりは無い。それより式の後に会う約束、忘れんなよ」
「覚えているけど。氷帝の人達と過ごさなくていいんすか?」
「どうせ高等部でも一緒の連中だ。どうせならお前と静かに卒業祝いしたい」
「ふーん。じゃ、一緒にお祝いしようか」
「ああ」


同じ歩幅で歩きながら、他愛の無い会話を続けていく。
穏やかな跡部の横顔を見て、リョーマは無意識に微笑んだ。


今日も幸せだな、と。


2009年03月13日(金) 世界の枝葉 11 跡リョ スローモーションシリーズ

跡部の体がぴくっと動く。
ちゃんと聞いてくれているらしい。
よし、とリョーマは再び口を開いた。

「さっきは逃げ出したりして、酷いことを言ったりしてごめん。
あんたが急に留学するなんて言うから、ムカついたんだ。
どうして黙っていたんだって怒ったのと、置いていかれるんだって悲しくなった。
その両方の気持ちから、あんなことを言った。
ムシの良い話だけど、もう一度話し合いたい。このままで終わるなんてヤダ。
だから顔、出してくれないっすか?」
「……」

跡部になんて言われるんだろう。
緊張しながらリョーマは待った。
一時の感情に任せて暴言を吐いたのは事実だ。
許さない、もう出て行ってくれと言われたらその通りにする覚悟は出来ている。

しばらく沈黙が続いた後、跡部は「嘘だ」と震えた声を出した。
「俺が知っている越前はこんなことで謝ったりするはずない。夢じゃなきゃ偽者だろ。
俺を騙そうたってそうはいかないからな」
「……ちょっと。散々待たせておいて、その回答?」
拍子抜けするような言葉に、リョーマは脱力しそうになる。
折角ここまで来たというのに、そう返してきたか。
シーツの中にいる跡部は「偽者だ……」と呟き、頑なに信じてくれそうにない。
だから、もう一度呼びかけてみた。

「夢でも偽者でもないっすよ。そこから出て来て、あんた自身の目で確かめてみてよ」
「そうやって惑わそうとしているのか。越前そっくりの声まで出して何が目的だ」
「ふーん。じゃあ、そうやって中に閉じ篭っていれば。このまま俺とさよならしてもいいって言うんだ」
「そんな訳ないだろう!」
簡単な挑発に乗って、跡部はシーツを投げ捨てるように出て来た。

頼りない月明かりの下、やっとリョーマは会いたかった跡部の顔を見ることが出来た。
そう思ったらたまらなくなって、今度は正面から抱きついた。
「跡部さん!」
避けることなくリョーマを受け止めた跡部だったが、明らかに戸惑っている。
「やっぱり俺の知っている越前と違う。
つれなくて、焦らしプレイが上手くていつもお預け状態にするのが本物なんだ。
俺はとうとう目までおかしくなったらしい」
「何言ってんの!?」
思わず大声を出してしまった。

そんな事……やっている自覚はあったが、今ここで言うべきことじゃない。
気を取り直すように、リョーマはそっと口を開いた。
「ここにいるのは本物の越前リョーマっすよ。
それとも俺の言うことが信じられないんすか?」
上目遣いでじっと見詰めると、跡部はハッとした表情に変わる。
「いや、疑っている訳じゃねえよ。けどちょっと様子が違ったから」
「じゃあ、信じてくれるんすか?」
「…ああ」
丸め込む形で、跡部に認めさせることに成功する。
なんとも世話が掛かる人だ。
そうさせたのは自分かもしれないが……。

「じゃあ、越前。さっきの謝罪もお前の本心なのか?」
「当たり前っすよ」
跡部の目を見てはっきりと言う。
「あんなこと言ったけど、本当はあんたが離れて行くと思ったら冷静になれなくて……ごめんなさい」
「越前!」
今度は跡部からぎゅっと抱きしめられる。

「良かった。二度と顔を見たくないといわれて、もう会えないかと思った。
これからはもうあんなこと冗談でも言うなよ。心臓が止まるかと思った」
「うん。言わない。絶対に」
約束を口にしながら、リョーマも跡部の胸にしがみ付いた。
ああ、良かったと。安堵が心を満たしていく。

「それから、さっきのアレも本心だよな?」
「アレって?」
「ほら、俺に置いて行かれると寂しいって言ってたやつ」
「……」

期待に満ちた目で覗き込まれて、さすがに恥ずかしくなってしまう。
今まではぐらかすことが多かった所為で、改まって聞かれると照れる。
でもこんな時くらい、素直になれなくてどうする。
後悔しないように行動するべきだと、あの世界に行って学んだはずだ。
リョーマは顔を上げて、「それも本心っすよ」と答えた。

「跡部さんがいなくなったら寂しいっすよ。だって」
好きだから、と続けるつもりだった。
この際、今まで拘っていたことなんてどうでも良くなっている。
今ある気持ちを伝えたかった。
それなのに。

「越前!俺も同じだ。やはり俺達の気持ちは繋がっていた。
運命で結ばれているのはわかっていたけどな」
「ちょっと、苦し……」
更に腕に力を込めて来る跡部に、リョーマは声を詰まらせた。
人の話を聞いているようで、聞いていない。
いいから告白させてと、酸素不足に朦朧としていく中、
跡部が嬉しそうに声を上げる。

「好きだ、越前。もう何度思ったかわからないが、これまでの中で今日ほど愛しく思った日は無い。
これからも一緒にいような」
「……」
「どうした、越前。嬉しさのあまり声も出ないのか」

きょとんとした顔で覗き込む跡部に、リョーマは息が苦しいとゼスチャーで伝える。
すると慌てて力を緩めてくれた。
「大丈夫か!」
「なんとか……」
危なかった。あのままだったら、本当に別世界に旅立つところだったかもしれない。

「悪ぃ。手加減出来なかった。つい、嬉しくて」
「それは、いいんだけど」
大きく息を吸い込んだ後、リョーマは跡部をじろっと睨んだ。

「何で今頃になって好きだなんて言うんすか?
今、俺が言おうと思ったその瞬間に!狙ってたんすか?」
「今頃?おい、どういうことだ」
跡部は首を傾げる。
「何言っているんだ。とっくに俺の思いは伝えていただろうが」
「言って無いっすよ。今日まで一度も」
途端に顔色が変わる。
「嘘だろ?この俺が告白を忘れていたなんて、有り得ねえ!なあ、嘘だと言えよ。越前!」
「嘘じゃないす」
「けど!この燃え滾る思いは伝わっていただろ。な?」
「エスパーじゃないんだから、言わなきゃわからないっすよ」
跡部はがっくりと肩を落とした。
「じゃあ、俺は今まで何をやっていたんだ」

落ち込む跡部に、リョーマは苦笑してしまう。
どうやら本気で告白していたつもりだったらしい。
だから好きだと言って来なかったのか、と納得する。
なんだか意地を張っていた自分が、馬鹿みたいだ。

「もういいっすよ。両思いなんだから、何の問題も無いじゃん」
「いや。俺としたことが、大失態だ。今からでも演出しなおして、盛大な告白を」
「だから、いいって。ちゃんと跡部さんの気持ちは聞いたから」
「いや、そういう訳には……って、両思い?」
「そう。両思い」
ぽかんとしている跡部の顔が可笑しくて、リョーマはつい吹き出しそうになるのを必死で堪えた。

そして、「俺も跡部さんのことが、好きだよ」と、さっき言えなかった思いを口に出した。
「本当、か?」
「こんなことで嘘行ってどうすんの。本当の本当っす」
「越前!」
また抱き付かれる。今度はちょっと手加減して。
よしよし、とリョーマはその背中を優しく撫でた。
やっと会話が通じた。
ここまで長かった気がする。

「ねえ。跡部さん。今はこうして一緒にいられるけど。
後少しで、俺達は離れなきゃならないんだよね」
跡部と心が通じたことは嬉しい。
しかしまだ留学の問題が残っている。
すると跡部は少し体を離して、「俺はそんなつもりは無いからな」と言った。
「でも行かなきゃならないんでしょ?その位俺にもわかっているっすよ」
「おい、俺の話をちゃんと聞け」
そう言って、普段人の話を聞かない跡部に、指で額を押さえられる。

「留学の話が出てるとは言った。けど、行くとは一言も言っていないだろうが」
瞬きするリョーマに、跡部は説明を続ける。
「きっぱりと断った。今日まで散々揉めていたけどな。
親にも教師にも、高等部に進学することを認めさせた。
やっと問題が片付いたからお前に話す決心が出来たのに、
いざ口を開いたら、いきなりキレて逃亡するからさすがに傷付いたぜ」
「え……じゃあ」
跡部を見詰めると、期待通りの言葉が返ってくる。

「俺はどこにも行かねえよ。お前の側にいる。そう決めていたからな」
晴れ晴れとした顔で言う跡部に、迷いも翳りも見えない。
「跡部さん」
リョーマも一瞬、喜んだ。
が、すぐに表情を曇らせた。

本当にそれで良いのだろうか。
彼の将来を見通して考えたら、後々後悔することになるかもしれない。
思い切って、その質問をぶつけてみることにした。
今ここでちゃんと話をして、しこりを残さない為だ。

「ねえ、跡部さん。留学しろって言ったのはあんたの両親なんでしょ?
すごく大事な話だと思うけど、こんなことで決めちゃっていいんすか?」
「あん?何言ってやがる」
「だってあんたはものすごく期待を掛けられていて、
なのに俺といることを選んで残ったりしたら……。後で取り返しがつかなくなるんじゃ」
「バーカ。俺は後悔なんてしてねえよ」
今度はもっと強く額を押される。

「俺の親は期待している訳じゃねえよ。ただ家に相応しい跡取りが欲しいだけだ。
そんなもの留学しなくたって、俺はここでも十分やっていける。
あいつらが反論出来ない位の人間に成長してみせる。
その位の努力、苦労の内に入らねえ。お前さえ側にいてくれるならな」
「……」
「なんて顔してやがる。俺の存在が重く感じたのか?」
言われてリョーマは首を横に振った。
「違う。そうじゃない。
でも…俺はそこまであんたに思ってもらえるほどなのかなって、考えただけ」

大事な将来を変えてしまうような。
テニスがちょっと出来るくらいで、そんな大した人間ではないとわかっている。
なのに、こんな決断していいの?

目で問い掛けると、跡部がふっと笑うのが見える。

「お前、言っていたよな。
失望した奴には勝手にさせておけばいい。
そうじゃない人だっているはずって。
正直、その言葉に救われた。今までの価値観が変わる位に。
そしてそんな事を言ってくれたお前を放したら駄目だと、俺の直感が告げていた。
案の定、知れば知るほど嵌っていったけどな。
こんなに俺を夢中にさせたんだから、責任とって貰うぜ。越前」

偉そうに言う跡部に、いつも通りだなあ、と思いつつリョーマは頷いた。

「いいよ。わかった。あんたがいいって言うまで、責任取って側にいるよ」
「じゃあ、一生だな。今言ったこと、忘れるなよ」
「一生……」

先のことはどうなるかわからない。
また様々な選択肢から、二人の未来も同じではなくなっているかもしれない。
でも、そんな未来のことを考えるよりも。

ここにある「今」を大事にしようと、リョーマはもう一度跡部にくっ付いた。

「いいよ。俺も同じ気持ちだから」

跡部の腕が背中に回される気配に、戻って来られて良かったと心の底から思った。


2009年03月12日(木) 世界の枝葉 10 跡リョ スローモーションシリーズ

翌日の部活が終わる忍足路、リョーマはフェンスの向こうから忍足と向日が歩いて来るのを見つけた。

「今日はどうしたんすか」
「ご挨拶やな、自分。様子見や、様子見」
忍足が手を上げて答える。
「それに一応、跡部のことを知らせてくれたお礼と報告にな」と、向日。
「わかりました。後ちょっとで終わるんで、待っててもらえるっすか」
「いいぜ」
「校門の所で待っとるからなー」

来客者達に、青学コート内は一瞬騒然とするものの、すぐに元の状態に戻る。
しかし海堂は大股で歩いて、リョーマの前に立った。

「越前、コート内で私語は厳禁だぞ。グラウンド10周して来い」
「えっ、でも今のは俺の所為じゃ」
「20周にされたいのか?」
「……ちぇっ」

海堂の指示に、リョーマは走ってグラウンドへ向かった。
急いで走ればぎりぎり終了時間に間に合う。
出来るだけあの二人を待たせておかない為にも、いつも以上のスピードで走り続ける。

「何か、えらい疲れとるな。越前、大丈夫か?」
「誰の所為だと……」
片付けが終わったと同時に、ダッシュでここまで掛けつけたのだ。
息が上がるのも無理ない。

「悪かったな。でもお前のこと確実に捉まえておきたかったんだ。
それなら青学に来るしかないだろ?」
「……まあ」

向日に言われて、リョーマはそれ以上文句を言うのを止めた。
どうも彼の言葉に弱い。まともな人が言っているから聞こうという気になるのかもしれない。

「越前にはちゃんと会ってから礼を言っておきたかったんや。
知らんまま跡部が出発するところやったからなあ」
やれやれと、忍足は肩を竦めてみせる。
「じゃあ、跡部さんとは昨日会えたんすか」
変に騒がなかったかどうか確認する為に尋ねると、
向日が「ああ」と頷く。
「10時出発っていうヒントしかなかったから、8時前に集合して張っていたんだ。
のこのこと現れやがったぜ」
「それは……良かった」
「俺も選別としてヒーローDVD全20巻無事渡せたしな。良かった、良かった」
良くないと思ったが、忍足へのツッコミはスルーすることにした。
きっと跡部は苦笑いしてただろう。

「侑士はともかく、俺らは普通に別れの挨拶したからな。
やられたって顔してたけど、跡部はお前に対して怒っているようじゃなかったぜ。まあ、当然かもな」
「ふーん」
その時の状況が目に浮かぶようだ。

(皆、あんたがいなくなるのを寂しがっているんだって、わかってやってよ)
小さく呟く。
向日達がちゃんと見送りすることが出来て、良かったと思う。

「なーんだよ。跡部の為に動いてくれたっていうのに、素っ気無いなあ」
向日に軽く腕を払われる。
「素っ気無いもなにも、いつも俺はこんな感じっす。それに知らせておくべきことだと思ったから、動いただけっすよ。跡部さんの為だけじゃない」
「ああ、もう、ややこやしいことは言わんでええ。今回の越前の行いは、十分正義に値することやから、是非俺の仲間に」
「それより立ち話もなんだから、どっか寄らないか?もうちょっとお前と喋ってみたいと思ってさ」
忍足の言葉を慌てて遮るように、向日が割って入ってくる。
リョーマは首を傾げた。
「跡部さんも行ったことだし……もう、話をすることも無いっすけど」
「だぁー!そう寂しいこと言うなよ。一応、テニスを通じて知り合っているんだから、ちょっと遊ぶ位いいだろ」
「……はあ」
「あかんで、岳人。そないな言い方では、越前も乗る訳ないやろ」

ちっちっと、人差し指を振って忍足がリョーマに目を向ける。

「跡部不在でぽっかり空いた心の穴を、俺らが埋めたる!この位は言わんと」
「逆に引いてるじゃねえか」
向日がリョーマの顔を見て言う。
忍足はあれ?と眼鏡を掛け直す。
「あのー、どういうことっすか」
心の穴って何だと眉を顰める。
少なくともここにいる跡部のことは気持ちよく送り出したつもりだった。
何でそんな風に思われるんだろう、とリョーマは額で片手を押さえる。

「いや、侑士が絶対跡部がいなくなって寂しがっているって言うからよー。
礼を兼ねてお前を励ましに来たってことだ」
「酷いわ岳っ君。全部俺だけの所為か?」
「お前が絶対って言うからだろ!」
「そうやけど……なあ、越前。ほんまは跡部に会いたいやろ?寂しいやろ?なあ?」

畳み掛けられるように言われて、リョーマは苦笑した。
この世界の跡部がいなくなって寂しいとは思わない。
頑張ってと、祈ってはいるけど。
どちらかと言うと、そういう感情を抱くのは元の世界にいた跡部に対してだけだ。

「会いたい」

不意に言葉が零れる。無意識に。
いつも側にいた跡部に会いたかった。話したいこともいっぱいある。
会って顔を見て、声が聞きたかった。

そう思った瞬間、風が凪いだ。
春に近付いてくるのを予感させるような、一筋の風がリョーマと二人の間を通り抜けていった。

「ほれみい。俺の言うた通りやん」
リョーマの言葉に忍足は勝ち誇ったように胸を張る。
どうやらここの跡部に対して言ったと誤解させてしまったみたいだ。
説明する気も起こらず、リョーマはそのままにしておくことにした。
自分がこの世界の住人ではないことは、跡部以外に話すつもりは無かった。

「よっしゃ、越前。今日はとことん付き合うたるからな。正義の味方として寂しい子を放っておかれへん。
まず初めにDVD鑑賞会といくか。それを見ればきっと越前も一員に」
「違ぇーだろ!」
向日のチョップが忍足の後頭部へ見事に決まる。

「越前はどこに行きたいか?何か食って、遊んで気を紛らわせようぜ」
「えーっと」
そんな気を使う必要は無いのだけれど。
折角二人が誘ってくれているのだから、乗ることにした。
たしかに一人でいるよりも誰かといた方が、いつ帰ることが出来るのかという不安も紛れる。

向日と忍足に挟まれて、リョーマは一緒に歩き始めた。


「結局、遅くなっちゃったな……」
最初は腹ごしらえにとファーストフードに入って、その後はストリートテニス場に行き、
そこにいた人達に混じってテニスしていたら、最後には特訓のようになっていた。
「ダブルス……本当に向いていないよな」と、向日が気の毒そうに言うからついムキになってしまった。
その後、ファンタを飲みつつ雑談して、今日はお開きとなった。
さすが氷帝の元レギュラーだけあって、彼らとのテニスは楽しい。
元の世界では跡部に気兼ねしているのか、向日達と打つ機会はほとんど無かった為今日の試合が新鮮に感じられた。

(今度は、俺の方から誘ってみようかな)

そんなことを考えながら、家へと歩く。
すっかり日が暮れている所為で街灯の無いところは月明かりだけが頼りだ。
その月もうっすらとした雲が時々掛かって、周囲がはっきり見えない時もある。
誰かと擦れ違っても気付かないほどだ。
しかし家の近くまで来ても、一向に誰かと擦れ違う気配は無く、
だたリョーマの靴音だけが響いている。

この時間帯は、こんなに静かだっただろうか。
それぞれの家に光が灯っているので、誰かはいると思うがそれにしても音が全く聞こえないのは気味が悪い。
変だな、とリョーマは身震いした。
まるでゴーストタウンに迷い込んだような奇妙な感覚だ。
(馬鹿らしい)
家に早く帰ってしまおうと、急ぐ。

後、数メートルという所で自宅を見てほっとする。
まさかこの中は空だったりしてと、恐る恐る玄関から中へと入った。

「ただいまー」
「おかえりなさい、リョーマさん」
いつも通り笑顔で迎えてくれる菜々子に、リョーマは体から力を抜いた。
心配することは無さそうだ。

「すぐにご飯にしますからね。リョーマさん、手を洗ってきてください」
しかしそこで初めて、違和感に気付く。
「あのさ、菜々子さん」
「はい」
「今日ってカレーなの?」
こちらに来てからは、洋食が出ることはほぼ無かった。
朝もお弁当も夕食も和食メインできていたのに、とうとうレパートリーが尽きたのだろうか。
リョーマの問いに、菜々子は困ったように笑った。
「すみません。昨日の分が残ってたので、今日のうちに片付けてしまおうと思いまして」
「昨日って、……カレーだったっけ」
「え?ええ。忘れてしまいましたか?」

呆然とリョーマは立ち尽くしていた。
この世界に来る前の前の晩に食べたメニューを思い出す。
たしかそう、カレーだった。

「リョーマさん?」
「あの、俺、今ちょっと混乱してて」
「何だ、青少年。菜々子ちゃんの作るご飯に文句でもあるのか?」
南次郎がにやにやとしながらリビングに現れる。手には四つ折にした新聞を持っている。
「親父!それ今日の新聞だよね!?」
「はあ?それがどうした」
「貸して!」
勢いに飲み込まれて、南次郎は思わず素直に渡してしまう。
引っ手繰るようにして、リョーマは新聞を手に取りそこにある日付を確認した。
「……やっぱり」
そして南次郎へ新聞を押し戻す。
「お、おい。リョーマ、一体どうなって」
「菜々子さん」
リョーマはくるっと菜々子へと振り返った。

「ごめん。俺、ご飯いらない。親父に全部食べさせてやって」
「え?え?」
「出掛けて来る。少し遅くなるかもしれないけど、心配しないで」
「リョーマさん!?」
「おい、リョーマ。どういうことだ」
菜々子と南次郎の声が聞こえたが、リョーマは構わず家を飛び出した。

新聞に書かれていた日付は、跡部と別れた時のものだった。
元の世界に帰って来られたのかもしれない。
しかも時間を再び巻き戻して。

もしこの推測が当っているのなら、まだやり直せるかもしれない。
酷いことを言って置き去りにした彼に、ちゃんと謝罪することが出来るかも…!

そう思ったらじっとなんてしていられない。
直ぐに電車に飛び乗って、リョーマは跡部の家へと向かった。
電話をすれば迎えに来るか、会いに来てくれるかもしれない。
でも今回は自分の足で行くことに意味がある。
待っているのではなく、自分から行動を起こしたかった。


「これは、越前様」
跡部の家に到着して訪問を告げると、出て来た使用人は中へ入るようにと促した。
何度も跡部家に来ている内に、リョーマも顔を覚えた人だ。
向こうも跡部の大切な客だと知っていて、扱いもそのように接してくれてる。
顔と名前を覚えているということは、やはり戻って来られたのかもしれない。

「あの、俺…約束はしてないんだけど、跡部さんに会いたくて」
しどろもどろで説明すると、「わかっていますよ」と進むよう案内される。
長い廊下と階段を歩く中、使用人は跡部の様子を話してくれた。
「景吾様は帰って来てからずっと部屋に篭りきりです。夕飯も口にしません」
「え?そうなの?」
驚いた声を出すと、「はい」と使用人は頷いた。
「具合が悪い訳でも無さそうですが、やはり心配です。どうかスープだけでも飲むよう説得して頂けませんか?
きっと越前様なら可能だと私は考えております」
深々と頭を下げられて、リョーマは僅かにうろたえた。
が、ここでしっかりしないと駄目だ、と気合を入れ直す。
「わかった、やってみる」
「お願いします。景吾様は自室にいらっしゃいます。
誰も中にはいれないように言われておりますが、越前様ならきっと大丈夫でしょう」
では、と一礼してそっと去っていく。
跡部の部屋の前に、リョーマは一人残された。

(一応、ノックしておくか)

控えめに扉を2回叩いて、リョーマはドアを開けた。

(跡部さん、は……)
照明はついていない。薄暗い部屋の中、リョーマは跡部を探した。
しかしここにはいない。
跡部の部屋は奥の方が寝室へ続く造りになっている。
きっとそっちだと思い、足を進める。

「誰だ」
聞こえて来た声に、ぎくっと足を止める。

跡部がそこにいた。
ベッドの上でシーツをすっぽりと被って包まっている。
雷に怯える子犬の様子に似ていた。

「あの、越前だけど」
「嘘だ」
シーツの中から聞こえる声は掠れている。
「俺に会いたくないって言った奴が、ここに来る訳無いんだ。これは夢だ」
「夢じゃないって」
「じゃ、幻聴だ。俺は顔も見たくないって言われたんだぞ。もう越前は俺と会ってくれないんだ」
ぐすっと鼻を啜る音が聞こえ、リョーマの心がちくっと痛んだ

こんな風に跡部を傷付けてしまったのは、自分だ。
けれど目を背ける訳にはいかない。
もう一度やり直したいと、向こうでずっと強く願っていた。
チャンスに巡り合えただけで、感謝しなくちゃいけない。

だから、伝えよう。

リョーマはベッドに近付いて、背を向けたままでいる跡部に近付く。

「ごめんなさい」

シーツ越しに強く抱きしめて、最初の言葉を口にした。


2009年03月11日(水) 世界の枝葉 9 跡リョ スローモーションシリーズ

思えば、俺達の間にはテニスしか無かったはずだった。
一個のボールをネットを挟んで打ち合う。それだけの繋がり。
あの日、彼が話し掛けて来ることが無かったら。
ただの対戦相手として、終わっていたと思う。
そのまま別の人生を歩んでいた方が幸せだったのかどうかは、まだわからない。
色々な問題はこの先も出て来る可能性はある。苦しみだってあるだろう。

でも俺達の道は繋がってしまったのだから、このまま歩んで行くつもりだ。
仕方無いじゃないか。
あの人の笑顔を見ると、こっちまでも嬉しくなるんだから。
きっとそんな人と出会うこと、この先もそうそう無いと思う。





「俺の勝ち、だね」

アウトになったボールが転がって行くのを確認して、リョーマは勝ちを宣言した。
反対側にいる跡部は額に流れる汗を手で拭って、「くそっ。勝つつもりだったのによ」と唇を噛んだ。

「前半は俺がリードしていたよな?あのままで行っていたら勝てたのに」
「結果が全て。俺の勝ち」
「わかってる。そう何度も強調すんな」
「素直に認めようとしないからっす」
「あー、もういい、休憩しようぜ」

跡部が指を差したその先には使用人達によって用意された椅子とテーブルがコート隅に置かれている。
自宅のコートだからこそ出来ることだ。
テーブルの上には冷たいドリンクもある。
普通、ここまでやらないよな……と、リョーマは椅子に腰掛けた。

「この俺に二度も勝つなんて、大した奴だな。全く」
「どーも」

ここに来てから先日電話での会話について、一切何も触れていない。
跡部は淡々とした態度で、「すぐコートに行こうぜ」と案内しただけで、
試合もウォーミングアップ直後に開始した。

こんなままで良いのかなとリョーマは眉を寄せた。
彼の願いである「もう一度、試合をしたい」これは叶えたけど。
もっと跡部と話をするべきじゃないだろうか。
留学を控えている為、そんなに時間は残されていないはずだ。
後悔しないように送り出すにはどうしたら、と顔を上げる。
すると跡部と見事に視線がぶつかった。

「どうした。俺の顔に見惚れていたか?」
「そんな訳ないだろ……」

駄目だ。言いたいことが出てこない。
こんな軽い言葉の投げ合いで終わりになんかしたくないのに。
困った、と顔を顰めると跡部がフッと笑った。

「どうやら王子様はお悩み中のようだな」
「誰の…!」
所為だ、と声を上げようとした所で、リョーマは口を噤んだ。
からかわているかと思ったのに、跡部の顔がやけに真面目で拍子抜けしてしまったからだ。

「この間の電話では悪かったな。変なこと言って」
意外な謝罪の言葉に、リョーマは慌てて首を横に振った。
「気にしてないっすよ」
「そうか、良かった。その所為で負担掛けているんじゃないかと、心配したからな」
「別に……俺の方こそ余計なことばっかり言って悪いと思っているよ」

そう言ってまた黙る。
ここの跡部に会いに来た所為で、変なことに巻き込んでしまった。
謝るのはこっちだと、リョーマは俯いた。

「おい、しゃきっとしろよ。いつも通りのお前じゃないとこっちの調子も狂う」
跡部は飲み物を一気に飲んで、音を立ててグラスをテーブルに置いた。
「お前が悩むことじゃないだろ。問題は俺にある。そう言ったよな」
「でも」
「たしかに切っ掛けはお前にあるかもしれない。
けど元々は行動しなかった俺に原因がある。
仕方無いだろ?誰かを誘うなんてあり得ないことなんだ。
今までは相手から寄って来るのが当然だったからな」
溜息をついた後、跡部は頭を軽く掻いた。
「なのにもう一人の俺はやってのけたって言われて。
ずるいよな。同じ『俺』なのによ。
いや、ずるいとか考えている時点で、もう負けてるのか」
「……」
「お前にここまで想ってもらえるのも、そいつなら当然だな」

にっ、と不敵に笑う跡部の表情には卑屈さが無く、
心からそう言っているように思えた。

「だから俺はもっと頑張るべき、なんだよな。
いつかお前と再会した時、思わず惚れるようなそんな男になって帰って来てやる」
「は?」
まぬけな声が出てしまった。
目を瞬かせた後、リョーマは静かに跡部に問い掛けた。

「だってあんた留学するって、もう帰って来れないんじゃ」
「そんな訳ないだろ?俺の家はここにあるんだから、この先日本に帰る機会はあるだろうよ。
数年は無理かもしれねえが、その先はどうなるかわからない。
ま、再会の時は派手に演出してやるから期待しとけよ」
「期待って……」

得意げに親指を立てる跡部を見て、リョーマの体から力が抜けていく。

(やっぱりこいつ、跡部景吾だ。間違いない)

真面目な話をしているかと思えば、暴走して。よく知っている彼そのものだ。
ひょっとして誰かを好きになったら性格が変わってしまうんだろうかと分析する。
元の世界の跡部もそうだった。途中から言動が怪しくなっていった。
そのスイッチを押してしまったのが自分かと思うと少々複雑だ。

「でもその頃には、……俺は元の世界に戻ってるかもしれないっすよ」
小声であまり奇天烈なことはしないように伝えると、
跡部はやけに自信ありげに胸を張る。
「そうだな。元々のお前とはこの俺との接点が無い。もしここにいる越前リョーマが元の世界に戻ったとしたら、ここの越前の中では今までのやり取りは全部無かったことになるかもしれねえな」
「うん……」
「けど、一つわかったことがある」
「何すか?」
跡部は笑いながら答える。
「要するにここのお前も俺のことを好きになれば問題が無くなる。
なに、順番が違っただけだ。
好きになったら、結局それは今のお前……なんかややこやしいな、けど、俺を好きでいる世界のお前と上手く繋がるそういうことじゃねえのか?
だから俺は諦めないぜ。
越前リョーマがこの世界にいる限り、ずっと」
「跡部さん……」

そんな風に考えていたのかと、びっくりしてしまう。
どうやら跡部は自分より先に迷いから抜け出していたようだ。

ここでの越前リョーマが跡部景吾を好きになる。
通って来た道は違うけど、結果が重なっていく。きっとそれを言いたかったのだろう。

「だからお前も諦めるな。本当に好きな奴のところに戻れるよう、俺も祈ってる」
「うん」
顔を見合わせて笑った後、拳を軽く合わせる。

きっとこれが最後の接触。
リョーマも跡部もそのことに気付いていた。

「もう俺は明日には出発しているから、連絡は取れなくなる。
元気でいろよ、越前」
「明日?ずいぶん早くないっすか?」
卒業式はまだのはずだ。
その前に行ってしまうのかと、問い掛ける。
跡部は「仕方無いだろ。向こうでも色々準備があるからな」と言った。

「岳人達には黙っていろよ。お前だから話したんだからな」
「ちょっと待って。氷帝の人達には言ってないんすか?」
「ああ」
「どうして?見送りしたいって思っているはずなのに」

友人として、向日や忍足やきっと他の人だって。
跡部のことを慕っていたはずだ。
黙って行くなんて、と非難するような目で見てしまう。
「見送りは苦手だから、しょうがねえだろ。俺の柄じゃねえよ」
「だからって、そんな」
「あいつらのことだから、きっと騒ぎ立てるだろうし200人、いやそれ以上の人数で押し掛けられても困る。だからひっそり出発すると、決めていた」
「……」
「そういう訳だから、ここでお別れだな。越前。
最後の数日に、お前と会えて良かった」

何もかも吹っ切れたような跡部にリョーマは黙っているしかなかった。
答えを見つけてしまった人に、これ以上何を言えばいいのだろうか。

(そうだ……。一つだけある)

パッと顔を上げる。
本当はあちらの跡部に言いたかったことだけど。
この目の前にいる彼んも、きっと必要なことだから。
伝えよう。

「出発は何時っすか?」
「なんだ。見送りに来るつもりか。いらねえって言ってるだろ」
片手を振る跡部に、「行かないっすよ」とリョーマは言った。
「来ないのなら、何故知りたがる」
「その時間、空を見上げてあんたが行ったことを実感したいんだ。それだけ」
「それだけか」
「うん」
軽く息を吐いた後、跡部は「10時だ」と教えてくれた。

「10時っすね。うん、わかった」
「変わった奴だよな、お前って。知ってたけどよ」
「あんたに言われたくない」
リョーマは笑った。
「でもそんなあんたのことを信頼したり、心配してくれる人達は沢山いると思うよ。
その中にはあんたが失敗したとしても、笑ったり幻滅したり離れたりしない人がいるはずだ。
もっと周りをよく見てよ。
考えるよりずっと周囲には優しい人達がいる。それを忘れないで欲しいっす」
「越前……」
「以上、俺の話終わりっ」

その宣言に跡部は一瞬面食らったものの、すぐ神妙に頷いた。

「お前に説教される日が来るとはな。けど、心に留めて置いてやるよ」
「うん」
リョーマは立ち上がって、荷物を手に取った。
もうこれ以上一緒にいると、離れ難くなってしまう。
ここらで切り上げておくべきだ。

「じゃあね、跡部さん。向こうでも頑張って」
笑顔で告げるリョーマに、跡部も笑顔で応える。
「ああ。お前もな」

そのまま跡部はコートに残ったままで、見送ろうと立ち上がりもしない。
きっとそれが正しい。
リョーマもそうして欲しいとは思わなかった。
だから背筋を伸ばし、そのまま歩いて跡部の家を去って行く。

この道では本来出会うことのなかったはずの二人。
あっさりと別れた方が良かったのだ。お互いに。
後はそれぞれの人生で、生きていくのだから。








「おい、リョーマ。暇ならテニスしようぜ。テニス」
「ヤダ」ぼーっと空見上げているだけじゃねえか。お父様の相手しろよ」
「うーん、もうちょっと後でね」
「一体どうしたっていうんだ。これが反抗期かねえ」
南次郎のテニスの誘いを断り続けながら、リョーマは縁側に座って空を眺めていた。
こんな所から跡部に見える訳がないと知っていても。
10時が過ぎるまではここで見送ると決めていた。

(俺の分まで、向日さん達が送り出してくれているだろうけどね)

昨日、跡部の家を出た後リョーマはすぐ過去の連絡網から乾に電話をして、
向日と忍足の連絡先を手に入れた。
やっぱりこのまま黙って行かせるなんて、出来ない。
後で知ったら向日も忍足も怒るし、そして悲しむだろう。
大人数では控えて欲しいと念押しした上で、跡部の出発時間を教えた。

「わかってる。派手好きな奴だけど、見送られるのは苦手みたいだからな。
明日は元レギュラー達だけで地味に送り出してやるよ」
「後は俺らに任せとき」

二人がそう言ってくれたのだから、きっと大丈夫なはず。
空港に現れた元氷帝レギュラー達を見たら、きっと跡部は驚くだろう。
そして照れくさそうに笑うに違いない。

見られないことが、少々残念だ。

(もう、行ったかな……)

広い空を見上げて、リョーマは深呼吸する。

頑張れと無言のエールを送った後、
まだかと騒ぐ南次郎の相手をする為に、ぴょんと庭へと飛び降りた。


2009年03月10日(火) 世界の枝葉 8 跡リョ スローモーションシリーズ

背を向けて歩いて行く跡部に、リョーマは追い付こうと必死で駆け寄る。
なのに、走っても走っても距離が縮まらない。
跡部は歩いているのに、どうしても追い付くことが出来ない。
とうとうリョーマは声を上げた。

「跡部さん!待ってよ、止まって!」
歩きながら、跡部がちらっと振り返る。
「今更何の用だ」
「何って」
「もう俺の顔は見たくないんだろ。お望み通り消えてやるよ」
冷たい言い方に一瞬怯むが、ここで引いてはいけないともう一度声を上げる。
「あれは本心じゃなかった。いきなりいなくなるって聞かされて、動揺したんだ。
お願いだから、俺の話を聞いて」
「ふーん。てめえの都合が悪くなったら、そうやって言い訳するのか」
また跡部は前を向いてしまった。

「いつでも俺が流してくれると思っていたのか。
だったら見当違いだったな。俺にだって心ってものがあるんだ。
話も聞かず一方的に傷付けられて、もう我慢も限界だ。
越前、お前には失望した」
「失望……」

リョーマの足が止まった。

一瞬だけ、最後に跡部がこちらを見る。
その目は冷たく、リョーマは思わず立ち止まった。

跡部はまた前へと進んで行く。
止められることも出来ずに、ここから動けない。

彼に失望されることが、こんなにも辛いことなんて。

そして跡部が誰かから、失望されることが怖いと言っていた意味がようやくわかった。
こんな時になってわかっても、もう遅いのに……。


酷く暗い気持ちに支配されながら、ぱちりと目を開ける。


「ゆめ、か」

ベッドの中でびっしょりと汗を掻いていた。
喉もカラカラに渇いている。
時間を見ると少し早いが、リョーマはベッドから這い出た。
このまま二度寝しても、悪夢の続きを見そうだ。


(最低な内容だったな)

頭を掻いて、溜息をつく。
本当に現実で言われそうな台詞だったから、余計に怖い。
それだけのことを跡部にしてしまったのだと、思い知る。
顔も見たくないなんて言って、跡部が傷付かないなんてどうして思ったのだろう。
あの時、振り返って跡部の元へ駆け寄って謝罪していたら、
おかしな世界に引き込まれることは無かったかもしれないのに。

ふらふらと机に近付いて、その上に置かれた携帯を手に取る。
迷わず跡部のアドレスを呼び出して、掛けてみる。

「繋がらない、か」

まだ枝葉に別れた世界の内の一つに飛ばされたままらしい。
一日毎に見知らぬ世界に飛ばされないだけマシかなと、自嘲気味に笑う。

いつまで自分は、ここにいるのだろう。

携帯の側に放り投げていたメモを無意識に見る。
こちらの跡部が訪問した時に置いて行った連絡先だ。


『俺と仲良くしても、困ることは無い。そうだろ?』

話すべきことは話した。
もう彼とは会わないと、リョーマは決めていた。








「おい、越前。ちょっといいか?」
「何すか桃先輩」
「副部長とは未だに読んでくれないんだな。まあ、いいけどよ……」

放課後の部活前に、桃城にちょっと来いと隅っこに呼ばれた。
なんだろと思いつつも、リョーマはついて行った。
今朝も昨日も朝練に遅刻はしていない。
怒られることは無いはずだと、小さく頷く。

隅まで移動した所で、桃城がくるっと振り返って口を開く。
「越前……。ここの所無理していねえか?」
「は?なんで?」
特に無理なんてしていないけど、と言うリョーマに、桃城は頭をがしがしと掻く。
「そうか?この前、倒れたばかりだろ。こういう時くらいは休むべきだろ」
「だから無理していないって。睡眠も十分取ってる、から」
嘘だった。
妙な夢や不安の所為で、いつもより睡眠時間は減っていた。
それを見透かされたのだろうかと桃城をじっと見詰めると、困ったように口を曲げている。

「そこまできっぱり言うなら、俺も強制的に休めなんて言えないけどよ。
なんだかお前が悩んでいるように見えたからなあ。
何かあったら話してくれよな。上手い解決法はすぐに出て来ないかもしれないが」
「……」

こっちの世界でも相変わらず面倒見のよい兄のような桃城に、知らず口元が綻ぶ。
きっとほとんど変わることの無い選択肢を選んで、ここにいるに違いない。
忍足みたいに何かのきっかけでがらっと趣味が変わったりするかと思えば、
向日や桃城のようにほとんど同じままというケースもあって不思議だなと考える。

けど、彼らが変わっていないことにほっともしていた。
これえ桃城が根暗だったり、向日が意地悪だったりしたら、
何の選択肢を違えてそうなってしまったのか悩むし、導く方法すらきっと思いつかない。
そう考えると忍足がフィギュアから正義の味方へ興味を変更したのは些細なことすら思える。


「越前ー、桃城ー。こないなところで密談か?」
「わぁっ!忍足さん!?」
後ろから声を掛けられて、桃城が素早く飛び退く。
ちょうど忍足のことを考えていたリョーマも、びっくりして肩を揺らした。
「何やっているんですか、そんなところで」
「何って、越前を探しに来たんだけど」
丸眼鏡をくいっと上に上げて、忍足は言った。
すぐ隣には向日もいる。
「越前に話がある。ちょっと時間取れるか?」
「いや、部活始まるから、無理」
どうせ跡部絡みだろうと思って、リョーマは首を横に振った。
彼の話なら聞きたくも無い。

なのに桃城が「おい、越前!わざわざ来てくれたのに、そりゃねえだろ」と二人の援護をする。
「行って来いよ。なんなら早退していいぞ」
「何言っているんすか。そんなの許される訳無いでしょ」
まだ海堂はここにいないが、さぼって抜け出したと知ったらグラウンド100周は避けられない。
冗談じゃないと目を険しくするリョーマに、桃城は「大丈夫だって」と胸を張った。
「海堂もお前の不調を見抜いているからな。何かあったらすぐ帰らせるようにって頼まれてるんだ」
「何も無いから帰らないっす」
「越前ー!これは副部長命令だ。不調の間はコートには入れさせない。
今日はこの二人に送ってもらえ。いいっすよね?忍足さん」
「ま、ええけど」
忍足は肩を竦める。
「越前は不満そうやな。このまま大人しく帰らへんとちゃうか?」
「帰らせますよ。おら、越前。部室に行ってとっとと着替えて来い。今日は絶対コートに入れないからな」
「横暴っすよ、桃城先輩!」

しつこく食い下がったものの、桃城は「駄目」の一点張りで仕舞いには腕を引っ張られて部室まで連れて行かされた。
こうなったら参加は出来そうにない。
渋々リョーマは、放課後の練習を諦めることにした。

「ばあさんにも俺からよーく説明しておくからな!」

手を振って見送られて、リョーマは校門へとトボトボ歩き出した。

「おい、越前っ。おい」
「……」
向日からの呼びかけを無視する。
こうなったのも、二人が青学に来るからだ。
八つ当たりだと言われても、態度を改めるつもりは無い。
「そないな怖い顔されたら悲しいわ。ええ加減、こっち向いてくれんか?」
「……」
「おい、俺達のこと無視してるぜ。どうするんだよ、侑士。お前が青学行くって言い出したんだろ」
「せやかて、正義の味方はどんな些細なことも見逃せないんや。
あーあ。このまま跡部を行かせてもええんやろうか。旅立ちの日まで残りも少ないいうのに」
「え?」

思わずリョーマは振り返ってしまった。
跡部の留学の日がそんなに早くだとは思わなかったからだ。
精々、春休み後半くらいだと考えていたから……。

「やっとこっち向いたな、越前」
向日が勝ち誇ったように笑う。
「跡部の気持ちを引っ掻き回して気にも留めてないと思ったが、違うみたいだな」
「違わない。俺はあの人のことなんて、なんとも思ってない」
無表情を装って言ったが、忍足に笑われてしまう。
「めっちゃ動揺しているやんか。跡部がいつ行くか、知りたいやろ?
教えてやってもええけど、その前に俺らの話を聞いてくれんか?」
「知りたくないっす」
「うわっ!薄情やな!」

大袈裟に驚く忍足を押し退けて、向日がずいっと顔を近づけてくる。

「越前、お前には聞く義務があると思うぜ。
留学間近になって跡部の前へ現れて、動揺させたツケくらいは払うべきだろ」
「……」

何も言い返せない。

向日の言う通りだ。
本来なら、ここでの越前リョーマと跡部景吾は擦れ違ったまま離れて行く道を辿っていくはずだった。
なのにいるべき存在ではない自分の所為で、こちらの跡部を巻き込んでしまったのは事実だ。

傷付いたような、あの顔。
あれは紛れも無く自分に責がある。

(関わったりしなければ、ここの跡部さんは余計なことを考えずに留学していたのに)


沈黙を肯定と受け取ったのか、向日は強気な態度に出た。
「話出来るところへ移動しようぜ」






三人で移動した先は、よくあるファミレスだった。
学生達が集まっているテーブルが多い。
喧騒から少し離れたところに、リョーマ達も腰を下ろした。

「正義の味方として、ここは何を頼むべきやろうか。悩むわ」
メニューを見ながら、忍足は真面目に悩んでいる。
「トマトジュースでも頼んでろ。俺はパイナップルジュースにしとく」
投げやりに言う向日に、忍足が反応を示す。
「そうか!日々健康的なものを選ぶのはそれらしいな。よっしゃ、トマトジュースにしとくわ」
「本当にそれにするのか……」
「越前も同じものでどうや?」
必死で正義の味方へ引き込もうとする忍足の視線を感じて、
リョーマは慌ててメニューに目を通した。
「俺はソーダ水にするっす」
「なるほど。ソーダ水の色はグリーン。越前、そないにグリーンのポジションを」
「あー!もう、いいから注文するぞ!」

そんな馬鹿らしいやり取りしてオーダーをした後、不意に向日が真面目な顔になった。

「越前。この前、俺達と店に行っただろ。それから跡部と一体何話したんだよ」
「えーっと」
向日の力強い視線に、リョーマは珍しくたじろいた。
これはただ事じゃない。
跡部の様子はそんなに深刻なんだろうか。
どう答えようかと目を泳がせていると、忍足にも詰め寄られる。
「跡部がえらい落ち込んでいてなー。
あの帝王様が気付くと溜息ついてるんやで。そりゃ気になるわ」
「跡部さんが落ち込んでいる原因が俺だけにあるとは考えられない。
留学を前にして疲れているんじゃないの」

自分の所為じゃないと言い訳するリョーマに、忍足は首を横に振った。

「それは違うな。あいつは留学することに迷いは無かった」
「…忍足さん達にもわからない悩みを抱えてるかもしれないじゃん」
チームメイトでさえ、跡部が誰かからの失望を恐れていると気付いていない。
一方から見ただけではわからないと、リョーマは言いたかったのだがそれも却下されてしまう。

「せやけど、越前が現れてからやで。
それまで跡部は悩むよりも前に進もうとしてた。今は後ろ向きになっているようでなあ」
「侑士に言われて俺も跡部の様子を探ってみたけど、たしかに落ち込んでいるように見えるな」
同調するように、向日も頷いた。
「絶対、越前に原因があるって侑士が言うからお前に会いに来たんだぜ。
お節介だと思うけど、跡部をあのままの状態で送り出すのも気の毒だからな。
解決してやろうなんて、大それたことは出来ないかもしれないけど、まずは一歩だ。
なあ、跡部ともう一度話をしてやってくれないか」

忍足と向日の真摯な目を見ていられず、リョーマは下を向いた。

(全く……意外にも人望があるから困るんだよ)
こんな風に動いてくれる良き友人がいることを、跡部は気付いているのか。
自分で思っている以上に優しい人々に囲まれているんだって。
理解したらきっと、失望に怯えることも無くなっていくだろうに。

話が途切れたタイミングで、店員がテーブルに注文の品を置いた。

「あんまり美味しくないわ」
「…自分で決めて頼んだくせに」
呆れたように言う向日に、リョーマはぷっと小さく吹き出した。
「ほら見ろ。越前だって笑っているじゃねえか」
向日の言葉に、リョーマはまた笑う。

どうってことのない風景に、懐かしさと感傷が混ざる。
笑いながら、リョーマは目元を拭った。
こみ上げてきたのは別の意味でだけれど、この状況なら悟られることは無いはず。
「ごめん、あまりにも二人のやり取りがおかしくて」
「ほらみろ。お前が正義の味方だとかおかしなことを言っているからだろ」
向日が肘で忍足を突く。
「何が悪いんや。俺は信念を元に行動してるだけやで」
「はー、そうかよ」

一見ちぐはぐな二人だけど、友人への思いやりは本物だ。
それに敬意を払おうと、リョーマは口を開いた。

「あの、二人の話を聞いて考えてんだけど、もう一度だけ跡部さんと話をしてみようと思う」
「ほんまか?おおきに、越前」
「越前!お前ならわかってくれると思っていたぜ!」

笑顔になる向日に、「な、青学に来てみてよかったやろ」と、
正義の味方が得意げな顔で赤いグラスを掲げた。

それから二人と取り留めの無い話をしてから、リョーマはまず家へと帰った。
まだ跡部と直接会うのは気が引ける。
だから携帯に掛けてみようと考えた。
メモを手に取って、そこに記されたナンバーを押していく。
数秒の後、「はい」と聞きなれた声が出た。

「あの、俺……越前だけど」
『お前だったのか、知らない番号だったから出るのかどうか迷ったけど取って正解だったな』
先日のやり取りなど気にしていないかのような声に、ほっと安堵する。

「そういえば、俺の番号は教えていなかったっけ」
向こうでの感覚が抜けていないせいか、跡部が知らないという方が不思議な気分だ。
でもここではそれが普通のこと。

お互い学校も違うし、学年も違う。
本来テニスコート以外で接点の無いはずの自分達を結びつけたのは、
元いた世界の跡部が行動したからだ。
その出来事が起きていないのなら、大会以降出会うことも言葉を交わすこともなく過ぎて行ってしまう。

「あの、跡部さん」
『なんだ』
「さっき忍足さん達が来て、あんたの様子が変だって教えてくれたんだ」
『……』
「それ、俺の所為っすか?この前変な話をした所為で、だから」
『違う』
きっぱりと否定される。

『お前の所為なんかじゃねえよ。どっちかというと原因は、俺にある』
「本当に?」
思わず心配そうな声が出る。
お前らしくない声だなと跡部は笑い、『気にすることはねえよ』と言った。

『ただ考えているだけだ。どうして俺はあの時、お前の所へ声を掛けに行かなかったんだろうってな。
お前がよく知っている俺は、迷いながらも声を掛けたんだろ?
自分に出来ないことをやったそいつに、ムカついている。何もしなかった俺にも。
もっと早く切っ掛けを掴んでいったら、今更後悔することなんて無かっただろうに』
「跡部さん」

携帯を握り締めている手が震えていた。

やはり自分が彼に会いに行った所為で、こんな思いを掘り返してしまった。
どうしようと、空いているもう一方の手で額を押さえる。

「ねえ。俺に出来ること何か無いっすか」
気付けばそんな言葉が口から出ていた。

もうすぐ旅立つ彼の為に、何かしたいと思ったからだ。
罪滅ぼしのつもりかもしれない。
けど、何もせず別れるのも嫌だった。

『そうだな。もしお前がいいって言うのなら、もう一度試合がしたい』

跡部の声に、リョーマは迷い無く「いいよ」と答えた。
「時間と場所は?明日でもいいっすよ」
『そう急くな。俺も忙しいし、お前も本調子じゃないだろ』
「平気っす」
『お前の平気は当てにならない。そうだな、×日はどうだ。
時間は土曜だから、昼からでもいいな』
「うん」

例え部活が入っていてもサボってでも会いに行くつもりだった。
約束をして、電話を切る。




その当日に知ったことだが、
跡部は次の日にはもう出発することが決まっていたのだ。


2009年03月09日(月) 世界の枝葉 7 跡リョ スローモーションシリーズ

黙ったまま動けないリョーマを見て、跡部はやっと襟首を掴んでいた手を放した。

「一体なんて顔してやがる」
軽く溜息をついてから、自分の髪をがしがしと掻く。
「本当にお前はあの越前なのか?試合の時とはまるで別人のようだぜ。
いや、俺が知らなかっただけか……」
そう言ってから、今度は手を掴まれる。

「跡部さん?」
顔を上げると、穏やかな目がこちらを見ている。
「ちょっと場所変えようぜ。
お前がそんな顔をしている理由、じっくり聞かせてもらおうじゃねえか」
「だから、俺から話すことなんて無いも」
「あるって顔してる。俺が言うんだから、間違いない」
自信満々に言われ、リョーマは言葉を詰まらせた。

何故こんな自信満々に言えるのだろう。
全部見抜かれているとは思えないけど、あながち外れていないのだから困ってしまう。
ここで逃げても、納得するまで追って来る気がする。
だったら、いっそのこと。

(全部話してみるか)

おかしな奴だと思われてもいい。
どうせ留学して会えなくなる人なのだから。
この奇妙な体験をぶちまけてしまっても、構わないはず。

よし、と腹を括ったリョーマはそのまま大人しく跡部が呼んだ車に乗り込んだ。
どうせなら人に聞かれない所で話したい。
そんな場所ならどこでもいい、と跡部に行く先を任せることにした。




「で、あんたの部屋って訳か」
「あーん?何か文句あるのかよ」
「無いっす。ここでなら誰にも聞かれずに済みそうだから」
「ふん。さっきまで逃げようとしていたくせに、やっと話す気になったか」

淹れ立ての紅茶の入ったカップを手に取って、跡部はリョーマをちらっと見た。
リョーマの前にも同じカップが置かれている。
来客用のものだ。
元居た世界でも、最初に足を踏み入れた時似たような感じのカップを出されたのを覚えている。
今ではリョーマ専用にと、猫の柄が入ったカップやグラスが出て来る。
猫、好きだろう?特別に作らせたんだと得意げに言う跡部に、
そういう意味じゃないと思ったが、折角のカップをこのまま未使用で眠らせるのも悪いと思ってあえて何も言わないでおいた。
白地に紺色の猫のシルエットの入ったカップは、リョーマにとってお馴染みのものとなって出されても違和感が無くなっていた。
薄い緑色に金色の猫のシルエットが刻印されたグラスも。
この世界にはそれが無いんだと思いだし、少し切なくなる。

「どうした。遠慮せず飲んだらどうだ。自慢じゃないが、うちの紅茶は結構いけると思うぜ」
「……うん」

知ってるよ、と胸の中で呟いてそっとカップに口をつける。
何度もご馳走になった馴染み深い味が広がった。
跡部と親しくならないまま時間が経過した世界だが、紅茶の味も、この部屋も変わることはない。

懐かしさに、錯覚しそうになってしまう。

(しっかりしろ。この人は俺が知っている跡部さんじゃない)

それを話す為に、ここまでやって来た。
感傷に浸っている場合じゃない。
リョーマはもう一口紅茶を飲んでから、カップをテーブルへ戻した。

「これから話すことは冗談でも嘘でも無い。
それだけはわかって欲しいんだ」
背筋を伸ばして跡部に話しかける。
跡部もスッと真面目な表情になって頷いた。

「ああ、わかっている。
それにさっきも言ったよな。笑ったりしないし、ちゃんと聞くって」
「うん」
「じゃあ、お前は言いたいことを言えばいい。
俺は黙って聞いているだけだ」
「……わかった」

そしてリョーマは語り始めた。

本当にいるべき場所はここじゃないこと。
もう一つの世界で、そちらの跡部とどんな風に過ごしているか。

話が上手な方ではないから、説明につっかえたり、しどろもどろになったりしたが、
跡部は最後まで口を挟むことなく静かに聞いてくれた。


「どう、だった?」

全部言い終えたと思うところで、リョーマはちらっと目の前にいる跡部を見た。
腕を組んで考えている。

(きっと突拍子も無い作り話をしたおかしな奴と思っているんだろうな)

それでもいいや、とリョーマはカップに再び手を伸ばした。
すっかり冷めていたが、喉の渇きを潤わせることが出来るのならなんでも良かった。
ぐいっと残っている液体を一気に飲み干す。

「つまり、あれか……パラレルワールドみたいなものか」
ようやく口を開いた跡部は、考え込むようにしながら言った。
「けどおかしいな。この世界でも越前リョーマという人間はたしかに存在している。
お前が向こう側から来たって言うのなら、元からいた奴はどうしたんだ。
入れ替わったとでもいうのか?」
「わかんないよ、そんなの」

そもそも違う世界に飛ばされたというだけで、理解の範囲を超えている。
簡単に答えを出せるのなら、苦労はしていない。

「むしろ、そうだな。お前が俺……っていうか、あっちの俺、ああ、もうややこやしい。
お前がいたという世界での俺と留学の話をする前に戻りたいと強く願ったことが、偶然にも叶った。
しかし願いは中途半端で、俺と深く関わることが無かったこの世界に来ることになった」
言いながら、跡部は首を傾げる。
「もしかして、願いが叶った時点で元の世界は無かったことになったんじゃねえのか?
こっちがお前にとって本当の世界に取って変わったのかもな」
「そんなの困る!」

思わずリョーマは立ち上がって叫んでいた。

「俺は戻らなくちゃいけない。だって、まだあの人と何の話もしていないのに……」
最後に見たのは、酷く傷付いた跡部の表情だった。
一方的に罵って、その場から去ったのが今生のお別れなんて。
そんなの絶対認められない。

「わかった、とにかく落ち着け」
両手を挙げて、こっちの跡部が宥めるように言った。
「確定した訳じゃないだろ。あくまで俺の仮説だ。そんなに興奮すんな」
その声に、リョーマは少し落ち着きを取り戻した。
たしかに、まだ決まったわけじゃない。あくまで思った意見を口に出しただけだ。
「ごめん。ちょっと、頭に血が昇った」
もう一度、椅子に腰掛けた。

「こんな話を真面目に聞いてくれてるのに、大声出して悪かったね」
「いや。お前の様子を見ていても、嘘を言っているようには見えなかったからな」
けど驚いた、と跡部は苦笑いをする。
「よりによって、別世界からのお客さんか。人生色々あるって、本当なんだな」
「感心するようなことじゃないし……。それに作り話かもしれないっすよ?」

こんな荒唐無稽で、とても信じられないような出来事。
信じてもらえるとは思っていない。
正直な気持ちを話すと、跡部は豪快に笑った。

「それこそ疑い出したらキリが無いだろ。だから、まあ信じてやる」
完全に理解は出来ねえけど、と肩を竦める。
「お前が本当だと必死で訴えなかったら、嘘だと思うんだがな。
けど俺の気を引く為にしちゃ、話がぶっ飛び過ぎてる」
「……なんであんたの気を引かなきゃならないの。しかもこんなしょうもない話で」
「だな」
くくっ、と跡部はまた笑う。

「けど、もう一人の俺か……。少し興味あるな。
どうだ。お前から見てどっちがいい男に見える?」
くだらない質問に、リョーマは眉を潜めた。そんなこと話している場合じゃない。
「あのさ、俺はあんたが話をしろって言うから全部打ち明けたのに、
気にする所がそこなんだ?馬鹿馬鹿しい」
「そうか?普通は気になるはずだ。それに俺の方がいい男なら、可能性があるって訳だ」
「何の?」

意味がわからずリョーマは瞬きする。
可能性って何のことだろう。

その間にさっと立ち上がった跡部は、大股で近付いて来る。
隣に立ち、リョーマの肩に手を置いた。

「決まっているだろ。この先、お前が選ぶのは俺だってことだ」
「はああ?」
思わず声を上げる。
冗談だと言って欲しかったのだが、跡部は肩に置いた手を外そうとしない。
しかも真面目な表情で言っているから困る。

「……からかっているんだよね?そうっすよね?」
仕方なくリョーマは確認する為に質問をした。
なのに跡部は軽く首を振って、「そんな事嘘でも言えるか」と答えた。
「だ、だって!そう!最初に会った時、女連れだったじゃん。付き合っている相手がいっぱいるんでしょ。
そっちを相手にしなよ」
動揺しながらさりげなく跡部の手から逃れようとしたが、がっちりと掴んで離れない。
結局こうなるのかよ、と顔を引き攣らせた。

「あん?気になるのか」
「そうじゃなくて、俺は事実を言ってるだけっす」
「安心しろ。あんなのただの取り巻きだ。留学する前に最後の思い出だとかいって、纏わり付いて来る。気にしなくてもいいぜ」
「だからって、こっちに来ること無いから!俺は自分の跡部さん一人で間に合っているから」
意味不明だと思いつつ、リョーマは必死で抵抗をする。
このままではまずい。
こっちの跡部に迫られても困るだけだ。
だからひたすら「遠慮する」と拒否の言葉を繰り返した。

「そんなに嫌なのか?」
傷付いた表情をする跡部に、ずるいと思った。
元々は同じ顔なのだから、どうしたって動揺してしまう。

(しかも、俺が冷たい態度を取った時にそっくり……。あの顔が可愛くて、それ以上意地悪言えなかったんだよなって呑気に思い出している場合か!)

別人別人、とリョーマは自分に言い聞かせた。

「嫌とかじゃなくて、あんたは俺の跡部さんじゃないから。ごめんなさい」
「俺の、とか言っているが付き合っていた訳じゃなかったんだろ?」
「……」

そこまで話してしまったことを、今更ながら悔やむ。
好かれているのはわかっていたけど、保留にしてたなんて。なんで言ってしまったのだろう。
嘘ついて、交際してたと宣言しとけば良かったのかもしれない。

「じゃあ、いいじゃないか。俺に乗り換えろよ」
「よくない。大体、なんでそんなこと言い出すかさっぱりわかんない。
俺に興味なんて無いんでしょ。おかしいよ」
この世界は、大会後に跡部から声を掛けられないままの状態から進んでいる。
すなわち、行動を起こす程興味を持たれてないとリョーマは考えたのだが、
その読みは甘かった。

「興味は無いことは無かった」
「え」
少しぶっきらぼうな口調で言う跡部に、リョーマは目を見開いた。
「目を引くのは当然だろ。俺のことを公式で負かした一年だぞ。
無視出来るはずがないか。
お前の実力は、認めている。それは嘘じゃない。
けど俺からまた試合しないかと誘うには、高過ぎるプライドが邪魔した。
お前から『どうぞ、お願いします』と言って来たら絶対断らなかったんだがな」

跡部の言葉を聞いて、リョーマは片手を振った。
「そんな風に俺が言う訳、絶対にない」
跡部が声を掛けて来たからこそ、始まったのだ。
もしあの行動が無かったら、この世界と同化してたのだろうか。

(だとしたら、跡部さんの踏み出した一歩ってものすごく大きいのかも)
今更ながら、評価する。

「そうだろな。
けど、今お前はここに来て、俺の前で話をしている。
しかも俺じゃない俺を想っているとか滅茶苦茶な話ながら可愛い顔見せやがって。
さすがに心動かされるな。責任取れよ」
「責任って!だから俺が会いたいのは、あんたじゃなくって」
「越前」

跡部がそっと耳に口を寄せる。

「お前はもう帰れないかもしれないんだぞ?手掛かりも無い。その後はどうする?
ここにいるしか無いだろうが。
俺と仲良くしても、困ることは無い。そうだろ?」

その瞬間、リョーマは跡部の体を突き飛ばすようにして立ち上がった。

「ふざけんなっ」
強い怒りを込めて、言い放つ。
「俺は絶対に帰る。あの人がいる世界に、戻るんだ」
「おい!」
「あんたとはもう会わない」

そのまま背を向けて部屋から出て行こうとした。
が、走って追いついて来た跡部に、強い力で引き止められてしまう。
「放せっ」
「もう何もしない。だから大人しくしてろ」
「そんなこと信じられるかっ!」
「帰るつもりなら車で送ってやる。
俺はここに残る。運転手に頼むから、ちょっと待ってろ」
「一人で帰れるっす」
「駄目だ。病み上がりなんだから、無茶するな。これも最初に言ったよな?」
「……」

そのまま腕を開放される。
本当に何かする訳じゃないらしい。
すたすたと歩いて、部屋の隅に置いてある電話機を取って内線で車を出すように指示を出している。

ぼんやりと跡部の行動を見ながら、リョーマは軽く息を吐いた。
なんだか疲れてしまった。
たしかにここから一人で帰るのは、少し辛いかもしれない。
ここで抵抗してみせても、きっと跡部は言うことを聞いてくれないだろう。
黙って車に乗った方が良さそうだ。


「じゃあな、越前」
「……」

別れもあっさりしたものだった。
跡部は車まで見送りに来ることなく、自室から出ようとしない。
迎えに来た使用人に連れられて、リョーマは車に乗った。

心地よい振動に揺られながら、家へと向かう。
流れる景色を瞳に映し、先ほど跡部に言われたことを思い出す。


『お前はもう帰れないかもしれないんだぞ?手掛かりも無い。その後はどうする?』

そんなはずは無い。
きっと元の世界に帰ることが出来るはずだ。

そう信じていなければ、崩れてしまいそうになる。



(俺だって、いつでも強くいられる訳じゃない)
シートに体を凭れて、そっと両手で顔を覆った。


2009年03月08日(日) 世界の枝葉 6 跡リョ スローモーションシリーズ

待望のお汁粉を前にしても、リョーマの気は晴れない。

(来るんじゃなかった……)

気まずい空気に、自然と両眉が寄っていく。
甘いはずの汁粉がちっとも美味しく感じられない。
向日と忍足はこちらを気にしないよう、注文したものを食べている。
最初にお汁粉が食べたいと言った向日は意見を変えることなく注文して、
忍足はあんみつを頼んだ。
眼鏡の奥で幸せそうに目を細めている。
正義の味方ってそんな風だっけ、とつい思考が飛ぶ。

「あんまり美味くないようだな」
「は?」
顔を顰めていたリョーマに、跡部が可笑しそうに言う。
「だから言っただろ。そんな子供が好む物は止めておけって」
「……」
目の前で抹茶を飲む跡部に、イラっとさせられる。
が、ここで反論すればまた忍足に注意されるのは目に見えている。
自称正義の味方は、色々うるさいから厄介だ。
フィギュア好きの時も鬱陶しかったが、こっちもそう変わらないかもと、リョーマは顔を引き攣らせた。

(俺も店の中で騒ぐのはよくないって、わかってるけどさあ)

跡部がヤキモチを焼いているとか言ってからかってくるから、つい反応してしまった。
平常心を保って無視しようと決める。
どうせ今後は会う予定なんて無いのだから。

「そういや越前って、このまま進学するのかよ?」

険悪な雰囲気に耐えられなくなったのか、向日が話を振って来た。
気を使ってくれているとわかる分、リョーマは素直に頷いた。
向こうの世界でお世話になっている所為か、どうも向日に対して冷たい態度を取り辛い。

「そうっすよ」
「じゃあ、うちの後輩達は来年も苦労しそうだな。
お前が氷帝に入ってくれれば楽勝だったのによー。今からでも転校してこねえ?」
「さすがにそれは……」

青学に入ったのは父親が決めたからだ。
恩師である竜崎顧問になら任せられると判断したのと、
自分と同じ母校でどこまでやれるか高みの見物を決めたかったらしい。
結果的に良い方に向いたから良かったのだが……。

もしリョーマがどうしてもと、転校を望めば両親も考えてくれるかもしれない。
父親も好きにしろ、と言ってくれるだろう。
でも、今もリョーマは転校などする気は無かった。
青学で色々学んだことはそれなりに大切なものとして心に残っている。
それを置いて、他に行こうとは思わない。

「冗談だって。深刻に取るなよ」
向日は笑いながら、リョーマの腕を小突いた。
「けど、お前位の実力なら、留学の話の一つや二つあってもおかしくないんじゃねえのか?」
「せやなあ。手塚にもいくつかオファーあったみたいやしなあ。越前にも話があっても不思議やない。
で、どうなんや?」」
忍足も身を乗り出して質問してくる。
そんな興味津々な態度は正義の味方として、どうなんだろう。

跡部はというと、黙ってこちらを伺っているだけだ。
さっきから口を挟まず、会話に耳を傾けている。
余計不気味だ、とリョーマは思った。

しかし三人に見詰められて、このまま黙っている訳にもいかない。
渋々重い口を開いた。

「たしかにそういう話は来ていたみたいっすよ」
「ほんまか」
「それで?それで?何て言って返事しだんだよ。くそー、一年生なのに羨ましいぜ!」
興奮した向日に肩を揺さぶられる。
このまま終わらせてはくれないらしい。
仕方なく、続きを話すことにした。

「返事も何も。親父が勝手に全部断ったみたいっす」
「へ?マジかいな」
「うん。行きたい時は本人が決めるって言って、話を持ってきてくれた人達を追い返したみたい。
俺は後から聞かされただけで、直接知らされてないっすよ」

借りに直接話を持って来られても、今は行くつもりは無いからいいんだけど。
「追っ払ってやったぜ」と得意げな顔をした父親に勝手なことするなよと、微妙にムカついたりもした。

そういえばこの話は「本来いるべき世界」でのことだったのだが、
違いは無いよな、としばし考える。

(こっちでそんな話があったかどうかなんて、わかんないからいいや)

大差ないだろうと、勝手に納得する。
どうせ誰も確かめたりしないだろう。

うん、と軽く頷いたところで、それまで静かだった跡部が口を挟む。

「それで、お前はいいのかよ」
「え」
「父親が断って納得してんのか」
「別に。行きたいときは自分で決めるんで、親父のやったことに不満は無いっす。
言うなりになっている訳じゃないから」

快く思っていないはずの両親に勧められるまま留学を決めた跡部に、
当て擦りのように言ってやった。
顔を顰める跡部に、ざまあみろと心の中で笑う。
自分から行こうとした訳じゃなく、失望されたくないからという理由だけで決めるからだ。

「ハッ、そんなガキみたいな考えがいつまでも続くかよ」
好戦的な態度で言うリョーマに、跡部はと馬鹿にしたように低く笑う。
「気軽な身分だから言えるのかもしれねえけどな。
何でも自分の好きなように出来ると思ったら、大間違いだからな」

嫌味を言う跡部に、今度はリョーマが鼻先で笑う。
「そうかもしれないね。でも俺はこのまま突き進むつもり。
他人の意見に左右されるのなんて、真っ平」
「それが子供だって言ってるだろ」
「悪い?誰かの顔色をいちいち伺っているなんて疲れるじゃん」
「まあまあ。越前、ちょーっと声大きいで。静かに、な」
ヒートアップしそうなやり取りに、忍足が間に入って来る。

人差し指を口の前で立てるのを見て、リョーマは思わずカッとなって立ち上がる。
もう限界だった。

「帰る」

お汁粉の代金をテーブルに叩きつけて、椅子を引く。

「おい、越前!」

跡部の呼びかけも無視して、外へ出て行く。
やっぱり一緒に行動したのは間違いだった。
近付かなきゃ良かったと、首を軽く振る。

(俺がいた世界の跡部さんも……。
自分が生きたいように生きるって間違いだと思っているのかな。
そんなの、認められる訳がない)

失望されるのが怖くて、結局親の言うなりになるなんて。
少しは自分の意志を貫いてみたらどうかと思う。

それとも離れていても平気なんて、本気で考えているのだろうか。
考えれば考えるほど、跡部のことがわからなくなっていく。

何を思って、留学すると口に出したのだろう。

「越前」
「え?」

ぼんやりしてた所に肩を叩かれて、リョーマは目を見開いた。

あんな態度で出て行ったというのに、どうして追って来たのだろう。
走って追い掛けて来た為か、跡部の髪は少し乱れていた。

「勝手に一人で帰るな」
しかも怒られてしまう。
「本調子じゃないんだろ。送ってやるって言ったのを、もう忘れたのか」
「そんなの知らない」

ぷいっと反対方向を見て、無視をした。
なのに跡部は妙にしつこく絡んで来る。

「じゃあ、今言ったよな。車を呼ぶから、ちょっと待ってろ」
「はあ?」

冷たい態度を取り続けても、跡部はリョーマの声など聞こえないかのように振舞っている。
理解出来ない……。
これほど拒絶しているのに、まだ関わってこようとするのか。

「一人で帰れるから、平気っす。じゃっ」

踵を返して、跡部から立ち去ろうと歩き出す。
が、後ろから伸びて来た跡部の手に、襟をぎゅっと掴まれて前に進むことは適わない。

「何すんの」
振り返って、睨みつける。
早く離れてしまいたいのに、どうしてわかってくれないのだろう。
もう一度リョーマは「放せよ」と言った。

なのに跡部は表情を変えずに、更に襟を握り締めて来る。

「なんでだろうなあ」

こっちの言うことなどまるで聞いていないかのように、のんびりと呟く。

「これだけムカつくこと言われているはずなのに、ちっとも腹が立たない。
むしろお前を見ていると、構わなきゃいけない気になる。一体どういうことだ」
「……意味わからないんだけど」
「ああ。俺にもわからない。
けど、憎まれ口叩くお前の姿が、構って欲しいと爪を立てるうちの猫を思い出させるんだ。
つまりはそういうことだよな、うん」
「どういうことだよ!」

この訳のわからなさ。
住んでいる世界は違うが、やっぱり跡部景吾だと脱力する。
自分勝手に納得して、頷いている所は変わらない。

(俺の知っている跡部さんは、更に重症みたいだったけど……)

どちらにしろ‘変’なのには違いない。
やっぱり逃げようとジタバタもがくが、跡部は放してくれそうにない。

「どういうことかと聞かれても、俺にもよくわからん」

きっぱりとした声で、跡部は言った。

「けどお前が本気で嫌がっているように見えねえし、
追って欲しいように見えたのも事実だ。
だからあいつらを放ってまでも、店の外へ出た。
よって、お前から話をしてくれるまで開放しないと今決めた」
「滅茶苦茶っすね。俺は話なんて無いっす」
「あるだろ。俺に言いたいことが。それ位、わかるんだよ」
「……」

これもインサイトの力ってやつなんだろうか。
恐ろしいと、リョーマは呟く。

「言えよ越前。どんな話でも笑ったりしないで聞いてやる」

相変わらず偉そうな態度で言う跡部を、じっと見詰めた後、リョーマは目を伏せた。

(馬鹿みたい……俺が本当に言いたい相手はあんたじゃないのに)


同じようで違うこの世界の跡部を見て、胸が締め付けられる。

会いたかったのも、話をしたかったのも。
それは全部、いつも側にいてくれた跡部に対してだけだ。
ここにいる彼に言うべきことじゃない。

つまらない意地を張って、本当のことを何一つ言えないままこんな所に飛ばされたなんて。

(俺は、何やっているんだろ)

さっさと好きだって言えば良かった。

後悔に、じわっと瞼の奥が熱くなった。


2009年03月07日(土) 世界の枝葉 5 跡リョ スローモーションシリーズ

不機嫌な顔はそのままで、跡部はゆっくりとこちらに近付いて来る。

「なんであんたがここにいるんだよ」
思わず声を漏らしたリョーマに、隣に立っていた向日が反応する。
「あ、それ、俺がメールしてやったから」
「は?」
どういうこと、とリョーマは顔を顰める。
向日はあっけらかんと説明を続けた。

「侑士がくだらないこと喋っている間に、跡部に知らせやったんだ。
どうせこっちに来た用事は跡部にあると思ってな。これで手間が省けただろう?
でも来るとはわからなかったんだけどな、何しろ今は忙しいから」
「そうだ。俺は忙しいんだ」

向日との間に跡部が入って来る。

「だから試合が出来る日も限られている。
なのにお前はここで何をやっているんだ?本調子じゃないのなら、家で大人しくしてろ。今すぐにだ」
頭ごなしに言われて、さすがにカチンと来る。
「別に、あんたには関係ないんじゃないの」
「どういう意味だ」
「忙しいのなら、無理に試合すること無いんじゃない」
素っ気無く言うと、突然跡部に腕を取られる。

「本気で言っているのかよ」
「ちょっと…、何なの。痛いよ」

ぎゅっと逃げないようにと掴む力に、リョーマは声を上げた。
が、跡部は表情を変えないまま、顔までも近づけて来る。

「送ってやるから、もう帰れ」
「……」

自分のことなど何とも思っていない跡部に、心配なんてされたくない。
その気持ちが、リョーマの態度を更に反抗的にさせる。

「何それ。あんたに指図され覚えは無いんだけど」

言い返されて、跡部は目を見開く。
そして険しい顔で、リョーマの腕をぐいっと引き寄せる。
「いい加減にしろ。昨日ぶっ倒れた奴が、ふらふらしてんじゃねえぞ」
「だから、あんたに関係無いって!」
大声を上げて反論しようとしたリョーマに、「まあまあ」とそれまで傍観していた忍足が止めに入って来た。

「跡部、ちょっと強引とちゃうか?越前本人が大丈夫やって言ってるんやから。
ここは落ち着こうや」
「うるせー。何でお前が仕切ろうとしてるんだ」
「そりゃ俺は正義の味方やからな。困っている奴がいたら、助けたくなるやろ。普通」
「黙れ。このエセヒーローめ」
忍足をスルーして、跡部は再びリョーマを見る。

このままじゃ逃げられないと、リョーマはごくっと唾を飲んだ。
二人きりだなんて、嫌だ。
なんとかしなくちゃと思った瞬間、良い案が浮かぶ。
咄嗟にもう一方の手で、向日の上着を掴む。

「悪いけど!俺、向日さん達とこれから一緒に行動するって決まった所だから」
「え、え?」

向日が驚いたように目を白黒させる。
畳み掛けるようにリョーマは言った。

「さっき誘ってくれたじゃん。俺も行くって言った!
だからあんたとは帰れない。悪いね」
正確には断ろうとしてた所だが、この際形振り構っていられない。
すがるように向日の上着を握り締める。
それを見て、跡部はますます険しい顔になっていく。

「おい、岳人。どうなってやがる」
跡部の冷ややかな視線に、向日は首を横に振る。
「いや、俺はそういうつもりで誘った訳じゃ」
「行こ。向日さん」
嫌がっている向日に、無理矢理引っ付く。

こっちの跡部と必要以上接触しないようにする為にも、
悪いが向日に協力してもらうしかない。

「ふん、どうしても譲らないって訳か」

このやり取りを見て、跡部はやっとリョーマの手を開放する。

しめた。
プライドの高い跡部のことだ。
邪険にされて、腹が立ったに違いない。
このまま去ってくれれば良いと、リョーマがほくそ笑んだ瞬間、
「だったら、俺も行くしか無いようだな」と言われてしまう。

「はあ?なんであんたも行くことになってんの?おかしいだろ」
抗議するリョーマに、跡部は冷静に言った。
「元々、岳人が俺のことを呼んだからな。だったら今後一緒に行動しても、不自然じゃないだろうが」
「おかしいって!だってあんた忙しいんでしょ。もう帰ったら?」
「少し位なら平気だ」
「だからー」

どうしよう、と肩を落とすリョーマに、忍足がぽんと背中を叩く。
「ここは皆で行動しようや。平和への第一歩も大事やで」
「……」

全然フォローになっていない一言に、また落ち込む。
フィギュア好きの忍足と同じように、困った発言に変わりないな、溜息をついた。

「とにかくここで揉めていてもしょうがないだろ。移動しようぜ。
跡部、お前もいつまでも車をそこに置いておく訳にもいかないだろ」
向日が疲れたように声を出す。
どうにでもなれ、というようにも見える。

「それで俺は、お汁粉が食いたい気分なんだけど」
「却下だ。そんな庶民のものが俺の口に合うかよ」
何故か偉そうに腕を組んで言う跡部に、リョーマは「俺もお汁粉がいい」と告げた。
「跡部さんは行きたくないようだから、このまま別行動にしようよ」
「仕方ねえな。今日だけは庶民の味を体験してやってもいい。すぐ車に乗って行こうぜ」
「変わり身早っ。つーか、別の場所に変えてもいいんだぜ。無理すんな……」

おたおたしながら言う向日に、リョーマは「いいよ。お汁粉決定ね」と促す。
「さ、向日さん。一緒に歩いて行こうよ」
「え、何この状況。おかしいだろ!おい、侑士。正義の味方なら、俺を助けろよ」
「えー、別に困っているようには見えへんけどなあ」
「困っているだろ!越前に引き摺られて、跡部に睨まれて、正直怖えんだよ!」

向日に悪いと思ったが、手を放したら最後、また跡部に絡まれそうだ。
この際、ぴったり張り付くことにした。

状況がわからず怯えている向日と、それを睨みつける跡部と、
のほほんと「皆で同じ目的地へ向かう。これぞ平和や」と呟く忍足との四人で、店へと向かうことになった。

















「で、一体どうなっているのか。説明してくれるんだろうな」


向日が行きたいと言った店は、歩いて10分ほどの所にあった。
ラッキーなことに四人掛けの席が一つだけ空いていて、すぐ座ることが出来た。

跡部の隣なんてとんでも無いと、リョーマはさっさと向日と奥へと押し込み、その隣に座った。
しかし、跡部は真正面の椅子を引こうとしている。

(この手があったか!)

正面も危険だと、リョーマは慌てて止めに入ろうとテーブルの前方に両手を伸ばした。
「ここは駄目。他にして下さい」
「何やってるんだ、お前。そんなことしたら一人座れなくなるだろうg」
「じゃあ、帰れば?今日は残念でした」
「ふざけてんのか、てめえ」
また押し問答が繰り返されようとしている最中、忍足が向日の正面の椅子を引きながら言った。
「いいから座れや。越前もそこまでにしとき。店の中で迷惑掛けたらあかんで」
もっともらしい言葉に、跡部とリョーマは一瞬黙る。
「正義の味方としては、この揉め事を見逃す訳には」
「もういい、黙れ」
言いながら、跡部はさっさと座ってしまう。
スルーされた忍足は言い足りないような顔をしているが、
騒ぐのは迷惑行為だと認識している所為で、それ以上は何も言おうとしない。

「で、お前ら一体なんなんだよ」

今までのやり取りを見ていた向日が、ここに来て疑問をぶつけて来た。
当然のことだろう。
「一体どうなっているのか。説明しれるんだろうな」
「どうもこうも。越前に聞けよ。勝手に突っ掛かって来るのはあいつの方だろ」
ふん、と息を吐く跡部を、リョーマは思い切り無視をした。
いないものと考えればいい。
とにかく二人きりになることさえ避けられれば、済むことなのだから。

(俺が考えなきゃいけないのは……戻るべき場所にいる跡部さんだけだ。
こっちのまで構っている場合じゃない)

接触すれば、違いに戸惑い、いやでも動揺させられる。
近付かないのが一番と、リョーマは考えていた。

「跡部はああ言っているけどさ、本当は何かあったんだろ。
言いたいことがあるなら、今の内に言っておけよー」

だが悪気無く言う向日を無視することは出来ない。
リョーマは跡部を見ないように、不自然なほど首を曲げて向日の方だけを見た。

「何も無いっすよ。ただこんな忙しい中、俺にかまけている暇は無いだろって言いたいだけっす。
別れを惜しんでくれる人達もいるみたいだから、そっちに時間を割けばいいのに」

一昨日、校門で会った時に女子生徒達と一緒だったことを思い出し、
指摘するように言うと、何故か跡部が笑った。

「その言い方だと、焼きもち焼いているように聞こえるぜ。そういうことだったのか。よくわかった」
ほー、と納得しているように頷いている。
焼きもちなどと言われて、リョーマはついカッとなってしまう。

「誰が!そんな訳ないじゃん」
ばんっ、とテーブルを叩いて反論する。
何人かがこちらに視線を向けるが、気にしていられない。
そこははっきり否定しておくべき所だ。

きっぱりと言ったのに、跡部は何故か笑みを消さない。

「やっとこっちを向いたな、越前」
「……」
「図星を指されたからって、騒ぐなよ」
「はあ?違うって言ってるじゃん」
「俺にはそうは見えないな」
「目が悪いんじゃないの。眼科行ったらどうっすか」
「ムキになるところが怪しいん」
「だからー」
「お前ら、ほんまにええ加減にせい」

しーっと、忍足が人差し指を口の前で立てる。

「まずメニューでも見て落ち着けや。お店の人を困らすのはあかんで。
正義の味方なら、常に人のことを考えて行動しようや」
「……」
「……」

忍足に言われるのは何だかしゃくに障る。
不本意だが、目を合わせた跡部と意見が一致してしまった。



2009年03月06日(金) 世界の枝葉 4 跡リョ スローモーションシリーズ

翌日。

リョーマはあることを決行する為に、早足で通りを駆け抜けていた。
今日は幸いにも部活は自主練習だ。
試すなら早い方がいい。

(ここだ……)

跡部と別れた後から、おかしな世界に入り込んでしまった。
だからその場所に戻って同じように歩いて帰れば、また元の所に帰れるんじゃないかって。
安易な考えだが、他に良い方法が思いつかない。
やれることは試してみるべきだ。

よし、とリョーマは頷いた。

跡部からいきなり留学の話を出されて、酷く悲しかった気持ちを思い出す。
そうだこの心理状態だと思いながら今度は家へと歩いて行く。
安易過ぎるけど、今はやってみるしかない。

「ただいま!」

大声を出して、リョーマは家の中に飛び込んだ。
小走りだった為、途中息が切れた。
しかしこれで元に戻るのなら、なんてことは無い。

どきどきしながら、人の気配がする方へ近付く。

「あら。おかえりなさい、リョーマさん」
「……ただいま、菜々子さん」
先に帰っていた菜々子が笑顔で挨拶をしてくる。
それに答えて、リョーマはキッチンを覗き込んだ。
まだ時間が早い為、準備もしていない。
しかし和食かどうか、それだけを確認しておきたい。

「リョーマさん、お腹が空いているんですか?」
菜々子がくすっと笑ってリョーマの背後から声を掛けて来た。
「違うけど」
「何か用意しましょうか?」
「ええっと、そうじゃなくて」
ここで夕飯が何か考えても、時間の無駄だ。
リョーマは思い切って、菜々子に尋ねてみることにした。

「菜々子さん!昨日の夕飯って和食だったっけ?」
「え?ええ」
菜々子は戸惑いがちに頷く。
「じゃあ、一昨日はその前は?ずっと和食だった?」
「あら、リョーマさん。何かの宿題ですか?」
「いいから、答えてよ。お願い」
「?ええ、たしかにずっと和食ですよ。だって、おば様は和食が得意ですからね」
「……」

決定だ。
まだ別世界から戻っていない。

母親はどちらかというと和食は苦手料理だ。
家ではほとんど洋食が出ていた。
和食が食べられるのは嬉しいけど、ここは望む世界じゃない。

「リョーマさん?どうしたんですか?」
「俺、ちょっと出て来る。多分、夕飯までには戻るから……」

ふらふらとリョーマはまた外へと出て行った。
自主練習の日だから、本当は父親とテニスをするべきなんだろうが、
とてもじゃないがそんな気分になれない。

(そうだ。時間が、早過ぎたんだ!きっと原因はそれだ!)

もう一度、リョーマは同じ場所に戻ることにしてみた。
ほとんどヤケになっていたかもしれない。

(あーっ、もう!一体、何なの。
こんなこと誰にも相談出来ないし、どうしろっていうんだよ)

話したところで信じてはもらえないだろう。
それどころか、頭が変になったと病院に連れて行かれるかもしれない。

八方塞りってこういう感じ?とリョーマは俯きながら歩き続けた。

そして後少しで、目的の場所に着く手前。

「あれー、越前じゃんか?」
と声を掛けられる。

「なんだよ、こんな所で会うなんて偶然か?
それともまた跡部に会いに来たのかよ」
「向日さん……」
「またって、何や。最近、越前がうちに来ることでもあったんか」
「忍足さん」

忍足と向日。二人は学校帰りらしく、連れ立って歩いている。
氷帝の近くだから、会っても不思議は無いかもしれない。
思わぬ再会に戸惑っているリョーマに、向日が笑顔で近付いて来た。

「なあなあ、どうなんだよ。
あれから跡部と試合したのか?」
「……してないっすよ。ちょっと都合が悪くて」
「はあ?なんでだよ!お前、その為に氷帝にまで来たんじゃないのか?」
「えーっと」
「こら、岳人。少し強引過ぎるで。ごめんなあ、越前」
「はあ」

後ろから、忍足が向日を押さえに掛かる。
と思ったら、ずいっと顔を近づけて来て、
「で?どっちが勝ったん」と言った。

「なんだよ!侑士だって興味深々じゃねえか」
「そらまあ、跡部と越前の試合なら野試合とはいえ興味あるわ」
「だよなー、で、どっちが勝ったんだよ」
「……」

全く話を聞いていない二人に、リョーマは溜息をついた。

「だから試合してないって、言ってるのに」
「えー?でもその内するんだろ?なあなあ、見学させてくれよ!」
人懐っこい向日に、リョーマは思わず頷きそうになる。

そうだった。
元の世界でも向日はこんな風に臆することなく近付いて来て、
いつの間にか仲良くなっていた。
おかげで忍足とも話しをするようになっていたんだっけ……。

そんなことを思い出しながら、リョーマはハッと気付いた。

「忍足さん!」
「なっ、なんや。いきなり」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど!」
この際形振り構っていられない。
何かヒントを得られるのだったら、藁にだって縋りつく。
忍足の腕を掴んで、リョーマは体をぐっと近づけた。

「あのー、深夜のアニメのことで聞きたいんだけど」
「は?アニメ?」
「そう。多分、忍足さんが観てると思う番組で……別世界に飛ばされ先でハーレム状態になっている主人公の話のやつ。
ちょっと続きがどうなったか、知りたいと思って」

これも安易な考えだけど、仕方無い。
どこにヒントが隠されているか、リョーマには見当もつかないのだから。
忍足から聞いたアニメの主人公が元の世界に戻れたのなら、どういう方法を使ったのか。
ひょっとして、それが参考になるかもしれない。

だが忍足はリョーマの顔をまじまじと見た後、ぷっと吹き出した。

「面白い冗談言うなあ、自分。俺はアニメに興味は無いで」
「冗談!?そっちこそ、冗談やめてよ。俺は真面目に言ってるのに」
「大体、なんでアニメなんや。男なら特撮やろ、特撮!」
「え……?」

ぽかんと口を開けるリョーマに、忍足は胸を張って「戦隊こそ男のロマンや!」と宣言した。
「命を張って地球と平和を守る!ああ、俺もいつか選ばれた5人の戦士になって、愛する者の為に戦いたいわ」
「………」
何を言っているのだろう。
さっぱりわからないと、リョーマは軽く首を振った。
あれ程愛していたフィギュアはどうした。
戦隊物のアニメならわかるが、自分が戦士になって戦う?
ありえない!と、リョーマは叫びそうになった。

「侑士の言うこと、まともに聞かないほうがいいぜ」
こそっと、向日が耳打ちをして来る。
「あれはもう病気だ、病気。
この間も体育の時間に、気合で変身してみせるとか言って平均台から何度もジャンプしてみせて。
周囲から顰蹙買って、先生に怒られていた位だからな。
理解しようって方が難しい」
「はあ……」
「下手に同調すると、丸一日DVDに付き合わされて洗脳しようとしてくるぞ。
関わらないのが一番だ」
「岳人!いらんこと言うなや。もしかしたら、越前は浪漫をわかってくるかもしれへんのに」

なあ、と流し目で言われてリョーマは首を大きく横に振った。
見所があると思われたらたまったものじゃない。

「全然、興味無いっす!」
「そうか?越前にはブルーが似合うと思うんやけど。いや、ブラックか?」
「はあ?」
「詳しく聞くな。侑士の特撮講義が始まるぞ」
「……もう遅いみたいっす」

忍足はリョーマに説明するt為、ブルーやブラックとは何か、その役割とはどんなものかと語り始めている。

向日と顔を見合わせて、二人で無視しようと決める。

「で?越前はこんな所で何してたんだよ」
「別に、何も」

まさか元の世界に帰る入り口を探してましたなんて言えない。
適当に誤魔化すと、向日は「暇そうだな」と笑った。
「だったら、俺達と一緒に来るか?腹が減ったから、どこかに入ろうって喋っていた所なんだ。
これも何かの縁だ。行こうぜ」
「えーっと」

どうしよう、と目を泳がす。

こちらの向日はほとんど変化が無く、話をするのは嫌じゃないけど。
今はそれどころじゃない。
考えることは沢山あるのだから、のんびりしている暇は無いと思う。


「悪いけど、今は」
「あー、ちょっと待ってな!」
忙しいからと続けようとしたが、向日の携帯が鳴ったことによって中断させられてしまう。

「もしもし?
あ、うん。今学校を出た所か。そう、その先。
結局来るのかよ。ふーん、いいけど。越前も一緒だけど。そうそう、偶然会った所」
「ええ?」
向日は誰に向かって、何の話をしているのだろう。
しかも自分の名前まで出して。

嫌な予感がする。
今の内にこの場から逃げてしまおうか。

そっと離れようと足を踏み出した瞬間、忍足に回り込まれる。

「ブルーもブラックも嫌ならしょうがないわ。グリーンでどうや」
「まだその話してたんすか!?」

驚愕に目を見開いた所で、すごい勢いで近付いて来た大きな車がリョーマ達のすぐ横に停まった。
もしかして、と体を固くした瞬間、勢いよくドアが開かれる。


「何やってるんだ、越前リョーマ。具合が悪いんじゃなかったのかよ」

第一声から偉そうな声で。
車から出て来た跡部は、不機嫌そうな顔でリョーマを見た。


2009年03月05日(木) 世界の枝葉 3 跡リョ スローモーションシリーズ


夢の中で、あの人の声が聞こえた。

『越前』

良かった。やっと悪い夢から覚めたんだ。

目を開けたら、まず手を掴んで。
そしたら、もう二度と離したりしない。


ぱっちりと、リョーマは目を覚ました。

「よお。起きたか」
「跡部、さん?えっと、ここは」
自分の部屋のベッドだ。
いつの間にか移動している。
跡部はそのすぐ隣に椅子を持って来て、腰掛けている。

「覚えていないのかよ。俺と話をしていた途中にぶっ倒れただろうが」
「あー、うん。あの続き、ね」
ということは、まだ元の世界にもどっていないようだ。
がっかりして目を閉じるリョーマに、跡部は「大丈夫か?」と心配そうに顔を覗き込んで来た。

「いきなりぶっ倒れたから驚いたぜ。自主トレのし過ぎかよ?」
「そういう訳じゃないっす」

この二日の間、身の上に起こったことで悩んでいるとはとても言えない。
どうせ信じてもらえないだろう。

「それよりなんでここに跡部さんがいるの?もしかして、俺のことわざわざ送ってくれたとか」
話題を変える為に、リョーマは再び目を開けて跡部に問い掛けた。
「そうだ。感謝しろよ」
「家とかよくわかったね」
交流も無いのにと思ったが、疑問はすぐに解消する。
「桃城に聞いた。倒れたお前をコートに連れて行ったら、すっ飛んで来たぞ。
送って行くと言ったんだが、自転車に乗れる状態でも無かったからな。
俺は車で来ていたから、ついでに送ってやると奴に言ったんだ。
ああ、そうだ荷物はそこに置いといてやったぜ」
「はあ、なんかすみません」
「気にするな」
跡部は軽く肩を竦めた。

「それよりお前の父親はどうなっているんだ?」
「親父が?会ったの?」
「ああ。インターフォン押したら出て来たんだがな。
寝せておけば治るとか言って、いい加減過ぎるぞ。
おい、あんまり辛かったらちゃんと病院に行けよ」
南次郎なら、適当に対応しそうだ。
リョーマは気にすることなく答えた。
「大丈夫っすよ。それにうちの親父はいつもあんなもんだから、気にしなくていいよ」
「ふーん。サムライ南次郎がどんな人物か興味があったけど、
家では割とおおざっぱな人なのか」
「加えてスケベ野郎っす」
「……そうなのか」

こくんと頷いた後、リョーマは「ありがと」と小声で礼を言った。
「送ってくれて助かった。今度改めてお礼をするから」
「おいおい、本当にどうしちまったんだ」
くくっ、と跡部は目を細めて笑った。
「越前リョーマとあろう者がずいぶんしおらしいじゃねえか。
まさかお前、また記憶を失ってるなんて言うなよ」

全国大会でのことを持ち出されて、リョーマは「違うよ」と眉を寄せた。
「何度も記憶を失ったりしないって」
「だよな」
「だから感謝しているだけだって。
ほとんど……面識も無いのに、ここまで送ってもらってさ」

ここでの跡部とは、試合会場以外では会っていない。
他人も同然だ。
わかっていても言うのが辛くて、少し掠れた声になってしまった。

具合が悪いと思ってくれているようで、特に跡部は不審に思っていないようだ。
椅子にふんぞり返って、腕を組んで答える。

「別に。今日はお前と打つつもりだったからな。時間に空きがあっただけだ。
それに目の前で倒れた奴を放っておけなかったからな」

そう言って跡部は、視線を逸らしてしまう。
柄にも無く親切なことをして、照れているのだろうか。

リョーマは元の世界にいた跡部のことを思い出した。
威張っているくせに優しい所があって、それを指摘すると「別に大したことじゃない」と横を向いてしまう。
面と向かって感謝されることに、抵抗があるらしい。
本当におかしな人だ。

もしかしたら、目の前に居る跡部も同じかもしれない。

だからリョーマはわざと、言ってみることにした。
「跡部さんって、優しいね」
「はあ?お前、何言ってるんだ」
「だって、本当のことじゃん。わざわざ俺のこと送って、目が覚めるまでついていてくれたんだから」
「違うっ。俺は暇だったからだけで、そうだ!これはただの時間つぶしだ。
感謝される程のもんじゃねえよ」

何を必死に言い訳しているんだか。
この反応は変わらないんだなと、リョーマはひっそり笑った。
それを咎めるかのように、じろっと睨まれてしまう。

「全く、なんなんだお前は。
こっちの調子が狂わされる……」
「そういうつもりは無いけど、あんたが一々面白いこと言うからね」
「面白がるなよ」
一瞬溜息をついた後、跡部は真面目な顔になった。

「なあ、越前」
「何すか」
「お前、何か俺に言いたいことがあるんじゃないか」
「言いたいことって……」

ぎくっとリョーマは体を硬くする。
こちらの跡部は妙に勘が鋭い。
いや、本来知っている跡部が落ち着き無いだけかもしれない。

「別に何も無いけど。なんで?なんでそんなことを言うんすか」
誤魔化すように言うと、跡部は少し首を傾げた。

「そうかあ?昨日からなんかやけに引っ掛かっているんだよな。
今まで何の音沙汰も無かったお前が、急に現れて。
偶然とは思えねえ。
なあ、隠してることがあるならさっさと言えよ。
しばらくしたら俺はいなくなるんだからな。早く言った方がいいぞ」
「……」

リョーマはぎゅっと目を閉じた。
そんなことはわかっている。

『実は両親から卒業したら、留学しろって話が出ている』

跡部は両親からの話を断れない。
期待を裏切るような、そんな事……出来る訳が無い。

「あー、そう」
つい言葉も投げやりになってしまう。
「留学の準備で忙しいんでしょ?だったらもう帰れば?」
「おい、急にどうした」
「もう俺なら大丈夫だから!あんたは新生活のことだけ考えていればいいんだよ!」

まただ。
留学の話を聞かされて、ぶち切れた時と少しも変わっていない。
こんな返し方しか出来なくて嫌になるけど、止めることが出来ない。
本当は留学なんてしたくないと思っているのに。

跡部を追い返すことしか、出来ない。

「お前、いきなりどうした」
「いいから、もう行ってよ」

出て行かないのなら力ずくで、とリョーマは布団から這い出した。
そのまま跡部を部屋から出そうとしたのだが、急に起き上がった為くらっと眩暈を起こす。

「おい、無理するなって言ったばっかりだろうが」
ふtらついた所を、跡部が片腕で支えてくれた。

「いいから寝てろ。出て行けって言うのなら、俺は行くから。
てめえはじっとしてろ」
「……」

布団に押し戻されて、リョーマは黙って横になった。

ここにいる跡部は、自分の知っている彼と違うのに。
錯覚してしまいそうな優しさに、ぎゅっと唇を噛む。
今更、こんなことされてもどうしようも無いのに。


「おい、越前」
「何……」
布団に顔半分を潜らせたまま答えると、
跡部は黙ったまま下に置いてあったらしい自分の鞄から何か取り出した。

「お前が怒っている理由はさっぱりわからないが、
これだけは言っておく。
負けっぱなしで俺は終わらせたりしないからな。
元気になったら連絡しろ。ここに携帯番号書いておくから、絶対掛けて来いよ。
とにかく体を休めることだな。
本調子になったら、決着つけようぜ」

ぽすっと、布団の上に紙が置かれる気配がする。

「じゃあな」
「……」

跡部はあっさりと部屋を出て行ってしまった。

残されたリョーマはその場から動くことなく、じっと体を丸くしていた。


「決着なんて、出来るはずないじゃん……」

そんな今生のお別れみたいなこと。
勝っても負けても、遠くに行ってしまうくせに。
絶対、やりたくない。

(それに、俺は元の場所に帰るんだ。
あの人に構っている場合じゃない)

折角、連絡先をもらったけど。
無視しよう。

どうせなら、勝ち逃げしてやって。
忘れないままでいればいいんだ。


2009年03月04日(水) 世界の枝葉 2 跡リョ スローモーションシリーズ

窓から漏れた光に、リョーマは目を覚ました。

「6時、15分……?」

ベッドの中でも握り締めていた携帯で時間を確認する。
これなら朝練に余裕で間に合う。
もう少しゆっくりしていても、と思った所でがばっと起き上がる。
その動きに、一緒に布団に潜っていたカルピンがもそもそと動き始める。
構ってやる余裕すらなく、リョーマはもう一度携帯を確認してみた。

やはり着信もメールも無い。

どうしようかと迷った所で、ここは思い切って跡部に電話を掛けてみることにした。
彼のことだ。この時間はもう起きているはず。
引退した後も、跡部はトレーニングを欠かしたことは無いと聞いている。
掛けても怒られることは無いだろうと、リョーマはアドレスから跡部の名前を探して着信のボタンを押した。

しかし、
『お掛けになった番号は現在使われておりません』
機械的な音声が流れるだけ。

気が抜けて、またベッドに腰を下ろす。

いくら怒ったとしても、自分に黙って携帯を解約するだろうか。
いや、跡部はそんなことをしない。
「いいか、本当に解約するぞ。するったらするんだからな!」と駄々を捏ねることならしそうだが……。

とすると、考えられる理由はもう一つある。
荒唐無稽で、とても信じられないようなことだけど。

『俺は、跡部さんとの接点が無い世界に迷い込んだみたいだ』

悪夢はまだまだ続いているらしい。

パラレルワールドなんて、と忍足の話を馬鹿にしてたけれど笑えない状態に陥ってしまった。
今いる世界は、自分が過ごしていた場所と微妙に違っている。

「……おはよう」
「おはようございます、リョーマさん」
「あら、リョーマ。今日は早いのね」
「こりゃ雨じゃなくて、雪が降るぞー」
「うるさい、親父」
家族に違いは無い。同居している従姉もいる。
少し変更点があるとしたら、洋食ではなく和食を作ってくれる所だろうか。
ご飯にお味噌汁の朝食って素晴らしい、とリョーマは手を合わせて頂いた。


「おーっす、越前。早いな」
「ちーっす」
朝練へ行くと、早速桃城が挨拶をしてくれる。
それを横で聞いていた海堂がフシュウと息を吐く。
「ふん、この程度の早起きなんて当たり前のことだろうが」
「なんだと、マムシ。俺の言うことにケチつけんのかよ」
「いちいちうるせえって言ってるだけだ」
「ああ?やんのか!?」
学校では現部長と副部長になった海堂と桃城がいつも通りのじゃれ合いをしている。
これも変わらない。

「二人の仲の悪さはいつになったらマシになるんだろう」
「仲が良いからこそケンカしてるんじゃないかな」
「そうだぜ。二人がケンカしていないと、何かあったかって心配になるし」
「うーん、そうかも」
一年のトリオも同様。


(となると、大きな変化は……跡部さん関連だけか)

いつも通りのメニューをしながら、何か変化は無いかと探してみたが、
結局特に目立ったものは見付からない。
跡部とのことだけが消去されてるって、そんなのあるだろうか。

大会以来だな、とハッキリ言われたことを思い出してリョーマは溜息をついた。

この世界では大会後に跡部が声を掛けて来た出来事が消えているらしい。

『おい、越前リョーマ』
今でもはっきり覚えている。
偉そうな顔でしかしどこか落ち着きの無い様子で、跡部が声を掛けて来たこと。
『なあ。またどこかで打たないか?お前ともっとテニスがしたいと、思ってな。
これで終わりなんてなんか勿体無い気がする、だから、その、連絡先を教えてくれ!』

最後は頼み込むような勢いで言われて、
思わず『いいよ』と返事をしてしまった。

あれがきっと分岐点だったと思う。

その出来事が消えれば、跡部との接点は無くなってしまう。

(どうやったら、元に戻れるんだろう)

大体、一日前に戻りたいとは思ったが、
その願いは聞き入られず余計悪い方に転がるってどうなんだ。
これも神様の悪戯ってやつか?

跡部にあんな他人を見るような目をされて……。
動揺する方がおかしい。

(俺のことなんて、どうでも良さそうだった)

これ以上、こちらの世界の跡部と関わるべきじゃないかもしれない。
どうしたって、見知った跡部を重ねてしまうし、違う反応にいちいち傷付いていたら身が持たない。
考えるのは、元の場所へ帰ることだけでいい。
跡部の所へ。
今度こそ、きちんと話をする為に。

そうしようと決めたリョーマだったが、悪いことに真逆の展開が訪れることになる。


放課後の練習が始まる少し前。

「よお、越前。俺様が直々に来てやったぞ」

やって来た客に、テニス部の面々がざわめく。
氷帝の跡部景吾。ここに彼を知らない者はいない。
何故、どうしてと周囲が囁く中、堂々と跡部は唖然としているリョーマの元へと近付いて来る。

「今からちょっと打たないか」
「……えっと」

絶句するリョーマに、跡部は「ああ、そうか。今から練習があるんだったな」と頷いて、
こちらをチラチラ見ている桃城に声を掛ける。

「ちょっとこいつ、借りるぜ。いいよな?
練習相手になってやるって言うんだから、これも部活の延長みたいなもんだろ」
「あ、はい、いいっすよ」

雰囲気にすっかり飲み込まれた桃城は、思わず頷いてしまう。
海堂がこの場にいたらきっと何か言い返すだろうが、
あいにくと委員会とかで来るのが遅れている。

「という訳だ。来いよ、越前」

腕を引っ張られて、リョーマは抵抗することなくコートを出た。

もしかしたらやっぱり昨日のは悪い冗談で、携帯も何かの間違いで、
世界は正しいままなのかもしれない。
だからこそ、跡部が会いに来てくれたと一瞬期待してしまった。

しかし現実はそんなに甘くなかった。


「昨日、俺を挑発して来た威勢はどうした。
テニスがしたいんだろ?だったらもっとしゃきっとしやがれ」

呆れるように言われて、リョーマは目を見開いた。
昨日の態度と少しも変わっていない。
恐る恐る、聞いてみる。

「……テニスの誘いに来ただけっすか?」
「他に何がある」
跡部は怪訝な顔をした。
「忙しい中、わざわざ来てやったことを感謝するんだな。
もう一度お前と打ってもいいと、気が向いただけだがな」
「……」

跡部の言葉に、リョーマは肩を落とした。
聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。

「もう、いいよ」
「あん?」
リョーマは腕を掴む跡部の手を振り払った。

自分の知っている跡部じゃないんだったら、
一緒にいても、意味が無い。


あの人じゃなきゃ、嫌だ。

「わざわざ来てもらって悪かったね。
でも、もうあんたとは打たない」
「どういうことだよ。俺と打つ為に昨日わざわざ氷帝に来たんじゃないのか?」
不機嫌そうに跡部は言った。
「どうせお前にもあの話が耳に入っているんだろ?
次はいつ打てるかわからないから、焦って来たってことはお見通しだ。
俺もお前にきっちり勝ってから、留学に弾みをつけたい所だな」
「やっぱり……こっちでも留学の話が出てるんだ」
「はあ?何言ってるんだ。そう言ってるだろ」
「そうだよね。そうだと思った」

顔を伏せるリョーマに、跡部は不審げに顔を覗きこんで来る。

「一体どうしたんだ。お前、本当に越前かよ。
やけに元気が無いみたいだが、調子でも悪いのか」
「そう、かも」

調子も何も全てが最悪だと、心の中で呟く。

「マジかよ」
リョーマの返事を真に受けた跡部は、困ったなというように前髪をかき上げた。
「さすがに病人を相手に勝っても面白くねえ。全く間の悪い奴だな」
「勝手に押し掛けて来たくせに何言ってんの。
あんたはいつだってそうだよ。人のことなんておかまいなしで。
そうやって入り込んで来て……」
「おい、越前?おい!」

ふっと、リョーマの意識が遠くなって行く。
色々考え過ぎた所為で頭が痛い。

遠くで跡部と同じ顔をしているけれど、違う彼が何か叫んでいるけれどはっきりと聞こえない。

ぼんやりしたまま、リョーマは今度目が覚めたら元の場所に帰っていないかなと考えた。

リョーマがよく知っている、跡部の元へだ。


(もし、あの時跡部さんが声を掛けて来ることがなかったら。
俺達は何の接点も無いまま、別々に過ごしていたのかな)

多分、そうだろう。
一度試合をしただけの相手。跡部との間に他に何も無い。
偶然でも無い限り会うことも無く、別々に過ごしている人生。

それはなんて寂しいんだろう。

鬱陶しいくらい勝手にジタバタしていて、
笑ったり顔を赤くしたり、時に泣きそうにしている彼を知らないままなんて。

そんな人生は、きっとつまらない。

だって彼の笑顔を見ると、リョーマも幸せになれるのだから。
やっぱり側にいて欲しい。

(それだけじゃない……)


誰かに失望されるのが怖いと跡部は言っていた。

そんな彼に失敗したり格好悪い所を見せたとしても、
失望なんかしない、そのままでも受け入れる人がここにいると言って安心させたかった。


2009年03月03日(火) 世界の枝葉 1 跡リョ スローモーションシリーズ

酷いことを言ってしまった。

その瞬間の跡部の顔を思い出し、リョーマはひどい後悔に襲われた。
いくら腹が立ったとはいえ、ちょっと今回は言い過ぎたかもしれない。
もっとよく話を聞いてあげるべきだった。
跡部にだって言い分はあったはずだ。

なのに一方的に遮って、挙句に「跡部さんの顔なんて見たくない」と、
そっぽを向いて走ってその場から逃げた。
追って来るかと思ったが、その気配も無い。
ショックを受けて立ち竦んでいる可能性が高い。

(あーあ、やっちゃった)

小石を蹴飛ばして、リョーマは項垂れた。
陽が落ちて暗くなって行く周囲と同様に、心が落ち込んで行く。
いっそのことさっきの話を聞く前に戻れたら、と思ってしまう。
そうしたら今度は冷静に対応……出来るかもしれない。
このまま何も無かったように一日前に時間を巻き戻しすることが出来たら。

(無理だってわかっているけどね)

馬鹿みたい、と自分を笑う。
こんな所で立ち止まっている位なら、振り返って跡部のところに戻ればいい。
そしてちゃんと話を聞くって言えば、すぐに跡部はさっきのことは気にしなくていいと笑って迎えてくれるはずだ。

出来ないのは高過ぎるプライドと、意地の所為だ。
大体、跡部とはまだ恋人として付き合っている訳じゃないとリョーマは思っている。
誰よりも一緒に過ごす時間が長いとはいえ、まだ友人の範囲は超えていない。
跡部が「好きだ」と言わないのなら、このまま生殺しにしてやると変な意地を張っていた。
どうせ先に折れるのは跡部の方に決まっている。
そんな風にリョーマは気楽に構えていた。

しかし、そこへまさかの話。

「実は両親から卒業したら、留学しろって話が出ている」

頭に石をぶつけられたような衝撃が走った。

あんたそんな事、一言も言わなかったじゃん。
卒業をすぐ前に控えていきなり爆弾発言出すか?
パニックになりながらも、リョーマはそう言えば……と考える。
思えば予兆はあった。
ここの所、学校でも家でも忙しそうにしていたのはその所為だったらしい。
裏で準備を進めていて、何食わぬ顔をして会っていたかと思うと悔しくて、腹が立って。

つい、感情のままに跡部のことを罵ってしまった。


(どうするんだろ、これから)

跡部は自分から離れたら禁断症状を起こして生きて行けないんじゃないかと思っていたが、
錯覚だったようだ。
留学の話を口に出した時も、取り乱すことなく冷静で。
案外離れても平気かもしれない。
向こうで新しい出会いを探して、幸せになることだって考えられる。

(最悪)

そんなの想像したくないと、リョーマは首を振った。

(戻りたい、一日前に。
そうしたら今度はちゃんと話を聞いて、今後どうしたいのか、もう会えなくなるのかって聞けるのに)

そんなことを考えているくせに、跡部のところへは戻らない。
ふらふらと家へと向かう。
つい、期待してしまうからだ。
涙を溜めた跡部が「悪かった、さっきの話は無しだ」と追って来るかもしれない。
そんな都合の良いことを考えている。

夕陽が落ちて、夜のとばりが周囲を覆い始める。
誰もいない道のりは、異次元への空間がぽっかりと口を開けていそうな雰囲気で。
なんだか心細くなって来て、リョーマは少し早足で通りを駆け抜けて行った。



「ただいま」

家に到着したが、そこに跡部はいなかった。

当たり前だ。
あれだけ怒ってみせたのだから、愛想を尽かされてもおかしくない。

(どうしよう)

絶望感に重くなる足を動かして、リョーマは口を脱ぎ玄関から居間へ移動した。

「おかえりなさい、リョーマさん」
「ただいま、菜々子さん」
先に帰っていた従姉が振り返って、迎えてくれる。
「あれ?今日は和食なの」
「ええ、そうですよ」
テーブルに並んだ夕飯を見て、リョーマは目を丸くした。
「珍しいね」
「何が珍しいんですか?」
「何がって、その、メニューが」
鯖の味噌煮にれんこんのきんぴら、ほうれん草としめじ・にんじんの白和えに。
味噌汁からはふわっとあさりの香りがした。
育ち盛りのリョーマに物足りないようにと、豚肉とキムチと春雨を炒めたものも添えられている。
いつもは洋食メニュー中心なのに、変だなと首を傾げる。

「何か足りないものでも、あるんでしょうか」
「そうじゃ、なくって。和食なんて久し振りだから」
かみ合わない会話にじれったくなって、リョーマは思ったことを口に出した。
すると菜々子は目を丸くした後、くすりと笑う。
「あら、昨日も和食だったのに、もう忘れたんですか?」
「え?」
「からかっているんですね。もう、リョーマさんったら冗談が下手ですよ。
さあ、制服を着替えに行って下さい。その間に支度を終えておきますから」
「……」

そうじゃないんだけど、と言おうとした言葉を飲み込む。
従姉は本気で昨日の夕飯のメニューが和食だと思っているようだ。
たしか、カレーだった気がするが忘れてしまったのだろうか。

(それとも、俺の記憶の方が間違っている?)

段々自信が無くなって来て、リョーマは黙ったまま自室に向かった。
要は美味しいご飯が食べられればそれでいい。
この件について言及するのは止めようと、思考を閉じた。





そして、翌日。

「もう、朝か……」

大あくびして、リョーマはベッドから降りた。
眠いはずなのに、早く目が覚めてしまった。
跡部からの電話かメールがあるかとずっと携帯を握り締めて布団に潜っていたのだが、
ついに連絡が来ることは無かった。
待っている間に、いつの間にか眠っていた。
だが携帯には着信もメールも入った形跡は無い。

「行って来ます……」

朝食も和食メニューだったが、何も言わずに平らげた。
そしてすぐに朝練へ向かう為家を出る。

歩きながら、リョーマはまた跡部のことを考えた。

授業が終わったらすぐ氷帝へ向かおう。
幸い今日は自主練習の日だ。どこで何しようが咎められることは無い。
とにかく今やるべき事は跡部と会って話をする、それが最優先だと思う。
長引かせた分、また顔を合わせ辛くなる。
留学してしまうのなら、尚のこと残された時間が惜しい。
もう一度、話をちゃんと聞こうとリョーマは決意をした。


そうなったら、早く時間が過ぎて放課後になるのを待つだけだ。

そわそわしたままのリョーマは朝練でもイージーミスをして注意され、
授業中もまるでうわの空だった為何度も当てられてとんちんかんな回答をしてしまった。
これだけ散々な目に合うのも、昨日跡部の話をちゃんと聞かなかった罰だろうか。
我慢我慢と言い聞かせて、なんとかリョーマは学校での一日を乗り切った。

そして最後のHRの時間が終わるや否や、鞄を引っ掴んで教室を飛び出す。
一秒が惜しい位だ。
もし氷帝で捉まえることが出来なかったら、自宅に行くしかない。
敷居は高いが、この際構っていられない。


何度も足を運んだことのある氷帝の門の前に辿り着く。
下校時刻を過ぎた後も、何人かの生徒達が出て来て他校の制服を着たリョーマにちらちらと視線を向けて来る。

ここにいれば、跡部と会えるだろうかと思ってハッと気付く。
待ち合わせをしている時は決して跡部は車を使わなかった。
だが、今日は一人だ。
車に乗って帰ってしまうんじゃないだろうか。

(うわ、俺の馬鹿)

駐車場ってどこだったっけど、焦ってしまう。
どうしようと校内を覗き込んで、リョーマは遠くに見知った人物を見付けて声を出す。
「向日さん!」
これぞ天の助けだと思った。
向日にお願いして、跡部を呼び出してもらおう。
そうするのが一番いい。彼ならきっと助けてくれるはず。

名前を呼ばれた向日は、怪訝な顔をしてこちらを向いた。
そしてなんだか驚いたように目を見開いて、じっと見詰めてくる。

(どうしだんだろう)

反応が鈍い向日に、リョーマはもう一度声を掛けてみることにした。

「ねえ、向日さん!ちょっと、お願いがあるんだけど!」

向日はやっと小走りで近付いて来た。
一体、どうしたというのだろう。いつもなら先に声を掛けてくれるはずなのに、何だか立場が逆になった気がする。
そんなことを考えているリョーマに、真正面に立った向日が恐る恐るというように声を掛けて来る。

「お前、……青学のルーキーだよな。俺に何の用だよ」
「え?何言ってんの」
「いや、こっちの台詞だけど」
「あの、冗談止めてよ。全然笑えないよ」
「冗談でもないし、なんでお前がそんなに親しげなのか教えて欲しい位だ。何かの仕掛けかよ?」
「違う、けど……」

段々とリョーマの声が小さくなっていく。
向日の真面目な表情に、どう応えたらよいかわからない。
まるで初対面かのような対応。誰かどうなっているのか、説明して欲しい。

「おい、岳人じゃねえか。何やってるんだ」

聞こえて来た声に、リョーマは顔を上げた。
間違いなくさっきまでは、この人と会う為にここに来たはずだ。
だから本来の目的を果たそうと頭ではわかっているのに……。

「当てつけっすか」
「はあ?」

跡部は数人の女子を連れて歩いている。
何か事情があるにしても、昨日の今日でこれは無いだろう。
ムカついたまま、リョーマは棘のある言葉をぶつけてしまう。

「そういうこと?だったら気兼ねなく言ってくれれば良かったのに。
遠回しじゃなく、縁を切りたいってそう言えば」
「おいおい、何の話だ」

跡部は肩を竦めて、リョーマに近付いた。

「久し振りに会ったと思えば、いちゃもんつけてケンカしようって訳か。
相変わらずだな、越前リョーマ」
「久し振りって……」
「たしか大会以来だろ。違ったか?」
「大会って、だって昨日も」

混乱するリョーマの頭に、つい最近聞いた言葉がふっと浮かぶ。



『世界はいくつもの枝に分かれているんやで』



違うこれは悪い夢だ。
きっとそうに違いない。

「あ」
「おい、越前!?」

向日と跡部の言葉を無視して、リョーマは走り出した。
早くベッドに入って、こんな悪夢から覚める為に。



もしも。
逃げ出したいと思って、別の世界へ行けたとして。
その世界が今より優しくない場所だったとしたら。
あなたは、どうしますか?


2009年03月02日(月) 例えば、こんな話 跡リョ スローモーションシリーズ


「世界はいくつもの枝に分かれているんやで」

真面目に言う忍足の手には新しいフィギュアが握られている。

「また買ったんすか」
「ほっとけ、越前。侑士のはもう病気だ、病気。あれは治らないって」
呆れるような顔をするリョーマに、隣にいた向日はぽんと肩を叩く。

跡部が帰りと遅くなるというので、リョーマは気まぐれで氷帝に迎えに行くとメールした。
校門の付近で待つことにしたのだが、そこを通り掛った向日と忍足に見付かって、引き摺られるようにしてベンチまで連れて行かれた。
最初は跡部が来るまで他愛の無い雑談をしていたのだが、その内に忍足が段々と暴走して、
いつものようにフィギュアを持ち出した。
というよりも、これを見せびらかしたくて仕方なかったのだろう。

「お前ら、俺のことを馬鹿にしとるけどなあ。
もしかしたらこの美少女達が自由に喋って歩き回って俺と生活いている世界がすぐそこにあるかもしれへんで」
「また深夜に何か怪しげなアニメを見ていたのかよ」
うんざりするよう呟く向日に、忍足は「そうや」と頷いた。
「主人公が朝起きると、この子の名前レインちゃん言うんやけど、起こしに来てな。
『学校行こうー』言うんや。けど、主人公はそんな子知らへん。
『誰?』言うと、レインちゃんがばしっと頭叩いて『幼馴染を忘れたって言うの?』と怒るんや。
幼馴染なんていないと思いつつ学校へ行くと、今度は『おっはよー』ってサンって無邪気系の同級生が抱きついてくる。そこでレインちゃんとの三角関係勃発や。
勿論、もう一人の子も知らない。クラスメイトの顔も知らない人ばかり。
何かおかしな世界に紛れ込んだと主人公はそこでようやく気付くんや。
もしかしたらパラレルワールドに入ってしもうたのかもしれへん。
今までと違う道を選んで、元いた場所と出会っていなかった人々といることになったこの世界。
事態をどうしようかと悩んでいると、また新たな美少女が」
「あ、ああ…もういい」
「何か、ついていけないんだけど」

おなか一杯だという顔をして、向日とリョーマは顔を伏せた。
だが忍足は「話はこれからや!」と止めようとしない。
「様々な美少女に囲まれた素晴らしい世界に留まるか、それとも灰色だった元の世界に戻るか。
苦悩する主人公の決断は」
「随分、饒舌じゃねえか。ああ?」

不機嫌そうな声が響く。
誰かと問うまでも無い。

「待たせたな、越前。おかげでお前の耳にくだらない話を入れる結果になったな。
今のは全部忘れてくれ。頼む」
「跡部さん……」
「侘びはこいつにきっちりさせてやるからな」
さっと忍足の手からフィギュアを取り上げると、忍足が悲鳴を上げた。
「やめてぇぇえ!レインちゃん、返してな!」
「いっそんこと、いっそのことこんな人形が無くなれば!」
「人形ちゃうわ!レインちゃん達は俺の存在意義や!この世の愛の結晶や」

泣きそうな顔で喚く忍足に、向日とリョーマは顔を見合わせて溜息をつく。

「おい、跡部。その位にしてやったらどうだ。壊したら心臓発作を起こしそうな勢いだぜ」
「そうだよ。俺、早く帰りたいんだけど。いつまで忍足さんに構っているつもり?}

リョーマの言葉が決定打になったようだ。
跡部はぽいっとフィギュアを忍足に投げ返す。
「あああ!レインちゃん、他の男の手に触れられて可哀想に。
後で消毒してやるさかいに、堪忍な」
「そういう発想が出て来るのがキモイって理解しろよ、侑士……」
向日の言葉など聞こえないかのように、忍足は‘レインちゃん’をハンカチで拭い続けた。

二人を無視して、跡部はリョーマに向き直った。
「待たせて悪かったな、行こうぜ」
「うん」
今日は跡部の家のコートで打つことが決まっている。
待たせたお詫びに休憩時にはいつもより豪華な菓子を出そうと歩きながら考える。


「最近、何か忙しいよね」
「は?」
リョーマ会話を振られて、跡部はぽかんと口を開けてしまった。

一緒に帰る時には、ほとんど車を利用しない。
理由は少しでも長く会話をしていたい。ただそれだけだった。
コートに入ってしまえば、後はテニス、テニス、テニス……。
それも楽しいけど、今はもっと距離を縮めることに時間を掛けたい。
なんとなくだけれど、リョーマはテニスをする以外を避けていると気付いている。
デートするにはまだ照れがあるのだろうと、今は無理に誘うことはぐっと我慢中。
だからせめて移動の間位はのんびり二人で歩いて会話を楽しみたい。
といっても、ほとんど話し掛けるのは跡部の方からばかり。

それが、今日はどうだ。
リョーマから話し掛けてくれた。
突然の変化についていけず、間抜けな声を出してしまった。

跡部の反応にリョーマは首を傾げ、「三年生ってやっぱり忙しいんすかね」ともう一度尋ねて来た。
咳払い一つして、平静を装ってきちんと回答をする。
「まあ、そうだな。暇な奴もいるけど、俺は多分今が忙しい。
卒業すりゃ少しは落ち着くだろうがな」
「ふーん」
「何だよ。待たせたこと怒っているのか?」
それは無いだろうなと思いつつも、一応聞いてみる。
話題の軸をずらしていく為だ。
あまりこれ以上突っ込まれるのは困る。

リョーマは「そういう訳じゃないけど」といつものようにツンとした言葉を返してくる。予想通りだ。
「あんたの方がいつも待っているんだから」
「そうだな」
「即答かよ」
「いつものことだからな。それにしても氷帝の前で待つのは危険だとよくわかった。
忍足のくだらない話に影響されたらたまったものじゃない」
「それは無いよ。何考えてんの」
呆れた顔でリョーマが言う。
「それいあのフィギュアって高いんでしょ。そんなもの買うくらいなら、ファンタ買うって」
「たしかにお前の小遣い軽く吹っ飛びそうだな」

忍足から取り上げた特注越前リョーマフィギュアの値段を思い出して、跡部は首を振った。
あの後も「バスタオル一枚だけ巻いたバージョンとか作る気ないか?」と特注の誘いにふらふら乗りそうになったが、何とか堪えた。
危険な世界に自ら飛び込んではいけない。一体あれば十分だ。
勿論、今日も「おはよう」ときちんと挨拶をして家を出た。
返事がある訳じゃないけれど、笑顔のままのリョーマフィギュアが「行ってらっしゃい」と言っていた気がする。

「跡部さん……?」
沈黙を不審を思ったリョーマが、じっと見詰めてくる。
「あ、いや…あんな人形相手にあいつも虚しくないのか。さっぱりわからないな」
誤魔化すように言ったせいか、わずかに声が裏返った。
リョーマはまだ探るような視線を向けていたが、動揺を隠して知らん顔を決め込む。
しばらくすると諦めたらしく、「そうだね」と小さく同意した。

「でも忍足さんのあの位の意気込みがあれば、本当にフィギュアハーレムの世界に行けるかもしれないっすよ」
「何だ、それは」
「ああ、さっき聞かされた話。跡部さんは途中からしか聞いてなかったんだっけ」

忍足から聞いた話を、リョーマは全て語った。
「と、いう訳。ちょっと面白いよね」
「そうか?忍足の妄想が俺には怖く思えるけどな」
将来のこととか大丈夫かと、柄にも無く心配になる。
今度それとなく向日に確認するべきだろうか。

「そうじゃなくって、世界が枝のように分かれているって話の方」
違う、とリョーマは片手を振ってから続けた。
「忍足さんが言っていた話を考えてみると、面白いかなって。
例えば俺達が今ここにいるのも、様々な選択肢を辿って来たってことで。
もし別の道を選んだのなら、例えば違う学校に入学したり、んーっと俺が日本に来なかった可能性の世界もあるってことじゃない?
そういう道を進んでいたら、どうしたかなと思って」
「どうもしねえよ」

自分でも驚くほど、はっきりと否定の声が出た。
「跡部さん?」
「結局巡り巡って、出会えていたんじゃねえか?
それで今みたいに、くだらないことを会話しながら一緒に歩いている。
俺にはそんな世界しか無いと思う」
「……」
「もし、なんてありえもない話をするな。いや、忍足の所為だな。
あいつがくだらないことを言わなかったら……やっぱりあのフィギュア捨てて置くべきだった」
「そんなことしたら本気で泣くからやめておきなよ」
笑いながら、リョーマが言う。
「もういいよ、変なことは言わないから」
「ああ」
「そういうことは言うのに……」
「どうした?越前」
笑顔を消したリョーマに尋ねると、「なんでも無い」と肩を竦めて返される。

「長期戦でも構わないって決めてるんで」
「なんだよ、全然わからねえぞ」
「いいから、いいから。でもさ、こうであって欲しい世界に行きたいとは思わない?
例えば蛇口からファンタが出る世界とか、無いかな」
「それは遠慮したい」
「ええ?なんで?」
「当たり前だろ。そんな世界より、もっと……」

ちらっとリョーマの方を見て、考える。

(別に、俺はこいつが側にいれば他に何も。
ああ、もうちょっと近くに寄って欲しいとか願望はあるけど、それはいつか叶えられると決まっているからな。
どうせなら、……そうだ!越前に埋め尽くされる世界とか!
100人の越前と過ごす毎日。いいぞ、これだ。
100人とも幸せにする自信はある。どこへ行っても、越前ばかりで。
そんな世界なら、考えてやってもいい)

「あのー、跡部さん?」
「100人一緒に眠れる程のベッドが必要だな。任せな、俺に不可能は無い」
「もしもし?」
上着を引っ張る感触に、跡部は妄想から目を覚ました。

「え、越前?」
「大丈夫っすか。今どっか行きかけていたけど」
「いや、大丈夫だ。……どうやら疲れているらしい」

忍足の話に影響を受けたのは自分の方かと、落ち込む。

「そんなに疲れているなら、今日はテニスやめる?」
気遣ってくれるリョーマに、「いや、やろう」と慌てて声を上げる。
「ちょっと気合が足りないみたいだ。お前とテニスして、余計な邪念を払いたいくらいだ」
「邪念?そこまで言うのなら、いいけどさ」

ぐいっとリョーマが近付いて顔を覗きこんで来る。
「あんまり、無理しないでよ」
息が掛かるほどの距離で言われて、跡部は顔を赤くしながら頷く。

「じゃあ、今日は軽く打つ程度にしようか」

そう言ってすぐに離れてしまった。
残念に思いつつも、大人しくすぐ隣を歩く。

(やっぱり俺のいるべき世界は、ここだな)

リョーマがいる。
他にも選択はあったかもしれないけれど、
今ここにいる自分は間違っていないと、改めて認識する。



だから、この先もリョーマと一緒にいられる世界が続きますように。


2009年03月01日(日) 今日から、君と   跡リョ スローモーションシリーズ

ファンタを飲んでいるリョーマの顔はふてぶてしい。
奢ってもらっているのに、そんな表情は無いだろと跡部は思ったが黙っていることにした。

自販機の前で「ファンタか?」と先に申し出たのは自分の方だ。
なのに「あ、どうも」とおざなりな感謝の言葉に物足りないと感じるのは、器が小さい気がしてそのまま流した。
それにふてぶてしいと思えるリョーマの顔も、実は内心では結構喜んでいるのかもしれない。

あまり越前リョーマが表情を変えるところを、跡部は見たことが無い。
ニヤッと挑発的に笑うか、無表情か、むっとしているか。
こっちも愛想が良い方じゃないので、この件に関して追求するのは止めにした。

しかしどうしてだろう。
最近よくリョーマのことを考えてしまう。

大会以降から、外でリョーマと会うようになって、今日もこうしてコートで一度打った後だ。
今はベンチで休憩中。一緒に並んで座っているのが、信じられない位だ。

公式で負かされた相手だからだろうか。
やたらとリョーマのことを気にしてしまう。
しかしリョーマは跡部ほど気にしていないらしく、今もファンタを飲みつつ黙ったまま空を仰いでいる。
まるで隣に跡部がいようがいまいが、関係ないように。

その平静さがイラつく。
なんでこっちばっかりお前のこと考えていないといけないんだとか、訳のわからないことを怒鳴りそうで恐ろしい。
そんな言葉を口にしたら、リョーマはきょとんとして「何で俺が怒られるわけ?」と言うい違いない。
真っ当過ぎて、心が痛くなる。
そう、リョーマは何も悪くないはず……。

なのに穏やかだったはずの、心を乱してくる。

全国大会が終わった後、跡部はすぐにリョーマのことを捕まえて、
またテニスしないかと誘った。
今思い出しても、のた打ち回るほど恥ずかしい行動だ。
『自分から』誰かに声を掛けたことなんて、なかったから。
口に出す前は若干緊張もした。
汗をうっすらかいていたのも、決して夏だったからじゃない。

なのにこいつは人が勇気を出して誘ったのにも関わらず、
「いいよ」とあっさり言いやがった。
なんだ、その軽い返事は。
断られるのもムカつくが、声を掛けてきたら誰でも承諾するのかと言いたくなる。
勿論、この時も黙っていたけど。

リョーマを誘ったのはテニスの実力もあってのことだが、
威勢のよさも生意気なところも気に入ったからだ。
普通の一年生なら跡部を見ただえで、怖気たり、羨望の目で見たりするのが普通の反応だ。

「俺と試合しようよ」

あんな真っ直ぐな目を年下のガキから向けられたのは初めてだった。
ただの怖いもの知らずなら鼻で笑うところだが、口だけじゃない所に仕方無いなと思わせてしまう。
しかしもうちょっと向こうから歩み寄ってくれてもらえないかと、跡部はそっと溜息をついた。
一人で壁打ちをしている感覚に、最近虚しさを覚えるようになったからだ。


「なあ、越前」
声を掛けると、リョーマは振り向いて跡部を見た。
愛想は悪いが、決して無視することは無い。
話もちゃんと聞いてくれる。
だからまだ救われていると、跡部は胸の中で呟いた。

「何すか」
「ええっと」

しまった。
声を掛けたのはいいが、話題を用意していない。
天気の話をしたところで、「あっ、そ」で終わってしまう。
テニスの話題、これはしょっちゅうしている。
他に何か無いだろうか。

考えて、跡部は適当に思いついたことを口にした。

「お前って、怖いものとかあるのか」
「は?」

リョーマは目を瞬かせた後、跡部を凝視した。
変なことを口走ってしまった。引いただろうか。
こんな時に限って、フォローの言葉が浮かばない。
駄目だろ、と頭を抱える跡部に、リョーマが口を開いた。

「今は特に無いっす」
「ああ、俺はどうかしてた……って、え?」
「だから今は無いって言ったんだけど、これ返事になってない?」
ちゃんと答えたのにと、リョーマがムッとする。
「いや、考えて話してくれたのが意外、だったからな」
「何それ。聞かれたから答えただけじゃん」
「あー、そうだけどよ」

初対面の印象から、人の話は聞かない、一方的に自分の言いたいことだけ言う奴だと思っていたが、
実は違うって気付き始めている。
下らない質問でもちゃんと聞いていて、今みたいに答えてくれる。
何だか嬉しくなった。

「怖いものは無いのか……。そうだな、お前ってそんな感じ」
跡部の言葉に、リョーマは表情を変えずに言った。
「今は、って言ったじゃん。これから出て来るかもしれないけよ。
まだ知らないだけかもしれない」
たしかにリョーマの言う通りだ。
生きていればこの先、傷付くことも悲しいことも恐ろしいことにも、ぶつかって行く可能性はある。

「そうか……じゃあ、そんなもん知る機会が無ければいいな」
「うん」

真面目に頷くリョーマに、なんだか微笑ましいなと思ってしまう。

「で、あんたの怖いものって?」
「何だ?」
「人に聞いておいて、自分が話さないっていうのはフェアじゃないっす」
「無いって答えておいて、よく聞けるな。まあ、いい。
俺が怖いと思うのは……」

ふっと浮かんだ光景に、跡部は顔を伏せた。
ああ、嫌だ。何でこいつといる時に思い出してしまったのだろう。
考えたくなんて、ないのに。

黙ってしまった跡部に、リョーマがそっとファンタの缶を腕に当ててきた。
「冷たっ」
「答えたくないなら、別にいいよ。気まぐれで聞いてみただけだし」
そう言って、またファンタを飲む。
何かを察知して気を使ってくれたらしい。
意外な優しさに跡部は目を見開いた後、表情を元に戻して笑った。

「別に大したこちじゃねえよ。
俺が怖いのは、そう、失望ってやつだ」
「失望?」
「ああ、特に両親からのな。見ての通り、うちは把握出来ない位の金持ちだろ。
で、普段ほったらかしにしている割に、あの二人は俺に人並み以上の期待を掛けてきやがる。
一度それに応えられなかった時があってな……」

責めるような母の目と、父からの咎めの言葉。
その時雇っていた家庭教師は有能だったのに、
跡部が一番を取れなかったのを汚点としてすぐに解雇した。
本当はテスト当日に跡部が風邪を引いたのが原因だった。
ふらふらになった体で、それでも休まず学校に行って試験を受けたのに、
無駄になったかと思うと悔しかった。
そして言い訳を一切聞かず、ただ跡部に失望している両親に。

心が冷えていったのを覚えている。

「親だけじゃない。学校の連中も、俺が一つでも失態したら許さないだろう。
出来て当たり前。失敗したら責められる。
実際、お前との試合に負けてがっかりしたと言って来る奴もいたけどな。
ま、そんな連中端から相手にしていないが」
「ふーん。じゃあ、俺はあんたに悪いことした?
謝るつもりは無いけどね」

ずれたことを言うリョーマに、跡部は笑って首を振った。

「当然だ。お前も俺も全力を尽くした。謝ることなんか、何もねえよ」
「良かった。あんたの怖いものを突きつけた原因かと、ちょっと悩んだ」
「嘘付け」

結構深刻は話をしたつもりだったえれど、リョーマは態度を変えることなく、
やっぱりふてぶてしい顔のままでいる。
急にしおらしくなっても困るから、今のままの方がらしくていいかと納得する。

それにこの無愛想な顔にも慣れて来たし、どこか安心もする。
うっかり誰にも言わなかったことを打ち明けてしまったけれど、
リョーマは他の奴に話したりする奴じゃない。
その点は、信頼出来る。

比較的近い位置にいるレギュラーの連中にもこの話はしたことは無い。
言ったところで「冗談だろ?」と笑い飛ばされるのは目に見えている。
彼らと仲が悪いというわけじゃない。
リョーマとの試合の後にも、誰も失望の目を向けては来なかった。それもわかっている。
でも、こんな時々叫びたくなるような思いを抱えていることは、わからないし思ってもみないだろう。
そうなるように努力していた自分の所為だけど、時々辛くなる。

「失望したい人には、勝手にさせておけばいいんじゃないの」
ファンタを飲み終えたのか、リョーマは空っぽになった缶をベンチに置いた。
カタン、と軽い音がする。

「そうじゃない人もあんたの周りには沢山いるんだろ。
そっちを大事にしなよ、って簡単に出来ないから苦しいんだよね……。
これ以上、どう言ったらいいか、俺にもわからないっす」

黙っている間、どう元気付けようか考えていてくれたらしい。
リョーマの横顔を見ながら、珍しく素直に、
「ありがとうな」と感謝の言葉が出た。

「お礼を言われる程のものじゃないっす」
淡々としているようで、実はきちんと人のことを考えてくれて。
言葉は少ないけど、嘘を言わず本当の気持ちを伝えてくれる。

そんなリョーマの隣は心地よいと、気が付いた。

(越前はどうなんだろう)

他校の相手の誘いにわざわざ応じて、外で打つのは自分だけだと前に確認したことがある。

何だ、そうか。
こいつも俺と一緒にいたいと思っているんじゃねえか?

どんどん跡部の思考は都合の良い方へ転がっていく。

さっき慰めるような言葉を出したのも、気を引きたいからだ。
絶対そうだ。決まっている!

問題無し、と拳を握り締める跡部に、リョーマは眉を潜めて声を出した。

「跡部さん、そろそろ休憩は終わりに」
「越前、そうか。お前の気持ちはよくわかった。俺も同じだ」
「え?じゃあ、今からすぐに打つってことでいいんだよね…」
リョーマの言葉は、跡部の耳に届いていない。
「照れ隠しかよ。そういう所も良いな」
「はあ??」
「とぼけるな。お前の気持ちはインサイトで全部見抜いた」
「違うと思う」
「ちょっと別の場所で話をしようぜ。勿論、俺達二人の将来についてだ」
「話を聞け!」

ラケットで顔面を殴られた跡部は、どうしてリョーマが怒ったのか全く見当がつかなかった。

ただ将来についてはまだ早かったかなと、反省しただけだ。

終わり。


チフネ