チフネの日記
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2008年05月29日(木) 明日の見つけ方(千リョ)  リョーマside 前編

受けた取材はとてもつまらないものだった。
5年前に青学を優勝に導いたのは、俺一人じゃない。他の先輩達が揃ってからこそなのに、
まるでわかってないな、と目の前の女性記者を前にして欠伸を噛み殺していた。
プロになるって、こういうつまらない事にも関わらなきゃいけないから、それが時々とても辛く感じる。
テニスだけやっていれば、いい。そんな甘いものとは思っていなかったけれど、ここまで馬鹿馬鹿しい質問をされると、いっそ笑いたくなる。

「それで、中等部の頃の一番の思い出は何?やっぱり付き合っていた子とか、いたのかしら」
「……」
中等部時代の俺の活躍を聞きたかったんじゃないのかよ。
どうにかして恋愛話にもってこうとするその人に、(くだらない)と内心で毒つく。
昔はこういうこともハッキリ口にしてたものだけど、最近は周囲に止められているから言わない。ストレスが溜まる一方だ。
でも自分の言葉の重みの意味も少しはわかっているから、忠告通りに大人しくしてる振りをする。

「そんな話無かったっすよ」
「本当にー?だって越前君モテたでしょ、絶対」
「あの頃は部活に追われて、それ所じゃなかったんで。東京、神奈川の往復ランニングとか普通にやってたから」
「嘘」
「本当っすよ。なんなら、あそこにいる先輩達に聞いてくれても構わない」

遠巻きにこっちを伺っている懐かしい先輩達が立っている方を振り返る。
取材が終わってから来てくれって言ったのに、随分早くに姿を現した。
こういう場面、恥ずかしいから俺はあまり見られたくない。
先輩達はわかっていて、集まっているに違いない。ったく、性格は変わっていないようだ。

「確認はそっちでお願いします。そろそろ時間っすよね。
もう行っていいっすか?」
「あ、ちょっと待って越前君!」
引き止められて仕方なく振り向く。これも仕事の内と、胸の内で呟きながら。
「何すか」
「最後にもう一つ。
中学時代から今もずっとテニスを続けているけれど、途中で苦しくなって投げ出そうと思ったことはある?
こんなに長く同じことをやっていられない、とか思わなかったのかしら?」
「まさか」
即答する。
それこそ愚問だ。

テニスを続けて、上を目指し続ける。どんなに困難でも、苦しくても。
あの日、約束をしてから逃げ出そうなんて考えたことは一度も無い。

「ラケットが握ることが出来なくなるまで、続けますよ。
目標は生涯現役、かな」
「はあ〜、すごいわねえ」
ため息をつく記者の横を通り抜けて、俺は先輩達の所へと走った。


「もう終わったのかい?」
「多分」
「いい加減だなあ」
これは不二先輩。変わらず何を考えているんだか、わからない笑顔を浮かべている。
「おチビー!久しぶりっ、元気だった?」
「もうおチビじゃないんでって、抱きつかないで下さい!」
「そんなに嫌がらなくてもいいのにー」
菊丸先輩の抱き癖も健在。
「雑誌に掲載されてた身長と、1.3cm程誤差があるな。誤植か?
「身長なんて載せた取材受けた覚えないんだけど」
「相変らずだな、越前」
「乾先輩も、変わって無いっすね」
データを綴ったノートも。今日持ってくる必要があるのだろうか…。
「すっかり有名人だなあ、お前。後でサインしてくれよ。会うって喋ったら、妹のやつがうるさくって」
「いいけど。キリが無いんで一回だけっすよ」
「おお、サンキュ」
桃先輩。良いお兄ちゃんぷりも変わらず。
「…元気そうだな」
「ども」
怒っている訳では無いらしい。無口な挨拶に笑うと、海堂先輩にぎろっと睨まれる。
「タカさんはお店があるから、やっぱりこの時間は無理だって。
後で合流しような」
「っす」
「ちなみに貸切にしたから、気兼ねしないで来てくれって」
「いいんすか」
「久しぶりに皆が集まったんだ。タカさんのご好意に甘えよう」
「そう、っすね」
大石先輩の言葉に、こくんと頷く。
「こうなると手塚が来られないのが残念だなあ」
「本当にー、なんとか出来なかったのかな」
「手塚も海外だから、そうそうは来れないんじゃない?」
「でも年に一度位は帰国するじゃん」
「家族がこっちにいるからな。越前と立場が違うだろう」
「でも、もうちょっと連絡をマメにしろよな、越前。5年も顔出さずにいやがって、忘れられたのかと思ったんだぞ」
桃城先輩に額を拳でぐりぐりと小突かれて、俺は「痛っ、悪かったってば」と声を上げた。
「忙しかったんだから、本当に。忘れた訳じゃないっすよ」
「当たり前だー!ま、お前の活躍はわかっているから、これ以上は言わねえけどな」
その言葉に、皆が笑みを浮かべる。

5年前、アメリカに行く前に送り出してくれた時と変わらない笑顔だ。
青学を出ると知った時も、先輩達は誰一人反対することなく、見送ってくれた。
その思いは今も忘れてなんかいない。
無茶ばかりしてた俺を見守ってくれた、大事な人達。

この5年、皆と会いたいと思ったことだってある。
でも…、それよりも。
もし偶然にもあの人と会っちゃったらどうしようとか、
まだ約束したことの欠片も果たしていないのに、日本に来てもいいのだろうかとか。
そんな事を考えて伸ばし伸ばしにして、5年も経過していた。
今回の仕事のついでとかじゃなかったら、皆と会えたのももっと先だったかもしれない。

「折角早く来てもらって悪いけど、実は俺、おばさんに頼まれて」
「後輩の指導だろう?聞いている」
「えっ?」
目を見開くと、大石先輩が説明してくれた。
「青学での取材をOKする代わりに、越前に今の部員達の指導をお願いしたんだって竜崎先生から聞いたよ。
越前だけじゃ大変だろうから、俺達にも手伝って欲しいってさ」
「今年は優勝狙えるかもしれないって!後輩達の為にも、頑張ろうにゃ」
「はあ」

菊丸先輩に引っ張られる形で、部室前へと向う。

おばさんの出した承諾の条件として、俺が今の青学の部員達に指導(って本格的なものを期待している訳じゃないとは言われた)すること。
普通、取材を申し込んで来た人達に条件出すもんじゃないの?
なんで俺が、って気持ちにも少しなったけど、おばさんがあんまり熱心に頼むから、結局断れなかった。

「うわぁ、いたいた」
「ふふ、あの頃の僕等みたいだね」
部室の前では緊張した顔をした部員達がずらっと横に並んでいた。

「こんにちは!」
「先輩達、こんにちは!」
頭を下げる後輩達。
うわあ、俺こんな挨拶一度だってしたこと無いのに。
なんか荒井先輩が挨拶の仕方覚えろと大声上げてたのを思い出す。
今、この光景を見たら感動の涙を流すんじゃない?

一歩、部長らしき子が前に進み出る。
「今日はありがとうございます。あの、光栄です。
青学の全国優勝を成し遂げた先輩達が来てくれるなんて!」
「いえいえ、とんでも無い」
「英二、茶化したりする場面じゃないだろう」
大石先輩に肘を叩かれて、英二先輩は黙った。

「でも時間も無いし、期待しているような指導は出来ないかもしれないよ?」
俺がそう言うと、現部長の子は頷いた。
「そんなっ、越前先輩が練習を見てくれるだけでいいですから!」
「でもそれじゃ竜崎先生の頼みと違うよねえ」
不二先輩が言う。
この人が何か言い出すと、あまりろくなことにならない。
そう思った瞬間、とんでも無いことを言い出す。

「この中で越前と打ってみたい子、いる?」
「なっ、不二先輩っ!」
「そう思っている子は手を挙げて」

不二先輩の言葉に、反射的に現部長が手を挙げる。それに反応して他の子達も、ってほぼ全員が挙げてしまった。

「うーん、1人1ゲームは無理かなあ。じゃあ、5球勝負にしようか」
「ちょっと、本当に全部俺が相手するんすか?」
「うん」
にこっと不二先輩が笑う。この笑顔で全部物事を上手く渡って来たんだよな、ちくしょう。今更思い出してもどうにもならないけど。

「越前が5球勝負している間、乾と大石とで今のメニューの徹底見直し。
桃と海堂でゲームを待っている間の子のフォームを見てやって。
僕と英二は越前のゲームを観て、終わったら具体的なアドバイスをする。これでどう?」
「いいんじゃないかな。短時間で出来ることとしては、効率的だ」
乾先輩が頷く。その声に、皆も「それでいいか」な雰囲気になってしまう。

「越前、撮影用にラケット持って来ていたよね。ちょうど良かったじゃない」
「……」

不二先輩の声に、ため息をつく。

撮影中でも辛かったのに、またあのコートに入らなきゃ行けないと思うと少し憂鬱だ。
だって否応でも思い出す。

5年前。
あのコートで一人残って、俺はよく自主練習をしていた。
彼が声を掛けてくるまで、ラケットを振っていて。
早く来ないかなあ、と待っていたんだ。

『リョーマ君!まだ練習しているの?早く帰ろうよー!』

その声に安心して、やっと動かしていた手を止めたんだった。


千石清純。
俺の初恋の人で、今も忘れられない人。



2008年05月28日(水) 明日の見つけ方(千リョ) 千石side

軽快な着信音が流れて、火を付けたばかりの煙草を灰皿に置く。
まさに今、休憩しようと思った所なのに。
(ったく、誰だよ)
確認するとそれは南からだった。
高校を卒業した後、別々の大学に進学したけれど、まだちょくちょく連絡は取っている。
本当に、一年に何回かだけど。
(なんだろ)
携帯を手にして、電話口に出る。

「よぉ、南ぃ。元気?」
「お、おう。そっちこそ…元気か?」
「まあね」
「それは何より、だな」
「はあ」
「ちょっと話しても大丈夫か?忙しいなら後で掛け直すから、その」
「へーき平気。さっきまで勉強してたけど、ひと段落したとこだから」
「そっか。しかしお前が真面目に勉強してるなんて、想像つかないな」
「酷いよ、それ。俺だってやる時はやるんだからね」
「わかってる、わかってるよ…」
「南?それよりなんか用じゃないの?」
「あー、うん」

なかなか本題に入らない南の声に、首を傾げる。だらだらとした会話をするタイプじゃないから、南から電話がある時は、何か用事がある時。
元々ハキハキと喋るタイプじゃないけれど、普段とは違う。
これも勘って奴だろうか。
何か言いたいことがあるんだと、俺は瞬時に察した。

「ええっと、用ってほどじゃないんだけどさ、ちょっと知らせておきたいことがあってな」
まどろっこしい言い方に、俺は眉を寄せた。
一体なんなんだ。
それでも久しぶりに掛けてくれた旧友に冷たい態度を取る訳にもいかず、精一杯丁寧に尋ねてみる。

「知らせたいこと?俺にとって良いニュース?悪いニュース?」
「いや、どっちかというと良い方かな、多分」
「なんだよ、勿体つけるなよー」
わざと焦らしているのかと、笑いたくなる。
いや、きっと無意識だ。
良いニュースとはいえないな、と俺は身構える。

「あのな、今日、サークルに顔を出したんだ。週一度の会合だから」
「それで?」
なかなか本題に入らない。前振り長過ぎだよ、と心の中で呟く。
「そうしたら大石も来ていたんだ。あいつも在籍してるって前に言っただろ?
でも勉強の方が忙しくて、毎週は出ていないんだ」
「ふーん」
南と、青学テニス部の元副部長の大石君(俺達の中では通称水泳帽子君)は偶然にも同じ大学に通っている。学部は違うけれど、テニスサークルで再会したんだと聞いていた。

「それで、大石と会話している時に教えてもらったんだ。だからお前に知らせなくっちゃって思ってな」
「何を聞いたんだよ」
主語抜けているよと、半分欠伸しながら返す。
このままだと主題に入るまでにまだ時間が掛かりそうだ。
じりじりと燃えている煙草に、俺は手を伸ばし掛ける。

「越前が、今週末に帰国するんだって」
「え…?」

慌てて俺は煙草の火を消した。
暢気に吸っている場合じゃない。もっと南から真剣に話を聞く必要がありそうだ。

「帰国ってどういうこと?だって、あの子の拠点は今アメリカだろ!」
「だから休暇と取材を兼ねての一時帰国なんだって。
期間は一週間も無いらしい。逆に忙しそうだよなあ」
「そうだね」

リョーマ君。
リョーマ君が日本に来る。
そう考えただけで、心音が速くなるのがわかる。

リョーマ君が渡米してから5年経った。
プロの道を歩んだ彼は、今やテニスをしない人達でさえ名前を聞く程の存在になっている。
あの頃、隣にいられたのがまるで奇跡みたいだ。それ位、今は遠い距離にいる。

もし彼の手を離さなかったら、どうなっていたんだろう。
そんな仮定を考えるのも、とっくに今の俺は止めていた。
だって何度繰り返しても。
きっと俺達はいつかは別れを選んでいた、そんな結論しか出て来ないのだ。

「で、その日程の中で青学に行くことが決まっているらしいぜ。
なんでもある雑誌が、越前リョーマの過去の活躍も取材したいって申し込んだらいい。
あの時の青学を優勝に導いた選手ってことでな」
「ふーん」
「で、実際青学に行って取材するって運びらしい。それが終わったら、青学の連中は越前と会う約束をしているみたいだぜ。大石がそう言ってた」
当事のチームメイトの同窓会みたいなものか、と考える。
「さすがに手塚は海外だから、不参加みたいだけどな。他はほとんど集まるみたいだぜ」
「そう…」
「お前はどうする?」
「えっ?」

さっきまでもたもたしていたのが嘘みたいだ。
ずばっと南に切り込まれて、返答に詰まってしまう。
どうするって聞かれても、困る。
他の連中がリョーマ君と会うからって、俺がなんだって言うんだ。

「越前に、会いたくないのか?」
「……」
「わかっているんだろ。本当はお前だって会いたいはず」
「南!」
声を上げて、遮る。
それ以上、誰かにあの子のことで何か言われたくなかった。

「ごめん、折角掛けてくれたのに。でも、もういいんだ。
あの子とは、終わったんだってわかってる」
「でも」
「5年も経っているんだよ?会ってどうするんの。
今更、向こうだって迷惑に思うよ」

軽い口調で話そうとしたが、失敗した。声が震えたの、南はきっと気付いている。

5年経った今でも、まだ俺はあの子のことを想っていた。
他の誰かと付き合っても、本気になれない。
リョーマ君への気持ちが消えないんだ。

自分でも思っていた以上に、俺はリョーマ君との恋に夢中だったらしい。

だからこそ、会わない。
もし顔を合わせたら、きっと気持ちがばれちゃう。
敏いあの子の事だから、俺の未練をすぐに看破するだろう。
まだ好きだって気持ちを知ったら、リョーマ君はきっと困ってしまう。
これから先、まだあの子の道は続くのに。昔の恋なんかに、引きずり込んじゃいけないんだ。

「だから、もういいよ…電話は嬉しかった。ありがとうな、南」
「千石、お前もうちょっと考えろよ」
「考えて出した答えなんだけど、なんでそんな怒った風に言うかなあ」
「そりゃ怒りたくもなるだろ。あの頃、お前が真剣だったの、俺はよく知っているんだから。
越前も、同じじゃなかったのかよ」
「南……」

リョーマ君との別れから、南には随分迷惑を掛けた。ぐしゃぐしゃに泣きまくって、一晩中長電話に付き合ってくれたり。
ああ、でも交際してた時からのろけ話を散々聞かせて、迷惑な顔されたっけ。
当時の俺とリョーマ君とのことを知っている分、南は余計にお節介を焼きたくなったんだろうな。

(真剣だったさ、リョーマ君もね…)

最初のアプローチは俺から。
テニスも強くて、その上滅茶苦茶可愛い顔をした彼に惚れ込んで、
それこそしつこいと言われて追い払われるくらい青学に通ったものだ。
本気が伝わったのか、諦めたのか。
リョーマ君が仕方なく折れるという形で、交際が始まった。

最初はガードが固かったけど、次第に気を許してくれるのが嬉しくって。
笑顔が見たくて、馬鹿なことばかりやったりしてたと思う。
そんな俺に呆れながらも、笑顔を向けてくれた彼は最高に可愛かった。
平凡な毎日が幸せだった。俺だけじゃなく、きっとリョーマ君も。

けれど季節が冬に変わり、そしてもうすぐ卒業を迎える頃。
唐突に、別れはやって来た。

「アメリカに行くことが決まった」

玄関から上がろうともせず、リョーマ君は目を伏せた状態で俺にそれを告げた。
重い石が突然頭に降ってくるようなショックって、こういうことなんだろうか。
ぼんやりと、俺は思った。

「いつ…行くの?」
「終業式が終わったら、すぐ」
「それじゃあ、それじゃあ、後一ヶ月も無いね」
「うん」

ずっと目を逸らしたまま、リョーマ君は動かない。
生意気で勝気で、いつでも凛と背筋を伸ばしていた彼が。
こんな風になるのは、俺への愛情がリョーマ君の心の中で大きくなっていたんだと知った。
愛されている。そう思っただけで、胸がじんとなる。

勿論リョーマ君の気持ちを疑ったことは無い。素っ気無いけど、好かれている自信はあった。
でも絶対俺の方が好きだって思っていたから。
馬鹿だな、と心の中で自分を笑う。
リョーマ君はそれ以上に俺に心を傾けていたのに。
気付けなかったことが、悔やまれる。今更、だけど。

「向こうに行ったら、やっぱりプロ目指すの?」
「わからない」
リョーマ君は首を振った。
「まだ何も決めてない。わからないんだ、行ってもいいかって」
「リョーマ君」
「どうしよう、ねえ。どうしたら良いと思う?」

迷っている。彼はテニスをしたいはずだ。
もっと上に行きたいと、いつか話してくれた。他愛無い話題の中での一部だけど、俺は覚えている。
リョーマ君との会話は、全部忘れていない。

青学に迎えに行くと、いつも最後までラケットを振っていたリョーマ君の姿を思い出す。
声を掛けるまで、ずっと熱心にボールを打ち込んでいたあの姿も、忘れない。
俺よりもずっと小さいはずの背中が、大きく見えたんだ。

いつの日か広い世界に、手が届かない所に、行ってしまうと。
とっくに、覚悟は出来ていたはずだ。

リョーマ君の肩に、手を置く。
彼を行かせる為に、口を開いた。

「良かったじゃん。向こうには強い奴いっぱいいるんだろ?
行って来なよ。リョーマ君なら、きっとここよりもっと上に行ける。俺はそう信じてる」
「清純…?」
「俺も高校に進学するし、ちょうど良かったじゃん。
お互い新しい出会いを探す機会ってことで」
「……」

もっとマシな言い方は無いのかなと、俺は心の中で泣いていた。
でも、これでいい。
怒って彼が出て行ってしまえば、もう振り返ることは無い。

アメリカと日本と。
そんな遠距離で俺達の恋愛が続くとはどうしても信じられなかった。
リョーマ君はプロを目指すならどんどん忙しくなるし、
俺も進学して新しい環境に慣れる為に今よりも余裕を無くすだろう。
そうして出口を無くした不満でお互いを傷つけ合うよりも。
今ここで終わらせてしまった方が、早く楽になれる。
リョーマ君を、解放出来るのは俺だけなんだ。


沈黙の後、リョーマ君の足が動く。
このまま踵を返して帰るのかな。
そう考えた瞬間、俺の腕がぐいっと引っ張られる。

「リョーマ君!?」
「ごめんね、清純……」
ぎゅっとリョーマ君がしがみ付いてくる。
「そんな風に清純に言わせるなんて、俺は酷いことしてるね。自分じゃ決められないからって、清純に選択させるなんて卑怯だ」
「何言って、俺は本当にそろそろ新しい出会いが欲しくて」
「うん、わかっている」
少し涙声になって、リョーマ君が耳元で呟く。

「ありがとう。清純を好きになって良かった。好きになってくれて、嬉しかった。
ずっと忘れないから」
「……」
「本当はもっと一緒にいたかった。それが出来る位の大人だったら良かったのに、俺はまだこんなにも無力なんだ。ごめんね、清純」
「ずるいよ、リョーマ君」
リョーマ君の肩に顔を寄せる。零れそうになる涙を、見られない為にだ。

「こんな時にだけ、素直になるなんてさー。本当、ずるい子なんだから」
「そうかな?」
「そうだよ」
お互いちょっと笑って、それから俺は口を開いた。

「必ず上に行ってね。日本にいる俺の耳に届く位にさ。
ずっと応援しているから」
「うん」
「約束だよ」
「約束、する」

そうして、俺達は別れを選んだ。


約束を守る為なのかはわからないが、
リョーマ君は異例とも言える若さで大会を勝ち昇って、世界に名前が知られる程の選手になろうとしている。
俺はといえば、テニスは高等部で止めてしまったけれど、
彼に負けないように今歩んでいる道を精一杯歩んでいる。
せめて恥ずかしくないように、胸を張れる自分でいたいから。



「で、どうするんだ?」
南の声に、ハッと我に返る。

長い間、ずっとリョーマ君のことを考えていた。
南は沈黙にも付き合っていてくれたらしい。向こうから掛けて来たくせに、人が良いというか。
そこが長所なんだって、わかっている。

「やっぱり、会うのは止めておく」
「…いいのか?」
「うん。まだ会っちゃいけないんだろ、思うんだ」

これが50年後とかだったら、会いに行ってたかもしれない。
あの時はお互い夢中だったねなんて言ったりして、普通に顔を合わすことが出来るはず。
でも、まだ繋ぎ止めれなかった恋を笑い飛ばせるほど、大人になっていない。きっと、リョーマ君も。
楽しかった思い出、辛かった別れ、それらの感情を呼び起こすだけで、
何もプラスになることは無い。
だから、俺達は会わない方がいいんだ。


「でも、南」
「ん?」
「ちょっと、いいかな」



俺達の別れが間違いじゃなかった、と思うような。
望む未来へ歩んで行くリョーマ君の姿を、この目に映しておきたい。


遠くから、見えない所からだったら。


(いいよね、それ位)

例えこの気持ちがもう届かなくても、
君の幸せを願っている。


2008年05月23日(金) 答えはきっとそれしかなくて。(真田リョ)

礼をして、真田はコートから出た。
「やったな、真田」
「先輩相手に完勝じゃねえか」
今まで試合を観戦していた同じ一年からの歓声に、黙って頷く。
真田が寡黙なのはわかっているので、彼らは気を悪くする訳でも無く今の試合の感想をそれぞれ語り始めた。

「随分、攻撃的な試合だったな」
「蓮二」
「いつもよりも火を出す時間が早かった。先輩相手に少し、容赦が無かったかと思うが?」
「手を抜かないのが俺の主義だ」
「それだけでは無いように見えたのは、俺の気のせいか?」

柳には隠し事が出来ない。よく、わかっている。
そう思って、真田は苦笑した。
柳だけではなく、この男もだが。

「俺には誰かと張り合っているように見えたけどね」
「幸村、いつからそこに立っていた?」
「45秒前からだぞ、弦一郎」
「流石だね、柳」
「当然だ」
「……」

なんという会話だ、と真田はそっぽ向く。
しかしこれはよくあるやり取り。
黙って流したいと思っても、絶対許されないその前振り。

「で、真田のご機嫌な理由って何?すごく聞きたいなあ」
「別に俺はご機嫌という訳じゃ…」
「へええ。絶対勝てるって先輩相手に大人気ない位に叩きのめしたことに、
理由は無いんだ?
じゃあ、ただのストレス解消ってことかな」
「……」

幸村の言葉に、真田は思い切り顔を顰めた。
ストレス解消、なんてそんなの誰が相手でもするはずない。
わかっていて、幸村はそういうことを言うから始末が悪い。

「違うんなら、どう違うのか説明して欲しいなあ」
「幸村、真田を追い込むのはほどほどにしたらどうだ」
「おや。柳は知りたくないのかな。
真田が今日、どうしてここまで頑張ったのか。その理由を俺は知りたいね」
「それは、知りたいが」
「だろう?」
「しかし言い方というものがあるだろ」
「一番効果的な言葉を選んでるつもりなんだけどな」

にこっと、と幸村が笑う。
綺麗な顔立ちをしている彼だが、決して弱弱しくない。その笑顔でさえも逃げ出したくなるほど恐ろしい。
辛うじて、真田は踏み止まった。

「さて、真田。柳も知りたいそうだから、とっとと吐いた方がいいよ」
「俺をダシに使うな、幸村…」
「どうなのさ。例えばあのボウヤからの返事が無いから苛立ちをぶつけた、とか。
もう連絡取りたくないとか書かれてたとか、そういう報告ならいつでも聞くから」
「越前?あいつからのメールなら昨日読んだが、別にそんな事書かれて無かったぞ」
たちまち幸村の顔色が変わった。

「向こうでも元気にやっている。いや、むしろ元気過ぎる。
さっそく通っているテニススクールで強い奴に挑戦して勝ったらしい。
相手は18歳というらしいから、すごいな」
「ふーん、そう」
「幸村?何か機嫌が悪いのか?」
「別にー」
「あいつも頑張っていると思ったら、つい俺も力が入ってしまったようだ。
これからは気を付ける」
「いや、いいんじゃないか?越前のメールが刺激になって、お前の実力が引き出されるのなら良いことだと俺は思うぞ」
「そうか、蓮二がそういうのなら間違いないだろう」
柳と真田の会話を聞いて、幸村は一層白けた顔になった。

「あ、そう。あまり面白く無さそうな話だから、俺は退散するよ」
「幸村?」
「弦一郎、放っておけ」
離れて行く幸村に、柳はくすくすと笑った。
「あいつはお前と越前が連絡を取っているのが気に入らないだけだ。
ただの焼もちだから放っておけ」
「そうか?だが、俺と越前はメールをしてくらいで、別にそこまで親しいという訳じゃないのだが…」
「それでも羨ましいんだろ。まさか、お前達が連絡を取り合う仲になるとは予想してなかったからな。
次に再会する時、効果的に近付いてやろうと考えてて、先を越されたから焦っているようだ」
「??」
「わからないのなら、別に構わない。
お前は自分の思ったまま行動していれば良いのだからな」
「あ、ああ」

柳の言っている意味もよくわからない、と真田は小さく唸った。


越前リョーマとメールのやり取りをするようになったのは、
彼がアメリカへ行く直前からだった。
向こうへ渡ると知った時、真田は軽く衝撃を受けた。
まだ13歳の彼が、もう世界へ目を向けている。
旅立ちを決めるのは人それぞれだ。
だからそれを聞いても、真田自身焦るつもりは無い。
でも、リョーマが遠くへ行ってしまう。噂で聞いた時、まだ…もう少し日本に居たっていいじゃないか。
そんな風に思った。

幸村に勝った今、ここで彼の相手になる選手がそう何人もいないと知っていても。

越前リョーマとは個人的な付き合いをしたことは無い。
公式戦で一度試合をした。それだけ。
知っているのは名前位。

そんなほぼ他人も同然なのに、彼のことが忘れられない。
真田の心に住み着いた越前リョーマは、簡単に出て行きそうに無い。
あの奇跡みたいなプレーをするテニスコートでの彼と、
そこから出た時のじっと見詰める大きな目。
繰り返し思い出す度に、胸が熱くなる。
その感情がなんなのかは、わからないけれど。

漠然と、リョーマとはまたすぐにどこかの試合会場で再会出来ると思っていた。
次会ったら、もやもやとした気持ちを解消する為にも話し掛けてみよう。
そこまでかんがえていたのに。
リョーマが今よりも遠くに、いつ会えるかわからない所へ行ってしまう。

衝動が、真田を動かした瞬間だった。

家なんか知るはずも無いから、真田は青学へ押しかけた。
終業式後にアメリカへ渡る保証は無かったから、一秒でも無駄に出来ない、そう思った。
そうして下校する生徒を一人一人確かめて、リョーマが通って行くのを待った。
2月の冷たい空気が体温を奪っていくのにも構わず、真田はずっと探し続けた。

「何、やってんすか?」

ようやっと会えたリョーマは、あの大きな目を更に大きくして真田をじっと見上げた。
すっかり強張った顔をなんとか笑顔(に見えたかはわからないが)へ変えて、
真田はこれから先もどうにか連絡を取りたいんだと、告げた。

本当はもっと他に言いたいことがあった気がするが、全部吹き飛んでしまった。
だからとりあえず、このまま途切れないように連絡先を知っておきたかった。
知らないまま別れたら、伝えたいことを思い出してもどうしようも無いから。

つっかえつっかえ話す真田に、リョーマは真面目な顔をして聞いてくれてた。

「連絡先ね、ちょっと待ってて」
真田が話を終えた後、少し考えてリョーマは鞄から紙とペンを取り出した。
「あっちの住所と、携帯番号とメールアドレス。それでいい?」
「あ、…その、いいのか?」
「普通なら断っただろうね」
鞄の上に紙を置いて、リョーマはさらさらと書き始める。
「でも、なんだろ。今のあんたの話を聞いて、なんか…動かされるものがあったよ」
「そうなのか?」
「うん。それにあんたなら信用出来そうだし」
はい、と紙を渡される。
真田はそれをゆっくり受け取った。

「言いたいことを思い出したら、教えてよ。
俺もそれが何なのか、知りたくなった」
「そう、なのか?」
「うん。だから絶対、教えて。わかった?」
「あ、ああ…」
珍しく。
そう、真田が知っているリョーマの笑顔は、生意気そうなものだった。
なのに今、年相応の可愛らしい笑顔を向けられて、不覚にも動けなくなった。


越前リョーマのことを考えると、そんな不覚だらけの自分になってしまう気がする。
そわそわして落ち着きが無くなったり、
嬉しくて気恥ずかしい気持ちになったり。
メールをどう書いたら良いか、何時間も悩み続けたり。

でも、嫌な気分じゃない。
忙しい中ちゃんと返してくれるリョーマのメールに、嬉しく思い、励まされている自分を実感する。
遠い距離だけれど、この空の延長線上のどこかにいるリョーマとたしかに繋がっている。
また明日も頑張って行ける。一人の時よりももっと、もっと。

(次に会える時こそ、ちゃんと答えを見付けておくからな)

真田の旅立ちもそう遠い日じゃない。
この道を歩いていけば、きっと会える。
そしてメールなんかじゃなく、もっと近くで会えた時に…今度は伝えられるはず。
彼はあの大きな目で見上げて、そして黙って聞いてくれるだろう。


(それにしても幸村が焼もちとは…?友人が他の奴に関心を移して面白くないのだろうか。
フォローの為に、今日の放課後は一緒に帰るように誘ってみるか)

寄り道は原則禁止だがこれも友情の為だと、真田は頷いた。


その後、幸村に「全くわかってない…」と能面の表情で言われることになるのだが、
今はまだ気付いていない。


2008年05月18日(日) それでも、忘れない(塚リョ)

「あーあ…退屈!」
ベッドの上でリョーマが大きく伸びをすると、
それまでずっと荷物の整理をして見向きもしなかった手塚がようやくこちらを向いた。

「退屈なら家に帰ったらどうだ」
「折角来たのに、そういうこと言うんだ。ヒドイ!」
「泣き真似しても駄目だぞ。お前がそんなことで泣く訳無いってわかってるからな」
「ちぇー。だって部長が構ってくれないから、退屈なんだよ」
「…明日出発ってわかってるのか?俺は忙しいんだ」
「荷造りなんて終わってるんでしょ?何してんの」
「その荷造りで忘れ物が無いかチェックしている」
「そんなの後で送ってもらえばいいのに…」
「何か言ったか?」
「別に」
「そういえば、お前こそこんな所にいて大丈夫なのか?
荷造りは済んだ…はず無いだろうな」
「ううん。終わってるよ」
「本当なのか?」
「疑わしい目で見るなよ。
元々荷物は少なかったから、ゲーム機を纏めて段ボールに入れた位」
「他はやってもらったんだな…」
「何その呆れた顔」
「いや、別に」
「いいけどね。もう慣れた。部長のそういう所」
「そういう納得の仕方は不本意なんだが」
「しばらく見られないと思うと、ちょっと…寂しいかな。
部長の、その眉間にある皺」
「越前」
「もうちょっと見ていても良かったかな、なんて思ったりして」
「……」
「冗談だよ、冗談」

ベッドから降りて、リョーマは黙って見詰めている手塚に近付いた。

「あっちに行ったら、プロ目指すんでしょ。だから部長の選択を応援する。
後悔しないよう、頑張って」
「言われなくても」
「自信満々」

くすっと笑うと、手塚も珍しく、本当に珍しく顔を綻ばせた。

「お前も、続けるんだろう?」
「うん。青学の柱でいられなかったのは、残念だけど」
「まだ気にしてたのか」
「だって、さあ」

手塚に腕を捕まえて、その場に座らされる。
そしてその大きな手が、ゆっくりと頭を撫でた。

あの時みたいにキスされるのかも…、期待した恥ずかしさからリョーマは顔を伏せた。
きっと頬は赤くなっている。
でも手塚はそれをからかうようなことは言わず、静かに告げた。

「お前は立派に柱を務めた。
俺がそう認める。越前リョーマは、青学の柱だった。違うか?」
「部長…」
「ありがとうな、越前」

その一言に、泣きそうになる。
抱きついてしまいたくなってしまう。
でも、今日ここに来たのはそんな為じゃない。

ぐっと涙を堪えて、リョーマはいつもの勝気な笑みを精一杯浮かべた。

「俺の方こそ、1年間…お世話になりました。ありがとうっす」
「なんだ、急にそんな風に言われると調子狂うな」
「俺もそれ位は言えるっすよ。なんだと思ってるんすか」
「うーん、生意気なルーキーか?」
「それ、失礼っす!」

憤慨して見せると、手塚は「悪い」と短く謝罪する。
そしてお互い顔を見合わせて、それぞれ笑った。

「お前といると退屈しないな」
「そう?」
「ああ…、そういうお前をもっと見ていたかった」
「……」
「言っておくが俺のは、冗談じゃないからな」
「部長が冗談言えるとは、思えないっす」
「あのなあ」
「俺のも、冗談じゃなかったけどね」
「…そうか」

お互い、肝心なことには触れない。
はっきりとした言葉は出せない。
明日、手塚はドイツに向かい、リョーマはすぐその後アメリカへ戻る。
広い世界に二人、それぞれ旅立つからだ。

ここで何か言って、どうなる?
だから本音は心に仕舞っている。

好きだって、結局最後までお互い言えないまま、新しい日々へ歩いて行く。

「俺、そろそろ帰らなきゃ。やっぱり、荷物の確認しときたいし」
「そうか」

立ち上がるリョーマを、手塚は引き止めない。
触れてた手を、すぐ引っ込めた。

「じゃあ、部長。見送りには行けないけど、気をつけて言って来てね」
「そっちもな。お前は無鉄砲だから、喧嘩するなよ」
「お説教はもういいって」
「真剣に言っているんだぞ」
「はーい。わかりました。じゃあね、部長」
「ああ、またな」
「うん」

まるで普段の別れと変わらない口調で、手塚は家から出て行くリョーマを送り出して、
リョーマは軽く手を振って駆け出した。


(ねえ、部長わかってる?)

手塚の家から見えなくなるまで、リョーマは走り続ける。

(見送りに行かないのは、朝が早いからじゃないよ。そんな理由じゃない)

こんな逃げるように走っていたら、動揺しているのがばれてしまっているかもしれないけど。

(もし行ったら、馬鹿なこと口走りそうだからだよ。
きっと、部長を今までで一番困らせてしまう。だから、行かないって決めたんだ)

手塚とは何の約束もしていない。
再会も、この先出来る保証も何も無い。

残ったのは、いずれ消えてしまいそうな思い出だけだ。
一回だけしたキス。
ほんの一瞬だったけど、あの時このまま世界が止まってしまえばいいのに。
そう思ったことを、よく覚えている。


(止まらないなんて、わかってる。
こうして俺達は離れ離れになって、明日を迎えて行くんだ)

でも。
何度も巡る季節の先に、二人の運命が交差する日が来ると信じてる。
この道を歩んで行けば、きっとまた…どこかで会える。


その時がきたら、今度こそ。
言えなかった言葉を伝えよう。

(それまで、その日まで。
バイバイ)

今頃零れかけ来た涙を振り切る為に、リョーマはスピードを更に上げた。
明日にまで追い付ける位、速く、速く。


2008年05月10日(土) 君がいる空に届きますように(跡部)

「もう持っている理由が無いから、返す」

好きな奴が旅立つ寸前、送った指輪を目の前に出された。
クリスマスプレゼントに送ったものだった。
指輪一つで縛れる。そんな性格じゃないってわかっているが、何か恋人同士らしいことがしたかった。
それだけだ。
こいういうのは嫌がって受け取ってくれない可能性も勿論考えた。
実際最初に箱を見た時「指輪ー?」と反応しやがった。
だが最後には「こういうデザイン好き」と受け取ってくれた。
それだけじゃなくチェーンに通してリョーマはいつも身につけてた。
嬉しかった。それだけのことなのに、本当に嬉しかった。

なのに今、リョーマは指輪を返そうとしている。
『別れたい』と、暗に言われているのがわかって、目の前が真っ暗になった。
かろうじて持ち応えたのは、こちらを見ている彼の目がまるで泣き出しそうな位悲しいものだったからだ。

(嘘、かよ)

渡米するから、めったに会えなくなるから。
自分から別れようとしているのか。
馬鹿、だな。
距離が空くからって、心まで離れなきゃいけないことなんて無いだろ。

リョーマがこれ以上何か言う前に、跡部は指輪を持つ左手を両手で包み込んだ。

「持ってろ。これはお前のものだろ」
「でも俺は今からアメリカに…」
「バーカ。「どうせお前のことだから、離れたら終わりとか、
俺が他に心を移すんじゃないか、縛りたくないとかくだらねえこと考えているんだろ?」
「……」
「放すつもりなんて無いからな。今までも、この先もだ。
同じ地球にいるんだ。望めば会うことは出来るだろうが。
あんまり俺のこと見くびるなよ」


説得が通じたらしく、リョーマは指輪を再び受け取って飛行機に乗って行った。
さよなら、じゃなく「行って来ます」と言ってくれたことにほっとしたけれど。


(俺が無理矢理引きとめたから、承諾しただけじゃねえのか?)

リョーマが渡米して五日。
じわじわと跡部の心に不安が広がっていく。

急な別れを言い渡されたショックは、まだ消えてない。
アメリカに行くと聞かされた時も驚いたが、別れる訳じゃないんだからとまだ平気でいられた。
その裏側でリョーマは色々考えて、別れようと選択したに違いない。

簡単に決めたんじゃないと思いたい。でもその前に俺へ一言何か相談出来たはずじゃないか
どうして一人で結論を出す?
よりによって搭乗する前に、そんなこと言わなくてもいいじゃないか。

今、アメリカにいて…自分のことでちらっと考えてくれるのかと女々しい考えが浮かぶ。
忙しくてちらっとも思い出さないかもな。

(まずい、余計なことを考えて余計落ち込みそうだ)

空を見上げて、跡部は大きく深呼吸をする。

高等部に入ったらまた今いる部長を負かして、自分がトップを取るつもりだ。
遠くにいるリョーマに負けないように。
ここで精一杯、頑張ってやろうと決めたのだ。

(けど、連絡くらい取ってもいいよな)

リョーマが思っている程、自分は強くない。
別れを切り出されたら傷付くし、側にいなかったら寂しいと思う。
負担になりたくないから、絶対に表には出さないが。

だからメール位、と跡部は自宅のコートから出て自室へと向った。
テニスに集中する時は携帯は持たないからだ。

返事は期待しない。
でも、会いたいと伝えるくらい良いだろう。

机に置かれたリョーマ専用の携帯を手にして、跡部は気付く。

(メールが、入ってる…?)

急いで内容を確認する。
彼の方から送ってくれるとは期待していなかったので、
何かあったのかと焦りながら文字を追う。


『こっちでの生活にはもう慣れた。
でも景吾がいないとつまんない。そう思う瞬間が多くて困ってる。
だから、次いつ会えるのかはっきりしてよ。
見くびるなって言うのなら、示してみせてよ。
でなきゃ俺の方が先に行動するかね。覚悟しとけよ』


読んだ後、跡部はしばらく放心した。
そして、大声え笑い出す。

(お前って奴は、どこまで俺の想像超えたら気が済むんだ。
ったく、これだからタチ悪い)

返信せずに、いきなり訪ねて行ってやろうか。
それともきちんと何日だって返すべきか。

(さあ、どうするか)

リョーマはここにはいない。
けれど、彼を想うことがこんなに幸せだと思う。
だから、きっと大丈夫。

遠くでこのメールを打つリョーマを思い浮かべて、跡部は幸せそうに笑った。


2008年05月09日(金) 君がいる空に届きますように(リョーマ)

「もう持っている理由が無いから、返す」
指輪を差し出すと、跡部が目を見開いた。

クリスマスプレゼントに贈られた指輪だった。
誕生日プレゼントはリョーマのリクエスト通りのもの。
でもクリスマスは自分の好きにさせてもらったと、跡部は小さな箱を取り出した。
こんなの女子じゃないんだから、いらない。リョーマは本気で思った。
だが跡部に押し切られたのと、形が気に入ったのとで結局受け取ってしまった。

『よく、似合っている』
指に嵌めた時、彼はそれはそれは嬉しそうに笑った。
今まで見た中で、一番幸せそうだった。
大事にしよう。
リョーマはそう思って、普段嵌めたり出来ない時はチェーンを通して身に付けていた。

それを今、返そうとしている。
理由は単純だ。

もう数分でリョーマはアメリカ行きの飛行機に乗る。
旅行じゃない。
向こうの学校に通ってプロを目指す。いつ戻るかもわからない。
二人は離れ離れになるのだ。

側にいなければ続くはずが無い。
跡部がもてるのも知っている。付き合う相手は跡部が望めばいくらでもいるだろう。
側にいない自分よりも、ずっと楽な付き合いが出来る。
だから今、ここで決別した方がいい。

これはケジメ。彼を縛ったりしない為に、自分から言うのだ。

顔を上げて、跡部の顔を見る。
途端、指輪を差し出したを両手で包まれる。

「持ってろ。これはお前のものだろ」
「でも俺は今からアメリカに…」
「バーカ。「どうせお前のことだから、離れたら終わりとか、
俺が他に心を移すんじゃないか、縛りたくないとかくだらねえこと考えているんだろ?」
「……」
「放すつもりなんて無いからな。今までも、この先もだ。
同じ地球にいるんだ。望めば会うことは出来るだろうが。
あんまり俺のこと見くびるなよ」

たしかに跡部の財力ならアメリカの往復くらいどうってこと無いかもしれない。
頼めば日本への往復チケットも送ってくれるだろう。

でも本当にわかっているのだろうか。
会いたいときにすぐに合えない。
諸々の日常が邪魔して、連絡を取ることすら億劫になるかもしれない。
そんな小さな積み重ねに押し潰されて、駄目になっていく。
今は大丈夫だと笑ってても、未来も同じとは限らない。

だからこのまま笑顔でお別れしようと、指輪を返そうとしたのに。

「うん、わかった…」
一度決めたことを引っ込めるなんて、我ながら馬鹿みたいだと思った。
けれど左手を包む跡部の手が震えているのに気付いたのと、
余りある彼への愛情が最後の最後に素直な言葉を吐かせてしまった。

「もう返すなんていわない」
「ああ。当然だな。それはお前のものだ。だから大事にしろよ」
「うん」

跡部が指輪を嵌めてくれるのを、リョーマは黙って見ていた。

「行って来いリョーマ。どうせまたすぐ会えるけどな」
「はい……行って来ます」



あれから五日経過した。
日本よりも馴染みのある土地だから、特に戸惑うことは無い。

(なのに、どうして…)

何度目かの寝返りを打ってから、リョーマは目を開けた。
今夜もすぐに眠れない。
睡眠を愛するリョーマにしては異常な事態だ。

無意識に視線が机の上へ向く。
カーテンの隙間から零れる月明かりに、指輪が反射して小さく光っていた。
それを見ると跡部を思い出して、余計眠れなくなってしまう。

運動量は日本に居た時よりも多い位なのに。
今日だってストリートに挑んでくる連中相手に何時間もボールを打ち込んでいた。
疲労してるのは間違いないのに、眠れないなて。

(問題は体じゃなく、心ってこと?)

認めたくないが、それしか思いつかない。
たった5日。それだけなのに、もう寂しくなっている。
こんなんじゃ先が思いやられる。
よく別れようなんて考えたなと、リョーマは苦笑した。

とにかく眠ろうと、布団を頭まで被る。

まだたったの5日。
我慢しろと、自分に言い聞かす。
彼の顔も温もりもしっかり覚えている。薄れてなんかない。
だから弱音を漏らすなんて、早過ぎる……。

そこまで考えて、リョーマは起き上がった。
急いで机に向う。電気をつくことすら忘れて、携帯を探す。

(メール、くらいならいいよね)

いつかは駄目になるかもしれない。長いこと離れていて、結局お互いしんどくなって止める可能性は十分ある。
でも、それは今じゃない。

だったらちゃんと本音をぶつけてもいいんじゃないか。

取り出した携帯を持って、急いで文字を打つ。

『こっちでの生活にはもう慣れた。
でも景吾がいないとつまんない。そう思う瞬間が多くて困ってる。
だから、次いつ会えるのかはっきりしてよ。
見くびるなって言うのなら、示してみせてよ。
でなきゃ俺の方が先に行動するかね。覚悟しとけよ』

送信して、リョーマは携帯を置いた。
そして指輪をそっと嵌めて、ベッドへ潜る。

今度は多分、眠れるはずだ。


チフネ