チフネの日記
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2004年11月06日(土) 盲目の王子様  after2


「やっと帰りやがった……」

疲れたように、跡部はげっそりと溜息をついた。

4人でのテニスは、結局夕方まで続いてしまった。
まさか夕飯まで食べて行くのかと疑ったが、さすがにそこまでは図々しいと思ったのだろうか。
三人は大人しく帰って行った。

「おい、越前。俺達も屋敷に戻るぞ。
風呂に入って汗流したいだろ?」
リョーマは本日お泊りすることが決まっている。
今日は土曜だ。明日の朝、また奴らがやって来るまでは二人きり。
ようやくこの時間が訪れた、と感動に体が震える。
「何やってんだ。早く行こうぜ」
「あ、ちょっと待って」

リョーマは跡部と目を合わさず、ベンチで靴紐を結んでいる。
さっきから様子がおかしい。
折角二人きりなのに、この愛想の無さはどうしたことだろう。

(ジロー達とは普通に和やかに会話していたじゃねえか)

苛立ってわざと顔を向かせる為に正面に立って、手を掴んだ。
ようやくリョーマが顔を上げる。

「何してんの」
「何って、お前が全然こっち向かないからだろうが」
「紐結んでるのが見えないの」
「……けど、ちょっと位こっち向いてくれたっていいじゃねえか」
ふう、とリョーマはわざとらしく溜息をつく。
「なんだよ。言いたいことあるなら、はっきり言えよ」
段々と堪えきれなくなってそんな風に言うと、じろっと睨まれてしまった。

「別に俺のことなんてどうでも良さそうだと思っていたのに、
今頃そんな風に言うんだ」
「はあ!?どうでもいいなんて、なんでそんな言い方するんだ」
「手塚さん達とは楽しそうに話してたじゃん。
なのに俺を見てくれようともしなかった。俺ばっかり、バカみたいっ」

立ち上がり、リョーマは上着を掴んでコートから出て行こうとする。
「おい、越前。何怒ってるんだよ!」
慌ててその後ろを追い掛ける。
リョーマの言っている意味がわからない。

手塚達と楽しそうに話していた……?
どちらかというと殺伐としたものだったのに、どこをどう見てそんな事を言っているのだろう。
理解不能だ。

「お前こそ、ジロー達とばっかり喋っていただろ!
俺には話し掛けて来なかったくせに!」
思わず声を上げると、リョーマはぴたっと足を止めて振り向く。
「話し掛けようとしても、侑士と手塚さんと仲良く喋っているから、入れなかっただけ!
その時も俺のことなんて気付きもしなかったのに、なんだよ」
「あいつらなんて無視して近付いてくれればいいじゃねえか。
なんだよ……なんでそんな遠慮するんだ」
「するよ」

ぽつっと、リョーマが呟く。

「好きな人の邪魔しちゃ悪いって、普通、思うもんじゃないんすか?」
「越前」

思いもよらないリョーマの気遣いに、じんわりとしたものが胸に込み上げる。
(でも、それかなり勘違いしているんだけどな)
あいつらと仲良くなんて、絶対絶対ありえない。

「悪かった」
「跡部さん」
リョーマに近付いて、そっと背中に手を回して引き寄せる。
「ちょっと俺も余裕無くて、お前のことちゃんと見ててやれなかった。
八つ当たりみたいなこと言って、ごめんな」
「いや、それは俺も同じだから。ごめんなさい」

消えるような声で言うリョーマが愛おしくて、可愛くて。
暴れそうになる気持ちを抑える為に、まず深呼吸をする。

「お前は別に悪くねえよ。
俺が、ちょっとつまらないこと考えた所為で、嫌な思いさせたな」
「つまらないことって?」
何、と聞いてくるリョーマに、誤魔化すのも良くないかと思って、
跡部は思っていたことを口に出した。

「俺なんかより、あいつらの方がお前に合ってるんじゃないかって」
「はあ!?本気で言ってんの?」
「少しだけな」
認めなくないことだけれど、事実だから。
跡部は驚いているリョーマに、ゆっくりと語った。

「俺はお前が思っているよりも良い奴じゃない。
出会った頃はお前に酷いこといっぱい言っただろ?でもそれ以上に酷いことだってして来た。
自分を中心に世界が回ってるとまで考えていたくらいだからな……。
でも、あいつらは違うだろ。少なくとも俺以上に人のことを考えてやれる連中だ。
だからお前に相応しいのは、俺じゃないんじゃないかってそんなこと考えてた」

出来ることなら、以前リョーマに対して取った冷たい自分を全部消してしまいたい。
何も知らないくせに、よく偉そうなことを言えたものだ。
そんな自分が、一緒にいて良いのだろうか。
手塚や忍足と一緒にいる所を見る度に、そんな思いが膨らんで行く。
今まで傲慢だった自分に気付かない程の、バカが。
リョーマといる資格なんて本当は無いんじゃないか。

「えっ」

ぺちっと、頬に小さな痛みが走る。
リョーマの手だと気付いて、目を見開く。


「ふざけんな」
黒い大きな瞳が怒り燃えている。
「相応しいとかって、何?
あんたバカじゃないの?
一緒にいるって、俺が決めたことだ。
それにあんたの性格が悪いなんて、とっくに知ってるよ。
最初は大嫌いだったんだから。
でも、今は……」

ぐいっと耳を引っ張られる。
そこにリョーマは口を近づけて、大きな声を出して言った。

「好きになったから、しょうがないじゃん!」

大声にキーンと、耳が痛む。
けど、跡部の心に確実に届いた。
リョーマの想い。
怒っているような、悲しんでいるような顔が全てを物語っていて、
また自分はバカなことを言ったんだと悟った。

「目、覚ました?」
むっとしたように言うリョーマに、跡部は「ああ」と答えた。

「今のはかなり効いた。
俺の考えてることなんて、つまらないことなんだって思い知らされた」
「なら、いいけど……」
ぷいっとリョーマは横を向く。

「俺だって、そんな風に言われたら不安になるよ。
もう目が見えるようになったんだから、手を繋ぐ必要ないって放り出すつもりなのかと思った」
「はあ?そんな訳ないだろ。
こっちこそ、俺の手なんて必要ないって思ったからこそ別の奴の所に行くんじゃないかと思ったんだぜ」
「………」
「………」

お互いのつまらないすれ違いに気付いて、
ぷっと吹き出した後、顔を見合わせて笑う。

そうだ。
こんな風に本音を曝け出して話をするって、必要だったんだ。
今日、また新しいことに跡部は気付いた。
人と人とが繋がっていくのは難しい。けれど、諦めたくも無い。

「なあ、越前」
「ん?」
こちらを見上げた越前に、跡部はまた思ったことを素直に口に出した。
「俺がまたさっきみたいなバカなことを言ったら、今と同じように窘めてくれないか。
多分俺は、今日のように何度も鬱陶しいこと言い出すと思う。
簡単に悟りを開けるほど、出来た奴じゃないって自分でもよくわかった。
けどお前がいれば、なんとかなりそうな気がする。
だから俺が間違ったことを言い出したら、今みたいに叱ってくれ」

そんなこと当然ながら、他人に頼んだことは無い。
リョーマに会ってから、随分変わったと思う。
以前は自分の生き方に間違いなんて欠片も無いと疑うことすらなかった。
それが、今の自分はどうだ。
焦ったり、迷ったり、苛立ったり。
なんてザマだと、昔の自分がみたら笑う所だろう。

でも、あの頃には戻りたくない。

(そこには、お前がいない)

じたばたしている姿はみっともなくて格好悪くて、
以前の自分のスタイルとはどんなにかけ離れていても、
こっちの道を歩んで行きたい。
越前リョーマがいる人生の方がずっと、いい。

跡部の真剣な懇願に、リョーマはちょっと笑ってから、
「いいよ」と答えた。

「あんたが迷った時は、俺が引っ張ってやる。
離すつもりが無いのは、お互い様だから」
「そうか」
「その代わり、俺が間違っている時はあんたが叱ってよ」
「お前が間違うことなんて、あるのかよ」

少し首を傾げて問うと、リョーマは「あるよ」と憮然として言った。

「俺は誰かの手を借りるの大嫌いなんだ。
例え家族でさえもね」
「ああ」

わかってる、と跡部は頷く。
弱音を吐かずに独りで歩こうとしてた姿は、何度も見て来た。
強がるなと言っても、リョーマは決して聞こうとしない。
相当な頑固者だ。

「だけどあの時……杖を取り上げられて、それでもなんとかして帰るんだって壁伝いで歩いていてさ。
そんな俺に跡部さんが声掛けて来たじゃん。
何言ってんのって反発したけど、あんたはそれを許さないって感じで車に乗って行けって命令口調で言って。
不思議なんだけど、素直に聞こうって思ったのはあれが初めてなんだよ。
俺のこと嫌いなはずのこの人が、何故か怒りながら気を使って送り届けようとしている。
変なのって思いながらも、気付いたら頷いていた」

言いながら、リョーマがぎゅっと跡部のシャツを握り締めて来る。

「多分、俺がこの先も弱みを見せることが出来るのは、跡部さんしかいないと思う。
それでも強がるようなバカなことすると思うから、
あの時みたいに、心配掛けるからとかそんなつまらないこと考えんなって言ってよ」
「……ああ」

優しくその手を上から包み込む。
そうすると、リョーマの手から緊張が抜けて行くのがわかった。
安心させるよう、跡部は笑い掛けて答える。

「わかってる。
お前は俺にとって、ただの他人じゃない。
幸せにも笑顔にもしてやりたいと、いつも願っている。そういう位置にいるって前にも言ったよな?
苦しい時にもわかり合いたい。だから、何度だって独りじゃないって教えてやるよ」
「うん」

ありがとう、とリョーマが小さく言う。
跡部もありがとうと返す。

出会えたこと、自分を選んでくれたこと、ここに居てくれること。
全ての感謝を込めた言葉だった。

「じゃあ、そろそろ戻ろうぜ。汗を流さないと風邪を引く。
またあいつらに何言われるかわかったもんじゃないからな」
「うん」


そして手を握ったまま、また歩き始める。

「お前と会えて、同じ道を歩けて良かった。
つまらねえことでまたぐちゃぐちゃ言うんだろうけど、
やっぱり俺のあるべき道はここにあるって思うんだろうな」
跡部の言葉にリョーマも頷く。
「そうだね。俺も別の道を歩くことは考えられないや。
ねえ、どうせなら二人で見たことの無い所まで行ってみたいね。
跡部さんともっと、色んな所見に行きたいよ」
「二人でか……。それ、いいな」


まだ見ぬ世界に、二人で。

それはそれは幸せな道になるだろう。
二人なら、どこへだって行ける。
きっと、何も怖くない。



終わり


2004年11月05日(金) 盲目の王子様  after1

「リョーマ!こっちや!」
「忍足、声がでけえ。そこまで声を出さなくても聞こえてるだろ」
「ええやん。リョーマの名前呼びたいんやから」
「気安く呼ぶな」
「はいはい。名前呼ぶ位ええやん。ケチやなほんま」
「小声で言ってるけど、聞こえてるぞ忍足!」

その足を踏ん付けてやろうかと、忍足を睨む。
だが全く気にすることなく、忍足はリョーマに向けてひらひら手を振っている。
調子の良い奴め、と心の中で毒付く。

「皆、もう揃っているんだ。早いね」
「いや、手塚がまだだ」
コートまでやって来たリョーマは、周囲を見渡す。
ベンチにはジローが寝そべっている。
リョーマの声に目を覚ましたようで、大あくびしながら起き上がった。

「あー、リョーマだ。元気?」
「昨日も電話してたじゃん。元気だよ」
「そー、良かったあ」

にこっと笑いながら、ジローは準備体操を始める。
しかし聞き捨てならない言葉が混じっていたことに気付いた跡部は、
リョーマにさり気なく問い掛けてみた。

「昨日、ジローと電話で話をしたのかよ?」
「うん。今日のこととか、後テレビの話とか色々。
それがどうかした?」
「いや……」

ジローのやつ、と気付かれないよう歯軋りする。
忍足や手塚と違って、ジローはリョーマの親友みたいなもので、
こんな風に思うのは間違っているとわかっているのだけれどやっぱり気分は良いものじゃない。
自分の知らない所で仲良くしている二人を想像すると、焼けてしまう。

忍足は何もかも見抜いたように、含み笑いをしている。
ムカついてやっぱり足を踏むかと一歩出したところで、
「遅くなって済まない」と手塚がやって来た。
「全員揃っているようだな」
「俺も今所だよ。平気」
「そうか」

にこやかに手塚がリョーマと会話している。
リョーマがテニスをするようになって、手塚の実力を目の当たりにして、
ライバルとして認めたのはいいのだけれど、
必要以上に近付いているんじゃないか?と疑ってしまう。
そりゃ手塚の実力は跡部も認めているが、それとこれとは別だ。
手塚のテニスに傾倒していって、いずれどうにかなる可能性だって十分ある。
やっぱり警戒するべき人物は手塚だな、と跡部の心の警報が鳴った。

「さあ、テニスするかテニス!」
両手を叩くと、忍足がぷっと吹き出す。
「わかりやすいわ、ほんま」
「うるせえよ、忍足」

きょとんとした顔をしたリョーマが、こちらを向く。
「どうかした?」
「嫌……別に。なんでもねえよ」
近付いてきたリョーマの髪をくしゃっと撫でる。
そうだ。
どんなに忍足や手塚が近付いて来たとしても、
リョーマの恋人は自分なのだ。
これは揺ぎ無い事実だ。
落ち着け、と深呼吸してリョーマに向き直る。

「じゃあ、とりあえず軽く打つか?」
「うん!」

嬉しそうにリョーマが、笑う。
心からテニスをするのが楽しくてしかたないという表情だ。




リョーマの目が回復して、数ヶ月。
医者から視力の方に問題は無い言われてから、リョーマは次の段階へと進んだ。
今まで休んでいた分のテニスの勘を取り戻すこと。
ボールを打っていない時間は、たが数ヶ月。
しかし思った以上にリョーマ本人はブランクを感じたようで、
初めにコートに入った時はっきりとした焦りを表情に出していた。
ハード過ぎる練習も禁じられている中で、軽く打つ程度しか出来ない状況もストレスに感じただろう。
それでも諦めることはしないで、まずはボールのコントロールからと、
初心者と変わらない練習を我慢して続けて、今日ここまで来た。
最近ではもう少し長い時間の練習しても良いと医者から許可が出ている。
部活に本格的に参加出来るようになるのは2年生になってからだが、
リョーマならその頃には以前のようにコートを自在に駆け回っているに違いないと、跡部は信じている。
その彼の為に自宅のコートを開放して、練習に付き合っているのだけれど、
いらない連中もおまけに付いて来るという次第だからたまったものじゃない。

(やっぱり口止めするべきだったな……)

軽く打ち終わった後、リョーマと一緒にコートへ出る。
途端に忍足と手塚がリョーマにドリンクとタオルを渡す為にしゃしゃり出て来た。
「ご苦労さん、リョーマ。さっきの動き良かったで。ほら、ファンタ」
「風邪引かないようタオルでちゃんと汗を拭いておけ。油断するなよ」
「二人共、ありがとう」

笑顔でお礼を言うリョーマに、手塚と忍足はほわんとした顔に変わる。
最近あの二人、似てきたな……とすぐ後ろで跡部はげんなりと肩を落とした。

「休憩したら、次は俺と打つか」
「あ、うん……」
手塚の誘いに、リョーマは曖昧に頷く。
まだ二人の試合は実現していない。
リョーマの調子が戻るまで手塚は待ってると言ってるが、
その件を少し負い目に感じてるようだ。
「そんな顔するな。いずれ全力で試合してもらう為の貸しみたいなものだ。
その代わり試合は俺が一番先だからな。一番だからな。一番最初だぞ」
「手塚……ちょお念押しし過ぎとちゃう?」
「そうだよ。わかってる、忘れて無いよ」
呆れたように忍足とリョーマが言えば、手塚は「そうか、なら良かった」と納得する。

三人の友情は今も変わりない。
手塚と忍足に、リョーマがどんな返事をしたのかはわからない。
勿論聞き出そうとも……ちらっとは考えたが、止めにした。
リョーマのことを信じてる。
誤魔化したり逃げたりするような奴じゃないと、跡部にもわかっているからだ。

その後は友人という関係にまた戻って、こうして皆でテニスをするようになっているのだけれど、
二人がリョーマを諦めていないのは見てわかる程だ。
いちいちこの位で騒ぎ立てるのも大人気ないと言い聞かせているが、
(こうもしょっちゅうベタベタ触られたら、不快になるのも当然だろう!?)
リョーマから見えないように、二人をぎりっと睨みつける。

やっぱり、ここへ入れるべきじゃなかったと後悔する。
元はといえば、リョーマが。
リョーマが二人きりで練習していることを、ジローにぽろっと話ししたりするから!
何の裏もなく、ただ喋っただけなのだろうけど、
そこから忍足に伝わり手塚に伝わり、気付いたらこの有様。

(最悪だ……)

項垂れる跡部を、手塚と忍足は笑いをしながらチラッと見ている。

「そうだ。今度不二も練習に参加したいと言っていたぞ。
越前の実力を見ておきたいらしい」
「へえ、不二が来るんか。俺もあいつとは試合したい思うてたから、ちょうどええわ。
手合わせしたいって伝えといてな」
「ああ」
家の主を無視して話が進んで行く。
冗談じゃねえ!と跡部が叫ぼうとした瞬間、リョーマがくるっと振り返る。

「だってさ。ねえ、不二さんも誘ってもいい?
不二さんは青学の天才って呼ばれてるんでしょ?どんなテニスするか興味あるから、見てみたい。
だから、いいよね?」
「ああ」
即答してしまった。

不二なんて。
あんな厄介な奴。家になんて入れたくないのに!
リョーマの言うことに従ってしまう自分に、なんてことだと跡部は頭を抱えた。


「んー?不二が来てるのー?どこー?」
自分がリョーマと打てないならと、寝こけていたジローが目を覚ます。
「まだ来ていないっすよ。今度来るってだけで」
「そうなんだ……。あー、リョーマ、跡部と打つの終わった?
じゃあ、俺とやろ」
「えっ、でも手塚さんが先に」
「俺は順番など気にしない。先に打ってやったらどうだ」
「はあ」

ジローにじゃれ付かれながら、リョーマはまたコートへと戻っていく。
なんか全然会話していないけど、気のせいか…?と跡部は顔を引き攣らせる。

「余裕無い顔しとるなあ、跡部」
「越前の前ではもう少ししゃきっとしたらどうだ」
好き勝手なことを言う二人に、「誰の所為だ!」と一応小声で返事をする。

「お前らが毎回毎回家まで押し掛けたりしなければ、俺の態度だって変わるってもんだ。
ふざけんなよ」
「何を言っている。たかが週3日のことじゃないか。それ以外はお前に譲ってやってる。
文句を言うな」
しれっと手塚が言えば、
「そうそう。週の半分以上は、リョーマを独り占めしとるんやから文句言うなや」
と、忍足も勝手なことを言い出す。
こいつらに遠慮とか無いのかよ、と跡部は拳を震わせた。

「それでも土日の休みは全部お前らと過ごしている身にもなってみろ。
手塚も、平日は遠慮したらどうだ。わざわざ青学からこっちに来るなよ」
「いや。俺は越前と過ごしたいから一向に構わない」
「きっぱり言うなよ。あいつと付き合っているのは俺なんだぞ……」
「そうだったかな?」
「そうなんだよ!いい加減諦めろよ」

むっとしたまま後は無言でコート端に使用人が用意してある飲み物を取りに、
跡部は大股で向かっていく。
リョーマにもよく冷えた飲み物を用意したっていうのに。
二人でゆっくり休憩したかったのに。
当の本人はジローとほのぼのとテニスを楽しんでいて、こっちを見てもくれない。
寂しい、と小さく呟く。




「あーあ。すっかりしょげてまって。こりゃ後が大変そうやな」
去って行く跡部の後姿を見て、忍足は苦笑する。
「拗ねまくって後でリョーマが苦労するかもしれないな。どうする?手塚」
「どうもこうも無いだろう」
手塚は迷いも無く答える。
「あいつは越前に甘え過ぎだ。
拗ねて機嫌を取ってくるのを待ってるんだろ。それを越前が許すと、どこかでわかってる。
羨ましい奴だ、全く」
「そうやなあ。結局リョーマがあれでも好き言うから、しゃあないか」
「けど、諦めるつもりは無いんだろ?お前も…、俺も」
「せやなあ」

忍足はボールを打っているリョーマに、そっと視線を向けた。
ジローと楽しくテニスしているはずなのに、
気が付くとちらちらと跡部の様子を伺っている。
なんで近くで見ててくれないのと、思っている所なのか。

「まあ、人生まだ折り返しも来てへんし、どうなるのかもわからん。
とりあえずは自分の気持ちに素直に行動するけど。
いつかは諦める時も来るかもしれへんなあ」

それがいつかなんて、誰にもわからない。自分にも。
だから今抱いている気持ちは大事にして、リョーマの幸せをそっと祈りたい。
他には何も考えられない。

手塚も「そうだな」と頷いて、リョーマがいる方を向く。

「跡部のことだから、越前をうっかり手放すような真似はしないと思う。
それも、結構腹が立つがな」
「手塚君、最近言うようになって来たなー。不二の影響か?」
「不二だけじゃないだろう。お前の影響もある」
「ええ?俺!?」
「多分、な」
「なんかショックー」


失恋はしたものの、後悔も落ち込む程の悲しみが無いっていうのも妙な感じだ。
全く痛みが無いという訳でも無いのだけれど。
「あー、この感じ。清々しい風が胸に吹いてるようやな。
そう思わへん?」
ポエムの1行を読んだような言葉を口に出すと、
いつもは相槌を打つ手塚は、黙って横を向いてしまった。



2004年11月04日(木) 盲目の王子様 94 跡部

長かった全国大会が終わった。

氷帝は関東の決勝で一度立海に敗れた。
さすが去年の優勝校。簡単には勝たせてもらえない。
しかしその試合が全員により高い目標を目指す刺激になった。
青学との試合で負傷した樺地も戻った所で、もう一度個々のレベルを引き上げて、
以前よりも強くなった状態で全国大会へ挑んだ。
くじの結果で青学とはブロックが別れてしまった。
これではお互い決勝まで残らなければ実現出来なくなる。
手塚は「必ず行くから、待ってろ」と言ったのだが、王者立海もそちらのブロックに入っていた為、
結局リベンジは叶うことは無かった。
「後は任せたぞ」
試合を見学していた跡部に。手塚はすれ違いざま一言だけ発して去って行く。
任せた、という言葉に「必ず優勝しろ」と意味が込められたように跡部は受け取った。
奴の為という訳じゃないが、心により強く打倒立海の気持ちが高まった一言だった。

決勝は再び立海と氷帝とが戦うことことが決定した。
お互い出せる力を尽くして、戦いほぼ互角で進んで行った。
S1で跡部はずっと入院していた部長の幸村と対戦して、彼のテニスに苦しめられた。
試合中に五感を奪うテニス。それが神の子と言われる幸村のテニスだった。
視覚も聴覚も失われた中、それでも跡部はテニスをしようとコートの中でもがいていた。

(ずっとテニスを出来なかったあいつに比べたら、俺の苦しみなんて一瞬に過ぎない。
だから負けてたまるかよ……!)

リョーマに途中でテニスが辛くなったから負けたなんて、そんな結果言えるはずが無い。
倒れたって、何度でも立ち上がって勝つまで挑戦し続けてやる。
その気持ちが跡部に奇跡を起こした。
失われたはずの五感が、蘇って来る。

驚く幸村に、跡部は不敵に笑ってみせた。

「何度やっても同じことだ。俺は諦めたりしない。テニスを嫌になることも無い。
この程度で弱音を吐いてたら、あいつの前に立つ資格なんてないからな…!」

呆然としている幸村に、跡部は懇親のサーブを打ち込む。
そこから流れが変わっていく。

ゲームが終了して、本年度の優勝校は氷帝学園に決まった。







「暑いな……」

聞こえる蝉の声に、跡部はうっとうしそうに眉を寄せた。
全国大会は終わったが、まだ夏は続いている。
それでも、今日位は涼しければいいのにと思う。
彼が退院する日だけでも、外を歩いても平気な気温にして欲しい。
これだけ暑いと病院から出てすぐ倒れてしまうんじゃないかと、心配になる。

今日はリョーマの退院日だ。
包帯は昨日、取れたらしい。
らしいというのは、昨日はその全国大会決勝で終わった時にはとっくに見舞いの時間が過ぎていたからだ。
延長戦もあったから仕方無いのだが、大事な日に行けないなんてかなり不満だ。
しかも祝賀会には出るようにと榊から念を押された為、こっそり忍び込む計画も未遂に終わった。
案外榊は病院から報告を受けていて、跡部達を行かせない為に釘を刺したんじゃないかと疑いたくなる。
不満そうな顔をする跡部に、榊は今日のことを「ご苦労だった」と言って、そして大事なことを教えてくれた。

『越前の様子だが、無事に包帯が取れたそうだ。
明日、退院らしい』
『じゃあ、目は……』
『心配しなくても、もう回復しているそうだ』
『見えるんですね?あいつの目は、見えるようになったんですね?』
『ああ』

くどい程念押しする跡部に、榊は笑いながら言った。

『明日、彼の退院祝いをするようだ。
お前達にも家に来て欲しいと、家族からの伝言だ。忍足達にも連絡してやって欲しい』
『はい!』
『良かったな、本当に』
『……ええ』

一瞬見せた榊の嬉しそうな顔に、意外だと思ったが跡部は素直に頷いた。
榊もリョーマの回復を心から祈っていた一人だ。
いつもは厳しい監督だが、それだけじゃない。
リョーマを通して、榊の新たな一面を跡部はたしかに理解していた。



(退院祝いか……。またジローや忍足、手塚も騒ぐんだろうな)

忍足は最近妙に手塚と仲が良い。
今日の退院祝いの件も「じゃあ、俺から手塚に連絡しとくわ」と言ったのでびっくりした。
連絡先なんて、いつ交わしたのだろう。
元々跡部も手塚を呼ぶつもりだったので、助かったが。
手塚もリョーマの退院を一緒に祝いたいはずだ。
この場に呼ぶのが筋だと考えている。

(それでも一番に祝うのは、俺だけどな)

退院祝いは越前家で11時からとなっている。
それぞれお祝いの品を持って、直接家の前で待ち合わせをしようという話になっていたが、
跡部はお祝いの品を車で運ばせて、一人でリョーマの入院先の病院の前でじっと出て来るのを随分前から待っていた。

告白する、為だ。

だからこそ誰よりも先に会いたかった。
そんな我侭な気持ちが、跡部を動かして今ここにいる。

暑い中、バカみたいに立ち尽くしてひたすらリョーマが通り掛るのを待っている。
折角シャワーを浴びて髪も洗って、気合いを入れたのに、
これだけ汗をかいていると意味が無かったなあとぼんやり考えていると、自動ドアの所に新たな人影を発見した。

(来た……!)

やっと出て来たリョーマを見て、跡部はブロック塀に凭れてた体を起こす。
リョーマの後ろからは母と菜々子が笑いながら付いて来る。南次郎はその後ろから欠伸しながら、歩いている。
無事リョーマが退院したのが嬉しいのだろう。
リョーマの家族達は力を抜いた笑顔や表情を浮かべている。

当の本人は、久しぶりの日差しが珍しいのだろうか。
眩しそうに太陽を見上げたり、むわっと暑いだけの周囲を楽しそうに見渡している。
目に映る、それだけで喜びを味わっているみたいだ。
と、視線がこちらに向いた所でパチッと目が合ってしまう。

こんな中、独りで立っている怪しい男を見て変だなと思ってるのかもしれない。
じっとリョーマがこちらを見てくる。
跡部も、そのまま目が離せなくなってしまう。

少し前までは、焦点が合っていないたよりない目線だったのに。
こんなにもはっきり意思を持った強い瞳なのかと、うろたえてしまいそうだ。

(ばれている、訳無いよな)

リョーマは跡部の顔を知らないはずだ。
今日まではずっと包帯越しに対応していた。一度も顔は見られていない。
それにしては、やけにこちらを見ている。と思った瞬間、リョーマが駆け出して来た。

「跡部さん!」
はっきりと名前を呼んで、リョーマは真っ直ぐ跡部の元へとやって来た。
「お前……なんで、俺のことわかるんだ!?」
「やっぱりその声は跡部さんだね」
しまった、と口を塞ぐがもう遅い。
得意げな顔をしているリョーマに、渋々跡部は自分の正体を認めた。

「けど、本当にどうしてわかった。お前の家族が教えたのかよ?」
ぽかんと、取り残されたリョーマの家族達がこちらを向いている。
彼らは跡部の顔を知っている。だから小声で跡部が来ていることを知らせたのだろうと思った。
「ううん、違うよ」
しかりリョーマはあっさり首を横に振った。
「でも、跡部さんだと思った」
「だから、どうして」
確信したのかがわからない。
唸る跡部に、リョーマはどこか可笑しそうに口を開く。

「前に言ってたじゃん。自分でせっかちな方だって。
そんな人が家で大人しく待ってるように思えなかったんだよね。
後、目が合った瞬間なんとなくわかった。
こんなに強い視線送ってくるのは、跡部さんじゃないかって、この人がそうだって俺の直感が告げたんだ」
「そう、かよ」

自信に満ちたリョーマの口調に、なんだか恥かしくなって目を逸らす。
たしかに家で待っていられなかったのは事実だ。
だからこんな暑い中、通り掛るのをじっと待っていた。
完全に読まれていたらしい。

「おーい、リョーマ!
暑いんだから早く車に乗れよー。跡部君も一緒に乗っていくか?」
南次郎の声に、リョーマは「俺、歩いて行く!」と大きい声を出して返事をする。
「歩いて!?お前、このくそ暑いのに何考えてるんだ!」
「ゆっくり景色みて帰りたいんだよ。親父達は先に帰ってて!
俺は跡部さんと後で行くから!」
「けっ、しょうがねえなあ。母さん、菜々子さん行くぞ、もう」
「リョーマさん、気をつけて来て下さいね」
「ちゃんと帰って来るのよ」
跡部に一礼をして、先に歩いて行く南次郎に続いて菜々子達も車へと向かって行く。
どうやらリョーマの意向を汲んで、跡部と一緒に居させることを許可したようだ。

「いいのかよ。こんなに暑いのに、車で帰った方が良くないか?」
リョーマの体を気遣って言ったのだが、何故か不満げに返される。
「いいの。久しぶりの外を、ゆっくり見たいから。
それとも跡部さんも車に乗って行きたかった?」
「いや、俺は……」

お前と一緒の方が、いい。
咄嗟に口から出そうになり堪える。
それより前に、言うべき言葉があるはずだ。
間違えるな、まず言わなくては。
ずっと、お前のことが好きだったって。
今なら誰もいない。
告白するべきだろう。

緊張しながら口を開きかける跡部に、先にリョーマが声を出してしまう。

「俺は、好きな人と初めて見る景色を一緒に見たかったから、
歩いて行きたいと思ったんだけど」
「……何?」

告白しようとした瞬間、
衝撃的なことを聞かされて、跡部の頭の中が真っ白になる。

好きな人。
リョーマはたしかにそう言った。
間違っていなければ、その相手は一人しかいない。


「それは、おい、どういう」
動転して、口が上手く動かない。
そんな跡部と反対に、リョーマはきっぱりと言う。
「跡部さんのこと、好きだよ。これで、言ってる意味伝わった?」
「はあ……」
「そういうことだから」

顔を赤くした後、リョーマはゆっくり外へ向かって歩き出す。
数秒の間、跡部はぽかんとしていたが、すぐその後を追う。

「おい、越前っ」
呼ばれてもリョーマは前を向いたまま歩き続けている。

「いきなり言われてびっくりしてると思うけど、取り消すつもりは無いんで。
退院したら絶対言おうと思ってたことって、この件だよ。驚いた?」
「こっち見て話せよ。なんでそっぽ向いたままなんだ」
「恥かしいからに決まってるからだよ。何言わせんの」
「でも、ちゃんと俺の方向いてくれないか。
俺だってお前と目を合わせて、好きだって伝えたいのにさせないつもりか」
「えっ」

リョーマが足を止める。
ぽかんとした表情に、さっきの自分を重ね合わせる。
同じ反応しているなとちょっと笑って、そしてやっと言いたかった気持ちを伝える。

今日まで長かった。
結局お互いに色々考えてこの日まで黙っていたのかと思うと、滑稽だ。
その日々にピリオドを打つ為に、隠していた心をリョーマに曝け出す。

「好きだ、越前。多分お前よりずっと前から好きだった」
「……」

大きく目を見開くリョーマに、跡部は少し笑ってぎゅっとその小さな体を抱きしめる。
少し順番は違ってしまったが、構わなかった。

跡部はリョーマのことが好きで、
リョーマは跡部のことが好きで。
お互い同じ気持ちだとわかったのだから、もういい。
それだけで十分だ。
幸せに順番なんて関係ない。

「……じゃない」
「どうした、越前」
腕の中のリョーマが何か小さく呟いたのが聞こえて、跡部は聞き返した。

「跡部さんが先なんじゃない。俺の方がずっと前に好きになった。そこだけは言っておく」
ムキになって言い返すリョーマに、思わず笑ってしまう。
何か彼なりに拘っているものがあるみたいだ。

「こんなことで張り合ってどうするんだよ」
「先に言い出したのはあんたじゃん。俺だって、好きなのに」
「じゃあ、お互い同時にっていうのはどうだ。これなら文句無いだろ」
「なんか上手く言い包められた気がするけど……」

まあ、いいや。と、リョーマも笑う。

「両想いで良かった。そう思うことにする」
「そうだな。俺も告白するまで、どうなるか眠れなかった位だった」
「本当に?自信あったんじゃないの?俺の気持ちなんてとっくにわかっていたとか」
「わかる訳無いだろ。先に言われてびっくりしたんだからな」
「あー、退院したら絶対言おうと焦ってたから、驚かせてごめん」
「別に謝ることじゃないだろ。俺達は今日から恋人、なんだからな」
「うん……」
「ほら、手出せよ」
「えっ、と」
「一緒に景色見ながら行くんだろ?」


そして、手を繋いで歩き出す。
今までとは違う意味で触れる手に、お互い少し固くなっているのがわかって、
顔を見合わせて照れくさそうにまた笑う。

笑いながら、また歩いて行く。

初めて見る景色を、好きな人と一緒にと言ったリョーマの願いを叶える為に。
少しでも長く見れるようにと、ゆっくりとした足取りで進んで行く。

幸せ過ぎるこの時間に、思わず跡部は本音を漏らした。

「このまま二人でどこか行きたい位だな……。
また抜け駆けしたとジロー達が騒ぐだろうから、家へ行く前から疲れるのが目に見える」
なんで手を繋いでいるか激しく突っ込まれて、そして引き離される。
そんな展開まで読めてしまう。

「でも、皆折角集まってくれてるんだから…このまま放って行く訳にも行かないよ」
「わかってる。今日の所は諦める。でも、」

握っている手に力を込める。

「今度は二人きりで出掛けような。
あの道の向こうへ行こうぜ。約束しただろ?」
いつかのことを口に出すと、リョーマは大きく頷いた。
「うん、二人で行こう。行き先はどこでもいいよ。任せる」
「ああ」

はにかみながら、リョーマは何度も跡部の横顔を確認して来る。
まるで跡部と、その景色をその前に焼き付けようとするように。
跡部も同じことを考えていた。

今日のこの気持ちと、リョーマの笑顔を忘れないように。
彼の目が自分を見詰めている、その幸せがいつまでも続きますように。

小さな手を握り締めたまま、また一歩ずつ前へと進んで行った。


2004年11月03日(水) 盲目の王子様 93 リョーマ


聞こえてきた足音に、リョーマは自然と口元を綻ばせた。
静かな病室にいると、外に響く足音が気になってしまう。
病室に入って来る看護士さんを音でリョーマは聞き分けている。
しかしこの音は、病院のスタッフのものじゃない。
もう何度も聞き分けた、あの人の音だ。

ノックしたのと同時に「どうぞ」とリョーマは声を掛けた。
まだ検温は終わっていないので、先程の看護士が「あら、戻ってきたの?」と声を上げる。
「長時間のお見舞いは控えてね、って説明があったと思うけど。
まだ用があるのかしら」
「すみません。でも後少しだけ、こいつと話をさせて下さい」
多分頭を下げているだろう跡部さんに申し訳なく思いながら、
リョーマは看護士に向かってお願いをする。

「俺からもお願いします。もう少しだけ……従姉も出て行っちゃって不安なんで、もうちょっと戻って来るまでお願いします」
わざと心細そうな声を出すと、看護士は態度を変えた。
「しょうがないわね。本当に少しだけだからね」
「ありがとうございます」
「越前君が疲れたら、すぐ退出はして下さいね」
「わかりました」

そう言って、看護士はドアの外へ出て行った。
ふう、と跡部が溜息をつく。

「なんかすっかり目を付けられてる感じだな。居心地悪いったら」
「騒いだり時間外に来たりするから、覚えられちゃったんだよ。来るだけで警戒されてるのかよ」
「マジかよ!じゃあ、昨日ここに来たのがばれてるってことか?」
「うん」
「……大丈夫か?叱られたりしなかったか?」

心配そうな声を出して、左頬に跡部の手が触れて来る。
「平気。注意されたけど手術前で話し相手が欲しかったって訴えたら、しょうがないって許してくれた。」
「そうか……悪かったな、結局迷惑掛けて」
「ううん。無理矢理匿って、引き止めるような真似をした俺が悪い。
跡部さんが気に病むこと無いよ」
「いや、そもそも俺が押し掛けたりしなきゃ良かったんだ」
どこか後悔を滲ませる声に、リョーマはむっとしたように答える。

「なんで?俺は嬉しかったよ。だから何を言われようとも、平気」
「そこまで言ってくれるのならいいけど、やっぱり今度からは時間守って来るようにする。
ここを紹介してくれた監督にも迷惑掛かるだろうしな」
そうしよう、と跡部が呟く。

「でも無理しなくてもいいから。これからもっと忙しくなるだろうから、大会を優先してよ」
本当は跡部が来てくれないと寂しいのだが、
わざとリョーマは突き放すように言った。
決勝と、全国大会を控えて時間がどれだけあっても足りないか、容易に想像出来る。
そっちに使って欲しいという意味を込めたのだけれど、
跡部は頬に触れていた手を離して、ぴんと指で額を軽く突いて来た。
「バカ。無理なんてしてねえよ。
それに大会ばっかり考えて、お前に会いに来ない方がよっぽど無理してるって俺は思うぜ。
そっちこそ思ってもないこと口にすんな」
「……」

見透かされてるなと思って、リョーマは小さく俯いた。
どうにもこの人相手だと、本音を隠すことすら出来なくなってしまう。

「時間外になった時は、今度こそこっそり忍び込むスキルを見につけておくとするか」
冗談交じりに言う跡部に、リョーマはくすっと笑った。
「ここまで辿り着いたら、また匿ってあげるよ。じっとして息殺してやり過ごさなきゃいけないけど」
「ああ。頼むな」

真面目に言われて、また笑ってしまう。

正直な所、どうにかしようと慌てていたとはいえ、跡部と同じベッドに入ってしばらく体を密着させていたなんて、今考えても信じられない。
よく声が裏返ったりしなかったよな、と自分でも感心する位だ。
いつもより早い鼓動を、跡部に気付かれていないだろうか。気付いても、黙っていてくれているのかもしれない。
思い出しただけで、顔が赤くなってくる。

誤魔化すように、リョーマはわざと声を出した。

「今日はそんなに時間無いから駄目だろうけど、試合のこと詳しく聞かせてよ。
跡部さんや手塚さんがどんな風に打ち合ったか、聞きたい」
「ああ。お前が満足するまで、些細なことだって全部聞かせてやる。
楽しみにしてな」
「うん」

頷くと、また跡部の手が顔に触れてくる。
頬を伝わって、包帯を巻いている部分に押し当てられるのがわかった。

「痛むか?」
「ううん。大袈裟に巻いてあるだけで、平気だって。
包帯が取れるまでは時間が掛かるけど、後は結果待ちだけ。
それだけだから」
「それだけって……本当は緊張しているんじゃないのか?」

相変わらず思考を読むような言葉に、リョーマは困ったように口を窄める。

「まあね。実は駄目でした、なんて言われたらさすがに凹むかも」
「おい」
咎めるような言い方に、冗談だよ、と言って笑う。
そして、話を続けた。
「でも今は、ここまで来れただけでいいやって気持ちになってる。
もう何があっても、受け入れられるかもしれない。
ほとんど諦めていたのも同然だったのに、自分以外の人に支えられてここにいる。
それだけでも、感謝しなきゃいけないんだ」
「どういう意味だよ」

困惑している跡部に、リョーマはそっと口を開く。
多分、抱えてたこの気持ちを伝えるのは跡部が最初で、きっと最後になるのだろう。

「こうなる前、向こうでテニスやったって言ったよね」
「ああ」
「すごく楽しくて、毎日上を目指して、頑張ることさえ苦にならなくて。
ずっとそんな日が続くって信じてたんだ」

コートの中が、リョーマにとって全てだった。
他に世界を知らない。
テニスさえあれば、それで良かった。

なのに、視力を奪われ。
生き甲斐ともいえるテニスも出来なくなって、落ち込む所じゃなかった。
絶望と悲しみと、どうして自分がという怒りと。
それでも家族には心配掛けまいとなんでも無いよう振舞って。
そうしてゆっくりと心は沈んで行ってしまったんだと思う。

「テニスが出来ないと知られた途端、無責任な連中に色々言われたりして、
もうコートに戻りたくないとさえ思った。
でもやっぱりラケットに触れたい、ボールを打ちたいっていう気持ちもあって。
変になりそうだった」

榊が尋ねて来たのは、そんな時だった。

「うるさい場所から離れて、日本で静かに復帰の道を探してみないかと言ってくれた。
俺の目も必ず治るって。
おかしいよね。本人は諦めてるのに、自分以外の人が信じているのって。
でも……不思議とその声に賭けてみようと思ったんだ」

勿論、自分をよく知っている土地が騒がしくなった所為もある。
外出すれば、ひそひそと囁かれ、落ち着くことすら出来やしない。
自分がテニスをしていたことを誰も知らない場所に行きたい。そう思ったのも事実だ。

「本当は日本に来ても、手術して治る見込みなんて無いんじゃないかって疑っていた。
怖かったんだ。
やって駄目だったら、今度こそラケットを握ることは叶わない。
だから信じるのが怖かった。信じて裏切られて、ハイそうですかって受け入れられる程俺は強くなかったんだ」

自分は強い人間だと、そう思っていた。
父親に負けても、何度だって立ち向かっていける。決して諦めたりしない。
それはテニス以外でも、同じことで。
何に対しても屈したりしないと挑んでいた。
だから強いと勘違いしてたんだ。
本当は弱い部分だって、持っていたのに。

「でも、俺以外の人達が皆手術の成功を信じているんだよ?
家族も、榊先生も、ジローや侑士や、手塚さん、そして跡部さんも……。
逃げ出すことなんて、出来きないよ。
皆の気持ちを分けてもらって、俺は手術に踏み切ることが出来た。
感謝してる。すごく」
「越前」

手を伸ばして、包帯に触れてる跡部の手を掴む。
リョーマよりずっと大きな手は暖かく、心を落ち着かせてくれる。

「こんな弱音言ったの、初めてなんだ。
どうしてくれんの。あんたといると、隠しているはずの言葉が出て来る。
そういうの、困るんだけど」
「別に、どうもしないだろ」

あっさりと、跡部が返事をする。

「前にも言っただろ。
お前が辛いのなら、一緒に悩んでその気持ちを楽にしてやりたいって。
俺の前ではもっと言いたいこと言えばいい。全部受け止めてやるから、困ること無いだろうが」
「……だから、そういう言い方が困るんだって」

どうして、と言う跡部にリョーマは首を軽く振る。
そして触れていた手に力を軽く込めて、声を出す。

「前に約束したこと、覚えてる?
退院したら言いたいことがあるって」
「ああ、覚えてる」
「待っててよ。その時、多分一番困らせるようなこと言ってやるから」

ちょっと不敵に笑って告げると、一瞬間が開く。
多分、驚いているのだろう。
見えないけど、なんとなくリョーマはそう思った。

そして、
「ああ。待ってる」
言われると同時に、包帯越しに軽く何か触れた。
「今の?」
「早く治るように、おまじないだ。
俺の方もお前を困らせるような言葉を用意しておく。
びっくりするなよ」
低く笑う跡部に、リョーマもすぐに笑って返す。
「上等。跡部さんがどんな事言うか、楽しみにしておくよ」
「それほどのものじゃねえけどな……」

ふう、と跡部が溜息をつくのと同時に、
「リョーマさん、入りますよ」と外から声が響く。
話に夢中になっていたおかげで気付かなかったが、菜々子の声だ。
戻ってきたらしい。

「じゃあ、今日の所は帰る。また怖い人達に怒られそうだからな」
「うん」
「またな、越前」

跡部が立ち上がって、そしてドアを開ける。
「あら、跡部さん。リョーマさんに付いていてくれたんですか?」
「はい、でも時間なので帰ります。今日は大勢で押し掛けてすみません」
「いえいえ、また来て下さいね」

菜々子と跡部のやり取りを聞きながら、リョーマはさっき触れたものについて考える。

(跡部さんの唇だった気がするんだけど……まさかね)

そんなはずは無いと思いつつも、他に思い当たらない。
瞬間を想像して、一瞬で体温が上昇するのがわかる。

検温が済んだ後で良かった、とリョーマは胸を撫で下ろした。





病室を後にして、跡部は廊下をゆっくり歩いて行く。

(結局、何も言えなかった)

握り締められたリョーマの手から揺ぎ無い決意を感じて、
そんな時に告白するのもどうかと躊躇われた。

(俺もバカだな。けど、次のチャンスは無駄にしない……絶対に)

退院して、リョーマの目が開いたその時こそ。
言いたかったこと全部ぶちまけて、あいつの驚く顔を見るんだ。


2004年11月02日(火) 盲目の王子様 92 跡部 

「やったな、跡部」
「跡部、すげえじゃん!さすが俺達の部長だな」
「すげえ、すげえ。あの手塚に勝っちゃったよ!」
皆からの賞賛の言葉を受けながら、跡部は少し照れたように笑って流れる汗をタオルで拭いた。

「さすがだな、跡部」
「監督」

それまでベンチに座っていた榊が立ち上がる。

「よくやった。手塚君に勝てるのは大変だっただろうが、お前なら乗り越えられると信じてた。
頑張ったな」
ふっと表情を和らげる榊に、跡部はぴっと背筋を伸ばして一礼をした。
「いえ、自分の好きにやらせてくれて感謝してます」
長期戦を狙え、と榊に言われたらさすがに逆らうことは出来なかっただろう。
大事な試合だろうに、自主判断に委ねてくれた榊には感謝するばかりだ。

「判断を間違えなくて良かったようだな。
さあ、整列だ。行って来い」
「はい!」

皆と一緒にコートへと集合していく。

無意識に青学のレギュラー達を確認すると、
大石が手塚の腕を心配そうに触れているのが見える。
隣にいる不二がこっちを向いて、慌てて目を逸らしたが。

(ひょっとして、腕が痛むのか……?)

今になって酷く心配になって来た。
礼を終えた後、跡部はすぐに手塚に話し掛けてみることにした。

「手塚、腕は大丈夫なのか?」
「跡部」
きょとんとした顔で、手塚が振り向く。
「いや、大したことは無い。念の為、後で病院に行くが多分大丈夫だ」
「そうか」
「手塚の心配をしているの?どういう風の吹き回しかな?」
不意に手塚の背後から、不二が顔を覗かせる。
いきなり出て来るなと、注意しそうになるのを堪えて、
「どういうも何も、気になったから尋ねただけだ」と返す。
「へえ、気になるんだ」
「当たり前だろ。俺との試合の所為で怪我したなんてことになったら、さすが後味が悪い」
「ふーん……」
跡部の顔をじっくり眺めた後、不二は首を傾げる。

「どうやら本心みたいだね。
試合もまさか君が堂々とぶつかってくるとは思わなかったから、驚かされたよ」
「悪いか」
「ううん。君達の試合を見ていて、僕ものんびりしていられないかなあと思わされた。
良いものを見せてもらったよ、ありがとう」
「……お前に礼を言われるとはな」
「たまには、ね」

ふふっと笑って、不二はまた仲間達の元へと戻って行く。
黒いオーラが無かったことにほっとしつつ、跡部はまた手塚に話し掛けた。

「手塚。これから手術の結果を聞きに、越前の所に行くんだろ?」
「ああ。どうなるのか、気になっているからな」
「俺達はこれから車で向かうつもりだ。一緒に乗って行かないか?」

ごく自然に、そんな言葉が口から出る。
昔の自分なら、気に入ったものに近付こうとするものは徹底的に排除したはずだ。
けれど、今は違う。
リョーマを想う気持ちが同じだとわかるからこそ、早く結果を伝えてやりたい。そんな気にさせられる。

「いいのか?」
「ああ。一人も二人も一緒だ」
「跡部、俺らは」
心配そうに後ろから声を出す忍足に、跡部は「バカか」と笑ってみせる。

「俺達、って言っただろ。お前らも一緒に越前の所に行くんだ。
そうだろ?そして全員であいつの成功を祝ってやろうぜ」
「……信じてるんだね、跡部は」
ジローがそんな風に言って、嬉しそうに笑う。
「リョーマの手術が成功しているって、信じているんだよね」
「当たり前だろ」
ジローの髪をぐしゃっとかき回して、きっぱりと言う。
「この俺が信じてるんだ。成功するに決まっている。
だから、皆で行こうって言ってるだろうが」
「うん!俺もお祝いしたいC。行こう、行こう」
「ほら、手塚も。ぼさっとしてないで、行くぞ!」
「あ、ああ。ちょっと待ってくれ。大石達に一言断っておくから」

慌てながら大石の所へ行く手塚に、「早くしろよー」と声を上げる。

試合は終わった。
後は、リョーマの手術の無事を確認するだけ。
四人全員で、リョーマのいる病院へと向かった。








「手術が終わった所ですから、長い時間の滞在は困りますからね。
大声を出すのも原因。わかりましたか?」


病室に入る前、跡部達はまず婦長から注意を受けた。
すっかり目を付けられてしまったと、跡部は溜息を漏らす。
これで無断で入ってきたことが、ばれていたらと考えると恐ろしい。見付からなくて良かったと、しみじみ思う。
そして事情のわかっていない手塚は、何故怒られているのかわからず困惑している様子だ。

注意を受けた後、いよいよリョーマの病室へと入ることが出来る。
ノックをすると、中から女性の声で「はい」と返事がある。

「あら、皆さん。来て下さったんですね」
中にいたのは菜々子だった。
ベッドに横たわっているリョーマのすぐ隣に椅子を置いて、腰掛けている。
「試合が終わったんですか?お疲れ様です」
立ち上がって頭を下げる菜々子に、皆も慌ててお辞儀をする。

「リョーマさん。跡部さんと忍足さんと芥川さん、そして手塚さんが来て下さいましたよ」
「……うん」
ゆっくりと、リョーマは起き上がる。
「こんな格好でごめん。今はちょっと立ち上がるのも大変で」
「何言ってるんだ。そのままにしてろよ」
「そうだよ、リョーマ。無理しないで」
跡部とジローと二人掛りで、ベッドから降りようとするリョーマを止める。
点滴している腕が、痛々しい。
リョーマの目にもぐるっと包帯を巻かれていて、あの大きな目は隠れてしまっている。
普段と違う様子の彼に、大丈夫なのかと心が痛む。

「手術は、終わったのか?」
一番気になることを尋ねると、リョーマはこくんと頷く。
「結果、聞きたい?」
「当たり前だろうが……」
「リョーマ、焦らさんといてな。こっちの心臓がもたへんわ」
大袈裟に言う忍足に、リョーマは「ごめん」と笑ってそして告げる。

「成功したって。多分一ヶ月しない内に包帯も取れるよ」
「本当か」
「うん。本当」
「やったね、リョーマ!」
「おおお、良かった。ほんまに良かった。今俺の目から喜びの流れ星が流れた所や」
「越前、信じていたぞ。俺の祈りが届いたようだな。何度も祈っていたからな」
ポエムと天然が何か言っている。
変なこと言うなよと跡部は思ったが、リョーマは純粋に「ありがとう」と笑顔を返している。

「リョーマさん。皆さんとゆっくりお話していて下さい。
私はちょっと買い物に行ってますから」
気を利かせて、菜々子が席を立って外へと出て行ってしまう。
止めようかと皆は顔を見合わせたが、菜々子の明るい笑顔に結局甘えることにした。


「試合、終わったんだよね?皆、お疲れ様」
リョーマの一言に、ジローがぎゅっと足元に寝転がるようにして抱きつく。
「リョーマー!俺、負けちゃったよ!不二と当たったんだけど強過ぎて参っちゃった。
もっと強くなんなきゃ駄目だよねー」
「おい、こら。ジロー。騒いだら駄目だろうが」
「いやー、リョーマ」
病人に抱きつくなと、ジローの肩を揺さぶる。
その隙に、今度は忍足がリョーマの手を握って話し掛ける。
「俺な、今日の試合駄目かと思うたけど、勝ったで。
あんなに苦労した試合は初めてや。俺ももっと頑張なあかんな。
岳人がへばっても余裕でフォロー出来るようなる位にはな」

笑って言ってるが、忍足の表情に真剣さが見られる。
勝ったものの、今日の試合に不満が残ったようだ。

「うん、侑士なら出来ると思う。次の試合はきっと納得出来る結果を残せるって、思う。
ジローもね。俺も応援してるからさ」
「リョーマ〜、ありがと!」
「次はリョーマに満足出来るような試合やったって報告出来るよう、頑張るからな」
ジローも、忍足も。
青学の試合を経験して、もっと強くなるだろうと跡部は確信した。
全国大会に向けて、きっと氷帝の戦力は上がるだろう。

「次は、俺が話してもいいだろうか」
忍足の横から、今度は手塚がリョーマに接近する。
「あー、まあ、ええわ。順番な、順番」
渋々忍足はリョーマの側から離れる。
順番なんていつ決まったんだよ、と跡部は眉を寄せた。

「越前。今日の試合、俺は敗北した。
出来ればお前と試合するまで誰にも負けたくないと思っていたから、その点で残念に思ってる」
「そんなに気負うこと無いよ」
リョーマは小さく首を振った。
「俺も負けるのが怖かったけど、でもだからって自分のテニスがそこで終わる訳じゃない。
そう思ったら、少し気楽になれたんだ。
だから、その」
もどかしげに口をもごもごと動かすリョーマに、手塚はわかっているというように頷いた。

「ああ。俺は今日の敗北も無駄にはしない。
もっと強くなって、そしてまた挑戦する。全国でも、強敵が待っている。
その為にも立ち止まってはいられないからな」
手塚の目が、跡部を取られる。
次に試合する時は、同じ結果にはならない。そう訴えているようだ。
跡部も目を逸らさず、黙ったまま瞳で応える。
今回勝てたからといって、これでいい気になっている訳じゃない。
次は今以上の力をつけて来て、叩きのめしてやる位でやってやる。

お互い軽く火花を散らした所で、手塚がそっとリョーマから離れる。
次はお前の番だ、というような行動に、いいのか?と少し戸惑いつつも、歩み寄って行く。

「越前。勝ったぞ。今日の試合は、俺達の勝ちだ」
「おめでとう、跡部さん」
にこっと、リョーマが笑う。
「お疲れ様。昨日まで色々迷っていたみたいだけど、その声からすると跡部さんらしいテニスが出来たみたいだね。
良かった。声が暗かったから、ちょっと心配してた」
「……それは、変なこと言って悪かった」
「ううん。吹っ切れたならいい。……本当に良かった」

はあ、とリョーマが安堵の息を吐く。
手術を前にして不安だったろうに、余計な心配をさせてしまったかと頭を掻く。
本当ならここで自分の不甲斐無さを叱咤しなければいけない所だが、
リョーマが気に掛けてくれたことに嬉しさを感じてしまうから困る。
好きな人が、自分のことを考えてくれる。
それがこんなに幸せなものなのかと、今更ながら驚いてしまう。


「越前…」
もっと話をしようと口を開きかけた所で、がらっとドアが開けられる。

「越前君、検温の時間ですよ」
婦長では無いが、別の看護士が入って来る。
「悪いけど、ちょっとそこ通してもらえますか」
「あ、……はい」

想像だが、多分跡部達が騒いでいないか見張りに来たという所だろうか。
看護士が入って来たことによって、ジローも忍足も緊張したように体を強張らせる。
唯一手塚だけが通常と変わらない表情で、皆に声を掛ける。
「俺達もそろそろ失礼した方がいいんじゃないだろうか。
長居しないようにと注意されたことだしな」
「あー、えっと」
「そうしようかー」
「……仕方無えな」

このまま居座って、迷惑を掛ける訳にもいかない。
帰ることを告げると、リョーマはあからさまに残念そうな顔をした。
「え、今来たばかりなのに」
「越前君、今日はゆっくり休まないと駄目よ」
「……はい」
注意されて、リョーマは肩を落としつつ頷く。

「また来るから、そんな顔すんな」
「リョーマ、明日も来るからね」
「夢で会えるようにするから、心配せんでもええって」
「一日も早く回復するよう、祈っておくからな」

四人は部屋からそっと出て行く。
最後に出た跡部は、リョーマの寂しそうな姿勢を見てぐっと唇を噛み締める。

(やっぱり、もう一度だけ声を掛けておきたい)

そう思うと、このまま帰る訳にはいかない気持ちが強くなってくる。
廊下を半分ほど歩いたところで、跡部は足を止めた。

検温が終わったら、少しだけリョーマと話してもいいんじゃないか。
婦長に止められたら3分だけでもいいと言って、わかってくれるまで頼み込もう。
このままじゃ、やっぱり帰ることは出来ない。

ぴたっと足を止めた跡部に、皆が不思議そうに振り返る。

「悪い、忘れ物をした。取って来るから先に帰っててくれ」
早口でそう言って、跡部はくるっと回れ右をしてもう一度リョーマの病室へと向かう。

「すぐ戻って来るのなら待っていた方が良くないか?」
不思議そうな顔をする手塚に、忍足は苦笑してその肩を押すようにして前へと進んで行く。
「あー、多分時間掛かると思うから、先に帰っていようや」
「そうそう。跡部のことは放っておいて先に行こうー」
ジローも明るい声を出して、一緒に手塚を連れ出そうとする。
「しかし、このまま放っておく訳にも……」
手塚の発言に、ジローと忍足は顔を見合す。
わかっていない。
そんな天然発言に苦笑しつつ、忍足はまた手塚のジャージを引っ張りつつ声を掛ける。

「手塚君とは、色々共通点ありそうやし一度ゆっくり話してみたいと思うてたんや。
どうや、ちょっと今後の対策とか決めへんか?」
「今後の対策??」
「そう。打倒、跡部や!俺もまだまだ諦めるつもりは無いからな!」
「うわー、忍足格好いい。それに面白そうー。俺も混ぜて混ぜて」
「すまん、話が見えないのだが」
「いいから、とりあえず出ようや。
後は……跡部に任せて、な?」

納得いかない顔をする手塚を二人掛りで外に押し出し、
そしてどこに行こうかと話ながら歩き出す。


(一個貸しにしといたるわ。今日の試合、一番の功績者やからな。
邪魔者は退散ちゅうことで)

内心で呟き、ちょっと負け惜しみかなと笑う。

跡部が戻ったら、きっとリョーマは驚いてそして嬉しそうな顔を見せるのだろう。
自分には出来ないことだ。
リョーマを笑顔にさせる跡部が羨ましい。

(幸せになれよ、リョーマ)

けれど、まだまだこちらも諦める気は無い。
隣を歩いている手塚も同じ気持ちだろう。

この先の長い人生、何が起こるかなんてわからない。そう、チャンスが無くなったなんて誰にもわかりはしない。
だから。
今だけは譲っておいてやる。


忍足の小さな呟きは、病室の前に立っている跡部には聞こえない。

(落ち着け。もう一度、越前に会うだけだ。何を緊張してやがる)

勢いで入ったさっきと違った気持ちで、ゆっくりとドアをノックした。


2004年11月01日(月) 盲目の王子様 91 跡部 


手塚とは一度も試合をしたことが無い。
都大会で氷帝と青学が当たったことはあった。
しかし組み合わせが悪く、それぞれ別の相手と試合をした。
その後、関東大会で当たることもなく青学が途中で負けたことから、そのまま公式戦で顔を合わすことなく今に至る。

(よりによって、こんな時に試合することになるなんて皮肉なもんだな)

テニスに関してだけじゃない。
越前リョーマを挟んだ、恋のライバルでもある。
だからこそこいつにだけは負けられない。
一年前よりもずっと、その気持ちは強くなっている。

けど、今は私情を抜きにしてこの試合に集中するべきだろう。
他に気を取られていて、勝てる相手じゃない。
僅かな隙間も無いよう全力で行かなければ、最悪敗北することだって考えられる。

(越前の件は後でじっくり片をつけてやる。手術さえ終われば、俺も堂々と告白出来る。
そうしたら、お前と同じスタートラインに立てるからな!)

現在3−3と拮抗したまま、試合は進んでいる。
辛うじてサービスゲームをキープしているけれど、手塚がサーブする時にポイントが取れないのは痛い。
不利なのは自分の方だと、跡部自身よくわかっていた。

どうしても、手塚ゾーンが破れない。
この時まで取っておいた決め技のンホイザーサーブが決まっている内はまだいい。
もしミスをしたら?あるいはこの試合の途中に手塚が攻略してくる可能性だって十分有りえる。
そうなったら、勝ち目は無くなってしまう。

(最悪の状況だな。でも俺もまだ諦めたりはしない。最後までやってやる。
自分らしい勝ち方でな……!)

長期戦に持ち込んで、弱点である腕が弱った所を突くやり方は捨てた。
勝率は上がるだろうが、試合が終った時……自分はどんな顔をしているだろうか。
想像して、やはり止めようと決意した。
リョーマも言っていた。
後悔しないように、自分の思うまま行動してみろと。

例え分が悪くなったとしても真っ向から勝負を着けるべきだ。
勝っても負けても、この先も胸を張って行く為にも。
迷いに迷って、正面から手塚を破る方法を選んだ。


(おかげで苦労する羽目になったが……。
それでも楽しいなんて思うなんて、おかしいだろうか。
有利とはいえないのに、心が躍る。こんな感覚は久しぶりだな)


まるで初めてラケットを握った頃みたいだ。
少し大きかったラケットを得意げになって、一日中飽きることなく振っていた子供のように。
毎日が楽しかった、テニスしているだけで幸せだと感じた時と今同じ感情を持っている。

(やっぱりお前は、俺にとっての倒すべき最大のライバルだったんだな)

ゾーンを繰り出す手塚に、跡部は苦戦しつつも不敵な笑みを浮かべた。

今日の試合を経て、きっとまた強くなれる。
この経験は、全国大会で上を目指す為の糧になるはずだ。
だからこそ、ここで手塚に勝っておきたい。どんどんその気持ちが強くなっていく。

(奴の一挙一動を見逃すな。何か弱点があるはずだ。
インサイトで見抜くんだ。この俺に出来ないことなんて無いだろ!)

自分に言い聞かせながら、目を見張って手塚の隙をつこうと必死でラケットを振る。
手塚ゾーンはたしかに厄介なものだ。自分の決め技が、全て手塚の手元に戻って返される。
が、リターンされたボールを冷静に処理していけばまだなんとかなる。
手塚が甘い球を返すことは無いが、そこは全国区の実力を持つ跡部だ。
腕や手の動きを見極めながら、なんとかラリーが続き始める。
しかし前後や左右に揺さぶられると、さすがに跡部の方でも隙を生じて死角を手塚に狙われてしまう。
攻防が続いたままカウントは跡部のサーブが決まって現在5−4。
次のゲームを取れば勝つことが出来る。
手塚ゾーンを攻略すれば、きっとなんとかなる。
ようやっと跡部もタイミングを掴み始めて来た所だ。

(全てその位置に返るよう回転を掛けているのなら、俺もその更に上へ行く回転を掛けてゾーンを狂わせてやる。ここまで掛かったけど、大体掴めて来た。
いつまでもそこに立っていられると思うなよ、手塚!)

しかしこちらの体力も、消耗している。
ゾーンの攻略にかかり過ぎて、手塚のリターンに翻弄されて疲れてしまった。
手塚の腕の負担と、こちらの体力と。
どちらが尽きるのが先なのだろう。


コートチェンジの際、ベンチでずっと黙ったままの榊に顔を向けると、
静かに頷いて指をいつものように前へ出す。
思うようにやればいい、と後押しをされた気がして跡部はラケットをぎゅっと握り締めた。
そして再び足を進める。

「跡部」
手塚も同じようにこちら側を通って、反対コートへと向かおうと歩いて来る。
「お前なら長期試合に持ち込んで勝つ方法もあったはずだ。
何故、そうしない。全力で来い。俺はそれでも構わない」
「……」
「跡部!」

声を掛けて来た手塚に、跡部は無言のまま軽く右手を挙げて通り過ぎる。

(お前だったら、そんな方法最初から取らなかっただろ。
バーカ。俺だって気持ちよく勝つ方法を選びたいさ。
……怖い奴が、そっちに控えているからじゃねえぞ)

フェンスの向こう側では視線を鋭くした不二がこちらを睨んでいる。
昨日の忠告を守っているのかと、見張っているという所か。
そんなことしなくても、大事な部長の腕を壊すような真似はしない。
ただ、自分らしく勝ちたいだけだ。

だから、真っ向から……叩いてやる。
次のゲームは手塚からのサーブで、圧倒的に不利なのもわかっている。
おそらく手塚はサーブからもゾーンを展開してくるに違いない。
だがここで回転を掛けて微妙にゾーンの外へと押せば、奴も驚くはずだ。
少しずつ効いているのは、今まで対戦していた手塚の足元を見てわかっている。


(このゲームで決着を付けるからな!)

サーブと同時に、跡部もリターンで回転を掛けようと体勢を整える。
(頼む、上手くいってくれ)
祈るようにして、ボールに逆回転を加えて手塚のいるコートへと叩き込む。

「手塚ゾーンになっていない!?」
青学の面々から驚きの声が上がる。
ゾーンから大きく外れた訳じゃないが、それでも効果はあったらしい。
それまでほぼ同じ位置に立っていた手塚が動き、ボールを返す為に僅かに前へと出る。

「この時を待っていたぞ、手塚!」
跡部も返したことだけに浮かれていた訳じゃない。
リターンされたボールを冷静に見極め、右足を前に踏み出しジャックナイフで応戦する。
手塚の横をすり抜けて、ボールはコート隅ぎりぎりに突き刺さった。

「よしっ」

ガッツポーズをする跡部に氷帝の間からコールが起こる。
それに励まされるように、また手塚へと向き直る。

「良いリターンだ。しかし次は抜けさせない」
サーブの位置まで下がった手塚が、そんな風に言って目を鋭くする。
今までの中、一番真剣な表情にぞくりと背筋に汗が伝わる。
しかし気迫でこちらも負ける訳にはいかない。こっちも真剣だ。

「来い、手塚!次も決めてやる」
「それはどうかな」


ひゅっ、と黄色いボールが弧を描いていく。
この先は1ポイントを取ることがもっと難しくだろうけれど、諦めたりしない。
今のゾーンを攻略し掛けたことで、跡部に勢いがついて来た。

が、手塚もここまで無敗で来た選手だ。
お互い一歩も譲らないまま、このゲームは攻防を続けけながらデュースへ突入していく。

しかし二人共、惜しみなく全力を出している為1ポイントがなかなか取れない。
決着がつかないまま、何度目かのデュースが続いてしまう。

(長期戦にするつもりは無いって言ってるだろ!くそっ、早く決まれ!)

決め技のサーブも打つのが苦しくなって来た。
手塚も苦しくなって来たらしく、ゾーンにも切れが無くなり始めている。

腕は大丈夫なのかとちらっと見てしまい、慌てて跡部は首を振った。
今はそんな場合じゃない。
手塚の心配よりも、試合に集中するべきだ。
大体、手塚にも失礼に当たる。
奴を楽にしてやりたいと思うのなら、ここでポイントを取って試合を終わらせてやればいい。

懇親のサーブを打つ。
今までの中で一番の出来だ。
手塚はバウンドした直後を狙って打とうとしたが、ボールは地を張ったまま後ろにあるフェンスへと突き刺さる。

(後、1ポイントだ。今度こそしくじるなよ!)

手塚がサーブを打った後、跡部もまたゾーン対策に逆回転しようと腕に力を込める。
が、汗で滑っていたグリップの所為で上手く処理出来なかったようだ。
ボールは再び手塚がいる位置へと戻っていく。

(手塚ゾーンか、いや、あれは……零式ドロップか?)

手塚の必殺技と呼ばれる零式ドロップショット。もしコートに入れば、確実に決められてしまう。
腕の不調で試合では使っていなかったが、この場面で放つとは向こうも勝負を掛けて来たようだ。

(くそっ、でも決めさせねえ!)



手塚がドロップショットを打つ体勢を取ると同時に、
跡部は前へと飛び出した。
間に合えと、もうほとんど言うことを聞かない足を動かしてボールの行方を追う。

(このままだと、落下する前には追い付かねえ。駄目だ、ここでコートに落とす訳には行かねえんだよ!)

咄嗟に体を滑らせて、腕を伸ばして飛び込んで行く。

これだけ必死になった試合が今まであっただろうか。
怪我をするかもしれない、そんな考えさえ頭の中から消えていた。
必死にコートに落ちようとするボールに、ラケットを当てることだけに集中する。

一瞬の判断だったが、間違いでは無かった。
手塚も相当疲労していたのだろう。
零式ならば戻って、取れないところを跡部は辛うじてラケットの面に当てる。
そのまま跳ね返ったボールは、手塚のコートのすぐ内側に落ちた。

会場中の人々が、静まり返る中、のろのろと跡部は起き上がる。
そして、審判からのコールが響く。
跡部の勝利を告げる声に、固まったままだった氷帝の応援席が途端に沸き上がる。

「勝った、のか」

まだ実感が湧かないまま、跡部はぼんやりとした視点で向こう側のコートに目を向ける。

荒く息を吐いていた手塚がこちらを振り返って、そして笑顔になったのが見えた。


チフネ