チフネの日記
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2004年10月30日(土) 盲目の王子様 90 跡部 

D21試合は青学の乾にデータを取られて苦戦を強いられるものの、
宍戸と鳳が最後まで粘った為勝つことが出来た。
このまま、勝てるかもしれない。
S3に樺地が出たことによって、氷帝側は勝利を掴めると歓声を上げていた。
しかし、ここから雲行きが怪しくなって行く。
河村とパワー勝負を真っ向からした所為で、樺地の腕も限界を訴え、
二人揃ってラケットを持つことが出来なくなってしまい、結果はドロー。

(樺地が、ラケットを持てなくなるなんて。河村の奴の力を侮っていたか)
いつものように相手の技をコピーしろと、安易な指示を出したことを悔やむがもう遅い。
勝てなかったことを悔やんでいるのか、どこかしょげた様子で戻って来る樺地に、
跡部は「大丈夫か」と声を掛けた。
「無理するな。今すぐ病院に行って来い」
「……ウス」

いいのだろうかと躊躇している樺地に、「ここは任せろ」ともう一度言う。
一瞬、嬉しそうに樺地が笑ったように見えた。
そして病院に行くなら一緒に、と誘いに来た青学の監督に連れられ会場を後にする。

二敗している青学は後が無い。
必死になって来るのは当然だ。
続くS2。
不二が出てきたのを見て、跡部はヤバイと直感する。
「おい、ジロー!」
「んー、跡部何なのー?」
呑気そうに準備運動しているジローに、思わず声を上げてしまう。
「危なくなったらすぐ逃げろ、いいな!」
「危ないって、何がー?」
変なの、とジローはけらけら笑う。

(笑い事じゃねえぞ、本気で心配してんだぞ!)

コートに静かに歩いてくる不二から、静かな炎が揺れている気がする。
闘志を燃やしている、なんて生易しいものじゃない。
あれは殺気に近い、と跡部は小さく体を震わせる。

「跡部……。ジローの奴気付いてへんで。大丈夫かいな」
忍足も青い顔をして、不安げに尋ねてくる。
不二が出している黒いオーラ居、ぐるっとフェンスを囲む氷帝の部員達もびびって声も出せないようだ。
気付いていないのは、ジロー位で。
「お前と対戦かー!楽しい試合にしようぜ!」
と呑気に話し掛けている。
それ以上いらんこと言うなと、跡部は頭を抱える。

「うん、楽しい試合にしよう。忘れられなくなる位にね……」
ふふっと笑って手を差し出す不二に、ジローは無邪気に応えている。

「ジロー、無事に戻って来られるんか?」
「俺に聞くな…」

跡部としても、ジローの無事をここから祈るより他は無い。




そして始まったS2の試合。
ここで負けたら青学は敗退が決定してしまう。
絶対勝つという意気込みでコートに立った不二は、圧倒低な強さでジローの得意技のボレーを封じ込めて、有利なまま試合を進めて行く。
それまで使わなかったトリプルカウンターの最後の一つ『白鯨』を見せたのも、完全に叩きのめそうという心意気の表れだろう。
普通ならこれ以上続けるのが辛くて、ボールを打つ気すらなくなるはずだ。
なのに、ジローは違った。
「すげえ!お前ってすげえんだな!」
不二の出した技を見て、キラキラと目を輝かせている。

(敵を褒めてどうする……。)
呆れつつも、跡部はフッと小さく微笑した。
実に前向きなジローらしい。
優位なのにも関わらず、あの不二がぽかんと口を開けている。
ジローの対応に、すっかり毒気が抜けてしまったみたいだ。
「おーい、今の技もう一回やってくれよ!今度は返すから!」
「あ、そう。やれるものなら、返してみせてよ」
「言うなあ。でも、俺もまだ諦めていないもんね」
そう言って笑うジローに、不二目を丸くしている。

試合をする前は、本気で不二が相手を潰しに掛かってくるんじゃないかと心配したが、
ジローの言葉や姿勢に、すっかりその気も失せてしまったようだ。
普通の笑みすら浮かべてボールを打ってくる不二に、ジローも一生懸命食らいついて。
けれど、結局不二の底知れない実力に押されてしまいゲームはそのまま終了してしまう。

結果はともかくとして、ジローが無事で良かった……と、跡部は胸を撫で下ろした。

「悔C!お前口だけじゃなかったんだな、すげえ強いじゃん。もう認めるしか無いよ!」
手を握ったまままぶんぶんと上下に振るジローに、不二は「素直に喜ぶ所かな……」と苦笑する。
「なあなあ、お前そんなに強いのに部長じゃないの?手塚ってお前以上に強いの?」
「そうだね」
くすっと笑って、不二がこちらを見る。
「これからの試合を見ればわかるんじゃないのかな。君の部長とどっちが強いか、ここではっきりわかると思うよ」
「でも、跡部もそう簡単には負けないよ」
「…そうだね」

不二の手を放したジローが、こちらへ戻って来る。
「跡部、ごめん。負けちゃった」
笑いながら、涙を浮かべている。笑っているけれど、悔しかった気持ちもあるのだろう。
そんなジローの肩を軽くラケットで叩いて、跡部は「心配するな」と声を掛けた。
「俺が勝って、この試合を決めてやる。お前はそこで見てろよ」
「うん」
「跡部、相手は強敵だけど……頑張れ。勝って、リョーマに今日のこと報告しに行こうや」
立ち上がってわざわざ励ましに来る忍足にも笑って、「当然だろ」と応える。
「勝ちに行って来る。それで皆で決勝に行くぞ」
「おう、跡部!俺も応援しているぜ!」
ぴょん、と向日が軽く飛ぶ。
その動作を続ける応援は嫌だ…、と軽く頬を引き攣らす。
「跡部、頼むぜ」
「跡部さん、頑張って下さい!」
宍戸と鳳がほぼ同時に声を上げる。
その横では控え選手の日吉が複雑そうな顔をして、目を逸らしている。
跡部が負けたら日吉に試合するチャンスが回って来る。
けれどあの顔は、そんな機会が来ることを望んでいる訳では無さそうだ。
素直に応援すればいいのに、それも出来ないらしい。
日吉らしいか、と頷いた所で跡部はベンチへと向かう為に歩き出した。

ここでいつもなら、お馴染みの「勝者は跡部!」のコールが全員から湧き上がる所だ。
しかし跡部の様子が余りにも淡々としている為、部員達の間にやっても良いものかと戸惑う空気が流れる。

「おい、お前ら!」
全員に聞こえるよう、跡部は声を上げる。
「声を出すのは試合が始まってからにしろ!
今日はこのままで行く。いいな!」
「派手なパフォーマンスが好きなお前にしては珍しいな」
ベンチに座っている榊が、興味深そうな視線を送ってくる。
いつものようにバサッとジャージを脱ぐ動作もせず、至って普通にベンチに掛けてから、
跡部は監督に向き直った。
「いつもは自分の力をアピールする為に試合をしてた気がします。
でも今日は俺自身の為に、氷帝の勝利の為に来ました。だからもう、あんなパフォーマンスはいらないんです」
向こう側のコートで不思議そうな顔をしている手塚をチラッと見て、跡部は言った。
何故「跡部コール」が起こらないのかと、考えている所だろう。

「そうか。色々覚悟して来たようだな」
「はい」
「じゃあ、私からは何も言うことは無い。思うまま、やればいい」
「監督」
「お前が勝つと信じている。行って来い、跡部」
「はい!」


いつもよりずっと静かなコートを歩きながら、跡部は目の前の強敵をどう倒すかそれだけを考えていた。
氷帝の部長としての権力を見せびらかすようなコールも、格好良いと思っていたポーズも必要無い。

勝とうと思う気持ち一つとラケットだけ持って、胸を張って手塚の目の前に立つ。

「いいのか、例のコールをしなくても。あれが無いと調子が出ないんじゃないのか」
目を瞬かせている手塚に、跡部は不敵に笑って見せた。
「そんな訳無いだろ。今、俺様は絶好調だ。勝たせてもらうぞ、手塚」
「……それはこっちの台詞だ」

軽く拳を突き合わせた所が、熱い。
だがこの先行われる試合は、もっと熱くなるに違いない。


(でも、どんなに厳しい展開になったとしても)

一歩も引かない、と今までの中一番の強敵になるであろう手塚をキッと睨み付けた。


2004年10月29日(金) 盲目の王子様 89 跡部 忍足


楽勝、のはずだった。
青学は大石不在の状態で、しかもダブルスには不慣れな様子の桃城。
そして頼みの菊丸は向日のアクロバティックに翻弄されて、やる気を無くしたように見えた。

しかし後半からは流れが一気に変わってしまう。
菊丸は突如コートを駆け回り、それまでとは違い逆に桃城を引っ張るように全てのボールを拾い始める。
向日の挑発にも乗らず、一心不乱に集中する菊丸を止めることが出来ない。
そして桃城も忍足の読みとは違い冷静な読みで試合を有利な方向へ運んで行く。

(まずいな……)

D2の試合を観戦しながら、跡部は唇をぎゅっと噛んだ。

早々に体力を使った向日は、もう息が上がっている。
忍足一人じゃ対処し切れない。
その上、青学の応援席には遅れて来た大石の姿がある。
明らかに向こうの士気が上がっている。
このまま青学優勢のまま進めば、負けてしまいそうだ。

そう思った瞬間、跡部は立ち上がっていた。

「おい、忍足!」
サーブを打とうとベースラインまで下がった忍足が、不思議そうに顔を上げる。
当然だ。
今まで一度だって、試合中に声を掛けたことは無い。
樺地への命令を除けば、多分これが初めての行動だった。

「何やってる。勝ちに行くって言ったのは、嘘だったのかよ。
あいつにも約束したんだろうが!さっさと本気を出しやがれ」
「……よお言うわ。簡単に勝てる相手やないで」

跡部の言葉に、忍足はそれまでの厳しい顔を解いてふっと笑った。
「けど試合はまだこれからや。俺は案外しぶといからな。
お前はさっさと座って、そこで黙って俺達が勝つのを待っとけや」
「ふん。口だけで終わるなよ」
「ああ」

忍足の目に冷静さと、それと勝利への執着があることを確認して、
跡部はまた元の位置へと戻った。
周囲が驚いたように跡部を見ているが、それも気にならない。

「跡部さんが試合中に口出しするなんて、珍しいですねー」
「黙ってろ、長太郎。あいつも色々考えているんだろ」
宍戸と鳳がひそひそ話しているのも無視して、コートに意識を集中させる。

(勝てよ、忍足。お前がもっと本気を出せば、やれるはずだ)

氷帝の天才と言われる忍足の実力なら、ここからでも逆転は可能なはずだ。
少なくともまだ負けが確定した訳じゃない。
向日の体力が回復するには時間が掛かって、劣勢なのには変わりないけれど。
それでも諦めるには早過ぎる。



跡部の言葉が効いたのか、忍足は落ち着いた様子でサーブの構えを取る。
盛り上がっている青学とは逆に、氷帝側は静かになっていた。
もうこのまま負けてしまう、そんな空気さえ漂っている。

けれど跡部だけは落ち着いて、腕を組んで試合の様子をじっと見守っていた。
(あいつの目は諦めていない。そうだろ?忍足)

サーブを打つと同時に、それまで前に出ることが無かった忍足が、突如飛び出したことによって陣形が変わっていく。
「岳人っ!後ろに下がれ!俺が前に出て拾うたる!」
「侑士!?」
桃城のリターンを寸での所で忍足が前面に出て、菊丸の四角をつく。
「にゃっ、にゃんで忍足が前に出るんだよお」
「英二先輩、今のは気にしないで、どんどん勢いに乗って行きましょうや」
「うー、俺の所抜かれるなんて、むかつく!」

ジタバタしている青学側と同じように、忍足達もコートの中で何やら揉めている。
「なんで、お前が前に出て来るんだよ。俺がもうへばったとか思ってるのか!?」
「ああ。思うてる」
「まだやれる!」
「ばてばてやん。それで勝てる程相手は甘くないで」
向日を落ち着かせるよう、忍足はこつんとラケットを額に当てる。
「お前が回復するまで俺が全部拾うたる。勿論フォローも必要だから、頼むわ。
そんでまだ動けるようになったら、アクロバティック全開で行くで」
「侑士……」
うっ、と向日は言葉を詰まらせる。
自分が今この場面で十分に動けないことが足を引っ張っている。
申し訳なさそうな顔を一瞬した後、すぐに顔を上げて「ああ」と頷く。
「悪い。ちょっとだけ、侑士に負担掛けるけど頼む」
「ちょっとだけな。軽く言うてくれるわ」
「けどっ、俺も絶対負けたくないから!時間稼ぐ間に、絶対戻ってみせる!」
「ああ、頼むで。待ってるからな」

忍足と向日は笑い合って、そして拳を軽く合わせる。
向日もまた諦めたくない、その気持ちから覚悟を決めたようだ。

(楽にこのまま勝たせてもらえる相手じゃねえぞ。早く復活しろよ、向日)

いくら天才と呼ばれた忍足でも、青学の選手を二人も押さえ込むのは難しい。
だが忍足は諦めず、いつもの冷静なテニスを捨ててがむしゃらにボールを繋ぐことだけ考えて、コートの端から端まで拾い続けている。
桃城と菊丸はそれまでの戦術と全く変えて来た忍足に、若干戸惑っているようだ。
優勢なはずの彼らの方に、ミスが増えていく。

「ちっくしょー。なんで俺のボールが全部拾われるんだ」
「こっちも攻撃してるのに、一人に敵わないなんておかしいよっ!」
「体力はあっちの方が限界に来てるはずなのに、まだ動けるなんて……」

忍足の体力が限界を超えているのなんて、本人がよくわかっているだろう。
いつもの伊達眼鏡もベンチに投げ捨てて、形振り構わない姿勢に氷帝の部員達も唖然として観戦している。
汗だくになってふらふらになりながらも、それでも立っている。

「侑士……次、俺が前衛に出るから」
「岳人、もういいのか?」
「ああ、ごめん。今度は俺がもっと頑張るから。少し休んでろよ」
「あほ。休んでいる場合か。行くで、俺らのダブルスで勝ちに行こうや」
「うん!」

向日が動き出したのを見て、ようやく跡部は安堵の息を吐いた。
(なんとか間に合いそうだな、この試合)


そうしてほぼ不利に傾きかけたD2の試合だったが、
今まで以上に冴えた動きを見せる向日と、フォローに回る忍足とのコンビネーションのおかげで、
氷帝は一勝を手にすることが出来た。





「うわー!忍足、岳人!勝った、勝ったよ。すげえ、すげえ!」
珍しく目を覚ましたままのジローが、ぐったりと疲れて足を引きずる二人に抱きついて喜びの言葉を口にする。
「ジロー、今はそれより何か飲み物を」
「俺、感動しちゃったー!忍足があんなにがむしゃらになるなんて!また強くなったんじゃない?」
「いや、その前に喉がカラカラ」
「岳人も最後に見せたジャンプ格好良かったC。あれで決まったようなもんだな」
「あー!もう、いいからドリンクをくれよ、頼むから!」
限界だった向日が、枯れそうな声を出す。
慌ててすぐ側にいた鳳が「これ、どうぞ」とスポーツドリンクの入ったボトルを2本差し出す。
「今までの中で一番疲れたかもしれねえ。でも勝ってよかったな、侑士」
「ほんまにしんどかったわー。岳人があそこでへばってなかったら、もっと楽勝だったけどなあ」
「それは本当に悪いって、反省してるよ」
「うわ。いきなり素直になるなんてどうしたんや!?」
「うるせえ。俺だって今回のことで色々考えたんだよ!」
そう言って、向日はベンチに足を投げ出して残りのドリンクを一気に飲み干す。

「けど、勝って良かった。今はそれだけだな」
「ああ、せやな」
穏やかに笑いながら、忍足はそれまで放っていた伊達眼鏡を再び掛ける。
「お前、それ意味無いだろ。そろそろ止めたらどうだ」
「いや、これないとなんか落ち着かなくってな」
良し、と小さく言う忍足に、跡部は呆れたように溜息を漏らす。
「勝手にしろよ、もう」
「あー、あのな。跡部」
「なんだ」
「応援、ありがとうな。いい起爆剤になったで」
照れた物言いをする忍足に、ふんとつまらなそうに跡部は横を向いた。
「別に。お前らが負けると、後が大変だからな。ただそれだけのことだ」
「へえ、そうか。まあ、ええわ」
「うるせえ。何笑ってんだ、てめえ」
「いや、別に。それより次は宍戸と鳳やろ。声掛けんでええの?」
「しねえよ、そんなこと」
「あー、ピンチの時だけ限定か?」
「しつけえよ、忍足!」

二人のやり取りが聞こえてはくるが、宍戸と鳳は背中を向けてコートへと歩いて行く。
「なんか微笑ましい会話ですね。試合前だっていうのに」
「……どっちかというと恥ずかしい。それより試合に集中しようぜ」
「はい、宍戸さん」
「あいつらの頑張りを次に繋げる為にも、俺らも負けていられねえぞ」
「はい!」



まだまだ波乱がありそうな青学との試合。
忍足の顔をぐいっと押しやって、跡部はD1の二人に目を向ける。
楽な展開はきっと無いだろう。
頑張れよ、と心の中でエールを送った。


2004年10月28日(木) 盲目の王子様 88 跡部


試合当日の今日は、晴れ渡っていて今から暑くなりそうな太陽が地上を照らしている。


氷帝の集合場所にはジローと、迎えに行った樺地以外が既に揃っていた。
「ジローはまだ寝てるのかよ?しょうがねえなあ」
「あいつの睡眠欲は今にも始まったことじゃないだろ」
「でも試合の時くらい、起きようって思わないのかあ?俺なんてわくわくして1時間前に目が覚めたつうのに」
「遠足前の子供かよ」
向日と宍戸が好き勝手なことを喋っているのを聞こえる。
大体、樺地に任せておけばさすがのジローも遅刻するはずがない。だからその点では全く心配していない。
跡部は無意識にフェンスの向こう側にいる青学のレギュラー達へと目を向けた。


相変わらず嫌味な位落ち着き払った様子で、手塚は腕を組んで他のメンバー達に囲まれている。
よく見ると副部長の大石が側にいない。
まさかあの真面目そうな大石に限って遅刻なんて有り得ないだろうが、不測な事態でも起きたかもしれない。
珍しく不二も深刻な顔している。
本当に何かあったかもしれない。
さっさと連絡取れよ、と人事ながらそんな心配をしてしまう。


「青学、どうやらゴールデンペアの片割れが来てないみたいやなあ」
「忍足……」
すぐ真横に立った忍足も、青学の様子に気付いたらしく溜息を漏らす。
「何かあったんやろか」
「だとしたら、嬉しいか?」
青学の戦力がダウンすれば、氷帝の勝率は高くなる。
しかし忍足は「まさか」と首を横に振った。
「どうせなら相手も万全な状態で戦いたいわ。アクシデントに付け入って勝っても、嬉しくないしなあ」
「ふん、そうかよ」
即答する忍足になんだかムカついて、跡部は顔を背ける。

(お前ならさくっと正面からぶつかることを選ぶって訳か。
散々悩んでいる俺がバカみたいだ)

黙ったままでいると、忍足は不思議そうに顔を覗き込んで来た。

「なんや。えらい複雑そうな顔してるけど、試合前に緊張しとるんか?」
「うるせえ。そういうお前はいつでも試合出来る位落ち着いているのかよ」
「いやー、そう見えるか?心臓はもうバクバク言うてるんやけど」
ハハッと軽く笑って、忍足は軽く胸を張る。
「ここまで来たら、後はぶつかって行くだけや。
俺にもどうなるかわからん。けど、一生懸命頑張ろうと思うてる。
試合が終わったら、リョーマにちゃんと頑張った自分を報告したいからな」
「……そうだな」
「昨日、ちゃんとリョーマと会うたか?」
「ああ。会えたぜ」

今もこの瞬間、きっと緊張しているであろうリョーマのことを考える。
手術を前にして、不安でいっぱいに違いない。

(それでも立ち向かおうと、あいつも頑張っている。
俺も負けていられないな)

リョーマのことを考えると、揺らいでいた心が安定していくのがわかる。
強くなれる気がする。
そういう力を湧けてくれたリョーマの為にも、今から挫けてなんていられない。

「おはよー、跡部ー」
のんびりした声に、跡部と忍足は同時に振り向いた。
「今頃来たのか、ジロー」
「うん、眠いー」
大きな欠伸しながらジローがこちらに歩いて来る。隣には樺地も一緒だ。
途中でジローが眠ったりしないよう、ずっと見張っていたのだろう。
ご苦労だったな、と樺地に声を掛けると「ウス」と相変わらずの声が返って来る。

「試合は?もう始まった?」
「寝ぼけてるのか。整列もまだだろ」
「あー、そっか」
「お前、そんな状態で試合やれるのか?相手は青学なんだぞ?」
「大丈夫。試合の時には目を覚ますから。俺も頑張るってリョーマに約束したC」
ごしごし目を擦りながら言うジローに、本当かよ…と跡部は心配になってくる。
相手は今まで通りとはいかない。
しかしこれ以上何を言っても、今のジローには聞こえないだろう。
もう少し頭が起きるまで、説教は後回しにしようと溜息をつく。

「で、試合の相手はどこ?」
「だから整列はまだだって言ってるだろ……」
「んーじゃあ、整列する」
「おい、こら!勝手にコートに入るな」
こいつ、水でもぶっ掛けてやろうか。
眉を寄せる跡部を見て、忍足が声を上げて笑う。
「あーあ、部長さんは大変やなあ。部員の面倒も仕事の内やからな」
「てめえ、楽しんでないでジローを押さえろよ」
「いや、部長さんの邪魔しちゃ悪いから止めておくわ」
「忍足、てめえ」
睨みつけた所で、何か忍足のすぐ後ろから影が迫って来るのが見える。
「侑士っ!何やってんだよ。ウォーミングアップは終わったのか?俺は絶好調だぜ!」
影は大きくジャンプした向日だった。
そのまま背中に圧し掛かった所為で、忍足は「ぐぇ」という潰れた声を出した。
「絶好調なのはわかったから、はよ背中から退きや。重い……」
「はあ?この程度が重いって、侑士のパワー落ちているんじゃねえの?」
「いいから退けって、こら!」
「忍足、いい格好だな。あーん?お前も自分の相方をしっかり抑えておけよ」
「無理や!俺、もう無理やから」

向日の「そりゃ俺の華麗なジャンプを抑えるのは無理だな」と得意そうな声に、
忍足はがっくりと項垂れる。
「試合なんだから、少し抑えておけよ……頼むから」
ジローのジャージを捉まえたまま、跡部も疲れたように声を出した。




結局、整列時間になっても大石は姿を現さないままだった。
ゴールデンペア不在のままで試合を始めるのかと、跡部の探るような視線にも手塚は動じることなくいつも通りの無表情のまま立っている。
何も考えていないだけかもしれないが。

そんなこんなで、なんだか波乱な予感がするD2が始まる。

「おい、忍足。相手がゴールデンペアじゃないからって、手を抜くなよ」
ガットの状態を確かめている忍足に向かって、跡部は声を掛けた。
青学はなんらかの事情で来られない大石に代わって、
D2は菊丸と二年の桃城の即席ペアだ。
氷帝相手にろくに試合経験の無いペアで勝てるのかよと思うが、油断は禁物だ。
桃城は結構パワーのある選手だと記憶している。
その点を指摘すると、忍足は「わかった」と素直に頷く。

「勿論手も抜かへん。ゴールデンペアやないのは残念やけどな。
けど、面白そうな試合になりそうやん。楽しんでくるわ」
「楽しみ過ぎて、勝つことは忘れるなよ」
「はいはい。岳人も抑えなあかんからな。苦労するわあ。けど、俺もマジで行くからな」

軽くラケットを振って、忍足がコートに向かって歩いて行く。
勝てよ、と跡部はその背中に呟く。
勝って、次に繋げる為にも。
今日だけじゃない。この先に進む為にも。

(お前も、あいつに報告したいんだろうが。
『今日の試合、勝った』
その一言を伝える為に。
そして、あいつの笑顔をお前だって、見たいはずだろ)

都大会、三回戦。
氷帝と青学との試合が、今始まる。


2004年10月27日(水) 盲目の王子様 87 跡部

青学のゴールデンペアも、危ない場面はあったものの連携プレイで乗り切って勝利を掴んだ。
S3は二年の桃城が出て来る。

(手塚と不二はこの後か……。桃城が負けても、手塚に回る前に不二が勝敗を決めるだろうな。
やっぱり奴の試合は観ることが出来ないか)

顔を顰めている間に、桃城が弾丸サーブを決めて試合は青学有利に展開して行く。
奴らの勢いは止まらないのかよと腕組みをする。
あのパワー、樺地ほどとは行かないが厄介だ。

ポケットに入れていた携帯が振動しているのに気付き、ジャージに手を突っ込む。
『跡部!試合終わりそうだよ。整列するから早く戻って来て!』
ジローからの短いメールに、慌ててコートへと引き返す。
どうやら氷帝は無事ダブルス二つとS3の勝利を取ったらしい。
当然だなと思いつつ、もう一度ちらっと後ろを振り返る。
勝ち進んで行けばきっと、当たるのは……。

(今は考えても仕方無ない。行くか)

大股で元来た道を歩き出す。
じたばたしても、試合は避けられないのだから。







一礼をした後、項垂れてコートから出て行く相手校を横目で見送りながら、
跡部は榊の元へと向かった。
「監督、今から行けばまだ青学の試合に間に合うはずです。
皆に向かうよう言って下さい」
跡部の真剣な様子に、榊は頬に人差し指を当てて頷いた。
「その様子だと、彼らは以前にも増して成長していたか」
「はい。明日の試合、かなり苦戦することになるかもしれません」
「そうか」
侮っていたら、負ける。
そう思って、跡部は思ったことを口に出した。
氷帝が負けることは無い。その甘い考えは都大会で捨てた。
例えレギュラーでも絶対は有り得ない。
特に、青学相手では何が起こるかわからない。

「全員、集合だ!」
榊が声を上げてレギュラーを集める。
「今から別コートで試合している青学を観に行く。
途中からになるが、明日の対策の参考にするように」
行ってよし、の声に皆は顔を見合わせた後、すぐ移動を始める。
だが跡部は残ったまま、監督に向かって口を開いた。
「自分はこのまま練習に行こうと思ってます」
「他の部員を行かせておいて、見ないつもりなのか」
「はい。他の皆は青学がどの程度かよく知っておくべきだと思います。
でも俺は明日、勝つ為に少しでも調整をしておきたいです。
どうせ今日の試合は手塚まで回らない。だったらいっそ、奴への対策を練るべきかと」
「好きにすればいい」

あっさりと榊は許可を出した。
「その代わり、明日結果を出してくれるんだろうな」
「……はい」
即答出来ない自分が悔しいが、今はまだ迷いの中にある。

だから、ひたすらボールを打ち続けて何か掴んで置きたい。
そう考えて、跡部は自らラケットバッグを肩に掛けて、コートが完備されている自宅へと向かった。
手塚との試合はこの間にも刻一刻と迫っている。
何か、そう長期戦を挑まずとも試合に勝てるだけの何かを掴んで置きたかった。


しかし黄色いボールをどんなに打っても、コートを埋め尽くす位になっても。
結局迷いから抜け出すことが出来ないまま、時間ばかりが過ぎて行く。

これ以上やっていたら、疲労の為明日にも支障が出るかもしれない。

(俺はまだどうするか決めていない。こんなままで、明日を迎えてもいいのか?)

黄色いボールに埋め尽くされた反対コートを見て、呆然と立ち尽くす。
勝ちに拘って行くか、それとも正面からぶつかって行くか。
出て来ない答えの迷路の中、ふっと空が暗くなり掛けているのに気付く。

(やべえ、見舞いの時間!)

リョーマの手術も明日だ。
今日は顔を出しておこうと決めていたのに、ボールを打つことに夢中のあまり失念していた。
慌ててベンチに置いておいた携帯で時間を確認しようと開くと、メールが何件も入っていた。
ほとんどがジローと忍足からで、「今日はリョーマの所行くよね?まだ来ないの?」「お前、今どこにおるんや。さっさとリョーマに会って来い」という内容だ。
二人はとっくに病院へ行ったらしい。

(……当然だろうな)
手術を前にしたリョーマに励ましの言葉を掛けてやりたい。
跡部も二人と同じことを考えていた。
それなのに、こんな時間まですっかり忘れてしまうなんて。
なんてバカなんだと、急いでコートを抜けて、車を出すよう使用人に向けて声を上げる。

(頼む。間に合ってくれ)

シャワーを浴びる間も無く飛び出し、ウエアの上に上着を羽織っただけ。
こんな格好で会うなんてみっとも無いと思うが、どうしようも無い。

車を飛ばして、病院の駐車場に乗り付ける。
時刻を確認すると、僅かに見舞いの時間は過ぎていた。

(ここまで来て、帰る訳に行くかよ)

外来に回って、跡部は病院内へ入り込む。
何食わぬ顔して受付を通り、通院患者の振りをして奥へと入り込みエレベーターに乗る。
ここから先が問題だった。
すでにいくつか騒ぎを起こしているので、スタッフに顔を覚えられている可能性が高い。
こんな時間にうろうろしている所を見付かったら、迷わずつまみ出されるだろう。
エレベーターが開いた瞬間、緊張して廊下を見渡す。
人影がいないのを確認して、忍び足ですぐにリョーマの病室へと向かう。
途中のナースステーションでは腰を低くして、なんとか無事クリアして目的地に辿り着いた。
しかしここでも油断ならない。
リョーマの病室前で耳を立てて、誰もいないのを確認してからノックする。

「ハイ」
返事が聞こえたと同時に、跡部は病室内へと滑り込む。
「よお」
「跡部さん!?」
声を掛けると、リョーマはびっくりとした様子でベッドから立ち上がった。
「何してんの、もう面会時間過ぎてるよ!」
「わかってる。だからこっそり忍び込んで来た」
「こっそりって……」
呆れるように呟いた後、リョーマはハッと顔を上げる。

「まずい、誰かこっちに向かって来てる」
「えっ」
「跡部さん、早くここ、隠れて!」
「お、おい」

リョーマの剣幕に呑まれて、跡部は指示されるまま移動する。
「入って、早く!」
「けど、俺はさっきまで汗掻いてて」
「いいからっ」
隠れろと言われたのは、リョーマが使っているベッドの布団の中だ。
こんな所にいいのかと困惑するが、結局リョーマに押し切られて潜り込んだ。
そしてリョーマはベッドを仕切るカーテンを半分ほど引っ張って跡部を目立たなくしてから、
すぐ隣に入って来た。
上半身だけ起こした形でリョーマが溜息をつくと同時に、ノックの音がした。

「はい」
「越前君、もうそろそろ寝る頃かしら?」
看護士の声に、跡部は身を固くした。
見付かったら間違いなく叩き出されるだろう。
当然、リョーマにも迷惑が掛かる。
何やっているんだと、布団の中で今更反省を始める。

「はい、明日に備えてもう休みます」
「そうね。ゆっくり休んで」
「はい」
幸いなことに看護士はそれ以上部屋に踏み込んで来なかった。
様子を見に来ただけのようだ。

ほっとして息を吐いた所で、跡部は今置かれている状況に気付く。
押し込まれたとはいえ、リョーマと同じベッドで寝ている。
吸い込むと広がるリョーマの香りと、密着している場所から伝わる体温に、叫びだしたいような恥ずかしさに襲われる。

(まずい、落ち着け)

呼吸が荒くなったら、リョーマが不審に思うかもしれない。
そう考えて、跡部は出来るだけ細く息を吸って吐いた。
今、動揺したら看護士にも気付かれてしまう。
だから冷静に冷静にと心の中で繰り返して、指一本動かないように努める。
しかし意識しないようにしても、リョーマと同じ布団に入っていると思うと体が熱くなってきて、
額にうっすらと汗が滲んでしまう。

「また明日の朝、来るからね」
「お願いします」

どうやら看護士は行ってしまったようだ。
ドアが閉まった音に、跡部はほっと息を吐いた。
「ねえ、大丈夫?」
リョーマが布団を捲く気配に、跡部も自ら体を起こした。
「ああ。悪かったな。こんな汗くさい奴、ベッドに匿わせて」
「構わないよ、そんなの」
「そうか……」

リョーマの目が見えていたら、きっとその汗はなんだとびっくりしている所だろう。
ジャージの袖で跡部はこっそりと額を拭う。
そして、ベッドからゆっくり外へ出た。

「大事な手術前に押し掛けて悪かったな」
「ううん。でも今日は来ないかと思っていた」
時間も過ぎたし、とリョーマは呟く。
その返答に、もしかして待っていてくれたのだろうかと考える。
やっぱり先にここへ顔を出しておくべきだったと後悔しつつ、
リョーマの頭にぽんと手を乗せる。

さっきは上手くやり過ごせたが、見付からないという保証は無い。
ここは大人しく退散しておくべきだろう。

「明日は頑張れよ。それだけ言っておきたかった」
「え、もしかしてもう帰んの?」
意外そうにリョーマは顔を上げる。
「もう、ってしょうがないだろ。見付かったらお前だって怒られるかもしれねえんだぞ」
本当は跡部だって、名残惜しい。
もう少しリョーマと一緒にいたいと思っている。
そんな気持ちを知っているのか、リョーマも引き止めに掛かって来る。

「でも、今様子を見に来たばかりだから、しばらくは平気だと思う。
折角来てくれたんだから、もうちょっと居てよ」
「あ、ああ……」
頷いて、跡部はベッドに腰を下ろす。
すると明らかにリョーマの顔はホッとしたものに変わった。

(明日のこと、不安に思っているのか)

だったらそう言えばいいのに、相変わらずこの少年は強がってなかなか弱みを見せてくれない。
こっちが察してやらねえとな、と跡部はリョーマの肩にそっと手を置いた。

「跡部さん……?」
「お前の親は今日は一緒じゃないのかよ」
「子供じゃないんだから。付き添ってもらう必要なんか無いよ。
明日はさすがに来る予定だけど」
「バーカ。お前は子供だろうが。こんな時くらい素直に甘えていればいいだろ」
「だから、本当に平気だって」
「手が震えているのにか?」

気まずそうに俯くリョーマを、そのままゆっくりと引き寄せる。
「大丈夫だって言ってるだろ?退院する時にはお前は目を開いて、今まで見れなかった世界をちゃんと見ている。
一緒にあの道の向こうを確認しに行こうって約束したよな?
だからきっと手術は成功する。そんなに心配するな」
抵抗も無く小さな体は跡部に凭れ掛かって来た。
本当はもっと隙間も無い位抱きしめたいけれど、今はこれが背一杯で。
リョーマの不安を消すように、ゆっくりと背中を撫でてやった。

「ありがと、跡部さん」
安堵の溜息がリョーマの口から漏れる。
「そうだよね。あの道のもっと向こうに行くって約束を果たす為にも、明日は頑張るよ」
「ああ。成功を祈ってる」
「ごめんね、なんか…跡部さんも試合前に忙しいのに」
困ったようにリョーマは身動きして、跡部から離れてしまった。
少し残念に思いながらも、無理に引き戻すことはしないで笑って返事する。
「いらん気なんか回すなよ。
正直色々煮詰っていた所だから、お前の顔見てこっちも元気を貰いたかったんだ」
「そう、なの?」
「ああ」

頷いて、ふと跡部はリョーマに聞いてみたくなった。
リョーマがもし同じ立場に立ったのなら、相手が傷付こうと勝てるであろう戦略を選ぶのか、
それとも勝率は低くなるが正面からぶつかるのか。
どちらを選ぶのか、気になった。

「なあ、越前」
「ん?」
「お前なら、どうする?勝てるかどうか難しい相手とぶつかって、そいつの弱点をつけば有利になれる、でもそいつが怪我するかもしれないとわかったら……どうする?」

跡部の言葉を聞いて、リョーマは一瞬息を呑んだ。
「どうする、か。難しいね。
勝ちたいから弱点をつくのも有りだとは思う。
でも、勝ってもあんまり気分良くないかな。俺は、ね」
「そうか……」
「でも、あんたは俺じゃないでしょ」

にこっと、リョーマは笑顔を向けた。
「後悔しないように、自分で決めるべきだと思う。
だって跡部さんのテニスでしょ。思うようにすればいい。
どっちを選らんでも、俺はそれを間違っていたなんて言わない。
頑張ったね、ってそれしか言えない。
ごめん、答えにならないね」

もっと上手く伝えたいのに、と呟くリョーマの頭を、跡部は再び撫でた。

「いや。言ってくれて助かった。
おかげで、ちょっと気が楽になれた」
「本当?」
「ああ……。俺の欲しかった言葉をくれる、お前はすごいな」
感心したように言うと、何故かリョーマは俯いてもごもごと口の中で声にならない言葉を発している。

「それは、というか俺の方こそ、感謝しているし」
「何だよ、ハッキリ言えよ。聞こえないだろうが」
「今は言えない。退院したら、話があるって言ったよね?その時に言う」

まだ教えないから、と顔を逸らしてしまうリョーマに、(なんだ?)と跡部は首を傾げた。
が、すぐに気を取り直す。


「じゃあ、待っているからな。退院する時、絶対聞かせろよ」
「まあ、期待しないで…待ってて」

ハハ、と笑って誤魔化すリョーマに訝しく思うものの、
これ以上の追求はしないでおこうと、跡部は立ち上がった。


「じゃあ、そろそろ出るぜ。のんびりし過ぎるのもまずいからな」
「うん。明日頑張って」
「お前もな。明日、また様子を見に来る」

こくん、と頷くリョーマを確認して、跡部はそっと病室を出た。

(あいつに答えを委ねようなんてバカな真似したな。
でも、聞いてみて良かった。
やっぱり俺自身で決めよう。後悔しない為にもな)

そしてまた見付からないように、夜の病院を早足で駆け抜け、無事外へ脱出した。


2004年10月26日(火) 盲目の王子様 86 跡部

関東大会第2回戦。
今回の相手もまだ氷帝の敵では無い。
それでも油断をしたら都大会での失態の二の舞だからと、レギュラーで挑むことが決まっている。

「この試合に勝って、全国大会への切符をまず手に入れよう。全員全力を尽くすように」
榊の言葉に、皆神妙に頷いている。あのジローでさえもだ。
そうでなくても負けたらレギュラーから落とされてしまう。
誰だって負ける訳にはいかないと思っているはずだ。

「跡部」
「なんですか、監督」
D2の試合が始まる直前、榊が跡部を手招きした。
「お前は別会場に行って、青学の試合を観て来い」
「監督、しかし今から試合が」
「本当はわかっているのだろう?
今日の試合よりも明日の青学の方が厄介だ。手塚君が出て来るかはわからないが、見ておくべきだと思ってる」
榊の真剣な声に、跡部は「わかりました」と頷いた。
「あいつらはS1まで回る前に勝つと信じてます。だから俺は偵察に行って来ます」
「ああ。行って良し」
びしっと指を出されて、苦笑しながらくるっと背中を向ける。
深刻なはずなのに、やっぱりどうもあのポーズ見ると笑ってしまう。

そして駆け足で、青学が試合しているであろう会場へと向かう。
青学の相手は千葉の六角中だ。強豪の一角である彼らなら、少しは青学を苦しめることが出来るだろうか。
だが今年の青学は勢いが違う。
ひょっとしたらS1に行く前に結果が出るかもしれねえ、と小さく呟く。

コートに辿り着くと、ちょうどD2の試合をしている所だった。
青学は乾と海堂のペアだ。
サーブを打つ乾を見て、跡部は眉を潜めた。
あのサーブの速度……氷帝一のサーブの威力を持つ鳳と互角に近い。
都大会のデータにそんなものは無かった。
前回は手塚の試合しか観ることが出来なかったが、直々に来て良かったと思う。
全体的に青学はレベルアップしている。
海堂とかいう二年も必殺技と噂されているスネークショットを繰り出して、上手く相手を翻弄させている。
この分だと全国の常連である氷帝もまともにぶつかったら、勝敗がどちらに転ぶかはわからない。

苦い顔をして試合をじっと見ていると、後ろからポンと肩を叩かれる。
「やあ。偵察にかな?」
「不二……」
嫌な奴に見付かった、と跡部は目を逸らした。
目立たない位置から見ていたつもりだったが、不二にはお見通しだったようだ。
「お前も試合あるんだろ?俺に構っていないで、さっさと応援に戻ったらどうだ」
背一杯強気な声を出すが、不二はにこっと笑うだけで行こうとしない。
それ所か、跡部の隣に並んでしまう。
至近距離に近付いて来た不二に、「おい、俺の話を聞こえていないのか?」と苛立った声を出す。
「聞こえているよ。この試合はもう決着がつきそうだから、急いで応援に戻ることは無いかなと思って」
「お前な……」
たしかに試合は乾と海堂ペアが優勢だ。
そうだとしても戻るべきなんじゃないかと思っていると、「そんなに露骨に嫌な顔しなくたって」と朗らかに言われてしまう。

「普通するだろ。俺の反応見て楽しんでるような奴の側にいたくない」
「はっきり言うなあ。その辺は手塚と真逆だね」
「あいつはお前が何やっていようが気付かないだろ……。それも問題有りだが」
よくこんな奴を引っ張って行けるな、と跡部は手塚のことを見直し始めていた。
天然が腹黒の上を行くとは。
まだまだ世の中には勉強させられることがいっぱいあるようだ。

「手塚は確かに色々鈍いけど、でも部長としてはよくやっているよ」
「そうかよ。お前がフォローするとは珍しいな」
「そりゃあ手塚はこの僕が認めた位の選手だからね。
たまには褒めることもあるよ」

たまに、という言葉が引っ掛かったがあえて突っ込むことは避けた。
「君と手塚、試合をしたらどっちが勝つんだろうね」
「さあな。今まで一度も当たったことが無いんだから、やってみなくちゃわからねえだろ」
歓声が沸くコートに目を向ける。
すると青学のD2がちょうど勝利を収めた所だった。

「勝った……。次は英二達の番か」
そう言いながらも、不二は離れて行こうとしない。
「お前、もう戻った方がいいんじゃないか。早く行けよ」
しっ、と手を振るが、やっぱりそのまま動かない。
「おいっ」
「行くよ。でもその前に確認したいことがある」
「なんだよ」
「手塚との試合、君はどんな対策を考えているの?」

跡部の鼓動が跳ねた。
(こいつ、知っているのか…!?)
よくよく考えれば天才と呼ばれる不二のことだ。
手塚の攻略方法を考え、跡部と同じことを思い付いたに違いない。
その上で、わざわざ牽制しに来たのだと跡部はようやく理解した。

青学の柱ともいえる手塚の腕を、
どうかたった一試合で奪わないでやって欲しいと。

(そんなこと言われたってな……)

こちらだってみすみす勝てるチャンスを逃すなんて、出来ない。
それにまだ迷ってもいる。
手塚の腕は長期の試合には耐えられない。最悪、どうにかなることだって有りえる。
わかっていてその方法を選んで勝利を掴むのか。
まだ跡部は決めかねている。

それだけじゃない。
結果的に手塚の腕を壊したことを知ったら、あの盲目の少年はどう思うのだろう。
跡部にとって、最も気掛かりなことだった。
リョーマに胸を張って試合結果を伝えたい。だったら、この作戦はするべきでは無い。
無いのだけれど、氷帝を背負っている部長としては勝率の高い作戦を捨てる訳にもいかない。
跡部の心はこの攻略を思い付いていてから、ずっと揺れ動いていた。


「何をしている」

不二に向かってどう言い返そうか迷っていると、すぐ真横から声を掛けられる。
「手塚……」
怖い顔をした手塚が、大股でやって来る。
「不二。どういうことだ。何故すぐに戻らない」
「それでわざわざ探しに来てくれた訳?」
手塚の表情にも全く動じることなく、不二は笑顔を絶やさない。
「今、戻る所だよ。ちょっと跡部と明日の試合がどうするか聞いてただけ」
「そんな事聞くな。一体何考えているんだ」
はあ、と手塚は溜息をつく。
普段から手を焼かされているんだろうな、と跡部は同情した。
「いいから戻るぞ。もう大石達の試合が始まっている」
「えー、もうちょっとだけ待ってよ。跡部からの答えを聞いていないんだからさあ」
ねえ?と不二がジャージを引っ張る。
跡部は露骨に嫌な顔をして振り解こうとするが、不二は華奢に見えて力があるらしく、
そう簡単に剥がれない。
なんなんだこいつは。
手塚を見ると、ぼーっとして眺めているだけで役に立ちそうに無い。
仕方なく、「放せよ」と訴えてみることにした。

「だから、跡部が明日の作戦をどうするか聞いたら放してあげるって」
「バカか!敵にそんなことべらべら喋る奴がいるか!」
とうとう跡部は大声を上げてしまった。
応援している人々の目がさっと集まる。
が、不二を見て皆すぐに逸らしてしまった。どうやら怖かったらしい。
おいおい、どんな評判が流れているんだと、跡部は顔を引き攣らせた。

どうしようかと考えあぐねていると、傍観していた手塚が間に入って来る。

「不二。跡部の言う通りだぞ。そういうこと脅して口を割らせようとするな。みっともない」
しかも助けてくれた。
相手は不二なのに、ちゃんと窘めている。
案外やるな、と跡部の中で手塚の評価が上がった。

「けど、君だって心配じゃないの?跡部との試合……どうなるのか」
それまでの余裕の表情から一変、不二は暗い顔をして俯く。
いつも腹黒なくせに、手塚のことを心配している気持ちは本物のようだ。

不二の言葉に対し、手塚は臆することなく首を横に振った。
「今、どうこう悩んでいても仕方無いだろうが。
俺はただ勝ちに行くだけだ。どんなことがあろうと、絶対負けない」
「手塚……」
そして、きっぱりと跡部の目を見て告げる。
「明日は勝ちに来るつもりだろうが、俺も同じだ。
どんな作戦で来ようとも、堂々と受ける。だから、遠慮はいらない。
思うようにやればいい」

(なんだ、こいつ。天然のくせに、妙にカッコいい事言いやがって)

散々迷っているこちらが、これでは馬鹿みたいじゃないか。
手塚は逃げも隠れもしない、長期戦を仕掛けようがそれすらも受け入れる覚悟があるようだ。

「不二、もう用は無いはずだ。行くぞ」
「え、ちょっと僕はまだ」
「頼むから少しは俺の言う事も聞いてくれ……。
試合中にうろうろしていると、大石の気が散って仕方無いだろ」
「全く、繊細なんだから。しょうがない、戻ってやるか。じゃあね、跡部。また明日」
「明日はよろしくな」

そう言って、青学のNO1と2は跡部の側から離れて行った。

手塚の背中は迷いなく前を向いていて、それが無性に腹立たしい。

(くそっ、これじゃまだ迷っている俺が情けないみたいじゃねえか)

試合まで、後一日。
どうするか、そろそろ決める時間は迫っている。



2004年10月25日(月) 盲目の王子様 85 跡部

「なんで、てめえがここにいるんだよ」
出来るだけ声を抑えて、跡部は不二に向かって言った。

さっき天然手塚と会ったかと思えば、今度は腹黒不二か。
今日は一体なんなんだ。
不愉快な気持ちを隠すことなく、むっとしながらリョーマに近付く。
そもそも不二がいつも座っている椅子を使っているのが気に入らない。
リョーマと今まで二人きりでいたのも許せない。

そんな跡部の気持ちをわかっているかのように、不二はいつも以上にニコニコと笑顔を振りまいている。

「なんでここにいるかって、お見舞いに決まってるじゃないか。そんなのもわからないの?馬鹿なの?」
「……」
「跡部落ち着けっ、ここがどこか忘れたらあかんで」
「そうだよ。静かにしなくちゃ、追い出されちゃうよ」
忍足とジローに宥められ、跡部は仕方なく文句を続けようとする口を閉じた。

しかし、
「そうだよ。病院内では静かにしないと」
したり顔で言う不二にはやっぱりムカつく。
どうしてくれようかと苛々していると、不意にリョーマが立ち上がった。

「そこに予備の椅子があるから、ちょっと待って」
「おい、お前は座ってろ。俺達がやるからいい」
「あ、うん」
リョーマの動きを制して、跡部はベッドの隅に置かれた折り畳み式の椅子を取り出した。
ついでなので忍足とジローにも渡してやったら、何故か不二に笑われてしまう。
「なんだよ」
「いや、別に。君が世間で言われているようなイメージと違うから、びっくりしているだけ」
「はあ?」
「本当面白いよ。手塚と同じように毎日観察したい位だ」
「お前、自分の所の部長を観察なんてしてるの?」
不二を平然とお前呼ばわりするのはジローしかいない。
跡部も忍足もぴしっと固まってしまう。
だが不二は気を悪くする風でもなく、ジローに向けて頷いた。
「まあね。あれ程面白い素材は無いからね」
「ふーん」
どうやら他意の無いジローの態度を、意外にも不二は気に入っているらしい。
黒いオーラが見えないな、と忍足と肘で突き合って確認する。

「じゃあ、その手塚を観察する為に病院までついて来たんだ」
「それだけじゃないよ。越前君の様子を僕が直々に見て来てあげようと思ったんだ。
なにしろ手塚はこうと決めたら脇目も振らず真っ直ぐ突き進むような奴でね。
手術が終わるまで会わないと決めたとか言って、病室には絶対に入ろうとしない。
見えない所で回復を祈るんだってさ。よくわかんないよねー」
「お前がそうしろと吹き込んだんじゃないのか」
跡部の言葉に、不二は顔を顰めた。
「まさか。僕ならもっと積極的に行けよと背中を押すよ」
「さっきの手塚の行動は素やったんかい」
呆れたような忍足の声に、全く同感だと跡部も頷いた。
本気でリョーマを陰で見守っていたらしい。
天然過ぎるだろ、と大きく溜息をつく。

「入って来てくれれば良かったのに。
これのお礼、まだ言って無い……」
リョーマはベッドに括りつけてあるお守りを指差した。

なんでそんな近くに置いているんだよ。
仕舞っとけばいいだろ、と跡部は一瞬むっとしたが、黙っていた。
また不二にごちゃごちゃ言われるのが予想出来るのと、リョーマに了見が狭い男と思われるのも嫌だったからだ。

「僕から手塚の方にちゃんと伝えておくよ。だから安心して」
「はあ……」
複雑そうなリョーマの表情から、ちゃんと言ってくれるんだろうかと不安に思っていることが伝わる。

(不二のことだから、大袈裟に伝えそうだしな)
手塚が喜ぶようなことをあることないこと吹き込むんじゃないだろうか。
ちらっと不二を見ると、「何?心配?」とまるで心を読んだかのようなことを口にする。

「大丈夫だよ。ありのまま越前君がお礼を言ってた、ってだけ報告するから。
誤解するようなこと言う訳無いじゃないか。馬鹿馬鹿しい」
「誤解って、なんの話っすか?」
首を傾げるリョーマに、不二は軽く笑った。
「そりゃ余計な期待させるとか、ねえ?」
「意味がわからないんですけど」
淡々と言うリョーマに、不二はぐいっと体を近づけ、そして頬を指でくいっと引っ張った。
「おい!お前リョーマに何してんねん」
「不二っ、止めろ!」
出来るだけ音量を抑えて、忍足と跡部はそろって抗議の声を上げる。
ジローはぽかんと目を見開いていた。
三人の様子を気にすることなく、不二は「わかってないなあ」とリョーマに言う。

「あの、不二さん?」
「病室に来て欲しいなんて、気安く言うもんじゃないよ。
二人きりになりたいのかと、手塚が舞い上がったらどうすんの」
「手塚さんは、そんな誤解するとは思えないけど……」
「君ねえ、手塚のことそこまで深く知らないじゃないか。
とにかくその気が無いのに期待するようなこと言うなってこと」
ふうっと溜息をついて、不二は頬を摘んでいた手を放す。
「以前と状況が変わったみたいだから、一応忠告しておく。
好きな人以外に、勘違いされるような優しさを見せるのは止した方がいい」
「状況が違う??不二さんの言ってること、本当にわからないっすよ」

頬を摩りながら、リョーマは不満そうに言う。

跡部にも不二の言いたいことはわからない。
忍足もジローもそれは同じ思いらしく、じっと不二を見詰めている。

「やれやれ。さっきまで僕と会話していた内容も忘れたのかな?」
大袈裟に不二は肩を竦めてみせる。
「内容って言われても、ここ最近どうなのか聞かれただけじゃん」
「うん、そうなんだけど。まあ、いいか。他の人がいる前で言うべきことじゃない。
後は自分で考えなさい」
「ちょっと、気になるじゃないっすか」
憤慨するリョーマに、不二は立ち上がって軽く頭を撫でた。
「自覚あるんでしょ?だったらそれ以外に優しくなんてしなくていいよ。
手塚も、覚悟出来ているみたいだし。もう僕から何か働き掛けるのは止めるね」
「あの、不二さん?」
「手術頑張ってね。僕も応援しているから。あ、そうだ。これ、いる?」

そう言って不二がポケットから取り出したのは、どう見ても怪しげな呪いの人形で。
「お守りなんかより全然効くと思うんだ。良かったら、どうぞ」
「おい!越前に変なもの渡すな!」
慌てて止めに入ると、不二が「冗談だよ」とまた笑う。
「じゃあ、僕は先に出るから。皆さん、ごゆっくり」
「あの、まだ話終わっていないんだけど」
引き止めようとするリョーマに構うことなく、不二は「じゃあね」とさっさと病室を出て行ってしまった。

「なんなの、あいつー。あの人形見た?気持ち悪いよ!」
「わっ、ジロー」
不二が出て行くと同時に、ジローがリョーマに抱きついた。
「あんなのリョーマの側に置いときたくない。あー、ちゃんと持って帰って良かった!」

こいつ、他意が無いとはいえベタベタ触りやがって……。
不二がいたことでただでさえ機嫌が下降しているのに、ぎゅっとリョーマに抱きつく姿を見て、ふつふつと怒りが沸いてくる。
すると、
「ほんまに趣味悪い人形やな。リョーマには相応しくないで」
と、ちゃっかり忍足まで隣をキープして座っているでは無いか。

(おい、この構図。前と全く一緒だぞ…)

忍足とジローに囲まれるリョーマと、側で椅子に座っている自分と。
またしてもやられた、と跡部はがくっと肩を落とした。

「でも不二さんは、俺のことも心配してくれたみたいっすよ」
二人に挟まれて、リョーマは困ったように呟く。
「さっきの言葉だって、よくわかんないけど俺のこと思って言ってたっぽかったし」
「リョーマ、俺達が来るまで不二と何話してたのー?」

いい加減、お前はその手を放せよ、と跡部はジローをじっと見た。
気付くことなくジローはリョーマの肩をぎゅっと抱いたまま問い掛ける。
「何って、近況とか。入院中は、退屈じゃないかとか聞かれたんで、
皆が来てくれるからそうでもないって答えて、えっと後はどんなこと話してるんだって聞かれたかな」
「ふーん。なんなんだろうね、あいつ」
「さあ?」
リョーマはまた首を傾げた。
「でも、不二さんのさっき言ったこと…ちょっと気になったな」
「えー?何が?何が?」
ジローが無邪気に尋ねる。
こういう時、跡部は逆に気兼ねして聞くことが出来なくなってしまうのだが、
ジローは素直にありのまま疑問を口にする。
得な奴だ、と思う。
忍足も興味深々というように耳を傾けている。

「そのつもりは無くても、相手を誤解されることもあるんじゃないかなと思って。
好きな人に優しい言葉を掛けてもらったら、やっぱり嬉しいだろうし、もしかしたらって思うこともあるよね。
だから、不二さんの言うことも、よく考えてみるとわかる気がするんだ」
「え?でもリョーマは普通にしてるだけでしょ。だから気にすること無いと思う」
「そうだけど……うーん、なんだろ。うまく言えないや」
そのまま黙り込んでしまう。
どうやら頭の中で整理が出来ていないようだ。考え込んでしまっている。

「そない言うなら、ゆっくり考えたらどうや?」
くしゃっと忍足が不二と同じようにリョーマの頭を撫でる。
「俺らは今から明日の試合の為に練習に行くし。ゆっくり一人で考えてみるのもええかもな」
「おい、忍足」
こんな不安定なリョーマを置いておくなんて、と跡部は思わず立ち上がった。
だが忍足は穏やかに笑って、「リョーマにまず聞いてみようや」と言う。
「どうや?リョーマ」
「え、うん。そうだね。侑士の言う通り、ちょっと一人になって考えてみたいかも」
「そうやろ、そうやろ」
「……」

忍足の言う通りの展開になったのは気に入らないが、リョーマの意見を尊重させる為に、ここは出て行くしか無さそうだ。

「じゃあ、明日また来るからな」
「リョーマ、バイバイ」
「またな、リョーマ」
「うん。皆、明日の試合も頑張って」

手を振るリョーマに見送られて、三人は病室からそっと出て行く。


「あんな状態の越前を一人にして、大丈夫なのかよ」
廊下を歩きながら、跡部は忍足に向かって文句を言った。勿論声は抑えてある。
心配で仕方ない。
手術前に余計なことを考えて、影響が無ければいいが。
あーあ、と溜息をついていると、忍足がぷっと笑い出す。
「なんだよ」
「そないに気になるんやったら、もう一回様子を見に行ったらどうや」
「はあ?お前さっき、越前のこと一人にさせたいって言っただろうが」
「あれは退出する口実作っただけや」
「どういうことだよ」
「あのなあ、俺らが出て行かへん限りリョーマはずっと本音漏らすこと出来へんやろ。
けど、お前には違うんとちゃうか?」
「……」
「いや、お前の口から聞きたいかもしれへんな」
「どういうことだよ」
ふと、忍足にもたれ掛かっているジローと目が合う。
彼もまた、何かを察知しているらしい。

どうして自分はわからない、と跡部は少し苛立ったように「早く言えよ」と先を急かした。
「だから、リョーマも思ったんちゃうか。誰かさんに優しくされたことは嬉しいけど、期待したらあかんってな。
他の人にしているのと同じかもしれへん。そう考えているんとちゃうか?」
「なんだよ、それ。俺は別に他の奴なんか……どうでもいいのに」
「わかったら、さっさと戻ったらどうや。誤解を解くなら早い内がええで」

くるっと跡部は振り返った。そしてそのまま、リョーマの病室へと早足で歩き始める。


「俺って、ほんまお人よしやな。けど跡部よりずっといい男だと思わへん?」
脱力しつつ、忍足はジローに笑顔を向けた。
「自分で言わなきゃもっといい男だと思うけどね」
「うわー、そこは黙って慰める所やろ」
「しょうがないなあ。じゃあ、後で飴買ってあげる」
「自分が食べたいだけやろ」

二人はそのまま振り返らず、外へと出て行った。



ノックするのももどかしく、跡部は慌しくドアを開けた。
「越前!」
「跡部さん?どうしたんすか、なにか忘れ物?」
突然入ってきた跡部に、リョーマは驚いたようにびくっと体を竦ませる。
それに気にする余裕が無いまま、すぐ前へと移動して行く。

「どうしたんすか。なんか、あったとか」
「一つ、お前に言っておきたいことがある」
「はあ……」
困惑しているリョーマの右手を掴んで、両手でぎゅっと包み込む。
「お前のやり方が間違っているとは思わない。非難の意味で言う訳じゃないのはわかって欲しい」
「あの、なんのこと?」
「俺は特別な相手以外に、優しくなんかしない。というか、誰かの力になってやりたいとか、一度も考えたこと無かったんだがな。
だから、その誤解とかじゃなくそのまま受け取っていればいい。
ただそれだけを言いたかったんだ」
「……そう、っすか」

リョーマの顔が赤くなったのを、跡部は見逃さなかった。
ほとんど告白のようなことを言ってしまったが、ぎりぎりまだ榊との約束は守れていると思う。
この続きは手術が成功してから、と言い聞かせて名残惜しげに手を放す。

「今、言ったこと忘れるなよ。それからまた、さっきのことも合わせて考えればいい」
「う、うん」
「じゃ、俺練習あるから行くぜ」
「あの、跡部さん」
「なんだ?」
「わざわざ来てくれて…ありがと」

にこっと顔を上げて笑うリョーマを見て、その場に倒れそうになった。

(それは反則過ぎるだろう)

震える足をなんとか動かしながら、今度こそ退室する。
多分これで、リョーマの誤解は解けたはずだ。
しかも、あの表情。
(俺も期待しても、いいんだろうか)

手術後の告白に備えて、大きく自信がついた。
本番の時はこんな慌しい状況じゃなく、もっと思い出が残るような。
そんな演出を考えようと、軽い足取りでエレベーターへと向かった。





「びっくりした……」
一人病室に残っていたリョーマは、赤くなった頬を両手でそっと押さえた。
(特別、な人にだけか)
跡部の言葉を繰り返し思い出して、また熱くなっていく。
手術なんて控えて無かったら、直ぐに気持ちを伝えていたかもしれない。
自分にとっても、跡部は特別なんだけど。口に出していただろう。

(早く、手術が無事に終わらないかな……)

その時が来たら、彼の目を見てハッキリ言おう。
どんな顔するんだろと想像して、リョーマはまたベッドへと横たわった。


2004年10月24日(日) 盲目の王子様 84 跡部

溜息をついて、跡部はテーブルに突っ伏した。
全く、見舞いなら一人で行きたかったのに。
例によってこの二人が、一緒に行こうとくっ付いてくるからこんな所でもたもたしている羽目になっている。

今日は終業式。明日から長い休みに入るが、テニス部員は全員関東大会に向けて誰もがのんびりしている時間は無い。
明日と明後日は試合が連続して入っている。
明日の方は、まだいい。データを見た限り、S1まで回ることは無い。
しかし明後日の方が問題だ。
順調にいけば、多分相手は青学になるだろう。
そしてS1で当たる相手は、ほぼ手塚で間違い無い。

(あいつに勝たない限り、俺達は前に進めない)

ここ最近ずっと、手塚と戦うことばかり考えている。
どうしたら勝てるか。その攻略法の糸口を昨日一つ思いついたが、出来れば使いたくないと思っている。
以前の跡部だったら、迷うことはしなかった。
相手がどうなろうが、躊躇わず勝てるのなら弱点だって遠慮なく突いていった。

(出来ないのは、あいつのことを考えてしまうから、だろうな)

リョーマのことを思い出して、またため息をつく。
テニスが出来なくなって、悲しい目をしてベンチにずっと座り込んでいた。
そのリョーマが知ったら、どう思うだろう。
気になるのはその点だった。

手塚に勝てるとしたら、長期戦に持ち込むしかない。
左腕は完治したと聞いているが、どうだろうと跡部は疑っている。
未だに手塚は強過ぎて、短期間でしか試合をしていない。
さっさとポイントを取りに行くのではなく、わざと打ち合いに持ち込み長期戦へ突入したら、
ボロを出すかもしれない。
それが跡部が考えた、手塚の対策法だ。
長期戦を避けた手塚が焦った所で隙をつく。
今は他に勝てる策は思いつかない。

しかし問題点もある。
あえて、手塚が長期戦を受けた場合だ。
まさかそんなことを受けるはず無いと思うが、何をしでかすかわからない。相手は最強の天然だ。
その後、腕が再び故障することになったら?
リョーマはどう思うのだろう。
跡部が追い込んだ所為だと、非難するかもしれない。
「テニス出来なくなる、その気持ちがあんたにわかる?」と、罵るかもしれない。
そう思うと、怖くてたまらない。

「跡部ー、食べ終わったんだけど」
「何や考え中か?その間にデザート食べてもええか?」
「…良いわけ無いだろ」
「あ、起きた」
がばっと、跡部は顔を上げた。


終業式が終わったら、すぐに病院へ行くはずだった。
それを阻んだのはジローの言葉だ。
「リョーマも食事中だと思うC。終わる頃を見計らって行こうよ。
俺達も食堂で食べて行こうー」
忍足もそれに同意したので、しぶしぶこんな所で昼ご飯を食べているという次第だ。
午後から練習がある部も多いので、食堂は意外と混んでいた。
明日以降は閉まるから最後に食べようという生徒達もいるようだ。

「リョーマのお見舞い終わった後は、また自主練習するの?」
「ああ。けど監督の言う通り軽くだけどな」
試合のことを考えて、今日は練習を休みになっている。
自主練習するものも、くれぐれも疲れを残さない程度にと朝練時に榊からきつく通達があった。
「んー、じゃあそれでもいいや。一緒にやろうよ。忍足は?どうする?」
「見舞いが終わったら岳人と待ち合わせしてるからな。二人で最後に特訓しよう思うてる」
「そっか。じゃあ、そろそろ病院へ行く?」
「ああ、行くか」
トレイを持って、跡部は立ち上がった。
ジローと忍足の二人も後からついて来る。


手塚との試合のことで悩むのは、とりあえず後回しにしようと思った。
今はリョーマと会って、少し気持ちを落ち着かせたい。



跡部の車に三人で乗り込んで、病院へ向かう。
駐車場から正面玄関に歩いていると、植えられている樹の陰に不審人物が立っているのに気付く。

「あれ、手塚じゃない?」
ジローが指差す。
「何やってるんだろう」
「……さあな」
手塚は樹に隠れるようにして、上を見上げている。
怪し過ぎるその行為に無視したくなったが、このまま放っておいてら通報されるかもしれない。
しょうがない、と跡部は声を掛ける為に手塚に近付いた。

「おい、こんな所で何をしている」
「跡部か」
手塚は制服姿だった。
青学から真っ直ぐここに来たのかもしれない。
「越前の見舞いに来たんだろ。何故病室に入らない」
そう言うと、手塚は首を横に振った。
「俺は静かに見守ると決めた。だからここから手術の成功を祈るだけだ」
「祈るのは良いが、通報されるぞ」
「いや、俺の気持ちが伝わればそれでいい」
「だから顔を合わせないとわからないと思うが」
「今日はもう帰る。じゃあ、また試合で会おう」
「おい……」

そう言って、手塚は走って去って行ってしまった。
一体なんだったんだ。
同意を求める為ジローと忍足の顔を見ようと振り返ると、何故か彼らは遠くに立っていた。

「お前ら、何故そんな遠い位置にいるんだ」
「だって手塚の行動怪しいかったからさー。同類に思われたら嫌かなって」
「てめえ、俺はどうでもいいのかよ!」
少しキレ気味に声を上げると、忍足は「まあまあ」と肩を叩いてきた。
「で?手塚なんやって?リョーマに念でも送ってた言うんか?」
「そんな所だ。手術成功祈願してたらしい」
「でも変なのー。普通にお見舞いに行けばいいのにねっ」
ジローの言葉に、跡部は大きく頷いた。
「全くだ。通報されて明日の大会に出られなくなったらどうするつもりなんだ」
「けどなあ、手塚君の気持ちも少しわかるで」
「何?」
「えー、なんで?」
何故か一人頷く忍足に、ジローと跡部は不満げな声を出した。
「何がわかるんだよ」
「いや、相手のことをじっと陰から見守ろうとする気持ちや。
姿は見えへんけど、好きな人はそこにいる。あ、今病室から外を覗いたかしら。
私に気付いた?きっと気のせいね。男はちょうど影にいたから気付かなかった。
ここにいると告げられない。今度会う時には、君が完治している時だ。それまで、さようなら、と」
「おい!途中から変な話入っているぞ!?」
「あれ?ほんまや……何か間違えたか」
「また映画の話と混じっているんじゃないのー?忍足、そういうのよくやるC」

頭を掻く忍足に、相手にするのは止めようと跡部は先に病院内へと入って行く。
これ以上時間を無駄にはしたくない。
早くリョーマの元へ向かってしまおう。
それに続いてジローも追って来る。
最後に忍足が「何の映画やったかな」とぶつぶつ言いながら後に続いた。


「ここだな」

リョーマの病室に到着して、ノックをしようと手を出す。
コンコンと軽く叩いた後、いつもの「どうぞ」というリョーマの声。
「よう、越前。元気か」
がらっと開けた所で、昨日と変わらない風景がそこにあると信じていた。
ベッドに腰掛けて、待ってくれてるリョーマいる。そう跡部は思い込んでいた。

「やあ、いらっしゃい」
「……は?」

目を疑う。
昨日、跡部が腰掛けていた椅子に青学の不二周助が座っている。
リョーマはやはりベッドに腰掛けていて、困惑気味に顔を伏せている。

「どうしたの?入って来たら?」
どうぞ、と手招きする不二に、跡部は「なんでお前がここにいるんだー!!」と叫びそうになった。
もし叫んでいたら、また叩き出されていた所だろう。

ジローと忍足の二人掛りで口を塞がれて、どうにか最悪の事態だけは免れた。

「相変わらず、君達は面白いねえ」
にやにやしている不二に、どうしてくれようと跡部は思ったが、口を塞がれている為、何も言い返すことが出来ない。
もごもご口を動かしながら、何故かこの場にいる不二をキッと睨み付けた。


2004年10月23日(土) 盲目の王子様 83 跡部

「跡部ーっ。まだやるんかー?今日は病院行かへんのかー?」

忍足の声に、跡部は首を振った。
「もうちょっとやって行く。行きたいのなら、お前らは先に行けよ」
「でも、あんまり長くやっていると面会時間終わっちゃうよ?」
「それまでには行く。いいからさっさと行け」
ジローにもさっと手を振って返事する。
すると二人は顔を見合わせた後「リョーマの所に行こうか」とさっさとその場を去ってしまった。

……冷たい連中め。
まあ、いいさと跡部は再びボールを手に取った。
時間ぎりぎりまで今日は練習すると決めていたからだ。
それにリョーマの所へ見舞いに行った後、もう一度学校に戻って来て練習するつもりだった。
監督の許可も取ってある。
それに居残りしているのは跡部だけじゃない。
宍戸と鳳も二人でずっとダブルスのフォーメーションの練習をしている。
自主練習は個人の自由だから、忍足とジローに無理に居残れというつもりは無い。
それぞれの調子に合わせてやるべきだろう。
忍足の場合、パートナーの向日が調子を出す為にと何故かバンジーしに行っているから、ダブルスの練習が出来ないのもあるが……。

(俺は残り少ない時間を使って、どうにか手塚を破る策を見つけなきゃいけないからな……)
先日観た試合を思い出して、跡部はチッと舌打ちした。
認めるのも悔しいが、奴を倒す方法がこれといって見付からない。
腕の不調はデマだったらしい。
手塚のテニスにこれといった弱点は見付からなかった。
跡部も自分の力にはある程度の自信を持っているが、手塚に勝てると言い切れる程過信はしていない。
多分試合になれば、五分五分……。もしかしたら不利になるかもしれない。
そう思うと気が焦って、とにかくボールを打っていないと気が済まない。
闇雲に籠一杯のボールを打ち続けて、ふと気付くと1時間経過していた。

「やばいっ、面会時間過ぎちまう」

大急ぎでコートから飛び出す。
「跡部、帰るのかよー!」
後ろから、宍戸の声が響く。
「また来る!使ったボールを戻しておいてくれ!」
「はあ!?」
抗議の声を無視して、跡部は部室に急いだ。
シャワーを浴びてる時間も、着替えている時間も無い。
仕方なくジャージを羽織るだけにして、そしてすぐ待たせておいた自家用車に乗り込む。
いつでも病院に行けるようにと運転手に指示しておいて良かった、と胸を撫で下ろす。
そしてリョーマの入院している先へと向かった。
お見舞いの品を買う時間も無かったが、二日連続で届けたらリョーマに気を使わせるだけだろうし、
今日は会いに行くだけで良いと判断する。

車を急がせたおかげか、奇跡的に面会時間には間に合った。
だが「後15分だけですからね」と釘をさされてしまう。
昨日騒いだことがまずかったのだろうか。
心なしか冷たい声で言われた気がする。
しかしそんなことに構っている時間は無い。
リョーマがいる病室へと急いで向かう。

控えめにノックすると、昨日と同じように「はい」とリョーマの返事が聞こえる。
跡部は「入るぞ」と声を掛けてドアを開けた。

「跡部さん。今日も来てくれたんだ?」
「当たり前だろ」
「でも自主練しているから、来られないかもって聞いたけど」
「あいつらか。勝手なこと言いやがって…」
行かないとは言っていないのに。
はあ、と溜息をついて病室の中へと進んで行く。
リョーマはベッドの上で壁を背にして座っていた。
手には何かの本を持っている。
「本、読んでいたのか」
「うん。まだ途中までなんだけど」
面白いよ、とにこっと笑うリョーマの顔を見て、頬が熱くなっていく。
笑顔一つで、さっきまでの切羽詰った空気がふっと抜けたのを感じた。

一挙一動に反応するなんて、ガキの初恋かよと頭を掻く。
客観的に見ると自分の行動はそのもので、情けなくなるやら恥ずかしくなってきてしまう。

「跡部さん?」
沈黙にリョーマが変に思ったのか、声を掛けて来る。
「どうかした?疲れてるとか……。冷蔵庫に飲み物入っているよ」
「あ、いい。車の中で飲んできたから今はいらない」
「そうっすか。えっと、立っているのもなんだし、この椅子に座ったら?」
「ああ」
前回と同じように、パイプ椅子に腰掛けてリョーマのすぐ近くにずいっと近付く。
すると何故かリョーマはぴくっと肩を震わせて硬直してしまう。
「おい、どうした?」
妙な反応に今度は跡部が声を上げる。
「あー、別に……なんでも無いよ」
「そうか?」
珍しく歯切れの悪いリョーマに、何かあったのかと心配する。
「本当に大丈夫って言うのなら詮索はしねえよ。
その言葉信じていいんだな?」
もう一度言うと、リョーマは「うーん」と小さく俯いた。

「あったといえばあったし、無かったといえば無い」
「なんだそれは」
「まだ考え中。はっきり言える段階じゃないから、今は詮索しないで欲しい」
きっぱりと言われて、跡部はそれ以上問い詰めることが出来なくなってしまう。
正直言って、リョーマが隠し事をしていることに少し傷付いた。
だけど全部話せだなんて言えるはずも無い。リョーマにだって秘めておきたい事はあるだろう。
何もかも打ち明けろと迫るのは、間違った行為だ。
だから跡部は「わかった」と固い声で答えた。

こちらの心境が伝わったのだろうか。
リョーマは少し黙った後、跡部の腕がどこにあるか探すように手を伸ばして来る。
応えるように自分から手を掴むと、一瞬動きが固まった後、すぐ握り返される。
「今は言えないけど、探したらちゃんと伝えるから」
「探す?」
「うん。どう伝えたらいいか、わからないだけなんだ。
でも全部片付いたら、跡部さんに真っ先に言うよ。
大事な話だから。
退院したら、俺と話する時間取ってくれる?」
「当たり前じゃねえか。お前になら、いくらだって時間を割いてやるよ」
「良かった。ありがとう」
安心するように笑うリョーマの髪を、くしゃっと優しく撫でる。
誤魔化したりせず、ちゃんと話をすると約束してくれた。
今は聞けないけど、そう言ってくれることが嬉しい。

(話って、なんなんだ?っと、今詮索するのは無しだったな)

リョーマの表情から、そう悪いことじゃ無いのが伺える。
じっとその時が来るまで待とうと考える。

「話なら本当にいつでも聞くから、遠慮無く言えよ」
「うん。多分、退院後になると思う」
「退院後か……」
その頃には、きっとリョーマの目は元通りになっているはずだ。
リョーマの前に立った時、自分の姿が映ることを想像する。
彼にはどんな風に見えるのだろう。
人の評価等気にしたことは無いが、リョーマのだけは別だ。
出来るだけ、良い風に映って欲しいと願う。

「退院したら、俺達の顔も見えるようになっているな」
「多分、ね」
「多分とか弱気なこと言うな。絶対見えているに決まっている。
言っておくけど、ジローと忍足とで三人並んでいて、その中で一番イイ男がいたらそれが俺だからな
間違えるなよ」
「自分でイイ男とか言ってるし……。そんなに自信あるんだ」
くすくすとリョーマは笑った。
多分、とかまた一瞬沈んだ気持ちは、すぐ浮上したようだ。
ふざけたことを口にして正解だったな、と跡部も一緒になって笑う。

「ああ。自信あるぜ。俺を見てびっくりすんなよ。
あまりにイイ男で腰を抜かすかもな」
「そんなこと言って、大したこと無かったら笑うから」
「言ってろよ。今の言葉、後で絶対撤回することはわかっているしな」
「ふーん。本当に自信あるんだ」
「越前?」

繋いでいた手を振り解かれる。
一瞬、機嫌を損ねたのかと焦ったが、リョーマはもう一方の手を伸ばして来て、
そして、跡部の肩に触れた。
「おい?」
「ちょっとじっとしてて」
「なんなんだ」
肩から首、そして顔へとリョーマの手が移動していく。
形を確かめるように小さな手が跡部の口と鼻と瞼の形をなぞる。
眉にも額にも触れた後、満足したのかそっと手は離れていった。
「うーん、やっぱりよくわかんない」
「何がしたかったんだ」
「跡部さんの顔。想像だけで、よくわかんないから確かめてみようと思って。
ほら、前にジローの顔も触ったから違いとかあるのかなと考えてみたけど、やっぱりわかんないや。
悪かったね、急に触ったりして」
「別に構わないが。確かめる必要なんか無いだろう。
すぐに、見えるようになるんだからよ」
「そう、そうだね。うん。その時にきっちり確かめさせてもらうから」
「ああ。それまで楽しみに待ってろ」
また笑うリョーマに、今度は髪をぐしゃぐしゃと撫で回してやった。

(そっか。こいつは俺の顔なんて関係無く、こうして一緒にいてくれるんだったな)

容姿や財力、生徒会長でテニス部部長の肩書き等に惹かれて近付いてくる連中はいくらでもいる。
そういう奴らを逆に利用してやっている所もあったから、見掛けで判断されても何とも思わなくなっていた。
それが当たり前だと思っていたから。
でもリョーマは目が見えない分、その人間の中身をきちんと見つめて接してくれる。

(容姿や金なんて、こいつには興味無いんだ。どうでもいいことなんだよな。
俺が格好悪くて、金の無い男だったとしても関係なく側にいてくれる。
そうだ。こいつにとっては肩書きなんて無くても、跡部景吾であればいいんだ)

ただの自分を受け止めてくれる人なんていないと思っていた。
リョーマと会うことが無かったら、きっと今も誤解したままだったろう。
ここにいる。俺の外見や金なんか無くても、側にいてくれる奴がいるんだ。
だからこそ、リョーマのことを放したくないと強く思う。
忍足や手塚の元に行かないで欲しい、と。
告白もまだしていない自分に、そんな権利は無いけれど。
手術が終わったら、リョーマの抱えている重荷が解かれたらちゃんと伝えるから。
それまで待ってて欲しいと、もう一度手に軽く触れて強く願う。

リョーマは退院後に話をする時間を欲しいと言った。
その時打ち明けることにしよう、と心の中で決めた。






15分はあっという間に過ぎて、また見張りの為に飛んできたナースに追い立てられるようにして、
跡部は病室から出た。
昨日の騒ぎで完全に目を付けられてしまったらしい。
それとも病院側は榊に何か言われているのかもしれない。リョーマの様子を特に見ておいて欲しいと。
榊ならやりかねない。
挨拶もそこそこだったのが不満だが、文句を言って不興を買ったりして出入り禁止になることは避けない。
渋々病院から外で出た。

そしてまたコートに戻る為、途中で簡単に夕飯を取って再び学校へ戻ると、
宍戸と鳳以外にも練習いている者が増えていた。
「あれ、跡部。戻って来たんだ」
「ジロー?お前、見舞いの後帰って寝たんじゃないのか?」
「そんな訳あらへんやろ。今は僅かな時間も惜しい位からな。また戻って来たんや」
「忍足…」
「そうそう。無駄な時間は一分も無いってな」
「って、バンジージャンプしてたてめえに言われたくねえな!」
ぴょんぴょん飛んでいる向日に跡部は怒鳴った。
いつの間にか自主練習に来ている。
忍足が誘ったのかもしれない。二人でコートに入っていて、その相手は鳳と宍戸だ。
「用は終わったのかよ。ボールなら片付けておいてやったぜ。特別にな」
「そうですよ。俺も手伝いましたけどね」
宍戸が隣のコートを指差す。
先ほどまで散らかっていたボールは全部片付けられていた。
その隣には樺地が立っている。
「ウス」
「なんだ、樺地も来ていたのか」
「ウス」
「俺が呼んだのー。練習相手して欲しいって」
「ジローが?」
「うん。電話したらすぐ来てくれたよ」
「ウス」
「よく会話出来たな……」
妙なところに感心してしまう。
「樺地もボール拾い手伝ってくれたんだぜ。感謝しろよ」
宍戸の声に、跡部は「ああ」と頷いた。
「悪いな。お前らも練習あるのに」
素直にそう伝えると、宍戸と鳳は二人で目を丸くする。
「あ、いや別に休憩のついでにやっただけだ」
「跡部さん、何か悪いものでも食べたんですか?」
宍戸はともかく、真面目にそんなことを言う鳳に苦笑しつつ、跡部もコートへと入る。
「跡部−っ、ねえねえ俺の相手してよ。久しぶりに試合しようよ。試合」
「馬鹿か。俺と今試合なんかしたら、本番に差し支えるぞ」
「えー?」
「軽く打つだけにしようぜ。俺のアップに付き合え」
「ま、Eけどー」
「ウス」
「ああ。自主練習していていいぜ、樺地」
「毎度のことながら、よくその二文字で意思疎通出来るな……。なんでやねん」
首を捻っている忍足に笑って、跡部は軽くストレッチを始めた。

関東大会へ向けて、皆も同じように頑張っている。
きっと、負けない。
青学にも勝てると、今は信じてやっていくしか無い。


2004年10月22日(金) 盲目の王子様 82 リョーマ

跡部達が帰った後(正確には追い出されただが)、
リョーマはベッドに横になってぼんやりと手塚に貰ったお守りを手で触れていた。
病室には三人がもらった花の良い香りが漂っている。
独りで部屋にいるが、なんとなく安心してしまう。
三人が来てくれて良かった、とリョーマは呟く。
家族には負担を掛けたくないので付き添いを断ったが、やっぱり誰もいなくなるとほんの少し心細い。
お守りと花の香りとで、大分慰められている気がする。

(お守り、か。効果はどんなものだろう)

試合を控えているのにわざわざ買って来てくれたことを思うと、申し訳なくなる。
手塚のことだから、「気にするな」と言うに違いないだろうが。

(手塚さんか……。真面目で良い人なのはわかるんだけど、付き合うとかはあんまり考えられないんだよね)
友達として付き合うのなら大歓迎だが、恋人ととしては想像すら出来ない。
手塚の言う好きが、リョーマにとっては未だに理解出来ないものだ。

(話もそんなにしていないし、俺のこと知らないのに……なんであんな真剣に「好き」だって言えるんだろ)
夢見過ぎていている気がするんだけどな、と眉を寄せる。

友達としてで、いいのに。
なんでそれじゃ駄目なんだろうとリョーマは考えた。
仲良くしている、それだけじゃ物足りないのだろうか。

(付き合うことになるとしたら、どうなるんだ?)

忍足とは学校も一緒だし、ほとんど毎日会っているから何も変わらない気がする。
手塚は、会う頻度が多くなるのだろうか。
違う学校だから、待ち合わせして外で会って、そして。

(何するんだ)

リョーマは小さく唸った。
ただ会って話ししているだけなら、今と変わらない。
やっぱり友達でいいんじゃないかと思ってしまう。
忍足と手塚。二人の気持ちと自分の気持ちにはズレがある。

(だってさ、やっぱり二人のこと友達としか見れないんだよね)

目のことがあってそちらに気を取られていることを差し引いても、
恋人として付き合うことは考えられない。
好意は持っているが、二人と同じ気持ちじゃない。
多分この先も、変わることは無い気がする。

(付き合うとか、恋人とかって。どうしたらそんな風に考えられるんだろ)

難しい、とリョーマは小さく溜息をついた。
それでも彼らの気持ちにきちんと応える為にも避けていられない。

(手塚さんはよくわからないけど、確か侑士は……)

手塚に告白されている所を見て、自分も気持ちを伝えたと言っていた。
誰にも取られたくないと。
切羽詰ったような声でそう言った。

(まあ、たしかに好きな人に恋人が出来たら悲しいよね。
そうなって欲しくないと思って、気付くこともあるのか)

じゃあ、忍足と手塚に恋人が出来てみたら?と考えてみる。
正直に言うと、少し寂しいかもしれない。
二人が夢中になる相手を見つけて、もう以前みたいに会いに来ることは確実に減るだろう。
恋人とどこかに出かけることを優先して、会話もなくなっていくかもしれない。
でもきっと寂しいと思う反面、笑顔で送り出すことも出来る。
友達だから、二人が幸せになれるのが嬉しい。
引き止めようとは思わない。

(やっぱり、友達としか見えないから……侑士が言ってたような感情は湧いてこない)

いずれきちんと返事をする時、申し訳ないけれどやっぱり断ろうとリョーマは考えた。
それにしても恋愛感情は難しい、と呟く。
今これだけ考えただけでも、かなり疲労してしまった。
二人共良い人だからこそ、誠意を持って自分なりに一生懸命考えなければと思ったが、
これ程度でぐったりしてしまった。
慣れないことはするもんじゃないなと改めて思う。

このまま眠ってしまおうか。
そう思ってリョーマは布団を体に掛けようとすると、
コンコン、とドアにノックの音が響いた。

「はい」
返事をすると「失礼する」と榊の声が聞こえて、ドアが開いた。
「先生……忙しいのに来てくれたんだ」
大会前に時間も無いだろうに、わざわざ顔を出してくれたことに驚いて、
リョーマはさっと起き上がった。
「ああ、いい。そのままで。疲れているのだろう」
「いえ、別に。今日は検査もちょこっとだけだっだし」
「どうだ、この部屋の居心地は。何か不便は無いか?」
「全然。先生には本当お世話になって、申し訳ないくらいっすよ」
個室を使えるよう榊が取り計らってくれたで、こんなにも快適に過ごしている。
文句を言ったらバチが当たってしまう。

リョーマの言葉に、榊は「それでも何かあったら、すぐに言いなさい」とまだ心配しているような言葉を掛けて来た。

「この花は……跡部達が来たのか?」
当然気付くだろうなと思って、リョーマはこくんと頷いた。
「お見舞いに来てくれたんだよ。練習で忙しいから、一旦は断ったんだけど……」
「あいつらのことだ。反対しても押し掛けてくるだろう。
ほどほどに相手すればいい」
「はい」
意外なことに、榊は皆が来たことを咎めているようでは無かった。
練習の時間を無駄にするなと怒るのかと思ったが、
リョーマの聞いた感じではそういうニュアンスが全く含まれていない。
良かった、と胸を撫で下ろす。


「入院している間は暇だろう。
新しい本を持って来たから、時間がある時に読むといい」
榊は鞄から袋を取り出し、リョーマの手に直接それを渡してきた。
新しい点字の本のようだ。
「ありがとうございます」
「全部読んだらまた新しい本を持って来よう。次は何がいいか、考えておいてくれ」
「いや、でもまだこの本も読んで無いんだから……もっと後になるかも」
5冊あれば十分な気もするけど、とリョーマは思った。
「そうか。読み終わったら、いつでも言ってくれればいい」
「はあ」
「ところで、そのお守りも跡部達からの見舞いの品か?」
ベッドに置いてあるお守りに、気付いたようだ。
リョーマは少し迷ったが、正直に答えることにした。
「ええっと、これは手塚さんから」
「手塚君から?彼もここに来たのか」
「違うよ。跡部さんが持って来てくれた。会場で会った時に、これを俺へ渡して欲しいって頼まれたんだって」
「……跡部が?」
榊は驚いたような声を出した。
珍しいことだったので、リョーマも一緒になって驚いてしまう。

「あの、何かまずかったっすか?」
恐る恐る尋ねると、榊は数秒沈黙した後「いや、そうじゃない」と言った。
「あまりに意外だったから、驚いているだけだ。
跡部がライバルに、塩を送るような真似よくしたな、と。本当に驚いた」
「ライバル?」
ああ、テニスのことかと納得し掛けるリョーマに、
榊は「色々な意味でな」と何故か笑みを含んだ言葉を使う。
「その内わかるだろう。しかしこれだけは言っておく。
跡部は誰にでもそのような親切を働く奴じゃない。特別な相手だけに限定される」
「……?」

首を傾げるリョーマに、榊がくすっと笑う。

「今は考えなくてもいい。手術のことにだけ、しっかり集中するように」
「はい」

また来る、と言って榊は病室から出て行った。
残されたリョーマは、本を握り締めて今言われた言葉の意味を考えてた。

(その内わかるって、何が?)
返って混乱するよ、と顔を顰める。

ベッドに腰を下ろす前に、お守りを手探りで探して本と一緒に枕元に並べる。
折角頂いたものだ。大事にしたい。

(それにしても、なんだったんだろう。笑っていたし。
跡部さんのした事が、そんなに可笑しいことか?)

渡して欲しいと頼まれたものを、手渡してくれただけだ。
そりゃ面倒だから断ることも出来たのだろうけど、跡部は律儀にここまで持って来てくれた。
誰にでも親切じゃないというけれど、友人には基本的に優しい人だとリョーマは思っている。
だから顔見知りの手塚の頼み事も承諾したんじゃないだろうか。

(特別な相手かあ……)

出会った時は確かに尊大で俺様な奴だと思っていたが、
親しくなっていくにつれて、そんな評価はすっかり消えてしまっている。
それ所か、今は誰にも見せてない弱音も跡部には晒せすことが出来る。
心配掛けまいと、家族にもずっと涙を見せることはしなかった。
けれど、跡部にだけはそんな虚勢も通じない。

『俺に嘘つくな。そんな顔で言っても、全部わかってるんだよ』
『お前のこと死ぬほど心配してる奴は沢山いる。俺もその一人だ』

あの時、思わず泣きそうになってしまった。
辛うじて堪えたのは、今涙を零したら後で帰った時家族に心配させてしまうからだ。
跡部の気持ちは勿論嬉しかった。本当に、触れた手を放したくないと思う位に。

(あれ……?)

なんか変だ、とリョーマは胸に手を当てた。
いつもより鼓動が早い気がする。
頬も熱くなっている?と、もう一方の手で体温を確認する。

(おかしいよ、やっぱり。なんで?跡部さんのこと考えると、こんな風になる訳?)

落ち着け、と深呼吸する。

よく考えてみよう。

跡部が自分じゃ行けない場所に連れて行ってくれたことも、
強がっていることに気付いて、弱音を吐いてもいいと言ってくれたことも嬉しかった。
それは友人として、だろうか。
友人からの言葉を思い出して、鼓動が早くなるなんてちょっと変だ。

(友人じゃないとしたら、ちょっと待てよ。
跡部さんに対してそれ以上の気持ちを持っているってこと?)

結論を急ぐにはまだ早い、とリョーマは大きく首を振った。
その前に、さっき思い付いたことを当てはめてみるべきだ。

忍足や手塚に恋人が出来ても、笑って祝福出来る。友人として。
これは間違いない。

でも、跡部は?
跡部に恋人が出来たら…?
きっと跡部のことだ。恋人が出来たら、ものすごく大切にするに違いない。
他の人なんて、見向きもしない位に。
そうして、どんどんリョーマから離れて行ってしまう。
一緒に色んな景色を見ようという約束よりも、大事なものが出来たのだから。

そこまで考えて、リョーマは胸の上に置いた手でパジャマをぎゅっと握り締めた。

(どうしよう。笑って祝福なんて出来ない。他の人には出来ても、跡部さんには出来ない)

行っちゃやだ、と強く思った。


2004年10月21日(木) 盲目の王子様 81 跡部 

青学の試合が終わってすぐに、跡部と忍足とジローの三人はリョーマがいる病院へ向かった。

「こんな貧相な花だけでいいのかよ」
「まだ、文句言ってんの?あのさあ、跡部が言うようなでかい花輪持って行ったらリョーマも困るよ」
「そうや。お前も少しは庶民のレベルで考えてみいや」
「……」

三人がお見舞いの品で購入したのは、花だった。
花の良い香りで、少しでもリョーマの気持ちが安らいでくれるかもしれないと提案したのはジローだ。
食べ物とかは手術前にNGだろうし、かと言って急に何を渡すか迷う所だったので跡部の忍足も反対することなく花屋へ向かった。
だがそこから問題が発生する。
花を買うというのなら、それなりに相応しいものが良いと跡部は店に置いてある薔薇を全て購入して贈ろうと言った。
それでも足りない位だ。
どうせ渡すのなら出来るだけ豪華に、中途半端では無く全力で、と思ったのだが、
ジローと忍足に大反対された。
「もー、そんなに持って行ってどこ飾るの?リョーマも迷惑に思うよ」
「持っていってから決めればいいだろ」
「あのなあ、なんでもむやみに購入すればええっちゅうもんやないで。とにかく却下や」
二人に言われ、お店の人からもお見舞いにそれはちょっと……と言われて、渋々跡部は思い直した。
結局、跡部じゃ話にならないということで店員とジローとで選んだ花束を購入することになった。
薔薇だけは絶対入れろとしつこく言った為、その意見は尊重して白薔薇が選ばれた。
それらを中心としてオレンジとピンクの花とで可愛らしく纏まっている。

「どうせまた明日も来るんでしょ?その時また何か持ってくればいいじゃん。
あ、でも病室に入りきらないようなでかいぬいぐるみとかも駄目だからね!」
「誰がそんなもの贈るか」
「お前ならその位やりかねんわ」
「……」

二人に言われて、跡部は項垂れた。
まっとうなお見舞い品など買ったことが無いから、どうしたら良いかわからないだけだ。

(癪だけど、こいつらの言うことも一理あるか)

リョーマにいらない気を使わせるような品なら、贈っても意味が無い。
認めるのは悔しいが、二人の方がこの件については全うな意見を持っている。従っておくべきだろう。


病室を受付で確認して、三人でリョーマの元へと向かう。
リョーマの部屋は3階の個室で、エレベーターから近い場所にあってすぐに到着した。
ノックをして所在の有無を確かめると、「はい、どうぞ」と中から声が聞こえた。

「リョーマ〜!お見舞いに来たよっ」
一番にジローが声を上げる。
「おいっ、静かにしろ」
他の部屋に聞こえる、と跡部は注意しながら次へと続く。
最後に忍足がそっとドアを閉めた。

「皆、試合お疲れ様」

リョーマはベッドに腰掛けていた。
窓側に体を向けていたのだが、三人が入ったと同時に向きを変えた。
病室の窓からわずかに西日が零れているのが、跡部の目に入った。

ここに座って、どんな景色なのか想像していたのかもしれない。
手術が成功したら、この夕陽を見ることが出来るのかと。
そんなことを考えて、座っていたのだろうか。

花屋で揉めたりせずに、さっさとここに来れば良かった。
1分でも側にいてやりたいのに。
つまらないことを主張して馬鹿だったな、と胸がちくっと痛んだ。

「リョーマ、聞いて聞いて!今日の初戦、勝ったんだよ!」
その間にジローが試合の報告を済ませてしまう。
「ジロー、ここは病院やで。ちょっと静かにな。他の患者さんに迷惑やろ?
「え〜!?」
「えー、じゃあらへん。すまんな、リョーマ。今すぐ静かにするから」
「忍足、てめえ!そう言いつつ何で越前の手を握り締めてんだよ、ああ!?」
ジローを注意しつつ、ちゃっかりリョーマの手を取って摩っている忍足を見て、跡部はさっと間に入った。
「ったく、油断も隙もねえ」
「あのー、跡部さん」
「どうした、越前」
「……声、大きいっす」

困ったように俯くリョーマを見て、しまったと思った。
今の声はかなり響いていたに違いない。
廊下の外まで聞こえた可能性は大だ。

「跡部、迷惑な行為は止めようよー」
「そうや。結局一番うるさいのまお前やな」
「お前ら…ここぞとばかり」

またふつふつと怒りが沸いてくるが、ここで怒鳴る訳にもいかない。
黙ってリョーマから離れて近くに置いてある椅子に腰掛けると、
ジローと忍足がしめたとばかりにリョーマにさっと近付く。
そして両サイドを占拠してちゃっかりベッドへ腰掛けてしまう。
「これお見舞いの花ーっ。皆で買ったんだよ」
「ありがとうっす」
「花瓶あるか?活けといたるわ」
「あ、多分そこの洗面所の側にあると思う」
リョーマが指差した先に、小さな備え付けの洗面所がある。
その下に、花瓶がぽつんと置いてあるのが見える。
「従姉が明日花を持ってくるっていうから、母さんが用意してくれたんだけどもう一個持って来てもらうよう言っておく」
「そうか」
「お前の親は?もう帰ったのかよ」
跡部が尋ねると、リョーマはこくんと頷いた。
「母さんは仕事があるし、親父はナースステーションをぶらぶらうろついて恥ずかしいから帰ってもらった」
「あのなあ、こんな時くらい一緒にいてもらったらどうだ?」
一人で入院なんて心細いだろうに、こんな時でも無理して平気な振りをするなんて信じられない。
知らず咎めるような口調で言う跡部に、リョーマは「本当に大丈夫っすよ」と笑顔を見せた。
「手術の日はついててくれるし、特に不自由も無いから心配することなんて無いって」
「そうか……?」
「うん」

思ったよりも元気そうなのは確かだ。
けど全く心細い訳でも無いだろうと、跡部は考える。

(俺に遠慮するなって、言ったのに……馬鹿だな)

忍足とジローがいるから、弱気なところを見せて心配させたくないと思ってるのかもしれない。
あまりこの場で追求するのも可哀想なので、仕方なく話題を変える。

「そういえば、会場で手塚に会ったぜ」
「手塚さんに?」
「それでこれをお前にって、手塚から預かった」
ポケットから取り出した紙袋を、リョーマに渡してやる。
「なんだろう」
包みから取り出したそれを、リョーマは興味深く指でなぞっている。
「リョーマ。それな、お守りや」
「お守り?」
「そうそう。手塚はリョーマの手術が成功しますようにっていう意味を込めて、これを買ったんじゃないかな?」
「ふうん」

興味深そうにリョーマはお守りを熱心に触っている。
少しおもしろくない。
けれど跡部は黙ってその行為を見守っていた。
例え手塚が贈ったものでもご利益があるのなら、それに越したことは無い。
跡部も、忍足もジローも手術の成功を祈る気持ちは同じだった。

「そういえば、手塚さんも今日は試合だったんだよね?」
「ああ」
お守りをベッドへそっと置いて、リョーマは小さく首を傾げる。
「青学と対戦することになりそう?」
「んー、多分ね。準決勝に上がってくるのは間違いないと思う」
「強敵やな。出来れば当たりとう無いわ」
「忍足、何弱気なこと言ってるんだ。相手が誰であろうと関係ないだろ」
「けど、跡部だって手塚の試合見た後ずっと黙ってたやん。
苦戦するなー思うたんと違う?」
「……」

忍足の言うことは当たってた。

今日の試合。
跡部や氷帝が見ているからだろうか。
青学の勝利が確定しているのにも関わらず、手塚は見せ付けるような技を繰り出し相手に圧勝した。
特に手塚ゾーンが厄介だ、と跡部は思っている。
今のところ攻略法が見当たらない。
だが負けるつもりで試合を挑む気は無い。この短期間になんとしてでも奴に勝つ対策を練るつもりだ。


「まあ、でもその前に準々決勝が先だな。
それに勝てば全国大会への出場は決まるんだから、そっちを優先するべきだろ」
「せやな。次のオーダー、監督はなんて?」
「さあ。まだ決めてないんじゃねえか?」

肩を竦める。実際、榊がどう考えているかはわからない。
青学戦を前に、オーダーをいじることだってあるかもしれない。

「皆。俺はここでしか応援出来ないけどさ。頑張って」
リョーマがぼそっと口を開く。
試合に来られないことを歯がゆく思っているよう表情だ。
そんなの、気にしなくてもいいのに。

「リョーマっ、ありがとう!俺、頑張るねー」
「今の言葉で元気出たわ。リョーマの言葉は魔法みたいやな。ああ、癒される……」
ジローのはともかく、忍足の妙な台詞に跡部は顔を顰めた。
恋愛映画が好きだと言っていたが、今どこぞの場面に自分を重ねているのかもしれない。
心の中でツッコミしつつ、跡部もリョーマの言葉に応える。

「十分だぜ。お前が応援してくれてると思えば心強い」
「大袈裟」
「んな訳ないだろ。皆、どれだけ嬉しいか。なあ?」
「うん!」
「跡部の言うことに賛成するのも珍しいけど、ほんまやで?」
「……」

にこっと、盲目の少年は顔を上げて笑った。

「ありがとう。
皆のこと、ここで応援し続けるから。
試合の時も届くくらいに、一生懸命心の中でエールを送るよ」
「リョーマ、俺絶対にその声に応えるよう頑張るからね!」
「俺もや。リョーマの声ならいつでも受信出来るようアンテナ伸ばしとくからな」
「忍足……また何かポエム口調になってるぞ…」

二人掛かりで抱きつかれて、リョーマは困ったようにでも笑っている。

その間になんとか入ってやろうと跡部は隙間を探すが、がっしり左右挟んでいる状態だから、どうしようもない。

しばらくは黙っていたが、とうとう堪えきれず「お前らいい加減にしろ!」と大声を出した所で、
見回りに来たナースが病室に飛び込んできて、結局三人揃って追い出されてしまった。


2004年10月20日(水) 盲目の王子様 80 跡部 


一回戦は氷帝学園の圧勝から始まった。
S1に回るまでも無い。
ダブルス二つとS3とで勝利が確定する。
沸き立つ氷帝側の応援とは逆に、相手チームは気の毒なほど落ち込んでしまっている。
全国への道を立たれたのだ。当然だろう。

(俺達だって、同じだ。負けたらあいつらと同じ立場になる)

都大会の時、それは嫌というほど味わった。
このまま終わりになるかもしれない恐怖。
その為にもどんな試合でも油断は出来ない。

「跡部〜、勝った勝ったよ!」
S2もジローの圧勝で終わった。ぴょんぴょんと飛び跳ねる姿は、テニスが仕方ないと訴えてるようだ。
「わかった、いいから落ち着け」
「うん。跡部も頑張ってね」
タオルで顔を拭いながら、ジローはチームメイト達の所へと駆け足で向かった。

初戦は全ての試合をする為、次は跡部の番だ。。
都大会では結局試合に出ることは無かったので、公式戦としてはこれが初めてとなる。
相手にやや物足りなさを覚えるが、この先いくらでも熱くなれる試合は控えている。
最初に準備運動するのも良いかもしれない。

(あーあ。緊張して、震えてやがる)

相手チームの部長は、もう帰りたいという顔して跡部から目を逸らしている。
気の毒だと思うけれど、手を抜くつもりは無い。

そう思って笑顔で手を差し出すと、何故か相手は泣きそうになりながら手を出し、指が触れる程度ですぐ引っ込めてしまった。




結局試合は始終跡部のペースで運び、相手が自滅したのもあって短時間で勝ちが決まった。

「終わってみたら、楽勝やったな」
「俺の華麗な技が決まったおかげだろ?あいつらびびっていたもんな」
「いや、岳人は飛び過ぎや」
「なんだとお?俺の飛び方に文句あんのか」
「無駄に体力使うと、後がばてるで」
「その前に勝負を決めればいいじゃんかよ」
「二人共いい加減にしろ」

揉めてるD2の二人に、跡部はストップを掛けた。
「監督からの支持だ。青学がまだ試合しているから、見て来いだとよ」
「青学〜?俺もう帰って休みたいのに」
ぶちぶち言う向日に、宍戸が「相手の試合を見るのも大事だろ」と言う。
「この先当たる可能性が高いからな。見ておいて損は無いな」
「そうですね、宍戸さん」
「鳳は宍戸の言うことなら全部賛成なのかよ…」
「とにかく監督にも言われたんだから、行くぞ!」
レギュラー達に声を掛けた所で、跡部は気付いた。
「ジロー…もう寝てんのか」
ぐっすりと眠ってるジローに、やれやれと肩を竦める。
「仕方ねえ。樺地、運べ」
「ウス」
集合した時と同じように、樺地は片手でジローをひょいっと持ち上げた。
「てめえら、行くぞ」
「ウス」
返事をしたのは樺地だけだったが、構わず歩き出す。
他の皆も後からついてくるのは、わかっているからだ。
青学との試合はほぼ確定なはず。
無視して良い相手じゃない。
監督の指示で何人かの部員が試合をビデオで撮っているだろうが、自分の目で見て確認出来ることだってある。
今からだとダブルスの試合は終わっているだろうが、シングルスなら間に合うかもしれない。



急ぎ足で向かうと、ちょうどS2の試合が始まっている所だった。
「なんだ、まだ終わってないのかー。たいしたこと無えんじゃないのか?」
「けどダブルスとS3取って、勝ちは決まってるで。やっぱり準決勝は青学が本命か」
「S2は河村か…。あいつたまに不二と組んでるんじゃねえのか?」
「今回のオーダーはどうだったんでしょうね。確認しないと……」
皆が喋り始める中、跡部は金網の向こうからの視線に気付いて、顔を上げた。

(手塚……)

こっちを睨んでいるように見える。
隣にいる不二は楽しそうに笑って、手まで振って来た。
何か参考になる?と言いたげな表情だ。全く、腹が立つ。

むっとしていると、何故か突然手塚が動き始める。
S1の試合を前にしてアップしに行くのだろうか?
そう思っていたのだが、手塚はコートの周囲をぐるっと回ってこちらに近付いて来た。

「おい、あれって手塚じゃねえのか?こっちに向かってるぞ」
向日が指を差して声を上げる。
忍足もその他の連中も驚いた顔をして、青学の部長がダッシュで走って来るのを眺めていた。

「跡部!」
手塚は声を上げて、真っ直ぐ跡部の前にやって来た。
「なんだよ。てめえ、今から試合じゃないのか」
一体何しに来たのだろう。
不二に言われての行動かもしれない。
警戒しながら尋ねると、手塚は「会えて良かった」と驚愕するようなことを口にする。
「何言ってんだ、お前」
頭でも打ったのかと、跡部は心配した。
そういう台詞はリョーマに言うべきものだろう。
試合を前にして緊張で妙なことを口走っているとしか思えない。
だが、手塚は更にまた追い討ちを掛けて来た。

「いや、ここで会えなかったら氷帝に行くつもりだった」
「……」
真面目な顔をして言う手塚に、引いてしまう。
周囲もどう反応したら良いか、困っているようだ。
「お前いつから俺のストーカーになったんだ。越前はどうした」
やっとのことで口にすると、手塚は「え?」と首を傾げる。
「え、じゃねえよ。たった今、会いたかったとか気味の悪いことを言ってたじゃねえか」
「ああ。それは、…」
ごそごそとジャージのポケットから、手塚は小さな紙袋を取り出した。
「これを受け取ってくれないか?」
「……」
先ほどよりも更に遠くに引いてしまう。跡部自身だけじゃなく、周囲も同じ気持ちでさっと距離が空けられる。
頼むから俺を置いて行くな、と跡部は心の中で叫んだ。

「それはどういうつもりだ。プレゼントとか言ったら吐くぞ」
「そのつもりだが」
「手塚っ!?」
絶対不二が何かしたに違いない。黒魔術か、実験かのどちらかだ。
越前を後を追いまわしていたお前はどこに行ったんだと、頭を抱えそうになる。

「これを、越前に渡して欲しい」
「いいか一時の気の迷いで……って、え、越前?」
「そうだ。越前へのプレゼントだ。もう入院しているのだろう?あの子に渡してやって欲しい」
「……そういうことかよ」

紛らわしい、と跡部は脱力しながら呟いた。
色々主語が抜けているから、混乱してしまった。
会話というものが何か理解していないな、と手塚を睨みつける。
が、本人はまるでわかってないらしく「どうかしたか」と目を瞬かせるだけだ。

「もう、いい。越前に渡せばいいんだろ」
「ああ、頼む」
「けど…てめえで直接渡さないのかよ?」
手塚ならリョーマにきちんと手渡しするかと思っていた。
プレゼントを渡すという理由でお見舞いに行く理由にもなる。
会いたいはずなのに変だなと思って、手塚に尋ねてみる。

「そうしたいのは山々だが、今は遠慮しておく。
次に彼と会うのは手術が終わってからだ。成功を祈っていると、伝えてやって欲しい」
「自分で言えばいいだろ。今まで散々押し掛けて行ったくせに、なんだよ」
跡部の言葉に、手塚はふっと笑った。
「そうだな。でも、今は静かに成功を祈るだけだ。
俺の気持ちは伝えてあるからな。誰かと違って、あたふたする必要は無いという訳だ」
「てめえ……」
涼しい顔をする手塚に、跡部は耳を赤くした。
にぶい奴だと思っていたのに、とっくに気持ちはバレていたようだ。
いや、不二に吹き込まれただけかもしれないが。

「術後の越前に、勝利を知らせるのはお前か、俺か。
準決勝が楽しみだな、跡部」
「俺達は負けねえよ。そっちこそ油断して次でコケんなよ」
「その言葉、そっくり返す。そろそろ試合が始まるから、じゃあな」

また走って手塚は青学の陣営へと戻って行った。



「なあなあ、手塚が来たのって何の用だよ。受け取ったのって何だよ」
好奇心に満ちた顔で、向日が跡部の手を覗き込んで来た。
「これ、お守りか?」
袋に書かれた文字に、一緒に覗き込んで来た忍足が声を上げる。
「さっきの変な会話、なんだったんだよ」
「ちょっと妙な空気でしたよね」
宍戸と鳳は少し顔を引き攣らせている。
手塚の言い方の所為で、誤解を招いたようだ。
「知らねえよ。あいつ、あまり人と話しするのが慣れてないからおかしな言葉遣いになってるみたいだな。
言っておくけど、お前らが考えているようなことは無えぞ」
「だよなー。でも驚いたっ。跡部に会いたいとか言うからさあ」
けらけらと笑う向日に、跡部は肩を落とした。
本当に人前で言葉を発する時、注意して欲しいものだ。

「手塚……リョーマの為にと思って買うて来たんやな」
「ああ」
ひそっと耳打ちして来た忍足に、頷く。
「青学の試合が終わったら、病院行くって知ってたんか?」
「さあな。けど俺達が顔を合わせること位はわかっているだろうな。
格好つけずに、あいつも会いに行けばいいのに…。ぼけてんのか、気遣っているのか訳がわからん」

悪い奴じゃないのはわかる。
けれど言動や行動が突飛過ぎて、困ることがある。
好きだと言われている越前は、どんな風に思っているのだろう。
ふと、気になった。




そうこうしている内にS2の試合が終わって、
いよいよ手塚の出番が回って来た。
さっきおかしなことを口走った奴と同一人物とは思えないようなスカした顔で、コートへ登場する。

(見せてもらうぜ、手塚)

おそらく準決勝で当たるだろう相手の試合を前にして、
無意識に受け取ったお守りをぎゅっと握り締めた。


2004年10月19日(火) 盲目の王子様 79 跡部 

関東大会初日。
ジローを樺地に迎えに行かせたのは、正解だった。
こんな大事な日に遅刻させる訳にはいかない。
そう思って、樺地を派遣させたのは跡部の指示だった。
忠実な後輩は「ウス」と聞き分けの良い返事をして、跡部が命令した通りの行動をした。
「ウス」
片手で樺地はぐうぐう眠っているジローを跡部の前へ差し出す。
「ご苦労だったな、樺地。そいつをそこに置いてやれ」
「ウッス」
樺地が手を放すと、どさっとジローは芝生の上に転がった。
「いたい……」
小さく呻いた後、再び眠ろうとする。
その様子に周囲が呆れたように顔を引き攣らせた。
跡部もため息をついて、ジローを起こしに掛かる。

「おい、ジロー!今日は大会だっていうのを忘れたのか?起きろ!」
「ん〜?大会?」
寝ぼけた声を出しながらも目を閉じたままのジローに、どうしたものかと考える。
そして良いアイデアが浮かんだ。
大声を上げても起きないが、これなら効果ありそうだ。
そしてこそっと、ジローの耳元で囁く。
「越前の見舞いの時間だぞ」
「えっ!リョーマの所に行かなくちゃ、待って待って跡部!」
がばっと起き上がるジローに、ここまで効果あるものかと跡部は苦笑した。
「バーカ。何夢見てんだよ」
「え?あれ?」
「さっさと起きろ。整列までもう10分も無いぞ」
「でもリョーマの所……」
状況がよくわかっていないらしい。
はあ、とため息を漏らして跡部はこんなこともあろうかと、用意しておいた濡れたタオルを持って、
ジローの顔に押し付けた。
「しっかりしろ。今日は大会だって言ってるだろうが」
「あ…、そっか」
ごしごしとタオルで顔を拭いて、ジローは「ありがとう」と礼を言った。
「試合はすぐ?」
「お前はS2だから少し後だ。それまでアップしておけ」
「は〜い」
欠伸しながら答える仕草に不安を覚えるが、とにかく試合さえ始まればジローも起きるだろう。
とりあえず遅刻さえ免れればそれでいい、と跡部は肩から力を抜いた。

「跡部、なんかジローのおかんみたいやな」
「忍足、てめえ」
笑いながら、忍足が近付いて来た。
ぎろっと睨むが、その表情は崩れない。
「お前もチームメイトなら、少しはジローの面倒を見たらどうだ」
「それは部長の仕事やろ」
「俺は保育士でもなんでもねえんだよ。ふざけんな」
「とか言う割りに、きっちり面倒みてるやんか。
ま、試合を勝ち進む為もあるか。ジローもあれでいて試合の時はすごい力発揮しよるし」
「まあな。そうじゃなかったら、放置してる所だ」
頷くと、忍足はニヤアと嫌な笑顔を見せてきた。
「そうか?今のお前なら、結局面倒見るんとちゃうか?」
「はあ?何言ってるんだ」
「別に。…ただ、もう他人を簡単に切り捨てられるような、そんな以前のお前はおらへんって言いたいだけや」
「俺が腑抜けたとでも言いたいのかよ」
「まさか」
ぽん、と忍足は肩に手を置いてきた。
「ええ方に変わったっちゅうことや。おかげでチームも纏まったみたいやしな」
「はあ?」

忍足が指差す方向に、レギュラー達が揃っている。
「跡部っ。今日は気を楽にしてやっていいぜ。D2でまず一勝確実だからな。
あれだけ練習させられたんだ。その成果を存分に発揮してやるからな」
「向日…」
屈伸をしてた向日が、その場でぴょんと高く飛ぶ。
早く試合したくてたまらない、そんな顔をしている。
「俺達も負けていられませんよね、宍戸さん」
「当然だろ。跡部、俺は絶対負けないからな!必ず氷帝に勝利をもぎ取って来てやる」
「二人共そんなに気負うなよ」
やたら張り切ってる鳳と宍戸に、苦笑しつつ一声掛ける。
「ウス」
「なんだ、樺地?」
「ウス」
「そうか。今日もいつも通り頑張れば、勝てる。わかったか?」
「ウス」
「今の会話か?なあ、全然っわからんわ」
「うるせえ。俺がわかればそれで良し、だ」
頷く樺地に、跡部も満足そうに腕を組む。
「別にやる気出すのは構いませんが、精々足元掬われないよう気をつけて下さいよ。
俺はさっさと下克上するんで」
「日吉…相変わらずだな」
「部長の試合、楽しみにしてますよ。あれだけの練習量まで引き上げといて、無様な所見せないで下さいね」
「そんな訳ないだろ。俺は、この先一つも負けるつもりはねえよ」
「ふん……」
面白くなさそうに横を向いているが、口元は僅かに綻んでいる。
素直じゃねえなあ、と跡部は思った。
下克上だのなんだの言っているが、日吉が自分達レギュラーの実力を認めてることは知っている。
目標にされているんだと思えば、別に何言われようが気にもならない。


「皆、集まっているようだな」
「監督!」
この暑さの中、きっちりとスーツを着込んだ監督が現れた。
「関東大会の組み合わせから見て、初戦と二回戦は負けることは無いだろう。
だが準決勝に青学が勝ち進んで来たら、どうなるかはわからない。
諸君、今までの厳しい練習を思い出してこの大会に全力をぶつけて欲しい。
そうすればきっと負けない。自信を持っていい」
「はい!」
「整列の時間だ。全員、行ってよし!」

監督の声に、皆がコートへ向かう。

(始まるな。全国への一歩が――波乱の関東大会が始まる)

勝ち抜くことは勿論だけれど、跡部はここにいない盲目の少年のことを考えていた。

全部勝利して、彼にその結果を伝えに行く。
勝って勝って、勝ち続けて。
それを伝えたら、リョーマはきっと「おめでとう」と言って笑ってくれるから。
手術への恐怖を紛れせる為にも、あいつを笑顔をさせたい。
氷帝の勝利だけじゃなく、リョーマの為にも。

(俺は勝ち続ける……相手が手塚だろうと誰だろうと負けはしない!)

空を見上げて、逸る気持ちを抑えるように息を吐く。
早く勝って病院に向かってしまいたい、そんな心をぎゅっと押さえ込んだ。


それだけで整列していた相手チームは何か勘違いして、
顔を引き攣らせて動揺し始める。
楽勝そうだが油断は禁物だ。
向日と忍足に喝入れておくか、と跡部は小さく頷いた。


2004年10月18日(月) 盲目の王子様 78 跡部 

都大会を目前にして、レギュラー専用の部室はぴりぴりとした空気が広がっている。
例外はただ一人。
「ねえねえー、リョーマへのお土産はファンタとー、えび煎餅と他に何がいいと思う?コンビにで買えるもので他あるかな?」
「ジロー……今は空気読んだ方がええで」
「え?何?何かまずいこと言ってる?」
大きな声で騒ごうとするジローの口を、忍足は慌てて塞ぐ。
「明日から都大会やろ。皆の気持ちも察して、な?」
「……」
こくんとジローが頷くのを見て、塞いでいた手を放す。
その様子を見て、日吉が呆れたようにため息をついた。
「呑気でいいですよね。うかうかしている間にさっさと下克上するから、俺は構わないんですけど」
「日吉、そう言うなや。ジローも大会が大事やってこと位は理解しとるで」
「どうですかね」
鞄を掴んで、日吉はさっさと部室から出て行こうとする。
「お先に失礼します。俺はまだ一人で練習したいことがあるんで」
「あ、ああ」
可愛くない後輩だが、その努力は認めている。
正レギュラーを目指して、日吉が頑張っているのはわかるが、
あの下克上はなんとかならないかと忍足もジローも顔を見合わせて小さく笑った。
「俺もお先に。ちょっと寄ってく所があるからな」
「ふーん、デートか?」
全然興味無さそうに言う忍足に、向日は何故か嬉しそうに「違えーよ」と答える。
「そんなに頻繁に会ってるように見える?まあ、当然かもしれねえけどな」
「誰もそこまで言ってへん……」
「最近毎日、一緒に帰ってるしなー。俺の帰る時間に合わせてくれてるんだって。
あっちも部活忙しいけど、出来るだけ一緒にいたいって。そう言われたんだよなー」
「忍足、岳人聞いてないよ」
「せやな」
うんざりとした顔をする二人に構うことなく、向日は自慢話をそれから5分程した後、
「あ、そろそろ行くわ」と急に態度を変える。
「明日は大会初日だから、バンジーでもやって気合入れようかと思って。
その分、彼女とは後で電話することになってるけど、一日会わないとやっぱり調子狂うと思うか?」
「どっちでもええ。早う行って来い」
「ああ、そうする」
「……」
相変わらずな向日の様子に、二人共無口になった。

「お前らも早く帰って休めよ。明日は大会なんだからな」
「宍戸、お前ももう帰るんか?」
「ああ」
残って自主練習するかと思ったが、意外にも切り上げて帰るようだ。
「監督の行った通り、明日に疲れを残したら元も子も無いからな。
帰るぞ長太郎」
「はい、宍戸さん」
宍戸の言葉に従うようにいそいそと付いて行く鳳の姿は、忠実な大型犬のように見える。
あれはあれで息ぴったりみたいだ。

「俺らも行くか」
「あれ、樺地は?」
この場にいない大柄の後輩に、ジローは首を傾げる。
「樺地なら跡部の荷物持って出て行った。
監督に呼ばれたから、持って来いって命令に従ったんやろ。
きっとそのまま帰るはずや」
「ふーん、じゃあ行こうか。跡部は後から来るんだよね」
「そうや。別に来る必要無いのになあ。今日位譲ってくれてもええのに」
ぶちぶち言う忍足に、ジローは宥めるように肩を叩く。
「跡部だって、リョーマを見送りたいって気持ちがあるんだからしょうがないよ。
さ、コンビに行こう?」
「ああ」

意気揚々と歩くジローを、忍足も早足で追い掛けた。

明日からリョーマは手術に備えて検査が沢山あるとかで、入院してしまう。
こちらも大会が始まるから、毎日会うのは難しい。
だから今日は三人で快く送り出してあげようという話になっている。
いつも通りの越前の訪問とはちょっと違って、リョーマの手術成功を祈る為の集まりだ。


跡部は連日榊と打ち合わせをしている為、遅れることは予め決まっていた。
最終的に決まったオーダーに納得をして、頷く。
「わかりました。初日はこの順番ですね」
「ああ。特に芥川に注意しておいてくれ。どこかで居眠りをして遅刻するようなことだけは避けるように」
「はい」
軽く頭を下げて、跡部は立ち上がった。
用件はこれで終わりだ。
今から越前家に向かって、リョーマに纏わり付いているだろう二人を剥がしてやらなければならない。
「跡部、ちょっといいか」
「は、はい?」
行ってよしと言われるかと思ったのに、話し掛けられて声が裏返る。
一体なんだと恐る恐る顔を上げると、思ったよりも榊は穏やかな表情を浮かべていた。

「大会とは関係ない。越前リョーマのことだ」
「……」
何かやらかしただろうか。
また注意されるような何かはした覚えが無い。

(告白も我慢してるから、問題は無いはずだぞ!?)

ぐるぐると頭の中で考えていると、ふっと笑われる。
「別に叱ろうと言う訳じゃない。ただ、礼を言いたかっただけだ」
「礼、ですか?」
意外な言葉に目を見開くと、榊は静かに頷いた。
「私はあの子の為に出来るだけ良い環境を与えてやりたいと思った。
問題が何も無いようにしたかった。
だから変な興味を持って近付く輩は排除したい、そう考えてた」
「それは自分のことですか?」
思い切って尋ねてみた。
そう思われても仕方ないかもしれない。
あの時、リョーマが写っていたビデオを偶然見てしまった。
その一件で榊が警戒するのも無理は無い。
「ああ、そうだ。
越前がテニスをしているのを知って、好奇心から近付くのなら許せないと思った。
彼のプレイは人を惹きつける。だが今はテニスをすることが出来ない状況だ。
もしその傷を抉ることがあったらと、私はそれを恐れた」
「……」
「だが、違っていたようだな」
「え?」
榊の柔らかい笑みに、跡部は一瞬きょとんとした表情を浮かべた。
「越前の様子を見ていればわかる。
あの子はあんな事があって、他人を拒絶している風さえ感じた。
でも今は違う。お前と出会ってそして、他にも交流を深めて。
良い方向へ行ってるんだとわかる」
「監督」
「以前は注意などして私が悪かった。
結果的にお前達と仲良くなれたことで、あの子は強くなってる。
だからこれからも、支えになってくれ」
「あの……!」
思わず声を上げる。
もっと落ち着いて喋るべきかもしれない。
でも止まりそうに無かった。

「俺は、あいつのことが好きです」
「……」
「今はまだ何も言っていません。あいつは何より手術を優先するべきだとわかっているから、伝えることは出来ない。
でも、全てが終わったら打ち明けるつもりです。
俺の正直な気持ちを全部告白します」
「それで?」
「それで、って……」
榊は軽くため息をついた後、指をコメカミに当てた。
「私の許可を取る必要は無い。面白半分でそのようなことを言うのなら反対するが、そうじゃないんだろう?」
「勿論。俺は真剣です」
「だったら勝手にすればいい。後は越前次第だ」
「そう、ですね」
「話は終わりか?」
「はい」
「ご苦労、行ってよし」
そのまま目も合わさず机の上に出した書類を片付け始める榊に、
もう一度礼をして跡部は部屋を出て行った。

(冷静に考えると、監督に向かってよく言えたな…)

今頃になって、汗が吹き出て来る。
許可がどう、とかそういう訳じゃないけれど、監督に言っておくべきだと思っただけだ。
あの人は本気で越前リョーマという子供の将来を明るいものであるようにと願っている。
そんな監督に真摯な気持ちで向き合いたい、こそこそ告白するのは卑怯かと思ったからだ。

(反対されたら、どうしてたんだ……全く、馬鹿だな)

越前次第だと、リョーマの気持ちを尊重することを選んでくれたから良かったものの、
下手したら告白出来なくなる所だった。
これからは発言は慎重にしよう、と手で汗を拭う。

(さて、越前の家に向かうか)

着替えは終わっているから、このまま真っ直ぐ向かうだけだ。
樺地に行って用意させてた荷物は、音楽室にきちんと揃えられている。
それを持って、下駄箱へと向かう。

ここからリョーマの家は5分と掛からない。
走ればもっと早くに着くだろう。

だが跡部は少し考えた後、逆方向へと向かって走り始めた。
ただの勘に過ぎないのだけれど、何故かこの行動が正しい気がする。
向かった先に越前がいるような、待っているような予感。

走って走って、跡部はこの前越前が立ち尽くしていた場所に辿り着く。


「越前……!」
彼はまたそこに立っていた。
何度も変わる信号。でもそ歩んで行くことなく、見えない目でその先を映して。
ただ立っている。

「跡部さん」
名前を呼ばれたリョーマが、ゆっくりと振り返る。
「まだ部活が終わるには早い時間じゃなの?」
呑気な声で言われて、跡部は肩を落とす。
「今日は大会前だから基礎練習のみなんだよ。それよりお前はなんでこんな所にいるんだ。
忍足やジローが家で待ってるんじゃないのか」
「あ、そうかも。いつもより早いなんて思ってなかったから、少しの間と思って散歩に出たんだけど」
悪いことしたな、と呟くリョーマに、跡部は笑って答えた。
「あいつらなんて待たしておけばいいだろ。そもそも予定が繰り上がったのも監督の気まぐれみたいなもんだし」
「そうなんだ?」
「ああ」
「でも、もう帰らないとね……」

静かに言った後、リョーマはまた信号を超えた向こう側を振り返る。
決して一人だけでは歩けない場所。
手術が終わったらその先を行けるようにと、願う為にここに来たのだろうか。
こんな時でもたった一人で。
きっと他に誰も知らない。
前に進めないことの辛さを、リョーマがここで噛み締めているなんて。

(一人で背負うこと、無いのにな…)

強くあろうと頑張っている、それはわかる。こんな状況でも家族にすら泣き言を言わないように、必死で前に進もうとしている。
人に見せないようにしているだけだ。
でも本当は弱い部分を隠し持っている。
わかっているから、だから。

「越前」
「何?」
「大丈夫か?」
そっと、彼の手を掴む。
「大丈夫って、なんのこと?別に俺は何も」
「俺に嘘つくな。そんな顔で言っても、全部わかってるんだよ」
「……」
「けどお前が弱音見せたくねーって頑張ってるのがわかるから、俺からは言わない。
でもな、越前。これだけは覚えておけ。
お前のこと死ぬほど心配してる奴は沢山いる。俺もその一人だ。
そんなお前が悩みを抱えてて何も出来ないって、それも辛いんだぞ。
苦しかったら吐き出せばいい。心配掛けるからとか、そんなつまらないこと考えんな。
少しでもお前の持ってる苦しみを抱えてやりたいって、考えるのは傲慢か?
なあ?俺達は、俺はお前に何も出来ないままなのかよ」

長い沈黙の後、リョーマは首を振った。
「そんなこと、無いよ」
「越前」
「跡部さんがここに来てくれただけで、嬉しかった。嬉しかったよ」
小さな手がぎゅうっと握り返してくる。
「ありがとう。差し伸べてくれるこの手が、俺にとってどれ程支えになってるか。
本当だよ?」
「……」
「でもね、ちょっと怖いなって思うこともある。ほんの一瞬だけど」
「ああ」
リョーマの漏らした弱音に、跡部はもう一方の手も重ねて聞いた。
「失敗したらどうしようとか。考えるべきじゃないのもわかってる。
でも、もしかしたらってこともあるよね」
「……」
「不安はそれだけ。はー、全部言えてすっきりした!」
口調をがらっと明るく変えて、越前は笑顔を浮かべる。
「誰にも言うつもり無かったのに、跡部さんが真剣に言うから…隠せなかった。
ずるいよねー」
「どこがずるい。俺は思ったことを言っただけだ」
「だから、そういう所。わかってて言ってるのかなあ」

リョーマがくすくす笑う訳がわからず、跡部は首を傾げた。
が、すぐ気持ちを切り替えて、伝えたいことを耳元で囁く。
今は少しでもリョーマの心を軽くしてやりたい。
それしか考えられない。

「退院したら、一緒にこの道を歩こう。
なんの変哲も無いただの道だけれど、お前と一緒ならそれも楽しそうだ。
どうだ、約束しないか?
お前に見せたい景色は、ここ以外にも沢山ある。俺と一緒に、色んな場所探しに行こう」
「……うん、そうだね。楽しそう」
「じゃあ、約束したからな。破るなよ」
「そっちこそ」

笑いあって、そしてリョーマの腕を取って今度こそ家に向かって歩き始める。

少しでも彼の不安を解消出来ただろうか。
たったら良いのだけれど、それすらも隠して笑っているんじゃないかと思って心配になる。
自分の口から出た言葉がリョーマの心にある不安を全部照らして消してしまえばいいのに。
そんなことを考えた。


2004年10月17日(日) 盲目の王子様 77 リョーマ

手術の日が決まったことを榊に伝えに行くと、
「そうか、良かったな」と短いが歓喜の篭った言葉が返って来る。

「まだどうなるかはわからないんだけどね」
「きっと成功する。私は君が再びテニスが出来ると信じてる」
「本当に……先生が最初にそう言ってくれたから、救われました」

この学園に連れて来てくれて、世話をしてくれた榊にリョーマは深くおじぎをして礼を口に出した。

「あのまま向こうにいたら、きっと絶望して何もかも放り出していたかもしれない。
全部先生のおかげです。ありがとうございます」

もうテニスが出来なくなるかもしれない。
落ち込んで、周囲からの声に絶望して。
膝を丸めていた自分に、榊が手を差し伸べてくれた。
最初は拒絶した。
でも、「君はテニスをしたいんじゃないのか。諦めていいのか。俺はもう一度君がコートに立っている姿が見たい」と根気良く外へ引っ張って行ってくれた。
感謝の言葉をどれだけ口にしても、足りない。

「前も言ったが、礼などいらない。君の手術が成功したら、氷帝のテニス部に入ってもらう。
そういう約束をしただけだ」
「それでも、先生のおかげです」
素っ気無い風を装っているが、本当はどんな顔をして言っているのだろうとリョーマは思った。
父親は無愛想な奴と言うけれど、声の暖かさからそんな事は無いと想像している。
手術が成功したら、きちんと目を合わせてまた「ありがとう」と伝えたい。

「先生がいなかったら氷帝に入ることも難しかっただろうし、頑張れたかどうかもわからない」
「それはどうだろう」
「え……?」
榊がふっと笑った気がして、リョーマは首を傾げる。
何か変なことを言っただろうか。
考え込んでいると、「頑張れたのは、私がいたからだけじゃないだろう」と返される。
「他にもいるんじゃないのか。君の周囲には色々と、人が集まっているようだな」
「はあ……」
跡部達のことを言っているらしい。
手塚の一件を思い出して、リョーマは小さく首を竦める。
揉め事を起こしている訳じゃない。一緒に家へ上げたけれど、あの時はああするのが一番良いと思った。
でも榊は忠告を聞かずに、勝手なことをしてと怒っているのかもしれない。
どうしよう…と悩むリョーマに、榊がふっと笑う。

「咎めている訳じゃない。ただ日本に来る前は誰も親しい友人はいるようには見えなかった。
その時と比べるといつの間にか笑顔が増えて来た。
多分それは私がいるからじゃないだろうな」
「……」
たしかに向こうでは友人などいなかった。
テニスだけ。他にはいらないとまで思っていた位だ。
そしてこうなった時でさえ、榊は別だが人の手は借りないと虚勢を張っていた。

『そんなんじゃいつまでも家に帰れやしねぇぞ』
『送ってやるから大人しくしてろ』

大嫌いだったはずの奴が、何故か強引に杖を持たない自分を引っ張ってくれた。
あっけに取られた所為もあったけれど、すんなりとその好意を受け取ることが出来た。
きっとあの日は自分にとって何かの転換だったと思う。
拒絶することしか考えていなかった、それを変える切っ掛け。

『きっと考えるよりも前に、自然と行動に出るんだろうな』

跡部の言う通りだ。
可哀想に思われているからとか、同情なんていらないとか考えていた自分が恥ずかしい。
悪意ばかり見出そうとして、そこにある好意を拒絶するなんて愚かなことだ。

「そう、かもしれません」
榊の言葉に、リョーマは頷いた。
「良い人達と巡り合えて、すごく幸せなんだと思う。
だからここに連れて来てくれた先生は、やっぱり俺にとって恩人です」
「そう、何度も言うな」

ひょっとして榊は照れているのかもしれない。
なんとなくだが、声のトーンからそんな気持ちを察する。

「そろそろ時間だな。越前、済まないが退室してもらえるか」
「うん、忙しい所に押し掛けたのはこっちだから。でもどうなったのかだけは、絶対自分の口で報告したかったんだ」
「ああ。当日は大会と重なっているから遅れるが、必ず見舞いに駆けつける」
「はい」

一礼して、外へと出る。
大会を前にして多忙な榊と話を出来るのは、今日位だと思ったので会っておきたかった。
話が出来て良かったと、満足そうにリョーマは歩き出した。
そして向こう側から近付いてくる人物の足音に、耳を澄ます。

「…跡部さん」
「やっぱりわかるのか」
「うん」
すげえなと言いながら、跡部が近付いてくる。
学校の廊下でも、知り合いの足音なら大体聞き分けることが出来る。
特に、この人なら絶対に間違えない自信があった。

「監督に用事だったのか?」
「うん。でも話は終わった。手術の日がいつか、話に言っただけだから」
「そうか」
「跡部さんは今から先生と打ち合わせ?大会前で大変だね」
「ああ…。やる事いっぱいあって、疲れる。けど、頑張らないと勝てないからな」
ふっと跡部が漏らした一言に、リョーマは思わず「大丈夫」と言ってしまう。
「越前?」
「あ、いや…なんとなく。跡部さんなら大丈夫って気がしたから。
簡単に言っちゃってごめん」

勝負の世界はそんな生易しいものじゃない。
部外者が何言っているんだろうと小さくなるが、
跡部は笑ってから優しく頭を撫でて来た。

「そうだな。でもお前が応援してくれるのなら、大丈夫って気になれるかもしれねえな」
「え?」
「なんだ、応援してくれないのか」

心なしか寂しそうな声に、リョーマは首を大きく横に振った。
「そんな訳無いじゃん。応援してるよ。当然じゃん」
「いやに力込めて言うんだな」
「だって、本当のことだから!」

思わず大きな声を出してしまう。
榊に聞かれたかと思ったが、音楽室は完全防音だと前に自慢してたことを思い出す。多分大丈夫だろう。
良かったと胸を撫で下ろした。

「本当に応援してるから…頑張って」
「ああ。サンキュ」
見えないけれど、跡部が微笑んでいる気がする。
嬉しくなって、でもそれが見えないことが少し悲しくて、ぎゅっと杖を握り締める。

「おい、どうした?」
「う、ううん。別に。直接応援出来なくて残念だなって」
「気にすんな。そういえば、いつから入院するか聞いて無かったな。いつだ」
「今週末から。そのまま手術して、しばらくいると思う」
終業式には出られないが、今は手術の方が優先だ。
そのまま夏休みの半分は病院で過ごすことになる。
つまらないが、こればかりはどうしようも無い。
「そうか。じゃあ、また面会時間とか詳しいこと聞きに行くからな」
「うん」
「監督待たせるとうるさいから、もう行くけど。
気をつけて帰れよ」
「平気。部活、頑張って」
「ああ。じゃあな」

気配で彼が手を振っているのを感じる。
リョーマも杖を持ってない手を軽く上げて、ゆっくりとその場を歩いて行く。

(言いたいこといっぱいあった気がするんだけど…)
ジローと忍足にも以前の自分を打ち明けたこととか。
跡部のおかげでジローや忍足という良い友人達と巡り合えたことへの礼とか。
他にも何か話をしたかったけど、上手く言葉が出て来なかった。
(なんか調子狂う。今度会う時はきちんと出来るよね)

変だな、と考え込みながら廊下を歩いて行く。
その感情がなんなのか、まだリョーマは気付いていない。


2004年10月16日(土) 盲目の王子様 76 ジロー

放課後の部活が始まる前、ジローはふらふらと頼りない足取りで歩いていた。

「跡部の奴〜、無理矢理起こしたりするから調子出ないんだけど。
朝も樺地使って迎えに来るし…。酷いよ」

何よりも大好きな睡眠を邪魔されて、ぶつぶつ文句を唱える。
それでもちゃんと起きて部活に向かうのは、今度の大会が大切だからとわかっているからだ。
昨日、跡部は青学の二人に宣戦布告をした。
あっけに取られてしまったが、それに触発されたのも事実だ。
たしかに寝ている場合じゃない。
今までの分取り返さなくちゃと、ジローなりに頑張って目を開けてこうしてコートへと向かっている。

もう少し、という所でベンチに座っている人影に気付く。
最初に出会った時と同じように、耳を澄ましているかのような姿勢を取って座っている。
間違いなく、リョーマだ。

「リョーマっ、今日は帰りがゆっくりなんだ?」
ちょっとだけと声を上げると、盲目の少年はゆっくり顔を上げた。
「ジロー……?」
「うん。リョーマ、ここで休憩してんの?」
あちこちに植えられている木々が、ちょうどベンチに影を作っている。
まだ暑いが、ここだったらいく分マシだろう。
それにしても、学園の中の方が快適だろうに。
何故リョーマはここに座ることが多いのだろう。
不思議といえば、不思議だ。
ジローは、ぱちっと瞬きした後質問を口に出した。

「リョーマ、こんな所で座っていて暑くないの?
夕方だけど気温はまだ高いし、教室にいた方がいいと思うんだけど、
なんでここに来るのかな?」
「……」
ジローの問いに、リョーマは一瞬表情を止めて、そしてフッと笑う。
「跡部さんから、何か聞いてない?」
「何も〜。跡部って、意外と口堅いんだ。というかケチ、かな。
教えてって言っても、教えてくれないこと多いよ。
勉強も自分でやれとかいって、宿題写させてくれないの」
「それは…自分でやった方がいいと思うよ」
「リョーマまでそんなこと言うんだ。はあ」
「そこで落ち込まなくてもいいのに」

くすくす笑うリョーマの隣に、ジローはそっと腰を下ろした。
まだ部活には間に合う時間だ。
少し位良いだろうと、会話を続ける。

「でもね、最近跡部にここわからないから教えてって言うと、
ちゃんと説明してくれるんだよ。答えは教えてくれないけど、自分で考える分にはいいんだって」
「へえ」
「前は取り付く島も無かったのにね。変わったよ、すごく。
一年の時からチームメイトだったから、よくわかるんだ」
自分のくせっ毛を指で触れながら、ジローは当時のことを思い出した。

「同じ一年で入部した時から、跡部の頭には一番になることしか頭に無くってさ。
俺達のことなんて、最初から相手にしないって態度でムカついたりもしたよ」
「今は普通に仲良いと思うけど」
「今はね」
苦笑する。絶対にチームメイトとしてやっていける日なんて無いんじゃないかと、
ジローでさえ思った。
こうして今、跡部が部長として皆の信頼を得て、全員を引っ張っている姿なんて、
あの頃は想像出来なかった。
「跡部ってレギュラー以外の奴は眼中に無かったから、俺も忍足も最初は名前覚えてもらえなかったんだよ」
「嘘」
「本当ー。覚えて欲しかったら、強くなれとか言われてさ。
悔しかったなあ。あの後、俺と忍足と他の一年達と一緒に遅くなるまで自主練習してたなあ。
途中で寝ちゃった俺をいつも忍足が送ってくれたんだ」
「へえ〜」
「おかげでレギュラー取れるほど強くなった。
その時跡部が初めて俺の名前呼んでくれて、すっげえ感動もしたんだよね。
結局、跡部の言う通り強くなっちゃったって訳」

嫌な奴だと思ったが、跡部の強さは嫌でも認めるしか無かった。
同時に強く憧れたのも事実だ。勿論、誰にも言ってはいない。
入部するなり三年生を倒した彼のプレーは、既に完璧で、
敵わないと思うより前に圧倒されるだけだった。

「でもさ、跡部の本質ってあんまり変わらなくって、色々手を焼かされたりしたんだよ。
振ったはずの彼女がコートに乗り込んできた時、なんとかしたのも俺達だし、
跡部なんて放っておけばいいって無視するから余計に泣いちゃって」
「ふーん…」

こころ無しかリョーマの声が冷たい。
まずいこと言ったかと、ジローはすぐにフォローを入れる。

「でも今はそんな揉め事全然無いから。
誰とも付き合っていないし、告白されてもきちんと断ってるみたいだよ。
あの跡部がってすげえ意外だけど、『悪いけど、付き合うことは出来ない』ってどの口が言っているんだろうねー、本当」
アハハと軽く笑った後、ジローは黙って話を聞いてくれてるリョーマの頭に、ぽんと手を置いた。
「きっと、リョーマの影響だろうね。跡部が変わったのって、リョーマに会ってからだもん」
「俺?でも別に何も……」
「ううん。
跡部がリョーマを見る目ってね、見ているこっちが驚く位、すっごく優しいんだよ。
なんだ、そういう顔も出来るんじゃんって、初めて見た時ほっとしたのを覚えてる。
あのまま大人になったら、将来一人のまんまじゃないかと心配していたんだ。
だってあんな俺様な性格だよ?普通、皆逃げちゃうでしょ」

跡部の持つ権力や財力目当てだけの人しか残らないんじゃないかと、
本気で心配していた部分もあったのだ。
リョーマが氷帝に入学してくれて良かった、跡部と会えて良かったとジローは素直にそれを喜んでいる。

「んー、だから俺としてはこれからも跡部と友達でいてやって欲しいなと思う訳なんだ。
俺に言われるまでも無いと思うけど、一応、伝えておこうと思って。
後、忍足とも。何があっても友達ではいてよ。ねっ」
最後まで言うとなんか照れくさくて頭を掻くジローに、
リョーマはにこっと笑顔を向けてくる。

「ジローって、本当友達思いだよね」
「えー、そんなこと無いよお」
「そんなことあるって。ちょっと感動した。跡部さんも幸せだと思うよ。身近にジローみたいな友達がいるんだからね」

ふうっと息を吐いて、リョーマは背をベンチに凭れて空を仰いだ。

「俺が跡部さんを変えたかどうかはわからない。
でも元々あの人はそんな悪い人じゃないと思うんだ。
誤解されやすい言動に問題はあるけどね。
でも信用は出来る人なんだって、俺は知っている。
言おうと思えば簡単だったのに、一度も言わなかったんだ…そっか」
「リョーマ?」

何も映さない瞳で、遠くを見てるようなそんな横顔が寂しげで、
ジローは体を起こして距離を縮めようとした。
が、そこへ邪魔が入る。

「こら、ジロー。何しとんのや」
「忍足」
「侑士?」
「リョーマ、偶然やなあ。今日はゆっくり帰るんか」
つい数秒前まで目を吊り上げてたくせに、リョーマに会った途端これだ。
呆れる顔をするジローに、忍足は再びくるっと振り返って声を上げる。
「まさかまた部活さぼろって昼寝しようとか考えてへんやろうな。
跡部に怒られるで。大会優勝目指して、異様に燃えてまた練習量増やすとか言うとったで」
「え〜?」

不満そうな声を上げてから、ジローはリョーマの体にぎゅっと抱きついた。
「これ以上やったら、俺倒れちゃうよー。助けて、リョーマー」
「そんなこと言われても…」
「ジロー、リョーマ困ってるやろ」
引き離そうと腕を引っ張ってくる忍足を無視して、ジローはリョーマに泣きつく。
「だって、12時間寝ないと辛いんだよ、本当に」
困った顔をしたまま、リョーマは呟く。
「でも、テニスが出来るんだからいいんじゃないの。したくたって、出来ない人だっているんだから」
「リョーマ?」

声のトーンが少し低くなる。
ジローも忍足も驚いて、リョーマに注目する。

数秒の沈黙の後、意を決したように口が開かれた。

「俺もね、以前はテニス…してたんだ。目が見えなくなる前、だけどね」

風が吹いた。
そしてそのまま沈黙が続く。

衝撃の内容に、二人共何も言えば良いかわからず黙ってしまう。
薄々そうじゃないかとは思っていた。
手塚がリョーマと会った時から、疑っていた。
何故、リョーマのことを知っているのか。
ただの知り合いにしては、少し不自然だった。
それに監督が無理をしてでも氷帝に入学させた理由。
ああ、そうだったのかと忍足とジローは理解した。

「そっか、そうだったんだ」
ジローは小さく息を吐いた後、ふわっと優しくリョーマの髪を撫でた。
「じゃあ、テニスが出来なくて辛かったね」
「……うん」
「ここに座っているのも、ひょっとしてボールの音が聞こえるから?」
ハッとして忍足は顔を上げる。
ジローの言う通り、このベンチはテニスコートに近い。練習の音が聞こえる距離だ。
一人静かにここで見えないボールを追っていたリョーマを想像して、
忍足はぎゅっと胸元を掴んだ。

「そうだよ。未練がましいよね。ボールの音が聞きながら、想像の中に浸ってた。
今の状況はみんな夢で、俺はテニスコートの中にいるって」
自嘲気味にリョーマは笑う。
「未練なんて思わないよ。俺だって、テニス出来なくなったら悲しくなるし、またしたいって考える。
だからそんな風に言わないで」
「そうや。それだけテニスが好きやったんやろ。誰もリョーマのこと笑ったりせえへん。
もしおったら、俺が黙らせてやる」
「ジロー、侑士……」

ありがとう、とリョーマは小さな声で言う。
聞こえない位のか細いものだったけれど、二人の耳にはちゃんと届いた。



「二人に手術する前に話せて良かった」
顔を上げた時、リョーマの表情はもういつもの勝気なものだった。
「もし成功したら、ジローと侑士ともテニスしたいよ」
「もし、じゃなくて成功するよ。俺が信じているんだから!」
「あほ。お前だけじゃなく、俺も信じてるわ。
リョーマ。その日の為にテニスコート予約しとくからな」
「ちょっと気が早いよ…」

くすくす笑うリョーマを見て、忍足とジローも顔を見合わせて笑った。

その日が来たら必ず皆でテニスしよう。
きっと全員が笑顔で過ごせる、素敵な一日になるに違いない。

(あ、でも…跡部も入れてあげなきゃうるさいだろうなあ)

しょうがない。誘ってやるか。
でも、まだ内緒。
前日に誘ってびっくりさせてやろうと。
楽しい計画を思いついて、ジローは目を輝かせた。


2004年10月15日(金) 盲目の王子様 75 跡部


騒ぎが静まったのは、それから10分後のことだ。
不二が「悪気は無かったんだよ」と謝罪にもならない謝罪をしたことで、一旦場は収まった。
一同座って、菜々子が持って来てくれた飲み物を頂いて、落ち着きを取り戻す。

「そうそう、さっき手塚さんにも話したんだけどね」
皆が静かになった所で、リョーマが口を開く。
当然、視線がさっと集まる。
盲目の彼は気にすることなく、続きを告げる。
「手術の日、決まったんだ。
今日、病院に行った時先生から聞いた。その前からちょっと入院することになるみたい。
皆でこうして集まるのも、しばらく無くなりそうだから、一応報告」
「手術って、いつ?」
不安そうに言うジローに、リョーマはさばさばと答える。
「7月の×日だって」
「それって…」
不二が何かに気付いたように、声を上げる。
が、すぐに口を閉じて俯く。
「何?」
「ううん、何も」

ちらっと不二が視線を送ってきたが、跡部は何も言わなかった。
ここで言うことじゃない。

手術の日程が、関東大会の日程と被っていること。
しかも氷帝と青学が順調に勝ち進んで行けば、ちょうど準決勝に重なるなんて。
どう言っていいのか。
その件に誰も触れることは無く、ただリョーマに励ましの言葉だけを送るだけだった。

「頑張れって言われても、先生に任せるだけなんだけどね」
明るく言っているが、リョーマの態度から無理しているのは明らかだ。
失敗した時のことを考えると、怖くなるのも当然だろう。
それでも前へ進もうと、不安を隠してリョーマは歩んで行こうとしている。

(だから、こいつのこと自然と応援して見守ってやりたくなるんだよな…)

気持ちは大きくなるばかりだ。
手術が終わったら、リョーマの憂いが消えたら、
全部伝えようと跡部は決めている。

(それまで、こいつらに遅れを取っているっていうのは気に入らないけど仕方ねえな)

手塚や忍足が励ましの言葉を掛けるのを、リョーマは嬉しそうに聞いている。
そこに他意は無かったとしても、跡部としては非常に複雑な気持ちだ。
「リョーマっ、俺絶対お見舞いに行くからね。
いっぱいリョーマの好きなもの差し入れするから。今から食べたいものリストにする?」
「えーっと、先生に聞かないと差し入れ食べてもいいかわからないんだけど…」
普通に安心して見ていられるのは、ジローだけだなと、呑気な会話を聞いて苦笑した。








あまり遅くなると迷惑になるからと手塚が立ち上がった所で、
今日はお開きになった。
夕飯も食べていけばいいのにとリョーマは言ったが(跡部達はいつもそうしているから)、
真面目な手塚が「そうはいかない」と断固として首を縦に振らない。
手塚が出て行くのに、このままいるのも気が引けて跡部達も一緒に退出をした。
「また、来てよ。いつでも」
玄関先まで送ってくれたリョーマに挨拶をして、一同は外へと出る。

ライバルである青学の手塚と不二と肩を並べて歩いているなんて、妙な気分だと跡部は思った。
こんな事でも無ければ、きっとテニスコート以外で会うことは無かっただろう。

「跡部。ひょっとして手塚に聞きたいことがあるんじゃないの?」
沈黙を破るように、不二が最初に口を開く。
「そう思うのか」
「うん。だからこうやって一緒に歩いているんでしょ。君だったら、すぐ車を手配してさっさと帰りそうじゃない?」
不二の指摘はある意味正しい所を突いている。
「聞きたいことというよりも言いたいことがあるだけだ」
「なんだ。ハッキリ言ってくれて構わないぞ」
手塚は跡部をちらっと見て、きっぱりとした口調で言う。
何を言われても、リョーマへの気持ちは変えない。
そんな決意が横顔から読み取れた。

だから跡部も遠慮はしない。
堂々と宣言をする。

「お前があいつのことを好きなように、俺も越前のことが好きだ」
「跡部…」
「俺はお前にも、誰にも負けるつもりは無い。
言いたいことはそれだけだ」

ジローも忍足もびっくりしたように足を止めている。
手塚と、そして不二は動じることなく跡部の宣言を聞いて頷いている。


「つまりはライバル宣言って奴か」
手塚は意外と冷静に、話を聞いて納得したようだ。
不二が面白そうに、それに対して相槌を打つ。
手塚、相手は手強いよ。どうする?」
「どうするも何も、俺も負けるつもりは無い」
ふっと笑って、手塚は跡部の方を向いた。

「俺に気兼ねすることは無いぞ、跡部。
越前が好きなら、好きだって本人に告げたらどうだ」
「…手術が終わるまでは言うつもりは無えよ。
けど、どうやらその日も近いみたいだな」

手術の日が準決勝に当たることを思い出し、
手塚と跡部は無言で頷いた。

「越前との前に、お前とは別の決着を付けることになりそうだな」
「ああ、楽しみにしている。俺もお前には負けないからな」
「ふん、精々首を洗って待ってろ」
「その台詞、後で後悔しても知らないよ。これでもうちの部長は頼りになるんだからね」
不二の声にも怯むことなく、跡部は可笑しそうに笑い飛ばした。

「どの程度頼りになるか、見させてもらうぜ。
けどS1より前に決着がつくことになっても、知らねえからな」
「ふん、言ってれば。青学だって負けないよ。ねえ、手塚」
「ああ」

強い意志を込めた二人の視線を受けながら、跡部はまた明日からも練習を強化しようと考えた。

青学だけにはは絶対負ける訳にはいかない。
後ろで会話を聞いてぼーっと突っ立っている忍足とジローにも、頑張ってもらう必要がある。
宍戸にも鳳にも、樺地にもだ。
青学だけじゃなく他校にも勝って、リョーマに優勝の報告を届けたいと思う。

手術に立ち向かう彼に負けない位、強くなりたい。

きっとまだやれる事はあるはずだ。
監督に相談して、全員のメニューを見直してもらおうとも思う。
目標は勿論全国制覇。それしかない。


「勝つのは、俺達氷帝だ!」

高らかに宣言をして、跡部は手塚と不二に目もくれず歩き出した。
立ち止まってる暇は、この先どうやら無くなりそうだ。



2004年10月14日(木) 盲目の王子様 74 跡部

手塚とリョーマが今、何を会話しているのか。
気にならないなんて、大嘘だ。
苛々を隠して、跡部は何でもないような顔をして座って二人を待っていた。

(顔に出したら、最後だな)

「やっぱり気になるんじゃないの?誰か見に行って来たら?」
跡部と忍足とジローと。
三人が座る真正面に位置する不二が、じっと観察しながら可笑しそうな声を出す。
こいつに面白がられてたまるかと、我慢を続ける。
忍足も同じ気持ちらしく、知らん顔して横を向いたりしている。
「お前、さっきからなんなの。ちょっと言葉に棘があり過ぎるんじゃない?」
「そんなこと無いよ。僕は思ったことを口にしてるだけじゃないか」
「じゃあ、自分で見に行ってくれば?」
「別に。僕は手塚と越前君が何してようと気にならないし。ここにいる人達はどうだか知らないけどね」
「なんか感じ悪いC」
「そう?褒め言葉として受け取っておくよ」
ジローだけが、不二の相手をしている。
任せたぞと、跡部は勝手に頼んで沈黙を続けた。

しかしこの状態を続けるにも限界がある。
いつになったら戻って来るんだと出入り口にちらっと視線を送る。
もう、10分は経過している。
リョーマにその気が無かったとしても、手塚の天然とも言える積極性に心を動かされることだって十分あり得る。

(そんな結果になったら、泣くぞ)

はあ、とため息を漏らした瞬間、
手塚がリョーマを気遣いながら襖をゆっくりと開けて入って来た。

「越前…」
「二人共お帰りっ、どうだった。何か進展あったとか?デートする日は決まったの?」
声を掛けた跡部を押しのけて、不二が二人に質問を浴びせる。
「そんな話はしていない」
手塚はきっぱりと否定する。
二人の表情に変化は特に無く、不二の言うような進展は皆無だなと跡部は悟った。
ほっとして、体から力を抜いた。

「じゃあ、二人きりで何の話をしていたの」
食い下がる不二に、手塚は「プライベートだ」とそれ以上は言わない。
面白くなさそうに不二はむっとしたが「後で詳しく聞けばいいや」とすぐ前向きになる。
諦める気無いのか、と跡部も忍足も顔を引き攣らせた。

「不二さん?あの、手塚さんのこと心配するのはわかるけど、ちょっとやり過ぎじゃないっすか」
リョーマも手塚を気の毒に思ったのか、あの不二に向かって注意するような発言をする。
怖いもの知らずにも程がある。
不二を怒らせてはいけないと、注意するべきだったと跡部は後悔したがもう遅い。
「へえ?僕に意見しようっていうんだ」
不二は手塚の体を押しのけて、リョーマにずいっと近付く。
「不二、待て!越前には出さないでくれ!」
手塚も危険を察知して、不二の肩に手を掛けて訴える。
「リョーマっ、ここは逃げた方がええ!」
「てめえ、越前に何するつもりだ」
「えっ、何。何か大変なことになってんの?」
ジローだけが呑気な声を出す。
説明する気も無く、跡部は不二とリョーマの間に入った。

「まさか、こいつに手を出そうって訳じゃねえよな?あーん?」
「さあね」
「不二、てめえ!」
「ちょっと、跡部さん」
「ああ?」
リョーマがくいっと跡部のシャツを引っ張る。
その顔は少しばかり不機嫌だ。
「今、この人と話しているの俺だから、少し遠慮してくれないっすか」
「何言ってるんだ。お前は不二の恐ろしさを知らないから」
「そんなの知る訳無いよ。でも、言わなきゃ俺の気も済まないんだよね」
「お、おい」


跡部の腕を伝う形で、リョーマは前に出る。
そしてすぐ前に立っているだろう不二に向かって言う。

「手塚さんが話したいのなら、別だけどさ。友達なら黙って見守ることだって、必要なんじゃないっすか。
俺が偉そうに言う筋合いじゃないのは、わかってる。
ただ、今のはちょっと手塚さんが可哀想かなと思ったから…お願いします」

たどたどしく、それでも自分の意見をきちんと口に出すリョーマを、
不二は黙って聞いている。
最後に小さくおじぎをした所で、わかったというように頷く。

「まあ、今回は引いといてあげるよ」
「本当っすか」
「うん、可愛い越前君に免じてね」

不二の言葉に、リョーマとジロー以外の全員が肩から力を抜く。
良かったと、跡部は忍足と微笑みすら交わした。
が、それもそこまで。

「手塚が君を好きになったのもわかった気がするなあ」
ちゅっと不二がリョーマの頬にキスをしたことで、再び大騒ぎになる。

「ふふふふ、不二。今、何やった!?」
「何って、キスだけど?軽く挨拶代わりに」
「俺だってやっていないのに、何してんだー!」
「手塚、落ち着いて。眼鏡がずれてる」
「落ち着いていられるかあ、不二ぃ。やっぱりてめえは危険人物だ、出て行けー」
「うわ、跡部まで。ひょっとして泣いてる?」
「俺の俺のリョーマが!!他の男に、なんでや!」
「忍足、しっかり。しかもリョーマは忍足のものじゃ無いC」
「ジロー、何気に酷いで…」

当の本人であるリョーマは、たかが頬にキス(しかも触れる位)で、
皆が何をそんなに騒ぐのかと首を傾げている。

「こんなの挨拶じゃん」

その呟きは跡部の耳には届かなかった。


2004年10月13日(水) 盲目の王子様 73 リョーマ


「どうぞ」

手塚を部屋に招き入れると、リョーマは手探りで床に腰掛けて手を伸ばした。
「これ、使って」
クッションを渡すと手塚は「済まないな」と受け取って、すぐ近くに座る。
「あんたさあ、今日は謝ってばかりじゃない?
家に入れって行ったのも、部屋に入れたのも俺が言い出したことだから、そんな風に言う必要無いよ」
「そ、そうか」
「そうだよ。何緊張してるの」
「当然だろう…、君と同じ部屋にいるのだから」

手塚のもじもじした気配が伝わって、リョーマは困ったように口を閉じた。
数回しか会っていないが、そこから割り出される印象として、
手塚は非常に恋愛面で疎いんじゃないかと思う。
上手く喋れなかったり、突然家にやって来たりと、不器用にも程がある。

(そういうの嫌いじゃないけどね)

正直な人なんだろうとは思う。
裏表ある人よりはよっぽど好感が持てる。

「それで、話なんだけど」
手塚がこの調子だと、すぐに本題に入った方が良いだろう。
階下では皆が待っている。
ジローにもすぐ戻ると言って、ここに来たのだ。
あんまり長居していると、誰かが様子を見に来るかもしれない。
皆がいる前では手塚だけと話をすることは難しいだろう。
だからこそ、わざわざ自室へ連れて来たのだ。

「今日、病院に行って来たんだ」
「ああ」
真剣な声を出す手塚が、ぴっと背筋を伸ばした気がした。
リョーマは頷いて、続きを話す。
「手術の日、決まったよ。勿論後で皆にも言うけど。
俺が手塚さんに一番言いたいのは、必ず完治してまたテニスが出来るようになるってこと。
勿論体力が戻るのにも、ボールコントロールも時間が掛かると思う。
でもそれを乗り越えたら、改めてあんたに試合を申し込みたいっす」
「そんな、俺から言い出したことなんだ。わざわざ君から申し込むことなんて無い」
「でも、それじゃ俺の気が治まらない」

首を横に振って、リョーマはきっぱりと宣言をする。

「手塚さんってすごい人なんだってね。跡部さんが認めてる位の。
そんな人に申し込まれたからって、はいわかりましたって承諾するのって、今の俺の状態で変じゃない?
せめて前と同じ、ううんそれ以上になってから改めて俺から試合を申し込むって決めた。
頑張るから。
無事退院出来たら、毎日トレーニングを積む。だから、それまで保留にして下さい」
小さく頭を下げると、手塚が「越前は強情だな」とため息をつくのが聞こえた。

「なんとなくわかってはいたけど、自分の決めたことは曲げないんだな」
「まあ、そうっすね」
「わかった。待ってる」
軽くリョーマの肩を叩いた後、手塚は嬉しそうに言った。
「君と試合することは絶対諦め無い。完治すると信じてる。
だからコートへ帰って来い。俺もそれまで君に恥じないよう、頑張るから」
「うん!」

気持ちを認めてくれたことが嬉しくて、リョーマは笑顔を手塚に向けた。
途端、また沈黙が訪れる。

「あのー、手塚さん?」
声を出すと、手塚は慌てたように体を後ろへと引く。
「いや、済まない。真面目な話をしている時に、余計なことを考えていた」
「はあ」
「余計とは言ったけれど、そういう意味じゃないんだ。俺にとって大事なことだ。
そこの所はわかってもらえないだろうか」
「言ってる意味、全然分からないんだけど…」

正直な答えを口にすると、手塚は「そうか」と何故かがっかりしたようにしょんぼりとしている。
「あの、どういうこと?」
このままでいるのも気に掛かるので、リョーマは素直に疑問を口に出した。
だが手塚はもごもごと口篭って、なかなか話してくれようとしない。
「手塚さん?」
もう一度促すと、さすがに今度は手塚も答えてくれる。

「笑顔を、すぐ目の前で見て…あんまりにも可愛かったので、動揺したんだ」
「は?」
「済まない、変なこと言って」
「また謝ってるし…」

困ったなあ、とリョーマは頭を掻いた。
手塚に告白もされているし、好かれているのもわかる。
でも、「なんで?」という気持ちの方が強い。
試合を切望する余りに、恋だと思い込んだんじゃないかとも思っている。

「あの、手塚さん。前に言ったことだけど」
この機会にと思って、リョーマは口を開いた。
が、
「待ってくれ、越前」
と手塚に遮られてしまう。

「言いたいことはなんとなくわかる。
でも今は、何も言わないで欲しい」
「手塚さん…」
「もう少し、結論を出すのは待ってくれないか。
頼む。このままゲームセットにはしたくないんだ」
「……」

手塚の切実な訴えに、リョーマは黙って頷く他無かった。
どうしたら納得してくれるのか、今は言葉すら見付からない。

「俺のことを、諦めが悪くて見苦しい奴と思うか?」
「そうは、思わないけど」
「いや、気を使わなくてもいい。実際そうだと自分でもわかっている」
少し笑って、手塚は続けた。
「もし君と一番最初に出会っていたらと思うこともある。
ありえないこと考えて虚しくなって、馬鹿だな」

手塚の声があんまりにも頼りなくて、リョーマはそれ以上何も言えなかった。
もしも、なんて無いけれど…。
氷帝じゃなく青学に通っていたら。
きっと手塚はすぐ自分に気付いただろう。
そして今の跡部や忍足やジローみたいに、仲良くなっていたかもしれない。きっと。

「俺の言ったことは、気にしなくていい」
すっと、手塚が立ち上がる気配がする。
「それよりも手術のことだけを考えるべきだ。
色々混乱させて悪かったな」
「いえ…本当に謝らなくって、いいから」
「ありがとう」

手塚に手を引かれて、リョーマも立ち上がった。

「下に行くか」
「はい」

無言のまま、二人で和室へと向かう。
何やら喧騒が聞こえるが、リョーマはぼーっとしたまま足を進めていた。


(もし、か。
氷帝に通わなかったら、どうなっていたんだろう)

不意に浮かんだ考えに、なんだか心細くなって来る。
どこからその気持ちが来るのかはわからない。

でも、真っ暗な闇の中。
リョーマの心の内側に響いたのは、
『多分、俺にとってお前がその誰か、なんだと思う』
跡部の声、だった。



2004年10月12日(火) 盲目の王子様 72 リョーマ 跡部

病院から帰って来て、気分転換に外へ出てみたら、なんだか家の前に人だかりが出来ている。
気配でそれを察知したものの、誰がいるかまではわからない。
困惑に首を傾げると、
「越前…外に出ていたのか」
と、跡部さんの声。
「跡部さん?あれ、他にも人がいる?」
尋ねると「ああ」と跡部さんからの返事。
「リョーマっ。遊びに来たよー」
「ジロー」
抱きついて来たジローと、「また今日も来てもうたわ」と侑士の声。
でも、他にも誰かがいるのはわかる。
誰だろうと様子を伺っていると、俺の前に誰かが立った。




「越前。突然訪問などして悪かったな」
「手塚さん?」
手塚の声に、リョーマは顔を上げた。
するとさっと横から現れた影が、きゅっと手を掴んで来る。
「大会を前にして、手塚ってば緊張しているみたいなんだ。
だから君と会えば落ち着くと思って、僕が無理やり連れて来たんだけど、やっぱり迷惑だったよね。
でも手塚のことは責めないでやって。ね、越前君」
「はあ…ええっと、不二さんだっけ」
「そう。僕の名前覚えてくれたんだ」
「まあ」
あんな滅茶苦茶なことしておいて、忘れられるはずが無い。
警戒心に体を僅かに引くと、手塚が「すまない」とまた謝罪をして不二と繋がった手を開放してくれた。
「元気そうで安心した。今日はもう帰るから、その…またな」
「あ、ちょっと待ってよ」
すぐにでも立ち去りそうな手塚に、リョーマは声を上げた。
大体こちらは手塚の連絡先も知らない。
話したいことだってあるのにと思って、手塚を引き止める。

「折角青学からわざわざ来てくれたんでしょ。上がって行けば?」

瞬間、場がしんと静まり返る。
何かまずいこと、言ったのだろうか。
特に跡部と忍足が固まっているのを感じる。
眉を寄せるリョーマに、「なんで、そんな事言うのー?」とジローが抱きついてくる。
「リョーマ、ひょっとして手塚のこと気に入ったの?」
「は?何言ってんの。遠い所から来てくれたんだから、そのまま返すのも悪いかなって思っただけで。
不二さんも、一緒に入って」
「えっ、僕は別に」
「皆も。こんな所でぼーっと立ってると近所迷惑だよ。早く玄関入っちゃってよ」
ほら、とジローを引きずったままリョーマは率先して中へ入って行く。
ぐずぐずしてる気配に「早く」と声を掛けると、全員ぞろぞろと玄関口へと歩いて来た。
「俺の部屋だと狭いから、和室でいいよね。菜々子さんー、なんか飲み物あるー?」
「あら、リョーマさん。今日はお客様が大勢いらしたのね」
台所で何か作っていたのか、エプロンを付けたままの菜々子がぱたぱたと急いでやって来た。
「お茶とコーヒーとファンタくらいしかありませんけど、よろしいでしょうか」
「あの、お構いなく。俺はここで」
まだ帰ろうとする手塚に、リョーマが低い声で一喝をする。
「ちょっと、勝手に帰ろうとするの止めてよ。
報告したいこともあるんだから、さあ入って」
「わ、わかった」
リョーマの気迫に、手塚は素直に靴を脱ぎ始める。


「報告って何やろうな」
リョーマと手塚の様子を見て、先に入っていた忍足が跡部に耳打ちをする。
気になって仕方ないらしく、何度もリョーマの様子をちらちらと見ている。
そんな忍足に跡部は「さあな」と素っ気無く返す。
「別に心配するようなことじゃねえだろ」
「とか言って、手が震えとるで」
「うるせえ」
「でも手塚とあの子、結構良い感じじゃない?」
どう見ても面白がっている不二を無視して、跡部は先に和室へと入って行く。
「ちょっと待ってよ。僕は客観的な事実を言ってるだけだよ」
「なんで俺の後を追って来るんだ。てめえは。手塚のお守りでもしてろ」
隣に座ってくる不二に鬱陶しそうに返すと、
ずいっと体を近づけて「じゃあ、二人の仲邪魔しないって誓う?」などと言ってくる。
「はあ?馬鹿か、てめえ。あいつらが付き合ってるならともかく、そんな事言われる筋合いは無いだろうが」
「でもいずれそうなるかもしれないじゃないか」
「おいおい、不二君。勝手に決めつけんといてな」
忍足もムキになって否定する。
「リョーマの気持ちを無視して、事を進めるのは止めといてくれんか」
「うーん、でも友人として手塚の恋の成就を願ってるんだけどなあ」
「友人というか、面白がっているだけだろ」
「失礼な。僕は真面目に手塚の恋を応援しているのに」
誤解だよ、と両手を上げてため息つく姿そのものが胡散臭くて、
忍足と跡部はげんなりと顔を見合わせる。

「飲み物をどうぞ」
トレイにグラスを運んで来た菜々子に「お構いなく」と声を掛けて、
跡部は手伝いする為に立ち上がった。
「あら?リョーマさんは?」
「そういえば…」
まだ玄関先でもたついているらしい。
ジローが一緒だから手塚に連れ去れる心配は無いだろう。
そう思ってグラスをテーブルへ置いていると、青い顔をしたジローが和室へと入って来た。

「何やってんだ、ジロー。越前はどうした」
「リョーマ…。リョーマなら、手塚と一緒に部屋に行っちゃった…」
「「何!?」」
跡部の声に忍足の声が被さった。
驚いている菜々子に構うこと無く、ジローに掴みかかる。
「何故そんなことになったんだ。止めなかったのか?」
「止めたよ。でも、リョーマの方から手塚に話がしたいからって言い出したんだ。
ちょっとだけだから、先行っててって言われたら、俺だってどうしたら良いかわからなくなるじゃん!」

責めるような目に耐えられなくなったのか、ジローは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
跡部もそれ以上何も言えず、くるっと体を返してまた何事も無かったようにグラスを並べ始める。

「放っておいていいの?」
笑顔を向けて来る不二を、無言で睨みつける。
その隣にいる忍足は顔を青くしている。

「いいも何も、あいつから話したいって言い出したんだから、止める権利は俺に無いだろうが」
「それで二人が上手くいっても?」
「多分、そういう話じゃないだろ」
「自信満々だねー。自分が一番好かれてるって思ってるんだ」
「……」

そんな訳無いだろと、跡部は内心で呟く。

つい数時間前まではそう思っていたけれど、今は倒れてしまいそうな程で。

(本当はすぐ邪魔したい位、手塚にむかついている。
けどあいつの意思を無視する訳にもいかねえし…複雑だ)

まだまだ大人になりきるには難しいと、険しい顔したまま俯いた。


2004年10月11日(月) 盲目の王子様 71 跡部 

翌朝。

練習が始まる前に、跡部は忍足から「ちょと」と手招きされた。

「何だよ。つまらねえ話なら、後にしろ」
「いや。昨日な、リョーマと話したんや。お前にも心配掛けよったから、報告しよ思うてな」
「ふん。今更な報告だな」
鼻で笑うと、忍足は気まずそうに頭を掻く。
「そう言うなや。まあ、おかげでスッキリしたわ。リョーマとこれからも普通に会えるんやし」
晴れ晴れとした表情に、跡部は頷いた。
「まあ、良かったな」
「ああ。俺の気持ちばっちり伝えたからな。諦めないとも決めたし」
「なっ、忍足。てめえ、どういうことだ。さっきスッキリしたって言っていなかったか?」
驚いて目を開く跡部に、忍足はすました顔で答える。
「顔を合わせられへん状態から抜けてスッキリしたっちゅうことや。
勿論今は友達として接するけど、この先どうなるかはわからん。
精々油断せんよう気ぃ付けや。手塚もおることやしな」
「てめえ…」
「けどな、跡部」
くるっと背中を向けて、忍足は呟く。

「リョーマには幸せになって欲しい。俺もそう望んでいるんやで。
何もかも終わったら、早うお前も気持ちを伝えたらどうや。
多分、それが一番良い道やと俺は思うてる」
「忍足」
「柄にも無いこと言うたな。ま、頑張れや」
ひらひらと片手を振って、忍足は皆の元へと行ってしまう。

「お前に言われるまでもねえよ」
跡部はふっと口元を緩めた。
忍足に言われたことは意外だったが、なんとなくわかる気もする。
自分の気持ちよりも相手の幸せを願うなんて、馬鹿のやる事だろと笑っていた位だったのに。
あの少年と出会って、それまで狭かった視野が突然開いた、そんな気分になった。
あいつが幸せでいてくれるのなら、自分以外を選んでも構わない。
勿論、簡単に諦めるつもりも無い。
それに…。

(自惚れだけじゃない。あいつもきっと、俺に好意を抱いてくれている)

まだ友情より少し上位か、本人も気付いていなさそうな微妙なものだけれど。
多分、誰よりもリョーマの心の近くにいる、そんな自信はある。

(けど、確かに油断したらどう転ぶかわからないな。手塚もいることだし)

側にいる不二のことを考えると、更に気が重くなる。
あの天然に何か吹き込んで、事を起こす可能性だって十分にあるのだ。
一度きっちり話をするべきだな、と跡部はため息をついた。
そうは思っても、明日からは関東大会が始まる。どちらも忙しい身だ。
会場で会う可能性もあるが、話が出来る程余裕があるとは思えない。
それに試合前に動揺させるようなことを言うのも憚れる。
もしそれで万全な試合が出来なかったら、それこそ悔いが残るだろう。

(俺も甘くなったな。昔なら手段も選ばなかっただろうに)

けれど、盲目の少年に胸を張って試合を報告する為にも、
真正面から全てとぶつかって行きたいと思う。

青学とは準決勝で試合をすることがもう決まっている。
それが終わったら、手塚と一度話をしてみるかと跡部は考えた。


しかし手塚と顔を合わせる機会は、思ったよりも早く訪れた。



「ねえねえ、跡部。今日、リョーマの家に行くのー?」
「あーん?なんだ、いきなり」

放課後の練習も終わり、それぞれ帰宅の準備をしている中、
こそっとジローが耳打ちをして来た。
「だって明日は関東大会じゃん。忍足とも話をしてたんだよね。
リョーマの顔を見て、元気付けてもらおうって。跡部も同じこと考えているんじゃない?」
「なっ、てめえ、そんなしょっちゅう家に行ったら迷惑だってわからないのかよ」
「ふーん、跡部は行かないんだ。じゃあ、俺達だけで行って来るね」
「ちょっと待て」
離れようとしたジローの首根っこを掴んで「待ってろ」と低い声を出す。
「お前達だけで行かせられるか。騒がないよう見張る為に、俺も一緒に行く」
「素直に最初から行くつもりだったって言えば?」
「……」

にやにや笑う忍足と目が合って、非常に気まずいが仕方ない。
リョーマの顔を見て気合を入れようと決めていたのに、二人が行くからといって遠慮することは無いのだ。

三人で一緒に部室を出ることに宍戸らが不審げな目を向けてきたが、
構わず同じ目的地向かって歩き出す。

「リョーマ、いるかなあ」
「さあな。散歩に行ってるかもしれねえな」
「その時は探すか。多分近くを歩いているんとちゃうか」
「ああ、そうだな…」

言われて跡部は思い出す。

『俺が一人で歩けるのは、ここまで。
後はただ何があるのか、想像するしかない』

またどこかの交差点で、立ち尽くしていなければいいが…。
もっと色んな所に連れて行ってやりたいな、と思う。
道はあいつが決めたらいい。行きたいと思う道へ、どこへだって手を引いて連れてってやる。
(最も今日は、こいつらがいるから無理か…)
遅くなったら絶対騒ぐに決まっている。
面倒だなと軽く二人を睨むと、「何?」「何や」と同時に返される。

「別に…もうすぐ着くなって」
「そりゃリョーマの家は近いし…ねえ、あれ、誰かいるよ」
「あーん?」
「ほんまや。手塚と、あっちは不二か?」

越前家の前に、制服姿の手塚と不二が立っている。
どうやらこちらと同様、部活が終わって直ぐに駆けつけたようだ。
何か二人は揉めているようだ。
というよりも一方的に不二が手塚を叱り付けているように見える。
一体、何をやっているというのだろう。

急いで三人はその場へと掛け付ける。

「おい、越前の家の前で何やってんだ」
「跡部…」
「やあ、跡部」

目を逸らす手塚と逆に、不二は堂々としている。
一歩前へ出て、跡部に笑顔を向けて来た。

「手塚がね、越前君と会いたいのに遠慮してるから引っ張ってきたんだ。
なのにここまで来て、どうしたらいいかわからないって馬鹿でしょ?だから怒ってた所なんだ」
「余所でやれ…近所迷惑だ」
「そういう君達は三人で押し掛けてるじゃないか。学校でも会えるのに、家にも来るなんておかしいんじゃない?」
「おかしくなんかないよー」
ジローが唇を尖らせて、抗議する。
「リョーマに会いたいから来てるだけだもん。それのどこが悪いんだよ」
「少しは遠慮したらどうかなってこと」
「不二!ケンカは止めてくれ。頼むから」
大会前にまずいことになったらと、手塚は慌ててジローとの間に入り込む。

「済まなかった。俺が不甲斐無い所為で、嫌な思いをさせてしまった」
「全くだよ。付き添い無しで会う勇気も無いなんて、変じゃない?
一人で行動出来ないの?」
悪気無く言うジローに、手塚は黙って考え込む。

「そう、だな。思うように行動するべきだ。ありがとう、一つ吹っ切れた」
喋ったかと思うと、手塚はくるっと玄関へ向き直ってインターフォンを押そうとする。
「おい、何してんだ!」
跡部が声を上げると、「何怒っている」と真顔で返される。
「一人で行動出来ないのかと指摘されて、俺はようやくわかった。
人に言われてじゃなく、自分の力で動くべきだとな」
「天然かいな」
「こうなると手塚は強いよ…」
忍足の呆れたような声に、不二が耳打ちをする。
ジローも自分の言った事に対してこう返されるとは予想していなかったらしく、ぽかんとしている。

収集がつかなくなりそうだ。
額に手を置く跡部の耳に、カツンカツン、と聞き覚えのある音が響く。

「越前…外に出ていたのか」
「跡部さん?あれ、他にも人がいる?」

戸惑うようなリョーマに、なんて説明したものか。
これから起こるであろう混乱に、跡部のコメカミがずきずきと痛み始めた。


2004年10月10日(日) 盲目の王子様 70 忍足 


「リョーマー!遊びに来たよー!」
玄関が開くと同時に大声を出したジローの頭を、忍足はぽかっと殴った。
「こら、ご近所に迷惑やろ」
「うー、だってテンション上げて行こうと思っただけだもん」
「普通にしろ、普通に」
「入る前から漫才してどうすんの」
リョーマの声に、忍足は振り向いた。
くすくす笑いながら、「どうぞ」と入るよう促す。
「もう部活は終わったの?今日はちょっと早かったよね」
「あー、もうすぐ関東大会やから、あんまり疲れを残さんようにな。自主練習したいやつは、勝手にやっとるで」
「ふーん」
「あ、カルピンだ!」
廊下の端っこにゆらゆらと尻尾を揺らすカルピンを見て、ジローはいきなり声を上げた。
それに驚いてか、カルピンはぴくっと体を動かした後ゆっくり奥へと歩いていく。
「俺、カルピンと遊んで来ようー」
「あ、ジロー」
「リョーマは忍足と話しといてよ。俺も後で行くから」
「…うん。侑士、俺の部屋行く?」
「あ、ああ」

ひょっとして二人きりにするように気を使ってくれたのかもしれない。
それにしてはちょっとわざとらしいんじゃないかと忍足は思ったが、折角の心遣いを無駄にする訳にもいかない。

(ちゃんと話せなあかんな)

心なしかリョーマも緊張しているみたいで無言のまま、自室へと歩いて行く。
固い表情をさせているのが自分の所為かと思うと、心がちくんと痛みを訴える。

そんなつもりじゃなかった。
ちゃんと聞いてもらおうと、忍足は覚悟を決めてリョーマの部屋へ入った。

「適当な所座って」
ベッドの端に腰掛けて、リョーマはぎこちなく笑って言った。
忍足はそっとその隣に座り、膝に置かれた小さな手を取った。

「侑士?」
「リョーマ。あのな、この間のことで話を聞いて欲しいんや。ええか?」
「うん」
真面目な顔をして、リョーマは頷く。
すうっと息を吐いて、忍足は口を開いた。

リョーマの為に。
今はそれだけを考えるべきだから。

「あれな、保留にしてくれんか?」
「え?」
「俺の気持ちは本当に本当で偽りは無い。リョーマのこと大好きけや。
けど今はその時期やないって、ようわかったからな。
リョーマが考えるようになったらで、ええねん。
それまでは、保留。そうしときたい」

無理することなく、言葉がすっと零れたことに忍足は驚いた。
不思議だ。
リョーマのことだけを考えたら、簡単に彼へ言うべきことがちゃんと出て来た。


「保留、でいいの?」
驚いたように顔を上げるリョーマに、「ええで」と答える。
「ああ。ごめんな、色々困らせてな…」
手塚に告白されただけで、十分混乱していただろうに。
更に困らせるようなことを言って、何をしていたんだろうと思う。

好きという気持ちが溢れて、どうしようも無くて。
なのにその好きな人を困らせて。
何やっているんだろうなと、自分自身を笑ってしまう。

後悔を滲ませる忍足の声に、
「ううん。謝ることなんか無いよ」
首を振って、リョーマはきっぱりと告げる。
「侑士は自分の気持ちを伝えただけじゃん。間違ったことは言って無い。
だから謝らなくてもいい」
「リョーマ…」
「俺もまだよく考えられなくて、侑士の好意に甘えてる。
でも、ちゃんと考えるから。いい加減な気持ちで答えたりしないって、約束する」
「そうか。ありがとうな、リョーマ」

リョーマに好意を抱いたのは、こういう真っ直ぐな所だと目を細める。
いつまでも、このままでいて欲しい。
願わくば、自分がこの光を守り続けることが出来たら良いけれど。

(ライバルは強敵ばっかりやしなあ)

とくに身近にいる彼の顔を思い浮かべ、忍足は苦笑いする。
今回は負けを認めるが、この先はそうはいかない。
まだどうなるかなんて、ジローの言う通りきっぱり振られた訳じゃないから十分チャンスはあるはずだ。

でも、今の跡部だったらリョーマを任せてもいいかもしれない。
少しだけ、そんな気持ちが心のどこかにある。
最後の最後まで、諦めないが。
自分の気持ちよりもリョーマを優先させるようになった跡部なら、認めることが出来る気がする。

全てはリョーマ次第だけれど。
二人が一緒に歩いて行く光景を見るを、どこかで望んでいる。

その時は笑って祝福出来たらいい。
少し辛いけれど、リョーマと友人の為にそんな笑顔を向けられたら。
成長したと、少し自分を見直すことが出来るだろうから。




コンコン、とノックの音に忍足とリョーマは顔を上げる。

「ねえねえ、話が終わったのなら、カルピンと俺も混ぜてー!
カルピンはやっぱり俺よりもリョーマの方がいいって言うんだもんー!」
ドアを開けるなり飛び込んできたカルピンに、ジローは不満そうに声を上げる。
「カルピンそんなこと言ったの?」
「ホアラ」
リョーマの膝にジャンプしたカルピンは、そのままごろんと横に寝転がる。
「うー、やっぱりご主人様の方が好きなんだー」
「当たり前やろって、カルピンが何言うてるかわかるんかい」
「なんとなくー」
「お前、すごいな…」

ジローとカルピンの乱入により、一気に場は賑やかになる。
久しぶりにリョーマと忍足は以前のように笑顔を交わして、それまでのぎくしゃくしてた日々が一気に吹き飛んだ。

「カルピーン、俺の膝にも乗って!乗って!」
「ジロー、ちょっと静かにな。さっきも言うたやろ」
注意しながらも、忍足は今日ここへ連れて来てくれたジローに感謝していた。
勿論、跡部にも。

(二人にちゃんと礼言わなあかんな)

リョーマとまたこうして楽しい時間を過ごせる機会を与えてくれた二人に、
忍足は心の底から感謝した。¥


2004年10月09日(土) 盲目の王子様 69 忍足 

本日の部活は、ちょっとした波乱が起きた。
ずっと顔を出さなかった宍戸が登場したかと思ったら、
現・正レギュラーの滝に試合を挑みあっという間に勝利を収めた。
観戦していた榊は、それでも宍戸をレギュラーに戻せとは言わなかった。
そのまま立ち去ろうとする後ろ姿を、宍戸と鳳と、そして何故か跡部が追い掛ける。

レギュラー復帰を懇願して、宍戸は榊の目の前で自慢の髪まで切ってしまう。
それでも眉一つ動かさない榊だったが、
「自分からも、お願いします」
部長の訴えを聞いて、考えを改めたようだ。
関東大会で宍戸の復帰が決まった瞬間だった。

誰かの為に動こうとしなかった、あの跡部が。
宍戸の熱心な気持ちに動かされたのか。
それとも…。
誰かの影響でそんな風に変わってしまったのかもしれない。

(あーあ、嫌になるわ。いつの間にか成長しよって)

宍戸のことが心配で、こっそり後をつけてきた忍足は大きくため息をついた。
こういう時に、よくわかってしまう。
以前の跡部なら、一人でなんとかしろと突き放したら本当に手助けなんてしない奴だった。

(リョーマの影響、絶大ってやつか)

あの少年と出会ってから、跡部が変わっていったのは明らかだ。
心なしか雰囲気も柔らかくなり、前以上に女子から騒がれるようになった。
最も本人はそんな人達になど見向きもしない。
きっとこの先も、本命以外に目をくれることは無いだろう。  

(よりによって、跡部と争うことになるなんてな。
しかも俺の方が劣勢か…)

髪をがしがしと掻きながら、忍足はコートへと戻った。

跡部に敵わないとは思いたくない。
でも。
客観的に見ると、跡部の方がよりリョーマを想っている気がしてならない。
認めたくはないが、自分でも薄々気付いている。


「忍足」
コートに戻るとラケットを持ったジローが駆け寄ってきた。
「なんやジロー、起きてたんか」
「うん。今来たとこー」
「今かい」
遅刻はしたものの、珍しくジローは部活に出て来たようだ。
大会が近いからじゃなく、単にさっき起きただけだろう。
しかしいつものとろんとしたものではなく、ぱっちり開いた目が忍足を捉えている。

「ねえ、忍足。今日部活終わったら付き合って」
「付き合うって、どこへ?」
「いいから。約束したからね」
「おい、勝手に」
忍足が引き止めるより前に、ジローはさっさとコートに出てしまった。
そして日吉を捕まえて、練習しよーと誘っている。

(何や、一体)
首を傾げていると、背中に鈍い衝撃が走る。
「どこ行ってたんだよ、侑士」
「あ、岳人」
向日が軽く拳で背中をぶったのだと気付く。
「ダブルスの練習するっていうのに、呑気にふらふらしてんなよ。
宍戸も戻ってきたことだし、ちゃんとしないと俺らだってぼやぼや出来ないだろ!」
「は、はい」
向日に怒鳴られて、忍足は首を縮める。
練習練習、と厳しいパートナーに従い続けて、本日の部活を終えた。


「忍足、帰るよ」
宣言した通り、ジローは素早く用意を整えると忍足のロッカーへと近寄ってきた。
まだボタンすら嵌め終わっていない忍足は、(一体何やの)と眉を寄せながらのろのろと指を動かした。
「あれ、ジロー。もう着替えたのかよ。早いな」
櫛で髪を梳かしながら、向日がジローに向かって声を掛ける。
「うん。忍足が忘れないように、さっさと用意した」
「いつもぼーっとしてるくせに、やれば早いんだよな。
それより二人でどっか行くのか?まあ、俺は用事あるから行けないんだけど」
聞いてもいないのに向日は嬉しそうに、喋っている。
きっと用事というのは気になる子と待ち合わせでもしているのだろう。
だから身支度もきちんとしているに違いない。
「ふーん、そうなんだ」
ジローは向日の言葉を気にすることなく、苛立ったようにこちらを見ている。
早く着替えろ、ということらしい。
視線を無視して、忍足はのんびりとネクタイを締めた。
その間にも向日は口を動かし続けている。
「用事何か知りたいのなら、特別に教えてやってもいいぜ」
「別に知りたくないけど」
「いや、それがこの間あの子からクッキーもらってさあ。今日はお礼に俺が奢るってことになったんだ。
完全にデートだよな、な?」
「もう喋っているし…」
「お前も毎日寝てばっかりしないで、彼女でも作ったらどうだ。
今度誰か紹介してやるよ」
「いらない」
「じゃあな、ジロー、侑士」
言いたいことだけ言って、向日は部室から出てしまった。

「元気やなあ、岳人は」
「忍足、準備出来たの?」
「あ、ああ」
ジローの迫力に飲まれて、忍足は頷いた。

(なんや、一体どこへ向かうつもりなんや)

外で出て、ジローに引っ張られる形で歩き出す。
しかしすぐにどこへ向かっているか、忍足は気付いてしまった。

「ジロー、ひょっとして…リョーマの家に行くんか?」
「そう!忍足、あれからリョーマと話していないんだよね。
でも会うべきだって思ったから、一緒に行こうって思ったんだよ!」
ジローの手の力は案外強かったが、忍足はそれでも抵抗をした。

「あかんて、まだ俺はリョーマと会われへん」
「どうして!?」
「それは…気持ちの整理、とかなあ」
「何それ」
むくれた顔してジローは、振り返る。
「じゃあ、その間に悩んでいるリョーマの気持ちは考えたこと無いの?」
「それは…」
「忍足だってこのままじゃ、嫌なんでしょ。リョーマと会えないままなんて。
時間が経ったら、もっともっと顔を合わせ辛くなるよ」
「わかっとる、それはわかっとるって」

言われなくたって、よくわかっている。
リョーマとぎくしゃくしたままなんて嫌に決まっているし、会えないままの状態はかなり辛い。

「じゃあ、今日会うべきだよ。…跡部も、心配してた」
「跡部が?」
「うん。本当は自分が忍足を引きずって連れて行ってやりたいって言ってたよ。
でもそこまで面倒見る程、お人よしじゃない。
だから俺に頼むなって」
「そう言うたんか。跡部が」

ハハ、と忍足は笑った。
茶化している訳でも、虚しい笑いでも無い。
あの跡部の口から出た台詞だと思うと、無性に可笑しかった、それだけだった。


「なんやろうな。テニスではともかく、恋愛面では俺の方が有利やとずっと思うてた。
あいつは人の気持ちなんて考えへんやつやったし。
けど、いつの間にか変わってたんやな。俺の方が追い抜かれとったわ…」

手塚が告白したのを見て、動揺のあまりにリョーマの気持ちを考えることなく考えなしに告白した自分と。
二人が告白したと聞いても焦ることなく自分の気持ちは二の次にして、リョーマのことだけを想っていた跡部と。
ここで差が付いていたのかなあ、とため息をつく。


「追い抜かれたって誰が決めたんだよ」
「ジロー?」
「まだリョーマは答えを出していない。だったら諦めたこと口にしていないで、忍足も頑張ればいいじゃん。
言っておくけど俺は誰の味方でも無いよ。
でもね、ただそうやってうじうじ悩んでいるだけの忍足は絶対に選ばれたりしない。
嫌なら今すぐリョーマの所に行って、言うべきことを言ってやって。忍足も本当はわかってるんでしょ!?」

一気に言って疲れたのか、ジローは荒く息継ぎをしている。

「お前にまで説教されるとはなあ。部の中では俺が一番大人やと思っていたけど、勘違いしてたみたいやな」
跡部もジローも、思っていた以上にずっと、他人の気持ちを考えているようだ。
結局、進歩が無かったのは自分だけなのかもしれない。
そんな風に考えて表情を曇らす忍足に、パチンとジローが目の前で両手を叩いた。
「俺も跡部もいつまでも同じままじゃないってことなら、忍足だってそうじゃないの。
昨日よりも今日、今日よりも明日ちょっとずつ成長して行こうよ。
ほら、まずは最初の一歩。踏み出そう?俺も一緒だから、怖くないでしょ?」
「…せやな」

ここで悩んでいたって仕方ない。
そうだ、ジローの言う通り。
好きな人の為に、頑張ってみるべきじゃないか。

「リョーマの家、行くか」
「うん!」

笑顔で答えるジローに、忍足もつられて笑った。

本人を前にして何を言ったら良いのか全く考えていないけれど、きっとなんとかなる。
大切に思う気持ちさえあれば、きっと…伝わるはずだ。


2004年10月08日(金) 盲目の王子様 68 跡部 


周囲を探りながら歩くリョーマのペースに合わせながら、跡部はゆっくりと手を引いてやった。
特に珍しいものがある訳でも無い。
どこにでもありそうな道のりなのに、リョーマはどこか楽しげな様子で歩いている。
初めて歩く知らない区域に、わくわくしているのだろうか。
目の見えないリョーマの為に、跡部はいちいち「そこに花が咲いている」とか「あっちの家には犬がいる」と説明をした。
そうすると必ず「そうなんだ」とにっこりとした顔を向けられる。
想像でしかなかった区域に何があるのか知ることが出来て、心底楽しそうなリョーマに。
また跡部は、自分の目につくものを口に出した。

そうしてどの位歩いただろうか。
不意に、リョーマが足を止める。

「どうした、疲れたか?」
「ううん、そうじゃなくて」
じっとリョーマは耳を澄ましている。
何か、聞こえたのだろうか。

「近くでボールを打ってる音が聞こえたから」
「ああ…、そういえば」
跡部は思い出した。
もう少し先にはストリートテニス場がある。音はそこから聞こえたものだろう。
「行ってみるか?」
ここからは、そう遠くない。もうちょっと歩けば行ける範囲だ。
なのにリョーマは首を横に振る。
「いいよ、今日はもう帰ろ」
「いいって、まだ歩いたばっかりじゃないか」
「本当に、十分だから」

ありがとう、と礼を言うリョーマを見て、跡部はため息をつく。
淡々としている口調だから、リョーマのことをよく知らないままだったら言葉通りに受け取っていただろう。
でも跡部には、それがただの遠慮だと気付いていた。
誰かの負担になるのを嫌うような子供だから。
跡部を自分の我侭に付き合わせたくないと、考えているのだろう。

(何度遠慮するなって言っても、こいつには無駄なんだろうな)

仕方ない、とまた手を引っ張る。

「跡部さん、帰り道はそっちじゃない。こっちだよ」
驚いたように声を上げるリョーマに、跡部は返事をした。
「やっぱりもうちょっと寄り道して行こうぜ。
ストリートテニス場には他校の奴も集まるから、何か情報も得られるかもしれねえ。
少し付き合ってくれても、いいだろ」

咄嗟とはいえ、我ながら下手な言い訳だと思った。
しかし、もう口から出たものは取り返しが付かない。
リョーマの負担にならないように言ったつもりだったが、あんまりにも見え透いたものだったろうか。

「もういい、行くぞ」
「あ、ちょっと…」

照れ隠しするように、跡部はわざと急ぎ足でストリート場へと引っ張って行く。
勿論、リョーマが歩いて行ける位の速度で。

「さっと行って、情報収集するだけだからな。
そんなに時間は掛からないから、いいよな」
「…うん」

困ったような顔をしていたリョーマだったが、次第に表情を和らげていく。
言っていることが嘘だと丸わかりでも。
心遣いが嬉しかったのか、指摘してくることは無い。

「ねえ。そこって誰でもテニス出来んの」
「ああ。ラケットさえもっていればな」
「へえー」
「でもたしかあそこはダブルスしか出来なかったはずだ」
「え、そうなの?」
「ああ。テニスする人数が多くて、ダブルスでの参加じゃないと認められなかったな」

ストリートテニスのことを聞きたがるリョーマに、跡部は自分の知っている数少ないことを全部話してやる。
実際、足を運んだのは二、三回位だ。
別に試合をする相手を探していた訳じゃない。
来たのも、ただの暇つぶしだった。
一緒に伴った樺地と自分に敵うものがいるはずが無く、
そこらにいた連中を笑い者にして帰って行った。

『お前ら、こんな程度の実力しかなくて、恥ずかしくないのかよ』

今思うと、よくあんな真似出来たものだ。
ただテニスが好きで、打っているだけ。
その気持ちがあれば、十分じゃないか。
それを笑う権利は誰にも無いはずだ。

「人が沢山いるね」
「…ああ」

前に来た時と同じに、コートには沢山の人が順番を待っていた。
もしかして挑発した連中がいるかもしれない。
自分だけならともかく、リョーマに暴言でも吐いたらと思うとぞっとする。
跡部は静かに隅の方のベンチへと誘導して行った。

「何か飲むか?ちょうど自販機があるぜ」
「うーん、じゃあファンタグレープある?」
「ああ。でも、こんな甘ったるいもの飲むのかよ」
「いいじゃん、好きなんだから」
「まあ、いいけどな」

リョーマに蓋を開けたファンタの缶を渡してやって、跡部もすぐ隣に腰掛けた。
甘い飲み物を飲んでは、リョーマは目を閉じてコートに響く音を追っている。
その様子を黙って、跡部は見守っていた。

(何も見えない世界の中で、一人でボールを追っているのか?)

想像の中で、誰も返すことの無いボール。
音だけの世界。

(もう一度コートに立ちたいって、願っているんだろうな)

一人で暗闇に立つリョーマのことを考えると苦しくて、
思わず肩に手を伸ばしてしまう。

「跡部さん?どうかした?」

それまで音を追っていたリョーマが、戸惑ったように声を掛ける。

「いや。…退屈じゃないか?」
本当の考えは言えるはずが無く、そんな言葉で誤魔化す。
「ううん。皆楽しそうなのが伝わってくるから、退屈じゃないよ」
目の前にあるはずの光景を想像して、リョーマは笑う。
「きっと一生懸命やっているんだろうなって思っているけど、違う?」
「いや。違わない。まだまだ努力するべき所はあるけどな。でも、それぞれ懸命にボールを追ってる」
「そっか」

穏やかなリョーマの横顔に、つきんと胸が痛む。
これから話そうと思っている内容は、少なからず動揺させてしまうことになるだろう。
それでも、もう誤魔化しや嘘は無しにしたい。
この先の為にも。
だから跡部は、今まで隠していたあのことを告白することにした。

「なあ、越前」
「何?」
「コートに戻りたいって、考えることはあるか?」
「……!」

たった一言で。
リョーマは手から缶を落とし、小さく体を震わせてしまう。

(仕方ない、か)
テニスをしていた過去をひたすら隠そうとしていた分、衝撃は大きかったのだろう。
(ちゃんと話さないとまずいな)
缶を拾った後、跡部は「ごめんな」とまず謝罪をした。

「跡部さん、俺のこと知っていて…」
「ああ、少し前に知っていた。アメリカでテニスしていたんだな」
動揺にふらつく小さな体を、しっかりと抱きしめる。
「偶然、監督の所でお前が映ってるテープを観た。どこかの大会、だったと思う。
そんな経緯で知ったから、何も言い出せ無くて。
今まで黙っていた。すまない」
「……」
「少しずつ親しくなっていったけれど、お前の口からテニスした事は一度も出て来なかったよな。
触れちゃいけないんだと思って黙っていたけど、ずっとこのまま知らん顔していいのかと悩んでたんだ。
だから今日、ちゃんと話をしようって思った」
「そう、っすか」

素っ気無いリョーマの言い方に、やはり怒らせてしまったかと跡部は唇を噛む。
でも、どうしても何も知らないまま、彼の本当の苦しみを支えてやれないままなんて嫌だったから。
あえて、その奥に踏み込むことを決めた。

「すまない、越前。お前の過去を、こんな形で知った俺を許して欲しい。
知ってて、言えなかったことも含めて謝罪する」
抱きしめていた体を一旦離して、跡部はゆっくりと深く頭を下げた。
リョーマには見えないのはわかっているけれど、けじめとしてするべきだと思ったからだ。

「跡部さんは…」

リョーマがぽつりと口を開く。

「なんで話すことを決めたりしたんだよ。
言わないままだったら、俺に謝罪すること無かったのに。それなのに、なんで…」
「そうしないと、お前の本心に近づけないと思ったからに決まってるだろ」
「本心?」
「ああ」
跡部は頷いて、リョーマの両手を取った。

「だって、そうだろ。お前の苦悩を知ってて、気付かない振りして、それで本当にわかり合えるのか。
俺は嫌だ。そんな他人みたいな関係、今までみたいな付き合いだったら許せたが、お前とはそうなりたくない。
お前が辛いのなら、一緒に悩んでその気持ちを楽にしてやりたい。
幸せなら、よりもっと笑って欲しい。そうなるには、上辺だけで一緒にいるだけじゃダメだろ」

一気に捲くし立てると、しばらく沈黙が続く。
ぽかんと口を開けていたリョーマだったが、やがて戸惑うように声を発する。
「跡部さん。ねえ、なんで?なんで他人の俺にそこまでのことを言う訳?」
「それは…」
「それは?」

まだ告白は出来ない。
忍足と手塚と。
二人に言われて、リョーマは混乱したままだ。
その上自分も、なんて言ったら。
拠り所をまた見失ってしまう。
そんなのは、嫌だ。

「あるんじゃねえか、そういうことって」
「え?」
「誰かを笑顔にしてやりたいとか、今ある感情を分け合いたいとか。そういうのに理由なんて無くて。
きっと考えるよりも前に、自然と行動に出るんだろうな。
多分、俺にとってお前がその誰か、なんだと思う。
これが理由、じゃ駄目か?」

遠回しだけど告白に近いよな、と跡部は少し額に汗を掻いた。
でも、きっとこの少年はそこまでは気付かない。
自分に関することは、意外と鈍い奴だから。

「…そう、なんだ」
跡部の言葉を噛み締めるように、リョーマは頷いた。
「なんだかよくわからないけど、跡部さんが俺のこと同情とか、そういうので今まで仲良くしてくれてた訳じゃない。
それはわかってるつもりだよ」
「越前」
「ごめんね、知られてたことに動揺し過ぎて忘れてた。
跡部さんがあの時、俺の杖を家に持ってきてくれた時。本当に嬉しかったんだ。
俺のことを思って行動してくれてたに、その…今まで言い出せなくてごめん」
「いや、俺こそ黙っていて悪かった」
「だったら俺だって」

それから二人で何度も謝罪をした所で、同時に笑い出す。

「じゃあ、お互い隠し事していた者同士。引き分けってことでいい?」
「いつの間に勝負になっていたんだ。まあ、お前がそれでいいって言うのなら、俺は構わないがな」
「うん。でも、良かった」
「何が良かったんだ」
「もう跡部さんに隠し事無くなったから、なんかすごく楽な気分になれた。
知ったら変わっちゃうのが怖くて黙っていたけど、そんな人じゃないって…気付かなかった自分がバカみたいだ」
「別に、そんなことは無いと思うぜ」
「ううん。でも、もう何も無いから。すっきりした」

晴れ晴れと笑うリョーマと逆に、跡部は少し複雑な気持ちのままだった。

(俺の方はまだ隠し事あるんだけどな)


好きだとは、まだ言えない。
でもいつか。
リョーマの目のことが、解決した時には。

自然と、何も考えずに優しくしてやりたいって思える人こそが、好きな人なんだって。
この気持ちを全部、伝えよう。



2004年10月07日(木) 盲目の王子様 67 跡部 

手塚と忍足から告白されて、リョーマが悩んでいることは容易に想像出来た。

(それで、今俺に何が出来る?)

よく考えてやれよ、とか。
気にするなとか。
ありきたりの言葉しか思いつかない。
しかも、それは跡部の本心じゃない、

(俺だって…あいつのことを想っているのにな)

だけど榊からじきじきに釘を刺された以上、むやみに動けない。
ずるい、と跡部は思った。
手塚や忍足は自分の思うままに行動しているのに、なんで自分だけ。

しかし盲目の少年の戸惑いが伝わった以上、実は自分も…なんて言えるはずが無い。

(あいつは今それどころじゃねえんだ。
余計なこと言いやがって…。
なんとか元気付けさせる方法は無いか)

忍足はあの様子じゃ、ずっとリョーマを避け続けるだろうし。
手塚に至っては、何を言い出すかわからない。
おまけにいつも元気なジローも、なんだか塞ぎ込んでいるみたいだ。

やっぱり自分しかいないか、と跡部は結論を出した。

とりあえず、忍足のことは後日きっちり締め上げてやろう。
告白の返事を保留にするよう、リョーマに言っておけと進言するのも良いかもしれない。
手塚にも、いずれそう言ってやるつもりだ。

リョーマがまず優先するべきは、目の回復だけ。
終わるまでは、誰も穏やかな日常を揺らす権利は無い。

(今日も、あいつの家を訪問するか)

幸いというか、今日は自主練習の日だ。どうにでも時間の都合はつく。
ジローも忍足も、あの様子じゃ来ることは無さそうだ。
問題は手塚だが、青学もこの時期は練習で忙しいはず。
来ることが出来ても、遅い時間になるだろう。

と、いう訳で跡部は練習を早々に切り上げて、越前家へと向かった。


「あら、跡部さん」
「こんにちは」
玄関を開けて迎えてくれた菜々子に挨拶をして、リョーマが部屋にいるかどうか尋ねる。
「それが、今、散歩に行った所なんですよ。今日は少しゆっくり歩いて来るって」
「そう、ですか」
一瞬手塚と待ち合わせしているのだろうかと考えるが、
そうだったら菜々子にちゃんと伝えるに違いない。
わざわざ散歩、と嘘をつくような奴じゃない。

「わかりました。少し回って様子を見て来ます」
「あら、だったら上がって待っていても」
「いえ、あいつのこと探しに行って来ます」
軽く頭を下げて、越前家を後にする。

ふらふらリョーマが歩いている間に、手塚と接触…なんてことは避けたい。
その可能性は絶対無いとは言い切れない。
ロードワークと称して、リョーマの家の周りをうろつく。
その位のことを、手塚は天然でやりそうだ。

かなりの偏見めいたことを考えながら、跡部はリョーマの散歩コースを辿る。
決して遠くには行けないはずだ。

杖を頼りに、知っている道だけでも一人で歩けるようにと頑張っている盲目の少年を探し続ける。

すると、程なくして。
リョーマの姿を見付けた。

(あいつ…何やっているんだ?)

散歩コースを大分歩いた先。
リョーマはそこにいた。
歩いている訳でも無く、ただ立っている。
道路を渡りたいと思っているのだろうか。
信号機の手前で。
でも動くことは無い。
そうしている間に信号は青から赤に変わり、車が通り過ぎている。
リョーマは微動だにしない。
吹く風に任せて、柔らかな髪を靡かせて。
じっと立ち竦んでいた。


(一体、どうしたんだ)

そっと跡部は横から近付いた。
散歩をしている訳でもなく、ここに立っている意味がわからない。
表情を確認するが、リョーマが何を考えているのか。
やっぱり跡部にはわからなかった。

「…跡部さん?」
ふと、リョーマがこちらに顔を向ける。
「気付いていたのか」
「うん、靴音でなんとなく」
「そんなんで誰かわかるのか」
「んー、わかるようになったみたい」

視力を失った分、聴力が鋭くなっているのだろう。
こっそりと近付いたつもりだったが、跡部の靴音をリョーマは覚えていた。
その事実に、少し嬉しくなる。

「こんな所で何しているんすか?」
リョーマの質問に、跡部は答えた。
「こっちの台詞だ。家に訪ねに行ったら散歩だって言われたから、探しに来たんだ」
「待っててくれれば良かったのに」
「俺はせっかちなんだ。待ってるなんてそんな暢気なこと、出来るか」
「普通、自分で言う?」
「で、お前はこんな所で何やっていたんだ」

さりげない口調で、跡部はたずねていた。
何する訳でもなく、ただ立っていたリョーマの行動。

一人になりたくて、こんな所に来たのだろうか。

「別に、何もしていないよ」
リョーマは笑う。
明るくみせようとしても、どこか寂しい。そんな笑みだった。

「本当に…散歩していたら、ここまで出ただけ。
でも、もう帰る」
「そうなのか」
「うん。だって、この先の道は知らないから」
信号の先をちらっと振り返る。
「知らない?」
「この先はまだ行ったこと無いんだ。
知らない道は危ないから、一人で行っちゃいけないって言われているから。
行けないんだよ。俺が一人で歩けるのは、ここまで。
後はただ何があるのか、想像するしかない」
「越前…」

今は何も映さないその目で。
先へ進むことの出来ない道を前にして、その先に何があるのか知らないまま、ただ立っている。
ずっとここで見知らぬ風景がどんな風なのか、想像しているリョーマを思い浮かべて胸がきゅっと締め付けられた。

「行こう」
「跡部さん?」

咄嗟に、跡部はリョーマの杖を持たない手を握っていた。

「行ったことが無いのなら、連れてってやる。
今から、この道を渡ろう」
「でも、もう帰るって」
「遅くなるって言ったんだろ。だから、後少しだけ散歩を続けてもいいんじゃないか」
「でも」

その間に信号が青に変わる。
跡部は強引に、手を強めに引っ張った。

「大丈夫だ、俺も一緒にいる。
行って、この先に何があるか確かめてみようぜ」
「……」
「もう少し、世界を広げたい。そう思わないか」

リョーマがきっぱりと拒否したら、無理強いまでして連れて行くつもりは無かった。

けれども。
ゆっくりとリョーマの足は一歩を踏み出した。

「よし、行こう。信号が赤に変わる前に渡るぞ」
「…うん!」

(こいつが行きたいっていうのなら、どこへでも)
連れてってやる。

不安そうに手を握り返すリョーマを安心させるよう、しっかり手を繋いだまま新しい道のりを歩き出した。


2004年10月06日(水) 盲目の王子様 66 リョーマ


菜々子には軽い冗談だと誤魔化し、
とりあえず不二を自室に通した。
玄関であれこれ喋って、家族にいらない心配掛ける展開だけはどうしても避けたいからだ。
「ふーん、ここが君の部屋かあ」
「…そうっす」
「手塚は入ったことある?」
「無いっす。大体、会ったのがついこの間じゃん」
「へえ。じゃあ僕の方が先に入ったってことか。まずいなあ。
知られたら、怒られるかも」
てへへ、とか笑っているが、ちっとも可笑しくない。
一体不二は何しにやって来たのだろう。

「リョーマさん、お茶をお持ちしましたけど」
「あ、そこらに置いといて!もういいから!」
「はあ…」
どうせすぐ帰るんだから、という言葉は飲み込む。

「機嫌悪いなあ。そんなに僕と話をしたくなかった?」
「偽名使って来るような客は信用出来ないんで」
「やだなあ。僕の名前出したら、会ってくれないかと思って。
違う?」
「別に。どこかへ連れて行こうとしなければ、逃げたりしないっす」
「言うねえ」
「それより、なんで俺の家を知ってるんすか。手塚さんが教えたとは思えないけど」
くすっと不二が笑う。
「手塚の性格、少しはわかっているみたいだね」
「それが、何」
「ううん。あ、家のことはちょこっと調べただけだよ。こういう事に詳しい奴がいてね」
「そーっすか」

(なんか、この人と話していると疲れる…)

底が見えない、というか。
跡部や忍足達が不二のことを警戒していたのもわかる気がする。
どこに本心があるのか、さっぱりわからない。

ペースに巻き込まれる前に、リョーマは自分から「ところで」と切り出す。
「手塚さんの話で、何か言いたいことでもあるんすか?
大会前にこんな所にまで来るのは、俺に手塚さんと付き合えとかそういうことを言いたいんでしょ」
「まあ、似たようなものかな」
リョーマの言葉に、不二は曖昧な返事をする。

「ねえ、手塚から好きって言われた?」
「えっ」
唐突な質問に、思わずびくっと体を揺らしてしまう。
「やっぱり言ったか。昨日、あれから何があったか手塚は話してくれなかったんだ。
でも君の態度でわかったよ。いや、良かった。告白すら出来なかったらどうしようかと考えてたけど、
第一段階はクリアか」

何がクリアだ、とリョーマは眉を寄せる。
おかげでこっちは大いに悩む羽目になったというのに。
不二の嬉しそうな態度に、段々苛立ってくる。

「で、考えてくれた?」
「…あんたに言うことじゃ無い」
「いいじゃない。ちょっと位」
「ちょっとも何も無いんで」

頑なに、不二の言葉を交わしていく。
だが不二はそんな事で諦める男では無いようで、
しつこくリョーマに手塚のことを尋ねて来る。

「手塚のことよく知らないからって振ったりしないよね?」
「そんなの俺の勝手じゃん」
「ダメ。聞いて、越前君。
知らないならこれからお互い知っていけばいいじゃない。
何なら、僕が手塚のこと教えてあげるから」
「遠慮するっす」
「まずは、何からにしようか」
「聞いてないし…」

どうやったら帰ってくれるのか。
困った顔するリョーマに、不二は話を続ける。

「あれでいて手塚は青学の生徒会長でもあるんだ。
加えて青学のテニス部・部長。勿論実力は全国クラス。
成績も悪くないし、真面目で先生からの信頼も厚い。
融通が利かない所が困りもんだけど、君の言うことなら聞いてくれるよ。
顔は、ちょっと、うーんと老けてるけど、美形の部類には入るだろう」
「はあ?」

ひょっとして、不二は手塚の良いところを宣伝しに来たのかもしれない。
一応、友達の恋を応援しているらしい。
とはいえ、一方的な所見を聞かされてもなあ、とリョーマは小さく溜息をつく。
「背も高いから物を取る時便利だし、力もあるから疲れたらおぶってくれるんじゃないかな。
どう?手塚のこと、ちょっとでもいいかなって思ってくれた?」
「…えっと」

正直、今のアピールで心を動かされることは無かった。
生徒会長、だとか背が高いとか、どうでもいい。
女の子ならそういう所に惹かれるかもしれないが、生憎こちらは男で、目も見えない状況。
どんなに手塚が美形だと言われても、そうですかとしか返せない。

リョーマの様子から思ってることが伝わったらしく、不二は残念そうに「失敗だったかあ」と苦笑する。

「不二さんは…」
「ん?」
話を変える為に、リョーマは質問を出してみた。
「なんでそんなに手塚さんの事アピールするんすか?
友達っていってもさ、普通ここまでするの?」
リョーマには考えられないことだ。
他人に、恋の成就を手伝ってもらうなんてあり得ないし、
自分もしようなんて考えない。

その疑問に、不二はさらっと答える。
「うーん、そうだなあ。手塚が誰かと付き合ったら、今以上に面白い人間に変化しそうなんだよね」
「は、あ?」
微妙な回答だった。
首を捻るリョーマに「冗談だよ」と笑う不二。
「今のって冗談?そうとは聞こえなかったけど」
「半分は本心かなあ。もう半分は、意外だったから」
「意外?」
「そう。テニスばーっかりに打ち込んでた手塚が、誰かを好きになるなんて驚いたからかな。
多分、初恋だと思う」
「はつこい?え?」
「知らないの?」
「うん」
「初めて好きになった人って意味だよ」
「はぁー」

なんだか。
聞いてはいけない事を聞いてしまった気がする。
手塚にとって最初に好きになったのが、自分って。

(それって、どうなの)
責任を感じるつもりは無いが、なんとなく重く圧し掛かるものがあるような。
背中に、リョーマは少し汗を掻いてしまった。


「聞いたかな?手塚がアメリカで君の試合を観たこと」
「は、はい」
「いや、ね。あの旅行の後から、手塚の様子がおかしかったから問い詰めたんだ。
実際、あの頃は腕を痛めて選抜にも参加出来なかったから、かなり気も滅入ってたはずなのに。
帰って来た途端、それまで参加出来ないからって、部へ顔出そうともしなかったのに、
出来ることをやるって言ってコートの隅でリハビリの運動したり。
びっくりしたなあ、何があったんだろうって。みんなで話してたんだ」
「……」

当時のことを懐かしむように、不二は語る。
「そしたらさ、偶然見た試合に出てた男の子のプレイに、感銘を受けたんだって。
自分より年下なのに、背も小さいのに力いっぱいテニスを楽しんでいるその子を見て、
またテニスをしたい気持ちになった、いつか試合を申し込むんだ。
あの手塚がキラキラした目で言ってさあ、微笑ましくなっちゃったよ」
「それ、聞きました…」

背の小さい、というのは余計だが。

「その時、他の人はどうかわからないけど、僕は思った。
もしかして手塚はその試合で見た子のことを、好きになったんじゃないかなあって」
「話もしていないのに?」
「そんなのは関係無いよ。一目惚れって、そういうものでしょ」
「……」

わからない、と呟くリョーマの頭を、不二は優しく撫でる。

「手塚のテニスってすごくてね。僕は未だに勝ったことが無い。
ううん、彼に勝つ奴はそうそういない。
だから僕は彼のこと、認めてる。そんな彼の初めての恋を応援してやりたいんだ。
あの通りの性格だから、上手く君を誘うことも出来ないだろうから、
そのサポート位はしてやろうかって」
「そう、っすか」
面白がってはいるようだけど、不二は一応手塚のことを心配しているようだった。
悪意は無いことはわかった。

「君がもう誰かを好きだっていうなら、しょうがないけどね。
どう?今はそういう人いないの?」
「俺、は」

そんなのわかるはずない。
今まで考えていたのは、この目のことだけで。
好きとか、付き合うとか言われても。

「いない…っす」
としか、答えようがなかった。

「そう。じゃあ、まだ努力次第ではなんとかなるかな」
リョーマの答えに、不二は満足そうに頷く。
「これからも、よろしくね。越前君」
「え、ちょっと」
「じゃあ、また。お茶、ご馳走様でした」
「あの」

引き止める間もなく、不二は部屋から出て行ってしまう。
階下から、菜々子が出たのだろう不二とお構いも無くだの、お邪魔しましただの聞こえて来る。

(なんか、またややこやしくなっただけ?)

結局ペースを乱されてしまった。
悪い人じゃないけど、やっぱり不二のことは苦手だ。

疲れた、とリョーマは起きる気力も無く床に体を横たえた。












考え無ければいけないのは、手塚のことだけじゃない。
忍足の方もだ。


(また、今日もいないか)


校門をくぐると、必ずと言って良いほど「おはようさん」と忍足が挨拶してくる。
昨日に引き続いて、今日もそれは無い。
正直、寂しいと思う。

そこへ、いつもより跡部が早く声を掛けて来る。
「おはよう、越前」
「跡部さん・・・おはよう」

跡部はどこまで知っているのか、と考える。
忍足がやって来ないことを不自然に思っているのは確実だ。
それをわかっていて、わざわざ早く迎えに来てくれた、とか。

(でも、俺からは何も言えない)
自分の問題なのだから、自分で答えを出すつもりだ。

そうやって前を向いて歩くリョーマへ、
ふっと跡部が問い掛ける。

「やっぱり、忍足がいた方が楽しいか?俺といるよりも…」
だが跡部の声は、偶然吹いた風の音が邪魔して届かない。
「え?今、なんて言ったんすか?」
髪を撫でていった風に顔を顰めて、それから跡部に聞き返す。

「なんでも、ねえよ」
「?」

それきり、跡部は黙っていた。

跡部がなんだか怒っているような気がしてたので、
何も問い掛けることが出来ない。
(何か、したっけ)
考えたけど、答えは出てこない。
それきりいつもの廊下で、「じゃあ」と別れる。


コツコツと杖を使って歩くのを、
跡部が寂しげな目で見送っているのも気付かないまま、教室へと向かって行った。


2004年10月05日(火) 盲目の王子様 65 リョーマ ジロー


学校には来たものの、結局リョーマは一日ぼーっとして過ごしていた。

(眠い…)
大きな欠伸をまた噛み殺す。

昨日は、色々考えていた所為であまり眠れなかった。
久し振りにこの目の以外のことで、頭が一杯になった気がする。

「リョーマ君、何かあったの?」
さすがにカチローもカツオも、おかしいと思ったようだ。
「別に。ちょっと寝不足なだけ」
「それなら、いいけど」
「今日は早く寝なきゃダメだよ」
心配そうな二人の声に、曖昧に笑ってみせる。
眠れなかったのは嘘じゃないが、本当のことは話せない。

『好きだ、付き合って欲しい』
『好きや、リョーマ』

突然の告白に、未だ混乱している。
どうしよう、どうしようとそればかりが頭の中で回り続ける。
そしてリョーマの憂鬱は、それだけじゃない。

(侑士…。、今朝、顔を見せてくれなかった)

毎朝、校門前で声を掛けてくれたのに。
気まずさから、避けているのだろうか。
これでもし告白を断ったら、二度と話しかけてくれなくなるのだろうか。

(そうなったら、ヤダな)

いつでも忍足は気さくで、優しかった。
その彼が正直、離れて行って欲しく無い。
でも忍足の言う「好き」という気持ちに、同じだけ応える自身は無い。

(手塚さんも…)
自分のプレイを認めてくれたことには、素直に嬉しいと思う。
目が治ったら、試合する約束は必ず果たしたい。
青学の部長の手塚と試合出来るのは、光栄だ。
しかしそこに恋愛感情が絡んで来るとなると、またややこやしい。

(悪い人では、無いんだよね。それはわかっているけど)

軽く溜息をつく。
とにかく、いずれは答えを出さなくてはいけない。
手塚にも、忍足にも誠意を持って、自分の気持ちを伝えなくてはいけない。

どうするべきかまだ見えず、ついついリョーマは物思いに耽ってしまう。




「リョーマ君、芥川先輩だよ」
「え?」

気が付けば放課後になっていた。
「じゃ、僕達部活行くから、またね」
「じゃあね、リョーマ君」
「あ、うん…またね」

慌ててリョーマは帰り支度を整え、ジローがいるであろう出入り口へと歩いて行く。

「リョーマー、おっはよー!」
リョーマが近付くと同時に、ジローは明るく挨拶をする。
「おはようって、もう放課後なんだけど」
「俺、さっき目が覚めたばかりでさ。だから今が朝みたいな気分なんだよね」
「どれだけ寝てたの…」

屈託無く放すジローに、リョーマは気の抜けたように笑った。
悩んで沈みがちだった気分が、少し軽くなる。

「んー?リョーマ、何か顔色悪く無い?」
リョーマの笑顔を見て、ジローは少し顔を顰める。
「え、別に大丈夫だよ」
「本当に?」
顔を近づけてくる気配に、少し後ろに下がる。
「ちょっと寝不足で疲れてるだけ。
そうだ、ジローってこれから部活でしょ。遅くなったら跡部さんに怒られるよ」
「そうだけど。ちょこっとだけリョーマの顔見たかったんだもん」
「でも、遅刻は良くないよ。俺ももう帰る所だし、一緒に下駄箱まで行こ?」
「うん、リョーマが言うならー」

渋々という感じで、ジローは頷いた。

(良かった)

ほっと、胸を撫で下ろす。
今日はあまり長く話をしない方が良さそうだ。
何か勘付かれる前に、ジローを部活に送り出したおきたかった。
忍足が喋っていないのなら、告白されたことは黙っておくべきだ。
自分だけの問題なのだから。


校門まで送ってくれたジローに、「バイバイ」と手を振り、
リョーマは足早に家へと向った。


その背中を、ジローはじーっと探るように見詰めていた。













部室のドアを開くと、ほぼ着替え終わったレギュラーメンバー達が振り向く。

「お、ジロー。遅かったじゃん。
早く着替えないと、また跡部に」

向日の言葉を無視して、ジローは忍足の首根っこを掴んだ。

「ちょっ、ジロー!?」
「話がある、ちょっと外出よ」
「こら!シャツ伸びるやろ!」

抗議を無視して、忍足を外に出す。

「何やねん、一体」
「さっき、リョーマに会った。ねえ、忍足は今日リョーマに会って気付かなかった?
また様子が変だったよ。
ねえ、原因が何か知らない?」

遠回しや回りくどいことが嫌いなジローは、思ったことを口に出した。
とにかくわかっているのは、リョーマに何かまたあったことだけ。
あの表情から、そう直感した。

「何も…わからへん」

忍足は不自然に顔を背けた。
声も震えている。

おかしい、と思いつつジローは会話を続ける。

「また手塚とかに会ったかもしれないね。だとしたら、どうしよう」
「どうって、言われてもな」
「忍足はリョーマのこと、心配じゃないの?」
「心配。心配しとるで。勿論」

やっぱり変だ。
リョーマに続いて、忍足までも。

不自然な忍足の態度に、うーんと唸った後、口を開く。

「リョーマの悩みの原因って、ひょっとして忍足…?」

ぎくっと体を強張らせる。
それだけで十分だ。
今までそんな動揺なんて、見せたことないのに。

「そうなんだ」
「違うで、俺は」
「何やったの。忍足がリョーマを困らせることなんてしないって思ってたのに!」

ずいっと迫ると、忍足はハァ、と情け無さそうに肩から力を抜く。

「困らせるつもりは、無かったんや」
「じゃあ、一体」
がくがくと体を揺さぶり始めるジローに、忍足はぼそっと呟く。

「告白した」
「え」
「好きやって、言った」
「ええー!!」

でかい声に、「しーっ!」と口を塞がれる。
「そんなに驚かんでも」
「だって、だってリョーマに告白したんでしょ。
なんで、そんな急に。びっくりするに決まってるよ!」
一応、声を潜めて驚きを口にする。

忍足が告白するなんて、思いもしなかった。
するとしても、もっと後の話で。

(あ、そっか)
だから、リョーマもあんな浮かない顔をしていたのかもしれない。
全くの予想外の告白に、戸惑っているのだ。

「急、か。やっぱり時期尚早やったと思うか?」
はぁ、と忍足は溜息をつく。
「せやけど、どうしても我慢できへんことってあるやろ」
「しろよ。リョーマが今、そんなの考えられる状況だと思ってるの?」

一人で、歩いているのも精一杯なのに。
目を吊り上げると、「お前も同じこと言うんやな」と言われる。

「え、誰と」
「跡部」
「ふーん」

わかっていたけど、
跡部はリョーマのことをずっとよく考えている。
忍足もそうだと思っていたのに、何故好きだなんて言い出したのだろう。

「一体、昨日何があったんだよ。リョーマのことあんなに考えてた忍足が、
急にそんな行動出るなんて」
「それは…」

跡部に話した内容を、忍足は語った。
手塚が告白してたのを、見てしまったこと。
そして、つい言ってしまったこと。

「手塚って意外と行動早いんだ。そうは見えなかったけど?」
「俺もや。人は見掛けによらんちゅうことやな」

同時に告白され、リョーマはさぞ混乱していることだろう。
あーあ、とジローは片手を額に当てる。

「忍足は、それでこれからどうすんの」
「どうって」

「おい、お前ら。さっさとしないと部活始まるぜ。
俺様より後でコートに来たら罰走だからな」

後ろから聞こえた偉そうな声に、二人同時に振り向く。

「「跡部っ!!」」
「ジロー、てめえまだ着替えてもいないじゃねえか」
「跡部だってそうじゃん」
「俺様は生徒会に顔出した帰りだ。いい加減早く用意しろ。
一秒遅れるごとに、一周増やすからな」

ふん、と忍足の方を見向きもせずに、
跡部は部室へと入って行く。


「ジロー…。俺な、手塚に告白されたリョーマを見て、思ったんや。
誰かに奪われるのは、嫌やって」
「忍足」
「他人の物なんかにならんで欲しい。
手塚にも、跡部にも。そう思うたらどうしようも無かった」

困らせるとわかってても。

苦しげに呟く忍足を見て、ジローはどう声を掛けて良いかわからなかった。

リョーマのことは大事だけど、
忍足だって友達だ。
跡部も。




(リョーマ。俺、どうしよう…)

みんなで幸せになれるのは無理だとわかっていても、
ジローはそれが叶うようにと、
見上げた空に、そっと願った。




夕飯が終ったと同時に、リョーマは自室へと引っ込んだ。
いつもなら少し家族と会話するけど、今日はそんな気分になれない。
二人から言われた事を、ゆっくり考えたかった。

が、そんなリョーマの心情を裏切るように客が訪れる。

「リョーマさん。あの、また青学の手塚さんって方がいらしているんですけど」
菜々子の声に、リョーマはベッドで横になっていた体を起こす。
「手塚さんが?」
昨日の今日で、もう返事の催促にやって来たのか?
随分せっかちだと思いながらも、ドアまで移動する。
「リョーマさん、その実は」
「どうしたの、菜々子さん」
歯切れの悪い従姉に、手塚の様子がよっぽど変に見えたのかと考える。
だが本当の理由は違っていた。

「この間も、手塚さんって方がいらしたでしょう?」
「ああ…うん」
「それが今日みえているのは、似ても似つかない人なんです」
「え?それって」

手塚を語った誰か、が来てるということか。
リョーマの知り合いに、手塚という人物は一人しかいない。

とりあえず誰かというのを確かめる為に、階下へ降りる。

「こんばんは、越前君」
聞こえて来た声に、リョーマはハッと気付く。
(間違いない…!)
ついこの間、身近で聞いた声だ。

「何やってんすか…不二さん」
「おや、もうばれちゃった?」
「ばれた、じゃないっす。一体どういうつもりっすか」
忘れるはずがない。
手塚の所に無理矢理引っ張って行った人――――不二がそこに立っていた。


2004年10月04日(月) 盲目の王子様 64 跡部


リョーマが手塚や忍足に告白されている頃。
跡部は鳳に懇願されて、宍戸と試合を行っていた。

『シングルスじゃ無理だろうが、ダブルスじゃわからねえな』
レギュラー落ちした後、宍戸はかなりの練習を積んでることをあの試合で知った。
勿論自分には及ばないが、前よりも確実に強くなっている。

だから跡部は機嫌よくの朝練へ出ることが出来た。
レギュラー復帰は監督次第だが、実力のあるものを見捨てたりはしないだろう。
問題は説得の方法だ。
宍戸がどんな風に直訴するかは知らない。
ちょっとばかり手を貸してやってもいいとまで、跡部は思っていた。
それなら復帰も確実になるはず。
強いチームになる為なら、監督にも意見する覚悟だ。

そんな事ばかり考えていた所為か、
一度も忍足が声を掛けて来ないのを不審に思わず、そのまま練習時間は終わりとなった。

そして、いつものようにリョーマを迎える為に校門へと急ぐ。

「よぉ、越前」
「あ、おはようっす」

一人で歩いているリョーマを見て、さすがに気付く。
辺りを見渡すが忍足はいない。
必ずと言っていいほど、先に着替えてリョーマの隣を確保しているのに、今日はいない。

きっと宿題をうっかり忘れて、今頃必死になってやっているのだろう。
いない方がありがたいと、忍足の存在を忘れることに決める。

それよりも、リョーマの方だ。
どこか元気が無いように見えるのは、気の所為じゃない。

「どうかしたのか。また朝飯抜いてきたとか?」
「え?食べて来たけど」
「元気ないように見えるぜ。また何か、あったのか」

跡部の問いに、リョーマはぶんぶんと大きく首を振る。

「何も無いっすよ」
「本当か?」
「うん。大丈夫だって」

それ以上の質問を避けるように、足早に歩いて行く。

(何か、変だ)

小さな背中の後ろを着いて行く。
隠すようなリョーマの態度に、奥歯を噛み締める。

なんだって、力になってやりたいのに。
打ち明けようとしないリョーマに少し苛立つが、
言いたくないようなことなら仕方ない、今は黙っていようとそれ以上追及はしないでおく。

どこか気まずいまま二人は別れ、それぞれの教室へと歩いていった。







リョーマのおかしな態度について、跡部は授業中も推測し続けていた。

(手塚がまた現れたとか、いうんじゃないだろうな)
最も考えられる理由は、それだ。
もし、動揺させる何かを吹き込んだとしたら、許せないと思う。
今度こそ近付けさせないよう、直接手塚の元に乗り込もうとも。

彼を面倒事に巻き込む者は、容赦しない。
例えそれが純粋な想いから来るものだとしてもだ。
リョーマが悩んでいるのなら、それは跡部にとって害としか映らない。

今日の放課後は宍戸の件で色々あるだろうから、きっと遅くなる。
昼休みの間にだけでも、もう一度様子をみておくべきだ。

そう考えた跡部は、早速チャイムが鳴ると同時に、
教室から出て廊下を歩き出した。

その途中、珍しく食堂にでも行くのだろうか。
向日と、忍足が連れ立って歩いているのを目撃してしまう。

(チッ、こんな時に)

内心で舌打ちする。
忍足に見付かれば、きっとどこへ行くのかすぐばれる。
そして「俺もリョーマの所へ行くわ」と付いて来るに違いない。

こっちを振り向くなと思いながらそっと歩くと、
ふとした拍子に、忍足が振り返る。

(気付かれた)

しかし忍足は、全く予想しない行動に出た。
跡部を見るなり顔を引き攣らせ、
「岳人、今日はパスさせてもらうわ!」と走り出してしまったのだ。

「侑士?おいっ、なんだよ!」
残された向日は呆然。
後方を確認して、跡部がいるのを見つけ「おい、跡部…何かあったのかよ」と声を掛けようとする。
「跡部っ!?」
しかしその跡部も忍足を追って走り出した。

「何なんだよ…あいつら」
忍足はともかく、生徒会長が廊下を走っていいのかと、事情が全く見えない向日は小さく肩を竦めた。




「おい、忍足!止まれ!」
一瞬遅れたが、跡部は全速力で逃げる忍足を追った。
階段を駆け下り、何人かの生徒を蹴散らしても二人の足は止まらない。

「何で追って来るんや!俺、何もしてへんで!」
「お前が逃げるからだろう!」
「なら追ってくんな!」
「何も無いなら止まればいいだろう!」

ようやく一階の渡り廊下に来て、少し差が縮まる。
思い切って跡部は手を伸ばし、忍足のシャツを掴みに掛かる。

「うわっ!」
思い切り引っ張られたことで、忍足は足をもつれさせるが、なんとか転倒は免れる。
立ち止まったのを確認して、跡部も足を止めた。

「何やの、一体」
「何、じゃないだろう。どうして、逃げた」
「別に、なんも」
「嘘つけ」

目線を合わせようとしない。
何か隠していると確信する。

「そういや、てめえ。今朝越前の迎えに来なかったな」
「……」

盲目の少年の名前を出すと、忍足は目を逸らした。
怪しい。
思い切り不振な態度だ。
「何があった」
「リョーマから聞いたんか」
「あいうは何も言ってねえよ。一人で抱え込んでいるようには見えたがな」
「そうか」

ほっとしているような声に苛立ち、忍足の胸倉をぐいっと掴む。

「あいつに何をした?返答によっては許さねえからな」
「お前にそんな権利無いやろ」
「何?」
跡部に詰め寄られても、忍足は気負いすることなく冷静に答える。
睨みつけても、動じない。

「ちゃんと言うから…ちょっと他行くか。ここじゃ落ち着いて話もできへん」
「しょうがねえ」
「その前に購買寄ってもええか?昼飯食い損ねるのだけは避けたいからな」
「勝手にしろ」

リョーマの様子を見るはずだったのに、全く違う展開になりそうだ。
とりあえず部室で落ち合うことにして、跡部は自分の昼食をそちらに運ばせる為使用人へと連絡した。
本当ならリョーマと一緒にお昼を取る為に、執務室に用意させておいたのだが。

憂いの原因は手塚じゃなく、忍足だったらしい。
一体、何をしでかしたのか。
忍足はリョーマを見守るように接していた。
まさか困らすようなことをするとは、思っていなかったのだが見当違いだった。


苛々しながら食事を取り、忍足を待っていると「待たせたな」と部室のドアが開く。

「遅ぇ。待ちくたびれた。逃げたかと思ったぜ」
「逃げるか。ただちょっとな。気持ちを静めてきただけや」
「そうかよ。で、越前に何をした?聞かせろよ」

跡部を見て、忍足は少し息を吐く。
そして、
「好きやって、言ってもうた」と言い出した。

「は?お前、越前に告白したのか?」
「そうや。俺の気持ちを伝えた。
他には何も無い。リョーマに告白した、そんだけの話や」

淡々と言う忍足を殴ってやりたい衝動に駆られる。
視力を失って不安な日々を過ごしているだけで大変なのに、
悩みを増やすなんて、何をやっているんだと。

拳を震わせる跡部に、忍足は更に衝撃の発言を落とす。

「手塚に取られるかもって思うたら、つい言ってしまったんや。
いや、手塚にだけ、限定とかや無いけどな」
「何?どういうことだ?」
「昨日、リョーマと手塚がなんでか一緒に歩いてるの見たんや。
そして…その時手塚が言うてた。
好きだ、付き合って欲しいと、リョーマにな」
「……」

手塚までもがリョーマに告白していたとは、驚きだ。
恋愛には疎そうに見えたのだが、案外思い込んだら積極的かもしれない。

(感心している場合じゃねえだろ)

意識を引き戻し、忍足に向き直る。

「それで、越前は何て言っているんだ」
「リョーマは何も。手塚にも考えておくよう言われとったみたいやし。
俺も、返事はいつでもええから言うといた。
今は、どんな顔してリョーマと顔合わしたらええかわからん」

ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜる忍足は、相当悩んでいるのだろう。
だが自業自得としか、言えない。


「あいつは自分のことだけで手一杯なんだ!
それをお前ら寄ってたかって、バカやりやがってふざけるな!」
どんなに困っているだろう。
それを思うと、原因二人を完全隔離してやりたい気持ちに駆られる。

「バカ、言うな。正直な気持ちを言うただけやのに」
真っ直ぐ逸らさず、忍足は跡部の目を見る。

「わかったんや。大事に見守っている間にリョーマを他の誰かに取られるのは、嫌や。
そう思うたら口から溢れたから、しゃあないやろ。好きやって。
止められんかった。…手塚にも、お前にも渡しとお無い」
「……」

忍足の言うことに、反論出来ない。

こんなに早く告げるつもりは、無かったんだろう。

でも手塚という思わぬライバルが現れ。
目の前で告白を聞いて。
じっと気持ちを抑えていることが出来なくなって。
つい、告白してしまった。

わかる気がしないでもない。
きっと自分もその場にいたら、同じ事をしていたかもしれない。


「お前は、どう出る?」

忍足は全部わかっているというのに、尋ねる。

「俺、は」
「リョーマを困らせたくないから、傍観する言うんなら助かるわ。
ライバルが一人減るからな」
「……」
「それとも、動くんか?」

答えることが出来ない。

榊に言われた通り、盲目の少年をそっとしておくか。
それとも、新たな混乱を落とすのか。


昼休み終了のチャイムに、忍足は黙って部室から出て行く。

跡部は動けないままで、ソファに体を預けてそっと息を吐いた。




彼にとって、最善な行動はどれになるのか?


2004年10月03日(日) 盲目の王子様 63 リョーマ


『俺と付き合うこと、考えてくれないか?』

念押しした後、手塚は帰って行った。

(考えてくれと言われても) 
家に入ると、「おかえり」と母が迎えてくれた。
もう少ししたらご飯が出来るとの声に、
ちょっと休んでいると自室のベッドで寝転ぶ。
しかし数分も経たない間に、訪問者の知らせを受けてしまう。

「侑士が?今、来てるの?」
「先ほどもいらしていたんですが、やっぱりリョーマさんに会いたくて引き返して来たんですって」
「え、そうなの?」

真っ先に手塚と一緒に歩いている所を見られなかっただろうか。
その件が気になった。

「どうします?」
「うーん、と部屋に上がってもらって」
「ええ、わかりました。夕飯食べて行ってくれるでしょうかね」
「それも聞いておいて」


菜々子が出て行ってから、すぐに忍足は階段を上がって来た。


「よっ、リョーマ。元気か?」
「侑士…」

明るいその声に、ほっと力を抜く。

「ごめんな、突然」
「練習は?終わったとこなの?」
「ああ、そうやで。今日も疲れたなあ。こりゃリョーマの顔見て充電しないとやってられへん思うてな。
悪かったな、ほんまに」
「別に、いいけど。夕飯食べていってくれるんでしょ?」
「図々しいけどお願いしたわ。リョーマとこのご飯、美味しいからな」
「また。母さんにそんなこと言ったら調子に乗っちゃうよ」
「ほんまのことやんかー」

他愛の無い話に、さっきまでの悶々とした気持ちが消えていく。
ありがたいことに、忍足は一向に手塚の話題を振って来ない。

(見られてなかったのかな)

告白されましたなんて言えるはずがないので、
一緒にいる所を見られなくて本当に良かったとリョーマは胸を撫で下ろした。


それから夕食を取って、またしばらく自室で話をして。
気付いたら時刻は9時を過ぎていた。

「あ、もうこんな時間や。楽しい時間はあっという間やなー」
そう言って立ち上がる忍足に、「母さんに頼んで送ってもらおうか?」と提案する。
「大丈夫やて。この位、なんでもあらへん」
「でも」
「大丈夫やて」

くしゃっと髪を撫でる忍足に、それ以上無理強いすることも出来なくて、
リョーマは「わかった」と頷く。
「じゃ、玄関まで送るよ」
ゆっくりと立ち上がろうとしたが、
不意に足をもつれさせて、よろけてしまう。
「リョーマ!」
さっと手を出し、忍足はしっかりと小さな体を支える。
「ごめん、侑士」
「気ぃ付けなあかんで」

全く今日はよくふらつく日だ。
少し笑って、忍足が手を離してくれるのを待つ。
が、一向にその気配が無い。

「侑士?」
訝しく思いながら、名前を呼ぶ。
すると腰を支えていた手が背中に回り、今度はぎゅっと抱きしめられる。

「リョーマ」
「何?」

全く警戒心など、持っていなかった。
しかし忍足が次に告げる言葉に、硬直してしまう。

「好きや」
「え?」
「俺な。リョーマが好き、なんや」

手塚に言われるよりも、ずっと意外だった。
忍足は年上の優しい友人。
そんな風に思っていたから。

冗談やと笑ってくれればいいのに、忍足の声は真剣だった。
「侑士…なんで?あの、本当に」
「リョーマのことが、好きなんは本当や」
わかってもらいたいのか、忍足はもう一度繰り返す。
「さっき手塚に告白されたんやろ。悪い、聞いてしもうた」
動かないリョーマに、忍足はそう告げた。

(やっぱり見られていたんだ)

小さく息を吐くと、それを非難と取ったのか、
忍足はもう一度「ごめんな」と謝った。

「聞くつもりは無かったんや。偶然二人が歩いている所見て、
そしたら手塚がリョーマに好きって言うのが見えて、それで」
「侑士、あの苦しいんだけど」

呼吸も出来ないほどの力強さに、声を途切れ途切れ訴える。
すると慌てて忍足は、腕の力を抜いた。
が、背にはまだしっかり手が回された状態だ。

「リョーマ。手塚のものなんかにならんでくれ。
他の誰にも…渡しとうない」
「侑士」
「好きなんや。俺じゃ、駄目か?リョーマの支えになれんか?」

同じ日に二人から告白されるなんて、生まれて初めてのことで。
どうして良いかわからず、リョーマは黙ったまま立ち尽くしてた。


2004年10月02日(土) 盲目の王子様 62 忍足  リョーマ



一方、その頃氷帝のテニス部では、跡部達はリョーマが不二に誘拐されたとも知らず、
通常通りに練習が終わって着替えをしている最中だった。

「なあなあ、侑士」
つん、と向日に肘をつつかれ、忍足は顔を上げた。
「何や」
「見ろよ。跡部と鳳が一緒に部室出て行ったぜ。おかしいと思わないか?」
着替えもしないで、跡部と鳳がラケットを持って外へ出て行く。
たしかに妙だ。

今日一日鳳は跡部に纏わりつく…というか、必死に何かを頼み込んでいるようだった。
終わりまで粘ったことで、とうとう跡部が折れたのか。
部室を出て行く時の鳳の足取りは軽く見えた。

「宍戸がらみかな、やっぱり」
「他に考えられへんしな」
鳳が宍戸を尊敬していたのは、周知の事実だ。
試合に負けて以来部活に顔を出さない宍戸と会っているところを見た、という情報も入っている。
跡部と鳳がどんなやり取りするかは知らないが、宍戸の事で話をするというのなら。
そろそろ復帰してくる日も、近いかもしれない。

「跡部だけじゃなく、俺達も頼りにすればいいのにな。宍戸も水くせえなあ」
「けど部長は跡部やからな。監督に一番発言力あるのもあいつやし」
「まー、そうだな」
「ここは黙ってい見守っていようや」
「うー、ん」
忍足も向日も大っぴらに口に出さなかったが、宍戸がこの先テニスを続けるのか気にしていた。
ここに来て動きがあったことで、お互いほっと胸を撫で下ろす。

「じゃ、お先にな」
いつの間にか着替え終えていた向日は、明るい表情で挨拶をする。
「今日は寄り道しないんか?」
たしかさっきアイスが食べたいと騒いでいたような。
こんな時、大概行こうぜと誘ってくるものだが、今日の向日は何も言わない。

「あ、俺ちょっと…」
歯切れ悪くじりじりと後退して、「じゃあな!」と向日は部室を飛び出して行ってしまった。
「何やねん」

あの態度はおかしい。
「もしかして、岳人の奴」
デートの約束でもしているのかと、閃く。
そういえば以前、気になっている子とうまくいきそうな事を喋っていた。
これは進展あったな、と忍足は確信する。

「明日は岳人のおごりやな」
詳しいことはゆっくり問い詰めようと、にやっと笑う。

(そういえば、ジローは…)
こんな時に話したい相手だが、姿がみえない。
跡部が樺地に「回収しとけ」と言い忘れたのか。
鳳と宍戸の件でいっぱいいっぱいだったので、仕方ないかもしれない。
今日も、どこかで眠っている可能性はある。

(あ。これはチャンスや!)

今日、越前家に行っても邪魔する者はいない。
リョーマと二人だけで会話する機会が巡ってきたようだ。
そうと決まればと、忍足は急いで着替えを終えて、部室を足早に出る。

跡部もいない。
ジローもまだ眠っている。
リョーマとじっくり会話出来ると、盛り上がった気分で越前へと向う。

だが、
「ごめんなさいね。リョーマさん、まだ帰っていないんですよ」
菜々子から言い渡された言葉に、忍足はがっかりと肩を落とした。
「散歩ですか?それなら迎えに」
「いいえ、なんでもお友達と一緒とかで。
クラスの子達なんでしょうかね」
そこまでは聞いていないんですけど、と菜々子は微笑む。

(変、やな)
リョーマが氷帝でよく行動をともにしている一年生の顔なら知っている。
テニス部の、あの二人だ。
それ以外は、知らない。
彼らは今まで部活に出ていたから、リョーマと一緒のはずがない。
としたら、一体誰と一緒にいるのだろう。

「あの、良かったらリョーマさんが戻るまで家に上がって待っていらしたらどうでしょう」
菜々子の申し出に、忍足はハッと意識を引き戻す。
「いえ。今日は帰ります」
「そう、ですか?」

約束してた訳じゃない。
残念だけど帰ろうと、忍足は菜々子に挨拶して玄関を出た。
(リョーマに会えるのは、明日になってからやな)
今日はしょうがない。
自分に言い聞かせながら、ぼとぼと歩き出す。
このまま真っ直ぐ帰るのも寂しいが、バス停へと向う。

だが、反対側からこちらへ近付いてくる人影を見つけ、咄嗟に塀へ身を隠す。

(今の)

間違いない。
手塚とリョーマだ。
二人が何故一緒なのか。
リョーマが友達と菜々子に伝えた相手は、手塚だったのか。
でも、どうしてと混乱しつつ、そっと二人の様子を窺う。

幸いなことに二人は忍足の存在に気付いていない。
目の見えないリョーマは当然だが、手塚は隣を歩くリョーマに気を取られていて、
周囲に気を配っていなかった。

それにしてもリョーマから手塚に会いに青学へ行ったのだろうか。
いや、一人で青学に行けるはずがない。
じゃあ手塚がまた会いに来たのか。
色々考えている内に、手塚が口を開く。

「今日は本当に済まなかったな」
「…いえ」

聞き漏らしの無いようにと、忍足は全神経を耳に集中させる。
二人がどんな話をしているか、知りたくてしょうがなかった。
何よりも手塚がリョーマに何を言うか、気になって仕方ない。

「だが、さっき言ったことに嘘偽りは無い。それはわかって欲しい」
「……」

忍足が聞いているとも知らず、手塚は話を続ける。

「俺が君を好きなことは、本当だ」
「手塚さん、あの」
「俺と付き合うことを、考えてくれないか?」

(何やてー!?)

その場で忍足は固まってしまった。

手塚は冗談言っているように見えない。
きっと本気で、好きだと告白したのだろう。

気が遠くなりつつも、先を越された…そんな思いが忍足の心に浮かんだ。



話は少し前まで遡る。

手塚の不調が自分にあると聞かされて、青学に連れて来られた。
なのでリョーマは、手塚に「調子落としているって聞いたけど」と質問した。
不二から聞かされた話を全面に信じているのでは無いが、
ここまで来た以上ハッキリとさせたい。

「俺が原因って本当?」
「……」

手塚は答えを返さず、沈黙が続いたままリョーマの手を引き続ける。
バスに乗っても、リョーマと会話しようとしない。
たまに「あー」とか「うー」とか悩んでいるような言葉を発するくらいだ。

(そっとしとこ)
どうやって説明したら良いかわからないんだと、無理に会話することをせず、
リョーマはバスの揺れに身を任せた。
そうして20分くらい過ぎたところか。
心地良い揺れについ眠りそうになった所を、「越前」と起こされる。

「降りるぞ。大丈夫か?」
「ん……」

手塚に引っ張られる形で、バス停から降りる。
ようやく家の近くまで来たということか。
それにしてもこのまま帰されたら、また不二が「ちゃんと話してくれたの?」と現れそうだ。
困った、とリョーマは小さく息を吐く。
話あるんじゃないの?と言おうとした所で、手塚がやっと口を開いた。

「原因は、君ににあるわけじゃない。俺の弱さの所為だ」

唐突にそう切り出され、リョーマは「はあ…」と曖昧に頷いた。
普通そこで『さっきの答えだが』とか前置きがあるものじゃないか。
急に原因って言われてもと、心の中で呟くが手塚には言わないでおく。

リョーマがそんなこと考えているとも知らず、手塚は先を続ける。

「だが君とは関係ないかと聞かれると、まったくそうじゃないとは言い切れない」

(どっちだよ)
自分の言っていることの矛盾に気付いているのか。
気付いていないんだろうな、とリョーマは思った。
それにしても歯切れが悪過ぎる。

「で、俺に出来ることって何かあるんすか?
今のままじゃまずいって不二さんもわかっているみたいだし。
俺に関係あることなら、解決法も何かあるんじゃない?」
「それは…」
「言ってみてよ。出来る範囲でなら協力するから」

今、リョーマの目が見えていたら。
手塚の行動は不審者として映っていたに違いない。
リョーマに言われた後目を見開き、頬を染めて、
きょろきょろと落ち着き無く辺りを見渡している。

「出来ることならあるが…これは、その、頼んでするようなものじゃなくて」
「何ごちゃごちゃ行っているんすか。とりあえず言ってみなよ」

出来るかどうかは後で考えればいいのに。
何を迷っているのだろう。

手塚の伝えたいことなどまるで知らずに、リョーマは「早く」と詰め寄った。

「…では聞くが、越前、今付き合っている人はいるのか?」
「はあ!?」

突拍子も無い質問に、杖を落としそうになる。
テニス不調の問題から、何故そんな質問が飛び出すのか。
困惑しながらも「関係あるんすか?」と尋ねる。

「重要なことだ」

(そんな真面目な声で言われても)

調子を狂わされながらも、「いないっすよ」と正直に答える。

「そうか、良かった」

(何が。この人、本当よくわかんない)

軽く呆れた所で、再び新たな衝撃をもたらされる。

「では、越前。俺と付き合って欲しい」
「え?」

今度こそ、杖を落としてしまう。
カラン、と音を立てて杖は道路へ転がった。

「あの、手塚さん?」
ぽかんとしているリョーマへ、手塚ははっきりと告げる。
「好きだ、越前。やっとこの気持ちが何なのか、気付いた」
「ちょ、ちょっと!落ち着いて!」

驚きの余りリョーマはバランスを崩し、倒れそうになる。
しかし間一髪、手塚の手が支え激突は避けられた。

「大丈夫か」
「……」

転ばなかったとはいえ、困惑の原因に支えられて、
リョーマは思わず体を竦ませた。
手塚はそれがわかったのか、すぐにきちんと立たせてくれて、
そして倒れていた杖を拾い、手に渡してくれる。

「すまなかったな、急に。何を言い出すかと思っただろう」
全くの同感だが、頷くことさえ出来ない。
それ位、驚いていた。

とりあえず、落ち着いて話をしよう。
お互い同じ結論が出た所で、リョーマは近くの公園へ行こうと促す。
「ここバス停なら、もうちょっと先にあるんで」
手塚も反対することなく、リョーマに案内されるまま目的地へと向う。

そして先にリョーマをベンチへ座らせ、手塚は「ちょっと飲物を買ってくる」と言い、
自販機へと向ってしまう。


(驚いた…なんなの、あの人)

好きだとか、急に言われて本当にびっくりした。
一体なんだったんだろうと自問する。

手塚の告白を考えながら、ぼーっとしていると、
「これ、良かったら」と冷たいものが手に当たる。

「適当なのを買ってきたが、先に何が欲しいか聞けばよかったな」
「あ、いえ。どうも」

手塚が買ってくれたのは、オレンジジュースだった。
ファンタの方が良いけど、文句は言わない。
黙って、飲み干す。

そうして、また沈黙が流れ。
いつ話の続きをするんだろう。
リョーマがそろそろ…と思った瞬間、
またしても手塚は唐突に続きを話し出す。

「だが、俺の気持ちに偽りは無い。
こうして口に出すとよりハッキリ自覚出来る。
君のことが好きだと」
「何度も言わなくていいよ…」

周囲に人がいないか、今更ながら気になってしまう。
子供の声は聞こえないから、誰も遊んでいないようだが、
いつどうなるかわからない。
手塚はここが外でるというのを、認識しているのだろうか?

「でも、俺達そんな会ったばかりで、話もそんなにしてないのに」
きっと手塚は勘違いしているのだ。
今の自分の状況に同情して、その気持ちを好きだと勘違い。
リョーマはそう思い込もうとする。
でなきゃ、説得出来ない。

「会ったばかりで好きになるのは、おかしいか?」
「だ、だって、何も知らないじゃん。きっとあんた俺に対して都合の良い思い違いしているよ。
実際口悪いし、性格だって良くないから」
「でも、会う度に惹かれる。会えば会うほど、知りたい、もっと一緒にいたいと思う。
これは間違いなんかじゃない。
切っ掛けはテニスしている姿を見てからだが、あの時にもう一目惚れしていたんだろう」
「……」

堂々と言われ、困ってしまう。
開き直ったのか、先ほどまでの歯切れの悪さが無い。

「でも俺、テニスは、この先出来るかどうかもわからないし」
なんとか抵抗しようとするが、手塚はそれを許してくれない。
「必ず、コートに戻れる。そう、信じていると言っただろう」
「そんな根拠無いじゃん」
「信じてるから、必ず叶う。あの時のようにコートを駆け回る、その日は来る。
だがそれだけじゃ足りない。コートを出た後も俺の側にいて欲しい」

缶を握ってる手の上に、手塚の手が重ねられる。
あまりに真剣な声に、動けない。

「大会が終るまで会うのを控えようと言われた時、一度は納得したが、
やはり自分の気持ちはごまかせなかった。
これじゃいけないとわかっているが…どうにもならず、それが原因で練習が身に入らなくなった」

嘘を言っているようには聞こえない。

(そういう、ことか)

妙に会いたがる手塚の言動に違和感はあった。
それが恋愛感情だと言われ、ぴたりと当て嵌まる。
だが、何も答えることは出来ない。

困ったまま口を噤むリョーマから、手塚はそっと離れた。

「済まなかったな、急にこんなこと言い出して」
「いえ…」
「今日はもう家に帰った方がいいだろう。名残惜しいが」
「はあ」

立ち止まっていた場所から、ゆっくりと歩き出す。

この先、どうしたら良いかなんて全く見当がつかない。



だが、リョーマの混乱の一日はこれだけで終わらない。





2004年10月01日(金) 盲目の王子様 61 リョーマ 


嵐の切っ掛けは、一人の男の訪問から始まった。

「越前リョーマ君だね。こんにちは」
「……」

翌日の帰り道。
いつものように一人で校門を出たところ、いつかの手塚のように名前を呼ばれた。
違うのは、聞き覚えの無い声だってことだ。
「あの、誰?」
近付いてきた男の靴音にに、リョーマは警戒を強める。
その表情に気付いた男は、「ああ、ごめん。僕は青学の不二周助だよ」と名乗り出た。
「青学?」
「うん。覚えていないかな?
君と手塚が再会した場所に、僕もいたんだけど。
二人が会話出来るようにと頼んだの、覚えていない?」
「……ああ」
そういえば、そんな人もいたような。
頼んだというよりも、跡部達にケンカを売っていた気がしないでも無いが。

「その不二さんが、何の用っすか」
まさか青学はこんなに頻繁に休みがあるのだろうか。
そんな風に考えるリョーマへ、不二は「手塚のことで、ちょっとね」と意味深な事を言い出す。
「手塚さんの?」
「そう。ちょっとここじゃなんだから、少し僕に付き合ってくれないかな?」
「でも」
ほとんど知らない人同然の不二について行くのは躊躇われる。
が、不二は強引に腕を掴み、前へと引っ張ってしまう。
「ちょっと、俺まだ行くって言ってない」
「ごめん」
抗議をするリョーマに、不二は形ばかりの謝罪をする。
「でもどうしても君に聞いてもらいたいんだ。
このままだと、手塚は試合に出ることすら出来なくなる」
「え……?」
意外な言葉に、リョーマは息を呑んだ。
「手塚があんな調子じゃ、青学は勝てない」
「手塚さんに何かあったんすか?」

瞬時に浮かんだのは、腕のこと。
完治はしたものの、医者から無理することは避けるように言われてると、
手塚から聞かされた。
あの後、何かあったのか。
そんな想像しているリョーマを、不二は「さあ、乗って」とリョーマの体を引っ張る。

「え、あのこれ車、っすよね?」
「うん。タクシーを使って来たんだ。
校門で張るしか無かったから、急いで来たんだよ」
「俺が言いたいのは、そういうんじゃなくて」
そのタクシーに乗せられそうになってる、この状況が何かを知りたいのだ。
しかしリョーマがその質問するよりも早く、不二は小さな体を抱え上げて車内へと押し込んでしまう。

「どういうつもり…?」
「君には聞く義務があると思うよ。越前リョーマ君」
「何が」
「スミマセン、青学までお願いします」
不二の声に、タクシーは走り出してしまう。
「ちょっと、青学って」
「手塚の不調は、君が原因なんだろ」
「は?」
つん、と不二の指が頬をつつく。
「だから、手塚と会って貰わなくちゃ」
「そんな、そんなの何も」
「大会を前にして、こっちも困っているんだから。
協力してもらうよ」
「……」

協力と言われても、何が何やらわからない。
手塚の不調。
その原因が自分にあると、不二は言う。
どこまで信じて良いかわかったものじゃない。

ただわかるのは、手塚に会うまで帰してもらえないこと。

しょうがない。
会ってやろうと、リョーマは腹を括って拳をぎゅっと膝の上で握り締めた。



降りてと、手を引かれ、リョーマは素直に従った。
ここまで来たらじたばたしても仕方ない。
手塚と会わせることが、この不二とかいう男の目的なら、
危害を加えるとかそういうことは考えていないだろう。
それに手塚と会える方が都合良い。
帰して欲しいとお願いすれば、彼ならばきっと聞き入れてくれるはず。

しかし、帰宅時間は大分遅くなっている。
きっと母も菜々子も心配しているだろう。
もし、榊に連絡を入れる展開になったら。

(まずい)

この間、手塚との件で釘を刺されたばかりだ。
こんな揉め事を起こして、やっぱりなと呆れられるようなことは避けたい。

「あの…、不二さん」
頼みたくは無いが、手を引いて歩く不二に声を掛ける。
「何?」
遅くなりそうだから家族に連絡を、と言おうとした所で、
大きな声によって遮られてしまう。


「不二!どういうことだ、これは!」
「やあ、手塚。ちゃんと迎えに来てくれたんだ」
「お前が意味深なメールを寄越すからだろう。それに何故、越前がここにいる!
部活をさぼって、一体何をしてた!」
大声で怒る手塚に、不二は冷静に対処する。
「そんな怖い顔しないでよ。君の怒鳴り声で越前君が怯えているよ」
「…っ」
「元はといえば、君の為じゃないか」
「何、だと」

二人の険悪な空気に、リョーマは溜息をつく。
これ以上話が長引く前にと、割って入る。
自分の用事を済ませて起きたい。

「あのーちょっといいっすか?」
素早く反応した手塚が、「どうした、越前」と優しく問い掛ける。
「長くなりそうなんで、家に連絡しておきたいんすけど。携帯貸してくれませんか?
何しろ学校出て直ぐに連れて来られたから、何かあったかもしれないって心配してると思うんで…」
手塚に不二のやった事を告げ口する訳じゃないが、事実をありのままに話す。
リョーマの言葉に、手塚は再び声を荒げる。
「不二!今の話は本当か!?」
「まあ、そうだね」
「越前の迷惑になるような行為をしていいと思っているのか!?」
「はいはい、僕のことは悪役だと思ってくれればいいよ。
それより越前君、家の番号は?僕の携帯使っていいから」
「どうもっす」
「不二、聞いているのか」
「後にしてよ。今は彼の家族への連絡が先でしょ」

ぶつぶつ言う手塚は不二の様子に不満げだったが、リョーマはさっと電話番号を答える。
今は安否を知らせることが優先だ。
思っていた通り心配していた母に、学校の友達と一緒だから遅くなると伝え、
そして電話を切った。

「もう一つ。手塚さんと会えたのはいいけど、ここどこ。俺、どうやって帰るの」
「ここは青学だ。帰りは俺が送るから心配するな」
「お願いするっす」
「不二が迷惑掛けたのだから、当然だ」
手塚の声に、リョーマは安堵の息を吐いた。
青学からの帰り道はさすがにわからない。
放り出されたら、路頭に迷うしかない。

「手塚。今日はもう早退してこの子を送ってあげなよ」
楽しそうな声を発する不二に、手塚は「バカ言え」と返事する。
「まだ部活中だぞ。部長の俺が早退する訳には」
「じゃあ、部活が終わるまで越前君はどうするの。放っておくつもり?」
「それは…」

別にリョーマとしてはどうでも良かった。
ちゃんと家に帰してくれるなら、待っててもいい位に考えていたのだが、
手塚は違ったらしい。
部室で待っててもらうか、いやそういう訳にはと呟いている。
迷っている手塚に、不二は楽しそうに声を上げる。
「竜崎先生と大石には僕からうまいこと言っておくから帰りなよ。どうせ後ちょっとじゃない。
大体、テニスしても身に入らないだろう。そんな状態で練習されても迷惑だ」
「……」
「気付いているのは一部だけど。部長の君がそんな有様で大会を勝ち上がることは出来ないよ。
わかったのなら、さっさと悩みを解消して」

不二の話を聞いて、リョーマはどういうことだろうと考える。
自分がここに来たことによって、手塚の悩みが解消されるのだろうか。
一体どうやってと思ったが、想像つかない。

「すまない、不二」
しばらく手塚は沈黙していたが、吹っ切ったような声を出した。
同時に、リョーマの腕をそっと掴む。
「家まで送ろう。その前に、聞いてもらいたいことがある。多分、うまく言えないが」
「はあ」
結局何がいいたいのかさっぱりわからないが、リョーマはとりあえず頷くことにした。
「着替えてくるから、それまで待っててくれ。不二、その間越前を頼む」
「わかった」

掴んでいた腕を名残惜しげに離し、手塚は走って行ってしまった。

(聞いてもらいたいことって、なんだろう)
大会が終わるまで会うのを控えたい、その件だろうか。
榊に言われたことを思い返し、気が重くなってしまう。

「越前君」
「何すか」
リョーマの気も知らず、不二は楽しげに囁く。
「手塚のこと、よろしくね」
「は?」

よろしくって??

ますますわからなくなって、眉を寄せてしまうリョーマであった。



チフネ