チフネの日記
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2004年08月31日(火) 盲目の王子様 31 越前リョーマ

翌朝、リョーマが教室に入るとすぐに、話し声がしていた一角が静かになった。

なんだろう?
少し気になったが、すぐに席について鞄から教科書を取り出し始める。

どうせ自分とは関係の無いことだ。
考えてもしょうがないと、リョーマが思っている間に、
4、5人の生徒が席の近くへと移動して来た。

「何か用?」

足音を立てずに歩いても、小さな音は耳に届いていた。
視界が塞がっている分、聴覚は常よりも敏感になっている。

わからないとでも、思っていたのだろう。
リョーマから口を利いたことで、連中は動揺したようだ。

数秒間怯んでいたが、すぐに啖呵を切り始める。

「お前のせいで迷惑してるって自覚、あるのか?」
「そうそう。大人しくしてりゃいいのに、あちこちに媚び売って味方を増やそうとする辺りズルイよな」

ダンっと大きく音を立てて、リョーマは鞄を机に振り落とす。

「なんだよ。文句があるならハッキリ言えばいいだろ!」

一瞬静かになった連中は、すぐに「怖えー」と笑い出した。

「いいよな。お前は泣きつけば、誰かが助けてくれるから」
「榊先生と生徒会長。この二人を味方につけておけば、怖いもの無いからな。
どうやって取り入ったんだよ」
「その上また違う先輩まで迎えに来てもらってるようだしな」
「テニス部全員に守ってもらうつもりか?人数多いから、ほんと不自由しないよな」

次々と吐き出される勝手な言葉に、リョーマは感情を抑えることが出来なくなっていく。
声を荒げて、反論する。

「俺は、泣きついたことなんか一度だって無い」
「泣きついたんだろ!
おかげで先輩に睨まれて、部活に出れなくなったじゃねぇか」
「なに・・。何の話?」
覚えの無い言い掛かりに、なんのことかと尋ねる。

しかしその対応に腹を立てたようで、
「とぼけるな!」
怒鳴り声と共に胸倉を掴まれる。

だけどリョーマには理解出来ない。
本当に何のことかわからない。
もしかしてと思い当たるのは、杖を取り返してくれた跡部のこと。
何かしたのだろうか。
そんな追い込むまでのこと・・・。



「リョーマ君!?」
「何やってるんだよ。やめろよ!」
どうやら朝練が終わって来たらしい。
カチローとカツオの叫びが聞こえる。

「うるせーよ。引っ込んでいろ」
「イヤだよ!リョーマ君から手を離して」
「お前から先に殴られたいのか!?」

胸倉を掴んでいた手が、乱暴に離れる。
その生徒が、カチロー達の方へ行こうとするのが気配でわかる。


自分の代わりに、二人が殴られてしまう。

止めようと、リョーマの手が宙を掴んだ。

でも見えない。

止めなくちゃいけないのに。

「くそっ」

不安定な体が、机にぶつかってふらついてしまった。

(こんな大事な時に、どうして見えないんだ。
目さえ元通りなら、こんな奴・・・)

「覚悟しているだろうな」
カチロー達の前に奴らが立った瞬間、

「お前達、何しているんだ!」

先生、と放心したようなカツオの声が聞こえる。
どうやら担任が登場したらしい。



「皆、席につけ。
だがお前達はすぐに指導室に来るように」

静かに担任の声が響き、リョーマは振り上げていた手を下げた。

















「もしかして、僕らのせいかもしれない」

結局、リョーマがカチロー達と話をすることが出来たのは、
3時間目の授業が終わった後になった。
それまで一人一人呼び出されて、休憩時間に話も出来なかった。

とりあえず殴られなかったと聞いて、安堵する。

ほっとしたリョーマの表情に、カチローもカツオも笑った。

「せいって?どういう意味だよ」

つまらない諍いだと、担任には説明した。
他の連中がどう言ったかは知らないが、リョーマは自分のせいで大事になってほしくなかったので、
別に問題ないとも証言した。

これで通るとは、最初は思わなかったが、
「越前の意見を聞いて、今回はそういうことにしておこう」

恐らく榊に頼まれたのだろうとも思うが、
担任はリョーマのことをちゃんと見ていて理解しようとしてくれてる。
生真面目過ぎるところがあるが、良い先生だとリョーマは思っていた。


アリガトウゴザイマスと頭を下げて、指導室を後にした。

教室に戻った時、先に解放された連中もいたがもう絡んでは来なかった。

(まだ不満は抱えているだろうけど)

泣きついた等の言葉に、何があったのかリョーマは知りたかった。



「あのさ・・・リョーマ君。あの人達に杖を取られたこと、あったよね?」
「え?あ、うん・・・」
何故知っているのだと考え、すぐに答えは出た。

テニス部として、二人と繋がりのある人物。

「跡部さんに聞いたんだ?」
あっさりとカチロー達は認めた。
「うん。急にコートに来たと思ったら、リョーマ君と同じクラスの奴はいるかって調べ出して」
「僕ら、部長の前に呼び出されたんだ」

そんなことしてたのか。
頭を抱えそうになるリョーマの前で、二人は続きを話す。

「リョーマ君の杖がなくなった、心当たりはないかって」
「知らないって言ったんだけど、あるはずだって問い詰められた」
「その日、リョーマ君がケンカしてたの思い出したんだ」
「前々から態度悪かったから、もしかしたらと思って」
「可能性だけ話したんだけど、部長、すぐに飛び出して行っちゃったんだ」
「そう・・・」

そんな必死になること、ないのに。
あの時はまだお互いを嫌ってた時だ。
なのに、どうしてそこまでしてくれたのか。
仲直りした今でも疑問だ。

「なんかね。噂なんだけど、サッカー部に乗り込んで問い詰めたらしいよ」
「ほら、さっきリョーマ君を殴ろうとした人。サッカー部だから」
「それでか・・・」
「うん。跡部部長を敵に回すと怖いから。なんたって生徒会長でもあるし。
きっとサッカー部の先輩達が、そんな後輩に対して嫌がらせしたのかもしれないね」

部活に出れなくなったと、たしかに言っていた。
跡部の対応を見て、部全体が睨まれたら困る。
問題のある奴の排除をするようにした。
その可能性は高い。

「だったら結局、俺のせいじゃん」
「リョーマ君?」
「俺が気に入らないから、ケンカ売ってくるんだろ。
カチロー達に責任は無い。・・・巻き込んでごめん」

項垂れるリョーマに、二人は慌て始める。

「そんな風に思わないで。僕らは気にしていないから」
「そうだよ。リョーマ君の杖を隠したりして、ヒドイのはあっちだよ」

一生懸命なカチローとカツオに、リョーマはありがとうと告げた。心からだ。

「後さ、跡部さんのことだけど・・・」
「部長?」
「なんか知ってるってこと、言い出せなくてごめん」

それまでは本当に「ヤな奴」でしかなかったから、
部長を崇拝している二人に、跡部と会ったことがあるとは言うつもりはなかった。
今では普通に話し掛けてきているが、そのこともどう言ったら良いのかわからないでいた。


「いいよ。そんなこと」

心配は、あっさりと流される。

「同じ校内なんだから、どこかで知り合って友達になることだってあるよね」
「うん・・・・」

昨日からどう説明しようか考えていたことは、もう解決してしまった。

こんな簡単なことだったんだ。
自分ばかりが、変に気にし過ぎていたようだ。

(違うか、カチローとカツオだからだ)
きっとこの二人だから、こんな風に受け入れてくれるのだろう。
二人に出会えたことは幸運だったと改めて思う。

「でも跡部さんが友達か、どうかは微妙なんだけど」

ジローも侑士も友達だと言ってくれた。
でも跡部は・・・仲直りした今もなんなのか、自分でもハッキリしてない。

「それにあの人、榊先生に頼まれただけかもしれないし。
あ、榊先生は俺の親と知り合いなんだ。
それでこの学園に入ることを勧めてくれた。
みんなが噂するようなことは、何も無いよ。本当に」

ついでに榊のことも説明して、リョーマはふぅっと息を吐く。
これで大体話したことになるだろう。

黙って聞いていた二人は、沈黙の後、遠慮がちに口を開いた。

「リョーマ君。部長が監督に頼まれたから、気に掛けてくれてると思ってるの?」
「跡部部長の行動が全部、そうだって?」

「わかんないけど。そうでなきゃ、あの人の行動は説明できないし」

実際、急に態度を変えたのはどうしてだかわからない。
あれだけ険悪だったところを二人が見たら、きっと同じことを思うだろう。

けれど、
「違うと思う」
「違う?」
カチローとカツオはそれぞれ目配せして頷いた。

「リョーマ君の杖を探そうと、本当に部長、必死だったんだ」
「あの行動が誰かに言われてやったなんて、僕は思えない」
「うん。僕らにもリョーマ君には言うなって。恩を売ろうとか考えていなかったよ!」
「そうなんだ・・・」

実際、見ているわけじゃないからリョーマにはわからない。
跡部の本心は、どこにあるのか。
この目と同じで見えない。

「本当は俺も違うといいなって、思ってるよ」

小さく呟いたリョーマの言葉は、チャイムにかき消され二人の耳には届かなかった。


杖無しで歩こうとした自分に、本気で怒ったこと。
家まで手を引っ張ってくれたこと。
仲直りしたこと。

あれが全部義務からだと言われたりしたら、
きっと悲しい。

もし、本当に義務なら。

もうこれ以上近付かないで。


2004年08月30日(月) 盲目の王子様 30 越前リョーマ

授業終了と共に、それはやって来た。
予告も無く、突然に。



「リョーマ、いるー!?」


急に名前を呼ばれ、ガタっとリョーマは椅子から落ちそうになる。

「あ、いた」
「いた、じゃないだろ。一年のクラスで何を騒いでいる」
まだ教室にいた教師に、窘められているのは・・・昨日、会ったばかりのジローだった。

「授業はどうした。終わってから、すぐにここに来たようだが」
「自習でした。ねー、先生。もう行ってもいい?時間あんまりないんだけど」
仕方ないというように、教師は肩を竦め、教室から出て行く。
それと同時に、ジローはこの状況についていけず固まってるリョーマのところへ走って来た。

「リョーマ、やっと会えたね」
「芥川・・・さん」
やっと会えたとか言われても。

困るんだけど、とリョーマは言葉に詰まる。

「えー、ジローって呼んでくれないの?」
無邪気にお願いをしてくるジローに、ただ戸惑うだけだ。

絶対また会おうねと、言っていたけどこんな風に訪ねてくるなんて。
昨日会った時にも感じたけれど、思ったことをそのまま行動している人だ。
裏表無いことは、わかるけれど。


「ねえ、あれってテニス部の芥川先輩、だよね・・・?」
「何の用事だろ」
「あの二人、どういう関係?」

そんな囁きまで聞こえ、居たたまれなくなる。

「ねー、リョーマってば。聞いてる?」
「聞いてるけど」

とにかく教室から、出てしまいたい。
好奇心一杯な声が聞こえないところまで。

そう思って、リョーマは杖を掴む。


「リョーマ?」
慌しいリョーマの動きに、ジローは首を傾げた。

そこへ、
「芥川先輩、こんにちは」
「こ、こんにちは」
「んー?」
声を掛けたのは、カチローとカツオ。
「リョーマ君、僕達部活に行くから」
「あ、うん・・・」
「また、明日ね」
「バイバイ」
事情も聞かず、二人は教室から出て行ってしまう。


あれこれ詮索しない二人にほっとしながらも、
リョーマは明日、顔合わせる時にどう言おうか考える。

テニス部の先輩が何故盲目の自分と関わっているのか。
こんな教室まで来て、変に思われてるに決まってる。
勿論、ただの知り合いだと言うしかない。

(本当のことだし・・・)

ハァと溜息をついて、リョーマは鞄を手に持つ。

「ちょっと、外に出よ」
「うん?」
促すと、ジローは素直にリョーマの後をついてくた。

「お昼休みに来ようと思ったんだけど寝ちゃって。
それにリョーマのクラスもどこかわからなくて。
忍足に聞いたけど、なかなか教えてもらえないし。しつこく付きまとってやっと聞き出した」
大変だったよ、とジローは笑う。

リョーマは答えない。

「リョーマ?」

ようやく人気が無さそうなところに差し掛かった。
ざわつく声は聞こえない。

ここでやっとリョーマは口を開いた。

「ねぇ、一体どういうつもり?」
「何が?」
「あんな目立つようなこと」

怒ったような声をだした為か、ジローはすぐにしゅんとなった。

「ごめん・・・。怒った?」
「次は無いから」
強い口調で、告げる。
次、と言ったのは今回は許すと意味を込めたからだ。
悪気無いのはわかってる。
だけど騒ぐのはもうこれっきりにして欲しかった。

「うん、やらない。絶対」
拳を握り締めて、ジローは誓う。
「全く、人騒がせなんだから」
「ごめんね」
もう一度謝るジローに、「もういいよ」と言う。
良かったとジローが笑う声が聞えて、仲直り出来たことを互いに理解する。

(面白い人、だよね)

今までの誰よりも、簡単に距離が近付いた気がする。
目が見えないことだって、わざとらしくなく普通に触れてくれてた。
少なくともこういうのは、嫌いじゃない。

「で。今日は何か用?」
人のクラスに押し掛けて来たからには、急用か何かだろう。
だけどジローの回答は、全く予想とは違っていた。

「あ、うん。またリョーマとお昼寝しようと思って」
「は?」
暢気な言葉に、リョーマは一瞬足を止める。
「昨日のベンチより、良い場所知っているんだ。
誰もいない特等席だよ」

どうかな?と言われ、脱力する。
そんな、そんなことで大声を上げて、教室に乗り込んで来たのか。

「だったら、こそっと声を掛けてくれれば良かったのに・・・」
つい、非難めいた口調が出てしまった。
「だからそれはごめんって。
でも別に悪いことしてることじゃないから、こそこそするのも変じゃない?」
「変・・・だよ。だって俺とジローって別に部活の先輩・後輩でもないのに」

何の関係の無い人。
親しげにされて、戸惑うばかりだ。
それに侑士と、跡部も。
テニス部に関係する人物ばかりというのも、偶然にしては出来過ぎている。
それに裏があると勘繰る人がいないとも限らない。
実際は(多分)何も無いのだが。

「変って?友達になるのに、同じ部活じゃなきゃいけないなんて聞いたことないよ?」
「そういう意味じゃないけど・・・」

リョーマも、ふと考えてしまう時がある。

実は榊に頼まれて、面倒をみているんじゃないかって。
特に跡部の態度は、初めて会ったころと180度も違う。
それが榊による差し金だったら辻褄も合う。
侑士もジローも部長である跡部の言うことを聞いて、仲良くしてくれようとしているだけじゃないのか。

それが真実なら、ヒドイ侮辱になる。
今すぐに離れていって欲しい。
そんな義務なんて必要無い。

「俺ね。リョーマの事、気に入っちゃったんだ。
先輩・後輩とか関係無しに一緒にいたい。」

とても演技には聞こえない声が聞こえる。
優しく暖かな響きだ。

「だめかな?」
きゅっと袖をジローが掴んでくる。

「だめとかじゃないけど」
「それなら、友達になってもいい?」
「う、ん・・・」

懇願されて、リョーマは結局頷いてしまった。

「あ−、良かったっ!だめだって言われたら泣くところだったよ!」
「そんな、大袈裟・・・」
「俺、真面目に言ってるのにー」
誰かに頼まれて、こんな嬉しそうな声を出すわけがない。
一瞬でも疑ったことを心で謝罪して、リョーマも小さく笑い返した。

(ジローは、本当のこと言ってるよね)
信じようと、言い聞かせる。

「それじゃさっそくお昼寝しに行こうか」
「あ、それなんだけど今日は無理」
ジローのお誘いに、きっぱりと首を振る。
そう。今日だけは無理だ。

「なんでー?」
不満全開のジローの声に、理由を口にする。
「病院行くから」
そう。こればかりは行かなければいけない。
「え、病院?」
恐る恐るといったジローの声に、安心させるように説明をする。

「うん、定期的な検査。簡単なものだけど、ちゃんと行かないと」
「そっか。注射とか痛いことするかと思って、心配した」
「平気」

たしかに平気だ。痛いコトは一つも無い。
それよりも、こんな状態がいつまで続くか不安なだけ。

ねえ。
いつになったら、俺の目は治るの?

「本当、平気だから」
「リョーマ」

袖を掴んでたジローが、杖を持ってない方の手をぎゅっと握る。

「あのね、リョーマ。そんな風に言わなくてもいいんだよ」
「え?」
「俺の前では無理しないで。
強がってばかりだと、リョーマがいつか消えちゃいそうで怖いんだ」
「ジロー・・・」

ジローの手が軽く汗ばむのがわかる。
それでも繋いだまま、ゆっくりと歩いて行く。

「勝手なことばっかり言ってると聞き流してくれてもいいよ。
でも、俺には強がり言わないで。
言う必要は、無いから」
「なんで?」

昨日今日会ったばかりの人に、とリョーマは腑に落ちない顔をする。
そこまで言われる程、親しくないというのに。

「なんでだろなー。それは俺にもわかんない」
「は?」

聞いてるのはこっちだ。

うーん、と唸った後、ジローは「あ!」と声を出す。

「きっとリョーマのことが好きだからだよ」
「え」
「うん、きっとそうだ。でなきゃこんな風にお昼寝に誘いに来ないもん。
気持ち良さそうな寝顔見てて、リョーマと近付けたらいいなーって思ってたんだ」
「あの、ジロー?」
「リョーマとね、友達になりたい。ねー、いいよね?」

押し切られる形で頷いてしまう。
ジローはやったー!なんて喜んでいるけど。

(よく、わからないな)

寝顔見ただけで、友達になりたいとはどういう感覚だ。

ジローのそういうところは理解出来ないかも、とリョーマは首を捻った。

とにかく自分は気に入られたってことはわかる。
それも、ものすごく。

強がらなくてもいいと言われたのは、始めてだ。

普通なら、本音を見抜かれたことにもっと意地を張って違うと否定するところだ。
でも、ジローには。

(なんか、普通に「うん」て言っちゃうんだよね)

素直で裏表無いジローの前だからか。
不思議だ、とリョーマは改めて思った。



いいって言っているのに、ジローは校門まで送ってくれた。
「リョーマ、また明日ね」
「うん、バイバイ」

バイバイー!とジローの声が響く。

(また周囲に聞えるような声出しているし)

けど、やめろとは言わない。
ジローが精一杯送り出そうとしている気持ちがわかるからだ。



カチロー達には、明日ちゃんと話をしよう。
説明して、わかってもらえなくても構わない。


『先輩・後輩とか関係無しに一緒にいたい』
『リョーマのハッキリした態度が気に入ったんや。
それだけじゃあかんか?』

本当は、嬉しかった。
自分のことを認めてくれる人達に会えたこと。
大事なのはそれだけだ。
たしかに人の目を気にしているなんて、自分らしくない。

二人共、リョーマと友達になりたいといって、それを承諾したのだから堂々としてればいい。

「俺もまだまだ、だね」

足取りはいつもよりずっと軽い感じがした。


2004年08月29日(日) 盲目の王子様 29 忍足侑士

さぼっていた罰だ。

跡部にグラウンド30周を言い渡され、そのノルマをこなした後もジローは元気だった。

「跡部ー、勝負しようよ。勝負ー」
「勝負だあ?一度も俺様に勝ったことないくせに、よく言えるな。そんなもん却下だ」

妙に機嫌の悪い跡部と対照的なジロー。
何事かと他の部員達の関心を集めていたが、直接尋ねる勇気のあるものはそういない。

「1ゲームだけでもいいじゃん。ケチ」
「うるさい。とっとと練習メニュー消化しやがれ」
「つまんないー。俺が勝ったらリョーマのこと色々教えてもらおうと思ったのに」

とんでもないことを口にして、ジローはくるりと身を翻した。
しまったと跡部が思った時には、遅い。
ずっとこちらを気にしていた忍足の耳に、しっかり聞こえてしまったようだ。

「ジロー、今リョーマって言うたか?」
「うん、言ったけど。それがどうかした?」

すかさずジローに問い詰める忍足。
また鬱陶しい展開になりそうだ。跡部はうんざりして顔を背けた。

「リョーマと会うたんか?いつ、どこで?」
「え?さっき。中庭のベンチで。・・・ってさ、忍足もリョーマの知り合いなの?」

忍足は跡部の方を向いた。

練習さぼって何やってんねん。
そう言いってやりたいのを、我慢しながら睨みつける。

もちろん跡部はそんなのは無視して、コートへと入る。

「ボールを出せ」

練習していれば絡まれることはないことを見越してのことだ。

「ねー、忍足。一体、どういう知り合いなんだよ」
「んー?」
「リョーマと。いつのまに知り合ったの?俺、聞いていないんだけど」

どうやら自分より先にリョーマのことを知っていたのが、気に入らないらしい。
問い詰めるような口調のジローに、忍足は苦笑した。

「偶然や、偶然。俺かて友達になったのは最近やし」
「ふーん。じゃ、跡部は?なんでリョーマと知り合いなのか、忍足は聞いてる?」
「いや、全く」

榊絡みじゃないかという噂は黙っていることにした。
監督に頼まれて、リョーマの面倒をみている。
それなら跡部が懇意にしているというのも、すんなりと納得できる。
できるけど・・・跡部の態度は誰かに頼まれてしているようなものではない。
個人的にリョーマを気に掛けている。
忍足の目にはそんな風に映っていた。
ただ、何故跡部がリョーマに興味を持ったのかまではわからない。

「うーん。直接聞いても教えてくれないんだよね・・・」
「ジローは?さっき初めて会うたんか?」
「うん。そうだよ」

こくっとジローは頷く。

「その初めて会うた子を、なんでそんなに気にするん?
理由を聞いてもええか?」

跡部だけじゃなく、一体ジローともいつ知り合ったのか。
忍足にしたらそれも気になるところだ。

「なんでかな・・・」
腕組みをして、ジローは考え込む。

「気持ち良さそうに寝てた顔が可愛かったのも、あるけど」

寝顔を見たんか?
一体何してたんやと言いたいのを、忍足はじっと我慢する。

「さっきね。俺、部活の見学に来たら?って言っちゃったんだ」
「ジロー・・・。リョーマは目が」
「うん。俺、気がついていなくて。すぐに、リョーマが教えてくれたよ。
『俺には何も見えないから』って。
あの子、さらっと言ったんだ」

くしゃっとジローは髪をかきあげる。

「だけど辛そうに見えた。
本人はそれを気付かせないようにしているつもりだろうけど。
無理して強がってる。忍足は、そう思わない?」
「せやな・・・・・」

ジローの言う通りだった。
いつでもぴんと張った背中。
精一杯強くみせているつもりだけど、いつか折れそうで怖い。

「リョーマは笑っている顔の方が絶対いいよ」
「ああ」
「俺、もっと仲良くなって楽しいこと、沢山教えてあげようっと!」
「ちょっ、ジローそれは」

俺がやるからええよ。
言う前に、ジローはぴょんと一つ飛んで反対側のコートへ走って行ってしまった。

「さー、やるぞー!かかって来い!」
「芥川先輩・・・・。まずサーブの練習からっすよ・・・」

無駄にやる気になっているようだが、どこか空回っている。

「しょうがないやっちゃなあ」
跡部の方を見ると、さっきからずっとスマッシュの練習ばかりでそれ以外何も進んでいない。

「あっちはあれで、いっぱいいっぱいみたいやな」
ハハ・・と笑い、忍足もラケットを握った。

「俺も練習に戻るか」
「侑士」
「お、岳人。フォーメーションの練習やるか?」
「やるかじゃねぇ!いつまでくっちゃべってるんだ!」
「岳人君・・・ラケット殴打はホントに勘弁して下さい。痛いから!」
「お前が遊んでいるからだろ!」

色々人生は厳しい。
痛む頭をさすり、忍足は悟った。


2004年08月28日(土) 盲目の王子様 28 跡部 ジロー

忍足に続いて、ジローまでもが越前に構っている。
一体、どうなっているんだ。


ジローを探しに行くつもりで、コートを抜け出したのは建前。

いつもなら樺地に捜索を頼むのだが、
気分転換にと自ら足を運んだのは、中庭でリョーマと会う可能性があるからだ。
前に見たのと同じように、ボールの音に耳を傾けて座っているかもしれない。

そんな期待をしていた。

監督不在をいいことに他の部員への指示を出した後、
跡部は中庭へと歩き出した。

そして期待した通り、リョーマはベンチに座っていた。

ただし、その隣には何故かジローがいる。

(あいつ、練習さぼってこんな所にいたのか)

リョーマの手を握っているらしい姿を見て、跡部の理性は切れてしまった。

「なにやってんだ」

荒々しくジローの手を、払う。

忍足といい、馴れ馴れしいやつばかりで腹が立つ。
忌々しげに跡部はジローを睨みつけた。


「跡部、怖い顔ー。なんかあったの?」
「なんかあったのじゃ、ねえよ。お前がサボってるからに決まってるだろ!」

えー?とジローは首を傾げた。

「サボってたんじゃないよ。お昼寝してただけ」
「同じ事だ!」

急に大きな声を出したせいか、リョーマがびくっと体を揺らす。

「ほら、跡部。怯えているじゃん」
カワイソーと非難めいた口調で、ジローはリョーマの肩に触れた。

「大丈夫だよ。いつもこんな感じの奴だから、気にしないで」
「なんでお前が気にするなとか言うんだ」
「跡部のフォローしてあげてるんじゃん!」
「それのどこがフォローだ」

下らないことで言い争いする二人に、リョーマがストップを掛ける。
「あのさ、俺別に気にしていないし」
「ほんと?良かったー」
「ところで二人って知り合いなわけ?」

その辺がわからないリョーマは、二人に尋ねる。

「・・・こいつは、俺と同じテニス部なんだよ」

テニス部、の単語で、跡部にはリョーマが反応したように見えた。
見えただけで、実際はどうなのかわからないが。

「何!?跡部こそ、この子のこと知ってるの?」
きょろきょろとジローは跡部とリョーマの顔を見比べる。

「どういう関係?」
「どうって・・・」

詰め寄られたのは、リョーマの方。
困った顔をしたリョーマに、跡部は無意識にジローとの間に体を割り込ませる。
「よせ。お前には関係無いだろ」
「何だよ、その言い方」

むぅっとジローは頬を膨らます。

「そうだ。俺、名前も聞いてないよ。ねぇねぇ、何て言うのー?」
リョーマは跡部の体に隠れてしまっているというのに、気にもせずジローは呼びかける。


そんなジローを見て、跡部は眉を潜めた。
忍足に続いて、ジローまでも友達になりたいなんてバカ言い出すんじゃないだろうか。
嫌な予感だ。

「跡部、ちょっとどいて。邪魔」
「邪魔とか言うな!お前の方が邪魔なんだよ」
「俺がその子と話してるのに、邪魔しているのは跡部じゃん!」

また不毛な争いが始まったと、リョーマは溜息をつく。

「越前、リョーマ」
「え?」
「俺の名前。これでいい?」
「うん!」
「おい、越前・・・」

教える必要なかったのにと、自然非難めいた目でリョーマを見た。
しかし、こちらの表情がわからないリョーマは小さく首を竦める。
「だって教えないと、いつまでも騒ぎそうだから」

これくらい別にとサバサバした様子だ。

「そうかよ」
「これからリョーマって呼ぶね。俺のことはジローでいいから!」
「ハイハイ」

二人のやり取りを見て、跡部はこれ以上は無い位、眉を顰めた。

・・・やっぱり何かむかつく。
ふるふると震える腕を、拳をぎゅっと握り締めることでやり過ごす。

「ジロー、そろそろ帰るぞ」

とにかくジローをここから離してしまおう。
それが一番良さそうだ。

そう判断して、跡部はジローの襟首を掴んだ。

「えー、ヤダヤダ。もっとリョーマとお話したい!」
「バカ!顔出さないと、他に示しつかないだろうが!」
暴れるジローを抑えて、立ち上がる。

「リョーマ〜」

情けない声を出すジローに、リョーマはくすりと笑って立ち上がる。

「俺はもう帰るから、部活にちゃんと顔出しなよ」
「え、帰っちゃうの!?」
「うん。寝てる間に時間経っちゃったみたいだから」

まさかとは思うが、ジローと一緒に昼寝していたのだろうか。
リョーマの一言に、跡部は思わず考え込んでしまう。

(こいつ、こんな所で寝るなんて無防備過ぎるだろうが!)
しかもジローと、なんて。
空いてる手で、額を抑える。


「折角会えたのにー。そうだ、今からテニス部の見学においでよ」
良い事を思いついたかのように、ジローは両手を叩く。

「え・・・俺は・・・」

顔色を濁したまま、リョーマは答えない。
当然だ。
見学しても、目に映るものは何もないのだから。

「おい、ジロー」
「何?」
「お前、気付いていないのか」
「え?」

リョーマの目が見えない、こと。

きょとんとしているジローに、わかっていないと確信する。
気付いていないのなら、伝えるべきだろうか。
だが何て言う?本人の前だぞ?

跡部が迷っている間に、リョーマが一歩、距離を縮めてきた。

「折角だけど、それは出来ない」

顔を上げ、リョーマはジローにハッキリと告げる。

「行っても俺には何も見えないから」
ね?と杖でこつこつ地面を叩く。
「これが無いと学園を歩く事も出来ない」
「そっか・・・リョーマは目が・・」

小さく呟くジローに、跡部はそっと掴んでいた手を離した。
さすがに今日は、これ以上リョーマにしつこくしないだろう。
もうジローを連れてコートに戻ろうとする。

しかし、
「痛くない?」
「ジロー!?お前、何やってんだ?」
ジローはリョーマの顔に手を伸ばし、そっと目の辺りに触れた。
触れられたリョーマの方は、一体何が起きたのかと目を瞬かせる。

「え、別に痛いとかじゃないけど」
「痛くはないんだ。良かった」

へへっとジローは笑って、杖を持ってないリョーマの手を掴む。

「これが俺の顔」

そう言って、眉に瞼に鼻に唇に触れさせる。

ジローの行動に驚いて、跡部もリョーマも動けない。

「覚えておいてね」
「あ、うん・・・・」

ジローはゆっくりとリョーマの手を離した。

「変な人」
くすっとリョーマは笑う。

「こんなことされたの、初めてなんだけど」
「だって俺の事、覚えて欲しいんだもん」
ジローも笑う。

「だから忘れないでね」
こくんとリョーマは頷いた。


疎外された雰囲気に、跡部は小さく舌打ちする。
だけれどリョーマの顔がとても穏やかだったので、邪魔するにも憚られる。
ここでまた何かうるさく騒いで、嫌われるようにはしたくない。

「また今度、お昼寝しよ。部活の無い時に」
「おい、ジロー・・・」
が、とんでもない誘いに、さすがに声をあげてしまう。

「もういい加減にしろ!早く部活行くぞ!」
「なんだよ、跡部ー」

抵抗するジローを、今度こそ跡部は引き摺って行く。
けれどその間も、ジローはリョーマへ声を掛け続ける。

「リョーマ、またね!絶対絶対また会おうね!」
「さようなら」

跡部もリョーマに何か一言声を掛けようかと思ったけれど、何も出てこない。
ただ黙って小さな背中を見送るだけだ。

折角、会えたのに。
ろくに話も出来なかった。

それもこれもジローのせいだと、ジャージを掴んでる手に力を込める。
首、痛い!とジローが抗議しても、放してやらずにいた。


2004年08月27日(金) 盲目の王子様 27 越前リョーマ 

中庭への道のりを、リョーマはのんびり歩いていた。
何度も榊と歩いたおかげか、どこに障害物があるか大方覚えている。

(最初は、何度も転びそうになったけれどね)

根気良く教えてくれた榊には、心底感謝するしかない。

多分、榊はわかっていてこの道の通り方を教えてくれたのだろう。

この先を行くと、ボールの弾む音が聞える。

そこで、リョーマは足を止めた。

音を聞いて何になる訳でもない。
自分ののやっていることは、自分の傷口を広げているだけかもしれない。

(この目では、コートに戻れないのに・・・)

それでも生まれた時から慣れ親しんでいる音を聞きたいという欲求は、止まらない。
すぐにでもラケットを握って、ボールを打ち込みたい。
あの高揚した気持ちを簡単に、忘れられるもんか。

もう一度コートに立てるなら、全てを引き換えにしてもいい。
何も望まないから、あの場所へ戻りたい。

ぎゅっと杖を握た後、リョーマはいつも座っているベンチを探そうとゆっくり足を伸ばす。

(たしかこの辺りに、あったはず)

探り当てた杖がカツンとベンチに当たり、音を立てた。

「んんー?」
「え?」

今、声が聞こえたような。

びくっとして、リョーマは思わず杖を落としてしまう。
カラン。杖は音を立て、足元へと転がった。

「・・・なーにー?」

今度はハッキリ声が聞こえた。
しかし構っている場合じゃない。

慌ててしゃがみ、リョーマは手を地面に伸ばす。
幸いにもすぐに見付かり、しっかり手で掴んで立ち上がる。

「あー、よく寝た」

ふわぁと欠伸する男の声が、リョーマの耳に伝わる。

どうやらベンチにいるらしい人物は、眠っていたようだ。

今の物音で起こしたことになるのだろうか。

そんな心配を余所に、誰だかわからない人物はのんびりとリョーマに声を掛けた。

「ここ、座る・・・・?」
「え、いいっす」

面倒が起きる前に、リョーマは帰ろうとくるっと帰り道へと体を翻す。

しかし、男はとんとんと手の平でベンチを叩き始める。
どうやら座れという意思表示らしい。

「俺が一人占めしちゃってたから、座れなかったんだよねー。もう空けたから、座ってもいいよ」

(そんなこと言われても、困る)

「ねぇ、聞こえてるー?」
動かないリョーマにしびれを切らしてか、男が立ち上がる気配がする。

どうしようかとまだ迷っている間に、近付いてきた男の手が空いているリョーマの手をさっと取った。

「ちょっと、何!?」
「遠慮してるみたいだからー、こうでもしなきゃ座らないかなって」

結局、引っ張られる形で、リョーマはベンチに座らされてしまう。

「はい、ここだよ」

強引な行動だったけれど、のんびりした言い方に突っ張ねる気が削がれてしまう。
全く悪意を感じないのもあるけれど。

「良いお天気だよね」
「はぁ」
何故だか男はベンチを空けたといいながらも、リョーマの隣にちゃっかり座ってしまっている。

「こういう時ってさ、お昼寝したくならない?」
「まぁ、そうかも」

なんだろう、この人。
一応寝ることは好きなので気持ちはわからないでもない。
頷くと、男は何故か嬉しそうに「そうだよね!」と声を上げた。

「さっきもこのベンチに座ってたら、気持ち良くなって寝てたところなんだ」
「・・・・・・起こしちゃってスミマセンね」
「あ、怒っている訳じゃないんだよ?ほんとだよ」
「はぁ」

会話の意図がさっぱり掴めない。
それなのに返事をしてしまっている自分は、この男に乗せられているのだろうか?

「本当、風が気持ち良いー」

独り言な呟きが聞こえ、男は静かになった。
もしかして、また眠ったとか?
心配になって、声を掛けてみることにする。

「あの、ちょっと?」

反応は無い。言葉を発してから10秒も経っていないのにだ。
返事の代わりにすやすやとした寝息が聞こえてくる。

「寝つき良過ぎだろ」

人の事は決していえないのだが、リョーマは呆れた声を出した。
たしかに昼寝したくなるような、気持ちよい気候だ。
しかし瞬間的に眠ってしまうのは、気候の所為だけではないだろう。

(まあ、いいや。うるさく話し掛けられるよりマシだし)

聴覚に神経を集中させると、コートから心地良いボールの音が聞こえてくる。

心地良い、好きな音だ。

しばらくその音を聞きながら、いつしかリョーマも瞼を閉じてた。
隣にいる男の寝息につられたせいかもしれない。

(ちょっとだけなら・・・)

ベンチに体を預け、リョーマは眠りの世界へ入っていった。












しばらくしてから、何か暖かいものに気付く。
(なんだろう、これ)
目を開けるが、やっぱりそこには暗闇だけが広がっている。

「起きた?」

すぐ後ろから声が響き、ぎょっとして体を起こす。

「イッタっー」
「大丈夫!?」

ぶつかったのは、ベンチだった。

「あーごめん。びっくりさせるつもりはなかったんだけど」
「いや。なんでもないから」

大丈夫と手を振る。
そうだった。あのままうたた寝をしていたんだっけ。
でも・・・・あの感覚は。

「もしかして、あんたに凭れて寝ていた?」
恐る恐る尋ねると、相手は「うん・・・」と気まずそうに返事をした。

「気持ち良さそうに寝てたから、起こすのもなんだと思って」
「・・・・・・・・」
「君の寝顔がすごく可愛かったC」

見知らぬ人の前で醜態を晒したことに、かっと顔が赤くなる。
(しまった。こんなに寝てるつもりは無かったのに)

動転したリョーマの心に気付かず、男はのんびりと欠伸をした。

「また昼寝したくなったら、一緒にしようよ」
「は?」
「俺ね、芥川慈朗っていうんだ。あ、ジローでいいから」

(やっぱりこの人、ずれている?初対面で一緒に昼寝しようって、普通言わないよな)

ジローと名乗った男は、「握手」なんて勝手に手を握っていた。

変わった人・・・・。
そう思いながらも振り解かないのは、さっきと同じ体温が伝わっていたせいかもしれない。

「君の名前は?」

答えようかどうしようかリョーマは迷った。
悪い人じゃないらしいが、信用して良いものか。

何故そんなことを聞くのかと、リョーマが口を開きかけると同時に、
低い声が響いた。

「ジロー、こんな所にいやがったのか」

その不機嫌そうな声に、リョーマもジローも思わず手を離してしまう。

「跡部っ!?なんでここにいるの!?」
「跡部さん・・・?」
「こんな所で何してる。アーン?」

跡部の声には静かな怒りが篭っている。

それよりもジローは、跡部の知り合いらしいようだ。

(一体、どういう知り合いなんだろう)

いまいち状況が把握しきれず、リョーマは跡部が次に何を言ってくるのかを待つことにした。


2004年08月26日(木) 盲目の王子様 26 忍足侑士

「侑士、どこに行くんだよ」

授業が終ると同時に駆け出そうとした忍足を、向日は引きとめた。

「俺達の班、掃除当番だって忘れたのか?」
「ちゃんと覚えとる。でもな・・・」
「でも、なんだよ」
「見逃してくれ、頼む!」

言うなり忍足は逃げ出してしまった。

「あの野郎・・・・・・」
「向日、ごみ捨ててきて」
「なんで俺が!」
「掃除当番だから」
「他にもいるだろ!」

しかし訴えるような女子の視線に耐え切れず、向日は黙ってゴミ箱を手に持った。
くそくそ侑士めと、八つ当たりに心の中で何回も罵りながら。




忍足が急いでいたのは、勿論リョーマの教室へ行く為だ。
お昼休みに、無表情だったあの態度がどうにも気になって仕方なかった。

「リョーマっ」

幸いにも、リョーマの帰る時間だったようだ。
しかし教室に迎えに行くと言ったのに、リョーマは廊下を歩き下駄箱へと向かっている。

下手をしたら掃除当番をサボったことが無駄になっていただろう。
会えて良かったと、忍足はリョーマの隣に並ぶ。

「教室に行く言うたやん。聞こえんかった?」

しかしリョーマは無反応。
まるで忍足がいないかのように歩いている。

「リョーマ、怒ってるんか?」
「・・・・・・・・」

無視されるのはキツイなと、忍足は頭を掻く。

やはり余計な手を出したことが気に食わなかったのだろうか。
しかしあのまま放っておくことなど、出来るはずがない。
どうしたらわかってもらえるかと思案しながら、リョーマの横顔を眺める。

人の手は借りたくないとリョーマが思っていても、場合にも寄るのではないか?
守られたくないと必死で強くあろうとしても限度がある。
そんな時くらい、手を伸ばしたらあかんのやろうか。

跡部は・・・・。
どうやってリョーマと接しているのだろう。

ふとよぎった自信満々のチームメイトを思い浮かべ、忍足は考える。

(跡部ならもっと上手く接してやれているのか?)

特に今朝のリョーマは、跡部に全面信頼しているように見えた。
やっぱり跡部なら、良いってことなのか。

(いや、あの俺様な跡部がリョーマとケンカしたことないなんて、あり得ん)
考え直して、軽く首を振る。
ああでもない、こうでもないと考え事をしえいると、

「ねぇ、ぶつぶつとうるさいんだけど」

リョーマの声に、忍足ははっと我に返った。

相変わらず前を向いたままだけど、リョーマから口を利いてくれた。

それが嬉しくて、忍足は頬を緩める。
しかしすぐに、引き締めなおす。

ここできっちり仲直りをしておかねば、きっと気まずい思いを引きずることになる。

「はは、心の中の声を出してみたいや」
「あ、そ」
「どうやったらリョーマと仲直り出来るか。そればっかり考えているんやけどな」

また黙ってしまったリョーマに、失敗やったかと忍足は軽く溜息をついた。

(ああー、どないしよ。)

後悔する忍足に、ぽつりと小さな声が響く。

「・・・・・ごめん」
「なっ、何を謝ってんのや?」

寧ろ余計な手を出した自分が謝罪するべきだったのだ。
驚く忍足に、リョーマはふるふると首を振る。

「昼間のこと。侑士がいなかったら、収まらなかったかもしれない」

下駄箱まで到着して、ようやくリョーマは足を止めた。
忍足も足を止め、すぐリョーマの真正面に向かい合う形になる。

「侑士が来てくれて助かった。けど」
「けど、何や?」
「俺、悪くないから」

廊下の端っこを歩いていたけど、大声で会話しながら歩いてた彼女達がぶつかってきた。
謝れと喚きだしたけど、非は無いと主張したら囲まれた。
大体、リョーマの話は忍足の想像してた通りだった。
最も、ジュースを奢った女子生徒達は、自分達は悪くないと忍足に主張してた。
謝って欲しかっただけなんですと、被害者ぶって上目で媚を売る連中になど興味はなかったが、適当に相手をしていた。

「リョーマが悪いなんて、思ってへんよ」
ぎゅっと杖を握っている手を安心させるよう、ぽんぽんと軽く叩く。
「でも、侑士聞いてくれなかった」
「ん?」
「あんな人達に謝罪する必要なんてないのに。取り持つようなことするから、腹が立った」

そうかと納得する。
怒っていたのは、しゃしゃり出てきたことじゃないらしい。
悪くないのに、謝罪したことを怒っていたようだ。

「ごめんな、リョーマ。でもどちらが悪いとかやなくあの場はああやって収めないと、いつまでも引かへんで」
「・・・・・・・」
「リョーマが悪くないのは、わかっとる。でも感情的な人間を相手にしてもしゃあないやろ?時間の無駄や」
「その為なら、相手に非があっても頭下げろってこと?」

忍足の言葉に、リョーマは不満げな声を出す。

この少年はどうやっても自分の信念を曲げないだろう。この先も、きっと。
損な性格でもある。
もう少し上手く世渡りすれば良いものを、これでは敵を作るばかりではないか。

忍足は、何も映していないリョーマの目をじっと見た。
だけど。
純粋で決して誰かに媚を売るような真似をしないリョーマに、それはやめた方が無いなんて言えるはずもない。
この誇り高き少年に、変わらずいて欲しいと思う。

心から。


「リョーマが下げること、ないで」
「え?」
「頭やったら、俺が下げたる」
「侑士?」

くしゃりと頭を一つ撫でる。さらりとした心地良い感触が指を掠めた。

「リョーマはそのままでええねん。何かトラブルが起きたら、俺を呼んでや。
いつでもその場は収めたる。どうや?」
「なんで?侑士がそんなこと・・・・」

戸惑うリョーマに、忍足は自分の胸を一つ叩いた。

「俺ら、友達やん。友達見捨てるんは、俺の主義に反するからな」
「そんな主義持ってたんだ」
「そうや。だからいつでも頼ってや」
な?と詰め寄ると、ぎこちなくリョーマは頷いた。
「ありがとう、侑士」


ほんの少しの負担だけでも、どうか背負わせて。
そう思うのは自己満足なのだろうか。
わからないけれど。

(今、自分が本当にそうしたいのなら、それでもええんやないか)

跡部がこの少年に惹かれるのは、こんな所なのだろうか。

もっと知りたいと、忍足はリョーマの横顔をずっと眺めていた。







「明日の当番は、お前一人でやることが決定したからな」

少し遅れて部活へ顔を出した忍足に、向日は腕を組んで高らかに宣言をした。
「・・・どういうことや?」
「うるせぇ。お前一人だけ逃げ出しやがって。全員の決定だ」
「そんなー、な、手伝ってや。友達やろ?」
「知るか」
「岳人君、後慈悲をどうか」
「さっさと走ってこい。お前、練習にも遅れて何やってんだよ」
「岳人ー!頼むからー!」
「叫ぶな。黙ってろ」
「うう・・・・泣きそうや」


2004年08月25日(水) 盲目の王子様 25 忍足侑士

昨日から、跡部の機嫌は絶好調だ。
今日の朝練の時までもその状態は続いているから、皆の目には不気味に映っていた。

「おかしいよな、絶対」
なあ、と向日が首を捻る横で、
忍足はもしかして・・・と理由を察する。

推測が当たっているのなら、行動を起こすしかない。



「おはようさん、リョーマ」
「・・・侑士?」

不慣れな様子だけどちゃんと名前を呼んくれる盲目の少年に、忍足は近寄って頭を撫でた。

「よし。今日は名前で呼んでくれたんやな」
「呼べって言ったの、そっちだし」
「勿論、これかも名前で呼んでな」

はあ、とよくわからないような表情をして、リョーマは頷く。
リョーマの様子を見ながら、忍足は微笑んだ。

朝練が終わると同時に、急いで来て良かった。
のんびりしてたら、会えるかわからない。
確認する為には、絶対リョーマと会っておかなければならない。
正確には、リョーマに会いに来る跡部を見る為なのだが。

(来たな)

「忍足・・・ずいぶん急いで来たようだな」

そう言いながら、跡部はリョーマの横に立った。

「おはよう、跡部さん」
「おはよう。また忍足に掴まったのか?こんな奴の相手することないからな?
何かされたら遠慮なく俺に言え」
「おい!何かって、何や」

忍足の抗議を無視して、跡部はリョーマの肩にさりげなく手を置いている。

(あからさまな、奴)

跡部は、忍足の視線を全く気にもしていない。
見えているのは・・・盲目の少年だけ。

(なにかあったんやろうなあ)

跡部の機嫌にリョーマが絡んでいるのは、間違いないだろう。


しかし、この二人はいつから親しくなっているのか。
跡部は、リョーマのどこに惹かれているのか。

興味は尽きない。

(その辺りは、じっくり突き止めることにするか)

ガードされてる今、リョーマに近付くのは困難だ。

機会はいくらでもある、と忍足は余裕の表情で二人の後に続いた。









その機会を作るために、昼休みに忍足は購買へと足を向けてみた。

「? なんや、あれ」

購買から少し離れた場所で、女子生徒が何人かたむろしているようだ。
興奮したような罵倒の声が、こちらにまで響く。

みっともないなぁと、忍足は眉を顰めた。

何があったか知らないが、往来でヒステリックに叫ぶ姿は不愉快なものでしかない。
かといって、この場を収めようなどという考えが浮かぶ訳でもなかった。
他人のことだ。ほっとけばその内、終るだろう。

それよりもまたいちご牛乳でも買って、リョーマのクラスに顔を出す方が重要だ。
うまく会えることだけ考えていた忍足は、人だかりの前を素通りしようとした。

「だから、ぶつかってきたのはそっちだろ。さっきから言いがかりつけるの止めろよ」

足を止めたのは、凛と響く勝気な声のせいだった。
まさかと思いよくよく見ると、女子生徒に囲まれているのは、会いに行こうと思っていたリョーマ本人だ。

リョーマの声にいきりたった女子達は「なんて図々しい」と顔を赤くする。

「リョ、リョーマ君」
すぐ隣にはいつか見た後輩二人(忍足は名前を忘れている)がおろおろしている。

「あんたのせいよ。そんなこともわかんないの!?」
「随分、生意気な態度ね。先輩に対する口の利き方も知らないようだし」
「俺、あんた達が先輩かどうかなんて見えないんだけど」
「そうやって都合が悪くなると、逃げるって訳?そんなの卑怯よ」

両者とも一歩も譲る気は無いらしい。
仕方ないな、と忍足は苦笑した。

プライドの高いリョーマは嫌がるだろうが、この場合、手を貸さずに見過ごすことは出来ない。

「あー、君ら。何してんの?」

突然現れた第三者の声に、女子生徒達はキッと一瞬睨みを利かせるが、
忍足の顔を見て、途端にしおらしい声を出した。

「何でもないんです。ちょっとしたトラブルで。ねぇ?」

一人の子がそう言うと、他のメンバーも黙って頷く。
二年生の子達やな、と忍足は彼女達の顔を眺める。
氷帝テニス部のレギュラーとなると、全校生徒の間でも知らないものはいない。
特に忍足は、容姿と人当たりの良さで女子生徒達の間でも人気は高い。
これはお近付きになれるチャンスかも。
そんな眼差しで彼女達は忍足を見詰めるが、生憎と視線は輪の中にいたリョーマにだけ向けられていた。
大人しくなった女子生徒達と違い、リョーマは未だにぶすっと拗ねているようだ。

「どうしたん。トラブルって何や?」

優しい声を出し、忍足はリョーマではなく傍にいた後輩に尋ねる。
先輩の顔を見て助かったと思ったのか、ほっとした表情で二人はそれぞれ口を開いた。

「僕らが購買に向かう途中、ちょうどこの人にぶつかってしまって」
「その人が持っていたジュースの中身が制服にかかっちゃったんです」

なるほどと、忍足は頷く。
リョーマに罵声を浴びせていた一人の制服が、オレンジ色の染みをつけているのはそのせいか。
飲みながら歩いていたジュースの缶がぶつかった拍子に、制服にかかった。
この場合、どちらが悪いとかは見ていないから判断はできない。
しかし彼女達はリョーマが悪いと言って、謝罪を求めたのだろう。
そして非を認めない態度を糾弾した。そういうことらしい。

「ぶつかったのは俺達じゃない。あっちからだろ」

吐き捨てるように呟いて、リョーマは二人の言葉を訂正した。
なんですってと、小さな声だが再び殺気立ってきた彼女達に、忍足は「まぁまぁ」と取り直した。

「怒る気持ちもわかるけどな。堪忍してやってや。そや、だめになったジュースの分は弁償するで、な?」

別にそんな・・と彼女達は顔を見合わせ、戸惑う空気が流れる。
しかし忍足はそれに構わず、話を進めた。

「君らも奢ってやるで、そんな目くじら立てんと。怒ったら美人が台無しや」
えー、そんなと媚びる笑いをする女子生徒達に、忍足は愛想笑いを返す。
何がええ?と女子生徒達を購買に押しやりながら、忍足は後輩二人に囁く。

「この場は任せとき。君らは帰った方がええ」
「忍足先輩、ありがとうございます」

感謝の言葉を言って頭を下げる後輩に、「ええよ」と手を振る。
ただ、無表情でいる盲目の少年のことは気にはなったが。

「リョーマ、放課後教室に行くから」
こそっと囁いた声に無反応のまま、リョーマは杖をついて歩き出してしまった。


2004年08月24日(火) 盲目の王子様 24 跡部景吾

図書館の片隅。

ちょうど棚で死角になっている席だから、入って来た瞬間には跡部も気付かなかった。

(越前・・・?)

本を枕にしてうつぶせの体勢を取っているリョーマに、そっと近寄る。
ぐっすり寝入っているようで、すぐ隣の椅子を引いてもリョーマはぴくりとも動かない。

(平和な寝顔だな)

穏やかに目を閉じて眠っている。

跡部は思わず笑みを零した。

起きて隣に自分が座っているとわかったら、どんな反応をするのだろうか。
持って来た生徒会の資料はそっちのけで、跡部はしばらくリョーマの顔だけを眺め続ける。

(なぁ、俺とお前は一体、なんだろうな)

不意に忍足の言葉を思い出し、心の中でリョーマに問い掛ける。

『俺とリョーマは友達やからな』

忍足に宣言された言葉は、跡部の感情に波紋を投げかけた。
別にリョーマが誰と友達になろうが、跡部が口出しする権利は無い。
それなのに何故か不愉快な気分になった。

(友達だと?勝手なこと言うな)

何に対してそんなに自分は腹を立てているのだろう。
それに。
だったら自分はリョーマのどういう存在か、考えたら混乱もしてきた。
出会った頃は最悪だったけれど、ここ最近は普通に会話もしている。
世間一般から見たら、自分とリョーマも「友達」なんていう分類に入るのだろうか?

入るとしても・・・跡部はそれは違うと首を振った。

友達なんかよりも、もっとリョーマの近くにいたい。そう思う。
その感情はなんて言うものなんだ?

そこまで考えて、跡部はリョーマの顔を覗き込んだ。
額に掛かる前髪を指ですくってやると、くすぐったいのかわずかに身動ぎする。

「・・・・・んっ」

わずかに漏れた声に、起こしてしまったのかと慌てるが、またすぐに寝息が聞こえてきた。
ほっとして、体から力を抜く。

(俺はどうして、お前のことばっかり気にするんだろうな)

いつかもリョーマに聞かれた。
『どうして、俺に関わるの』と。

でも今はまだ答えは出そうにない。
もっとじっくり考えて、それから出しても遅くない。

上着をリョーマの背中に掛けてから、
跡部は目の前にある資料から取り掛かり始めた。








(そろそろ、起きてもいいだろうに)

1時間程経過しても、リョーマはまだ夢の中だった。

いくらなんでも、もう起こした方が良いと判断する。
放っておけば、閉館時まで寝そうな勢いだ。
そう思って、跡部はリョーマの肩をゆっくり揺さぶり始めた。
跡部もそろそろ部活に顔を出そうと思っていた所だ。
生徒会の資料はこの1時間で、すっかり片付いてしまっている。

「おいっ、越前」
少し強めに揺さぶっても、目を覚ましそうにないので小声で呼び掛ける。
「越前、起きろ」
また声を声を掛ける。

(意外と寝汚い奴だな)

もう一度強く揺さぶると、リョーマの瞼がゆっくり開かれた。
「・・・・もう5分」
「5分じゃねぇ、起きろ」

低い声に、リョーマの意識は一気に覚醒した。
いつもリョーマを起こすのは、従姉の菜々子か母親だった。
知らない声に驚き、すばやく体を起こす。
瞬間、肩に掛けてあった上着が滑り落ちる。

「誰っ」
「静かにしろ。他の利用者に迷惑だろ」
「跡部さん!?」
「ああ」
「なんだ・・・びっくりした」

ようやくリョーマも今いる状況を思い出したらしい。
跡部は床から上着を広い、無言で誇りを払った。

「驚いたのは、こっちだ。起きないかと思ったぞ」
「あ、ごめん」

バツが悪そうに謝り、それからリョーマは首を傾げた。

「なんでこんなところに?部活は?」
「生徒会の資料を探しにと、少し業務してただけだ。部活には今から行く」
「ふぅん。忙しそうだね」
「ああ。暢気に昼寝できる誰かさんと違ってな」

からかうような跡部の口調に、リョーマはカッと耳を赤くする。

「うるさいなぁ。一休みしてただけじゃん」
「ほぉ。お前の一休みとは、1時間以上を差しているのか」
「俺がどれだけ休憩取ろうが、自由だろ」
ムキになって否定したリョーマの声は、普段通りと変わらないものだった。
すると、
「スミマセン、図書室ではお静かにお願いします」
小さいけど、きっぱりとした声が響き、二人共ぎくっと体を強張らせた。
どうやら図書当番の生徒らしい。
本を何冊か小脇に抱え、しっかりと二人の方を睨んでいる。
跡部とリョーマが同時に軽く頭を下げると、女子生徒はまた別の棚へと移動していった。

「ほら見ろ。怒られただろ」
「それ、俺のせい!?」

声を潜め、リョーマは抗議する。

これ以上茶化すと、本気で怒ってくるだろう。
絶対引かないリョーマを知っているから、跡部はわざと真面目な声を出した。

「寝るのは自由だけど、冷えて風邪でも引いたらどうするつもりだ」
室内とはいえ、体調を崩す可能性は十分ある。
しかしまさか跡部がそんなお節介なことを口にするとは思わなかったのだろう。
きょとんとした表情を浮かべた後、リョーマは顔を伏せた。
「ああ・・・うん。これからは気を付ける」
「そうか」
素直な言葉に、跡部も少しばかり照れてしまう。
生意気で可愛げの無い態度をとるかと思えば、これだ。

「この俺が、振り回されている」
「え?何?」
「なんでもねぇよ」
小さな声だったので、リョーマには聞こえなかったようだ。
話を逸らすようにくしゃっと髪を撫でてやり、寝癖を直す。

「その本、借りるのか?」
「うん」

お互い立ち上がって、カウンターまでの距離を歩く。
図書室の位置は大分覚えたと得意そうな顔をするリョーマに、
「そうか」とだけ呟く。

何か障害物が無いか気を配りながら、リョーマはゆっくりと歩いている。
ここまで歩けるようになるまで、どれ位掛かったのだろう。

榊と歩行練習していたことを思い出し、ぎゅっと資料を握り締める。

すごいな、とか頑張っているんだなとか、そんな陳腐な言葉じゃなく。
もっと、リョーマに掛けてやりたい言葉があるけど見付からない。

黙って後ろを歩くことしか出来ない自分に、苛立ち似たものを感じる。

(なんでお前ばっかり、俺に知らない感情を教えるんだ)

「ほら、もうカウンターでしょ」
得意そうに振り返るリョーマに、「・・・ああ」と跡部は声を抑えて返事をした。






「一週間になります」

目の見えないリョーマがどうやって図書カードを書くかと思っていたら、
どうやら委員が書くのが決まりになっているらしい。
多分、それも榊の指示だろう。
さっき二人を注意した女子生徒は、何事も無かったような顔をしてリョーマへと本を差し出した。

「どうも」
「それ、どういう本だ?」

扉を開けてやりながら、跡部はリョーマが持つ本について聞いてみた。
背表紙も点字で書かれているため、内容がわからない。

「童話みたいな話かな。沢山の短編が収録されてる」
「へぇ」
そういうのも読むのかと、リョーマの横顔を眺める。
「面白いのか?」
「まぁね。読んだこと無い話ばかりだから」
本を小脇に抱えて、リョーマは頷く。
「まだ読むのに少し時間はかかりそう」
「挫折して途中で寝る可能性もあるしな」
「それはもういいから!」
「そうか、悪かった」
「・・・・また馬鹿にしてる」
「していない。気のせいだろ」
「そうとは思えないんだけど」

不満らしく、床に響く杖の音が大きくなる。

悪かったな。お前の反応が面白いから、ついからかってしまうんだ。
そんな事、言えるはずもなく跡部は黙ってリョーマの隣を歩く。
もっと上手く対話するには、時間が掛かりそうだ。

「あの、跡部さん」

昇降口まで来た時、それまで同じように黙っていたリョーマがぴたっと足を止めた。
文句の続きかと思うが、そうではなかった。

「上着、ありがとう」

目を瞬かせ、リョーマの言葉の意味を理解するのに三秒ほど必要とする。

「・・・気付いてたのか」
「うん。起きた時、あれ?って思ったから。ほら、香水の匂いもしたし。すぐわかった」
ありがとうと、もう一度お礼を言うリョーマに、何を言うべきか真っ白になる。
「あー、俺の制服にもちょっと移ってるかも」
袖を鼻まで持って行って、リョーマは「やっぱり」と笑った。

その笑顔に、動けなくなる。
どうしてか、わからないけど。


「跡部さん?聞いてる?」

静かになった跡部を不審に思ったのか、リョーマがこつっと杖で床を突いて音を出す。

「聞いてる」
「なんか妙に大人しいけど。具合でも悪くなった?」
生意気な表情などどこにも見当たらない、心配そうな顔。

本当に、具合が悪いのかと心配してるとわかる。

「どうして、俺の心配なんかするんだ」
「は?何?」
「俺のことなんて嫌いだったはずだ。
偉そうに詮索して、不愉快なことを言われて。怒っていたじゃねえか。
なんでそんな奴の前で笑えるんだ・・・・」

最後の方はもうほとんど声にならなかった。
自分が何を言い出しているのかわからない。

けれど、ずっと普通に会話出来るようになってから気になっていた。

あの時の自分はイヤな態度を取っていた。
そのことが許された訳じゃないんだって。


「あのさ、それはこっちも同じこと返すんだけど・・・」

右手で顔を覆って俯く跡部に、リョーマが手を伸ばす。
空を掴むように頼りない手が、跡部の腕に触れ、確かめて握り締められる。


「俺だって、嫌われてもしょうがないこと言ったよ。
実際、腹が立ってたからもう二度と近付かないような言葉を選んだ。
でも、関わってきたのはそっちからだろ。
俺のことなんて見ないフリして通り過ぎることも出来たのに。
それをしないで、杖まで探してきてくれて・・・・。
その相手にまだ憎まれ口叩かなきゃいけないなんて、俺だけが拘ってるみたいでバカみたいじゃんか」

むーっと、顔を顰めてそっぽ向かれる。

「怒ってないのか?俺のこと・・・」

今の言葉の意味を考えて尋ねると、リョーマはゆるく首を振った。

「そっちこそ。俺のこと、生意気な奴だって思ってたくせに」
「今は、違う」
即座に否定する。
「じゃ、もういい」
「何がだ」
「お互い、嫌な奴だった。けど今は違う。それでいいでしょ」
ね?と相槌を求められ、ようやく跡部の体から力が抜けた。

「あの時は悪かったな」
簡単に出てくる、謝罪の言葉。
過去に誰かに謝った記憶などあっただろうか。
いつでも自分は正しくて、間違いないと思い込んでいた。
謝ることは負けを認めたことだと、頑なに否定していたのに。
今、楽に言えることが嬉しいと思う。

「俺も、悪かった」
気まずそうにリョーマも謝る。

もしかしたら、リョーマも謝ることに慣れていないのかもしれない。
ぎこちない表情に、自然と微笑んでしまう。

「なあ。仲直りの握手をしてもいいか?」
本当にどうかしている。
そんなこと言い出してしまうなんて。
けれど無性にそうしたい気分だったから、素直に言えることが出来た。

「いいよ」
リョーマも素直に右手を出してくる。

跡部も右手を差し出して、小さな手を握った。

暖かな手。
何度か触れたことはあったけれど、
今日初めて本当にリョーマに近づけた気がした。

名残惜しいけど、いつまでもそうしている訳にはいかない。
そっと、手を放す。

「それじゃ、俺帰るから。部活、頑張って」
「おお・・・」
「じゃあね」
「ああ」

リョーマの背中を見送り、校門を出るのを確認してから、
跡部は部室へと走り出した。


気分がとても軽い。

なんだかわからないけど嬉しくて、にやける顔を抑えるのに大層苦心することになる。







その日の部活時。
跡部の機嫌は異様なくらい良くて、周囲が引いてしまっていた。

「なぁ、岳人。跡部の奴、とうとうここに来たんか?」
「俺が知るかよ」

他の部員達も、鼻歌を歌う跡部の様子に首を捻った。


2004年08月23日(月)  盲目の王子様 23 忍足侑士

歩いて来るリョーマを見て、忍足はほっと肩を落とした。
ここ2日ばかり、朝練の時間が通常より10分以上長引いたせいで、
リョーマの登校時間と合わせることができなかった。
教室まで様子を見に行こうか迷ったけれど、
そこまで親しい仲ではないから不信感を持たれる場合もあるかもしれない。
ぐっと我慢して、校内のどこかで会えるのを待っていた。
しかしそんな偶然もなく、顔も見れないまま一日は終わる。
(今日は時間通りやったからな・・・)

校門の前でリョーマを張ることに全力を掛けて、忍足はここまで走ってきた。

越前リョーマと監督の間に、何があるか。
人並みの関心は忍足も持っていた。
しかもあの跡部が関わってるらしいと知ったからには、尚のことだ。
監督に頼まれたのか、跡部は越前リョーマのことを気に掛けている。
否、今は個人的に気に掛けてると見てもいいだろう。
あんな優しい表情をする跡部は始めて見た。
付き合ってる女に対して、傲慢という態度でしか接しなかった跡部が、だ。
こんな面白そうなこと、放っておけるはずもない。

それに、越前リョーマ自身にも忍足は興味を持っていた。
強情で生意気なところはあるが、真っ直ぐで一人で立とうとする強さを見て、
少しだけ構ってやりたくなる。

(跡部も、そういうところが気に入ったんやろうか)

リョーマに近付くと露骨に嫌な顔をしてた跡部を思い出し、忍足は笑いそうになるのを堪える。
もうリョーマは、すぐそこまで歩いてきているからだ。

「おはようさん」

声を掛けると、盲目の少年は耳をすますような仕種をして立ち止まった。

「ここや」
隣に並び、軽く肩に触れる。
「・・・・忍足さん、おはよう」
「お、ちゃんと俺のこと覚えとってくれた?」
「そりゃ、まぁ」

購買での一件を思い出したせいか、リョーマの眉が寄る。
それを見て忍足は少し笑った。

「やけど名前で呼んで言うたやん」
「でも」
「ゆ・う・し。ええ加減覚えてな」
念押しすると、ますます眉が中央に寄ってしまう。
困っているらしいと、察する。
「年上を呼び捨てにしちゃまずいんじゃないの?」

リョーマ自身拘りは無いが、日本はそういう事にうるさいと聞いている。
実際、カチロー達から聞かされる部活での上下関係に辟易していたくらいだ。

「でも俺ら、友達やん」
気にしない風に、忍足は言う。
「友達って、そうなった覚えは無いけど」
「勝手に決めた」
「・・・・・・」

どうしてと、言いたげな表情。
たしかに自分でも友達という単語を持ち出したことを、どうしてだと考える。

榊との繋がりや、跡部が見せたこの少年への表情。
そういうもので興味を持った。
だけどそれが全部かと聞かれたら、違うときっぱり否定するだろう。
越前リョーマの内に秘めている強さのようなもの。
それをもっと間近で見てみたいのも本当の気持ちだ。

「あー、えっとな、急に言われても迷惑やろうけど」
「・・・・・」
どう言ったものかと、忍足は迷う。
友達になりたい理由なんて、いちいち口にしたことなどない。
岳人やジローとは、気付いたらつるんでいた。
けれど何か言わないと、少年は納得しないだろう。

「リョーマのハッキリした態度が気に入ったんや。
それだけじゃあかんか・・・?」

(って、何が言いたいんや。そんなものしか出てこんのか?)
内心で焦る忍足を知らず、くすっと笑ってリョーマは横を向いた。

「俺と居ても別に楽しくないと思うよ」
「はぁ?それは俺が決めることで、リョーマに決められることやない。
別にとか、言うたらあかんで」
な?と同意を求めると、リョーマは苦笑いしてこちらを向く。
「忍足さんって変わってるね」
「侑士やって言うとるやん」
まだ名前を呼んでくれないことに、拗ねた口調で返す。
「わかった、侑士でいいんでしょ」
「え。今、名前」
「自分で呼べって言ったじゃん」
「いや、それで正解や!」
嬉しくて思わず、リョーマをぎゅっと抱きしめてしまう。
「わっ!ちょっと急に抱きつくなよ!」
バランスを崩して転びそうになるリョーマを支えて、
忍足は更にしがみ付く。
「嬉しいんや!おおきにな、リョーマ」
「そんな喜ぶこと?」
理解出来ないと、リョーマは困惑するだけだ。

「今日の日を記念日にしてもええくらいやな」
「大袈裟」
「おい、道の真中で何やってる」
突然二人の間に腕が割って入り、忍足とリョーマは引き離された。

「跡部っ!」
「他の奴も見てるだろう。全く・・・」
ぶつぶつ言いながらも、跡部はリョーマを背に隠すよう忍足の前に立っている。
何事か理解出来ていないリョーマは、呑気に跡部に向かって挨拶をした。

「跡部さん、おはよう」
「おう。それよりな、忍足なんか構うな。話し掛けられても無視しておけ」
「本人の前で言うか!?」
「ゆっくりしていると予鈴が鳴るから行こうぜ」

抗議をする忍足を無視して、跡部はリョーマにだけ話し掛ける。
おまけに歩く時も、忍足が隣に来ないようガードしているようだ。
仕方なく、跡部を真ん中にして三人で歩く形になった。

(あーあ。さっきまでは邪魔が入らず、いい線いってたのに)

恨みがましく跡部を見ても、知らん顔している。

「昨日は、突然悪かったな」
それどころか、何か自分の知らない話題を跡部はリョーマに振っている。
「ううん。だから気にしてないって言ったのに」
「まあ、挨拶みたいなもんだ」
「挨拶?」
「ちょお、待ち。自分ら、俺に何か隠してへん?」
ふんっと、跡部はリョーマを庇うように「お前には関係無い」と言い放つ。
「関係無いって、リョーマ!俺ら友達やろ、な!?」
「え、あ・・・うん」
「友達なら隠し事無しやろ?跡部に何されたん?正直に」
「てめえ、人聞きの悪いこと言ってんじゃねえ!」
「イキナリ殴るな!痛いわ!」
「行くぞ、越前。朝からこんな奴相手して、遅刻したらシャレにならない」
「ちょっと、跡部さんっ・・・」

急に跡部はリョーマの腕を掴み、は走り出した。

「こら、跡部!リョーマは置いていかんかい!」
「バーカ。お前の言うことなんか聞くかよ」

冷たいことを言いながらも、リョーマが転んだりしないように気遣っている。

(お姫さん守ってる、騎士のようやな)

跡部の奴、無意識でやってるのか?

全速力で追いかけながら、忍足はそんな風に思った。





「ここでいいから」
前回と同じ場所で、リョーマは一人別れて一年教室へと向かってしまう。
手を貸したいけれど、拒否されるのはわかってるから。
それ以上何も言わずに、ただ見送る。

けれど、ここまでリョーマの手を引っ張った跡部には言ってやりたいことはいくらでもある。

「一言も話しさせんなんて、どういうつもりや」

三年生の教室に向かうまでの距離、忍足は跡部にぶちぶち文句を言い続けた。

「どうもこうも、お前には関係ないだろ」
聞く耳持たない。
そんな態度を取り続ける跡部に、段々腹が立って来る。

「関係大ありや。俺とリョーマは友達やからな」
「友達・・・?」

そこでようやく足を止めて、跡部は振り返った。

「そうや。跡部がなんぼ邪魔しても、リョーマは友達やと認めてくれたんやからな」

友達だとリョーマが認めてくれたかどうかは実はまだ判断できない。
少し引き攣った顔をしながらも、必死で忍足は自分を奮い立たせた。
名前で呼んでくれたやないか!もう友達も同然や!

「友達か・・・」
「跡部?」

何か反論してくるかと身構えたが、跡部は考えるような仕草をした後、また前を向いて歩き出してしまった。

「何やの、一体」
「忍足ー!今までどこ行ってたんだ!宿題写させろって言ったろ!」

教室から顔を出した向日に急かされ、朝練の時に言われてたことを思い出す。
そういえば一時間目の授業のノートを写させろとかなんとか・・・。
「あ、忘れてた」
「いいから、急げよ!」
写す側なのにやけに態度の大きい向日に、慌てて鞄からノートを出した。
「すぐに返すからな」
「ああ・・・」
上の空で返事する。

(跡部の奴、変な顔してたな)

リョーマと友達だと宣言して何かまずかっただろうか?
気に食わないのなら、すぐ反論しただろうに。
黙っていたのが、返って不気味だ。

授業中、ずっと考えても跡部が何を考えているかなんてわからないままだった。


2004年08月22日(日) 盲目の王子様 22 越前リョーマ

「そこ曲がったら、すぐウチ」
「そうか」
リョーマの指示通りに、跡部は角を曲がる。

すると、
「リョーマさん!」
往来に、女性の声が響く。

帰りが遅くなったのを心配して、菜々子は玄関先で待っていたようだ。
走って来た足音に、悪かったとリョーマはすぐに反省する。

「遅かったから、お迎えに行こうかと思ってました」
「ごめん」
「いえ。楽しい散歩だったようですね」
くすっと小さな笑い声。
菜々子は怒ってなどいない。
いつでも彼女は優しく、リョーマの心配や世話を焼いてくれる。
今は菜々子の表情を見ることは出来ないが、きっと穏やかに微笑んでいるのだろう。
だから散歩を充分堪能したと知らせる為、こくんと頷く。
それと横にいる跡部を招くことを伝えなければ。

「で、散歩の途中に跡部さんと会ったんだけど、」
「こんばんは。あなたは・・・この間、リョーマさんに杖を届けてくれた方でしょう?」
「あ、はい。こんばんは」

にこやかな菜々子を前にして、跡部はわずかに緊張したようだ。
気付いていないようだが、掴んでる腕にわずかな力が込められてる。

「ありがとうございます。リョーマさんたら、杖をなくしたなんて言うから。
届けてくださって助かりました」
「いえ。偶然見かけたものなので」
まだ偶然だなどと跡部は言っている。
それが可笑しかった。
尊大な態度の癖に、親切の押し売りはしない。
なんてちぐはぐな人なんだろう。

「偶然でもわざわざ届けてくれたのには、変わりないでしょう?」
「まぁ」

ペースを崩さずにこやかに話す菜々子に、跡部はやや視線を外す。
まっすぐな感謝の気持ちは、どうも苦手だからだ。

「そうだ。お時間があれば、家に上がって行きませんか?
おばさまもその件ではお礼を言いたいと話してましたし」
「本当?だったらちょうどいいや。さっき夕飯に誘ったところだったんだ」
「おい」
やっぱり遠慮すると跡部が言い出す前に、リョーマは菜々子に話をしてしまう。
「そうだったんですか。お料理も出来上がっているから、ちょうど良かった」
でしたら先に行ってすぐに食卓を整えますと、菜々子は家へとまた戻ってしまう。
「いいってさ」
「やっぱり急な訪問は」
躊躇している跡部の腕を、リョーマはぐいっと引っ張る。
「遠慮しなくていいって。お腹空いてるんでしょ」
「いや、今は」
「いいから、いつまでも突っ立ってないで行くよ」
もう一方の手で杖を突いて、跡部を引っ張る形でゆっくり歩き出す。
「仕方ねぇな」
言いながらも、どこか跡部の声が嬉しそうに聞こえる。
二人並んで、越前家の門をくぐった。


夕飯の席は跡部を加え、リョーマと母の倫子、そして菜々子の4人だった。
「おじさまは急にいらないって連絡あったんです」

菜々子の言葉に、リョーマはほっと胸を撫で下ろす。
何かとリョーマに構ってくる南次郎とのやり取りを、跡部の前で披露するのは嫌だった。
ついムキになって返してしまう自分を、きっと跡部は子供っぽいと笑うに違いない。
「とても美味しいです」
跡部の言葉に、菜々子も倫子も喜んでいるようだ。
金持ちだと評判される跡部が、一般家庭の食事を食べて本気で思っているかわからない。
けれど、そこに嫌味な口調は無く、場は和やかに過ぎていく。

杖の件は倫子にも伝わっていて、跡部に対して何度も礼を繰り返す。
「いえ。なくしたものを届けるのは当然のことです」
またしてもリョーマは噴出しそうになり、お茶を飲んでやり過ごす場面もあった。







「すっかり、ご馳走になったな」

2時間かけて会話を楽しんだ夕飯も、終わりになった。
倫子が家まで送りましょうかと言ったが、跡部は車で迎えに来てもらうから大丈夫だと断った。
携帯から連絡して、跡部家の車はそれから10後に到着した。
玄関先までは、リョーマだけが見送ることになった。

「母さん達、跡部さんが来てすごく喜んでいたみたい」
社交辞令ではなく、本心から二人は「また是非いらして」と言っていた。
リョーマが友達を連れて来てくれたのも嬉しかったのだろう。
ましてや杖をわざわざ届けてくれたことは、菜々子経由で倫子にも伝わってる。
親切な好青年と、二人は思っているようだ。
最初の印象があまりよくなくて、リョーマにとっては微妙な感じだが、
跡部が歓迎されるのは悪くないことだ。

「また来てやってよ」
にっと笑ってみせる。
母達が喜んでくれるのは、嬉しい。
それに・・・自分もこの人といて、イヤじゃないし。

「迷惑じゃないのなら、な」
「勿論」

断言するように、頷く。
すると、杖を持っている手に、跡部の手が重ねられる。
ただ触れられているだけのそれは、大きくて暖かい。

「本当に、お前は迷惑に思って無いのか?」
「え・・・・?うん」
「なんで、そんな簡単に、」

それきり口篭もって黙ってしまう。
(何?俺、何かまずいこと言ったっけ?)

首を傾げて、リョーマは空いてる手でくいっと跡部の袖辺りを引っ張る。

「言いたいことでも、あるの?なら、言ってよ」
「いや、今はいい」
「なんで」
「聞いたら、また元に戻る気がする。だから、いい」
「意味、よくわかんないんだけど」
「だから、いいって言ったろ」

ぎゅっと重ねている手に一瞬力が込めらる。

「じゃあな」
短く言うと同時に、跡部の手が離れていった。
足音に、跡部が去って行くのだと理解してリョーマは顔を上げた。

「跡部さん」
「また明日な」
「あ、うん・・・・」

バタン、と車に乗った音がして、すぐに動き出してしまった。


(元に戻る、って)

あの人も、前みたいにいがみ合ってる関係に戻りたくないと思ってくれてるのだろうか。

よくわからないな、と呟いて、リョーマもまた家の中へと戻った。


2004年08月21日(土) 盲目の王子様 21 跡部景吾

近付いてきた忍足に、跡部は露骨にイヤな顔を向けて、そして逸らした。

「なあ、跡部」
「私語は慎め」
「まだ私語からどうかまで、わからへんやろ!」
抗議する忍足に、やっぱりまだ背を向けたまま答える。
「お前の顔を見たら、ぴんと来ただけだ」
「あのな、リョーマのことやけど」
ぴくっと、その名前に反応する。
(こいつ・・・まだ呼び捨てしているかよ!)
妙に苛々してしまう。
自分意外の誰かが親しそうに名前を呼ぶなんて、
あって欲しくないこと。
「いつの間に、知り合ったんや?」
「私語決定だな。出て行け」
「ケチ。教えてくれてもええやろ」
なあ?と、忍足は食い下がる。
けれどそれを許すはずもなく、冷たく「グラウンド30周な」と言い放つ。
「ずいぶん横暴な命令やな」
「うるせー、50周に増やして欲しいか?」
「さーって、行こうか」
腕を伸ばして、忍足がコートから出て行こうとする。
その前に、もう一度だけ立ち止まる。
「なあ、あの子のこと。監督に頼まれたんか?」
意味がわからず、忍足の顔を眺める。
「頼まれた、だと?」
「とぼけてるのなら、それでもええわ。
まあ、しばらく観察させてもらうからな」

好き勝手言った忍足の背中を見ながら、考える。

(頼まれた?俺が?監督に?なんの話だ?)
もしかして、リョーマが榊の保護を受けているからと言って、
自分がそのお守りを頼まれたとかそんなことを考えているのか。
(冗談じゃねえ)
大体、あいつがお守りをつけたからと言って、素直に聞く性格ではない。

それにしても、妙に苛々させられる。
あんな風にずけずけと、リョーマのことを聞いてくる態度は、ハッキリ言って不愉快になる。
 
(って、俺も越前に似たようなこと、した・・・・よな?)

監督とどういう関係か、かなりしつこく絡んだ記憶が蘇る。

(今、あいつと同じ気持ちを味わっているというのか?
だとしたら俺が今までやってきたことは、あいつにとって我慢ならないことだったんだな・・・)

『そんなの俺は頼んで無い。あんたの自己満足なんだろ』
本気で怒っていたリョーマの声を思い出す。

(悪いこと、したな・・・)
そんな風に思うのは初めてだった。
いつでも自分は正しく、間違ってないと思っていたのに。

(杖を取り返したくらいで許してくれないだろうな)
それ位、嫌な気持ちにさせていた。

けど、昨日や今日の態度は普通だった。
戸惑いながらも、刺々しい言葉も無く、普通に話せた気がする。


(明日もまた、確かめてみるか?)

今朝みたいに、学校へ登校する時待ってみよう。
あいつが、ちゃんと学校へ来るのか見届けたい。



しかし翌日の朝練は思ったよりも長引いてしまい、
跡部はリョーマに会うことは出来なかった。

帰りも、わざと教室の前を通りかかったのだが、
今日に限って早く帰ったらしく姿も見えない。

(ちっ、しょうがねえ)


念の為、リョーマと同じクラスだという一年生達を、またこっそりと呼びつけ、
来ているかどうかだけ確認する。

「あれから、大人しくなったみたいです」
「リョーマ君を避けてはいるけど、嫌がらせは無かったですし」
「そうか」

杖を隠した連中のその語の動きを聞いて、
その件では安心する。

(学校には、来ているようだな)

ならそれで良いのだけれど、やっぱり本人の顔を見ておきたい。

そんなことを考えながら、その日の部活は終了となった。





「出してくれ」
日誌を監督に提出した後、迎えに来た車に乗り込む。

(明日も、越前に会えなかったら・・・教室まで行くか。
けど、騒がれでもしたら厄介だな)


そんなことを考えていたせいか。
ふと前方を歩いている姿に気付き、跡部は声を上げた。
私服姿だったけど、間違いようがない。
「おい、止めろ」
慌てて運転手は、脇に車を止める。
学園を出てから数分も走らせていない。
忘れ物か何かあって戻るつもりかと考えるが、そうではなかった。
「今日は歩いて帰る。先に戻っていろ」
ほとんど自分では車のドアを開けたことの無い跡部が、自ら手を使い、慌てて車外へ出て行ってしまった。
一体、どういうことだと、運転手はしばらく固まってしまった。


「越前!」
こつこつと、杖を突くリョーマへ早歩きで追いつく。
リョーマの歩みは、普通の人よりも何倍もゆっくりしたものだ。
ほんの数歩で、跡部はリョーマの隣に並んだ。
「跡部さん?」
「ああ」
「こんな所で、何やってんの?部活は?」
「部活ならもう終った」
「え?今、何時?」
慌てた素振りをするリョーマに、跡部は腕時計を確認する。
全く。
こんな所で何をしてるかは、こっちが質問するはずだった。
「7時14分」
「どうりで腹減ったと思った・・・」
そんな時間になっていたのか、とリョーマは眉を寄せている。
「腹、減っているのか?」
「うん」
途端にきゅるっと鳴る音。
少しばかり顔を赤くするリョーマに、跡部はふっと笑ってしまう。
それが聞こえたのだろう、そっぽ向いてリョーマはむくれている。
だけど本気で怒っているようではなさそうだ。
拗ねている。
跡部には、そんな風に映っていた。
「何か、食いにでも行くか」
「へ?」
「少し付き合え。お前も腹減っているんだろう?」
ぽんっと頭に手を置くと、視点の合わない瞳が向けられる。
「俺も部活帰りでちょうど何か食いたい所だった。
一緒に知ってる店でも、行かないか?」
自分でも驚く位、優しい声だった。
人の意見なんか、いちいち聞いたことなどない。
いつだって強引に引っ張るか、相手が勝手についてくるか。
このやり方は今までの自分と違い過ぎる。
戸惑いとわずかな苛立ちが混じりながらも、決して悪くは無い妙な気分だ。
越前リョーマと顔を合わせると、不可解な行動ばかり取る、そんな自分も嫌いではない。
誘いの言葉にリョーマは考え込む仕草をした後、ふるふると首を振った。
「夕飯の用意あるから行けない」
あからさまに跡部はがっかりしたが、次の言葉に復活する。
「だから、ウチに来ない?それならお互いご飯にありつけるし」
「・・・・急に、迷惑だろ」
本心でそう思っていても、リョーマからの誘いに少し浮かれてしまう。
「一人分くらい、大丈夫だって。あ、でも跡部さんも家で用意してあるか・・・」
しまったと、呟くリョーマに跡部は自分の家のことを思い出す。
使用人達が作る料理。
最高の食材を使った、いつでも満足のいく味だけれど。
食卓に両親がいることはほとんどない。
今日も父は仕事、母は友人と出掛けている。
「生憎と誰も待っている人はいない」
静かな口調から何か察したのだろう。
リョーマは詮索もせず、「だったら平気?」とだけ尋ねた。
「ああ、わかった。一応、連絡だけは入れておく」
携帯を取り出し、自宅へ掛ける。
電話に出た使用人に、今日は遅くなるから支度はいらないとだけ短く伝えた。
別にそれだけで済む話だ。
本当の意味で待っててくれる人は、あの家にはいない。
やり取りが終ったのに気付いたリョーマが声を掛ける。
「行こうか」
歩き出すリョーマの歩調に合わせて、跡部も隣を歩く。
しかしあんまりゆっくり過ぎるので、つい口を出してしまう。
「おい、夕飯の用意してあるんだろう?」
「そうだけど?」
「あんまり遅くなると心配するんじゃないのか?」
「そう、だけど」
リョーマの顔から察する。
早く家に帰りたいけれど、杖で障害物や段差をさぐりながらでは、これが精一杯。
「腕を貸せ」
「え・・・」
急に触れて、また驚かれても面倒だ。
今度は予告して、リョーマの右腕を取る。
そしてしっかり腕を組んで、寄り添う。
「段差があったら教えてやるから、そのまま歩いていろ」
「でも」
「早く帰りたいんだろ」
うっとリョーマは言葉に詰まる。
それを見て、跡部は1・2歩足を進める。
引っ張られる腕に、リョーマも黙って歩く。
どうやら振り解くことはしないと決めたようだ。
「心配するような時間まで、何をやってたんだ?」
大人しく引っ張られるまま歩いて、数分が過ぎた。
そういえばリョーマが何故学園の近くを歩いていたか、聞いていなかった。
「散歩・・」
「散歩?」
「うん。学校と家の往復以外にも道を教わっているから、歩行練習を兼ねて」
一人で危ないんじゃないか?と跡部は思う。
だがリョーマのことだ。
家族に対しても「大丈夫だから。一人でやれる」を通しているに違いない。
「あんまり遠くには行かないから、平気」
跡部の心を見通してか、そんな風に続けた。
「ゆっくりしか歩けないから、遅くなったけど」
「そうか」

暗闇の中、手探りで行けるところまで行こうと歩くリョーマが脳裏に浮かんでくる。
誰の手も借りずに、一人で歩こうとしている彼。

(無茶だろ、そんなの)

一人でいられない時、今みたいに手を貸すことは許されるだろうか。
まだ、ハッキリとは聞くことはできない。


2004年08月20日(金) 盲目の王子様 20 越前リョーマ

授業も終了して、カチロー達が「またね」と声を掛けてきた。
いつもはもうちょっと早くテニス部に行くのに、今日はなんだかゆっくりしてるよな。
「急がなくて、いいの?」
一年は先輩より早く着替えて、準備を整えておくのが義務だ。
だからいつも慌しく教室を出て行くのに、その気配も無い。
「あ・・・もう、行くよ」
「またね、リョーマ君」
「うん」
二人が出て行くのを耳で聞いて、俺も鞄を掴んだ。

(もしかして、気を遣っていたのかな)
一日、あのうるさかった連中は俺に絡んで来ようとしなかった。
昨日は俺の杖を奪うような真似しただけに、不気味だ。
カチロー達もそれを察して、警戒してくれてたとか・・・?
(考え過ぎかもしれないけど)
今、教室に連中の声もしていない。
どうやら既に出て行ったらしい。
また因縁付けられても面倒なので、俺も今日はさっさと帰ることに決める。
色々なことが起こって、ちょっと疲れた。
夕飯までちょっと寝ていようかな。

それにしてもお昼休憩にも会った、忍足さん・・・あの人一体何なんだろう?
カチロー達にも聞かれたし、偶然会ったとしか言えないんだけど。
友達になるって本気だったのか?
馴れ馴れしくて強引だけど、悪い人には思えなかったな・・。
俺の目のことにも全く気を使ってなかったみたいだし。
ああいう態度って珍しいよな。
腫れ物に触るような気遣いよりも、よっぽど好感は持てる。

「越前」

下駄箱までもう少しの距離。
呼び止められた声に立ち止まる。
声の主が誰だか、もちろんわかっている。

「今、帰りか」
「うん」

跡部さんだ。
昨日といい、この時間によく遭遇するよな。
授業終ると同時に飛び出していく一年と違って、三年生は余裕あるな。
「今日は失くしてないみたいだな」
「そうそうは、失くさないものだけど・・・」
杖をこんって床に打ち付ける。
跡部さんが取り戻してくれた杖。

なんとなく勘付いてる。あの連中が絡んで来ないのも、跡部さんが何か言ったんじゃないかってこと。
あいつらがどこかに隠してた杖を、わざわざ探して持って来てくれたのだろう。
氷帝の生徒会長ってそんなことまで出来るのかって、正直驚いた。
聞こえるうわさからじゃ、人のことなんか関心なさそうな印象なのに。

「もう、失くすなよ」
笑っている?
見えないけど、声の感じからそう思った。
「失くさないよ。折角、跡部さんが拾ってくれたんだし」
「・・・そうだな。感謝しろよ」

偉そうな言い方だけど、今の俺には照れ隠しのように聞こえるんだ。
今までだったら、きっと反発してたけれど。

意外といい奴なのかも。
そう思ったら、少しは素直に返事が出来た。

「うん、感謝してる」
「・・・・・・」

何も言って来ないことにあれ?って思ったら、髪をくしゃっと一撫でされた。

「・・・・別に、大したことじゃねえ。気にするな」
「え?」
「じゃあな」

もっと感謝しろとか言うのが、イメージだったのに。
調子狂うけどイヤじゃないなんて、遠ざかる足音を聞きながら思っていた。


2004年08月19日(木) 盲目の王子様 19  忍足侑士

(あの、跡部がねえ・・・・)
盲目の一年生、越前リョーマを見る目は見たことも無いような優しいものだった。
今まで言い寄られた女達に、一度だってあんな顔をした記憶は無い。

リョーマと別れた後、忍足はずっと跡部とリョーマがどういう関係かを考えていた。

一番納得いくのが、リョーマの後見人と噂される榊から頼まれたという理由だ。
跡部は生徒会長だ。その権限を利用して、リョーマを助けてやって欲しいとか、
依頼した可能性が無いとはいえない。

けれど、それにしては跡部の接し方は普通じゃなかった。
事務的に、ならわかる。
監督に頼まれて、と渋りながらか、樺地に命令するだけかが、跡部らしいやり方だと思う。

今朝、見た跡部の態度はそんな事務的な素振りは欠片も無い。
ただリョーマのことを気遣っている、そんな風だ。

(一体、どうなってるんや)

午前の授業中いっぱい考えてたが、答えは出なかった。





昼ご飯を食べ終えて、忍足は大きく背伸びをした。
お茶は全部飲んだが、もう少し何か欲しいと思い、正面の向日に声を掛ける。
「購買行って来るけど、どうする?」
「んー、これ読んでる」
「そうか」
相方はテニス雑誌を捲る手を止めない。
面白い記事でもあるなら、後で教えてもらおうと教室から出る。
お昼ご飯購入の混雑も終わった頃だから、スムーズに買い物出来るだろう。

一階の隅にある購買に向かう途中、気付く。
この学校で杖を必要とする生徒は、たった一人。

「リョーマ!」


杖をついてコツコツ音を立てるリョーマを見て、忍足は歓声を上げる。
呼ばれた本人は「ん?」と眉を顰め立ち止まった。

「なんや偶然やなぁ。いや、これは運命や。
今朝に続けて二度も会えるなんて、そうとしか思えんやろ。な?」
「はぁ?」
捲くし立てる忍足さんについていけないようで、リョーマはぽかんと口を開けたまま。
リョーマのすぐ後ろにいた少年達は忍足に気付いて、頭を慌てて下げた。

「忍足先輩、こんにちは!」
「こ、こんにちは」
「おう。こんにちは」

挨拶をされても忍足は二人の名前は出てこない。
一年に誰がいるかなんて、まだ把握しきれてないからだ。
対してカチローとカツオはテニス部レギュラーである忍足が、
何故リョーマに声を掛けるのか顔を見合わせる。

「リョーマ君、忍足先輩とどういう知り合い?」
「知り合いっていうか、今朝声を聞いただけなんだけど・・・」

素っ気無い言い方に、忍足は仰々しく驚く。

「自己紹介までしといて、それはないやろ。俺らはもう友達や。なっ?」
「友達って、忍足さんがどういう人かも知らないのに」

どうやら押してくるタイプは苦手らしく、リョーマは尻込みしている様子だ。
じりじりと後ろに下がろうとしているリョーマの肩を、ぽんと叩く。

「これから知っていけばええねん。それに忍足さんじゃなくて、‘侑士’や」
「いや、だから」
「今、どこかに行くつもりやった?」
カチロー達の方を見て、忍足は質問した。
一連のやり取りに呆気に取られていた二人は、それでも先輩の質問に「購買へ」と答えた。

「俺も行こうと思っていたや。一緒に行ってもええ?」
「は、はい!」

こくこく頷く一年に、忍足はうっすらと笑う。

「ほな、リョーマ。行こうか」
「ちょっと、待ってよ」

抗議する前に、手を掴まれ引っ張られる。

「一人で歩けるから」
「それはわかっとるけど。ただリョーマとこうしたいんやから」
「俺はしたくない!」

引っぺがそうとするリョーマの手を、忍足は押し返す。
「恥ずかしがることないやん。すぐそこやし」
「そうじゃなく、うざいだけなんだって!」

カチローとカツオは先を歩く友人と先輩に、ただオロオロするだけだった。

あんまりリョーマが憮然とするものだから、機嫌直しにと飲み物を奢るようと申し出る。
他の後輩二人にもだ。
(俺って優しい先輩やなぁ)
自画自賛しながら、忍足は自分で選んだジュースのパックをそれぞれに押し付ける。

「これ、何?」

訝しい表情をして、リョーマはパックに触れる。

「ああ、俺のお勧めや」
「ふぅん?」

カチローとカツオの手には「日本の厳選茶」と「元気発酵ヨーグルトドリンク」がそれぞれ握られている。
僕達、こんなのを買いに来たんじゃないのに。
そう思いながらも先輩が選んだものにケチをつけるわけにはいかず、黙っていた。

「一口飲んでみ?」

忍足の勧めに、リョーマはゆっくりとストローをパックからはがして、今度はそれをいれる部分を手で探り出す。

手を貸したくなるが、忍足はぐっと堪えた。

さっきも手を引いて嫌がられたばかりだ。
今度も手を伸ばしたら、拒絶されるに違いない。
『教室まで送らなくてもいいから』
今朝、ぴんと背筋を伸ばし、跡部の申し出を断った姿を思い出す。
この少年は、人に手出しされるのが嫌いなんだとピンと来た。
だから、今は見ているだけに徹した。
それに・・・怒らせたくないのは勿論だが、リョーマのプライドも守りたい。
自分でやれることは、やろうとしている。
その姿勢は、好感持てるものだ。
意地張って馬鹿じゃないのかと、思うやつもいるだろう。
だけどリョーマのそうやって一人で立とうとする所、嫌いではない。

(可愛げはたしかに無いかもしれないけど、なんか見守りたくなるんやな)

跡部も、そういう所が気に入ったのだろうかとふと思う。

「ぶっ」

ストローを差して、中身を飲んだ途端リョーマは噴出した。

「これ、牛乳なんだけど!?」
「あれ?牛乳嫌いだったんか?」
「お勧めって言うから、ジュースか何かだと思い込んでた」
「リョーマはちっこいし、背伸ばすんには必要やろ?」
「余計なお世話・・・」
むっと尖らせる唇に、これ以上機嫌損ねたらあかんと忍足は焦った。

「意地悪はこの位にしとくわ。俺のいちご牛乳と交換したる。これならいけるやろ」
代わりに持たされた紙パックをリョーマはまたおそるおそる口をつけてみる。
「・・・うん。美味しい」
「そうか」

少しだけ笑顔を覗かせたリョーマに、ますます興味を覚えていく。
(跡部はリョーマのこと、どこまで知っているんや?)

「そろそろ教室に戻るわ。またな、リョーマ。あ、そっちは部活で会おうや」
「忍足先輩、ありがとうございました」
「うん、またね」
しっかりと聞こえたリョーマの声に、心が弾んでいくのを感じる。

越前、リョーマか。
これから、何や楽しいことが起きそうな気がするな。

未だテニス雑誌を見ていた相方に、教室帰るなり声を掛ける。
「岳人、人生って思いがけず色々あるもんやな」
「何だよ、侑士。たそがれた振りして、変な奴」
またおかしなこと考えているんだろと、雑誌から目を離すこともなく向日はおざなりな返事をした。


2004年08月18日(水) 盲目の王子様 18  越前リョーマ

跡部さん達は教室まで送ると言い張ったけど、俺は断った。
もうこの位の距離なら、人の手を借りなくても歩いていける。
それに・・言っちゃ悪いけど目立ちたくないんだよね。
生徒会長でテニス部部長。
跡部さんの噂は、聞こうと思わなくても聞こえてくる。
入学してまだそんなに経っていないのに、だ。
親切にしてもらって悪いかもしれないけど、そういう人と余り歩いているところを
見られて騒がれるのは好きじゃない。

そうやって断る俺に、
「そうか・・・わかった」
跡部さんは食い下がることはしなかった。
「離さんかい、跡部。俺はリョーマと一緒に行くんやー」
忍足さんはじたばたしていたみたいだけど。

校門で会った時は、正直驚いた。
まさかこんな所で、待っていられるなんて思わなかったから。
「偶然だな」
なんて言ってたけど、絶対違う。
昨日の今日で、俺がちゃんと学校来るのか心配しているんだって思った。
信じられないよね。
あれだけ険悪だったのに、この和やかな空気はなんだよ。

でも向こうが普通に接しているので、俺もケンカ腰じゃない態度を取った。
一応、借りを作っていることだし。
跡部さんは借りとは思ってないみたいだけど。
拾っただけだって言い張ってるし。
何故、そんな風に言うのかは全くの謎。

もしかしたらこれも俺の口を割らせたいだけの、作戦かもしれない。
榊先生と俺とが、どんな繋がりがあるか聞きたがっていた。
やり方を変えて親密になった上で、聞き出そうってことなら、
今の対応もわからないでもない。

でも、と俺は考える。

隣を歩く跡部さんの歩幅は、俺に合わせてとってもゆっくりだ。
跡部さん一人なら、すぐにでも教室に行けるのに、
ずっと俺の隣を歩いていた。

本当に、俺のことを心配しているだけなのかも。

ふわっと風が吹いて、鼻を擽る。
すぐ側にいる跡部さんの香りが届く。

それは、この間俺を起こしてくれた人と同じものだ。
確認しても、杖と同じように否定するんだろうな。
だから、まだ何も聞いていない。

やっぱり、そんな悪い人じゃないんだよね?


教室にたどり着くまでの間、跡部さんのことをずっと考えてた。



「リョーマ君。おはよう!」
「おはよ」
先生が来るまでぼーっとしていたら、カチローが勢い良く声を掛けてきた。
なんか焦ってるみたいだけど、何かあったのかな?
「えーっと、リョーマ君」
「何?」
「今日も・・・・お天気だね」
「はあ?」
要領の得ない会話だ。
ああ、もうなんて、カチローは呟いてる。
「なんかあった?」
「ううん!なんでもない」
すごい勢いで否定してるし。
朝練のやり過ぎで、混乱してるとか?
「そういえば、カツオは?
「片付け当番だから少し手間取っているよ。早くしないと先生が来ちゃうね」
「ふーん。一年生って面倒だな」
一年生だから、球広いに掃除にコート整備。
聞いただけで疲れそうだ。
「面倒だけどしょうがないよ。みんなそうやって来たんだし」
たしかに大変だけどね、とカチローが苦笑する気配がする。
「あ、でも跡部部長は一年の時でも片付けやっていたなんて想像つかないなぁ」
不意に出てきた名前に、反応する。
さっきまで、一緒だった人。
「部長は一年の時からレギュラーだったって言うし。今の僕らとじゃきっとレベルも違うんだろうなー」
「出た。カチローの部長崇拝が」
「だって本当に部長はすごいんだよー!今朝だって・・・」
そして延々と跡部さんのプレイを聞かされる。
あーあ、お前が部長を敬っているのはわかったよ。
でも、なんか言い出しにくくて跡部さんを知ってるとは言い出せなかった。


出会いは、最悪。
けど、昨日の跡部さんは違ってた。
人の杖を盗むような奴なんかに、負けない。
家に帰れば予備がある。
それを持って、また学校に来ればいい。
何度もぶつかりながら、教室を出た。
壁伝いに行けばなんとかなるだろう。
杖の代わりに手を使って、歩いた。。
そんな俺に声を掛けてきたのは、跡部さんだった。
酷く怒った声を出していて、またケンカになるんじゃないかと身構える。
そうじゃなかった。
跡部さんは黙って俺の腕を取って、引っ張ってくれた。
「そんなんじゃいつまでも家に帰れやしねぇぞ」
口の悪さは変わらないけど。
杖が無いせいなのか、その手を無理に解くことはできなかった。

本当は、怖かったのもあったけど。
だって、やっぱり壁伝いで行くなんて無理がある。

跡部さんは、無茶する俺のことを怒ってた。
あの偉そうな人が、だよ?
俺のことなんかで、本気で怒ってた。

繋いだ手から、それが伝わって。
前ほど、嫌いになれなくなっていたんだ。


2004年08月17日(火) 盲目の王子様 17  忍足 跡部

「解散!」

朝練終了の声と共に、部員達が解散していく。
これから身支度を整え、授業に向かうのにまだ30分ある。

「なんや、跡部。今日は随分早いな」

シャワーもそこそこ、濡れた髪をろくに拭かずに部室を出ようとしている跡部を見て、忍足は声を掛けた。
いつもなら鏡の前でああでもない、こうでもないと(他から見てると大して変わりないのだが・・)始業ぎりぎりまでセットしているというのに。

「どないしたん?」
お前には関係ないと一瞥しただけで、跡部は出て行ってしまった。

「何や、あれ」
「監督にでも呼ばれてんじゃねぇか?」
特に興味無さそうに、ダブルスパートナーである向日はドライヤーを手に髪の手入れを始める。
さらさらとした髪は向日の自慢するものの一つだ。
櫛で髪を梳かす向日の横で、忍足は首を傾げた。

「呼ばれたからって、身支度もそこそこにか?跡部に限ってそれは有り得へん」
「じゃ、なんだって言うんだよ」
「知っとる奴、おる?」

一番事情を知りそうな樺地は跡部の後についていってしまったので、
残っているメンバーに忍足は尋ねてみた。

「知るかよ」
「さあ?心当たりはありませんが」
「・・・・ぐー、ぐー」
「俺もわからないです」

眠っているジローに気付いて、慌てて忍足は「早う、着替え!」と起こしてやる。
放っておくと着替えはおろか、授業のことも忘れて寝ているだろう。
ジローのことは毎朝、誰かが起こすことになっている。

「別に跡部のことなんか気にすることないだろ」
つまらなそうに宍戸はボタンを嵌めながら言う。
「いや。跡部がいつもと違う行動をした。これは大きな意味があると思うんや」
「そうか?別に単なる気まぐれだろ」
もう会話を打ち切ろうと、宍戸は身支度を素早く終えバッグを掴んだ。
「いや。これは確かめなあかん!怪しい匂いがぷんぷんしとるわ」
「勝手にしろ」
宍戸にキッパリと拒否されてしまったので、忍足はくるっと振り向いて向日の肩を掴んだ。
「よし。岳人、行くで!」
「はぁ?俺、まだ着替えも終わってないんだけど」
「そんなん歩きながらでええって。」
「出来るか!」

抗議しても忍足が聞き入れるはずもない。
無理矢理連れて行かれた向日に、残っているメンバーは少しだけ同情をした。

「やっと静かになった・・・」
くぅっと寝入ったジローを見て、宍戸は「違うだろ」と額を軽く叩いた。




「侑士。行くなら一人で行けよっ!」
「一人で行って何も無かったらつまらなんからな。道連れや」
「この我侭ヤロー。大体跡部がどこ行ったのかわかってんのか?」
「あ、しまった」
「ふざけんな」

ごすっと忍足の後頭部に拳がめり込む。
「岳人君、それ痛過ぎやから」
「本気でやったからな!」

ふんっと向日は鼻息を荒くした。
「今日の帰りは侑士のおごりだな」
「なんでや!?」
「満腹になるまで許さねぇからな!」
血管が浮き出そうになってるパートナーを見て、忍足は「わかった」と小さく呟く。
「しゃあないな。もう教室に行くか」
「ああ」
方向を変えた瞬間、向日は前方に見えた人影に気付く。

「侑士、あれ跡部じゃねぇ?」
「ほんまや。岳人偉い!でかしたで!」
まあな、と向日は得意げに笑った。
そして、二人は改めて前方にいる跡部を観察する。
跡部は一人じゃなかった。
樺地と一緒なら特に気にすることじゃないが、どう見ても一緒にいる相手は樺地よりずっとずっと小柄だ。
跡部が鞄を持っていないところを見ると、樺地は跡部の鞄だけを運んだだけだと推測できる。


「跡部と、あれ一年生か?」
「俺が知るかよ」
隣にいるのは、随分小さな生徒だ。
向日も背は低い方だけど、もっと小さく見える。
その生徒に、跡部は寄り添って歩いている。

「女じゃねぇよな」
「スカートやないからなあ」
ちらっと見える跡部の横顔が、嬉しそうな穏やかなもので二人は驚愕する。
相手が女ならともかく、男相手にあんな顔をしたことは一度もない。

「なぁ、侑士。もしかして、あの子」
少年が持っている杖に、向日はあることを思い出した。
「ああ。一年に入ったっちゅう例の子やな」
しっ、と人差し指を唇を当てる忍足に、向日は口を噤む。


今年入学した盲目の一年生は榊監督のバックアップが付いているらしい。
何度か目撃されている榊とその一年が会話している姿に、そんな噂が流れていた。
事実はわからない。
しかし氷帝は目の障害を持つ生徒を受け入れる体制を取っていないのに、何故彼が入学できたのか。
榊が一枚噛んでいるとしたら辻褄が合う。

「跡部の奴。監督に頼まれてアイツを迎えに来たんじゃねぇ?」
「そう考えるのが自然、やけど」

そんな義務的なものに、跡部があんな顔を見せるだろうか?
俺らの前でさえあんな柔らかい表情したことあったか?
おかしいな、と忍足は考え込む。
「しゃあない、聞いてみるか」
「え?聞くって、おい」
「跡部ー、何してんの」
突然声を上げた忍足に、向日がぎょっと目を剥いた。

(俺がいなくなってから、聞けよ!)
しかし、もう遅い。


「てめぇらか、何の用だ」

振り向いた跡部はいつもの皮肉げな顔をしていた。

「いや、たまたま通りかかってん」
向日を引っ張って、忍足は跡部の近くまで寄って行った。
愛想笑いを浮かべるが、跡部の視線は凍りつきそうな程冷たい。

「ならさっさと行け」
にべもなく、顎で跡部は校舎を指す。

「その前にー」
一瞬で忍足は距離を詰め、少年の横に立った。

「初めましてやな」
「・・・・誰?」
きょとんとしている少年手を、忍足は軽く触れた。

「おい、忍足!」
「侑士、何やってんだ!」

まずい予感がして向日は慌てて忍足の腕を掴んだ。

跡部の顔が尋常でないくらい歪んでいる。
このチビに、話しかけちゃいけないんじゃないだろうか。
すげー睨まれてるよ、俺達!と向日は懸命に視線で忍足に訴える。

が、
「忍足侑士。跡部と同じテニス部3年や」
まるで跡部のことを気にせずに、忍足は少年の手に触れたまま自己紹介なんて始めている。

「テニス部?」
「せや」
「おい、いい加減手を離せっ」
「あ・・・」
我慢も限界だったのだろう。
忍足の手を、跡部が荒々しく払い除ける。

「怖いなー、何やっちゅうの」
「馴れ馴れしくしてんじゃねぇよ」
「ふーん。この子、跡部の何なん?」
いししっと笑う忍足に、跡部はきっぱり答えた。
「お前に言うことなんか何もねぇよ」
「ひっどー」
忍足は泣き真似をしてみせたが、皆揃って無視をした。
もっとも一人は目に入っていなかっただけなのだが。

「ねぇ、もうそろそろ予鈴鳴るんじゃない?」
いつまでも続きそうなやり取りに、少年は痺れを切らして声を掛ける。。

「そうだな。行くぞって、何でお前がついて来るんだ!」
「ええやん。そこまでは一緒なんやから。な、岳人!」
「は?いや、俺は・・・」
今まで忘れていたくせに急に話しを振られ、向日は逃げ腰になる。
しかし忍足はそれを許すはずもなく、がっちり肩を掴んで来る。

「こいつも同じテニス部。向日岳人っていうんやで」
「・・・・・どうも」
「あ、ああ。よろしく」
(何がどういう意味でよろしくなんだ!?)
自分で何を言ってるか理解できず、ただ向日は混乱する。
「おれもよろしくなー」
「はあ」
暢気に、忍足は会話を続ける。
横で跡部が怖い顔してても、知らん顔だ。

「ところで名前、聞いてへんけど」
「あ、俺は」
「てめぇらに名乗る筋合いは無い」
低い声をして、跡部が会話を止める。
「だから何で跡部が口出すん?もしかしてヤキモチか?」
「そんな訳ないだろ!」

けれど横を向いた跡部の顔は赤い。
そうか、そうかと忍足は頷く。
これは面白い展開になりそうだ。

「だったら跡部には関係ないやろ。名前、教えてくれるか?」
少し躊躇った後、少年は口を開いた。
「越前リョーマ」
「リョーマか。良い名前やな」
「そう?」
「ああ。素敵な名前やん」
「侑士、調子に乗り過ぎ・・・」
「あ、俺のことは侑士って呼んでな。俺もリョーマって呼んでええやろ」
「はぁ」
この事態はなんなんだと、向日は眉を顰める。
筋を立ててる跡部と、陽気な忍足と、ぽかんとしている盲目の少年と。

(厄介なことに巻き込まれるのは、ごめんだからな)
とりあえず今日は今までで一番高いものを忍足に奢らせてやろうと、向日は決意した。






それから続けられる忍足とリョーマとの会話に入ることなく、跡部は黙っていた。

ヤキモチかよと忍足に言われ、かなり動揺してしまった。
越前リョーマといるとこんなことばかりだ。

昨日、杖を取り返しはしたけど、跡部はずっとリョーマのことを心配していた。
ろくでもない奴に釘は刺したが、学校へ来る気を無くしているかもしれない。
迎えに行ってやろうとも考えたが、跡部には朝練がある。
朝練に付きあわせるわけにもいかない。かといってさぼったらリョーマのことだ、怒るに決まっている。
だから練習が終わると同時に、校門まで出向いた。

リョーマが来るまで、いつまででも待っていようと思っていた。
意気込んでいたわりには、すぐにリョーマは校門をくぐって学校へやって来た。
杖をついて、周りに障害物がないかどうかゆっくり確かめながら歩いている。

「よぉ」
「跡部さん」

声ですぐにわかったのだろう。
以前のような無愛想な顔ではない。
少し嬉しそうにも見える。

どうして。

そんな事が嬉しいと思うのか。
自分の気持ちがわからない。

「朝練は?」
「終わった。後は教室に向かうだけだ」
「へぇ」

特に言葉も無く、ゆっくり同時に歩き出す。

リョーマの手を引いてやりたいと思うが、それは本人が許さないだろう。
コンクリートに響く杖の音を聞いて、もっと頼ってくれれば良いのに。

忍足が来るまで、そんなことを考えていた。


(全く、どうかしてるぜ)

まだ続いている忍足のおしゃべりに、ぎりっと歯を食いしばった。


2004年08月16日(月) 盲目の王子様 16 跡部景吾

まず跡部は部室で手早く着替え、一年生が練習しているコート裏へ向かった。

以前、リョーマと校内ですれ違った時、一緒にいた同級生がテニス部員だったことを思い出したからだ。

「水野と、加藤。話がある。ちょっとこっちに来い」

突然名前を呼ばれたカチローとカツオはお互い顔を見合わせた後、すぐに跡部の後ろを追い掛けて来た。

部長からの呼び出しは一体、何事か。

実は跡部は、部員の名前と顔を全員記憶しているのだが、
カチローもカツオもまさか覚えてもらっていると等と思えず、緊張した面持ちで顔を伏せていた。

「越前リョーマ」

単刀直入に切り出した名前に、ようやく二人が跡部と視線を合わせる。

「知ってるだろう?」

何故、その名前が出て来たのか疑問に思いながらも、二人は「はい」と答えた。

「今日、越前の杖がなくなった」
「え?」
「あいつはなくしたとか言いやがったが、誰かが隠したのは間違いない。
前に、越前のクラスから出てきた生徒が、あいつを突き飛ばしたのを俺は見たことがある」
さっと、二人の表情に影が掛かる。
「嫌がらせしそうな奴に、心当たりは無いか?」
「・・・・・・・・・・」
クラスメイトの名前を出すのに躊躇しているのか、カチローもカツオも黙っている。
もし言ったとしても、その人物が犯人と決まったわけではないのだ。

しかし跡部には待っている余裕など無かった。
わずかな手がかりでも掴めるのなら、迷ってなんかいられない。

「あいつに杖を返してやりたいんだ。頼む、そいつが知らなくても誰か知ってるかもしれない」
頭を下げんばかりの勢いの跡部に、驚いたのはカチロー達だ。

あの誇り高い、テニス部を束ねている部長にこんなことさせるなんて・・・!

慌てて、リョーマに絡んでいた中心人物の名前を挙げる。

「あの、でもリョーマ君の杖を持って行ったところは見ていないんですけど」
「ちょっと今日、突っかかっていただけですし」

言い付けるようなことをしたせいか、バツが悪そうな二人に、跡部は笑顔を向けた。

「イヤ、これが杖を取り戻す切っ掛けになるかもしれねえからな。
二人とも練習時間に呼び出したりして、悪かったな」
「いえ・・・」
それから、と付け加える。

「このことは、誰にも言わないで欲しい。
他の連中に何故呼び出されたか聞かれたら、朝練の時の態度でとでも言って誤魔化してくれ」
「ハイ!」
「勿論、越前にもだ。あいつはこんなことで借りを作りたくないって性格だからな。わかるか?」
「そうですね」
リョーマのこともあるので、二人は力一杯頷いた。
「ところでそいつは部活か何か入っているか?もし帰宅部なら、自宅に行かないと杖の在りかがわからないってことになるが」
「あ、それでしたら、たしか・・・・」

教室で喋っていた内容から、サッカー部だったとカチローが答える。
「そうか。だったら今はグラウンドにいるだろうな」
「ハイ」
すぐに二人を練習に戻らせ、跡部は次にサッカー部へと向かう。

(名前さえわかれば、どうにでもなる・・・)

ついさっきカチロー達に笑顔を向けたのは、これで好き勝手やった奴に思い知らせることが出来ると思ったからだ。
自然に笑みが零れてしまった。

(無事に済むと思うなよ)





グラウンドへ向い、サッカー部の顧問がいないことをまず確認する。
そして大声で部長の名を呼ぶ。

ただ事じゃない跡部の表情に、サッカー部部長はすぐさま駆け寄ってきた。

「お前のところの一年に、ちょっと聞きたいことがある。呼んでくれ」
サッカー部の部長はすぐに問題の生徒を呼び出した。
長引けばとばっちりで部全体どうなるかわからないからだ。
跡部の機嫌を損ねたら、予算を不当に没収される恐れもある。
理不尽なことだけれど、跡部の権力は絶大だ。逆らえない。


呼び出された生徒は、何故生徒会長が・・?と不思議そうな顔をしていた。

が、
「越前リョーマの杖がどこにあるか、知ってるか?」
その言葉に、大きく目を見開いた。

(やっぱり、こいつか)

「どこにある」
「お、俺は杖なんて」
「お前だろう!」
そう言って、胸倉を掴み無理矢理後ろを向かせる。

「前にもあいつのこと、突き飛ばしただろう。後ろ姿がそっくりだぜ」
「そんな、俺は」
「まだ白を切るのか?」
髪を掴み、顔を覗き込む。
「この学園を仕切ってるのは、俺だ。わかってんのか?
今、本当のこと言わないのなら、これから先平穏な学園生活が送れるとは思うな」

本気の跡部を感じ取ったのか、震え上がり、あっさりと杖の場所を吐いた。
ちょっとからかっただけだと、半泣きする男に、跡部はぺっと唾を吐いた。

「お前も同じようにしてやろうか。そしたら少しは懲りるかもな」

済みませんと地面に這いつくばる姿に、興味など無く、跡部は教えられた場所に向かった。

杖はリョーマのクラスの掃除道具と一緒に入れられえていた。
大事になった時に、返すつもりはあったのかもしれない。

手に取って、損傷がないか調べる。

(下らないこと、しやがる)

リョーマの、決して人の手を借りようとしない意固地なところが、連中の気に触ったのだろう。
あの生意気な少年の口の聞き方は・・・たしかに跡部にとっても腹が立つことは度々あった。
しかし彼等のやったことは許されることではない。

(二度目はないからな)

杖を手にして、跡部は歩き出した。

「跡部?お前、さっき来ていなかったか?」
コートに向かって来た跡部に、ちょうど出入り口の近いベンチにいた宍戸が声を掛ける。

「別に・・・なんでもねぇよ」

すぐにでも届けてやりたかったが、部活がまだ終わる時間ではないから、家に行ったらリョーマが不審に思うだろう。
そう思って、気が進まないが部活にまた戻って来た。

はぁ、と息を吐いた跡部に、宍戸は一瞬だけ視線を送ったものの、またすぐにラケットを持って練習へ戻っていった。

(終わるまでには・・・まだ2時間もあるのか・・・)

部活が早く終わればいいなんて思うのは、初めてだった。

氷帝の部長がこんな気持ちではいけないと思い直し、跡部は軽く自分の頬を叩いた。

「樺地!ちょっと相手しろ!」
ラケットを握り、テニスだけに専念しようと声を上げる。
「ウッス」







長いと感じた部活が終わり、急いで跡部は車に乗った。
手には、当然リョーマの杖を持っている。

「さっき送った奴の家に向かってくれ」
「かしこまりました」

リョーマの家は拍子抜けするほど、近かった。
目が見えないリョーマにとっては、不便無い距離だろう。

(けど、あいつ一人で歩くには時間が掛かるだろうな)

それにも杖がいる。
返してやろうと、跡部が玄関前に立つと同時に、扉が開く。

「あ、ごめんなさい。ぶつからなかった?」
「いえ、大丈夫です」
「そうですか。ええと、家になにか用でしょうか?」

にこやかに髪の長い女性が、跡部を見詰める。
どこかリョーマに似た雰囲気に姉だろうかと思いながら、挨拶をする。

「初めまして。氷帝学園の跡部と申します。実はリョーマ君に届けものがあって、来ました」
「まぁ。すぐにリョーマさんを呼んで来ますから。どうぞ上がって下さい」
「いえ。車を待たしてあるので、ここで」

すぐそこに着けてある車に視線を向けると、女性はわかりました、リョーマさんを呼んで来ますと家の中に下がった。

そして今度はリョーマが一人で外へ出て来た。

手には跡部が持っているものと別の杖を持っている。

「跡部、さん?」
どうしたの?といった具合に目を瞬かせている。

「・・・予備があったのか」
なんだ、と跡部は笑いそうになった。
あんなに必死で探していたけれど、家に帰ればちゃんと予備があったのだ。
「え?ああ、杖の?」
「ならこれは必要なかったようだな」

空いている方のリョーマの手を掴み、持ってきた杖を握らせる。
「俺の杖・・・・」
「落ちていたぜ。お前のだと思って持ってきてやった」
「落ちてた?」
「ああ。たまたま歩いていたら見付けた」

たまたまという所を強調して、リョーマの手を離す。
触れたところが、何故かやけに熱かった。

「ふぅん」
特に追求することなく、跡部が持ってきた杖をリョーマはぎゅっと握る。

「あのさ」
「どうした」

ハッキリ物を言うリョーマにしては珍しく、もごもご口を動かしている。
よく聞こえるよう、跡部はそっと屈んで顔を近付けた。

「今日はありがとう。色々、杖とか車とか・・・」

不意に聞こえた言葉に、今度は耳が熱くなる。

「別に大したことしてねぇよ」

わざとぶっきらぼうに言って、リョーマから離れる。
何か、このままリョーマの近くにいてはまずい気がする。
そう思って、目を逸らすがまたリョーマを見てしまう。
一体、これはどういうことなんだ。

そんな跡部の様子に、リョーマは気付いていない。
「あんたって最初会った時は偉そうだし、何様?とか思ってたんだけど」
「ケンカ売ってんのか」
あんまりな言い方に眉を顰める。

またこの分だと、言い争いをした時と同じかと思っていたら、

「本当は、良い人だよね」

にっこりと、リョーマは可愛らしい笑顔を浮かべる。

それを見て、跡部は全身に熱が回っていくのを感じた。


2004年08月15日(日) 盲目の王子様 15 跡部景吾

タイミングを計ったように現れるせいだ。
でなければ・・・・絶対手を貸したりなんかしない。
絶対だ。

関わらないと誓ったはずなのに、勝手に走り出す足をどう止めたら良いのだろう?



本日も新しいデータを渡すからと、跡部は榊の呼ばれ、音楽準備室に出向いた。
前とは違い、待たされることなくテープを渡された為、
あの時見つけたものが同じ場所にあるかどうかは確認出来なかった。

「R・E」と書かれたラベルが貼ってあったテープ。
この学園に入る前の越前リョーマが映ってるものだ。
盲目ということで学園内で有名になっているリョーマだが、
彼がテニスしていたという噂は入って来ていない。

最も盲目だということが先行していて、
それ以前の彼がテニス選手だったと結びつける人がいない可能性もある。

(知っているのは、監督だけか・・・・)
それを除いたら、偶然テープの中身を見てしまった跡部一人しか知らないということになる。

調べようと思ったら、リョーマの経歴を探すことなど跡部には簡単に出来る。

'越前’

テニスしているリョーマを見なければ、気付かなかったこと。

以前、日本には世界のトップと渡り合う一人の選手がいた。
「サムライ」と呼ばれたその選手の名字と、リョーマの名字は同じだ。

考え過ぎることかもしれないけれど、引っ掛かるものがある。

テープの中でプレイしていたリョーマは、今より少し幼い感じだった。
それでいて、あれだけの技術・スピードには只者じゃない何かを思わせる。

もし「サムライ」の血縁者なら・・・・それも頷ける。


しかし柄にも無く、跡部はリョーマの過去を調べることを躊躇していた。
金を使えば、容易く判明出来るけれど。

(気分、良いものじゃねえな。やっぱり・・・・)

もしリョーマが日本に渡って来た理由に、目のことが関係あるのなら、尚更だ。
あれだけの選手を、周囲がほっとくと思えない。
それなのに盲目となって、もう選手生命を絶たれたとしたら・・・?
どう騒がれるのだろう。

(まだあいつは、12歳なのに、な)

コートを走り回るリョーマから、今ここにいるのが楽しいという感情が伝わって来た。
コートに立てないとわかった時、かなりのショックを受けたに違いない。

(今でもラケットを握って、コートに立ちたいんだろ)

じっとボールの音に耳を澄ましていたのが、まだ未練が残ってる証拠だ。


その気持ちは、同じテニス選手として理解出来るものだ。

だから、土足で踏み込むような真似は避けたかった。
知らないところで過去を暴いて、知ったところで・・・・何にもならない。


かといって、知りたい気持ちも残っているのは事実だ。

(どうしたものか)

監督は教えてくれないだろうし、リョーマはリョーマで跡部のことを嫌っている。

なんとかならないのかと、考えながら階段を降りて行く。

(この時間だと、また会うかもしれないな)
別に会ったって声を掛けるなんてしねえからなと、一階の廊下へと足を進める。


この間と違って、何人かの生徒が廊下にいる。
(なんだ・・・?)
不自然な空気に、跡部はすぐ気付いた。

皆の視線が、同じ方向を向いている。

その先に何があるのか。
辿ってみると、一人の生徒が壁に手をついて歩いているのが見えた。

怪我でもしているかのように、一歩一歩ゆっくり足を進めている。

「越前!」

それがリョーマだと気付いた時、跡部は声を出していた。
周囲がリョーマから跡部に視線を移すが、構っていられない。
すぐに、小さな背中へと走り出す。

「何。また、あんた?」

声で跡部がわかったのだろう。
眉を潜め、それでもまた壁に手を置いて、リョーマはまた一歩足を踏み出している。

「お前・・・杖はどうした」
上擦った声が、知らずに出た。
リョーマが杖を離して歩いてるのを見たことはない。
目の見えないリョーマにとって、欠けることのできないはずのものだ。
それがどうして今、杖を持たず歩いている?

「ちょっと、なくしたみたい」
ぴくっとリョーマの体が動いたのを見逃すはずもない。
それになくしただって?
「なくそうと思っても無くせるものじゃねぇだろ」
声を荒げる跡部に、リョーマは首を傾げた。

「俺が勝手になくしたのに・・・なんであんたが怒ってんの?」
「怒ってねぇよ」

実際、腹は立っている。
これだけの人間が行き来している中、
壁伝いに歩いているリョーマを誰も気にも止めやしない。
まるでいないかのような扱いに、訳のわからない怒りが込み上げていた。


「畜生・・・」

小さく呟いた後、跡部はすばやくリョーマの手を取る。

「えっ、ちょっと!?」
「そんなんじゃいつまでも家に帰れやしねぇぞ」
「は?」
「送ってやるから大人しくしてろ」

そのままリョーマの手を引いて、廊下を歩き出す。
前から歩いてくる生徒が、何事かと二人の顔を見る。
生徒会長の跡部と、盲目のリョーマ。
目立つ組み合わせなのだろう。
けれど跡部は気にもしない。そしてリョーマには見えない。

「ねぇ、俺なら大丈夫だって!手、離せよ!」
「大丈夫だと?バカ言うな。いいから黙ってろ」
「部活はどうするんだよ。あんた部長でしょ?さぼったらまずいんじゃない?」
「安心しろ。俺が送るのは校門までだ。すぐに車を呼ぶ。
それに乗って運転手に住所を言えば、お前を家まで送るから。それで文句ないだろ?」

断られるだろうか。

今までの経緯から好かれていないことは、明白だ。
けれど断られようが、跡部は引くつもりは無い。
文句を言おうが、車に乗せてしまおうとまで思っていた。

だけどリョーマは少し考える素振りをした後、こくりと小さく頷いた。


「ほら、乗れよ」
すぐ来いと連絡したおかげで、車は3分以内にやって来た。
リョーマを押し込んで、運転手に頼むぞと告げる。

「ねぇ」
ドアを閉めようとした瞬間、後部座席に座ったリョーマが声を掛ける。

「なんだ」
「あんたさ・・・どうして俺に関わってくんの?」
リョーマも今までのことを思い返していたのだろう。
何故?と言いたげな表情を浮かべている。

「別に。理由なんかねぇよ」
「え?でも」
もう出せと、ドアを閉めて車を走らせる。


無視すると決めたはずなのに。
こうしてまたリョーマに関わろうとするかなんて、自分でも分かりはしない。

けれど、あの状態でリョーマを一人帰すことにならなくて、良かった。
安堵してるその気持ちに偽りは無い。

(あとは・・・・あいつの杖を見付けてやらないとな)

この学園内でくだらない真似をしてる奴がいる。

いつかリョーマを突き飛ばした生徒を思い出し、跡部は不愉快そうに顔を歪めた。


2004年08月14日(土) 盲目の王子様 14 跡部景吾

思わず駆け寄ってしまった。
そんな行動に何よりも驚いているのは、自分自身だ。





その日、跡部は保健室を目指して歩いていた。
保健室のおばちゃんは、跡部を他の生徒と変わりなく扱ってくれる数少ない大人の一人だ。
ほとんどの教師は跡部を優等生だの、模範生だのと評価してくれる。
それは間違っていないが、跡部は内心で彼らのことを上辺でしか判断出来ない奴と馬鹿にしていた。

(見えない部分で何やってるかわからないくせに、滑稽だな)

それは、全く自分の親に当て嵌まると気付いたのは、いつだったか。
彼らの望む景吾という息子でさえいれば、何も知ろうとしない、見ようともしない。

(血の繋がった両親でさえ、これだ。
ましてや他人なんか、分かり合えるはずもないだろう・・・?)

おばちゃんが聞いたら、きっと顔を真っ赤にして説教でもするだろう。
誰かから聞いた噂に、何度も女の子には優しくするものだとしばしば怒られている。
それでもまた保健室へ出向いているのは、特別扱いすることなおばちゃんの態度を気に入ってるからだろう。

「跡部君が良い子なのはわかっています。けれど時々は肩の力も抜きなさい」
祖母が孫に言い聞かせるような言い方も、不快では無い。
授業に出るのさえ面倒な時は保健室に来て、1時間程ベッドを借りることもあった。

今日も英語教師の下手な授業に付き合うのがイヤで、さぼることを決めた。
(あんな発音・・・・恥ずかしくねえのかよ?)
この先のことを思うと勘弁してくれと、無意識に額を押さえる。

どうにかならないかと考えながら渡り廊下に差し掛かると、知った顔が反対側から歩いて来るのが見えた。

(越前リョーマ・・・!)

氷帝で唯一の盲目の少年。
杖を歩いて、そろりそろりと歩いてる姿はリョーマ以外何者でも無い。

(こんなところまで一人で歩くことが出来るのか?)
妙に感心してそのまま見ていたら、
不意にバランスを崩して転んでしまった。

(あいつ、何やってんだ!)
気付いたら、跡部は駆け出していた。

杖を握ったまま、渡り廊下に座り込んでいるリョーマのすぐ後ろへ立つ。
どこか怪我でもしているのかと、覗き込んで見る。

「・・・・ったー」
痛がっているけれど、リョーマは立ち上がろうとしている。

どうやら外傷は無さそうだ。
さっと腕を伸ばし、跡部はリョーマの体を支えて立たせてやった。
「え?」
急に手を出されて驚いたのか、大きな瞳を何度も瞬かせている。

憎たらしい口を聞くこともないその仕草に、跡部は笑い声を上げそうになった。
(なんだ、その間抜な顔は)
転んだせいで埃だらけになったリョーマの制服に気付き、手で払ってやる。
(気付かないまま教室に戻りそうだから、仕方ねえな)

全部払い終えると、ずっと呆けたままのリョーマが口を開いた。
「あの・・・・ありがとうございます」

素直なお礼の言葉に、跡部はさっと体を引く。

聞いてはいけない気がして、リョーマに背を向けて渡り廊下を飛び出す。

(あいつ、ちゃんと礼も言えるんじゃないか)
妙に腹立たしくなって、舌打ちをする。

出会った時から、自分には生意気な台詞ばかり吐くくせに、今のはどういうことか。
きっと名乗ったら、「ありがとう」なんて言わなかったに違いない。
「あんたなんかに助けてもらいたくなかったね」とか、言うのだろう。

そう思うと、腹が立ってくる。

(なんでお前なんかのことを考えて、苛々しなきゃいけないんだ・・・・)

もう関わらないと、決めたはずなのに。






保健室で授業は休むが、跡部は部活にきちんと顔を出した。
「今日は休みかと思うたわ。
跡部様のお加減がよろしくないみたいーって噂はどうしんや」
「ハッ。そんな噂いちいち聞いてるのか。暇人だな」
「何やて!」
挨拶代わりにどうでも良い話をする忍足を無視して、跡部は樺地にラケットを出すように指示をする。

「・・・ジローがいないな。またどこか寝てるのか?」
目が届かないところで寝てる場合、常々樺地にコートまでは運ぶように指示してるのだが、
姿が見えない。
「あー、ジローなら野・暮・用」
「てめえには聞いてねえだろ」
「あーあ、折角人が面白い情報教えてやろうと思うてんのに」
「樺地、ジローはどうした?」
「聞けや」
「ウス」
困ったように、樺地は首を振っている。
どうやら居所がわからないと言っているらしかった。
「だから野暮用やって言うてるやん」
「ほぉ」
「ジローちゃんもなあ、あれでいてモテるからなあ。跡部様じゃないけど」
「樺地、埋めろ」
「ウ・・・ス」
「褒めたんやないか!」
「そうは聞こえなかったぜ」
はあ、と憂鬱そうに溜息をつく跡部と、困った顔の樺地と、騒いでる忍足。

何事かと部員達は目を瞠る。

「もういい、さっさと練習」
してこいよ、と跡部が言おうとした所へ、間延びした声が被った。
「おはよ〜」
「おお、ジロー!今ちょうどお前の話をしてたんや」
眠そうに目を擦ってるジローの横へ、さっと忍足は移動して肩に手を置いた。


「告白されたんやろ。どうやった?とうとうジローも彼女持ちになったんか?」
なあなあ、と聞きたがる忍足を鬱陶しそうにジローは手で撥ね退け、大きく欠伸する。
「眠いんだから、静かにしてよ・・・」
「そりゃ悪かった。で、返事はどないしたんや」
邪険にされても食らいつく忍足に、跡部は呆れた目を向ける。
(こいつ、全然空気を読んでねえな)

しかし忍足は跡部の冷たい視線にも気付かず、尚もジローに答えをせがんでいた。

「返事〜?」
「そや。さっき部室前で女の子に呼び出しされたやろ?忘れて無いよな?」
「微妙に失礼なこと言ってない?覚えてるよ」
「で!?その後、どうしたんや」
また数センチ前まで忍足はジローに顔を近付ける。
少し体を引いて、ジローは頭をぽりぽりと掻いた。
「どうもこうもしないよー。好意は嬉しいけど、ちゃんと断ったから」
「なんやて!」
なんちゅう勿体ないことを、と忍足は肩を落としているが、
ジローに彼女が出来たらからかってやろうとしてたに違いない。
(目測が外れてがっかりしてるのか)
バカらしい、と跡部は小さく呟く。

「勿体無いとかじゃないよ。俺は好きになった子とかしか、付き合わないって決めてるC」
「ジロー・・・今時小学生でもそんな恥ずかしい台詞よう言わんで」
「いいの!いい加減な気持ちで付き合って、その子のこと傷つけたく無いよ」

ぱっと目を開いたジローが、跡部の方をはっきり向いた。

「なんだよ。俺様に何か文句でもあるのか」
「んーん。べっつにー」

癇に触るような言い方に、ジローを睨みつけるが怯みもしない。

「ジロー、その話はこっちでゆっくりしような」
険悪な空気に気付いた忍足が慌ててジローを引っ張って、隣のコートへと走り出してしまった。

「なんなんだ、あいつ・・・。まあいい。樺地、コートに入れ」
「ウッス」

樺地をコートの反対側へ歩かせ、跡部はラケットを握り締めた。




また人の気持ちを考えろとでも言いたいのかよ。
説教なら沢山だ。

俺様は、自分のことしか考えてない。
所詮、人間は自分のことで手一杯の生き物なんだ。
誰より正しい生き方してるだろう?


ふっと、昼間にリョーマを助け起こしたことが頭に過ぎる。

あれは、単なる気まぐれに過ぎない。
今度会っても、無視する。
目の前で転ぼうが、助けてと言ってやろうが素通りしてやる。
絶対だ。



しかし跡部の決意は、翌日には崩れることになる。


2004年08月13日(金) 盲目の王子様 13 越前リョーマ

ほぼ日課にしてる散歩を終えて、リョーマは玄関のドアを開けた。
学校から家への道と、ほんのわずかな周辺。
それがリョーマが歩ける範囲だ。
教えてもらった道は忘れないようにと、暇があれば一人で歩いている。

「おかえりなさい」
ドアを閉めるのと同時に、優しい声がリョーマを迎える。
「ただいま、菜々子さん」
「すぐに夕飯にしますから、手を洗ってきて下さいね。今日はリョーマさんの好きな茶碗蒸しです」
「やった!」
靴を脱ぎ、リョーマはすぐに洗面所へ向かった。

同居している年上の従姉は、いつでもリョーマのことを見守ってくれている。
それは視力が失われる前からのことなので、変に同情などないことくらいリョーマはわかっていた。
さりげなくリョーマが本当に困った時だけ、そっと手を貸してくれる存在。
(そういうとこ榊先生と、似てるかも・・・)
しかし榊はさりげない力の貸し方のスケールが違ったと、リョーマはすぐに思い直した。
本人は些細な助力のつもりだが、どう考えても些細などでは収まらない。
(勿論、感謝はしているけどね)
おかげで点字の本には困らないし、とリョーマは少し笑った。

理解して、支えてくれようとしてる人がいること。
それだけでもう、十分だとリョーマはいつも思っている。


「菜々子ちゃんの料理はいつ食べても美味しいねえ。
旦那になる奴は世界一の幸せものだな」
「おじ様。そう言って、お酒のお代わりしようとしても、ダメですよ。
おば様から2杯までって言われているんですからね」
「げー、そりゃ無いよ。よっ、菜々子様。肩でもお揉み致しましょうか」
「ダメですったら」
珍しく早い帰宅だったリョーマの父親・南次朗と、菜々子とリョーマでの夕ご飯。
母親である倫子は会議で遅くなるから、申し訳ないけど先に食べていてとの連絡があった。
「親父。菜々子さんに迷惑掛けてないで、ご飯食べたら?」
まだ菜々子に食い下がってる父親に、リョーマはぴしゃっと一言伝える。
「おうおう。なんでえ。一人息子まで母さんの味方か。やってられないなあ」
「母さんは親父の体のこと考えているんだろ。放っておくといつまでも飲んでいるんだから」
「かーっ!手塩に掛けて育てた12年。可愛かったお前がそんな憎たらしい口を聞くとは、涙が出て来そうだ」
「おじ様。嘘泣きしても、わかりますよ」
「菜々子ちゃん・・・そんな冷静に言わなくてもいいから・・・」
拗ねたような南次朗の前に、菜々子はご飯を盛った茶碗を無言で置いた。
これ以上酒を無駄だと悟ったのか、南次朗は黙っておかずとご飯を口に運ぶ。

「時に青少年」
「何だよ」
「学校はどうだ?楽しい学生生活をエンジョイしているか?」
さらっと今の状況を聞きだす南次朗に、リョーマは肩を竦めた。
「まあまあだね」
「左様か」
ふーん、と肘をテーブルについて南次朗は漬物を口へと放り込んだ。
「おじ様。お行儀が悪いから、やめて下さい」
「まあまあ、菜々子ちゃん。この姿勢、楽なんだよ」
「ダメです」
ちぇっ、と舌打ちする南次朗を横目に、菜々子へリョーマに声を掛けた。
「リョーマさん。学校で不便なこととかは無いのでしょうか?」
「平気だって。まあ、カチローやカツオの手を借りることもあるけど。
ほとんど支障無い」
「そう・・・ですね」
クラスメイトのカチロー達の名前は、菜々子にも伝えてある。
親切なクラスメイトがいて良かったですねと、菜々子は心から喜んでいたようだった。

「それに、榊先生もいるし」
「榊の奴がどんな顔して親切にするか、見てみたいものだなあ」
「親父。学校来たら怒るからね」
「なんだよ!こっそり見に行くのもダメなのか!?」
「不審者に間違われるだけ」
「どこから見ても紳士だろうが」
「おじ様。リョーマさんが嫌がることはしないで下さいね」
にっこり菜々子が微笑んで念押しすれば、南次朗はそれ以上何も言えない。

「でも榊先生にカチロー君達に、良い人がいる学園で本当に良かったですね」
良い人ばかりじゃないけどねと思ったことは言わないでいた。
菜々子に話したら、きっとものすごく心配するに決まっている。
こんなにも自分のことを気に掛けてくれる菜々子に、これ以上余計な気を煩わせたくない。
「うん」
頷けば、菜々子は安心する。
何事も無く学園生活を送っていると信じてくれるだろう。
それ以上突っ込まれないように、リョーマは話題を変えた。
「そういえば。今日は知らない人に親切にされたんだ」
「まあ。どこでですか?」
「保健室からの帰りだったんだけどね・・・」

体育の時間、リョーマはいつも保健室で過ごしている。
実技は出来ないし、かといって見学もしたくでも出来ない。
特例として体育の時間は保健室で、点字の勉強することになっている。
その特例を作ったのは誰か、なんて考えなくてもわかっているから、
リョーマは何も言わずに従うことにした。
それにおばちゃんと呼ばれ生徒に親しまれてる保険医の先生は、
リョーマのことを気に入ったのか時々内緒でお菓子をくれたり、眠いと言ったらベッドを貸してくれることもある。
授業中、眠くなるリョーマにとってこれは有り難いことだった。

今日も体育の授業中は保健室で惰眠を貪り、
起きた後は貰ったチョコレートを食べて大変満足な時間を過ごした。
「寝る子は育つと言うけど、少しは勉強しなさい」
くすくす笑いながら言うおばちゃんに、「平気」とリョーマは涼しい顔して言い切った。
これといった課題が出ているわけでもないので、勉強してるとさえ言えば単位は貰える。
こんな楽なことは無いから、止められない。
「でも榊先生に、叱られるんじゃないの?」


一度だけ、榊が保健室に顔を出したことがあった。
ちょうどその時、リョーマの為に出してくれた和菓子を頬張ってる時だったので、
少し気まずい思いをしたのは確かだ。
「ちょうど休憩していたところなんです」
慌てておばちゃんが言い訳をすると、榊は「そうでしたか」とだけ返事して扉を閉めていってしまった。

「あの時のびっくりした顔の榊先生。
ここに勤めて長いけど、あんな表情初めて見ましたねえ」
「ふーん。真面目に勉強してると思ったら、ドラ焼き食べてて驚いたのかな?」
「越前君の大きな口に驚いたのかも」
「まさかあ」
そんなことくらいで、榊が動揺するのかと笑って否定する。
(とはいっても、あんまり榊先生のことよく知らないんだけどね・・・)
声の感じや、対応から父親よりもしっかりした落ち着いた大人だと勝手にイメージしてるが、
意外な面を持っていてもおかしくないだろう。

適当な世間話をしている内にチャイムが鳴り、リョーマは椅子から立ち上がった。
「チョコ、ご馳走様っす」
「どういたしまして。今度は果物なんかどうかしら?」
「大好きです」
「そう。じゃ、用意しておきますからね」
おばちゃんに感謝しながら、一礼して保健室を出る。
リョーマの教室は渡り廊下を挟んだ向かいの校舎の為、そうそうゆっくりはしていられないのだ。
普通の生徒ならば一分も掛からない距離だが、リョーマはそうはいかない。

(ここで渡り廊下のドアを開けて・・・)
慎重に手で探りながら、重いドアを開ける。
(後、半分くらいか)
外気を肌で感じながら、コツコツ音を立てて渡り廊下を歩く。
良い天気なので、とても心地良い風が吹く。
さっきまで寝ていたせいもあってか、リョーマはつい欠伸を一つ漏らす。
教室に戻ったら、また寝そうだ。などと考えながら。

そんな他事を考えてた油断もあってか、つい足元への注意が疎かになっていた。
まずい、と思った時はがくんと右足のバランスを崩し、転んでしまった。
「・・・・ったー」
何をやっているんだと、転んだ時痛めた膝を擦る。
怪我はしていないことにほっとして、立ち上がろうと杖を持ち直す。
「え?」
全く周囲に人がいるなんて、リョーマは注意を払っていなかった。
しかしいつの間にかリョーマの横に立ってたその人は、リョーマの体を支える形で立ち上がらせてくれた。
更に、制服についているだろう埃まで払っている。

「あの・・・・ありがとうございます」
手で埃を払う音に我に返ったリョーマが慌ててお礼を言ったが、
その人物は何も言わずに去って行ってしまった。

(声くらい聞きたかったんだけど)
そうしたら次会っても、誰だかわかることが出来ただろう。
寡黙な人なんだと自分を納得させて、リョーマは再び教室へと歩き出した。


「と、言う訳なんだけど」
リョーマの話を黙って聞いていた菜々子は、「その方とまた会えたらいいですね」と微笑んだ。
「もしかして転んでる人を助けるなんて当たり前過ぎて、名乗る程じゃないと考えてるかもしれません」
「おいおい菜々子ちゃんー、そんな中学生いるかあ?」
南次朗の茶化した声に、「いるかもしれないじゃないですか」と菜々子はムキになって返す。
「ま、まあそうかもしれねえな。うん。それより青少年」
菜々子を刺激しないように、南次朗は矛先を変えた。
「何」
「いつも保健室で良いモノ食ってるようだな、おい。だが、注意しないと太るぜ?」
「余計なお世話だよっ」
ぷいっと顔を背けて、「ご馳走様」とリョーマは席を立った。
息子をからかうことを楽しむ南次朗の相手を、これ以上しない為だ。

「リョーマさん。お風呂が沸いたら、呼びますから」
「うん。お願い」
菜々子にはきちんと返事して、リョーマは自室へと向かった。

部屋に入って、まずベッドに倒れ込む。
(腹、膨れた・・・)
ちょっと夕飯を食べ過ぎたかも、とリョーマは横になって休んだ。

自然と先程菜々子にした話の内容が頭に浮かぶ。
さっきの中で、一部分だけ言わなかったことがある。

(あの香り・・・・跡部の奴がつけてる香水と同じだった)

体を支えられた時、名乗らない親切な人の体からふわっと漂った香り。
それは跡部と接触した時に、嗅いだことのある香りと同じだった。
加えて、初めて会った時に抱かかえられた時の感じとも似てるような気もする。
(でも絶対、あいつじゃない。それだけは違う)

跡部ならばきっとリョーマが転んでいたのを見たら、素通りするか、
「こんなところで道を塞ぐな」と言うくらいだろう。

(二度と俺とは関わらないって言ってたよな)
だから今日、起こしてくれた人と跡部は違うと、リョーマは思っていた。
(あいつと同じ香水なんて、趣味悪いけど・・・まあ、それは人の勝手だし。香水と性格は関係無いよな。
体格だって、あのくらいの奴はいそうだし)

やっぱり跡部ってことは無いと結論を出す。
この次会えたなら、名前を聞けばハッキリするはず。
そうしよう、とリョーマは決意を固めた。




一部のクラスメイトの嫌がらせは、毎日行われるものじゃない。
どうやらその日の気分次第らしい。

今日は絡んでくると決めた日らしく、昼休みにカチロー達のいる前で軽い嫌味を言われた。
「リョーマ君のことを知らないのに、どうしてそんな風に言うんだよ!」
連中の嫌味にいち早く反応したのは、カチローだった。
慌ててリョーマは「相手にしなくていい」と止めに入り、カツオと共にカチローを教室の外に引っ張り出した。

「反応するとあいつ等が喜ぶだけだから、無視しとけばいい」
カチローにそう念押ししたのは、自分以外にも目を付けるんじゃないかと恐れたからだ。
「わかった?」
「うん・・・」
カチローの返事に、ようやくリョーマは安堵の息を吐いた。

「あのさ、リョーマ君」
「何?」
遠慮がちにカツオが問い掛ける。
「今までも、あんな事言われたりしたの?」
「・・・・・・・・」
答えることが出来ずに、リョーマは黙っていた。
きっとそうだと言えば、この二人は連中にまた腹を立てるだろう。
問題を解決しようと動くかもしれない。
でもそうしたら、巻き込んでしまう可能性が出てくる。

「そう、なんだよね?」
カツオの言葉に、リョーマは笑って答えてみせた。
「あいつ等の言ってること、半分もわからないんだ。
低レベル過ぎて笑っちゃうよね。俺は相手にするつもりないから」
「でも」
「放っておけばいい。あのくらい言われるの、俺はなんとも思ってない。本当だから」

コトを纏めようとするリョーマの必死さが伝わったのか、
カチローもカツオも「なんとかしよう」とは言わなかった。

「でも覚えておいてね。僕らはリョーマ君の友達だから」
「友達を悪く言われて、黙っていられるはずがない。エスカレートするようなら、止めさすように言うよ?」
真剣な二人に、リョーマは少し俯いた。
「うん・・・・ありがとう。でも本当に平気だから」
「リョーマ君・・・」

理解してくれる人がここにもいる。
作ったものではない自然な笑顔を、リョーマは二人に向けた。


幸いにも、それ以降連中が絡んで来ないまま授業は終了となった。

「それじゃ僕ら部活に行ってくるね」
「また明日ね、リョーマ君」
「うん。じゃあね」

練習前にコート整備などは一年の仕事の為、カチロー達は早くに教室を出る。
それでも今日は気を使ってか、連中がいなくなるまで残っていてくれたようだ。
本当なら下駄箱まで一緒に行こうと言われたけれど、リョーマがそれを断った。
一人で歩く練習をしているから、先に行っててと部活へ追い立てた。

(さて、俺も帰るか・・・)
今日はテニスコート近くまで寄ろうかと思ったけど、こんな日は真っ直ぐ帰った方が良さそうだ。
そう思って立ち上がり、鞄を肩に掛ける。

ガタンっ。

何かがぶつかった音がしたと思った瞬間、誰かがリョーマの体に体当たりをしてきた。

「な、んだよっ!」
教室みたいな狭いところで走ってるのか。
文句を言いながら、倒れた体を起こそうとリョーマは体勢を立て直す。
昨日から、転んでばっかりだと眉を顰め、その辺りに倒れているだろう杖に手を伸ばす。

「あ、れ?」
しかしそこにあるはずの杖は無い。
「なんでだよ」
両手で探すが、やっぱり見付からない。
「ねえ!今ぶつかった時に俺の杖がどこかに行っちゃったみたいなんだけど!」
こうなったらぶつかった原因の奴に持って来てもらおう。
そう思って、リョーマは声を上げたのだが。

(あ・・・・)
聞こえて来たのは、かすかな笑い声。
(今ぶつかってきたのはわざと・・・か)
リョーマの考えを見透かすように、一つの足音が教室から出て行くのが聞こえる。
きっと杖は落ちてなんかいない。
そいつが持っていった可能性が高い。
このままいつまでも教室で探している自分を、面白がってるに違いない。

(なんだよ。俺は絶対お前らなんかに負けるもんか)
すぐ横の机に手を掛けて、リョーマは立ち上がる。

杖は無いけれど、今まで暗闇の中、一人で何往復した道のりだ。
壁に手を伝っていけば、帰れるかもしれない。
家に帰ったら、予備があるから明日からはそれを使えばいい。
また取られたら、代わりになりそうなものでなんとかしてみせる。

(あいつらの思うようにはさせない)
手で周囲を探り、一歩不安定な道へ踏み出す。

何度も机にぶつかりながら、リョーマは教室のドアを開けた。
(どれくらい時間が掛かるかわからないけど、絶対帰ってやるからな)

壁に手を触れ、また一歩歩く。

弱いことを認めれば、楽になれるのだろうか。

けれどそれは絶対自分の生き方じゃない。

自分自身を守る為に、リョーマはまた一歩誰の手も借りずに前へ進んだ。


2004年08月12日(木) 盲目の王子様 12 リョーマ 跡部

図書室から借りた本を抱えて、リョーマは中庭を歩いていた。

(あいつら、その内どうにかしてやる)
今日もクラスメイトの一部から、嫌がらせをされた。
幸いだったのは、カチロー達が見ていないところで行われたことだ。
制服を引っ張って、躓き掛けたがすぐに立ち上がり知らん顔してやり過ごした。
もしもカチロー達が見ていたら、彼らにすぐ文句を言っただろう。
けれどそれによって、二人を巻き込まれることをリョーマは恐れていた。
(俺の問題は俺が片付ける)
放っておけば、奴等もその内飽きるだろう。
反応するから面白がる。だから無視し続けることが今の最善策だ。
カチロー達にまで睨まれる前にこんな行為が終われば良いと、リョーマは願っていた。

(できれば榊先生の手も借りたくない)
ただでさえ、気遣ってもらっている身だ。
こんなくだらない事で煩わせたくなかった。

氷帝は今年度、大量に点字の本を入荷していた。
もちろん予算で買ったものではない。
榊が個人的に学園に「寄付」したものだった。
必要とする生徒は、今現在リョーマ一人だ。
リョーマの家にも点字の本はあるが、数は比べ物にならない。
これも榊の配慮というやつだろう。
直接、本人への詮索はしていない。
どうせとぼけられるのはわかっているからだ。
『点字の本があるから見ておくと良い』
休日の特訓で図書室を案内された時、榊はそう伝えた。

今日は初めて一人で図書室へ歩いてみた。
教室からなんとか来れたのはいいが、どこの棚にあるのかわからずしばし途方に暮れてしまった。
親切な委員の人がリョーマを案内してくれなかったら、ただ行って戻っていただけかもしれない。
(あーあ。もっとちゃんと考えて行くべきだった)
今度は棚の位置もちゃんと覚えておかないと、また誰かの手を煩わせることになる。
本当に不便だと、リョーマは溜息をついた。

(この本だって・・・)
新品だとわかる本の表紙を撫でる。
これだけじゃなく棚の中全部、新しいものだとわかっている。
少しでも役に立つようにと揃えてくれたらしいが。
(あの人、やり過ぎじゃないの?)
それでいて榊は陰ながら見守っているつもりだから、可笑しい。
本人にも周囲にもばれているのが、わからないらしい。

『手術が成功した暁には、テニス部へ入ってもらう』
榊に借りを返せるとしたら、また目が見えるようになってからだ。
成功。
成功するかどうかもわからないのに、入部の約束だなんて馬鹿げた考えだ。
それに成功しても以前と同じようなプレイは出来ないかもしれないのに。

そう笑ったリョーマに、榊は静かに尋ねた。
『君は回復すると信じていないのか?』
誰よりも目が見えなくなったことで、落胆しているのはリョーマだった。
母に心配させまいと強気には振舞っていたが、内心は怖くてたまらない。
もし一生このままだったら?
二度とコートに帰ることはできないだろう。

『信じたいよ・・・』
またラケットを握り、もっと強い奴相手できる試合をしたい。
『私は信じている。君の目は、必ず見えるようになる。
だから君自身も信じるんだ』
肩に置かれた手に、リョーマは頷いた。
父親の知り合いである榊の申し出を受けたことにより、
越前家は日本へ引越しすることになった。
周りが騒がしいアメリカではなく、リョーマの名前がほとんど知られていない日本へ。

(しかし広い学校だよね)
学園全部を歩き回っていたら、それだけで一日が終わりそうだとリョーマは思った。
最低限のところは案内してもらったが、一歩間違えたら迷子になりそうだ。
だからこうして一人で歩いている時は、特に慎重になっている。
杖で周囲を探り、耳を澄ます。
遠くからだが、あの音は聞き違えようがない。
カツンと、障害物に当ったところで足を止める。
手で探ってみると花壇らしいものだ。
この辺りは特に多い。
気をつけていこうと、ゆっくりリョーマは足を進めた。

そう言えば、跡部と初めて会ったのもこの辺りだった。
偉そうな態度で話し掛けてくる彼を、最初は教師かと勘違いした。
生徒会長でテニス部部長。
跡部の噂はあちこちから流れてくる。
半分以上がお世辞にも良いものとはいえない。
特に女性関係はヒドイとしか評価出来ないものだ。
それでも信者は多い。
身近にいるカチロー達が良い例だ。
テニスプレイヤーとしての跡部は、耳としての情報だけどそれはそれは強いらしい。
榊も跡部の力を買っているような節がある。
目が見えなくなる前の自分だったら、きっと跡部に試合を挑んでいただろう。
跡部の鼻っ柱を折って「まだまだだね」と言えないことが残念で仕方ない。
そこまで考えて、リョーマはふっと笑った。
手術も成功するかどうかわからないのに、虚しいだけだ。
『君の目は、必ず見えるようになる』
それが本当ならもう一度、コートに立ちたい。

(こんなところで座っていたら、あいつに見付かるかもね)
以前にも榊と座っていたことのあるベンチを探り当て、リョーマは腰を降ろした。
聞こえてくる、心を弾ませる音。
未練がましいと自分でもわかっているが、忘れることなんか出来ない。
(ま、それにあいつが声を掛けてくることも無いか)

跡部の声は本気で怒っているように聞こえた。
「もういい。金輪際お前には関わらない。
助けてくれと頼んでも、一切聞かないからな」

その方が有り難い位だ。
こっちこそお断りだとリョーマは呟く。

きっとこんな所で座ってても、跡部は気にも留めないだろう。
金輪際と言っていたので、卒業するまであの声も聞くこと無い。

(ただあの音の中に、あいつもいるかもしれないけど・・・)
それ位はどうでもいいと、リョーマは再び聞こえるボールの音に耳を傾けた。




今日もふらっとコートを抜け出して、跡部は中庭を歩いていた。
(越前リョーマ・・・)
ビデオを見て以来、盲目の少年の過去ばかりを考えてしまう。
あれだけのプレイする者が目の前にいたら、すぐに試合を申し込んだに違いない。
氷帝のレギュラー陣でも、彼に勝てるかどうかの実力の持ち主だ。
そんなことを考えながら歩いていると、
すぐ近くのベンチで腰掛けてるリョーマを見付けてしまった。

(なんでこいつがこんな所にいるんだ?)
声を掛けずに、跡部はすぐ近くからリョーマを観察する。

身動きもしないで、ボールの音をじっと聞いているようだった。
しばらくそうしてて、気が済んだのか立ち上がってゆっくり歩き始めた。
(一人で帰れるのか・・・)
もしかしたら休日に榊と一緒にいたのは、歩行の練習の為だったのかもしれない。
杖で周囲を探りながらと、とても早いとは言えない歩きだけれどそれでも着実に前に進んでいる。

その姿にビデオで見たコートで動き回るリョーマを重ね、跡部はちっと舌打ちをした。
何故だか無性に苛々させられる。
でも目が離せない。

(お前はコートに戻りたいと思ってるのか?)
ボールの音を聞いていた顔を見て、跡部は少しだけリョーマの心を知った気がしていた。


2004年08月11日(水) 盲目の王子様 11 変化  跡部景吾

いつもながら音楽室とは思えない部屋で、跡部は榊を待っていた。

朝練時に名前を呼ばれた時、一瞬リョーマと言い争いをしたことがばれたのかと身構えてしまった。

しかし榊の話は全く関係の無いものだった。
「他校のデータが手に入った。授業が終わったら音楽室まで来るように」
他に何も言わない榊に、拍子抜けすらした。
(あいつ・・・監督には何も言わなかったのか)
ひょっとしたら越前リョーマは後ろ盾である榊にすら、何も相談しないのかもしれない。
(人の好意を払うような奴だからな)
そういう所も、腹立たしいと跡部は眉を顰めた。
・・・無力なくせに。
お前のことなど、いないものとして扱ってやると跡部は決意する。
しかしそうやってリョーマのことを考えてる事態が、意識してるのだと本人は気付かない。


榊の指示通り授業が終わった後、跡部は音楽室へと向かった。
「失礼します」
準備室の方のドアを開ける。
無駄に豪勢なこの部屋は榊自身が金を出して改装した部屋だと噂されている。
校長室よりも立派な造りは、一教師が持つ準備室とはとても思えないものだ。

適当な椅子に座り、跡部は榊を待った。
が、10分経過しても榊は現れない。
ひょっとして急な職員会議が入ったのかもしれないと考える。
ならばすぐに戻って来ない可能性がある。
「他校のデータなら・・・きっとこの辺りだろう」
探して持っていくかと、ビデオケースが置かれている棚を物色し始める。
大体の場所はわかっている。
音楽関係と、テニスのものとは完全に場所が分かれているから、
見付けれるかもしれない。
そう思って、跡部はラベルを一本一本確認し始めた。
練習をいつまでもさぼっているよりも、さっさと持って行って始めた方が良いだろう。
持って行ったとメモでも置いてけば、榊も何も言わないはずだ。
今年度のデータを探している内に、ふと目に入った文字に目を留める。

「R・E?」

それだけ書いてあるテープが一本。
R・E。
それが人の名前だとすると、ぱっと思いつく人物が一人いる。
「あいつか・・?」
盲目の一年生。
咄嗟にリョーマの顔を思い浮かべ、跡部は不愉快そうに鼻を鳴らした。
こちらから話しかけなければ、もう関わることもないだろう。
何しろ相手は目が見えない。
跡部が目の前に立っていようが、気付くことは無い。

けれど跡部の手はそのテープへ伸びていた。
やめておけと警告が頭に響く反面、好奇心を止められない。

一体、何の映像だろう。
もしかしたらこの中に、越前リョーマを入学された訳が隠されているかもしれない。
盲目の生徒を入学させる例は、過去にない。
随分、榊は無理をして学園長を説得したと専らの噂だ。
それを鵜呑みする気ではないが、何かメリットがない限り榊がそこまで動くとは考えにくい。
越前リョーマ。
一体、お前に何がある?
テープをデッキにセットして、跡部は椅子を引き寄せて正面に座った。
再生のボタンを押し、出てくる画像を待つ。


それは素人が撮ったらしく、画像はお世辞にも良いとはいえないものだ。
どうやらテニスの大会らしい。
映っている人物や話している言葉から、その場所が日本で無いことがわかる。
しかし重要なのはそのことではなかった。

「どうして、お前が・・・」

生き生きとコートを動き回る人物を、カメラはずっと撮り続けている。
仕方ないことかもしれない。
こんな小さな体で、倍くらいの身長の対戦相手を翻弄するプレイをしている。
「ツイストサーブ・・・!?」
高く上げられたボールを、少年はジャンプしてラケットを振り下ろした。
ボールは相手コートラインぎりぎりに入って、対戦相手の顔面近くへ跳ね上がる。

なんだ、これは。
いったいいつのビデオだというのだろう。
今より少し幼いが、そこに映っているのは間違い無く越前リョーマだ。
あいつ、テニスプレイヤーだったのか?
食い入るように、跡部は画面を見詰める。
状況は完全にリョーマのペースだった。
相手も立て直そうとするが、完璧にリョーマに封じられている。
リョーマの持つスピード、テクニックにいつしか拳を握り締めていた。
何よりもボールを追うリョーマの表情から眼を離せない。
試合を心から楽しんでいるかのように、笑っている。

それが本来のお前なのか。
盲目とはいえ、強くあろうとしているリョーマには変わらないが、
コートにいるリョーマが一番彼らしいと思う。
何故だろう。彼のことを何も知らないのに。
これが本来の越前だなんて、どうして確信しているのだろう?
優勝が決まったと、歓声が上がった瞬間テープが切れる。

「跡部」
急に声を掛けられ、跡部は驚いて後ろを振り帰る。
ドアのすぐ前に、榊が腕を組んで立っていた。
画像に集中していたとはいえ、ドアが開いた音に気付かない迂闊さに跡部は舌打ちしそうになった。
「不在だったので、その」
上手い言い訳が出てこなくて、跡部は口篭もる。
しかしなんでもないように、榊は机まで歩いて引き出しから一本のテープを取り出した。
「渡したいといったのは、このテープだ。時間がある時に見ておくように」
用件はそれだけだと、榊の目が言っている。
これを持って、さっさとコートに行け、と。
けれど跡部はテープを手にしながら、思っていたことを口に出した。
「今の、越前リョーマですよね?」
「・・・・・・・」
「どういうことなんですか?」
「何故お前がそんな事を気にする」
「それは、」
「全部関係無いことだ」
「監督!」
「知りたいのなら、お前が干渉してくる理由を聞かせてもらおうか」
榊の目はとても冷たいものだった。
単なる好奇心で聞いて良いものではない。
「・・・ありません」
「なら、もういいだろう」
くるっと背を向け、榊はデスクに座ってしまった。
「1時間後に顔を出す。それまでの部員への指示は任せる」
「はい」
ドアを閉め、跡部は音楽室を後にした。
何も引き出すことは出来ないと、わかっていたからだ。


「遅かったなー、跡部。監督に絞られたんか?」
「うるせえ」
一言で忍足と騙させると、跡部はベンチに座り込んだ。
そしてコートの中にいる部員達を見渡す。

これだけ大人数いて、越前リョーマのような目を持った奴は一人もいない。
あれはなんだ?
画像で見た彼の動きを思い出し、跡部は息を吐いた。
あんなものは実力の全てではないだろう。
まだまだ発展可能性があるテニスプレイヤーだ。
きっとあのまま成長していけば、世界にだって通用する。

リョーマの視力が失われたのは、いつだろう?
あんな、あんな顔をしてテニスしていたくせに、出来ないとわかった瞬間、どんな思いをした?

両手で顔を覆い、跡部は耳を澄ました。
コートに響くボールの音。
どんな動きをしているか、じっとしていると次第に見えてくる。
だけどどこまでも暗闇の中だ。

『しょうがないじゃん。何も見えないんだから』

諦めていたような目をしたリョーマの顔がふっと浮かんだ。


2004年08月10日(火) 盲目の王子様 10 跡部景吾

くだらねえ噂話、だな。
後ろで私語を続けてる女子達に、跡部は顔を顰めた。
(聞こえてねぇとでも思っているのかよ?)

「そこの二人。授業と関係の無い会話は慎むように」

淡々と、でも鋭い声で注意された女子生徒達はすぐに口を噤んだ。

「それでは次の曲の説明を続けよう」
きっと彼女達が何について噂しているかわかっているだろうに、
榊はおくびにも顔を出してない。

(当然、か)

越前リョーマの入学に関して、榊が関与しているのは明らかなのに、
理由は何一つわかっていない。
無責任なデマや憶測だけが校内に飛び交っていた。

榊は何を考えているのだろう。
(目的は、なんだ)
気にはなっているが、榊にもリョーマにも聞くことは難しそうだった。

あの一年にはいずれ、きちんと謝罪させるつもりではいるけれど、
今は少し近づきたくなかった。

傷付いていたリョーマの顔を見て、怯んでしまった自分が許せない。

(同情か?)
それは、無いと思う。
今まで生きてきて、他人にそういう感情は持ったことは無い。

だけど、リョーマのことは簡単に無視しようとしても出来そうにない。

どうしてだろうか、と考える。

(・・・無力なくせにそれを認めないのが気に入らない)

誰の手も借りずになんて無理だろう。
それをあのチビは本気でやろうとしている。

気に入らない。
大人しく手を引かれていればいいのに、一人で歩こうとしているところが。
榊の力を借りてもっと楽できるはずなのに、しようとしないところとか。

ふっと視線を感じて顔を上げると、榊と目が合う。
どうやら上の空だったことを見抜かれたらしい。

(あいつの事なんか、考えていたせいだ)

授業に集中する為、跡部は背筋を正した。








別に意図的に合わせようとした訳じゃない。
たまたま職員室に寄ったから、部活に行くのが遅くなっただけだった。
(そういや、前にもこの時間帯に会っていたな)

一階の廊下。
皆さっさと帰ったのか部活へ行ったのか、杖を頼りに歩く少年だけが歩いている。

下手に声を掛けて、またこっちの気分が悪くなるような事を言われるのもシャクだ。
今回は知らん顔して追い抜いてしまおう。

だが跡部が一歩踏み出す前に、
リョーマと同じ教室から男子生徒が出てきた。
跡部の少し前を歩く彼は、杖をついているリョーマの背中を片手で押した。

ガシャンと、杖の倒れる音が廊下に響く。

「おいっ!?」

跡部の声に、その男子生徒は振り返りもせず走って行ってしまった。
逃げたとしか思えない行動に、跡部は目を瞬かせた。
(何だよ、今のは)

慌ててリョーマへと視線を向けると、転んだらしく起き上がろうとしていた。

「大丈夫か?」

駆け寄って、不安定ながらも背を伸ばそうとするリョーマに、手を貸す。

「・・・・どーも」

礼らしく無い言葉を、リョーマは小さく発する。

「こういう時はありがとうございますって、言うものだろ」
埃だらけになったリョーマの制服を見て、思わず跡部は手を伸ばしサッと掃った。
「アリガトウゴザイマス」
刺々しい声に、その態度は何だと言いそうになる。
しかしそれではいつものやり取りと変わらない。
我慢して、跡部は話題を切り替えた。

「今の奴、同じクラスの奴か?」
「誰だかわかる訳ないだろ。知ってて聞いてんの?」
険しい顔をしてリョーマは答える。
その態度が、跡部を苛立たせる。

「けど、あのぶつかり方はわざとじゃねえのか?」
「そう?狭いからぶつかっただけでしょ」

とてもそんな風には見えなかった。
故意に押したようにとしか取れない。

「口の悪いお前のことだから、どうせあっちこっちで敵を作っているんだろ」
嫌味のようにリョーマに言ってやると、かなり怒ったらしく杖を持つ手が震えていた。

少し言い過ぎたかもしれない。
たかが一年生の言葉にいちいち反応せず、流せば良い。
相手することは無い。
跡部がそう思った時には、すでに遅かった。

「俺がどこでどうしていようが、あんたに関係無いだろ!
なんでそんなこと言われなくちゃいけない訳?
生徒会長か知らないけど、でしゃばり過ぎなんだよ!」
「・・・・、その口の利き方をやめろって言っただろ」

ぐいっとリョーマの制服を掴む。
簡単に投げ飛ばせるくらい軽い体だ。

(お前は無力だ)

宣言する前に、リョーマが跡部の手に自分の手を重ね、ぎゅっと爪を立てられる。

「お前みたいな奴は、大人しくしてろって言いたいんだろ。
一人じゃ何も出来なくくせに、対等な口を利くな。そう思っているんだろ!」
「俺は、そんな」
「見下していたいから、従順でいることを強要する。
あんた達のそういう考え・・・・軽蔑するよ」

低いリョーマの声に、跡部は思わず手を突き放した。
よろけて、リョーマは壁にぶつかる。
「図星さされたからって、動揺するなよ」
「お前こそ勝手な事言うな!俺がそんな事考えているような奴だって、お前にわかる訳ないだろう!」
カッとなって思わず、大きな声が出る。
だけどリョーマは無表情のままだった。

「もういい。金輪際お前には関わらない。
助けてくれと頼んでも、一切聞かないからな」
「・・・安心していいよ。あんたの手だけは、借りようとは思わないから」


まだそんな事を言うリョーマの顔を睨む。

(そうだな。どうせお前には他に頼れる相手がいるから、安心していられるんだろ)
言ったところでまたリョーマから言い返されるだろうと思って、
跡部は黙って早歩きでその場から立ち去った。

あんなに腹が立つ相手はいない。
あんた達だって?
誰かは知らないが、他の人間と一緒くたにされるなんて我慢出来ない。
咄嗟に助けてしまった自分が、恨めしい。

誰かに恨まれてるかしらないが、もっと居心地悪くなって学園から出て行かないだろうか。




「なぁ、今日は声掛けない方がええか?」
「見りゃわかるだろ、良いから黙っておけよ。侑士が動くとろくなことにならないし」
「・・・・岳人。それはどういう意味や?」
「自分で気付けよ。とにかく今日の跡部は放っておけよ」
「せやな」

結局、跡部の機嫌は最悪なまま、その日の部活は終了となった。






2004年08月09日(月) 盲目の王子様 9 越前リョーマ

連れ来られたベンチに、腰掛ける。
「ここ、どこ?」
渡された冷たい缶を一口飲む。
その味はリョーマが好きなファンタグレープだった。
「中庭にあるベンチの一つだ」
「ふーん。テニスコートはここから近いの?」
「もうちょっと行った先にある。
今日はまだ誰もいないが、ここに座っているとボールの打つ音が聞えてくるぞ」
「へぇ。そうなんだ」
本日もリョーマは、榊に手伝ってもらって校内の歩行練習をしていた。
必要は無いけれど、一休みしようと榊はリョーマをここに連れて来た。
暖かい春の陽射しが、降り注ぐ。
ここで昼寝したら気持ち良さそうだと、リョーマは思った。

「続きを始めるか?」
ファンタを飲み終えぶらぶら足を動かすリョーマを見て、榊が尋ねる。
「あ!今、何時っすか?」
「11時だが」

11時、と聞いてリョーマは目を見開いた。

「・・・今日は菜々子さんと出掛けることになってるんで。
もう帰ってもいいっすか?」
不自然に聞えたりしないだろうか。
内心でドキドキしながら、榊の返事を待つ。
この間はいつ見られたかわからないが、早く帰るのに越したことは無い。

「そちらの都合に合わせてやっていることだから、構わない」

どうやら怪しまれなかったらしい。
ほっとリョーマは胸を撫で下ろした。

だが、あまりのんびりはしていられない。
テニス部の部活は午後からだけれど、早めに出て来た跡部にまた見付かったら厄介だ。

先週は熱心にやっていたのに、いきなりやる気が出なくなったら榊は怪しむだろう。
告げ口するような真似も、イヤだ。
だからリョーマは家に帰らなければいけないと、ちょっと嘘を付いた。
菜々子と出かけるのは本当だけれど、それはお昼ご飯以降のことだ。

きっとこの方法が一番良い。
もうごちゃごちゃ言われるのは、沢山だ。
上からモノを言う跡部の態度を思い出し、リョーマは不愉快になってきた。

「疲れたのか?」
「いえ、平気です」

校門までの見送りも断ろうかと思ったけど、理由を聞かれたら返答に困るだろう。
誰も見てないことを祈るしかないと、リョーマは杖をぎゅっと握った。
余計なことを言ってくる跡部のせいで、こんなことにも気を使わなければならない。

(全くろくでも無い・・・)

部長が、生徒会長がそんなに偉いのか。
もう2度と話し掛けてくんなと、切に思う。

「越前」
「何すか?」
校門に到着して、榊はリョーマの肩を掴んだ。
「今、困ったりしていることは無いか?」
「・・・・・・無いっす。自由に歩き回れないこと以外は」
「そうか」
嘘、は言っていない。
イヤな連中はいるけど、報告するほどじゃないと思っている。
何より、できれば自分でなんとか切り抜けたい。
こんなこと言ったら、何故誰かの手を必要としないのだと榊は怒るだろうが。
「なら私からは言うこともない。気をつけて、帰るように」
「今日もありがとうございました」

小さくお辞儀して、リョーマはいつもの道を歩き始める。

その小さな背を見て、榊が少し心配そうな眼差しを向けていた。






翌日の月曜日。
リョーマが教室に入ると、少し話し声が静かになった。
不審に思いながらも、リョーマは自分の席へと足を進めた。
カチローとカツオは朝練が始まってから、ぎりぎりにしか来なくなった。
席に座って、のんびりしてようとリョーマは机を手で探る。
(あれ・・・?)
椅子が無い。
そこにあるはずのリョーマの椅子が、手でどんなに探しても触れることが出来ない。

「見ろよ、あいつ」
続いて聞える笑い声に、リョーマは机から手を放す。
(誰か持って行った?)

嫌がらせかと、ぎりっと歯噛みする。
絶対、やつらが面白がる反応なんてするもんか。
そう思って、杖を握りぴっと背筋を伸ばす。
(こんな連中に、負けるもんか)

「越前どうしたんだよー。何、突っ立ってるんだよ」
「あれぇ?椅子が無いのか?」

無言のまま立ったままのリョーマに、笑い声を上げてた連中が声を掛ける。
親切を装っているようで、口調は面白がってる。

不愉快だ、とリョーマは眉を寄せた。

「そう。今朝来たら椅子が無くなってた」
「へぇー。それは大変だな」
「盗難届け出しておいた方がいいんじゃねーか?」
笑ってる連中の数を、冷静に数える。
「別に。このままでもいいけど」
「はぁ?授業中も立ってる気かよ」
なんだ、こいつという声に、被せてやる。

「しょうがないんじゃないの?別に構わないけど」

キッパリと告げるリョーマに、連中も少し怯む。

「そんなの先生がさせる訳ないだろ」
「そうだ。お前、なんて言い訳するつもりだ」
「言い訳じゃなくて、椅子がないのは本当のことだろ。
聞かれたら、無いって言うだけなんだけど」
「・・・・・・・・ちっ」

面白くねぇ、と一人が呟く。

「お前なんか大人しく引っ込んでいりゃいいのに、その態度はなんだよ。
あ、そうか。榊先生に言い付ければ、こんな問題はすぐに解決ってやつか?」
「おい!静かにしてろ。こいつがチクったらまずいだろ」
もうすぐ担任も来るし、と他のメンバーが騒ぎ出す。
「あ、そうそう。あれ、お前の椅子じゃねえのか?誰かが使って、そのままにしてたみたいだな」
「ここに置いてやるから、感謝しておけよ」
「・・・・・・・・」
何が感謝だ、とリョーマは黙って椅子を掴む。

一人では何も出来ないくせに、集団でいて強くなった気になっている。
大嫌いだ。
(絶対、負けるものか)

「いつも相手が寛大とは限らないぞ。余計なトラブルを起こしたくなかったら」

だったら大人しくしてろって?
俺の生き方は俺が決める。
跡部にもクラスの連中にも負けないと、リョーマは拳をぎゅっと握った。


「おはよう・・・リョーマ君?」
声を掛けてきたカツオの態度が戸惑っているのを感じ、
リョーマは挨拶を返し、「何?」と尋ねた。
「怖い顔してるけど。なにかあった?」
「別に。朝だから、疲れてるだけ」
「そう?」

迷惑を掛けたくない。
だから黙っておこうと、決める。

これ以上連中が突っかかってくる前に、どうにかしたいけれど。
良い方法はあるだろうか?

授業が始まっても、リョーマはそのことだけを考えていた。


2004年08月08日(日) 盲目の王子様 8 跡部景吾

遠ざかっていく背中を見ながら、跡部はぎりっと唇を噛んだ。
「なんだっていうんだ・・・」

‘誰の手も借りたくないのに。特別扱いだって、されてるつもりもないっ!’
怒鳴りながらも、表情は酷く傷付いていた。
言い返すつもりだったが、それを見て口を噤んでしまった。

「ちっ」
八つ当たり気味に、壁を拳で叩く。
生意気な態度を取ったことについて侘びを入れさせようと思ったが、
急に冷めてしまった。

「面白くねぇ」

誰とも無く呟いて、跡部は部活に向かう為に歩き出した。

ここで黙って立っているよりも、ラケットを振っていた方がマシ。
理由のわからない苛々も、コートにいれば忘れられるだろう。





「今日も機嫌悪そうやなあ」
忍足を見た瞬間、跡部は黙って顔を背けた。
「無視かい!」
「うるせえ。今日はお前の相手している気分じゃねえんだ」
「怖い顔してると、仮入部の一年達に逃げられるで?
跡部様スマイルで悩殺したってや」
無言のまま、忍足の背にラケットを当てる。
「痛っ!」
「ウルサイって言っただろう」

「どっちもウルサイよ」

睨み合う二人の後ろから、のんびりとした声が聞こええてきた。

「ジロー?起きたんか」
「こんな環境で寝てられないよ・・・。あっち行って来よー」
「行くな!今から練習だろ!」
「えー」

一瞬不満げに顔を歪め、ジローは大きく欠伸をした。

「眠たいのに」
「お前の場合は寝過ぎだ。体動かしてスッキリして来い。
今日は一年も見ているんだ。絶対寝るなよ」
「なんで跡部に指示されなきゃいけないの?」

もう一度欠伸をして、ジローは口を尖らせた。

「だれが部長やってると思っているんだ」
「跡部」
ぴっと人差し指で跡部を指す。

「ならわかるだろう。部長の命令は監督の命令と同じだ」
「誰が決めたの」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」

不穏な空気を察知して、忍足がまあまあと間に入った。
天然なジローの言葉に跡部の苛々が増している。
この後、部員にとばっちりが来るパターンは避けたかった。

「跡部の指示も一理あるで。
ジロー、昨日もその前もずっと寝てたやろ。そろそろ練習始めんとあかんやろ。
最上級生の俺らが遊んでたら、示しもつかんし。な?」
「今日から来てるの?」
一年生達の方を見て、ジローは首を傾げた。
「仮入部だけどな」
「ふうん。もうそんな時期だったっけ」
「お前の場合、春が来たことに、今気付いていたんじゃねーか?」
嫌味を言う跡部を、さっくりと無視してジローは一年生の顔を一人一人眺めた。

「みんな小さくて可愛いねー。俺達にもあんな時があったっけ」
「せやな。ジローの身長もあれくらいやったな」
「俺はもうちょっと大きかったよ」
「そうか?」

緊張したまま球拾いをしている一年生達を見て、跡部は不意にリョーマのことを思い出した。

(馬鹿馬鹿しい)

身長は同じくらいかもしれないが、他に似ているところは何もない。
もう考えるな、と首を振る。


「跡部って、さあ」

急に真横に来たジローに、びっくりして跡部は目を見開く。
「・・・なんだ」
「自分のこと偉いと思っているでしょ」
「ジロー!?」
こら、と忍足がジローの体を引き寄せるが、言葉は止まらない。

「生徒会長でテニス部の部長。たしかに学園での権限を持ってるかもしれないけど。
それで誰もが従うなんて思わない方がいいよ」

あの生意気な一年生を思い出させる台詞に、跡部は顔を顰める。

「やってる事はさあ、結構最低じゃん」

あちゃー、と額に忍足は手を当てる。
気にも留めず、ジローは「さ、打ってこよう」とのんびりコートに入っていた。


「なんだ、あいつは」
低い声の跡部に、その場から逃げようとした忍足がびくっと肩を揺らす。
「えっとー、ほら。この間、跡部が振った女の子。ジローと同じクラスらしいで」
「名前も覚えてねえよ」
「・・・・そうか。
とにかくこの間の件が、ジローの耳にも入ったんやないか?
前にも同じことやって、ジローの奴怒ってたやろ」
「他人のことだろ。放っとけよ」

ふん、と腕を組む跡部に、忍足は苦笑する。

「お前はそう言うけどな。あれでジローも心配してるんやで。
いつも人を軽く扱うて、まともな恋愛一つ出来ない」
「てめえにだけは言われたくねーよ」

跡部ほど酷いことはしないが、忍足も同じく本気の恋愛をしていない。
「まあ、そうかもな」
ぽりっと頭を掻いて、忍足は空を仰いだ。

「せやけどお前のは酷過ぎる。
本気で好きになれる人が出来よったら、
どう優しくするかもわからへんのちゃうか?」
「馬鹿馬鹿しい。そんな発想も気持ち悪い」
「なんやと?大事なことやろー!」

馬鹿にされことで地団駄踏む忍足を一瞥し、
跡部もコートへと向かった。



本気に好きになれる人?

優しくするだって?

きっと俺にはそんなモノ、必要無い。


2004年08月07日(土) 盲目の王子様 7 越前リョーマ

カチローとカツオは、最初の希望通りにテニス部へ仮入部することが決まった。
あの部長で本当にいいのかと、思っていたがリョーマは口には出さずにいた。
200人を超える(らしい)氷帝テニス部。
レギュラーは別に建てられた部室にいるらしいが、
他のメンバーは大所帯で所狭しと着替えしている。
一年などそのまた下の立場で、先輩が使った後で荷物を置く場所にさえ苦労しているらしい。
それも早い者勝ち。
故にホームルーム終わった後、二人は「またね、リョーマ君」とだけ言って教室を飛び出した。

校門までも一人で歩ける様になったリョーマは、担任の助け無しでこの所下校している。
さて、帰ろうかと立ち上がり、出入り口へと歩き出す。
そこへ、すっと足に何かが当たった。
まずい、と思った時にはリョーマの体は床にぶつかっていた。
「大丈夫〜?」
笑いながら手を貸してくる男子に、「平気」と短く返してすばやく立ち上がる。
埃を払い、ゆっくり障害物が無いか探しながら歩き出す。
「俺らの手伝いはいらないってさー」
アハハと連中が笑う。
それを無視することでリョーマは耐えた。
どこにでもつまらない連中はいるものだ。
ヒイキじゃねえの?
権力の持った教師の後ろ盾。
特別扱いされて、いい気になってる。
時折聞える彼らの会話に、そんなんじゃないと言い返したくなったことも何度かある。
馬鹿を相手にしてもしょうがない。
そう言い聞かせ、全部無視してきた。
その態度が気に入らなかったのか、今度は誰も見ていないところで攻撃するようになってきた。
今はまだ、足を引っ掛けるとかそんな程度だけど。

(カチロー達を巻き込んだりしたら、イヤだな)
反応の無い自分をもっと傷付ける為に、二人にも嫌がらせする可能性も有り得る。
かと言って、もう俺に構わないでとカチローとカツオに訴えったら、きっと理由を問い質されるだろう。
わかった、と言って引くような性格じゃないことは、短い付き合いの中でも感じていた。

けれどこれは自分の問題なのだ。
なるべくなら一人で片付けたい。

以前ならば、こういう連中などあっさり一泡吹かせてやったのにな。
今はどうやればいいのか。
考えながら、リョーマは足を進めた。

「今、帰りか?あん?」
聞こえて来た言葉は、自分に向けられたものとは限らない。
そう取ってもいいはずだ。
だからリョーマは足を止めずに歩く。
しかし相手がそれを許すはずもなかった。
「無視かよ。俺様に向かってイイ度胸してるな」
突然襟首を掴まれられ、リョーマはびっくりして倒れそうになる。
しかし後ろから支えられた手に、転倒は免れた。
「・・・・何すんの」
いつもいつも、とリョーマは怒りを露にする。
ただでさえ苛々してる時に、何て奴に声をかけられたのだろう。
しかし相手の声はどこまでも楽しげだ。
「お前が素通りしようとするからだろう」
「俺に話し掛けてたの?気付かなかった」
「お前しかいないだろう」
なんで、とリョーマは溜息をついた。
他に誰かいるかもしれないなんて、わからないのに。
「それで?何か用?」
さっさと切り上げたくて、先を促す。
またどうせ榊との関係を聞いてくるのだろう。
さっきの連中のこともあって、リョーマも少し冷静に対処できなくなっていた。
「俺、早く帰りたいんだけど。手短にして」
「お前、前にも言ったけどその口の聞き方はなんとかならないのか」
「ならない。あんただけじゃなく誰に対しても同じだから諦めろよ」
またそのコトか、とうんざりする。
生徒会長だから、部長だから上級生だから敬えって?
なんて下らない考えなのだろう。
「いつも相手が寛大とは限らないぞ。余計なトラブルを起こしたくなかったら」
「ハイハイ。わかりました。これでいいんでしょ」
「お前・・・・」
むっとしたような跡部の声。
気分を害するくらいなら、最初から声を掛けてこなければいいのだ。
もう最初から気が合わないとわかっているはずなのに。

「まあ、いい。お前の言葉使いについては、この先も注意していくからな」
「・・・・・・・・・」
「今日、聞きたいのは別のことだ。
お前、休日に監督と何をしているんだ」
「は?」
「とぼけても無駄だ。日曜に学校に来ていたよな?
監督と二人で何を相談していたんだ?」
跡部の断定的な言い方に、リョーマは目を瞬かせる。
一体、この男はなんだろう。
「そんなこと、あんたに関係あるの?」
「生徒会長として知っておく義務はあるだろう」
あるか、そんなもの。
自信たっぷりの跡部に、呆れてしまう。
「休日の学校で何が行われているか、知る権利はあると思うぜ?」
「あんたの好奇心を満たす為に、話すことなんか無い」
「なんだと」
「聞きたければ先生に直接聞けばいいって、前にも言ったと思うけど?」
言っても榊は教えないだろうが。
「あんたって、榊先生が俺に構うのが気に入らないの?」
「はあ?何言ってるんだ?」
「だけど安心してよ。大会を前にして、部よりも俺を優先するようなことも榊先生はしないから。
俺だってそんなことさせるつもりは無いし」
「俺は、そんな話はしていない」
「そう?榊先生の関心が俺に向いて、腹が立ってるとばかり思ってた。
そんなの、俺だって誰の手も借りたくないのに。特別扱いだって、されてるつもりもないっ!」
声を荒げると、襟を掴んでいた跡部の手が離れた。

何も言わないのを勝ったと思い、リョーマは下駄箱への道を再び歩み始める。

俺の存在が不愉快なら、構って来るなよ。
誰に対してでもなく、小さく呟いた。


2004年08月06日(金) 盲目の王子様 6 跡部景吾

またお昼前の時間だというのに、跡部が学校へやって来たのは本当に偶然だった。

土曜日の夜、「もう顔も見たくねぇ」
そう告げた女が泣きながら縋りつくのをうんざりしながら振り切り、
自宅へと戻った。
非常に勝手な言い訳だが、いつか切り捨てられることもわかってて付き合っていたんだろ。
それをわかってくれない女に対して苛立ち、シャワーを浴びてもすっきりしないまま、
しばらく眠れない時間を過ごした。
目が覚めても、まだ気分は冴えないままだった。
部活の始まる時間まで、まだある。
犬の相手でもして適当に暇を潰そう。
そう思って、家を出たのがまずかった。

「跡部君」

自宅から離れた土手で、不意に声を掛けれた。
動きが止まった主人に、犬は何事かと周りをぐるぐる歩いている。
「てめえ、こんなところで何しているんだ」
「あの、」
「張ってたのか?」
「・・・・・」
主人の顔色に、犬は動きを止め唸り声を上げ始めた。
「気持ち悪ぃ。二度と顔見せるな」
「なんで!?私、いつでも跡部君の言う通りにしたのに」
俯いた彼女に、「ワンワン」と犬の声が被せられる。
「はっ、言う通りにしろなんて、俺は一言も言ってねえだろ」
「でも」
「それに何やっても結果は同じだったと思うぜ。
縁が無かっただけだ。諦めろ」
「私・・・今でも好きなのに」
涙を堪える女を前にしても、跡部の感情は1ミリも動かない。
「俺は好きじゃない。最初から」
「・・・・・」
「そう言ったろ?好きになる可能性は無い。
けれど抱いてやってもいい。それだけの立場をわきまえるなら、少しだけの間傍に置いてやってもいいと」
不思議なことにそんなことを言われても女達は尚も、跡部を求める。
この女にも同じことを跡部は告げた。
それでも良いと言ったのなら、ちゃんと割り切れと跡部は思っていた。
「それでもいつかは、好きになってもらえると思っていた」
「てめえの希望だろう。俺には関係ない」
吼え続ける犬を宥める為、頭を撫でる。
背を向けて、無言で歩き出す。
「跡部君・・・・」
泣き声が聞こえるが、うざいとしか跡部には思えなかった。



家に戻り、すぐに制服に着替える。
「坊ちゃま。もうお出かけですか?」
昼食は、と聞く使用人に後で作って部室まで持って来いと命じる。
一人で家にいると、また気が滅入りそうだ。
少し早く行って、軽く準備運動でもしよう。
そう思って制服に着替え、跡部は車に乗り込んだ。


「なんで、あいつが」

校門のところにいる人影を見つけ、跡部は運転手に車を止めるように命じた。
間違いない。
氷帝の制服を着て、杖を歩く人物は一人しかいない。

「越前、リョーマ」

その姿を見送るように立っていたのは、テニス部監督の榊だった。

休日の学校で一体何をしていたのだろう?
一瞬、車を降りて後を追うかと考えたが、今は止めることにした。
あの生意気な言葉を浴びせられ、これ以上今日という日を台無しにすることは無い。
よく考えて効果的な時に、あのガキに問い詰めよう。

しかし。と、跡部は考える。
今日の練習は午後からだ。
無駄を嫌う監督は、いつも時間ぴったりに学校へやって来る。
誰かの為に時間を割く、なんてこの2年見たことが無かった。

まさか、本当に隠し子じゃないだろうな。

監督と越前リョーマとの似てる部分を腕を組んで探し始める。

「あの、坊ちゃま」
「どうした」
「いつまでここに止まっていれば良いのでしょうか」
そういえば路上駐車したままだったことを思い出す。
「もう、いい。出してくれ」
「ハイ」
跡部の命令を受け、学園の駐車場へと車は動き出した。





(隠し子以外で、監督が越前に肩入れするとしたら何だ・・・?)
結局、どう考えてもその線は無さそうだと跡部は結論を出した。
練習が始まって、コートに現れた監督をじっくり観察する。
しかし越前リョーマと似てる部分は一つも見当たらない。

「跡部ー、今日はイヤに監督へ熱い視線を送っとるなあ」
イシシ、と汗を拭きながら、忍足が笑いかけてくる。
それを跡部は無言で流した。
「ひょっとして違う世界に目覚めたんか?」
「違う世界ってなんだよ」
跡部ではなく、ダブルスパートナーの向日が尋ねる。
ぎゅっと靴紐を結び直し、向日はぴょんと跳ねた。
「もう女遊びは卒業して、今度は男に走ったんやないかって」
「何だよ、それ。気色悪い」
嫌そうな顔をして、向日は顔を背けた。
「昨日もどこぞの女子を振ったらしいやないか。
本格的に身辺整理を始めたんか?」
「・・・どこでそれを聞いた」
ようやっと跡部は忍足の顔を見た。
その事に満足したのか、忍足は得意げに胸を張っている。
「悪事千里を走る、ってやつや」
「どうせお前の付き合ってる中の一人から聞いたんだろ」
「勝手な推測すんな!」
「違うのか?」
「まあ、当たっとるけど」
ぼりっと頭を掻く忍足に、跡部はふんと鼻を鳴らした。
「メールで回って来たんや。跡部様がまた女子を振ったらしいって、本当?ってな」
「振ったんじゃない。切り捨てたんだ」
「鬼畜ヤロー。なんでこんな奴がもてるのか、俺にはわからねえよ」
あーあ、と溜息をついて向日は行ってしまった。
「なんでやろうな?」
「知るか。無駄口叩いてないで、お前も練習しろ」
「監督に見惚れてたお前に言われたないわ」
けっ、と声を出す忍足を、蹴飛ばしてやろうかと一瞬考えるが、思い止まる。
相手してもしょうがない。
それにどうせやるなら、コートで叩きのめす方が楽しい。

「見惚れてた訳じゃねえぞ・・・」
あの盲目の少年の面影が無いか、探していただけだ。
結局、欠片も見つけられなかったけれど。


2004年08月05日(木) 盲目の王子様 5 越前リョーマ

少し息が乱れたリョーマに、榊は「休憩をしよう」と言った。
「さっきからずっと歩き通しだ。一度座って――」
「もうちょっとだけ。お願いします」

ぺこっとリョーマは頭を下げた。

日曜日の、今日。
'学園の中を必要最低限でも歩き回れるようになりたい’
無茶な願いだとはわかっていたが、口に出す前から諦めたくはなかった。
どうしたらいいのか、考えて考えて。
けれど一人では思いつかず。
わざわざ自宅へ学園生活の様子を訪ねて来た榊に、
リョーマは相談してみることにした。
『人の手を借りたくない。今まで君はそれを押し通していた。
けれど状況が違うのはわかっているな?』
甘えることも必要だと、言う榊に、リョーマは首を振った。
『けれど自分でも出来ることなら、やっていくべきだと思ってる。
それも認められないって、言うんですか』
折れたのは榊が先だった。
絶対一人で何でもやろうとしない、時には誰かの手も借りること。
これを条件に、必要な場所への行き方を付いて教えると約束した。
『でも、部活は?』
『日曜は午後からだ。午前中だけなら問題無い』
出来るだけの時間を全部使おうと、榊はリョーマの頭を優しく撫でた。

限られた時間、リョーマは必死で自分の歩いた道を覚えようとしていた。
校門から玄関まで。
靴箱から、教室まで。
教室まで行って、また靴箱まで戻る。
そして玄関まで。
何度も繰り返し、頭の中に地図を描く。

「もう一回、見てて下さい」
「・・・わかった」

榊の手を借りずに、一歩ずつ杖をついて歩く。

毎日、校門まで担任の送迎付きだったけれど、
この分だと必要無くなるだろう。
歩くスピードは遅いが、その分早く家を出れば済むこと。

「俺、ちゃんと教室まで行けた?」
「ああ。よくやった」

自分の教室のドアを開け、嬉しそうに振り返るリョーマの姿に、
榊の顔も自然と緩む。

「明日、先生が迎えに来たらもう大丈夫って言うつもり」
「本当に大丈夫か?」
「ここだって、一人で帰れる。平気。心配なら、黙ってついてきてよ」
もう一度、辿ってきた道をリョーマは歩き始める。
静かな廊下に、杖の音だけが響く。
小さな背中を見守りながら、榊も後ろを歩いた。

「完璧」
校門まで着いたリョーマは、にっと笑ってみせた。
「そうだな」
「でしょ。ここまではもう大丈夫。後は、どこを覚えよう・・・?」
考え込むリョーマに、榊は「残念だが、もう時間はそんなに無い」と告げる。
「え。もう?」
「後、15分もしたらな。そろそろお腹が空いただろう」
「たしかに」
歩いている間は夢中だったけど、立ち止まっている今、急激に体が空腹を訴えてきた。
「倫子さん達も待っている。今日はこの辺で戻ったらどうだ?」
「そうっすね。わかりました」
もう少しなんて我侭は言えない。
ただでさえ、休日に榊を付き合わせている身分だ。

「じゃあ、ここで帰る」
「送ろう」
「ここからはいつも一人で帰ってるから平気。
それじゃ、今日はありがとうございました」
「ああ。気を付けて帰るように」
「さようなら」

ぴんと伸びた背を伸ばし、リョーマは家へと歩いていく。
遠ざかって行くリョーマを見送り、榊も学園の中へと戻った。

その二人の姿を、一人の人物が目撃していたなんて、知らずに。


2004年08月04日(水) 盲目の王子様 4 越前リョーマ

移動の時に、誰かの手を借りなければいけない。
とても不便だと、リョーマは杖を握り締めた。
入学して一週間。あちこち移動させられる毎に、この学園の広さを知らされる。
目が見えたとしても、覚えるのは大変だったろう。

「リョーマ君。次、音楽室だよ。移動しよう」
「・・・わかった」

クラスでもリョーマは少し浮いていた。
どう接したら良いかわからず、
遠巻きに見ているだけのクラスメイトが大半を占めていた。
しかし中には、普通に話し掛けてくる生徒もいる。
加藤太郎(通称カチロー)は、出席番号がリョーマのすぐ後ろの生徒だ。
その縁からか、カチローは決してお節介じゃない程度に、リョーマのことを助けてくれる。

「音楽室って、こっちだった?」
「多分、僕も自信無いけど」
「リョーマ君、ちゃんと辿り着いてみせるから待ってて」
「いいけど。誰かに聞いた方が早くない?」
「あ、そっか」
「僕、ちょっと聞いてくるよ」
もう一人。
カチローの小学生時代からの友人・水野カツオも、カチローと同じようにリョーマを普通のクラスメイトとして、
接してくれている。
移動教室へ歩いていく時も、彼の手伝い無しでは辿り着くことすら不可能だろう。

彼らが変な同情など混ざってないことくらい、リョーマはわかっていた。
だから、まだ素直に接することが出来る。
もしカチローが「目が見えなくて可哀想だから」と、そんな態度をしたら、
差し出された手を払っていただろう。

けれど。
(やっぱり、自分で歩き回れるくらいにはなりたいよ・・・)
どこへ行くにも誰かの手を必要としなくちゃいけない。
例えカチロー達が負担に思っていなくても、
リョーマの方でそれをストレスとして感じていた。
今まで、他人の手を借りずに生きてきた性格は、
目が見えなくなった今も、そう簡単に変わる訳じゃない。

「このまま上に行ってずっと真っ直ぐ行けば良いってー」
「じゃあ、合ってるんだ」
再び、三人は音楽室を目指す。
どうしても段差のあるところは、リョーマの歩くペースが遅くなる。
急かさず、気を配りながら、二人はリョーマの後ろをのんびりと歩いた。

ふと、上を見上げたカチローの目に、見覚えのある人物が映った。
「カツオ君、跡部部長だよ」
慌ててカツオに肘で合図を送り、その存在を知らせる。
「本当だ。どうしよう。挨拶ってした方がいいのかな」
「でも見学しただけで、仮入部もこれからだよ」
どこか焦ったような二人の声に、リョーマは首を傾げた。

(跡部部長?)

思い出したのは、あの偉そうな声だった。

(でも、まさか)

「こ、こんにちは」
「跡部部長、こんにちはっ!」
上擦ったカチローとカツオの声に、相手からの返事は聞えない。
カツン、と靴音だけがして、階下へ歩いて行ったようだ。

それだけで、あの時の‘跡部’かどうかはわからない。

けれど。
(この・・・香り)
中学生には似つかわしくないような、香りが微かにリョーマの鼻腔を擽った。

跡部に腕を引っ張られた時も、こんなのを嗅いだような気がする。

「どうしよう。なにかまずかったかなあ?」
「馴れ馴れしく、挨拶したから怒っていたのかも」

あたふたしているカチロー達に、リョーマは「ねぇ」と声を掛けてみた。

「跡部部長って、テニス部で生徒会長の跡部さんのこと?」
「うん。その跡部部長が今、そこを通り過ぎて行ったんだ!」
興奮気味な肯定の言葉に、リョーマはやはりか、と眉を寄せる。
とりあえず、絡んで来なくて助かったと言うべきか。

「何。カチロー達はテニス部に入るつもりなの?」
跡部部長と呼んでいる辺りも気になる。
あの人格破壊.されているような部長が束ねている部は、やめた方がいい。
そう止めようとする前に、カチローの弾んだ声が響く。
「うん!テニス部志望している人数は多いから、どうしようか決めかねていたけど。
跡部部長のプレーを見て、やっぱりテニス部にすることにした」
「すごいもんね。部長に憧れて入部希望する一年って多いらしいよ」
「ふーん・・・・」
アイツの性格を知ってるのかと、リョーマは忠告したくなった。
けれど、カチロー達が決めたのなら口を挟むことじゃないかもしれない。
そうだ、と思い直し黙っていることにした。

しかしカチロー達がテニス部に入るとは。

もし目が見えていたのなら、同じように入部して、一緒に練習していたかもしれない。

(イヤ、それはないか)
あのままテニスがやれていたのなら、日本には来ることはなかっただろう。
わざわざ自分からレベルを落とすような真似、考えもしない。

「あの跡部って人は、強いの?」
部長ならば、強いのだろう。
日本の中学生で強いというのは、どんなものなのか。
少しばかり興味がある。

リョーマが尋ねると、カチローもカツオもすぐにその話題に飛びいてきた。

「跡部部長はすごいよ!1年生からもうずっとレギュラーで」
「全国に通用する腕前なんだよ」
「ジュニア選抜にも選ばれたしね」
「僕らは見た事ないけど、すごい技も持ってるんだって!」
「へぇ」

入部前から、もうすっかり部長のファンになってる二人に、
ちょっとだけリョーマは引いてしまう。

(あの性格知っても、絶賛できたらすごいよね・・・)

そうか。跡部の望んでいる接し方は、こんな風なのかと感心してしまう。
絶対自分には出来ない真似だと、リョーマは肩を竦めた。

「あ、チャイムの音だ!」
「やば。急がないと」
そうは言いながらも、二人はリョーマを置いて駆け出すことはしない。

「ありがと・・・」

二人には聞えないくらいの声で、リョーマは呟く。

感謝はしているけど、自由に歩き回れないことが悔しい。

せめて自分が行く場所だけでも、頭に地図を叩き入れて歩けるようにしたい。
なんとか出来ないものか。




カチローとカツオは氷帝で王子のクラスメイト。
青学も登場するけど、二人と王子以外はそのままのメンバーです。


2004年08月03日(火) 盲目の王子様 3 跡部景吾

なんなんだ、あの生意気なガキは!

遅れて部活にやって来た跡部を、周囲は不思議そうに目を向け、
そしてすぐに逸らした。

不機嫌。

何があったかはわからないが、顔にそう書いてある。

今日は、近付かない方が良さそうだ。
皆、頷き合って判断する。

「全員、素振り千回だ!」

・・・・・近付かなくても、これだ。
諦めるように、皆ラケットを握り始めた。

「えらい荒れてるなあ。何があったん?」
横暴な跡部の言葉に慣れっこな忍足が、のんびりと口を開く。
「部の強化だ」
「嘘つけ。もう少しましな八つ当たりの仕方したらどうや?」
「忍足。お前は二千回だ」
「ちょお!待ってや!」
焦った声を出す忍足を振り向きもせず、跡部は一人コートへ立った。
籠を手に取り、一つ一つサーブを打ち込んでいく。

(越前リョーマ)

あんなムカツク口の利き方をする一年がいて許されるはずもない。

'入学出来たのは、榊先生のおかげらしい’
盲目の新入生は、たった一日で氷帝の有名人となった。
理事長か職員の誰かと親しい親達から洩れたのか、
噂は学園中で囁かれている。
どうやら榊は相当強引な手を使って、リョーマを入学させたようだ。
他の職員の反対を押し切って、とまで生徒達に伝わる有様だ。
(最も、どこまでが本当なのかわからないけどな)
噂はともかくとして、榊の推薦があったのは間違いない。
春休みに、榊があの少年を連れていたのを跡部は見ていたのだから。

一体、どういう意図があって越前リョーマを氷帝に入学させたのか。
少しばかり、跡部も興味があった。

実力主義で、負けた選手は切り捨てる。
生徒の気持ちなど考えたことのなさそうな、あの監督が、
メリットも無く動くだろうか。

'隠し子かもしれないぜ’
噂の中にはそんな笑えるものも混じっていた。
たしかに年齢的にはありえそうだが、それは違うと考えてよいだろう。
なにか、ある。
あの少年を呼び寄せる理由があるはずだ。

そんな事を考えてた跡部の前に、
偶然にも越前リョーマと、彼の担任らしい教師が一緒に歩いているところへ遭遇した。
家へ帰るところか?
靴を履き替え、担任に付き添われながら、盲目の少年はゆっくりと校門へと歩いていく。
一人になったところで、ちょっと話をしてみるか。
そう思って、二人の後をつけてみることにしたのだが・・・・。

(不愉快にさせられただけだ)
生意気なリョーマの口調を思い出し、跡部は眉を寄せた。
(このままで済まして、たまるか)
一年生如きに舐められて、このまま引き下がるつもりはない。
監督の関係者かは知らないが、非礼な態度をきっちり謝罪させてやろうと跡部は考えてた。

「跡部・・・素振り終わったで」
「なら、ランニングして来い。100周だな」
「テニスさせろや!」
「200周だ」
「お前な・・・」

忍足はまだ何か文句言っていたが、
「これ以上走らされるようなこと、言うなよ」と、向日に引っ張られて行った。

そうだ。お前らは黙って、従っていれば良い。
常に頂点にいる俺様に、平伏すのは当たり前のことだ。
越前リョーマ。
お前も例外じゃない。
必ず自分が格下だと認めさせてやるからな。


2004年08月02日(月) 盲目の王子様 2 越前リョーマ

榊先生が、アメリカまで家に訪ねて来た時、
すでに俺の視力は失われていた。
その頃は騒がしい周囲にうんざりして、一日中ベッドから出ないまま過ごすことも多かった。

「リョーマ。客が来ているんだ。
部屋から出て、挨拶しねえか」
親父の知り合いなのに、どうして。と、不満に思いながらも渋々俺は出ていった。

今は、誰とも会いたくない。
会えば、初対面の人間でも俺の目のことに気付く。
その事で好奇心や同情めいた言葉を聞くなんてまっぴらだからだ。

けれど、心配掛けっぱなしの両親に反抗する訳にもいかず、
親父に手を引かれたまま、俺は客人の前に出された。

「越前リョーマ君だね。話は聞いている」
「はあ・・・どうも」

相手がどの位置に立っているか、声で大体把握して、俺は頭を下げた。




この時、榊先生が家に訪ねて来なかったら。
俺は日本に行くこともなく、全く今と違った道を歩んでいただろう。

きっと、お互いに出会うことも無かった。


「俺はそうは思わない」
「どうして?」
「違った道でも、お前とは出会ってた。
そう信じてるからだ」

例え話にムキになって、根拠も無く信じてるなんて言う。
全く、あんたらしいね。
そういう所も含めて、全部好きだよ。

最も、出会った頃は、イヤな奴って思っていたけどね。

・・・そこで凹むなよ。
出会った頃は、って言ったじゃんか。













手を伸ばし、リョーマは玄関を開けた。
一人で学校から家へ帰還、初達成を遂げた瞬間だ。

「おかえりなさい、リョーマさん」
リョーマの帰りを待っていた菜々子は、ほっとした表情を浮かべた。
大切な従弟が無事帰ってくることを、菜々子はずっとここで待っていたのだ。

「菜々子さん、ただいま」
菜々子の出迎えに、リョーマは笑顔を向けた。
昔から可愛がってくれる従姉が、心配して待っていたのは容易に想像がつく。
今朝も迎えに行かなくて大丈夫かと念押しされたばかりだ。

「ほあら」
「ただいま、カルピン」
愛猫の声にも応え、リョーマは靴を脱いで家の中へと上がった。


リョーマの通う氷帝学園まで、直線コースで歩いて5分ちょっと。
この位、一人で行けると、リョーマは主張して譲らなかった。
当然、毎日送り迎えすると母親も菜々子も反対した。
「まあ、やってみろや」
父親の南次郎だけが、リョーマの気持を見抜いて、
好きにさせろと二人を説得した。

「学園の中まで手を引いてやる気か?
そんな事やってたら、いつまでもリョーマ一人で何もできねえぞ」

入学式が始まるまで、リョーマは学園までの道を必死で覚えた。
勿論、その間は菜々子か、母親が付き添っていたけれど。
今日からは行きも帰りもリョーマ一人のみ。
心配するなという方が、難しい。

しかしリョーマはこれからも一人で行くつもりだった。

いつまでも二人に負担を掛けたくない。
これは自分でやれる所は、自分でするってアピールの一歩だ。
視力を失ったと聞いた時の、
母親と菜々子の悲しみはリョーマへ痛い程伝わっている。
だからこそ、目が見えなくなった今でも、
強くあろうとする姿を見せて安心させたい。
そう思って、明日も一人で家へ無事帰って来ようとリョーマは決意した。


「学園はどうでした?かなり広い学校だと伺っているけど、
迷子にならないよう気を付けて下さいね」
「んー、たしかに広いかも。でも必要ないとこは行かないから」
菜々子が出してくれたおやつを食べながら、今日あったことを話す。
担任の先生が良い人だった。
入学式で校長の話が長過ぎてずっと眠っていた。
氷帝は花が多く咲いているのか、とても良い香りがすること。

―――最も、全部言える訳じゃない。

「大丈夫、なんとかやっていけるよ」
手を伸ばし、リョーマは立ち上がった。
「久し振りに人が多く集まるところに行って、疲れた。
夕飯まで寝てていい?」
「ええ。時間になったら起こします」
「うん」

2階にある自室へ入り、リョーマは制服を脱いだ。
ベルトをとり、靴下を脱いでベッドの上に横になる。
「・・・・疲れた」
ふあ、と欠伸が出た。

覚悟はしていたけれど、遠巻きに自分を噂している生徒の数はかなりいた。
勿論クラスメイトを含めて、だ。
異例の待遇を不審に思っている者。
好奇心丸出しで、勝手な話を捏造している者。
それをやんわりと非難しながらも、決して関わらないようにしている者。

くだらない。

しばらくすれば、連中は噂するのにも飽きてくるだろう。
そうしたら、いるかいないか位の存在になるに違いない。
時間はもう少し必要かもしれないが、今は辛抱する時だ。

我慢、我慢とリョーマは自分に言い聞かせる。

アメリカにいて、もうテニスは出来ないのかと毎日騒がれるよりもずっとまし。
日本には自分のことを知ってる人がいない。
それだけでも気楽だ。

(まあ、変な奴もいるけど)
ふと、今日声を掛けてきた妙な男のことを思い出す。
(学年も違うらしいから、滅多に会うこと無いよな?)
横柄なモノの言い方を思い出して、リョーマは眉を寄せた。
あの跡部とかいう男は一体なんなのか。
生徒会長で、テニス部長だからどうした。
不愉快な態度取って許されるというのか。


「おい、越前リョーマ」
まず、第一声がそれだった。

校門までは担任に送ってもらったが、(もちろん明日からは一人でこの道程も歩くつもりだ)
ここからは一人で行けると主張し、別れた後。
突然呼ばれた声に、リョーマは驚いて立ち止まった。
(誰?)
相手の足音が近付いてくる。
警戒しながら杖を握り直す。

「入学してくるって、本当だったんだな」
「え?」
「覚えてないか?前に会っただろ」

当然覚えているよな、の意味合いに首を傾げる。
名乗りもしない人物に、心当たりなど無い。

「知らない」

きっぱり告げると、相手が「そんなハズ無いだろう」と声を上げた。

「転びそうなところを、助けてやったのに忘れたのか?」
「え?助けてもらった覚えなんて、ないけど」
「あるんだよ!少し前に学園に来て、一人でぼんやり歩いていただろ」
「ああ・・・。あの時の偉そうな人」

やっと思い出してそう告げると、小さく舌打ちした音が聞えた。

「おい。言っておくがこの学園に入った以上、そういう言い方は全部直せ。いいな」
「なんで」
「なんでって、俺様に向かってそういう口の利き方、許されるとでも思っているのか!?」
「はあ・・?」
激昂しやすい奴。
口には出さなかったが、リョーマはそう思った。

「なんで許されないかわからないんだけど。あんた誰」
「そうか。世間知らずなガキに教えてやろう。俺様は跡部景吾。
氷帝の生徒会長、兼テニス部部長。どうだ、わかったか」
「・・・・・だから?」

威張るようなことか?
首を捻るしかない。

「だから、じゃねえんだよ。この学校の実権は俺様が握ってるってことを、忘れない方がいい」
「そりゃ、どうも」
実権って、何。
お山の大将気取りか、とリョーマは吹き出しそうになるのを堪える。

「で、その跡部様が何か用?」
わざわざ声を掛けてきた理由を尋ねる。
ようやく本題に入れそうだ。
あまりもたもたしていると、家で待っている菜々子に心配を掛けることになる。
「一つ、聞きたいことがある」
「なんだよ」
「監督とどういう知り合いなんだ」
「監督・・・?」
誰を指しているか考えていると、「榊先生のことだ」と跡部が告げた。
「ああ。榊先生ね。どうかした?」
「聞いているのは、俺様の方だ!」
「って・・・言われても」

どういう知り合いか。
跡部が、そんなこと聞いて来る理由がわからない。
生徒会長で、テニス部部長は、一生徒のことまで把握しなきゃいけないのか。

否、とリョーマは首を小さく振った。

クラスメイトの連中と似たようなものだろう。
ただ、本人に直接聞いて来ただけに過ぎない。
盲目の自分が、学園に入った理由。
あの日、一緒にいるところを見て榊が手を回したと跡部は推測したのだろう。
たしかに嘘では無い。

「おい、答えろ」
偉そうな言い方に、リョーマはムカついてきた。
(なんで他人のあんたにそんな説明しなくちゃいけないんだよ。
好奇心で人の詮索するやつなんて、キライだ)

「教えない」
「なんだと?」
「聞きたければ先生に直接聞けばいい。
俺からは何も言うことないから」
「お前・・・!」
くるっと背中を向けようとすると、またあの時と同じように腕を掴まれる。
「離せっ!」
予期してたことだから、今度は足をしっかり踏み止めた。
「へえ。力尽くで言うこと聞かせようって訳?やれば?
俺相手じゃ、簡単でしょ」
こんな風に挑発して、殴られることもあるかもしれない。
けれど、従うもんかとリョーマは拳を握り締めた。

「だれが。お前ごときにムキになるかよ」
吐き捨てるように言って、跡部は掴んでいた腕を離した。
「けど覚えておけ。
この学園にいる限り、俺様に逆らって得になることは一つも無いからな」
「ご忠告、どうも」
「・・・いずれ聞き出してやるからな」

跡部が離れていく靴音が聞える。

ほっと息を吐いてリョーマは杖を握り直し、遅れた分を取り戻すべく早足で家へと再び歩き出した。




(鬱陶しい奴)
思い出すだけで気が滅入って来た。
できれば跡部とはもう話をしたくないが、
今日のあの感じではまた声を掛けられそうだ。
榊に出来るだけ頼らないと決めているから、
今のところ相談するつもりは無い。
(しかしそんな気になることか・・・?)
人のプライベート部分まで、ずけずけと暴いて何が楽しいのか。

もしまた声を掛けられたら、聞えないフリしてやろう。
それが良い。

夕飯までもう少し時間がある。
寝よ、と今度こそリョーマは意識を閉じた。


2004年08月01日(日) 盲目の王子様  出会い  跡部景吾

世界は俺様を中心にして回っている。
思い通りにならないことは何一つ無いと、信じていた。

『ああ、そんな感じだったね』
鼻で笑うな。
たしかに、お前と出会った頃は態度がデカイ、高慢な奴だったかもしれないけどな。
良くわかってるって?
そうかよ。
だが、お前も態度のデカさでは負けてねえだろ。あーん?

・・・都合悪いことは聞いてないフリか。そうかよ。

初めて会った時と変わらず、お前だけは思い通りにならないまま。

勝ち誇った笑顔は小憎らしいけれど、
やっぱり愛しいと思う辺り・・・もう手遅れだ。


決して良いとはいえない出会い方をした俺達が、
どこを間違ってこんな風になったんだろうな。











コートを抜け出して、跡部は一人で中庭を歩いていた。
単なる気分転換だったので、お供の樺地は連れていない。

『用事がある為、席を外す。後の指示は頼む』
監督からメニューだけを預かり、今日の練習をこなしていたが、
ふっと外の空気が吸いたくなった。
少しの間なら構わないだろう。

他の部員がそんな事を考えて、コートを抜け出したなら罰則は免れない。

しかし、テニス部長に意見するバカはいない。
だから当然のような顔をして、跡部はコートから離れることができた。
ずるい、と騒ぐ小うるさい同級生達もいるが、無視すれば良いだけのこと。

吹き抜ける風に、跡部は空を見上げた。

もうすぐ春休みも終わる。
そうしたら新入生達が入ってくる。
テニス部に、少しは歯応えのある奴は来るのだろうか。

誰が来ても、きっと俺様には勝てないけどな、と跡部は笑みを浮かべた。

退屈しないような新人でも入って来たら、面白くなりそうだが、
果たしてそんな奴は現れるのか。


今のメンバーの実力等、色々考えながら足を進める。

ふと。
杖を振りながら歩いている少年が、跡部の視界に入った。
私服姿で背丈も小さい。

(初等部の生徒か?こんな所で何をしているんだ)

見ている間にも危なっかしい足取りで、少年は歩みを進めていく。
杖で周りを探りながら、ゆっくりと。
氷帝の敷地内の通路は広い。
そのあちこちには、花壇や木が置いてある。
通路の真中に邪魔じゃないのか?と思うようなところにもだ。
そんな調子なので、少年は杖で木を叩き、確認しては歩いていく。
速度は幼稚園児よりも遅い。

(迷子じゃねぇよな?)

付き添い無しに少年が歩いていることが気になる。
方向感覚が狂って学園に入り込んだ可能性だってゼロではないだろう。

「っ!」

通路の中でも大きい部類に入る木を避けようとして、少年は枝を体に引っ掛けてしまう。
そのまま転んでしまうかと思われたが、上手に手をついて激突はなんとかやり過ごす。

「何これ。すごい迷惑」

ぶつぶつ言いながら、少年は体を起こした。
ぱんぱんと手を払い、また杖を持ち直す。

「おい」

なんとなく暇だったこともあって、跡部は声を掛けてみた。
ここに何故いるのか、少しばかり興味もある。
しかし少年は跡部の声を気にも止めずに、歩き出してしまっている。
「おい。そこのお前。聞こえねぇのか?」
2度目の声も、やっぱり無視をされる。
苛立ち、跡部は大股で少年に近付いた。

「ここで何しているんだ」
「俺のこと?」

至近距離で声を出すと、ようやく少年の歩みが止まる。
こちらに顔を向けているが、瞳の焦点は合っていない。
ぼんやりと、どこを見ているかわからない視線。
それと、杖。

確信する。
この少年の目は見えないのだ。

「部外者は立ち入り禁止だって知っているか?」
「あんた、ここの先生?」
本当に教師だったらどうするつもりなんだ、と思うような口調で少年は尋ねた。
「・・・お前、俺の話聞いているのか?」
「部外者は立ち入り禁止ってやつだろ。生憎俺は部外者じゃないんで」
肩を竦める少年を観て、どういうことか考える。
「もしかしてここに入学するのか?」
背丈の小ささから、2・3年の転校生という線は思いつきもしない。
「まぁ、そう」
「本当にか?」
「多分。俺はよくわからないけど」

投げやりな少年と逆に、跡部は内心で驚いていた。
目に障害を持つ生徒の受け入れは今まで無かったはずだ。
きちんとした体制も無いまま、入学させてどういうつもりだ?

「ねぇ、もう行ってもいい?」
黙っている跡部に、少年は返事も聞かず歩き出す。
「待てよ。ここで何しているかまだ聞いていない」
がしっと腕を掴んだ途端、驚いたのか少年の体がよろける。
「わっ、ちょっと!」
咄嗟に反対側の手を出し倒れないよう、体で受け止める。
転倒を避けたことに思わず安堵したが、助けられた方はそう思わなかったようだ。
「いつまでくっついてんの?」
不機嫌な声が聞こえ、跡部はむっと眉を潜める。
「お前が転びそうになったから、助けてやったんだろうが」
「あんたがいきなり人の腕を掴んだせいって、わかんないの?」
「何だと。そんなことで倒れるか?普通」
感謝をされても、文句を言われる筋合いは無い。

なんだお前と、続けようとしたが、
「しょうがないじゃん。何も見えないんだから」
自棄的にも聞こえる少年の言葉に口を閉ざした。

そして、そっと支えていた体を離す。

「突然行く手を阻まれたら、驚くよ・・・」

杖を握り締めている少年に、掛ける言葉が何故か見付からない。
こういう時は何を言えば良いんだ?
全く思いつかない。

「越前!」

沈黙を破ったのは、跡部がよく知っている声だった。

「榊先生」
慌ててこちらに駆け寄っている監督に、少年ははっきりと答える。
この二人、知り合いなのか?
事情が見えない跡部は、両方の顔を見比べる。

「跡部。何故、お前が越前といるんだ?」
不審がる榊に「偶然そこで会った」と告げる。
実際そんな長い間接触していた訳ではない。
「そうか。だが休憩時間はもう終わっているとわかっているか?」
「・・・済みません」

謝罪するが、榊はもう聞いていないようだ。
少年の方を向いてしまっている。

「越前、一人で学園内をうろうろするんじゃない。倫子さんが随分心配されていた」
「ちょっと探検してただけなんだけど」
悪びれもせず答える少年に、榊は溜息をついてその手を取った。
「とにかくすぐに戻るぞ」
えーっと不満そうな声を無視して、榊は突っ立っている跡部へと顔を向ける。
「それから跡部」
「・・・ハイ、監督」
「今日はこのまま戻らないから、残りの練習はお前に任せる。部誌だけ机の上に置けばいい」
「ハイ」
「さぁ、行くぞ」
ほとんど榊に引きずられてながら、少年は行ってしまう。

二人が知り合いだというのなら、あの少年の入学に監督が絡んでいる?
どういうことだ。

その頃。いつまでも戻らない部長を不審に思い、
コートでは皆が樺地に跡部を呼ぶように指示を出していた。


チフネ