野の花日記
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3年前のことを覚えているうちに書いておこう。
朝、出勤の途中、カラスがギャーギャー騒ぎながら、鳩を襲って食べていたのを目にして、おっかないなぁ、気持ち悪いなぁ、と、いやな気持ちになりながら職場に着いた。
日常の仕事をしていたんだと思う。昼食も普通に食べたんだと思う。
2時30分を過ぎた頃、何? 何? すごい揺れ。 今までの人生で一番すごい揺れ。 小学生の時の宮城県沖地震もすごく揺れて、私の家も含めご近所の家の壁はあらかたヒビが入ったのだが、それよりももっとすごい揺れだった。 怖くて、私の席のそばにコピー機があるのだがそこから離れ、隣席の人と共に休憩室に向かった。 数週間前にニュージーランドで大地震があったが、それに遭った人達の気持ちがわかったような気がした。
隣席の人はお子さんが自宅にいるとのことで、帰る。と決断が早かった。すぐ帰宅した。 たぶん落ち着かない気持ちで少しは仕事をしたんだと思う。 すぐ閉館したんだろうか? よくわからない。 少ししてから総務の人が大丈夫かと様子を見にまわっていた。 休憩室にみんな集まってきて、テレビで、だんだんと、津波の航空実況みたいなのを映していて、皆、言葉を失った。
暗くなるにつれ、電車がほとんどストップしていることがわかり、ほぼここに泊まることになるだろうと思った。 歩いて帰ると決めた人達もいて、ネットはつながっていたので帰路のルートを調べたりしている人もいた。 司書チームは6人中、5人は帰らずに泊まることとなった。
携帯はメールも電話も全く通じず。館内の電話も家電に通じず。 数人が買い出しに行ってくれたが、お弁当のたぐいは全く残っていなかったそうだ。カップラーメンとかコージーコーナーのミニケーキやどら焼きとか、甘いものばかり残っていたそうで、沢山買ってきてくれた。
記憶もおぽろげだが、夜10時頃に公衆電話は通じたよと聞き、同僚についてきてもらって暗がりの中、外の電話を探して母と話すことができた。道路は徒歩で帰る人達の大行列・・・ あんなに歩いている人達多数を見るのは初めてだった。
戻って休憩室は男性陣にゆずり、女性数人で会議室に移動し、椅子をくっつけて横になった。余震が絶え間なく続いていた。兵庫県の友人からの「だいじょうぶ?」のメールのみ受信できた。返信したがいつ届いたのか・・・ たしか一睡もできなかったと思う。
翌日早朝になって、途中まで電車が動いていることが分かり、駅で逆方向の同僚と別れ、一人で帰路についた。 知らない駅で降り、バス停の長い長い行列に並び、バスで小1時間乗って最寄りの駅まで向かう途中で、母からの昨日のメールが大量に入ってきた。 その後、1週間ほど自宅待機になった。
数ヶ月後、内職の添削で東日本大震災がテーマの回があり、関東の小学生のあの日を読んだ。 体育の時間に校庭にいるときにすごく揺れて、泣き出す人もいました。とか・・・ 本当に怖い地震でしたね。自分の体験を書き留めておくことは貴重な記録になると思います。 と書いた。
神様に、もう大災害がありませんように、と祈りたい。 避けられない。などと言わないでほしい。 目を覚まして祈りたい。
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