VITA HOMOSEXUALIS
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私が再び同性との束の間の愉悦を味わうようになった頃は、往年の「ホモ」という呼称は影をひそめ、「ゲイ」という明るいがどこか軽い響きが私らのことを指すようになっていた。
その頃の大きな社会情勢の変化と言えば、HIVの治療薬が開発されたことだった。かつてはHIVに感染すれば免疫力の低下は否み難く、いずれはAIDSと呼ばれる状態になって日和見感染から命の終焉を迎えることが宿命のように思われていた。しかし1996年から、HAARTと呼ばれる多剤併用療法が行われるようになり、HIV感染は適切に治療すれば恐ろしい病気ではなくなった。
アナルセックスを行わない私は、行う人よりもHIVに感染する危険性は低いと思っていた。しかし、HIVはレトロウィルスであるため、ごくわずかでも感染すれば影響は全身に拡がる。私は時に応じてHIV検査を受けるようになった。
そのころ私はとあるオーケストラのバイオリン奏者とつきあっていた。
この人とは掲示板で知りあい、何度かメールのやりとりをし、音楽やワインの好みが(私の知らないものが多かったが)高尚だと思った。初めて出会ったのは新宿であった。そのとき彼はメールで「それなりの食事とワインを楽しむからには、それなりのお金がかかりますが良いですか?」と聞いてきた。相変わらず動物実験の現場で糞尿にまみれて働いていた私のことを相当貧乏だと思ったようだった。実のところ私のふところは苦しかったが見栄を張って「大丈夫です」と答えた。
新宿の裏町のどこだかわからない路地を歩き、看板も何も出していない小さなビストロに私たちはやってきた。店主と彼は顔なじみらしく、こんなものが食べたい、あんなものが飲みたいといろいろ注文をつけた。店主の出してきたワインは彼の口に合ったらしかった。
彼は演奏旅行で世界中を歩いており、私の知らないヨーロッパの田舎町のことをいろいろ話した。彼の口から出るのは世界的な指揮者やオーケストラの悪口だった。
私はもう、話と食事とワインだけで頭がいっぱいになったので、これで別れても良いと思っていた。しかし彼は「これでさよならではちょっと寂しい」と言った。それで、二人で新宿のラブホテルに行くことにした。そのラブホテルの前では、酔った男女がお互いにしなだれかかって入るか入らないか言いあっており、そのうち女は男に肩を預けるような形で店内に入っていった。これからセックスをするこの男女の振る舞いを私は醜いと思った。
ラブホテルの部屋に入ると私は彼を後ろから抱き、ペニスに手を当ててみた。それはすでにガマン汁でヌルヌルと濡れていた。「ああ、もう・・・」と私は声を出した。彼がこれから起こることへの期待で興奮しているのが何か嬉しかった。
私たちは一人ずつ軽くシャワーを浴びてベッドに入った。彼は少し太めで、私の上になると重かった。彼は始終興奮して、ペニスの先はガマン汁でベトベトに濡れていた。私たちはからみあい、お互いのペニスをしゃぶりあい、動物のようなうめき声をあげて転がりあった。
普段は燕尾服を着て舞台の上に立っている演奏家なのだろうが、性的に興奮してしまうと見境のない青年と変わりない。当たり前ではあるが、その落差が面白いと思った。
彼とは3年にわたってつきあった。その間に何回か新宿で出会ってセックスした。彼は演奏会のチケットを私のために取っておいてくれ、私はあまりなじみのないクラシックの音楽会に出かけた。
しかし、彼はあるとき突然「好きな人ができた。可愛がってくれる。これからあなたと付き合うのは構わないがセックスは抜きだ」と通告してきた。それで私たちは縁が切れた。
こういう突然の別れは私にある種の喪失感をもたらしたが、若いときのことを思うと、それが男同士の出会いの特徴なのであった。要するに私たちは男女のように安定して巣を作るような恋愛はできないのだ。常に行きずりの一時的な縁が私たちを結ぶ。それは突然切れることもある。
そうして私は自分の体がだんだん中年の真っ盛りとなり、若い時のように「おじさま」を引きつけるわけでもないことに気づいた。
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