VITA HOMOSEXUALIS
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2015年07月04日(土) 水洟

 私は東京に出てきてからしばらく経って映画館やバーに行き、行きずりの男と体の関係を結んだが、自分の気持ちとして好きになった人はいなかった。ただ体を重ね、射精したりされたりするだけの関係であった。

 その年の秋から、私はアルバイト先の酒店の配達のために、自動車の運転免許が必要になり、学費を半分社長に出してもらって自動車学校に通い始めた。

 当時は今のようにネットによる実技予約などはなく、実技実習を受けるためには早朝から自動車学校の受け付けに並んで時間の予約をしなければならなかった。季節は秋から冬に向かい、早起きをして出かけるには辛い時期であった。

 実技予約の列に並んでいる人の中でいちばん目立つのは中年のおばさん達であった。このおばさん達は何の楽しいことがあるのか、いつも大声で話していて、それはたいてい教官たちの噂話なのであった。私はこのおばさんから話しかけられるのが最も苦手だった。酒屋の店員をやっている事や、その配達のために免許が必要である事も、恥ずかしくて言えなかった。

 時折その列にガクランを着た大学生を見かけるようになった。背の高い、涼やかな顔をして、いつも皆に「おはよう」と元気の良い声をかける、明るい青年だった。何度か見かけているうちに、私はその人が好きになって行くような気がした。

 あるときたまたま隣り合わせの列に並び、同じ時間に教習を受け、同じ時間にそれが終わるということがあった。「いま終わったんですか?」私は声をかけてみた。「そうだよ」と爽やかな声が返ってきた。私たちは少し立ち話をした。

 別の日にまた一緒になった。「なんで学生服を着てるんですか?」私の質問に彼は応援部だからだと答えた。

 それから、一緒のときにはいろいろなことを話すようになった。彼が相手だと私は自分が専門学校を挫折しそうな店員であることや、誰も話し相手がいないことなどを素直に打ち明けることができた。彼は東京六大学のうちの一つに通っていた。それは私から見ると雲の上の存在なのであった。「自分に負けてはダメだよ」、「どんな境遇でもそこからはい上がるチャンスはどこかにあるんだ」彼はいつもまっすぐにそのようなことを言った。私たちは教習の後に喫茶店でコーヒーを飲みながら話し合うまでになった。私はいつしか自分が彼を好きになり始めているのを感じた。彼のたくましい腕に抱かれている夢を何度か見た。

 ある朝、それは年の暮れも近いとても寒い朝だった。待合室には石油ストーブが一台しかなく、私たちは震えながら自分が予約表に記帳できる順番が来るのを待った。

 そこに彼が「おはよう」と元気良く入ってきた。「おはようございます」と私は返事をした。そして彼の顔を見たときに、私は思わずハッとなって顔をうつむけてしまった。彼の顔は相変わらず明るく涼やかであったが、鼻水が垂れて唇に届いていた。あまりに寒い朝だったし、待合室は急に暖か湿度もあったので、それは仕方のないことだったろう。右の鼻から垂れた水洟が光って、彼の顔は急に幼さを増したように思えた。

 そのとき私には不思議なことが起こった。私は急に性の欲動を感じたのだった。私は隣のおばさんに「ここの順番お願いします」と言い置いてトイレに駆け込んだ。私のペニスは勃起していて、先端からぬるぬると「先走り」と呼ばれる汁を出していた。私は自動車学校のトイレの個室で早朝にオナニーした。ほんの数回こすっただけて勢い良く精液が飛び出した。

 ようやく静まった気持ちの高ぶりを抑えて私は列に戻った。彼はまだ鼻水を垂らしていた。まわりの人は皆それに気付いていたが、誰もそれを指摘できないのだった。

 その日、私は恥ずかしくて教習が終わった後も彼とお茶をすることができなかった。


aqua |MAIL

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