過去日記倉庫(仮名)
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フリフリのおれ的わたし的ベスト2007はこちらより
| 2005年09月25日(日) |
青空がありさえすればそれだけでいい / 大野一雄 稽古の言葉 |
ちょっとずつ涼しくなってきた。今聴いているのはTZADIKの安売りしていたイクエモリ&天鼓(vo)のデュオ。ゲスト入りですが、割と普通の歌ものが20曲ほど入ってる。モリさん機械なのにかっこいいドラム…どうやってるんだろう。
実は数時間前にいちどここを書き上げて、プレビュー中にソフトが落ちて愕然。とりあえずご飯食べてお皿洗って気を取り直した。アイスクリーム食べたいなあ。…
こないだできたサンエー(地元のスーパー)の宮脇書店に行く。立川におけるオリオン書房のようにいたる所にある。品揃えが豊富なので文句は言わないけど…遅くまで開いてるし。いろいろ買うつもりだったんだけど、ほとんどが立ち読むだけで満足してしまった。買っても読めなさそうだからかな…レヴィナスの解説書とか内田樹さんの新刊とか、森達也さんのは買おうかなー。この前Aを見た時に感じたことがそのまま書かれててびっくりした。撮る人の気持ちがそのまま映るものなんだなあ。不思議。そうでもないか?
そういえばAと言えばAAという間章に関するドキュメンタリーもあるんですね。青山真治監督で。boid.netのreportの所に撮影日記がありました。そろそろ公開されるのでしょうか。見たいなあ。それもいいけど爆音ギター映画エリ・エリ・レマ サバクタニが見たい。AAはともかくこれは沖縄でも見れないかな?吉祥寺バウスシアターとかでやるんだろうな。爆音じゃないと意味なさそうだし。
谷川俊太郎さんの夜のミッキー・マウスもあったので読んだ。なんか作品のスタイルがバラバラで散漫なのがいい感じだった。私は全部ひらがなの子ども語り詩集はだかがとても好きなので全部ひらがなの作品に目を奪われたけど、いちばんよかったのが台所の詩だった。私も泥だらけの野菜の目で今の自分を見てみたい、と思う。子どもの頃に食べたうちの畑でとれた人参の目で。まあでも今の私も人参さんとそんなに変わらないよな。
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そこで買ったのが大野一雄 稽古の言葉。やはり大野さんご自身の言葉を読んでみたいと思った。これは77-96年の稽古の録音テープを起こしたもので、その20時間分の記録から抽出して編集したものだそうです。時系列に沿ったものではなく(日付けは入れてほしかったなと思いましたがそれもも無い)アフォリズムの形式になっています。
俺はこんなに美しい。あなたは美しい。こんな美しさは見たことがない。今まで見たことがないような美しさだった。(中略)冥府をつぶさにのぞいて足を踏み入れたときに、なんてすばらしい匂いだろう、音だろう。それはあなたの習慣的なうごきから自然に発する、超音楽かもしれない。さあ、そのままの姿で冥府から現実の世界へあなたは歩んでいる。冥府から現実の世界に歩いてくる。かつてあなたが現実の世界で生きていたあのときのあなたと、いま冥府を体験したあなたとはまったく違っていた。見たところほとんど変わりない。まったく変わっていた。できたらば冒険があってほしい。抜け出してあなたは冥府を通り抜けてきた。
冥府とはおどろおどろしい表現だけど、一段下がったうすぐらい次元を通り抜ける感覚、というのはわかる気がする。目を開いていても何かを見るというのではなく、何かが出たり入ったりする所にしておく、ということ。魂の出入口みたいな言い方を大野さんはしている。魂の鳥のようなものが飛んできて、目の中に入ってくる。そのために目を(それらが)入りやすいようにしているか?と。目で触るということだろうか?
魚が一匹入ってきた。魚が一匹入ってきたことによって、ぐらりと変わってきた。それだけの違いです。魚が入ってきたおかげで、関係が、死が生を照らしているように、生が死を照らしてように、生が生き生きと。さあそう言う中で自由にやってごらんなさい。(中略)魚の目のなかで、あなたの指の動きは、手の動きは何を語っているのかな。数学や科学ではとても解明することができなかった。今までみたことがないような。いや私は何かに触れている。
しば先生からも同じようなことをよく聞く。肌で音を聴いてる、とか。みきちゃんもそんなことを言ってたな。私も演奏中は場の空気に乗るために、意識して何かを見つめるということをしていない。見て合わせるとむしろ乗り損ねてしまう。聴覚は鼓膜の振動だから、視覚の情報取得よりももっと原始的かつ官能的な方法なのではないかと思う。体中で世界に触ること。勅使川原三郎さんは空気や水の肌触りに意識を向けるようにとよくコメントしてたなと思い出す。
あるとき私は私自身に、出ていって、出ていきなさい、出ていって出ていきなさいとそう言った。(中略)蓄えられたエッセンスが手の中にあって、手が私から切り離されていった。(中略)魂が、エッセンスが飛び出していく。私の手が飛び出していく。あの手を見ろ。あれはお前自身の旋律だ。永遠の距離があった。私は私と無関係にエッセンスが離れていくのを見た。かつて私自身でもあったのに、今は他人のようにそのエッセンスを眺め感じることができた。お遊びなんだろ。
音が見えるようだ。どんな言い方で言われた言葉なんだろうと思う。速さは、音程は、どんなリズムだったんだろう。私にとって言葉は何を話すのかではなくどう話すのかの方が大事だからだ。土方巽は泥くさくて訛りの入ったダイナミックな話し方のイメージ。大野さんは字面からして土方巽のような破格の迫力は無いけど、たぶんもっと薄い声で優美な調子で流れる言葉なのではないかと思う。どうだろう?たぶん1ページ分ひとまとまりで話されたと思うので略するのは不本意なんだけど…黙読すると気持ちがいい。
そうやって無心に何かの通り道になるだけではなく、動いて生きること。溺れて、食われ、腐って落ちて壊れること。顔に微笑みが浮かぶ。しかし内部では猛り狂っている。そんななかで稽古ができたらこんなにいいことはないと大野さんは言う。悪魔の傷痕は決しておもてに現れない、膿やかさぶたを表面に出さないで美しく居ることが踊りをやる者にとっては大切なことだと。この辺が大野さんの考え方なのかなと思う。そしてなおすべてを捨てて求めること。魂の澱の上の澄んだ所から沸き起こる無邪気な祈りのようなもの。それが大野さんの踊りなのかもしれない。
何もかもご破算にして投げ出して。そこから立ち昇るものがあなたのものだ。考え出したものではなくて、立ち昇るものがあなたのものだ。細密画のように立ち上るものを。追いかけることと立ち昇るものが一つでなければならない。立ち昇ることと追いかけることをして、立ち昇ったときにはあなたはすでに始めている。立ち昇るものがあなたの踊りだ。空はどうなっているんだい。立ち昇るものを受け入れろ。空はいったいどうなっているんだい。そして自由に広がっていく。手が足が、命が際限なく自由に立ち上がるときに手足は同時に行動している。あとじゃだめだ。
イエスに花を手向けなくていい。イエスに花を手向けるよりも、イエスから花をもらったほうがいい。私には手向ける何ものもありません。花ひとひらありません。花が浮かんでいた。空に浮かんでいた。いっぱい空一面に花が浮かんでいた。お前には花がないから空一面に花が浮かんでいるんだ。
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