蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 

自分を証明できるものなんて、何もない。



ゆめを見ました。

ぼくは、ゆめを見たのは初めてです。ゆめの中は、くらくてしずかで、さむいんだなあとおもいました。




瞼を開ければ、暗闇でしかなかった。

非日常が肢体を覆い、意識を淀ませる。周囲はただただ深い夜の帳が下りたように、鋭利な切っ先を鼻先に突き付けられても気付かないほど、視界は無為だった。

緞帳に包まれば、こんな感じなのだろうか。暗黒とはよくいったものだと、変な所で感心する。

五感は効かず、浮遊しているかのようにすら思えた。

「――」

誰かの名を口にする。

だが、それは誰の名かはわからない。

一色に染め上げられた景色に、ふと異彩が混じった。

鮮やかなそれは、視界を覆い尽くしいつしか僕自身をも染め上げた。





「何してるの」

リビングに行けば、珍しくキリヤがテレビを見ていた。

僕の声にも反応しない彼の肩に、掌を置いた。瞬き一つせずに見つめる画面は、真っ黒で何も映し出していない。

キリヤが黙って静かな画面を指をさす。

ただのインテリアと化したそこに映るシルエットは、僕とキリヤと――。

もう一人のキリヤ。

「先か、前か」

それを静かに指差して、彼は僕を見ずに呟く。

「先じゃないな。じゃあやっぱり前か」

よくわからないことを呟き続け、視線は画面に釘付けになったままだ。もしかすると、僕に気付いていないのかもしれない。

「キリヤ」

もう一度呼べば、彼は相変わらず視線を画面に固定したまま、赤い唇に指を縦にして静かにしろというジェスチャーをとった。

僕は肩をすくめて、キッチンへと向かう。空腹は感じなかったが、何か食べないとそろそろ栄養失調で倒れてしまうかもしれない。

背後で「追い付いてからにしろ」という呟きが聞こえたて何の事か気になったが、口にはしなかった。

キリヤの言葉は僕に発せられたものでなく、それどころか現世に対してかどうかも怪しいぐらいだ。

ふと、ナイフを動かす手を止める。中途半端にバターを塗られたパンは、キャンバスを模したようでもある。

「お前、絵の才能はないな」

いつのまにか、キリヤがキッチンにいた。

僕は彼を凝視する。

「何だよ。馬鹿にでもなったのか?」

せせら笑うキリヤの大きな漆黒の瞳は、僕を映している。そこに映る僕の瞳の中にはキリヤがいて、またその中には僕が。

終わらない螺旋。延々と繋がる合わせ鏡。ふとその一端を具間みたような気がして。

何かに映る己の姿。それが、その中の自分が本当に自分あるかどうかなんて、誰にもわからない。

彼が話し掛けるのは、現世とは限らない。だとすれば、今目の前にある彼という存在は『いつ』のものなのだろう。

ある日突然、過去の彼が彼になりすましたとして。

それを知ることは不可能なのではないだろうか。

「追い付いたらどうするの?」

ぽつりと発した言葉に、キリヤが僅かに目を見開く。

「殺すだけさ」

「物騒だね」

地軸が違えば、己でさえも手にかけてしまうと言うのなら。

「離れれば他人、だろ」

止めていた手を動かし、再びバター塗りに専念する。今度は塗り終える事に成功し、ちぎったレタスやトマトと共に皿に乗せた。

離れれば他人。自分でさえも。

バターナイフを洗い、ペーパーで拭いた。



夢を思い出す。

幼い頃に見た、暗闇の夢。一人、寒さと孤独に震える夢。あれは、たぶん。

「おい、俺の分は」

「なんだキリヤも食べるの」

「当たり前だろ」

むくれたような表情で席につく、僕と瓜二つの弟。

あれは、たぶん。



そうやって殺された、未来か過去の僕らだ。

【END】

2011年01月04日(火)
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