蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 ラグジュアリー

「電話一本もなしかよ」

遅れてきた梓が部屋に入るなり、待ちくたびれたらしい新が呆れきったような声で言った。
二人が約束したのは九時半だった。
それにも関わらず、時計の針はそこからきっかり二周程回ってしまっている。

羽振りの良い友人の誘いを断ってまで待っていたのに、二時間も待ちぼうけを食わされたことになった新はその二時間を白いソファに俯せになることだけに費やしたと喚いた。


「遅れるつもりはなかったんだけどさあ」

梓はどうしようかとでも思案するような顔で、大きな目を天井に向けて何でもないふうに言った。

「だけどさあとか言っちゃうのお前」

「なんだけどさ」

「押し切んなよ」

「仕方ないじゃん。遅刻とかさ、誰にでもあるミスじゃん。今日さ、外どんだけ雨降ってると思ってんの、タクシーも中々来ないしさ」

「だーかーら開き直るなっての。二時間てさ、二時間て遅刻とか言う範囲なのかよ むしろ事故の範疇じゃないの?」

「あぁそうか。じゃあそれで」

「じゃあじゃねーよ。ねえわ、二時間待ちはねえわ、出待ちかと思ったわマジで」

「あらた出待ちなんかしたことあんの」

「あるわけねえだろ」

ソファに寝転がる新は髪がりがりと掻いて、面倒臭そうな顔をする梓を振り返って見ると、殊更に眉間に皺を寄せてがっかりしたような顔をした。
その顔をさらりと見て、梓は少しだけ身動ぎして困ったような顔をした。

「うわこいつ反省してねえよ、とか思っただろ」
「思うわそりゃ。連絡くらいしろよ、どんだけ待ったと思ってんの。だいたいな、お前が言い出したんだろ俺んち来るとか急に言い出しちゃったんだろ。俺はね、出かけたかったの、それを止めたのは誰だよお前だろ、お前しかいないだろ。だからお前が死ぬほど悪いんだよ」

常日頃気が短いほうではない部類に入るはずの新だが、時間を無駄に使うのは何よりも嫌いだったから苛々したふうに言葉を投げつけてくる。
口を挟めば余計に雷が落ちると踏んで、梓は黙った。
が、黙ったことで顔を覆ったきれいな指の間から覗く目が、いつもより剣呑な色を見せた。

「きーてんの」

「何。きーてるよ」

「じゃなにその態度」

新がのそりと起き上がり、脚を組んでじとりと人形のように立ったままの梓を睨む。
その顔はとても険しくて、目は一つも笑っていなかった。ああこれは随分と怒ってんな、と他人事のように思って、梓は真っすぐに新を見返した。

「来てもいーけど遅れんなってゆったじゃん。俺ゆったじゃん。聞いてなかったのかよ」

より伸びた髪を掻き上げて、新は苛々したように何度も同じことを繰り返した。
それから逃れるように梓はミニスカートから伸びる自分の細い脚を眺め、その爪先に並んで光るスワロフスキーに見詰める。

この石を散りばめるのにも随分と時間を要したことが約束の時間を悠々とオーバーした原因の一因だったが、新の態度を見るに今更そういった言い訳を言うのは憚られる。
恋人である聖の部屋でのうのうと過ごしていた時が、つい数時間前であるにも関わらず幾日も前のようにさえ感じられた。
酔った勢いで『今から行くから』なんて言わなければ良かったのだ。

「お前みたいな奴知らねーわ。帰れよさっさと帰れ」

黙ったまま立つ梓が腹立たしくなったのか、帰れと繰り返す新はもう全部放り出してしまいたいようにも見えて、「えー。でもさぁ、」と不満を口にしようとした梓の声が遮られたのは最後通牒のような早さだった。

「でもじゃねえっての」

薄茶色の瞳が冷たく自分を見据えているのに唇を尖らせて、梓は再度「えー」と言った。

「えぇぇ。せっかくさぁ来たのになんでよ、なんで帰んないとなんないの」

「うるせーよ、帰れ、出てけ、そんで二度とくんな」

「ひっどくない、それ。この雨の中帰れって? 人じゃねーよお前、新手のエイリアンかよ。風邪でも引いたらどうしてくれんの責任取ってここ住ませてくれんの」

「おお。どっからその発想湧いた」

「お前がそんなんさ、そんなん言うからじゃん」

「逆ギレすんな。お前が悪いんだろ。そのくせその態度おかしいだろ」

「おかしくねーよ。仕方ないじゃん手間取ったんだよ色々と。だから遅れたんだよ」

「何を手間取るんだよ馬鹿じゃねえの」

新が呆れきったように顔を顰めて、笑うのと怒るのと半々のような顔をした。

「馬鹿じゃねーよ、あーんなスコールみたいな雨降られたらさ、手間取るんだよ色々と。女だから仕方ねえじゃん」

「その喋り方が女かよ」

「お前こそそのナリが男かよ」

新が起き上がったことでスペースが空いたソファに梓が座り、まばらに伸びた新の前髪を強く引く。その反動で距離は随分と近づいたが、重苦しいような空気は変わらなかった。

「いてえな引っ張んなよ」

「女みたいに伸ばしてんじゃねえよ。邪魔じゃん切れよこんなの」

「うるせーよ」

三十センチもない距離で罵り合う光景は客観的には何だか滑稽ではあったが、本人たちの意思とは無関係にテンションだけがヒートアップする。

「欝陶しいとか思わないの」

「お前だって長いだろ」

「馬鹿じゃねえの、こっちは女だから長くていいんだよ」

「馬鹿じゃねえよ、俺は似合ってるからいいんだよ」

胸倉でも掴もうかという勢いそのままに大声が響き渡り、新の細い腕を強く掴んで引っ張って圧し掛かるような体勢になったところで不意にこの状況に冷静になった梓が動きを止めた。
僅かに出来た空白に眉を顰めた新が、自分に圧し掛かるようにしていた軽い身体を簡単に引っくり返して、勢いよく覆いかぶさる。
思ってもみなかったことに驚いた梓が、その鼻先にぶつかる、と思うような距離に思わず目を瞑りその寸前で新は止まった。

「ばあか」

驚いて目を閉じた梓を嗤うように、再び開いた視界の先に新の形の良い目が勝ち誇ったような視線を投げ掛けてくる。

「…うっさい、笑うな」

「びっくりしたんだろ」

「したわ。するわそりゃ。笑うなって言ってんだろ」

新の両の頬を引っ張って、お返しだと梓が言って子供みたいに、いーだ、と付け加えた。

「いてえよ」

「うるせーよ」

「ガキ」

「同い年だろ」

くぐもった声が漏れて、調子に乗った梓がそのまま新のワックスで整えられた髪の中に両手を突っ込んでぐしゃぐしゃと掻き回す。
指通りのいい質の良い髪は何もしていない筈なのに、毎日こまめな手入れの欠かさない梓より触り心地が良くてそれがさらに不満に思った。

「何この綺麗な髪。そんなだから男にまで告白されんだよバーカ」

「うるせえよ。お前もそんなんだから女から毎年バレンタインにチョコもらうんだよバーカ」

最後には言い合う悪口もなくなって、何度か「ばか」「死ね」「消えろ」などの低次元の言い争いが続いた後、疲れたように二人して黙り込んだ。
最初に口を開いたのは、真面目な顔をした梓で、それを新がじっと見ていた。

「…疲れた」

「なんかな。くだんなくなってきたな」

「やめるか」

「お前が言うか」

しばらく黙っていたが、新の髪に指を滑らしたまま、梓が「ごめん」と言った。

「ごめん。もう二度と遅刻しないから、来るなとかゆわないで」

ぎゅうと痛くなるくらい新の華奢な身体に腕を巻きつけて、梓は深く息を吸い込んだ。
そうしないと息が出来ないんじゃないかとでもいうように、ぎゅうぎゅうと抱きついた。

「おっせーよお前」

大げさに吐いた溜め息と共に、背中にかかる梓の髪を軽く引っ張って新が笑った。

【END】

2011年01月06日(木)
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