蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 クリスマス・デイ

「なんかさ、やたらと人が多くない?」

あたしの言った台詞に、伊聡が露骨に嫌な顔をした。

「マジで? じゃあ駅のほう行くのやめる」

「えー? やだよ遠くなるじゃん。…あれ? でも、あれってさぁ」

人混みという言葉に過剰な反応をする伊聡を無視して、駅前のビルの影から見える光に目を奪われてそちらへと足を向ける。

「は、お前、なに」

「立ち止まらないでよ、こっちだってば」

「…すげー人混みなんですけど」

「いーから」

「良くねえだろ、…って」

駅と直結したショッピングセンターを抜けた、いつもは何もない広場を彩る青と白と。それから赤に橙。
中央に巨大なクリスマスツリー。芝生の上に敷き詰められたライトが、まるで光の海のように輝きを放っていた。
そういえば、十二月半ばからイルミネーションが始まるって誰かが言ってたっけ。
聞いた時はあたしに関係ないし、なんて思ってたからすっかりと忘れてた。

「引っ張るなって」

「うん。でも、ほら、あっち」

いくら伊聡が嫌だって言ったって、世間でいうところのクリスマスなんだし。
少しくらいいいじゃない。
ちょっとだけ見て帰ろうよ、とタクシーを捕まえようとしていた伊聡を引き留めて、ツリーの方へと引っ張った。

「すごーい。綺麗、ね、ほら見てよ」

後ろで何か言っている伊聡の声は、人混みとアナウンスと音楽のせいで上手く聞き取れない。
わからないけれど、きっとどうせ「くだんない」とか言っているに違いなかった。
そんなこと言われたって、引くつもりはないんだから。
知らない振りをして笑いかければ、眉を寄せていた伊聡の顔が一瞬だけ驚いたようになって、それからまた不機嫌な顔に逆戻りした。
少しくらい愛想良くしてくれたっていいのに、なんて言う文句は胸に収めて握った手だったけど、握り返された力は思いのほか強かった。



芝生の真ん中に立っている時計塔が、九時へと差し掛かる。
いつもは一時間後とに何とかいうクラシックがオルゴールで鳴るその時計も、今は鳴りを潜めてただ時だけを告げる。
同時に周囲のビルから、広場を彩る光が粉雪みたいに降り注ぎだした。
空からじゃなく、ツリーから流れ落ちるかのように錯覚する光、そして光。

触れられない光の雪が舞い落ちるのが、信じられないくらい綺麗だと思った。
予報通り本物の雪は降りそうにないけど、そんな物がなくても十分過ぎるくらい。
違うか、寧ろ降らなくて良かった。雪なんか降ったら伊聡は間違いなく、聞く耳を持たずにタクシーに乗っていた。
そうしたらこの光景は見られなかったわけで。

それに比べれば、ホワイトクリスマスの価値は随分下がる。少なくともあたしにとっては。
一人じゃなくて、二人。
伊聡と二人でいることに価値がある。
…伊聡にとっては何の価値もないのかもしれないっていうのが、ちょっとばかり残念なんだけどこれ以上を望んだって仕方ない。

「まなかー」

すぐ傍で聞こえた声と共に、髪が後ろへと引かれる。

「寒い、帰りたい。帰る。帰らなきゃ凍死する」

「痛いってば」

「そんなに強く引っ張ってない。つか、マジで寒い。帰る、帰りたい、帰らせろ」

妙に切羽詰った伊聡の声は、上滑りして通り過ぎて、あたしは少し笑ってしまった。

「凍死するってどんだけひ弱なのよ。後でさ、どっか入ればいーじゃない。そこで好きなだけ暖まれば?」

「今がいいんだよ、今が。じゃあ妥協策。どーしても見たいんなら、あっちカフェから見よう」

「やだよ、硝子通すとさ、綺麗さが半減するんだよね」

「くだんねー…」

それにこれだけの人混みなんだし、カフェなんて風の吹き付けるテラスさえ満席に決まってる。
納得したようなしていないような、でも離されない手は確かな温もりを伝えて何を言われてもあたしを嬉しがらせる。

きらきらきら。
一帯を彩るイルミネーション。いつもは通り過ぎるだけの場所に、沢山の人が足を止める。
いつもは昼過ぎにサラリーマンくらいしか座らないベンチに、今夜は沢山の恋人達が腰を下ろす。

少しだけ強く手を引いて歩く、まるで引率状態。
あたし達の周りと言えば、べたりとマグネットみたいにくっつく恋人達。
誰もあたし達みたいに中途半端な距離を生んではなかったけれど、構わない。
そんなことより二人で見れたっていうことが、大事なのだ。

黙りこくる背後を無視して、電飾の荒が見えないぎりぎりまで近寄ってみる。さすがにこの辺りになると人だかりが凄くて、一度手を離してしまえば見惚れている場合じゃなくなるかもしれない。

数箇所あるベンチはどれも満席で、冷たい夜風に吹かれても誰も寒そうな顔をしていないのは、相手を気遣うからかそんなもの吹き飛ぶくらい甘い空気が漂うからか。

そんな雰囲気とは無縁な伊聡は、未だ「寒い」と顔を曇らせてひとりごちている。
繋いだ手が随分と冷たくなったことに気付く。

「帰りたい?」

「すげー帰りたい」

「あーそ」

予期した答えは間を置かずに返されて。

「あー…寒い」

あたしに向けられたものではないと知っていたけれど、呼応するように伊聡の顔を見上げた。
白くなった息が透けて見える。
それに斜めから差し込む青い光が、とても幻想的だった。
薄い唇から漏れる白と、降り注ぐ青と。混ざりようもなく、けれどそこに確かに混在した。

今キスしたら、あたしもそれに染まるかもしれない。
その誘惑に抗うことなく、服の胸元を引いてそっと唇を合わせ、すぐに離した。

「なに、急に。帰ってすればいいのに」

「今するからいいの」

「あーそ」

さっきのあたしそのままの返事をする伊聡を振り向けば、件の恋人はもう既にあたしを見てはいなかった。
どこを見るでもなく、あちこちに視線を投げては詰まらなさそうに目を細める。
落ち着きがない。本当に帰りたいのだ。
伊聡はたぶん、美術館だとか水族館だとか、そういう観賞するものは向いてない。

あたしだって好きじゃないけど、そのレベルとは段違いに、向いてない。
ただ観るだけ、というものにも向き不向きはあって。
そういう意味では伊聡は、マイペースというよりも、メンタル的な意味合いで未発達なんだと最近思うようになった。

だから時々、あたしがこうやって連れ出してやらないと、この手のかかる恋人は育たないかもしれない。




「ホントさ、伊聡って情緒がないよね」

結局目敏く捕まえたタクシーに乗り込まされて、後方に流れてゆくイルミネーションを振り返り呟いた。

「情緒?」

「そう。情緒」

「あー…ないかも。だって必要ないし」

それってどうなの。観賞能力の欠如を、そんなに自信満々に認められても困るんだけど。
外にいた時よりは随分と余裕出来たらしい伊聡の横顔に、ちらりと視線を寄越す。
あたしの表情をどう捉えたのか、珍しく穏やかに笑う顔を見て、思ったことを言うのはやめにした。
ビルの影に遠ざけられて、もうツリーは見えない。
しばらく窓の外を眺めていたら、愛夏、と名前を呼ばれた。

「なに?」

前を向いたままの伊聡が、欠伸を噛み殺して眠そうに口を開いた。

「俺さ、人混み嫌いなんだよ」

「知ってる」

「寒いのも嫌いだし」

「それも知ってる」

知らないことのほうが少ないよ、きっと。
そう呟けば、少しだけ伊聡は笑ってあたしを見た。

「だから早く帰ってさ」

「帰って?」

「ベッドに潜り込んで温まって、で、一緒に寝られればさ。それでいーじゃん」

冷えた手があたしの手を握りこんで、耳元に寄せられた唇が温かな息を吐く。
ツリーも、イルミネーションも、プレゼントも、クリスマスらしいことは何もないけれど。

「うん」

それはそれで、とてもあたし達らしいかもしれない。
だからあたしは。

「じゃあ早く帰ろう」

と言った。

【END】


2011年01月03日(月)
初日 最新 目次 MAIL HOME


My追加