ヒルカニヤの虎



 せつなーい人間

ラーメンズ‘TOWER’みた!

チケットとってくれた東京の先輩Fと新神戸オリエンタル劇場待ち合わせ。定時退社で全力疾走したため息も絶え絶えでしたが、何とか開演ギリギリで間に合いました。ひさびさに会ったFと「もし開演に間に合わなかったら舞台上に脱糞も辞さない」とか話してるうちに開演。なんだか構えたりする間がなかった。
2年前の本公演‘TEXT’はそれこそ悲壮なまでの期待と不安と感動をもって臨みました。今回は予習もせずタイトルの意味も考えず、フラットなところからスコーンと世界に入っていけた。結果、非常にしあわせな時間でした。ゲラゲラ笑えるベタな笑いが多かったし、ラーメンズでは初めて「こねくりまわさなくていいカモ」と思えた。
なので以下はすべて蛇足です。おもしろかった、でいいじゃない。
相変わらず見た人にしかわからない備忘録、一応ネタばれなので隠しています。長いよー。


ラーメンズ第17回公演‘TOWER’
改行も見直しもない備忘録です。
あーもう1回みたい!山口とかチケット余ってねえかな。
遊びをせんとや生まれけむ。雰囲気が原点回帰で、なんだかとても楽しげ。でもテーマはやっぱり全コント相互不理解で貫かれている。TEXTのとき、言語のベクトルはもうだめだろうと思った。言葉では「銀河鉄道の夜のような夜」からどこにもいけない。TEXTは「言語による不完全なコミュニケーションと、それに頼りきっている人間(=自分)」の開示で終わっていたと思うんですね。TOWERでは、相互不理解をふまえたうえで「一緒に」なにかに挑んでいる。お互いにわからない者どうし、何かの目的のためにわかりあおうと踏み出している。これって構造的には止揚の逆だよね。コミュニケーションそのものを目的としなくなった、というよりは、コミュニケーションを自然にとるために別に目的を作ったんだ。これは小林賢太郎の大きな変化だと思う。希望かどうかはわからない。今回の本公演はちょっと雀の感じがしたんです。雀にはまだあからさまな劣等感はなかったけれど。TOWERでは自分の劣等感を受け入れているように思う。小林賢太郎の表現がめんどくさいのは、相互不理解(コミュニケーション不全)と、あるひとりの人間への劣等感とが分かちがたく結びついてしまっているから。劣等感を受け入れた小林賢太郎は、遊びを通じて片桐仁に「やりかた」を教えてもらっている。自分の優越を誇示しながら、ぎこちなく関係を紡ぎながら、親を見上げる子どものように。彼が他者に求めるものはもしや、保護と許しなのかしらん。でもそれとあまり関係ないクリムゾンメサイアが一番おもしろかったっていうね。
通して思ったのは、片桐さんうまくなったなあ!ということ。声の表現力が段違い。客席の笑いとかぶらない間のとりかたもうまいし、昔よく感じた「しんどそうな演技」が全然なかった(=「ハズし笑い」がなくなった)。片桐さんの舞台見てないのでどんな経験を積んでこられたかは存じませんが、うん、うまいっていうより強く大きくなった。小林賢太郎は相も変わらず腹立つほどうまいのですが(空間をつくりだすマイムは完璧だし、発声は劇場のいちばん遠くまでつやつやの音の粒がとんでいく)、片桐さんはそういう次元ではないなあ。入れ物の性能の良し悪しを超えている。



やっぱりものすごいクオリティの高さですよ。
大笑いもするし全力でバカやってるんだけど、結局のところ形に破綻がない。
考えた人の脳みその高尚さがよくわかる。そこに隠したものの悲壮さもわかる。
そこはあんまりわかりたくないけども。
あ、そうそう幕間がいちいちよかった。
あとフライヤーが凝ってます。どうやってナナメに裁断したんだろ?

個々のコント感想まで入れると長過ぎるので、いったん切る。

2009年05月01日(金)
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