萬葉集覚書

2006年12月25日(月) 17 味酒 三輪の山

味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで
道の隈(くま) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも
見放(さ)けむ山を 心なく雲の 隠さふべしや



三輪の山をいつまでも見ていたいのに。
奈良の山々に隠れてしまうまで、ずっと見ていたいのに。
道が何度も曲がり角にさしかかって、もうこれ以上は見えないというところまで見ていたいのに。
雲がそれを隠してしまうなんて。
なんて心ない雲なんでしょう。
やんなっちゃう!




天智天皇六年(667)、飛鳥宮から近江大津宮へ遷都が決まりました。
飛鳥を離れて大津へ向かう道すがら、三輪山の姿を目に焼き付けるように見ていたいと願っているというのに、雲がそれを隠してしまうという悲嘆を述べています。

百済救済に失敗したあと、新羅や唐の侵攻に病的なまでの恐怖心を抱いた天智天皇は、都を内陸の飛鳥から陸路・水路両面の交通の要衝に移します。
それまでにも、九州に防人を配置し、各地に城を建設し、なりふり構わぬ国防態勢を敷くわけですが、結局この遷都は民にも廷臣にも喜ばれることはなく、各地で起こった火事や災害などの原因に比定されたりして、天皇自身の治世に少なからぬ影を落としました。
白村江の大敗以後の天智天皇の後半生は、結局怯えと逃走の連続としか見えず、近江に遷都した大きな理由のひとつも、実は退路の確保ではなかったかと思われてなりません。

慣れ親しんだ飛鳥の地を離れる廷臣たちの心はいかに乱れたか、を額田女王が代表して詠んでいるわけですが、そこには故地を離れて未知の土地へ行くという不安感だけでなく、天智天皇の怯えの影がさしていたのだろうと窺えます。
実際のところは、新羅も唐も攻めては来なかったわけですが、恐怖感は長く天智天皇を支配しました。
結局この後わずか5年で、天智天皇は恐怖と怯えの中で息を引き取るのですが、これほど情けない後半生を送ると、誰が想像したでしょうか。


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セレーネのためいき

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