萬葉集覚書

2006年12月26日(火) 18 三輪山を しかも隠すか

三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや



もう戻っては来れない飛鳥の都なのに、三輪の山を隠してしまうなんて、なんて心ない雲なのかしら。




17の長歌に対する反歌として詠まれた歌ですが、ここでも三輪山を見ていたいという思いが強く出ていますね。
道の折々の角で振り返って故地の象徴を褒める行為、というのが一種儀礼として成立していた可能性を指摘する意見も有りますが、たとえそういう儀礼を持ち出さなくても、二度と見ることはない故郷の山は、自分を含めた周りの人間達を育んだ神そのものとして映っていたのでしょう。
神としての三輪山は、大神の社として全山が御神域とされていました。
今でこそ古き神の座します社と神さびた雰囲気が荘厳さを醸し出していますが、古代の三輪の神は、時に荒ぶる神として人々の前に在りました。
良いことも悪いことも、すべて神の思し召しと考えるのは神職に任せても、大神の神に懐かしさと畏怖とを重ね合わせて、惜別の気持ちを捧げるのに、雲がどうしても邪魔をしてしまうという、何かの前兆かとも受け取れる歌ですね。
まして詠み手が額田女王であればなおさら、神の声を聞くことに長けた女性ですから、その感が強くなってしまいます。


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セレーネのためいき

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