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暴飲暴食しているわけでも不摂生しているわけでもないのに体が重くてだるい。というのはわたしだけではないらしい。梅雨の時期に低気圧と湿度でなんだか調子が悪いというのはフツウのことのようだ。
不調だが、農園の雑草はすくすく元気に伸びる。農園の師匠が″俺は草ボウボウの自然農法なんて大っ嫌いでい!″と宣告するのを聞き、焦って雑草を抜いている。こつこつ働いた甲斐あってか、土地の性質上難しいと言われた茶豆がなかなか見事に実を付けた。最近のおやつはもっぱら枝豆だ。
友人との間で経済支援や難民受入についての話題が出た。難民ではないが、他国へ移住し″外国人″として生活した経験がある身としてはそういう問題は身近であり関心がある。″途上国への支援″などというけれど、支援することが本当の意味で彼らを救済しているのか。あちらは子供の生存率が低いからとどんどん子供を産む。その子供達を先進国がせっせと支援すれば生存率は上がる。生存率が上がれば彼らは子供をたくさん作らなくなるのか。支援している当の国々はマジメに子育てにかかる経済的な計算をして、子だくさんなんて無理だと思いとどまる。根本的なアイディアがまったく違うところに、″支援″するなどというのは先進国の自己満足ではないのか。注射一本で防げる病や飢えで命を落とす子供達を見捨てろという意味ではないが、支援の形は最善の方法を考えなければする側、される側、両者ともいつか痛い目を見るのではないか。ろくにおなかを満たせないような環境に産み落とされ、生き残り、成人し、小さなボートに乗り命をかけて先進国を目指す難民達。″難民″になったという時点で彼らの生命力はお墨付きだ。しかし、難民として受け入れてもらったところで、まったくアイディアの違う環境で育った彼らがすぐに受け入れられた国に馴染めるわけではない。言葉の壁だってある。アイディアが違う人々が共生するとそれは″治安の乱れ″となる。″治安″なんてその国が決めた秩序や道徳観でしかないのだから、そこで″違う事″をすればそれが治安の悪化と見なされる。
会社のカフェテリアで、″このプレートを選べば途上国の子供が一食の食事にありつけます″というようなキャンペーンが実施されている。裏を返せば、わたし達がこのプレートを選ばなければ、途上国の子供がおなかすかせて泣くワケ?なんて考えると反吐が出そうだ。
ヘタに″支援″なんて博愛主義的な言葉を被せるから反発したくなるのだよな。いざ何か困った時のために恩を売る外交政策ですって言ってくれればもっとスッキリするのに。