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星野道夫さん著「旅をする木」を読んだ。アラスカの地で厳格で優美な自然、その中で営まれる生と死に直面して紡ぎ出された言葉のひとつひとつは、風に揺られてやってきてするりと体の中に吸収されるようだった。″身に染みる″ってこういう感覚なのだろうな。当たり前のことなのに文明の中に身を置いて安楽に生きていると霞がかってしまう。生きていることは当たり前ではなくて、むしろこの脆い生命がどくどくと音を立てて呼吸を続けていることは奇跡なのだ。自然に身をまかせ死を常に意識しながら暮らす人々は、また生かされていることも常に意識している。人はみんな幸せを追い求めて生きているのに、そもそも生かされているという幸せを忘れてしまう。
熊に襲撃されて亡くなるほんの数年前に書かれたひとつのエッセイの中に、″Animals of North"という本の第一章にある″旅をする木″という物語について書かれたものがあった。この本は著者の宝物だったという。イスカという浪費家の鳥が、啄みながら落としてしまうトウヒの種の物語だ。地面に落とされたトウヒの種は芽を出し、やがて一本の大木に成長する。長い年月をかけて川の浸食が森を削り、木は川岸に立つ。ある春の雪解けの洪水で川に流された木はユーコン川を旅して、ベーリング海に流される。北極海流はその大木を遠いツンドラ地帯の海岸へと運んだ。打ち上げられた大木は狐がマーキングするするランドマークとなった。狐を追うエスキモーがそこに罠を仕掛ける。最後、大木は薪ストーブの中で燃やされる。灰になって大気中に還ったトウヒの新たな旅が始まる。自身の死について、きっと死んでしまった当人こそがこの物語のように″新たな旅の始まり″と受け止めているに違いない。人も動物も植物も、生と死の間に境界線があっても、永遠に自然の循環の中で旅を続けることが出来るものなのだと思うと、自分がこの世に存在していることはどんなに尊いことか、と思う。