My life as a cat
My life as a cat
DiaryINDEXpastwill


2015年09月23日(水) 秋分の日

家族・親戚が空き家になっている祖父の家に集合した。空き家といえども叔父の人柄の良さによるところだろう、近所の人々が散歩がてらにやってきて手入れをしてくれたりしているらしい。いつ行ってもきれいだ。本当に劣化したところだけをちょこちょこと都度新調してきたこの家は、そこに生活の根を張ってやがては昇天した人々の思いがあちこちに染みついているようだ。大切にされてきたという威風堂々たる佇まいで、空き家なのに人の温もりを感じる。

お経をあげにきたお坊さんが、世間話の中でこんなことを言っていた。わたしも常々考えていることだったが、日々宗教と密接に関わっている人の口から出ると、それは研ぎ澄まされた一層クリアな音で胸に響いた。


「仏教は他の宗教に比べて神の存在も曖昧で、信ずる人の信ずるものが正しいものであり、儀式の正しいたしなみかたも決してひとつではないんです。訪問する土地や家によって正しいやりかたは違うし、また時代や時世によっても変化していく。だからわたしはその時その家のやりかたに従うことにしてるんです。日本人は宗教に関してとても柔軟で、曖昧さも認めている。わたしはそれはこの国の平和維持に大きく寄与していると思います。出かける前に線香をあげて行くのはきちんと意味がある儀式ですけど、猫がいる家などは火事なども心配です。だからわたしはそういうことは正しいからといって勧めたりはしません」

他国で起こる争いごとや事件を見ていると、正しいものがひとつだと思うことは愚かなのではないかと思わずにいられない。パキスタンではこの夏ラマダンの最中を熱波が襲い700人以上の人が亡くなった。当人にとっては名誉でも残された人々はどうなるのだろう。

みんなで墓参りをして家に戻る途中、栗の木から実が落ちているのを見つけた。大人はさっさと家に戻り、昼下がりのビールを楽しむべく炭火焼の準備にかかっていたので、役目のない子供達3人は棒切れを持ってきて木をつつき、実を落としてポケットいっぱいに山栗を持ち帰った。

最近敷いたばかりの芝生の上で寛ぎ、ビール片手に秋刀魚を焼き、帆立を焼き、海老を焼き、肉を焼き、パンを焼いた。拾った栗に穴をあけて、これは直接炭の隣に置く。5分も待つと焼き栗の出来上がりだ。人の手の加えられていない山栗の味に勝るものなし。とても美味しかった。

家族・親戚が集まってみんなでわいわい言いながら美味しいものを食べる。みんな元気でみんな食欲旺盛だ。″当たり前″の風景は数々の幸運の積み重ねなのだと感謝できるくらいにわたしは年をとった。何をどうしたって永遠には続かない儚い幸福の時間をしみじみと噛みしめた。


Michelina |MAIL