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| 2007年02月19日(月) |
「祈り」というアクション |
いつも聖書を片手に日曜の朝は必ずチャーチへ通う敬虔なクリスチャンのアフリカン・シェア・メイトと一杯飲んでいる最中、ふと宗教の話題になった。わたしは無宗教だから、と言うと、信じられない、といった顔で「じゃぁ神を信じないのか?」とか「日本は仏教国じゃないのか?」などと尋ねてくる。一応はそうだけれど、わたし達はみんなが充分な食料と教養が既にあって、あまりにも「自然」からかけ離れたものを生産する技術を持って、更に新しい技術を開発することに忙しいから、目に見えない存在に祈ることも、そんな時間もないのだと答えた。すると納得のいかないという顔をしているので、じゃぁ神に何を祈っているのかと尋ねたら、飢餓や天災、病気で死んでいく人々のために祈るのだと言う。少し酔っていたわたしは「あなた達の国に必要なのは祈りじゃなくて教育じゃないの?教養と理性があれば少なくともみんなばたばたエイズで倒れたりすることなんかないじゃない。」などと言ってしまった。彼は項垂れるように”Maybe,,, you are right”と言ったきり黙ってしまった。
酔いが覚めると、彼が生まれてこのかたずっと続けてきたことを否定してしまったような気持ちになってちょっと考えてしまった。たまに何もアクションなど起こさずただじっとして祈ってばかりいる横着な人々なのだと思ったりもする。わたしは祈りこそしないが、健康維持、水や電気の節約、食べ物だって地球にダメージの少ない物を選ぶように心がけて謙虚に暮らしている。それが彼らといったら祈った後はビールを飲んで、煙草をふかして、大きなお肉の塊を食べる。電機はつけっぱなし、歯磨きひとつにもコップに水を汲むことをせずバケツ一杯くらいの水を無駄に流す。そう言ってやりたいところだけれど、それもこれも育った環境というものが違い過ぎるのだ。産業国に生まれ育ったわたし達は地震が来るから耐振性のあるビルを建てようと考えるけど、産業のない国でそうは考えにくく、来ないように祈ろうということになるのではないか。一度、彼に「世間では大抵リッチな層ほど痩せていて貧困層ほどぶくぶく太っている。」と言ったら、ものすごい勢いでそんなことはないと否定されたことがある。わたしの「世間」とは主に欧米の先進国を思い浮かべていたのだけれど、言葉足らずで、彼は自国を思い浮かべて、貧困層が太っているなどとんでもない、貧困層は餓死しているじゃないかと桁違いの貧困を思い浮かべていたに違いない。土台を同じに考えて彼らのやり方を隅へ追いやることはない。願いはきっとひとつなのだ、そう思い直した。